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綾鷹
@ayataka
読んだ本の内容を忘れちゃうので、自分の記録用...
  • 2026年1月7日
    子どもとの関係が変わる 自分の親に読んでほしかった本
    話題になっていたので読んでみた。 当たり前のことばかりだが、自分に余裕がなくなると感情的になり、それが子供にも影響することはあり得る。 常に意識するとともに、反省すべき対応をしてしまったら、素直に子どもに謝るという姿勢を持ちたい。 ・子育ての核心は、子どもとの関係にあります。人が植物だったら、親子関係は土壌です。親子関係は人という植物を支え、育み、成長させ、場合によっては成長を妨げます。いざというときに頼りになる親子関係ができあがっていなければ、子どもの安心感は損なわれてしまいます。あなたと子どもとの関係は、子どもにとってしやがては子どもの子どもにとってもー力の源となるべきものです。 ・子どもは、親が言うとおりのことはしない。親がするとおりにする。 ・子どもは何歳になろうと、あなたがその子どもに近い年齢だったころに経験した感情を、体感できるくらいはっきりと思いださせる ・もしあなたに頭のなかで自分を責める癖があるとしたら、あなたの子どもも同じように、有害なその癖を身につけている可能性があります。 ・人間は常に変化し、成長します。とりわけ子どもはそうです。だから判定して断ずるよりも、あなたが目にするものを表現し、高く評価する言葉を口にするほうがずっといいのです。たとえば、こんなふうに言いましょう。「あなたがその計算にすごく集中しているのが、とてもいいと思った」。 これはただ「算数が得意なのね」と言うよりずっといいのです。同様に、単に「いい絵だね」と言うのではなく、「よく考えて描いてあるね、感心したよ。家が笑っているみたいに見えるところが好きだなあ。楽しい気持ちになれる」と伝えましょう。 ・乳児は100パーセント感情だけで生きています。感情の固まりと言ってもいいでしょう。私たちは子どもが感じることをすべて理解できるわけではありませんが、ときには子どもが落ち着くまで長い時間をかけてなだめなければならないこともあります。これは子どもの心の健康の基礎を築くために、愛情をこめてすべき仕事です。生まれて最初の数年のあいだ、親が子どもの感情に真剣に向きあい、共感を示しつつ受けいれれば、その子は何かいやなことがあってもいずれ好転すると思えるようになります。 あなたが子どもの感情に敏感に反応すれば、子どもは自分の感情との健全なつきあい方を覚えます。それがどんな感情であれ極度の怒りや悲しみであれ、穏やかで落ち着いた充足感であれ、溢れんばかりの歓喜や寛大さであれ!うまく扱えるようになります。 ・親からなだめられた経験が充分にあると、楽観的になれて、抑鬱や不安の影響を受けづらくなります。心の健康を害することを完全に避ける方法はありませんが、どんな感情を経験しようと受けいれてもらえる、どんなにいやな気持ちになろうとそれはいずれ過ぎ去ると教えられていれば、確実に助けになるのです。 ・子どもが必要としているのは、親が自分の感情の受け皿になってくれることです。つまり、あなたがそばにいて、子どもが感じていることを知り、受けいれ、それでいてあなたが圧倒されることはない状態です。これは心理療法士がクライアントに対して取る態度と同じです。 受け皿になるとは、子どものなかにある怒りを目の当たりにし、なぜ子どもが怒っているのかを理解し、場合によっては子どもの代わりにその怒りを言葉にして、怒りを表現する適切な方法を示すことです。怒りに対して罰を与えたり、親のほうが圧倒されたりしてはだめなのです。ほかの感情についても同様です。 ・その決心はよかったのですが、ときには後悔するようなこともしました。そういう行動を取ったときに、もし自分でハッとしたり、あとになって気がついたりしたら、必ず娘に謝るか、考えや行動を変えるようにしました。娘の父親も私も、自分の行動が役に立っていないときにはそれを改め、どこでしくじったのか、姫に打ち明けました ・これから親になる人や、すでに親である人にとって、一番いいのはものごとを長い目で見ることです。つまり、乳幼児や学童やティーンエイジャーと関わることを、食事を与えたり清潔にしたりといった片づけ仕事のように見なすのではなく、彼らを最初から人として、一生のあいだ関係の続く相手として捉えるべきなのです。 ・親から離れるペースが自分に任されていると、子どもが不安を感じてまとわりついてくることはありません。夜別々に寝るときも、保育園に1人で置いていかれるときも、ほかのどんな状況でも同じです。親は「そっと押し」て、子どもがこうした状況を受けいれられるように励ますことはできますが、子どもの自立を急かしすぎると親子関係にダメージを与え、修復が必要になります。親にとっては自立を励ましているつもりでも、子どもにとっては突き放され、罰を与えられていると感じられることもあるのです。子どもが自分のペースで親離れするのをじて、親のペースを押しつけるのはやめましょう。 ・大人もそうですが、子どもは選択の余地が大きすぎると圧倒されて固まってしまいます。選択肢は多いほうがいいと思うかもしれませんが、心理学者のバリー・シュワルツがおこなった実験によれば、そうではありませんでした。彼の発見によると、人は30種類のチョコレートが入ったボックスよりも6種類のボックスを喜び、自分が選んだチョコレートへの満足度も後者のほうが高いそうです。あまりにも選択肢が多いと、間違った選択をしてしまうのではないかと不安になるのです。 西欧の平均的な子どもは150以上のおもちゃを持っていて、さらに毎年70個を新たにもらうそうです。これでは子どもは圧倒されてしまいます。これだけの量のおもちゃがあると、何か1つのものにじっくり集中することができず、せわしなく次から次へと別のおもちゃで遊ぶことになります。買い与えようとするのはたいてい両親で、そうすれば親が相手をしなくても勝手に遊んでくれると思うようですが、そううまくはいきません。 ・子どもを上手に遊ばせるには  ・集中している子どもの邪魔をしない。  ・幼い子どもがあなたと遊びたがったら、子どもがやりたいことに最初にしっかりつきあう。子どもが遊びに没頭してあなたを必要としなくなったら、そっと身を引く。  ・少し大きい子どもの相手をする場合、子どもが何をして遊んだらいいかわからずにいても、毎回親がリードしようとしないこと。子どもが退屈していたら、子どもを頼し、「きっと何か楽しいことを見つけられるよ」と伝える。退屈は、創造に不可々です。  ・ボードゲームやカードゲーム、スポーツ、カラオケなど、あなたも一緒に楽しめる活動のための時間を確保しておくこと。  ・さまざまな年齢の友達と遊ばせること。 ・あなたは自分の行動をどう説明しますか?いつも他人に敬意を払っているでしょうか?他人の感情を思いやることができますか?あなたの「良いおこない」は心からのものですか、それともただマナーを守っているだけでしょうか?表面上は人あたりがいいのに、陰で悪口を言ったりしていませんか?厳しい競争社会で行き詰まっていませんか?どんな行動であれ、あなたは同じ行動を取るようにと子どもに教えているのです。 ・あなたの仕事はお手本となる行動を取ることです。子どもやほかの人々に対して等しく親身な態度で接し、子どももそれに倣ってくれることを願うだけです。社会に適応できるように、子どもが身につけるべき4つのスキルがあります。 ①ストレス耐性 ②柔軟性 ③問題解決能力 ④相手の視点で物事を捉えられる能力 これを先ほどの例にあてはめてみましょう。①娘が買物から帰る途中に座りたがったとき、私は早く家に着きたいと思って感じたストレスをやり過ごしました。②家へ向かう速度について期待値を変え、柔軟に対応しました。③娘が休憩を必要とするのを受けいれることで問題を解決しました。④どうして休みたいのか、娘の視点から考えました。 ・より良い行動のために  ・子どもへの決めつけをやめて、自分の気持ちを明示する  ・あなたの決断が事実にもとづいているようなふりをしない。実際にはあなたの感情や好みにもとづいているのだから  ・親子は敵ではないのだということを忘れない  ・支配するより、協力して、意見を出しあう  ・誠実さの久如は断絶を生む。あなたが誠実になることで関係は修復できる  ・子どもは自分がされたことをする ・10代後半の子どもを下宿人だと思ってみる 10代後半の子どもに対してどこに境界線を引くべきか迷ったら、子どものことをあなたの家に住む下宿人だと想像してみましょう。家のルールは変わりませんが、境界を示しやすくなります。  ・あなたの荷物は廊下ではなく自室に置いてもらえるとうれしいです  ・12時までに帰宅してください。あなたが遅く帰ってきて物音で起こされるのではないかと思うと、私は熟睡できません  ・食器を自室に放置されるのは困ります  ・洗濯機はいつでも自由に使ってもらってかまいません
  • 2026年1月7日
    バッタを倒しにアフリカへ
    バッタを倒しにアフリカへ
    昆虫学者を目指す著者が、農作物を食い荒らす「サバクトビバッタ」の大発生を防ぐため、アフリカ・モーリタニアへ渡り、過酷な環境や困難に直面しながら、研究に奮闘する姿を描いた科学冒険ノンフィクション 「酒を主食にする人々」を読んだ時も思ったが、 フィールドワークのノンフィクションは面白い! 特に干ばつでバッタが見つからず、 代わりにゴミダマの研究をする場面がよかった。 容器を皿を合わせて工作したり、ゴミダマの活動記録のために砂漠の砂を使ったり、ゴミダマの寝床として水道用のパイプを使ったり、ハリネズミを捕まえたり...研究者というと研究所で最新設備を使って研究するイメージだが、限られたリソースの中で試行錯誤し、形にしていく様子は「どんな状況でもできないことはない」という前向きさを感じた。 著者のバッタ研究への強い思いがあるからこそ、周りもサポートしてくれる。ババ所長、相棒ティジャニとの関係性は心が暖かくなった。著者の周りへ感謝する姿勢も素敵。著者に感情移入して、松本総長との面接のシーンでは私が泣いてしまった。 全体を通して、笑えて、感動して、前向きになれる本だった。 P188 以前の自分も含め、大勢の若い研究者はパソコンの前で、オフィスの中で研究している。 自然を理解せずに生物学を勉強することが、どれだけ多くの危険に満ちていることか。気をつけなければならないと強く感じた。ハロウは私に自然の大切さを教えに来てくれた、砂漠からの使者だったのだ。 P227 ティジャニが大喜びで私を迎え入れてくれた。不在中、研究所の他の職員たちから、「コータローはもう戻ってこないぜ。フランスがコータローを奪ったんだ」と言われ、肩身が狭かったそうだ。 ティジャニは「いや、コータローはバッタが重要だから、モーリタニアでバッタが出たらすぐに戻ってくるはずだ」と言い張っていたので、実際に私が帰ってきたときには、同僚たちに「ほらみろ」と勝ち誇ったそうだ。 前「いつでもミッションに行ける?」 テ「ウィー!そう言うと思って車の整備は終わらせておいた」 バッタが続々とモーリタニアに戻ってきていた。運命の第2ラウンド開始である。この闘いで、なんとしても結果を残さなければ、昆虫学者を続けるための次のポストを獲得できない。人生を決する正念場を迎えていた。 P262 ババ所長は、私の行く末をずっと気にかけてくださっていた。 「なぜ日本はコータローを支援しないんだ?こんなにヤル気があり、しかも論文もたくさんもっていて就職できないなんて。バッタの被害が出たとき、日本政府は数億円も援助してくれるのに、なぜ日本の若い研究者には支援しないのか?何も数億円を支援しろと言っているわけじゃなくて、その十分の一だけでもコータローの研究費に回ったら、どれだけ進展するのか。コータローの価値をわかってないのか?」大げさに評価してくれているのはわかっていたが、自分の存在価値を見出してくれる人が一人でもいてくれることは、大きな救いになった。 P299 今年で5期目となる白眉プロジェクト。一人で何百人もの面接をしてきた中で、松本総長にとって、初めてモーリタニアから来た面接者だったのだろう。 「前野さんは、モーリタニアは何年目ですか?」という素朴な質問が来た。 「今年が3年目です」 それまではメモをとったら、すぐに次の質問に移っていた総長が、はっと顔を上げ、こちらを見つめてきた。 「過酷な環境で生活し、研究するのは本当に困難なことだと思います。私は一人の人間として、あなたに感謝します」 危うく泣きそうになった。まだ何も成果を上げていないから、人様に感謝される段階ではないが、自分なりにつらい思いをしてきており、それを京大の総長が見抜き、労をねぎらってくださるなんて。ずっとこらえていたものが決壊しそうになった。泣くのをこらえて、その後の質問に答えるのはきついものがあった。 なんとスケールの大きい感謝だろうか。世界を我が身の如く捉えていなければ、こんな感謝ができるはずはない。ましてや京大の総長が一介のポスドクに、面接の場で。ご自身が大きな視野を持ち、数多くの困難を経験していなければ、このような大きな感性は身につかないはずだ。京大の総長ともなると次元が違う。
  • 2026年1月5日
    推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない自分の言葉でつくるオタク文章術
    三宅香帆さんをテレビやYouTube等でよくお見かけするようになり、人を傷付けず、でも自分の考えを伝える姿が素敵だなと思い、著書を読んでみた。 自分はここまで細かく意識して発信することはないと思うが、何かを伝えるときに伝える相手を意識している点は当たり前でありながら忘れてはいけないなと思った(自戒)。 ・SNS等で友人や見知らぬ人の言葉が日々大量に頭の中に流れ込んでくる現代で、他人の言葉と、距離を取るために。自分の言葉をつくる技術が、今の時代には不可欠。 ・クリシェ(ありきたりな表現)を使わずに言葉にする。 ・妄想力を広げて感想を生み出す(妄想だから正しくなくていい!) ・ネガティブ・ケイパビリティ(もやもやを抱えておく力)を身につける ・言語化とは、いかに細分化できるかどうか ・自分の言葉をつくるための3つのプロセス  ①よかった箇所の具体例をあげる  ②感情を言語化する(どういう感情をどうして)  ③忘れないようにメモする ・ポジティブな感情の言語化プロセス (1)「共感」(既に自分が知っている体験/好みと似ている)。もしくは、「驚き」(今まで見たことのない意外性を感じる)のどちらなのかを考える (2)「共感」の場合 ①自分の体験との共通点を探す ②自分の好きなものとの共通点を探す 「驚き」の場合 ③どこが新しいと感じるのか考える ・なんらかの情報を、誰かに手渡そうとすること。つまりは「発信」ーそれらはすべて、相手との距離(発信する内容についての事前の情報量の差異/どれくらい知っているのか、どのような印象を抱いているのか)をつかむところから始まる。 ・自分の伝えたいことを伝える前に自分と相手の情報格差を埋める ・聞き手との溝を想像するクセをつける ・「どこへ連れて行きたいか(しゃべりの終着点)」をわかっておく ・書き始める前にやるべき2つのこと  ①読者を決める  ②伝えたいポイントを決める
    推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない自分の言葉でつくるオタク文章術
  • 2026年1月3日
    YABUNONAKA-ヤブノナカー
    文芸誌元編集長・木戸悠介への性加害をネットで告発した女性をきっかけに、関係者8人の視点が交錯する群像劇。 告発を巡る加害者、被害者、その家族、同世代の作家、編集者、そして子供世代の視点から、それぞれの主観で物語が描かれている。 読み進めるたびに考えることが多すぎて、 でも答えが出なくて、読み切るのに時間がかかった。。 どの登場人物ももっともな考えを持っているように見えて、誰にも共感できない。 絶対に分かり合えないという絶望感に似た感情が湧き上がる。 自分の中に押し込まれていた怒りが思い出される。 何が正しいんだという答えが自分の中で見つからない。 むしろ読めば読むほど、安易に自分の考えを出すことが怖くなる。 自分の考えが偏っていることが浮き彫りになっていく。 私は無意識に誰かを傷付けているのではないかと不安になる。 時代に合わせて自分の考え方をアップデートする必要があるということはもちろんだが、一つの側面、方法だけで判断することは危険だと、自分の戒めとして残す。 ここまで考えさせられる小説は久しぶりだった。。 小説でこんなに多くのものを表現できるのか。。 2025年一番の小説だった。
  • 2026年1月2日
    マスカレード・ホテル
    夫が昔読んで面白かったとのことで、読んでみる
  • 2025年12月31日
    YABUNONAKA-ヤブノナカー
    ・俺は一つの、現代的に言えばトキシックなマスキュリニティに到達する。この世は女性ばかりが優遇されている。レディースデーも女性専用車両も、おじさんはおじさんなだけでバカにされることも、ハゲやデブが人外の扱いを受けることも、女は何歳になってもそれなりの扱いを受けるのに、男は雑な扱いばかりされることも、マチアプでも外食でも男ばかりが課金を強いられることも、唐突に許せなくなっていく。俺だって好きで男に生まれたわけじゃない。 三十を過ぎた頃からどんどん脂ぎって、肉がつき始めて、毛穴が開いて、髪が薄くなって、何故か足まで少し短くなったように感じられる。何もしてないわけじゃない。リアップ的なものを使ったり、肌を整えるための化粧水や乳液を使ったり、美容室の頻度を高めたりもしている。二十歳前後の頃は見方によってはイケメンと自認したこともあったのに、加齢の波には抗えず、ここ数年自分がどんどん汚いおじさんになっていくのを自分でもハラハラしながら見守ってきた。自分でも自分のおじさん化が辛い。そしておじさんは社会に軽んじられ、虐げられている。自分は腹を立てていた。社会性のない、理不尽な怒りに、震えていた。自分を癒すのは、同世代の平均よりも、ほとんどの女よりも高い収入だけだった。行く当てのない漠然とした怒りは、性欲には変化せず、ただ胸の奥に振動のような寂しさを残した。 ・僕は告発自体よりも、告発されて、自分の何がそんなに彼女を傷つけたのか、全く分からなかったことにショックを受けたんだよ。僕は彼女を物のように扱ったことはなかった。普通に、人として敬意を持って接してた。昔から、切り離すと決めたものには冷たいって言われてたし、自分でもそういう質だとは自覚してたけど、それは自分自身を納得させるために必要な経緯でもあって、別れ際に冷たくしたのは相手のためでもあると思ってた。別れたい相手から優しくされたって、嫌なだけだろうしね。小説のことだって、最後には恨まれたけど、親身になって考えた結果だよ。もちろん、僕の赤入れを採用するかどうかは自分で決めてくれとは言ったけど、それはそれこそ人として尊重したからだし、読んでくれって言われて、急かされて、プロの作家の原稿を差し置いてまで赤入れして、でもこんな修正したくないとか、感覚が古いとか言われたらカチンとくるし、恨み言はいくつか言ったかもしれないけどね。でも僕だって彼女にひどいことをたくさん言われたんだよ。それはもう、ひどい罵詈雑言を浴びせられた。もちろん、自分に都合の悪いことは忘れてるんだろうけどね。僕も彼女も ・結局、まあお互い言い分があるってことなんですよね。恋愛関係とか肉体関係のあった二人の間の善悪なんて、その二人の間にしかないし、どっちかの話だけ、いや両方から聞き取りしたって、どっちの方がどっちより悪いとか、僅差でこっちの方がましとか言えないわけで。 ・どんなに慎ましく生きてても、どんなに言動に気をつけて生きてても、変な巡り合わせで恨まれることはあるんだって、思い知らされたよ。僕より悪質なことしてたやつなんていくらでもいたのに、なんの制裁も受けずにのうのうと生きてる。僕だって、ハメようと思えばハメられるやつは会社にも作家にも何人もいる。まあ、録音とかしてないから証拠はないけど、でもそれ言ったら彼女の告発にだって別に証拠はないんだよね。だからあれは厳密には告発じゃない。あれは、いわば彼女の回顧録で、小説みたいなものなんだ。彼女もあの中で書いてたしね、これは私の復帰第一作だって。僕は彼女の創作に、実名出されて付き合わされただけなんだよ。世間的には、女子大生を性的に搾取して、ぞんざいに扱った罰だって言われるのかもしれないけどね ・今自分の中に湧き上がっているのは、怒りではなく虚しさなのかもしれないと、駅前まで戻ってきて、高架下で一定間隔を空けて拠点を作っている路上生活者たちの脇を顔を背けて通り過ぎながら思った。俺はATMとしての機能しか持たなくなった木戸さんの姿に、未来の自分や、現在の自分の空虚さ、そもそも人に生きる意味があるのかという、思春期に抱いていたような哲学的、文学的な問いとは一線を画した、ただひたすら数学のように無機質かつ単純な、意味と無意味の足し算引き算を経て導き出される「自分には特に意味がない」という結論を突きつけられたような虚しさを感じたのだ。妻もいない子供もいない彼女もいなければ今いい感じの女もいない、友達は数人いるけど皆年一か二くらいでしか会わないし、会っても特に人生や人格に影響を与えあうような存在ではない。どんどん知識と経験を積み重ねて仕事ではやりたいことを実現できるようになってはいるけど、その事実は自分の存在意義を裏付けしない。なぜなら社内に「仕事や会社に依存するのは恥ずかしいこと」という認識が愛延っているからだ。それは、仕事も結婦も育児もこなすのが女性の役割とされ、そういう女性をバックアップしていますと表明するためにそういう女性が役職を与えられ地位を得ていったことが原因の一つだろう。彼女たちは会社の滞在時間を極限まで削り、まるで片手間のように仕事をこなしては保育園が夕飯がという枕詞と共にさっさと帰っていく。もちろん彼女たちは彼女たちで本当に手一杯なのだろうが、そういう女がいると、俺みたいな家庭もなく子供もなく会社に長時間いるような人間は怠け者のように認識されてしまう。長時間労働が美徳とされ、会社に行けば仲間と呼べるような人がたくさんいて、公私の線引きなんて馬鹿馬鹿しい。そういう時代を経験してきた木戸さんが羨ましい。定年間際にそれが通用しなくなったからって何だっていうんだ。頭の中でそう腐して、はっとして「加齢臭消えない対策」でググった。 ・私たちは常にグラデーションの中にいる、理性と感情、精神と肉体、セックスとしての男と女、ジェンダーとしての男と女、悪と善、モラルとアンモラル、知性と反知性、常にグラデーションのどこかにいる。現代だって、過去と未来の間にしかない。常に移ろいゆくものだ。でも絶望にグラデーションはない。絶望は死と同じで、グラデーションがない。絶望には、あるかないかしかない。だとしたら私は、正義感でも怒りでもなく、絶望に依存しているのかもしれない。そう思いついた瞬間鼻で笑って、小説に使えるかもと思ってスマホのメモに書き留めた。私にはまだ小説という乖離がある。現実世界での乖離がなくなったとしても、小説があれば大丈夫だ。乖離に依存して結局煮詰まってパンパンになっている自分の最後の砦がやはり小説であるということに鑑みると、やっぱり小説はもうオワコンなのかもしれないと、不吉な予想にまたゾッとした。 最近こうして、あらゆる方面から、自分が詰んでいっている気がする。身体中から汁を出して死んでいるあらゆるタイプの虫の姿がよく脳裏に蘇る。自分が気づかないうちに踏み潰してきた生き物の呪いだけで死ぬほどに、私は弱っているのかもしれない。着々と料理を続ける一哉だけが私の救いで、でもそんな生き方、きっと時代にそぐわないのだ。まるで私は、時代という呪いにかかっているようだ。 ・「いや、なんか若い男はすごく軽んじられるってしょげてて。女性は若くてもそれなりに歳がいっててもチヤホヤされるのに、若い男は空気みたいな扱いを受ける、って。女性はいいですよねとか言われて、はあ?って思っちゃいました」 「だって、若い男性を軽んじてるのって、男性ですよね?女性は基本的に誰かが蚊帳の外になってたら、気を使って話を振るじゃないですか。でもそうやって、権力のある男性から受けた屈辱が女性への憎しみに転化して、自分が権力を持ったら女性を蔑むようになるパターンって意外と多いのかもしれませんね」 ・人は唐突に、自分の魂がどこにも紐づけられていなかったことに気づく。生まれた時から、親と、親の親と、環境と、そして未来に自分を愛してくれる人々と、繋がっているのであろうあらゆる糸を感じていたあのうざったい感じ、あれが全て幻想であり、自分は一人、たった一人で誰もいないホルマリンの海の中で胎児のように丸くなっているのだと気づく。全てへの怒りや共感や慈愛が、全て自分から出ているもので、自分には何も入ってきていないことに気づく。つまり人は人と溶け合わない。その皮膚をもって断絶していることに気づくのだ。そしてそのことに気づくのは、往々にして中年や高年の、もうそのことを嘆くこともできない歳になってからだ。 私たちは個人として閉じた存在である。性器や際の緒を通じて誰かと繋がったとしても、筋口と傷口を擦り合わせても、私たちは己の持つ思いを一つも交換できない。ある程度の歳になり吹き荒ぶ風に晒されながら唐突に、嬉しいわけでも悲しいわけでもないその寒々しい真実にたどり着く。 そしてその時気づく。正しいか間違っているかが問題ではない。そんなことは問題ではない。 この世には正しい真理や間違っている真理、適切な真理や不適切な真理、色々な真理があって、その中でどれだけ多くの真理に触れ、把握できるかが重要なんだ。結局のところ我々はどうしたって、混ざり合うことのない生き物なのだから。 ・何が間違っていて、何が正しいのか、ここ数年そればかりに心を奪われてきた。でも私の人生はその判別のために存在しているわけじゃないような気もしていた。 ・自分は色々なことを、測り兼ねている。ずっとそんな思いの中にいた。十五年くらい前からうっすらと、十年くらい前からはっきりと、少しずつ時代の流れについていけなくなった。それは奇しくも世の中が激変している中途のことで、私は少しずつ自分が何を発言するべきで、何を発言してはならないのかを判断できなくなっていった。自由に発言すれば必ず誰かの安全基準に引っかかり、気をつけて発言していても時に誰かを傷つけ怒らせた。何も言えなくなった後に待っていたのは、ただ消化していくだけの人生だった。ヘマをしないだけの人生。それでも時々へマをして責められる人生。なんの喜びもない人生。 ・中年、高年層が抱く昔は良かったの正体は、直感的に惹かれた仕事をしていれば、自分が時代の先端を走っていられた、あの全能感なのだろう。自分は今、何が正しいのかも、何が求められているのかも、何が忌避されているのかも、何がウケるのかも分からない。今の時代の若者は可哀想だと嘆く高齢男性は自分が若者の頃から生息していたけれど、自分が高齢に近づいている今は、当時より解像度高く理解できる。彼らは現代的感覚を喪失したことを受け入れられず、若者たちを蔑み憐れむことでしか自尊心を保てず、過ぎ去った時代にしがみついていたのだ。哀れな存在ではあるが、そうしてがむしゃらにしがみつける人はまだいい。彼らは哀れな人間として周囲の目には映るだろうが、彼ら自身は己の哀れさに決して気付かないからだ。自分はしがみつけないし、自分が哀れな存在であることをよくは分からなくとも、何となく分かってしまい、しがみつくことすらできないからこそ、より哀れなのだ。 Twitterやインスタを見れば訳のわからないものがバズっていて、今話題だという映画も漫画も小説も特に面白くなく、人との会話も仕事の愚痴と病気の話と誰が死んだ誰が金に困ってる誰が儲かってる、がほとんど。皆、何が楽しくて生きているのだろうと思う。でも明らかに皆は楽しそうで、自分だけがポカンとしていた。自分だけが、この世界の楽しさを忘れてしまったようだった。 そうしてあらゆる喜びを無くし続けた私には、責任だけが残った。息子や親を養わなければならない、妹の入院費を払わなければならない経済的な責任だ。毎月の支払いのために「どんな意義があるのかよく分からない」仕事を続け、なんとなく「ここにいるべき人間」の顔をして、会社に居残り続けた。それは「パーティで手持ち無沙汰な時」に似ている。顔見知りはたくさんいるけれど、特に一緒に連れ立つ人はいなくて、一通り挨拶をするが、皆挨拶と当たり障りのない世間話をすると僅かに気まずそうに「じゃ」と姿を消し、自分は一人になる。招待されていることも、そこでそれなりの立場があることも無意味で、誰一人として盛り上がって解散できないほどの楽しい会話をする人がいない。そういう状態だ。自分には居場所がない。それでも、ここにいろと言われたからこの部署の、このポジションにいる。人事とはその言い訳のために用意された部署のようだ。 ・もう終わったんだ。そう思うと、終わるということが内包する深遠なものに気づかされた気がした。終われば、もう誰に文句を言われることもない、生きること生活すること働くこと人間関係の煩わしさもなく、毎月金を振り込む必要もなく、誰に何を言われるか、自分が何をどれだけ分かっていないのか、怯えながら生きる必要もない。 家族席ではなく後ろの席についた妹は、もう疲れた、頭が痛い、薬を飲みたいから水を買ってきてと彼氏に喚いていて、恥ずかしいと思うけれど、どこか自分は別の世界に生きていて無関係という気もした。バーチャルな世界にいるように、現実味がない。五十を過ぎた頃から、ふらりと訪れたこのバーチャル感、現実味のなさが、高齢男性が所構わず威張り散らしてキレ散らかせる所以なのではないだろうかと、私は考えてきた。彼らにとって、全ての人はCPUなのかもしれない。つまり自分は、この世に存在していない方が良いのだろうという確信により自死に向かいつつあるが、同時にこの世の誰の視線も別にどうでもいいという現実味のなさによって自死を回避している状態、なのかもしれない。 ・あの熱式からだ。自分はこの世にいない方がいいのだという思いと、別に自分も社会もどうなっても構わないんだからいてもいいのだという投げやりさのバランスが、確実にいない方がいい、という急流に飲み込まれ始めたのは。ラフロイグの三杯目を注ぎ、舐めるのではなく喉を焼くように液体を暖奥に押し込んでいく。 今自分は社会のことなど何も考えていない。文学の行く先や哲学的苦悩、遠い国の戦争もどうでもいい。子供が何人死のうと自分には全くリアリティのある情報として把握できない。憂うことなど何もない。人生の中で最高齢でありながら最もアッパラパーな時間を生きている。もう何も、自分を煩わせることはないのだ。世界も社会も世の中も周囲の環境もどうでもいい。自分は正義など求めていない。正しさも、誠実さも、崇高さも、切実さも、高尚さも、何も求めていない。 いかに世界の悲惨な話をスルーして、いかに残りの人生を消化して、いかにあらゆる支払いを終え、いかに自分の老後を快適なものにしていくか。これがポジティブな方向の自分のハイライトだ。そしてそんなハイライトはない方がいい。 「何か、ないのか?」 恵斗の言葉は、何だったのだろう。答えはもちろん「何もない」でしかない。自分には何もない。SDGs的に言っても、自分は消えている方がいい。こんな存在が酸素を消費していることや、ゴミを出したり水を汚したりしていることは、世界にとって申し訳ないことだ。私はえている方がいい。圧倒的に無駄な存在だ。無駄すぎる。 ・私は自分が告発される告発文を読みながら、傷つきながら、どこか感動してもいた。同時に、起こっていることがどんなことなのか、分からなくなるような攪乱を感じた。でもそれは決して不誠実な攪乱ではなかったと言い切れる。そもそも人生とは常に攪乱の中にあり、その中で何を決定的なものとしていいのか分からないのだという諦めに似たあの達観を得られたことで、私は何かを諦め、何かを受け入れ、何かを切り捨てることができたように思う。それが私があの告発に、決定的なまでには打ちひしがれなかった理由だ。 ・私は吉住さんと木戸さんを見ていると、社会の生き物だと感じるのです。 戦後の経済成長の中で、男性たちは社会と共に生き、社会と共に育ってきました。 そして今、新陳代謝の激しい日本で、吉住さんや木戸さんのような、かつての時代を象徴する存在が、社会とともに死につつあるのではないかと感じたんです。 社会はずっと緩やかに死に向かっていましたが、ここ数年でその速度を一気に早めています。 きっと戦後日本を支えてきたこれまでの社会が一度完全に潰える過渡期に、私たちはいま直面しているのです。 男女雇用機会均等法が施行されて以来、女性たちも社会と連動しながら生きてきましたが、女性は男性ほど社会と同化しませんでした。 男女の賃金格差にも明確に表れていますが、女性は社会に優遇されておらず、ただの労働力とみなされいいように使われてきたため、女性は利害関係抜きには社会と関わってこなかった。 だからこそ同化を免れたのでしょう。(もちろん名誉男性的な女性など例外はいます) 男性もいいように使われていたのは同じですが、彼らの最大限のパフォーマンスを引き出すため、社会は男性たちに幻想を見せていました。 自分は社会の重要な一員、大切な家族、社会の重大な構成員であるという幻想です。 吉住さん、木戸さんの世代はおそらく、その旧社会を体現した最後の構成員になるのではないかと私は感じています。 最後の構成員たちも幻想が幻想であったことに気づき、その母体である旧社会の死を感じ取りつつある、今はそういう時なのではないかと。 この過渡期を木戸さんがどう生きていくのか、私は楽しみなのです。 木戸さんはどうやって現社会と折り合いをつけていくのか。それとも拒絶してドン・キホーテながら幻の旧社会を生き続けるのか。それとも旧社会と共に死にゆくのか。それがいま、自分にとって一番ホットなトピックなのです。 ぜひまたお話を聞かせてください。 ・改めてこのメールを読んで思うのは、私は社会と共に死に始めていたということだ。それまで何かあれば自分を仲間とし擁護し救ってくれた社会が、もう私を救わないものになり変わりつつあることを感じ取り、権力や影響力も会社内などの小さい村の中でしか作用せず、つまり自分は世界、あるいは社会を変えようと思っていたけれど、その社会自体がかつての影響力、権力を喪失し限りなく矮小化し、得体の知れないものに変化しつつあるのだという、根本からひっくり返されじわじわと真綿で首を絞められるような確倉の中で鬱になり、鬱になったことで逆に、私は社会から追放され個に戻ったのかもしれない。そうして還った個には、何もなかった。恵斗に言われた通り、何にもなかった。ただの老いたおっさんだった。元妻や息子、母親や妹に金を送り続ける、金はあるがセックスはできない老いた身体だった。何もなくてもガンガン生きれる奴はいくらでもいるのだ。そういう奴らは腐るほどいる。そして自分がそういう人間になれなかったのは、文学のせいなのかもしれなかった。文学は人の心にブラックホールを作歪みとも言えるかもしれないし、暗闇とも言えるかもしれない。そしてそれが作られることによって、人は耐え難き苦しみの中を生き抜くことができたりする。文学とはそういうものだ。 しかしそれによって死に追いやられることもある。文学に触れずに生きていたら、私はこの旧社会と心中などせず、時代の終焉や変革など我関せずで、老害として堂々と生き続けられたのかもしれないのだ。 自分は新しい顔を見せ始めた社会から転げ落ち、個としての存在の意味のなさに緩やかな自死を始めていた。そして自死がとうとう肉体に辿り着いて、あの自殺未遂となったのだ。長岡さんに会いたかった。自分は旧時代と共に死ぬこともできず、何もなさに絶望して自死し続けているんですと、酒を酌み交わしながら自嘲的に話して笑われたかった。そして彼女は言うのだ。人間なんてみんな死に損ないですよと。そんな自分の想像に飲み込まれ、取り込まれ、現実から綺麗さっぱり消失してしまいたかった。 最初の離婚の時にほんやりと感じたのが最後だった寂しいという感情が、二十年以上ぶりに訪れた。改めて、私はこんなにも寂しくない人間だったのかと思う。自分はこんなにも寂しくなくて、寂しくないほどに虚しい人間だったのかと思う。寂しいを封殺され社会にいいように飼い慣らされた五十男が、今ようやく、寂しくなったのだと思った。誰かに話したかった。誰かに。 ・いま改めて振り返ると、新しいことに出会えるのは、三十代までだった。四十半ばを過ぎると、新しいものはほとんどなくなった。あっても、これまでの経験と比較できる内容で、本当に新しいものには出会えなくなった。全ての体験は仕系化され、体感するものではなくどこかに分類されるものとなった。何かを享受した時「あれに似てる」「あれの系譜」「誰々と誰々の影響を感じる」などと経験済みの何かに当てはめて分かった気になるのが楽しかったのは三十代までで、それから先はもう、「当てはめられるが感想がない」という思考停止状態に陥った。あれは、自分が思考する生き物として終わった瞬間だったのだろう。思えば思考停止に陥ったのは、今の長岡さんと同じくらいの歳だったはずだ。そう考えると、私たちは同じ享年と思ってもいいのかもしれない。 ・ 確かに自分は彼女を傷つけたのだろう。彼女の告発が嘘だなどとは思わない。でも私も傷ついていたのだ。でも私はそんなことを告発しなかったし、同僚にも話さなかったし、飲み屋でさえも話さなかった。中年男性が傷つくことは、世間的に恥ずかしいことだからだ。傷ついた中年男性は、目も当てられないほどましい存在だからだ。中年男性は、誰からも慰めてもらえないからだ。何をしても「自業自得」と笑われるからだ。同類の中年男性には慰めてもらえるかもしれないが、そんなことをするよりは「傷ついていない自分」を装った方が楽だからだ。そうして私は感情のない男になり、何一つ反論もせず、静かに死のうとしていたのだ。そんな男にどうして恵斗は、「よく来れたね」などと軽蔑の目を向けられるのだろう。肩じられない心地で、横山さんに椅子を勧める恵斗を見つめる。 ・もし長岡さんにも鬱や更年期障害の症状が出て、彼を思いやれず別れていたら。 長岡さんも十年後に告発されていたかもしれない。今はこうしてヒーロー扱いされて美談になっているが、彼女が若い男と不倫していたことが公になったら、皆掌を返して非難するのではないだろうか。今はそこまでではなくとも、きっと十年後には、そこまでの年齢差の相手と恋愛関係になること、そして不倫に、今よりずっと強い批判が起こるはずだ。そして長岡さん自身も、自分の罪が許されなくなる時がくることを予期していたのではないだろうか。自分が蔑まれる日、斜弾される日がくることを。 ・でもそれは、今の時代は、でしかない。時代は唐突に人を裏切り、蹴落としていくのだ。それを見越して、長岡さんは逃げ切ったのかもしれない。 ・でもあなたに死なれたら困る。あなたが死んだら私が告発したせいだって、私が叩かれて死に追いやられるから。告発してから、そういう人がたくさん湧いた。お前のせいで一人の男が命を絶つかもしれないんだぞって何度も言われた。それで、もしあなたが自殺して私が責められて自殺したら、今度は後追い自殺って言われる。皆私のことを勘違いするために生まれてきたみたいな反応しかしない。こんな世の中に向けて告発したのが間違いだった
  • 2025年12月29日
    ひとりずもう
    ひとりずもう
    YABUNONAKA考えることが多すぎて 脳疲労気味なので、間にほっこりするものを。 さくらももこさんにかかると 多感で不安定な青春時代も、こんなに面白く描けるのか。 何もしてないけど、なにかしなきゃという 学生時代の焦燥感は自分だけじゃなかったんだなと。学生時代に出会いたい本だった。 あとがきの言葉がとても素敵だった。 特別なことは起こってないけど、 その時々の日常がかけがえなくて面白い。 ありきたりな自分の日常を愛おしく思えるエッセイだった。 ・自分に起こっていることをよく観察し、面白がったり考え込んだりすることこそ人生の醍醐味だと思う。
  • 2025年12月27日
    YABUNONAKA-ヤブノナカー
    ・スポーツ経験者だし、と言いそうになったのを止めて、言葉を切った。自分は敢えて無自覚を装っている。向田さんがどう感じているかなんて分からない。ある日突然無断矢勤をして、退職代行を使って一度も顔を見せずに辞めた広報部の女性、適応障害で休職したと聞いてから一向に復帰の報告を聞かない同期、そうでなくとも一緒に健やかに働いていると思っている同僚たちの中にも、ハラスメントで死を意識するほど苦しんでいる人がいるのかもしれない。でもそんなことを考えていたら仕事にならないし、もちろん相談されれば相談先のアドバイスをしたり、信頼できる上長に報告したりなんかはするけど、結局仕事を辞めたり死を考えているような人を自分が救えるはずもないし、やれることをやるしかないじゃないか。友梨奈は、自分は誰でも救えると思っているからこんなことを言うんだ。だから苦しむんだ。そんなこと、できるはずがないのに。 ・友梨奈は正しさで追い詰めたんだよ。友梨奈の言うことは正しすぎる。だから伽耶は潰れた。 友梨奈といたら、伽耶は正しいことができなかった自分を責める。正しいことができなかった自分は軽蔑されてると感じる。安寧は得られない。正しさなんてどうでもいいと思ってる俺といる方が、伽耶は楽なんだよ。だから友梨奈がここに来て恩着せがましく料理大量に作ったり掃除したりしても顔も出さない。友梨奈の顔を見たら、正しいことをしろって胸ぐら掴まれてる気分になるからだよ ・もちろん正確なっていうのは便宜的なものでしかないのは分かってる。それぞれに正確な理解がある。自分の正解を押し付けるつもりはない。でも彼女は今戦わなかったら、きっといつか後悔する。悔いて悔いて、自分の中を貫く裂に苦しみながら生きてくことになる。今の伽耶みたいに。そのことも、ちゃんと話して説得しようと思ってる。私のやるべきことは、それで間違ってないよね?と俺に聞いた。何も間違ってないと思うよ。でも、その事件に関わった人たちが、今何を求めてるのか、ちゃんと配慮して汲み取った方がいいだろうとは思う。人によっては、いつかではなくて今の方が大事で、今を捨てることはいつかを捨てることと同じかもしれない。告発しなかった人が愚かなんてことはもちろんなくてい告発した人だけが正解というわけでもなくて、こういうことに関しては答えとか正解なんてものはないと思うから ・自分が謝っても、世界は何も変わらない。自分たちはハラスメントに関与していない、全くもってそんなことをしたいと思ったこともなければ、加担したこともない。でも、それでも、目の前でこうして彼女が傷ついたり、向田さんがセクハラの刃を向けられたりするシーンを目の当たりにしたりするのだ。思い返せば、自分は幾度か経験している。これはセクハラなのではないかと思うシーンを。その時自分は黙っていた。同僚に、こんなことがあったんですよとネガキャンをすることや、目安箱に送することはあっても、直接咎めたことは一度もなかった。そうして、私たちは泣き続ける。そう呟かれたような気がして、俺は彼女が告発などをして不特定多数の人から中傷されることは恐れるくせに、彼女がそうして泣くことは怖くないのだろうかと自らを顧みる。自分自身が分からなくなって、立っている地面がぐらつくような、三半規管的危機感が襲ってくる。自分が何をしたらいいのか分からない。どうしたら友梨奈の安寧を、どうしたら伽耶ちゃんの安寧を確保できるのか、自分には全く分からない。怖かった。でも被害者たちのそれに、自分のそれは全く及ばないのだろうと思った。 ・でも、定期的に外に出て人と関わっていると、気楽さからは遠ざかって、少しずつ世間と自分は溶げ合ってしまう。できることなら、旅先で会う地元の人や、観光客同士みたいに、互いにその場限りの関係だけで人生を構成したい。だからこそ、私はインターネットの世界に没入しているのかもしれない。インスタ Twitter YouTube VTube TikTokスペース、んなソーシャルメディアを股に掛けて生きてるけど、どの世界もこの現実世界より居心地が良い。SNSは、苦手な人たちを目にせずに済むのがいい。好きな人、気になるものだけをフォローして、嫌いな人やものはミュートや興味ありませんをすれば、自分を乱すものは現れなくなる。痰を吐くおじさん、歩きタバコの臭い、スマホに向かって怒鳴り声をあげている人、扇情的な水着姿の女性を使った広告、胡散臭い成功する本の広告、痩せたい人毛をなくしたい人、賄賂不正取引不倫ゴシップゴシップ。こんな怒りと喧騒と金と性で彩色された世界に生きたい人が、本当にいるんだろうか。 外に出るとそう思う。それとも多くの人は、生まれちゃったし死ぬのもちょっとあれだからってことで、惰性で生きてるだけなんだろうか。 ・ハラスメント被害者の講演会は、途中で苦しくなって見るのを止めた。落ち着いてから見ようと思っていたけど、気がついたらアーカイブも期限を過ぎてしまっていた。私の弱さはこういうところなんだろうか。でも誰だって人の苦しかった話、誰かを強烈に恨んだ、憎んだ話なんて聞きたくないんじゃないだろうか。知るべき、考えるべき、学ぶべき、こうするべき、こうしない べき、お母さんはいつもそういうことを言っていて、その「べき」の重さに、私はずっと不感を持ってきた。人が生きる上で、「べき」なんて一つもないはずだ。そんなのは、彼らの個人的な、あるいは組織的な美意識でしかない。私は全ての「べき」から自由でありたい。もし「ベき」を設けるのであればそれは自分にとってのみの「べき」、自分以外の人には一切当てはめない「べき」にしたい。お母さんは「べき」があまりに重すぎ、強すぎることを知らないし、「ベき」を使わない人間は肩念のない風見鶏だとでも言いたげに批判する。私の念は、そういう言 念じゃないんだ。あなたには肩念に見えないような脆弱なそれこそが、私の念なんだ。それだけなのに、私の肩念が脆弱すぎるせいか伝わらない。 ・大学のフェンスの向こう側から桜が枝を伸ばし、花びらが降ってくる様子に思わず目を取られていると、実は僕、花粉症じゃないんですーと彼は何か思い出したような表情で嬉しそうに言った。花粉症でないことの尊さは、花粉症になったことのある人にしか分からないよと思いながら、そうなんだいいね、と私は微笑む。 ・彼女のことは、直接は知らなかった。でも、多分友達の友達で倍々に増えていたインスタアカウントで、いつの間にか相互になっていた子だった。でも、画面の中の子が今一人の男の性談のせいで死にかけているという事実がうまく理解できなかった。私はきっと半径数百メートルの中では、誰よりも性談を忌み嫌う人間だろうに、性欲により加害され、殺されかけている二年生の女の子という存在が、うまく認識できなかった。こういうところが、無性愛者が気味悪がられる所以なのかもしれない。性的指向は人間の一部分でありながら、核の部分でもあって、それが算らない人とは本質的な誤解が生じ続けてしまう。私が引きこもり始めたことに動し、特手に真由に聞き取りをして自殺未遂をした子の話を聞いたお母さんが戦うべきだと喚き立てる様子を見ながら、私はその誤解を解清する難しさを思い知った。今まで見たことがないほど興奮して、加害者を揄し罵倒し徹底的に存在を否定し呪詛の言葉を吐き続けるお母さんは、魔女のようだった。お母さんの嫌悪だけで、岡崎先生は本当に死ぬのではないかと思うほどだった。すごかった。 すごい、と思いながら私はお母さんの提案や勧めに、同意することも反論することもできま、お母さんはそのうち、そんな私を意志のない無思考な若者と見限ったようだった。 ・有性愛者とや無性愛者、世界の責任を取ろうとしているお母さんのような人と何にも責任を感じない自分のような人、真由のように実際どれくらい傷ついていたのかは計り知れないけど、性的被害に平気な顔をする人と自殺するほど思い詰める人、私はあの事をきっかけに人と人との違いを考えざるを得なくなった。その違いは考えれば考えるほど悍ましく、今自分が立っている地面を揺るがし兼ねないもので、地面が揺るがされるかもしれないことに怯えているうち私は身支度をすることができなくなった。そして必然的に、外に出ることができなくなった。無性愛者が、社会不適合者になった瞬間だった。 ・「そうそう。俺結構昔っから、小さい頃からこの世に生きる意味あんのかなって思ってて。捻くれとか逆張りとかじゃなくて、真っ直ぐに、純粋に考えて、この世に生きる意味あんの?って本気で思ってる」 越山くんが爽やかな微笑みを崩さず言うから、思わず笑ってしまう。すみません、お水もらえますか?爽やかな笑みを店員さんに使い回して頼んだ彼は、特に社会不適合者には見えない。 丁寧で、爽やかで、グレたりもしてなさそうだ。 「本当に?」 「うん。人生マジで楽しいことたくさんあるけど、その他諸々の嫌なこと、全部我慢してまで生きる意味あんのかなって。世界中の生きてる人たち皆に生きてる意味聞いて回っても、俺は多分どの答えにも納得いかないんじゃないかって思う。だから自分で意識して、目的とか意味とか考えないようにして、ほんやり生きてる。俺痛いのまじ無理だから、自分から死のうとかは考えないし、死なないとみたいな衝動もないし、絶望してるわけじゃないけど別に希望もなくて、これ意味あんのかなって、別になくね?って思ってる。毎日ちょっとずつ苦しくて、毎日ちょっとずつ楽しい。比率はいつも大体7:3、たまに6:4。だからいつか、きっかけっていうか、いい機会があったら、死ぬんだろうなって思う。死にたいガチ勢じゃなくて、きっかけがあれば死ぬかなガチ勢」 ・何で俺はこんなに未来が現実的に見通せてしまうんだろう。何で何が起こるか分からない人生! みたいな輝きが、自分にはないんだろう。側から見ればそれなりに輝いてる高校生のはずなのに、青春青春してるだろうに、その内側ではこんなに冷めてるんだろう。 ・俺には何かがあるとは思わない。母親への感謝、彼女へのかわいいな好きだなって気持ちと健全な性欲、友達にはまあまあ情もあるし、人並みの正義感もないわけじゃないし、社会とか政治への憤りだってなくもない。でもじゃあ何かあるのって言われたら特に何もないんじゃない? って感じ。まあ、あるのって聞かれたらあるよとも言えるしないよとも言えるみたいなものくらいしかないって感じだ。でもそれをあるよって言うのはちょっと抵抗がある。あってもなくてもそんなに変わらないようなものを、あるよなんてきっぱり言い切れる?って思うとまあ別に大した「ある」ではないわけだから、「ある」よりは「ない」にしておこうかなって感じ。 ・抽象の重要さと、具体に寄ることの危険性を、彼らは語り合っていた。抽象化することによって初めて人は自分自身や世界を認識することができ、具体に寄り過ぎると盲目的になってしまうという話で、最近の若い作家が具体に寄り過ぎる傾向があることに懸念を濁らす甲子哲夫に、お父さんはいくつかの若い作家のサンプルを出し、深く頷いていた。それで彼らは、俺からはあんまりその良さが分からないような古き良きなのかなんなのか、古い作家の作品を何作か挙げた。 実際その時代にそういう作品が求められてたって事実はあったんだろうし、そういう作品がウケてもいたんだろう。でもそれを安易に今の時代に当てはめるのはおかしくないか。それはなんかその文脈の中で、その界隈で、その時代を共有した人たちの内輪での「刺さるね!」だったわけで、今の時代にそれをそのまま持ってきてやっぱこれがいいよねみたいなことを言われてもそれは「別に刺さらないね!」なわけで、何でそれを現代の人にも分かりやすくするためのプレゼンとか漫画化とか要約とかもせずそのまんまこっちに押し付けようとしてくるのかがちで意味が分からない。 ・例えば編集者が自宅に原稿を取りにやって来た時、窓から一枚ずつひらひらと投げ捨て拾わせたモラハラ作家がいたなんて昭和の時代にはザラにあった話だが、じゃあその作家の書いた小説の価値はそのエピソードひとつで下がるのか。人のモラルや振る舞いなんて、文化や時代の流れの中で変化していくもの。首狩族が首を狩っていたのにだって豊作や来愛、神をを知るため、など様々な意図があったし、豊作や天候のために生費を捧げる風習は世界中のあらゆる土地で自然発生的に行われていた。自分だってその時代のその風習の中に生きていれば、首を持ったり、生を捧げたり、自分が生贄になったりしただろう。そこまで極端な話でなくとも、例えば今も残る一夫多妻制などにはその土地ならではの宗教的、経済的理由がある。 自分たちが生きる時代のモラル、常識、自分が生きる国の法律などに則って全く別の文化や背景を持つ民族や人種を断罪するのは、あまりにもナンセンス。大きなパラダイムシフトが短期間に押し寄せる現代を生きているからといって、前時代を全否定してアップデートすることだけを目指していれば高みに到達できると思っている人々はあまりにも視野が狭く、そんな言説が力を持ては、ややもすれば人間という存在がこれまでとは全く違う存在、狭く弱く愚かな存在に成り果ててしまう危険性すらある。 半蔵佳子の主張は、まとめればこんな感じで、Twitterで見ている時よりもまともなことを言っている印象だった。記事中のあらゆる文章がTwitterで拡散され、彼女は主に中年以上の層から賛同を得た。でも俺からすると、狭く弱く愚かってそれこそあなたたちの価値観ですよね、俺たちはそっちからすれば狭く弱く愚かだろうけど、別に仲良くやってます、そんな古い価値観押し付けないでください老害です。で感想はおしまいだ。老人たちが手を取り合って若い人たちをバッシングして一体何になるんだとうんざりする。どうしてもうそろそろ死ぬっていうのに最後くらい大人しくしていることができないんだろう。そんなのはこれから生きていく人に任せるべきことだ。橋山美津さんの断罪は、これから先の未来への期待、このままではいけないという焦りから生じているんだろう。もちろん死んでいく人の意見はいらない黙って死ねとは思わない。でもこういう、世界のルールが変わっていってるよね、っていう前提の話に、首を突っ込んでかき乱すのはやめてもらいたい。あなたが大切に思っているものと、あなたがどうでもいいと思ってるものは、俺らにとってのそれと全然違うんだ。そんな価値観でこっちは生きていないんだ。 その前提を分かってる人は、性別も年齢も問わず口出しなんてしてこない。どうして俺らは、何の前提も共有しようとしない、自分たちの古い価値観古い常識古い前提古い言説に依存してそこに疑いすら抱かないような図太く鈍感な奴らに好き放題言われなきゃいけないんだ。 ・性自認が曖昧っぽいカズマは、こういう時男か女かとか、何高とか、どうやって知り合ったのかとか、どんな人なのかとか聞かないから気が楽だ。こういう時、男?女?女なの?かわいい?背何センチくらい?可愛い系キレイ系?誰に似てる?とウザい男友達もいるし、そういう奴らといても別に平気だけど、カズマとかユウゴとかのこういう普通のやりとりができる友達といる時の方が正直気が楽だ。中学の頃から彼女が途切れなかったこととか、リコと付き合い始めて二年近くなることを自慢するつもりは毛頭ないけど、そこに余裕があることで女の子に飢えてる同級生たちと一線を画したところにいられるのは良かったなと密かに思っている。 ・「お母さんて、どんな人?」 「うーん、理詰めの人。それで自分自身が理にがんじがらめになって、どうしようもなくなってる人。私も人のこと言えないけど、なんであんな面倒臭い人生を送ってるんだろうって思う。私は無性愛者だから、そもそも有性愛者の人たち皆ちょっと面倒くさそうって思ってる節もあるんだけどね」 「それは、無性有性関係ないんじゃない?性がないから単純でいられるってことでもないでしよ?」 「まあ、確かに。でもなんか、猫って毛玉吐くの大変そうだなーとか思う感じ。本人にとっては普通のことなんだろうけど、私はそもそも毛繕い文化共有してないから、なんでそんなことするんだろ、絶対もっと合理的なやり方あるよね?って思っちゃうんだけどみたいな。まあ越山くんのいう通り、逆にそっちから見たら何でそんな生き方すんのめんどくさそー、って思われるんだろうけどね」 ・聞きながら、俺は父親が自分に与えてきた「反体制的であれ、反骨精神を持て、『何か』のある人間になれ」という、本や情報の与え方、何を嘲笑い何を肯定するかの線引き、俺の話に対する苛立ちや喜びみたいな僅かな態度から感じ取ってきたプレッシャーを思い出していた。もしかしたら、伽耶さんと俺は似たような家庭環境とまでは言わなくても、似たような抑圧を親から受けてきたのかもしれない。 ・木戸さんは編集長になった頃かな、なってしばらくした頃かな、突然枯れたんだよ。承認欲求が完全に潰えて、枯葉になった。あちこち穴の空いた、踏めば粉々になる茶色い枯葉。この業界、じゃなくてもよくある話なのかもしれないけど、少なくともこの業界ではよくある話で、意欲的に現場仕事をしていた編集者が、四十を過ぎた頃から唐突に現場への意欲を喪失して、流れ作業的に無難に仕事をこなすようになっていく現象。多分あれは、個人が仕事を通じて世界を変えることを諦める瞬間なんじゃないかな。ここまでやってきて何も変わらなかったし、評価もさほどされないし、以前のような体力もないし、自分のこれからの人生も何となく先が見えちゃって。 アクセル全開でガチガチに仕事する、から、省エネで余生を生きていく、にスイッチが切り替わる瞬間 ・私や越山くんにできるのは、せいぜいあの動画を拡散して、加害者男性を追い詰めることくらいだろう。でも、追い詰めてなんになるの?とも思う。それで加害者男性が自殺したら?やったーバンザイ?別にレイプ犯が自殺しようと私に良心の町責はないし、死ねないなら死ぬほど苦しめとは思うけど、もしかしたら加害者男性の妻とか子供もことによっては自殺するかもしれない。それで加害者を死に追いやったら、次はまた別の加害者を追い詰める?個人的にはレイプ犯はレイプした瞬間爆発でいいけど、でもそうして皆でリンチして殺してやったー!とは思えない。この間、女子供を虐待する差別主義者の男が、ヒーロー的な人に殺される勧善懲悪ストーリーの超大作映画を観たけど、観てる時スカッとして、観終えた後スカッとしていた自分にげんなりした。どんなに精巧に作られた勧善懲悪だとしても、令和を生きる私は、殺人がエンターティメントになることに耐えられないのだ。悪人が殺されてスカッとするなんて野蛮だ。何人もの教え子に強制わいせつ、強制性交をしていたあの教授だって、自殺したと聞いたらスカッとした後、やっぱりげんなりするだろう。死んで終わりって、あなたの人生すごろくですか?被害者にとっての人生は、すごろくじゃないんです。上がりとかいう概念もないんです。そう思うはずだ。 ・でも越山くんの置かれた環境を考えると、越山くんにとってこれは重要な問題なのだろうとも思う。加害者が捕まればいいのか、どこまで懲らしめればいいのか、死ねばいいのか、社会的に死ねば、精神が死ねば、肉体が死ねばいいのか、それとも改心すればいいのか、自分の罪を認め償えばいいのか、でも償いって何なんだろう。懲役刑?示談金?家族やお金を失うこと? ・でもだからって、そこに異議を唱えて何になるんだろう。結局、私は絶望前提で生きてるから、だから何って感じなのかもしれない。結局、世界が変わる、人が変わると宿じていなければ、人は強い思想を持つことなんかできない。私はそう思うし、自分の周りにも何かが変わると肩じて何かに突き進んでいる人なんていないような気がする。そんな、何かを変えたことのある人、変える必然の中で生きてきた人、変わると言じられる人たちと、私は違う。結局、人は希望がなければ何もできないってことなんだろう。希望がなければそこに自分の時間や経験や労力、何一つ削ぎ落とすことはできないのだ。いつもいつも、面白い思いをするためにTkTokを開く。面白くなければ二秒でスワイプ。二秒に自分の求めているものがなければ、次にいく。YouTubeでいえば、サムネとタイトルに「面白さ」の希望がなければまず観ない。基本面白いものしか求めないTikTokとYouTube に対してすら、ここまでギブアンドテイクを求めてしまう現代人が、なんの見返りもない事柄に関して考え続けたり討論し続けたり戦い続けたりなんて不可能だ。それは偏にタイムパフォーマンスの問題で、二年を引きこもりに充てた私ですらこんな風にタイパについて考えてしまうんだから、まじでこの「で、それすると何が得なの?」は現代の病だと思う。確かにこんな狭量な考え方じゃダメだとも思う。でもそれを強要してるのはこの世界の方じゃないかとも思う。少なくとも、私のせいじゃない。 ・何だよそれと越山くんは笑ったけど、カズマがうっすらと浮かべた笑みには心配が混じっているように見えた。二人がどんな関係性なのか分からないけど、きっと友達とかクラスメイトとかの枠内ではなくて、ちゃんと個人と個人として向き合ってるんだろうと思った。自分が尊敬する人、好きな人、ずっと活躍を見てきた人が亡くなって悲しい、辛い、どうして、という気持ちも、そりゃ人には色々あるよ自分たちには計り知れないものがあったんだろうよ、邪推するのはやめようぜという気持ちも分かる。両方とも、好きだからこそ、そうなるんだろう。好きというスタート地点は一緒なのに、思いが共有できないこともある、という悲しい人間の性を、私はいま目の当たりにしているのだ。 ・一哉はセクハラパワハラの残存する社会を許容して、こういうものは時代と共に駆逐されていくからって、駆逐されるまでに生じるであろう被害を容認してる。私は一哉みたいな緩やかな容認派の人こそが被害を拡大させてると思ってる。そこで声を上げないことで生じる被害を週小評価してると思う ・それを同じ気持ちって言っていいんですかね。双子だって、精子と卵子が同じでも金持ちと貧人とに育てられたら、全然違う人生を歩みますよね。そんなの、種と始まりが同じでも、だからなにって感じじゃないですか。多様性の時代とか言いますけど、色々見えるようになった今、結局越えられない壁が高くそびえたってるのが分かって、これは乗り越えられないねって、皆が諦めるフェーズに入ったんじゃないかなって、俺は思います ・どうして世の中にはこうも、性加害が溢れているのだろう。世の中はあまりに浅はかで欲望に忠実なおじさんが多すぎる。本当に心から、うんざりする。自分はこんなにも無害な人間なのに、どうしてこんな自分とは無関係の加害や被害について考えながら生きていかなければならないのだろう。友梨奈の言うことも分かる。この世界の一員として生きる以上、自分は無関係、では済まされないし、自分は無関係と思う人々が事態を容認することで、加害を助長し続けてきたのだと。でも俺はこの社会を作ったことなんかない。俺は何一つ、こんな世界を作ってなんかない。こんな社会を作ったのは、上の世代、その上の世代、その上の上の世代だ。俺じゃない。そんな憤りもある。俺は生まれてこの方、誰かに迷惑をかけたことは一度もない。こんなに慎ましく生きてきたんだ。 ・その時代の変化は、あなたの中に痛みとともに刻まれているの?写真週刊誌とはいえ名の知れた出版社に勤める中年男性記者が、時代が変わる必然性を感じたことが、一度でもあるの? ハラスメント研修めんどくせーくらいのことしか感じたことないんじゃないの?なんとなく空気の変化を感じ取ってる風に見せて、話を合わせてるだけなんじゃないの?私は最近、サラリーマンっぽい男の人を見ると怒りが込み上げてくる。あなたたちはどんな抑圧にも性被害にも遭わず、道う可能性も考えず、満員電車や公衆トイレ、夜道に恐怖を抱いたこともないだろう、と。
  • 2025年12月25日
    YABUNONAKA-ヤブノナカー
    ・しかし結局のところ、文学性というのは己に通底するテーマを深掘りし続けるそのスタンスに表れるのではないだろうか。自分の企画する特集の凡庸さ、有名どころの文芸誌の創刊時からのパックナンバーを漁り様々な特集テーマをストックし、その焼き直しや改変でお茶を濁し続けてばかりの自分の浅はかで空っぽな手法に疑問を持った時、そう思い至った。逆に、自分の好きな作家たちの多くは、手を替え品を替え様々な小説を書いていると思わせながら、実際には生涯をかけて同じテーマを書き続けている。そう気づいたとも言える。彼らは対社会、対体制、対外部的な小説を書いていると思わせつつ、実際にはずっと個人的な問題と向き合い続けているのだ。個人的な問題とは、フェティシズムや変態性欲、コンプレックス、偏執、タブーや死への衝動など理性や理論では語り得ないものであることが常で、だからこそ彼らはそれらと生涯をかけて向き合い続けられたのかもしれない。 ・でも軽い鬱痛くらいが、この世を生きる最もバランスの良い状態なのかもしれないとも思う。 家族も友達も趣味もない。何ものにも執着しない、執着されない、愛さない、愛されない。金を線き各所に配付し経済を回し、とこも汚さず誰の邪魔にもならず、食って排泄して寝る。ジャンダルに暮らす動物たちのようにシンプルだ。 ・しかし私の中には、善悪の判断をし、悪を徹底的に潰さなければならない、間違っているものを排除し世を正さなければならないという、それはもう悪のような正義感が渦巻いているのだ。つまり私の言う多様性とは、私が認められる多様の中でのみ機能する多様性のことであり、そこから外れる女性を殺した者であったり女性を搾取する者であったり子供を殺したり搾取する者であったりはどんなに残酷な刑にかけられ殺されても構わないむしろそうしてもらわないと気が済まないという反社会的な怒りがあるのだ。もちろんそこまで極端な例に限らないが、一度激昂すると相手の死さえ厭わない悪のような正義感に一哉は引いているのだろうし、主義的には死刑反対と言いながら、個人的な怒りには打ち勝てない自分自身のダブスタ具合に、私も引いている。 ・自分がこんな四十代になるとは思っていなかった。こんな不安なまま、こんな歳になるとは思っていなかった。今四十三になって、二十三、いや十三の自分にだって同じことを言える。お前はあと二十年生きても三十年生きても今のお前と大して変わらないぞ。二十年、三十年、自分がいいものを書いているのか確信が持てないまま縋るように小説を書き続け、二十年、三十年、恋愛で幸せになったり不幸になったりするが決して不安は消えない。もちろん生きてて良かったと思うこともある。あの時死ななくて良かったと思うこともある。でもお前の人生はどこを切っても金太郎飴のようなものだ。金太郎の顔がぐにゃっとしていたり、精悍だったり、潰れていたりしても、内容を構成する要素は同じだ。いつか変わるのだろうか。いつか、例えば老いが無視できないところにまで忍び寄り、そこにいつしか引き込まれていく途中、あるいは孫ができて自分の子供ができた時とは違った心持ちで赤子を抱いた時、親が亡くなった時、自分自身が病魔に侵された時などに、私の中にこれまでの金太郎飴にはなかった重要な要素が入り込むことはあり得るのだろうか。人生には様々なフェーズがあると聞く。いつまでも自分が今の自分のままなはずはない。でも、自分がこの三十年以上にわたってあまりにも変わらないことに、私は驚愕し続け、ようやく絶望しかけているのだ。 ・同じことを感じている女性は、今すごく多いと思います。 自分の中ではこういうもの、と納得して適宜引き出しにしまっていた記憶が、昨今の告発の数々の中で突如暴れ出して、引き出しから飛び出して自分を襲う。そしてそこに入れてしまった自分自身への不信感、かつての無自覚な時代への憎悪、相手側にはそんな葛藤は一切なく、いい思い出フォルダにまとめられているんだろうという耐えがたい予測、この古傷が耐え難いほど痛み出す現象については、それなりに年齢を重ねた女性たちとの間で最近よく話題になります ・「分かります。最近のあらゆる告発文は、私たちの中に眠っていた過去の罪を照らし出してくれますよね。打ち上げ花火が上がって、同じ痛みを持っている人たちが照らされた自分の古傷を見出す。あれは断罪されるべき罪なんだと気づかされていく。それは社会が急に変化していく中で必然的な流れだし、それぞれ個人が変化し続けているからこその気づきでもあります。当時は大して気にしていなかったことが、どんどん大きな罪になっていく。時代の変化によって、そしてその変化に呼応した自分自身の変化によって。つまり、私たちはとても流動的で、まるでアメーバのような存在に身を任せながら、自分達自身もまたアメーバのように手からこぼれ落ちてしまうような存在だということです。そんな不確かな存在として不確かな世界に生き続ける苦しみって、今この変化に気づいている人たちだけが抱えているもので、気づいている人と気づいていない人の間に鮮やかなグラデーションができていることに最近気づいたんです」 ・禿げかけて顎下にたっぷり脂肪をつけたおっさんが、三歳児のようなわがままっぷりを披露する。レイプしておいて、話さない。根こそぎ尊厳を奪っておいて、敵意を恐れる。ほら見ろ過去と今が瞬時に、直接的にドッキングした。生涯に亘って許せないことというのは、昨日のことなのだ。いや、今も継続しているのだ。私はこの十年近く、毎時毎分毎秒ずっとレイプされ続けている。尊厳を奪われ続け、犯され続け、自我を殺され続けている。だから私は、いい加減にその被虐から逃れなければならない。戦い、勝たなければならない。これは尊厳を取り戻すための戦いなのだ。グラスを持ってリビングを出ていこうとする克己に「話し合いに応じないなら弁護士に相談します」と声を掛けるが、目すら合わさず彼はドアを閉じた。 ・正直、自分は個人主義の立場をとっていて、基本的には全てのお金を折半したいし、自分が興味ないことやりたくないこと、例えばバーベキューだったり遊園地だったりナイトプールだったりにお金を払いたくはない。行くことになればお金は出すが、本当は全く割りきれない思いでいる。正直にこの愚痴を言ったら、担当作家の長岡さんに「五松さんが付き合えば付き合うほど不幸な女性が増えるだけだから、恋愛やめたほうがいいと思いますよ。まあ五松さんには女を不幸にさせる程の魅力もないから大丈夫かもですけど」と笑われた。あまりにサラッと軽い口調で言われ、周囲がドッとウケていたから苦笑いで流したけど、時間が経てば経つほど思い出した時の怒りが増していく。男だったら分かってくれるだろうと、担当作家の七樹さんに同じことを言ったら、「五松くんは誰かにお金や愛情を分け与えられるほど満たされてないんだろうね。まあ、どれだけ満たされてても与える器がない奴もいるけどね」と同情された。確かにそうなのかもしれなかった。自分は昔から、自分のものは自分のもの。で、お菓子もおもちゃも分け与えることができなかった。僕の!僕の1というのが口癖だったと、親に今も笑われる。お母さんお父さん、僕はいまだに僕のお金を女性に使うことにモヤモヤしてしまいます。それでもこすい奴と思われるのは嫌だから、いつもお金を払っています。課金もしています。でもどこかで「払ってやってる」という意識が働いてしまい、彼女達が自分に優しさや体で接待するのが当然だという思いを捨てきれません。自分が現代に於けるマッチョ的害悪であるという自覚はしています。でも自覚以上の境地にはまだ立てていません。 ・でも、自分の中にはそんな暴力的な血は流れていない、とも言い切れないことを、最近よく痛感する。もちろん今だって口説き倒してセックスをしようとも思わないし、風俗も好んで行きはしない。歳のせいもあるかもしれないが、もはやセックスに持ち込むためのエネルギーをケチるような男だ。それでも自分は女性をルッキズム全開でランクづけし、金を払えば払っただけの見返りが欲しくなり、後腐れなくセックスできるならばより多くの見た目のいい女性たちいい体をした女性たちとセックスしたいと望む、下世話で暴力的な存在だ。自分のことをそんなふうに捉えるようになったのはきっと、女性を射精のための道具としか思っていないあの作家のような老害に対する嫌悪と、今の彼女が初めての彼女です、と歓迎会で自信満々に言って部署の女性たちの好感度をかっさらっていったという、新卒で文芸編集部に配属された二年目の梨山くんみたいな若者に対する不可解さの、両方があってこそのことなのだろうと最近気づいた。 ・皮肉屋で、気に入らないやつを目一杯一刀両断するから、頭がキレてウィットに富んでいると評価されていた時期もあったようだが、四十代半ばに差し掛かった今はただの愚痴おばさんだ。近所のスーパーが値上げをしたことや、旦那の家事のやり方への不満までダダ漏れにしてきてちょっと引く。木戸さんによると、昔はああいう女性編集者が多かったとのことだ。過去のノリを引きずっちゃってるんだろうねと不憫そうに言っていたが、それはあんたも同じなんじゃないかとも思う。こんなところにも、時代の変化は見え隠れするのだ。いや、この人の移り変わりこそがまさに、時代の移り変わりと言えるのかもしれない。 ・「私は本を通じていろいろな人と対話をしてきました。例えばカラマーゾフを読めば、ドミートリイ、イヴァン、アリョーシャ、スメルジャコフ、フョードル、そしてカチェリーナとも対話をします。もちろん著者自身とも、小説そのものとも対話をします。これは人間関係と同じようなものでありながら、現実の人間とのそれよりずっと濃密な関係でもあります。現実に顔を突き合わせる人たちと、人はどのように生きるべきか、罪とはなんなのか、貧困とどう向き合うべきか、なんて真面目に語り合うシーンはあまりありませんよね。だからこそ、考えざるを得ないシチュエーションと、多様な意見が取り入れられている小説には大きな存在意義があると私は思っています。もちろんそれとは全く違う意義も小説には含まれているのですが、意義の一つが、このように現実よりも深い思考や対話を持てることだと思っています。この、本を通じてあらゆるものと対話する、という関係は、言い換えてみればいわばリモートの一種ですよね」 ・人間は、本や映像という媒体がなかった頃から伝聞や歌で何かを継承する、受け取る、といういわばリモートのコミュニケーションを経てきました。今では本や映像、画像や絵画を通して、時代や国境、文化や宗教を超えて、遠くの顔を見たこともない誰かから、すでに死んでしまった誰かから、大切なものを受け取るということを日常的にしています。そう考えると、受け取る場所が書籍であろうが、データであろうが特に大きく変化する所以はないのではないか、と私は考えています。つまり、小説に関して言えば、そこでやりとりされているのはエスプリや心、思考、価値観です。それは目には見えないもの、感じることしかできないもので、そういったものが文学、書籍というものを通じて人に届くようになったけれども、今はデータでも届く。手で触れない、目には見えないものに少しずつ近づいていっている、つまり元来の形に戻りつつあるとも言えます。 ・数年前、自分の担当作家が、時折無邪気さを丸出しにする人と、一切無邪気さを見せない人に二分されていることに気づき、どうしてこんなに明らかに二分されているんだろうと考えた結果、ずっと専菜作家で一度も社会に出たことのない人に共通しているのがこの無邪気さだと気づいたのだ。長岡さんは若くしてデビュー、就職経験のない作家だ。数は少ないけれど、こうした社会に出たことのない人や、フリーターのような自由な働き方や、フリーの仕事をしていた人は、「社会人なら必ず削られてしまう場所」が百%の状態で残っていて、時々子供と向き合っているような違和感に駆られ、戸惑うことがある。「社会人なら必ず削られてしまう場所」が割れている作家の方が共感能力が高いし、社会に対して開けているため読みやすいという傾向もある。どちらがいいというわけではないものの、なんとなくこの削れていない作家に対しては嘲りと羨望が入り混じった苛立ちが湧き上がるのだ。 ・あんたが外部に削られず生き延びることができたのは、儲に作家としてやっていけてるからであって、そんな才能もなく世間に揉まれて苦しむ奴らへの想像力がないからそんなことを平然と口にできるんだ、と唐突な憤怒に駆られる。最初はお望みの部署にはいけません、泥臭い編集部でも大丈夫ですか?と週刊誌行きを示唆され、断腸の思いで「もちろんです」と答えた自分の味わった苦渋も、編集長のモラハラや取材対象からの罵倒、過酷なスケジュールに苦しみ続けた週刊誌時代の胃痛も、時代の変化によって泥臭い部署を経ず新卒で希望通り文芸の編集部に配属された梨山くんのような奴への滾るようなルサンチマンも、お前には分からないだろう。だからあんたはずっと地に足のつかない、リアリティのない小説ばっかり書いてて、だから売れないんだ。呪いの言葉を頭に思い浮かべながら「やめてくださいよ。僕はまだ編集者の中では若手の範囲ですよ。若い人はどう思うの?とか聞き取られる側ですからね」とヘラヘラ諂って見せる。俺には、こういう長いものに巻かれる自分に対する激しい怒りがある。 ・その時優美の手と脚が胴体に回され、俺は抱きしめられる。優美の手も足も熱く、包まれた心地に、重力とは正反対に胸が軽くなっていく。女性上司に勃起したり、胸に惹かれたり、でも勃たなかったり、抱きしめられて安堵したり、自分の体はどうしょうもないなと思う。俺だって望んで、クズやゴミ予備軍に生まれたわけじゃない。男をクズとかゴミとか言える女はいい身分だ。男が逆のことを言ったら死刑なのに、なんでこんなにひどいことをあんなに軽いトーンで言えるんだろう。憤りが体の中でどすどす荒ぶっていても、安塔はどこまでも体に入り込んで、主に胴を中心に脂肪をつけ始めた俺の体を支配して行った。 ・表現っていうのはどんな場でどんな形でどんな人からなされようと一方的なものだよ。人は自分というフィルターを死ぬまで外せないからね。もちろん Twiterとかの匿名投稿がその最底辺にあるっていうことは分かるし、その痛々しさに耐えられないって意見も分かるけどね。 ・普段あまり本を読まない自分でもさすがに気になって何度か手に取って数ページ読んでみたけど続かなかった。それでもここまで売れて話題になればやっぱりちょっと本腰を入れて読んでみようかなと思うから、自分はオピニオンリーダーから最も遠い人種、資本主義社会と世間に踊らされる大来の一員でしかないのだと自覚せざるを得ない。 だからこそ、友梨奈に惹かれたんだろう。自分の中に確固とした価値観を持ち合わせていない俺には、「それは正しい」「それは間違っている」「それは正しいけどもっとこうするべきだ」「それは救いようのない悪だ」と自信満々に全てにジャッジを下せる彼女が眩しかった。 「私が間違ってると思ったらちゃんと言ってほしい。一哉の言葉を受け取ったら、私はその都度きちんと考えるし、一哉の意思や価値観を取り入れて、私は人としてさらにバージョンアップしたいんだよ」 付き合い始めた頃、いつも私ばかりが提案して私ばかりが全てを決めて私ばかり話題を出して私ばかりが話を先導して私ばかりが結論を出してる、と不満を漏らしたのち友梨奈はそう言った。 情けないかもしれないけど、俺は友梨奈と話しているだけで幸せだし、友梨奈が間違ってると思ったことは一度もないし、一緒にいると幸せだから話す内容はなんでもいいんだと言ったら、彼女はショックを受けたような表情をしたけど、主張がないということが一哉の主張なんだねと前向きに理解したようなセリフで話を終わらせた。何故かは分からない。自分には許せないものがないのだ。苦手なものはある。でも許せないものは特にない。つまり自分にあるのは、信念ではなく、傾向でしかないんだろう。それでも、何が何でも友梨奈と一緒にいたいという仰に近いものが自分にはあるのだから、それで十分じゃないかとも思う。 ・それでも新しい時代の人たちがそんな前時代の負の遺産で傷つくことはあってはならないし、何よりも今の時代の正しさを執行するために、セクハラは取り締まらなければならない。私は変わりゆく時代に抗う必要は感じてないからね。でも最近、あの頃は間違ってた、自分も含めて皆がおかしくなっていた、って昔を振り返って悔恨の念を漏らす女性たちを見ながら、私はそうじゃないと感じてる。あの時は「あれが普通だった」んだよ。常識と言ってもいいかもしれないね。そして今は常識が変わっただけ。そして、今の常識だって、あと数十年すればきっと「間違ってた」と言われるようになる。でも間違ってたわけじゃない。時代によって常識が変化してるだけ。正しさを執行するためにと言ったけど、それは便宜的な言い方であって、本来はそこに正しいも間違いもない。ただただ時代にはそれぞれの正解がある。移り変わる正解の蔵の中で、今の環境における正解を正確に捉えることだけが、今を真っ当に生きる術だよ。現代にだって、あらゆる国や村で略奪婚、一夫多妻制もあれば、赤ん坊をシロアリの巣に入れて精霊として還す民族もいる。そこには先進国とは全く違う結婚制度やジェンダー観があって、何が幸せかなんて環境によって全く違う。自分たちと価値観を共有しない人たちを可哀想と切り捨てるのは邪悪だし、愚かな行為だよ。でも現代に於いてはインターネットがあって、先進国に生きる者たちは移民問題やグローバル化の潮流の中で他者との共存、多様性っていうテーマに直面してる。でもそこで、我々は全くもって画一的な価値観を持っていないという当たり前の問題にぶち当たる。例えば現代の先進国に於いて人々は犬猫を家族のように大切に思ったりするけれど、ゴキブリは容赦無く殺す。でも数十年後には、人間はゴキブリを家族のように大切に思って一緒に暮らしているかもしれないし、百年後には生き物の肉を食べるという行為もまた非人道的と捉えられてるかもしれない。そしてその時には言うんだろうね。「昔の人は野蛮で、人の心を持っていなかったんだろうね」って。 ・二人の生活がこんなにも二人の要素で完成されていて、強固な ものになっているという事実が、こんなにも胸を挟るのは何故だろう。さっき、別れを切り出された七年前のことを思い出してしまったせいかもしれないし、料理がとてもおいしかったせいかもしれない。あるいは、彼女が痩せたと感じたせいだろうか。いや、多分違う。俺は最近、五松さんやとりあえずンコチ、イエニスト茂吉好き、木戸さんと橋山美津といった面々の、恋愛を巡る男女の不幸な末路を目の当たりにし続け、自分でも知らず知らずのうちに心を痛めていたのかもしれない。そんなことを思いながら、柚子胡椒ものすごく合う、やっぱこれが最適解かも、と満面の笑みでチキンを口に運んで、そろそろ柚子胡椒買わなきゃねと瓶を覗き込んで言う彼女に、「柚子胡椒はストックがあるよ。まだあるよって言う俺を無視して、友梨奈が物産展で買ったやつ」と微笑んだ。あー! と無邪気な表情を見せる友梨奈がこれから、旦那さんが美意識的に耐えられないと感じる泥沼の離婚協議や離婚調停に挑むのだと思ったら、それが友梨奈のみならず自分のためにもなされる行為だと知りながら、止めたくなる。 ・「へーすごい。本当にあるんだねバーベキューやろうとか言う会社」 ね、と同意して眉を顰める。思えば、これまでも社内で誰々の家でバーベキューやるとか、誰々さん幹事でバーベキュー大会するとかで誘われたことが何度かあった。あんな準備と片付けが大変なものをなぜやろうと思えるのか、神経を疑う。焼いた肉を食べたいなら焼肉屋やサムギョプサルを出す韓国料理屋、シュラスコなど選択肢はたくさんあって、都内には無数の美味しい店がひしめいているのに、どうして自ら大して美味しくもない肉を焼いたり、気を使いながらどうぞと取り分けたりなどの茶番を繰り広げなければならないんだろう。反射的にそう思う俺は、人生の中で一度もバーベキューをしたことがない。 ・私、あるいはこの場にいる誰かが何らかの病気により子供を作れない体質であるという可能性を全く考えないんですか?誰かが子供が死ぬほど嫌いで永遠に子供を持ちたくないと考えている可能性、あるいはこの場に性的マイノリティの人がいる可能性も考えないんですか?あなたの発言は、全ての人は子供を持つべき、子供は全ての人に求められ愛されるもの、という社会的刷り込みに則っていて、二重にも三重にも愚かで失礼です。課長とはいえ人の上に立つような人がそんなアドバイスを装って想像力の久如した先輩風を吹かせることは、ここにいる全ての人たちにとって害悪でしかないですよ ・いつの時代も、正しさや現代らしさは、病的なものと捉えられるのかもしれない。SDGs、環境保護、動物愛護、LGBTQ+、あらゆる運動の最先端にいる人たちが病的に見えるという意見も分からなくはない。それでも、気づいてしまった人、見えている人は、もう前に進むしかないのだろう。 ・彼女がそうして周囲の人を凍りつかせた場面を、俺は他に何度も目撃してきた。「女なら一度は出産するべき」「あなたたちは顔が綺麗だからたくさん子供を作ったほうがいい」「ゲイには敷居を跨がせない」などなどの発言をした人に対する人格批判だ。彼女の言っていることはまともで、誰よりもまともで、誰も反論の余地はないだろう。でもその無自覚な相手を徹底的に論破しゴミクズに鋭く唾を吐き捨てるかの如き冷酷さは、見る者を不安にさせる。彼女は差別主義者、セクハラパワハラをする人、固定観念に捕われている人々を許さない。俺であっても伽耶ちゃんであっても誰であっても、そのような発言をしたら徹底的に、生まれてきたことを後悔させるほど強烈に叩きのめすだろう。もう脳震盪を起こして伸び切ったゴム人形みたいになった相手をいつまでも左右から殴り続けているかのような、そんなボコボコ感が、俺には耐えられないのだ。 もういいんだ殴らなくていいんだと、彼女を抱きしめたくなる。人がボコボコにされるのは、言葉によってでも、肉体によってでも見ていて辛い。でもきっと彼女は言うだろう。ボコボコにされたのは私の方だ。傷ついているのも私の方だ。あいつらは何一つ傷ついてない。でもそうじゃないと俺は思う。彼らもまた、彼女の思うような形でなくとも、それなりには傷ついているはずなのだ。そしてこれは口にはしないけど、俺もまた彼女が誰かをけちょんけちょんに貶めている時、ガラスの破片を踏みつけたような痛みを感じる。彼女の痛みに共鳴しているのか、それとも彼女にけちょんけちょんにされている人の痛みに共鳴しているのか、それとも二人がぶつかって飛び散ったガラスを踏んでいるだけなのか分からない。それでも誰にも露呈しない痛みではあるけど、俺の痛みもまた本物で、その痛みが彼女にとって取るにたらない痛みであるという事実もまた、俺にとっては小さな苦痛だった。 ・プラスチックコップに延々、ジュースや水を注ぎ続けていると、気が休まる。自分はこういう無機質なものと、専門的な技術を必要としない関わりを持っているのが一番気楽なのだ。今はマーケティングの部署にいてそれは本当に面白いし勉強になるしやりがいがあるしずっと続けていきたいと思うけど、本来の資質的には、延々段ボールに何かをつめて宛名シールを貼って閉じて重ねるといった出荷作業のようなものが合っているという事実はあるにはあって、それは自分が責任というものに過大なストレスを感じてしまうことに起因しているのだろうと自分では考えている。 ・うちの会社には、こういう人が多い。体育会系で与えられた課題を無思考にクリアし続けてきて、就職してからも与えられた課題を気合と根性でクリアし続けている人、自分が偏った人間であること、無知であることを知らない人。
  • 2025年12月24日
    六番目の小夜子
    津村沙世子――とある地方の高校にやってきた、美しく謎めいた転校生。高校には十数年間にわたり、奇妙なゲームが受け継がれていた。三年に一度、サヨコと呼ばれる生徒が、見えざる手によって選ばれるのだ。そして今年は、「六番目のサヨコ」が誕生する年だった。 ビビりな性格なのでホラー系はほとんど読んだことないのだが、この小説は面白かった。。 ところどころゾクッとするシーンがあるが、特に学園祭のシーンはエリック・サティのジムノペディを聞きながら読んだら本当にゾクゾクした。。 あのシーンの何がこんなに怖いのか。。 全体としてはただの怖い話ではなく、高校3年の青春も描かれていてとても愛おしさを感じたし、ミステリ的要素も面白くて、一気に読み進められる小説だった。 ・「あたしは子供の頃から多かったわよー不思議よねえ、どうしてみんな転校生をいじめるのかしらねえ?田舎の方とかに転校するとね、帰り道に大勢に待ち伏せされていじめられるのよ。 考えてみると、これって不条理よね?なぜいじめる必要があるのか?身体の中に異物が入ると、ほら、いろいろ白血球なんかが寄ってきて取り込もうとするっていうじゃない、あれなのかもしれないわよね。まあ、その土地に馴染むための通過儀礼の意味があるのかもしれないししでも、要するに『異物』だからよね。知らないものだから、自分たちとは異質の空間と時間を過ごしてきたから!未知なるものは常に恐怖の対象だったからーほーんと、テレビドラマのいわゆる『謎の転校生』は、いつもなんらかの悪意と目的を持ってやってきたものね。それでまあ、いじめて、過剰に接触して、屈服させて、免疫をつけて、自分たちの中に取り込もうとするわけね」 ・「そうだよな。日本て学歴重視の割には学問の地位低いもんね」 「ねえ、知ってる?国立大学の予算の半分をT大とK大だけで使ってるんですって。そうよ、こんなに長いことつまんない勉強ばっかさせられたんだもの、あたし絶対どっちかに行って国家予算を使いまくってやる」 「津村はいちいち言うことが激しいなあ。俺なんか、しょせん小心者の点取り虫だからさ、一あ、点取り虫って言葉、なんか懐かしくない?一結構、あのあざとくてせこいルール探しみたいな受験勉強って嫌いじゃないよ。学歴社会とかみんなけなしてるけど、いきなり明日からさ、じゃあ君の好きで得意なことやって君の個性を見せてくださいなんて言われたら困るよな。そんな、僕点数で判断してもらわなきゃ困ります、って言い出す奴がいっぱいいるんだろうな。俺だってそうだもん」 「そう言い切るところが秋くんのすごいとこよね。あなた自分に自があるからそんなことが言えるのよ」 ・特定の個人を重点的に、などとポロリと漏らしてしまったのは、あの、八月の海辺での津村沙世子との会話がどこかに残っていたせいだ、と秋は気付いていた。沙世子はあの時痛いところをついていた。「どれもちょっとずつ」などと控えめに答えたけれども、本当はどれも「ちょっとずつ」どころではなかった。他人が自分の中に踏み込んでくるのが怖い他人の中に踏み込んでいくのも怖い1自分は他の大勢の人間とは違うのだー自分の心をほんのちょっとでも掘り返せば、そういう感情が山ほど転がり出てくるのを秋は知っている。自分の傲慢さ、薄情さ、小心さが、自分の撮る写真を通して他人にバレるのを彼は何より恐れていたのだ。 でも、今年の学園祭の終りには、津村と、花宮と、由紀夫の写真を撮ってやろう。 秋はその時決心した。 真っ正面から、どアップであいつらの写真を撮ろう。
  • 2025年12月23日
    世界地図の下書き
    突然の事故で両親を亡くし、「青葉おひさまの家」で暮らすことになった小学生の太輔。悲しみでしばらく心を閉ざしていたが、同じ部屋の仲間たちのおかげで少しずつ打ち解けていく。とくにお母さんのように優しい高校生の佐緒里は、みんなにとって特別な存在。施設を卒業する佐緒里のため、4人の子どもたちは、ランタンに願い事を託して空に飛ばす「蛍祭り」を復活させようと、作戦を立てはじめる・・・・・・ 切なくて温かい物語だった。 結局人はひとりだということが、この境遇の子供達の話だからこそ鮮明に表れている。 結局はばらばらになってしまう。でも離れたくないと思い合えるような人達に出会えたことで、次の一歩を踏み出せるようになる。。 この物語を読んで「対岸の彼女」の「ひとりでいるのがこわくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何かと出会うことのほうが、うんと大事な気が、今になってするんだよね」という言葉を思い出した。 物語の中の登場人物だけど、どの子供達もとても愛おしくて、この子達に希望に溢れる未来がありますようにと願ってしまった。 ・一生口をきいてやらない、と、何度も何度も決意していた気持ちが、お湯の中に入れた氷の粒のように、形をなくしていく。 佐緒里は、眉を下げて太輔のことを見つめている。 「家族だよ。だから、願いとばし、していいんだよ」 朝から雑草を抜き、いろんなところからいろんなものを調達し、つくりあげてくれた家。 「家族・・・・」 太輔が声を痛らすと、右手をぎゅっと麻利に握られた。えへへ、と、下から顔を覗き込まれる。 「お兄ちゃんがもうひとりできた」 麻利はそう言って、もう一度てのひらに力を込めた。とても小さな握力が、太輔の指の関節を包む。 ・私ね、と、続けて、佐緒里は一度唾を飲み込んだ。 「ひとりでこんなところに来て、どうしていいかわからなかった。そんなときに太輔くんが入ってきて・・・弟と同い年で、同じアニメのTシャツを着てた」 太輔は、自分のTシャツの胸のあたりを見る。お母さんに買ってもらった、好きなアニメのTシャツ。 「弟が近くにいるみたいで、嬉しかった。この子のお姉さんになれば寂しくなくなるって思った」 どうしてこの人はこんなにやさしいんだろう、と思っていた。やさしい人はすぐにうらぎる、と思っていた。 「ほんとは私も、太輔くんと同じくらい寂しかっただけなの。お姉さんぶって、自分の寂しさを紛らわしたかっただけ」 ごめんね、と、佐緒里は謝った。太輔は、どうして謝られているのかわからなかった。 ・施設にいる高校生は、施設を出るまでにある一定額の貯金をするようにと言われている。だから、高校生の子たちはほとんどみんなアルバイトをしている。 「高校生になると、塾のお金、出ないんやな。そんなん知らんかった」 ねー、という麻利の明るい声が、淳也のつぶやきを打ち消した。 たまに、自分たちが生きていくためには、自分の力ではどうしようもないところからの支えが必要なのだと実感するときがある。そしてそれは、家で家族と暮らしているクラスメイトも感じていることなのかどうか、よくわからなくなる。 ・「伯母さん」 大輔は足の指をぎゅっと丸める。 「伯母さんは、お母さんの代わりにはなれないよ」キルトを掲げている伯母さんの腕が少し下がる。 「それとおんなじで、おれは、伯父さんの代わりにはなれない」ずっと、不思議に思っていた。 伯母さんは突然、運動会に来た。別々に暮らし始めてもう三年も経つのに、いきなり会いに来た。なぜいま会いに来たのか、なぜいま手紙をくれるようになったのか、太輔にはずっとわからなかった。 伯父さんがいなくなった。だから伯母さんはその代わりを探した。 「なに言ってるの、太輔」 佐緒里がもうすぐいなくなってしまう。だから太輔はその代わりを探した。 「ねえ、こっちを見て」 伯母さんも、おれとおんなじだった。【ずっと一緒にいてくれる】人の代わりを、探さなければいけなくなった。 ・とんでもなく広い宇宙に放り出された気がした。自分は一体、これから、誰と生きていくのだろうと思った。脱げそうになるスニーカーが地面と擦れて音を立てる。心のどこかで、また、戻れるかもしれないと思っていた。お母さんが、お父さんが、ずっと一緒にいてくれる人がいたあの世界に、もしかしたらもう一度、戻れるのかもしれないと思っていた。 もう戻れない。 戻れる、戻れないの話ではない。そんな世界なんて、もうどこにも存在しない。ずっと一緒にいてくれる人なんて、いない。 どこにもいないんだ。 ・伯母さんの家から飛び出したとき、自分は、果てしなく広い宇宙にたったひとりきりで放り出されたような気がした。ここに帰ってくれば、きっと、その宇宙に誰かが入ってきてくれると思っていた。みんなに会えば、何もない宇宙がにぎやかになってくれると肩じていた。 麻利がびしょ濡れになって泣いている。淳也が、今までで一番悲しそうな顔をしている。美保子が泥に汚れたまま、ベッドの上で小さくなっている。 勘違いをしていた。みんな、それぞれの宇宙の中にひとりっきりなんだ。 ・離れたくない。そう思った。 入り口も出口もよくわからないような衝動のど真ん中に、突然、降り立ってしまうことがある。 佐緒里がいなくなったそのあとも、途方もなくひろがる人生の余白。その予感がほのかに薫った気がした。佐緒里はここからいなくなる。それでも自分の生活はこの場所で続いていく。太輔は、だらんとした凧を見つめた。 離れたくないのだ。この人と。 ・「次、うまくいかなかったら、ミホ、もう、お母さんのこと好きじゃなくなるかもしれない。そしたら、ミホにとってのおうちは本当になくなる。そうなったら、もう全部終わり」美保子はぎゅっと膝をたたみこむ。 「今まではずっと、そう思ってた」小さな声が、膝の間に落ちていった。 「でも、みんなでランタン作ってるうちに、そうじゃないかもって」空の真ん中でランタンは揺れる。 「新しいおうちでうまくいかなくたって、お母さんのこともう嫌いになっちゃったって、そのあと、また、ここが新しいおうちですって言えるような人に会えるかもしれない。毎日、夜中まで一緒にランタン作れるような、みんなみたいな人に」 ・麻利は、膝と膝の間に顔をうずめている。 「麻利がクッとられて裸足で帰ってきたとき、もうあの学校から逃げようって思った。いつまでもがまんして、いつまでも同じところにおる必要なんてないって、あのときやっと気づいた」 佐緒里が麻利にポケットティッシュを渡している。ティッシュの白さが夕闇の中で鈍く光る。 「ぼくな、絶対、アリサ作戦を成功させたかった」 淳也の顔はすがすがしい。 「それでも変わらん人がおるってことを、麻利に知ってもらいたかった」施設に美保子の担任の先生が来たとき、太輔は、あんなにも堂々と大人に向かっていく淳也を初めて見た。 「でも、自分たちでこんなにもすごいことができるって、自分たちだけは変われるんやって、そうも思いたかったんや」 話し続ける淳也は、どこからどう見ても笑顔だ。 太輔はそれがとてもかなしかった。 ・淳也の顔はすがすがしい。 「それでも変わらん人がおるってことを、麻利に知ってもらいたかった」施設に美保子の担任の先生が来たとき、太輔は、あんなにも堂々と大人に向かっていく淳也を初めて見た。 「でも、自分たちでこんなにもすごいことができるって、自分たちだけは変われるんやって、そうも思いたかったんや」 話し続ける淳也は、どこからどう見ても笑顔だ。 太輔はそれがとてもかなしかった。 ・「太輔くん」 佐緒里がこちらを見る。 「これから中学生になって、高校生になって、大人になって、もっとたくさんの人、たくさんのことに出会うよ。いままで出会った人以上の人に、いっぱい出会うの」 お母さん。お父さん。伯母さん。伯父さん。みこちゃん。淳也。麻利。美保子。佐満里。いままで出会った人。これまで生きてきた世界にいた人。 「その中でね、私たちみたいな人が、どこかで絶対に待ってる。これからどんな道を選ぶことになっても、その可能性は、ずっと変わらないの。どんな道を選んでも、それが逃げ道だって言われるような道でも、その先に延びる道の太さはこれまでと同じなの。同じだけの希望があるの。 どんどん道が細くなっていったりなんか、絶対にしない」 ・「また、こんなふうに、私のために町じゅうにチラシを貼ってくれるような人に、これから出会えるのかな」 佐緒里はそのチラシを見たまま、わあっと泣きだした。 「出会えるよね、絶対」 握りしめられたチラシが、くしゃ、と丸まる。 「希望は減らないよね」 嗚咽の中で、佐緒里は言う。 「そう思ってないと、負けそう」
  • 2025年12月17日
    遠い山なみの光〔新版〕
    遠い山なみの光〔新版〕
    長女・景子を自殺で亡くしたイギリス在住の日本人女性・悦子が、次女・ニキの訪問をきっかけに、戦後長崎での若き日の記憶(友人・佐知子とその娘・万里子との交流、元夫・次郎と元夫の父・緒方とのやり取り)を回想する物語 解説が充実していて、そこも面白かった。 三宅さんの解説の"イシグロが小説でずっと描き続けてきたのは、「人は後悔を秘密にして生きる」という主題"という解説が分かりやすかった。 確かに自分も過去について色々な後悔があるけど、周りに本音は言わず、あの時はしょうがなかったんだと心の中で言い訳してみたり、逆に無理に前向きに考えようとしたり...そんな自分が嫌になることもあったけど、人間って普遍的にそういうものなのかと思ったら気が楽になった。 悦子とニキ、悦子と佐知子の絶妙に噛み合ってないやり取りが、最近の私と母とやり取りに似ていて苦笑してしまった。話を聞いているようで聞いていない。否定はしないけど、納得していない。笑 ・「でも、わたしはよかったと思ってるのよ。わたしはほんとに・・・・・・」「万里子はアメリカへ行っても大丈夫なのに、どうしてそれを言じてくれないの。子供を育てるには向こうのほうがいいわ。向こうのほうがずっといろいろなチャンスもあるわ。 女にとっては、アメリカの生活のほうがずっといいのよ」「わたしはほんとに、あなたのこと喜んでいるのよ。わたしのほうだって、今の暮らしは申し分ないわ。二郎の仕事も順調だし、こんどはちょうど欲しいと思ったときに子供が生まれることになったし…・・」 「万里子は勤めることだってできるわ。映画女優にだってなれるかもしれないわ。アメリカっていうのはそういうとこなのよ、何だってできる国なの。ーー」 ・ニキは肩をすくめた。わたしはしばらく彼女を見ていたが、また口をひらいた。「でもね、ニキ、わたしには初めからわかっていたのよ。初めから、こっちへ来ても景子は幸せにはなれないと思っていたの。それでも、わたしは連れてくる決心をしたのよ」娘はちょっと考えている様子だった。「バカなこと言わないでよ」ニキはわたしのほうを向いた。「そこまでわかったはず、ないじゃない。しかも、お母さまは景子のためにできるだけのことをしたわ。お母さまを責められる人なんかいないわよ」わたしは黙っていた。化粧をしていないと、ニキの顔はひどく幼かった。 「とにかく、時には賭けなくちゃならない場合があるわ。お母さまのしたことは正しかったのよ。ただ漫然と生きているわけにはいかないもの」わたしは手にしていたカップを置くと、ニキの背後の庭にじっと見入った。雨の気配はなく、空はこの数日よりも明るい感じだった。 「お母さまがそのころの生活で満足して、そのままじっとしていたとしたら、バカよ。すくなくとも、努力はしたじゃないの」 ・「まだ、結婚する予定はないんでしょうね」「結婚なんかして、何になるの」「ただ訊いてみただけよ」 「どうして結婚しなきゃならないの?どういう意味があるの?」「ただロンドンで1暮らしていくだけ?」 「そうね、なぜ結婚しなくちゃならないの。バカげてるわよ、お母さま」ニキはカレンダーを丸めてスーツケースにしまった。「女はもっと目をさまさなきゃだめよ。みんな、人生はただ結婚してうじゃうじゃ子供を産むものだと思ってるけど」 わたしは彼女を見ていたが、また口をひらいた。「でも、結局、ほかにたいしたことがあるわけじゃないでしょ」 「まあ、お母さま。やれることなら、いくらでもあるわよ。亭主とうるさいチビをうじゃうじゃ抱えてどっかへ押しこめられるのなんか、まっぴらだわ。でも、どうして急にそんな話を持ち出したの?」スーツケースの蓋が、どうしても閉まらない。ニキはいらいらしながらそれを押さえていた。 「ただ、これからどうするつもりかと思っただけよ」わたしは笑った。「怒ることはないじゃない。もちろん、あなたはあなたの考えるように生きればいいわ」娘はもう一度蓋を開けて、中をすこし整理した。 「ねえ、ニキ、怒ることはないでしょう」 こんどは何とか蓋も閉まった。「なんで、こんなにたくさん持ってきちゃったんだろう」ニキは一人でつぶやいた。 ◾️解説 ・カズオ・イシグロの世界の本質は、第五作『わたしたちが孤児だったころ』(二〇〇〇)に到ってようやくはっきりしてきたように見える。一言でいえば、一見リアリズムの小説と思える第二作『浮世の画家』や、その前後のいくつかの短備もふくめ、けっきょく根底にあるのは世界を不条理と見る見方だということである。つまり、哲学的な意味での世界における自分の位置が見えない状況、言い換えれば自分と世の中の関係が分からない、したがって、たとえば過去についても未来についてもどう考えればいいか分からないといったことであり、理想などとは無縁のまま薄間のなかで手探りでうごいている、そんな人間の状況を描いているのである。それなら、カフカ的という形容はだれでも思いつくだろう。だが、イシグロの世界は単にカフカ的なだけではない。 彼は、価値のパラダイムが変わったとき戦争に負けたときなどが典型的な例であるーに訪れる過渡期の混乱のなかでも、不条理という見方だけで割り切らず、たとえかすかなものでも希望を棄てない生き方を描くことが多い。その人生をつつんでいる光は、強く明るい希望の光でも、逆に真っ暗な絶望の光でもなく、両者の中間の「薄明」とでもいうべきものである。イシグロの世界はこういう、どちらかというと暗さの勝っている「薄明の世界」であり、この感覚が現代人の好みというか実感にはよく合うのだと思う。 ・この三作の共通のテーマは、価値の転換期に遭遇した人物が、心の中で自分の過去をどう清算すればよいかに悩むというものだったのである。さいしょの二作はどちらも舞台は日本だが、『遠い山なみの光』については後でまたふれるとして『浮世の画家』のテーマはその典型であり、第二次大戦中は軍に協力して大家の地位にあったのに敗戦とともに没落した老画家の苦悩を描いている。次の『日の名残り』も、舞台こそこんどは英国でも、戦時中に誠意と友情からナチに協力したのが裏目に出て戦後には売国奴と罵られ、失意のうちに死んでいく貴族に仕えた、老執事の物語である。彼は老年のいま、徹底的にわが身を殺し、恋愛もあきらめて主人の大義に殉じた自分の人生の意味について思い惑う。つまりこれも価値の転換期の身の処し方がテーマなのだ。イシグロはケント大学を出たあとで一時働いた国外からの難民の収容施設で、そういう悩みをかかえた大勢の人々に出会い、この問題について深刻に思いをひそめた経験を活かしたと言っている。 『遠い山なみの光』のばあいは、語り手でヒロインでもある悦子の生涯は、もっと大きな時代環境の変化を背景に、長女景子の自殺という犠牲も払ったのち、英国人の夫との娘ニキによってほぼ完成する女性の自立というテーマが、全体をつらぬく一本の強い線となって作品をまとめているが、緒方さんと佐知子母娘という価値観の変化による典型的な犠牲者のテーマもふくんでいて、その点ではつぎの二作のテーマにもつながっている。 ・弁証法という哲学用語の語源は対話術ということだ。Aなる考えとBなる考えがぶつかって、その違いを検証する対話の内からどちらをも超えたCという考えが生まれる。すなわち思想の生成の過程である。 しかし、われわれの日常的な会話の大半はそれほど生成的ではない。双方の思いの違いが明らかになるばかりで、いかなるCにも到着できないのが普通の会話というものだ。それがまた哲学と文学の違いでもある。両者がボールを投げるばかりで相手の球を受け取らないのでは、会話はキャッチボールにならない。人間は互いに了解可能だという前提から出発するのが哲学であり、人間はやはりわかりあえないという結論に向かうのが文学である。 ・作家には、作中で自分を消すことができる者とそれができない者がある。三島由紀夫は登場人物を人形のように扱う。全員が彼の手中にあることをしつこく強調する。会話の途中にわりこんでコメントを加えたいという欲求を抑えることができない。司馬遼太郎はコメントどころか、登場人物たちの会話を遮って延々と大演説を振るう。長大なエッセーの中で小説はほとんど窒息している。J・G・バラードはエゴセントリックで脇人物にはそれ以上の待遇を与えないし、セイディー・スミスは全体プランに合わせて工学的に細部を作ってゆく。会話はパーツの一つであり、それを加工する手の動きが読者にも見える(ぼく自身もこれに近い)。 カズオ・イシグロは見事に自分を消している。映画でいえば、静かなカメラワークを指示する監督の姿勢に近い。この小説を読みながら小津安二郎の映画を想起するのはさほどむずかしいことではない。特に、旧弊な緒方とそれを疎ましく思っている息子二郎の関係を第三者である悦子の視点から見る描写など、まさに悦子は低い位置に固定されたカメラである。そして、作者のイシグロは更にその悦子の背後にひっそりと隠れている。この自信は無視できない。 ・カズオ・イシグロは文学が普遍的な人間の心の動きを扱うものであることをじてこれを書いた。作品の出来がそれを証明した。Sachikoの心はイギリス女やヴェトナム女と変わらない。それが文学の、今の時代の世界文学の意味である。佐知子と悦子は世界中にいる。 ・遠い記憶の物語である。 罪悪感と後悔に満ちた風景が、暗く苦しいものだとは限らない。むしろ、罪悪感と後悔に満ちているからこそ、記憶のなかの港の上の山なみは、美しく幸福なものだったのかもしれない。 カズオ・イシグロが故郷を描くとき、そこにあるのはいつも、後悔と喪失の記憶である。 美しい故郷とは、それが美しければ美しいほど、美しさを見出したいくらい後悔した記憶を抱えている。そういうことについて、書いた小説である。 ・イシグロが小説でずっと描き続けてきたのは、「人は後悔を秘密にして生きる」という主題である。 ・もう二度と戻れない、取り返しのつかないことは、この世にたくさんある。どうしたって指の隙間をすり抜け、こぼれ落ちてしまうものは存在する。 悦子にとって、景子との関係も、原爆で失ったものも、緒方との思い出も、二郎やイギリス人の夫との結婚生活も、取り返しのつくものでは決してない。 誰の人生においても、取り返しのつかないことをしてしまったのだと、理解し後悔し失に叩く瞬間は存在する。 自分は間違ったのだ、その結果、自分は大切なものを決定的に失ってしまったのだ、と私たちは時にそこでしゃがみ込んでしまう。 しかしー後悔と喪失は決して時を止めてくれない。川岸のぬかるみのように、足に絡まった縄のように、何かに足をとられても、それでも歩みを止めず生き続けるしかない。 どんなに罪悪感を持っても、起こったことは決して止められない。「何事もなかったみたいに」、人は後悔を隠して生きるほかないのである。そのことをイシグロは何度も小説に刻む。だから私は彼の小説を頼している。 悦子に対して娘を殺した母だとか、緒方に対して時代遅れの男性だとか、糾弾することは簡単だ。しかし彼らは彼らで後悔を隠して生きている。そこに痛みがないわけではないことを、イシグロはたしかに描きだす。 後悔を秘密にして生きる悦子が思い出す、港の上の山の風景はーその痛みが強ければ強いほど、おそらく美しい。「あの時は景子も幸せだったのよ」と嘘を述べつつ微笑んでニキを送り出す悦子の姿は、決して特別ではない私たちの普遍的な輪郭を浮かび上がらせている。
  • 2025年12月16日
    光の帝国 常野物語
    特殊な能力を持つ「常野一族」の人々を描いた、十編の物語からなる連作短編集。 「常野」とは、東北地方にあるとされる架空の地域を指し、権力を持たず、目立たず、常に野にある存在であれ、という意味が込められている。 彼らは穏やかで知的な性質を持ち、普通の人々の中で静かに暮らしている。 全て違う物語だが、少しずつ繋がっていて面白い。 「光の帝国」からの「国道を降りて...」の終わり方は暖かい気持ちになった。 「大きな引き出し」が一番好きかなぁ。 親の子への想いが伝わる系には弱い。 ・じわじわと熱いものが込み上げてきた。父が丹念に切抜きをしている姿が目に見えるようだった。一番新しいスクラップブックを手に取る。 彼の最新作、カンヌで賞を取った作品も、父はちゃんと初日に見ていた。 まだ新しい半券の脇に目を走らせる。 言ウコトナシ。 父の評はそれだけだった。それが、父の最大の褒め言葉であったのを彼は唐突に思い出した。子供の頃から、そうだった。 ・ここまで一息に書いてきて、フト外を見ると、白々と夜が明けて障子の向こうが青白く膨らんで来る。その光を見ていると、自分が大きな夢の中に生きているような、誰かの夢の中に居るような静かな気分になって来る。人間の一生と言うのは不思議な物だ。小生にとっては、「常野」以前と「常野」以後で全く別の人生を生きているような気がする。 ・あのさ、僕の導するチェリストが言ってたんだけどね。音楽にすれば全てが美しいって。 憎しみも燃妬も軽度も、どんなに醜いおぞましい感情でも、それを音楽で表現すればそれは芸術だからって。だから音楽はどんな時でも味方なんだって。武器なんだって。心変わりしない。浮気もしない。いなくなったり死んだりしない。そのへんの男よりかよっぽど頼りになる。君は世界一の味方を手放そうっての?君の頭の中にあるのは、それを手放すに値するだけのものなの? ・恩田さんは常に書く。世界は美しくて楽しい幸福なところなのだけれど、同時に、ゾッとするほど醜いものであり、血が凍りそうなほど残酷で恐ろしいところでもあるよね、と。どっちも、であって、どっちか、は無理。白黒きっちりそれぞれの領土にわけて、別々に処理することなんてできるもんじゃない。いいもんがほしければ、わるいもんも連れなくついてきてしまう。感しいことだけ手にいれて、悲しいことは避けて通るなんてワガママはとおらないよ…と。 ・不可知は不可知のままに、不可分は不可分のままに、不条理は不条理のままに、混沌は混沌のままに、そうして、すべてを優しさと愛しさで包んで、お書きになるんである。小説の中だからといって、ものごとを、作者に都合よく並べ替えたりしない。 いいもんはいいもんなんだけど、弱いとこもあるし、ダメなとこももってる。わるもんはわるもんなんだけど、かわいいとこもあるし、無理もないところもある。善悪に境界線はない。それはグラデーションする。
  • 2025年12月15日
    夜のピクニック
    高校の伝統行事「歩行祭」(24時間で80kmを歩く)を舞台に、主人公である甲田貴子が、クラスメイトで異母兄弟でもある西脇融に声をかけるという「小さな賭け」を胸に挑む物語 とても爽やかな物語だった。 もっと学生時代・青春を大切にしておきたかったな〜と思いつつ、この感情は自分が大人になったから感じるのだろうな。 その時々のかけがえのなさは後になってから気付くことの方が多い。 ありきたりだけど今を大切にしたいと思わせてくれる小説だった。 ・みんなで、夜歩く。たったそれだけのことなのにね。どうして、それだけのことが、こんなに特別なんだろうね ・おまえが早いところ立派な大人になって、一日も早くお袋さんに楽させたい、一人立ちしたいっていうのはよーく分かるよ。あえて雑音をシャットアウトして、さっさと階段を上りきりたい気持ちは痛いほど分かるけどさ。もちろん、おまえのそういうところ、俺は尊敬してる。だけどさ、雑音だって、おまえを作ってるんだよ。雑音はうるさいけど、やっぱ聞いておかなきゃなんない時だってあるんだよ。おまえにはノイズにしか聞こえないだろうけど、このノイズが聞こえるのって、今だけだから、あとからテープを巻き戻して聞こうと思った時にはもう聞こえない。 おまえ、いつか絶対、あの時聞いておけばよかったって後悔する日が来ると思う ・記憶の中で、あたしは、西脇融は、どんな位置に収まっているのだろうか。あたしは後悔しているのか、懐かしく思い出すのか、若かったなと苦笑いするのか。早く振り返られればいい。早く定位置に収まってくれればいい。だけど、今あたしは、まだ自分の位置も、自分がどんなピースなのかも分からないのだーー ・融は幸せだ。貴子は、二人の後ろを歩きながらそう心の中で呟いた。 母親や、友人や、女の子たちから無償の愛(内堀亮子はどうなのか分からないが)を与えられているし、それを当たり前だと思っている。なのに、恐らく、彼自身だけは自分が幸せだとは思っていないのだ。まだ自分は何も手に入れていないと思っている。 ・「でもさ、もう一生のうちで、二度とこの場所に座って、このアングルからこの景色を眺めると となんてないんだぜ」 忍は例によって淡々と言った。 「んだな。足挫いてここに座ってることもないだろうし」 そう考えると、不思議な心地になる。昨日から歩いてきた道の大部分も、これから二度と歩くことのない道、歩くことのないところなのだ。そんなふうにして、これからどれだけ「一生に一度」を繰り返していくのだろう。いったいどれだけ、二度と会うことのない人に会うのだろう。 なんだか空恐ろしい感じがした。 ・よく持ちこたえたものだ、と融は自分の足ながら感嘆した。とてもじゃないけど、自由歩行を終えられると思わなかったのに、ここまで辿り着いた。 感謝感謝、と誰にでもなく彼は心の中で呟いた。 俺は、世界中に感謝する。 ・歩行祭が終わる。 マラソンの授業も、お揃いのハチマキも、マメだらけの足も、海の日没も、缶コーヒーでの乾杯も、草もちも、梨香のお芝居も、子形の片思いも、誰かの従姉妹も、別れちゃった美和子も、忍の誤解も、融の視線も、何もかもみんな過去のこと。 何かが終わる。みんな終わる。 頭の中で、ぐるぐるいろんな場面がいっぱい回っているが、混乱して言葉にならない。 だけど、と貴子は呟く。 何かの終わりは、いつだって何かの始まりなのだ。
  • 2025年12月14日
    降りる人
    降りる人
    山奥の工場で期間工として働く男性が主人公で、工場と寮を行き来する生活を描いた物語。 小説 野性時代新人賞受賞を受賞した小説とのことで読んでみた。 主人公が周りに傷つけられ、自分の状況に鬱々としていく姿が切ないが、友人の浜野の存在で救われていく。 空気が読めないけどブレない浜野というキャラクターが終始おもしろい。 最後の終わり方もよかった。こんなどうでもいいことで人は救われるのかもしれない。 自分も思い悩むことはあるけど、もっと気楽に考えてもいいのかもしれない。 『ツァラトゥストラはこう言った』をイキりラップと表現。笑 今度そういう視点で読んでみよう。 ・「やり直したいとは思いませんか?」 「何をやり直すんだよ。やり直したってまた俺になるだけだろ。ゆっくり時間をかけてじわじわ俺になっていくんだよ。そんなのごめんだね」 ・「ねえ、浜野の言う降人は、どうして降りる人なの?選択することを重視するんだったら、選人とかの方がいいんじゃない?」 風が吹いた。何か見えないものがせまってくる感じがした。風が通り過ぎると、浜野は答えた。 「降りるってことを意識の隅に住まわせたいんだ。まあ、実際に何かから降りると、だいたい結果はろくでもないことになる。その責任を引き受けながらも、降りるってことを肯定的選択肢として持ち続けたい」 「なんだか難しいね」 それから、一分くらい海を見て過ごした。やがて、「生きていい」 と浜野は言った。「今のお前には誰も言わないだろうから、俺が言う。お前は生きていい」 波が砕ける音がした。 「僕はどんな風に生きたらいいか分からないよ」 浜野はあくびをしながら、「しれっと生きればいいだろ」 と言った。 ・なぜこんなことが起きたのだろう。おそらく、「サンドラの週末』を観る前にこのDVDを観ていて、入れ替えるときに面倒でこのケースに入れてしまったのだ。 「浜野、間違っているよ」 とつぶやいた。もう一度タイトルを見る。「紗倉まなが好きすぎて紗倉まなが彼女になってた」。そんなこと、あるわけない。思わず、笑みがこぼれた。じわじわと、おかしみは全身に広がっていった。僕は床にごろんと横になった。いつもこうだ。浜野は、僕が切々と積み上げる悩みや考えをあっさりと更地にしてしまう。それが正しいことなのかは分からない。 とにかく、今、悲しみは粉々だった。
  • 2025年12月12日
    パパたちの肖像
    パパたちの肖像
    男性も育児もして当たり前という世の中になったけど、男性側の小説ってあんまり見ないので新鮮だった。 「俺の乳首からおっぱいは出ない」が一番好きだったな。 パパもママも関係なく、子供のことを思って、悩んでいるのだなと思う。 色んな選択肢を取れるようになったからこそ、私も自分の家族にとって何が1番いいのか悩んで考え続けていきたい。 夫にももっとお疲れ様とありがとうを伝えよう。 ・なにより、最近、赤ちゃん、という感じから脱却して、急に人らしい意思を感じさせるようになってきた娘に、パパ、と呼ばれると、おそろしいほどに心臓に負荷がかかる。かわいさが大渋滞で抜け出せない。そうはならないとわかっているけれど、この瞬間がいつまでも続くといいのにと心から思う。親としての不確かさに形をくれるのは、やはり子供なのだ。 親がいて子供が生まれてくるのではなく、子供が生まれることで、人はようやく親になるらしい。俺は、親になるまで少し時間がかかってしまったが。 ・へへへ、と颯真が笑った。目が線のように細くなる。 おれたち夫婦の残りの人生は、仕事と育児で終わるのかもしれない。ストレスにまみれた毎日を何十年も送ることは、想像できないくらいきついのだろう。だがおれたちは、すでにありあまるほどの対価をもらっていた。 ・子どもって、わかってないようで何でもわかってるんです。もしかするとパパが苦手なことも知ってて、でも優しくしようとしてることが伝わってるのかなと思います。美織ちゃんにとって髪を結んでもらうのは、優しさを受け取れる幸せな時間なんだと思いますよ ・朝、保育園に向かう道を、美織と手を繋いで歩く。 俺の太い指を、美織は小さな手で力強く握りしめる。 こんな不器用な指でも、繋いでくれる人がいる。好きだと言ってくれる人がいる。 髪の結び方は、最初よりは少しだけうまくなった気がする。髪を結ぶ前に、一度櫛で旅いてあげるとうまくいきやすいことをやりながら学んだ。 俺の根本は、多分変わらない。変われない。 だけど、かけられる言葉くらいは変えられる。 「美織、ありがとう」 生まれてきてくれて。一緒にいてくれて。 聞かせてあげたい言葉はこっちだ。「ごめん」よりもずっといい。 「どーいたまして」 晴れ渡る空の下、美織が急に返してくれた新しい言葉に、俺は思わず笑った。
  • 2025年12月12日
    きみは赤ちゃん
    きみは赤ちゃん
    妊娠中に図書館で借りて読んだが、 出産後、また読みたくなって購入。 私の中にこんな幸せな感情があったとは。 この本を読むと、思い出して心が温かく、そして涙が出てくるような、なんとも言えない気持ちになります。 ・気がつくとわたしはずうっとそんなひとりごとをしゃべっていて、そして「そうよ~、いるんですよ~」というぷう先生の声をきいていると、ぶわっぶわっと両目から涙がでた。最初に妊娠を確認してもらった産院で、ごま粒みたいな赤ちゃんをみたときにもおなじような気持ちになったこれは、いったいなんといえばいい気持ちなんだろう。胸の底のほうからおしよせてくる、うれしいとも、感動とも、いとしいとも違う、あるいはそれらをぜんぶ足してまだ足りないような、ただ温かくてつよさに満ちた動き、としかいいようのないもの。こみあげたそれがあふれかえって、それがぜんぶ涙となってこぼれてゆくようなこの気持ち。いっぽうで、プローブを動かし、さまざまな角度に切りかえながらモニターを凝視するぷう先生の表情のすべてがものすごく気になるのだけれど、でも、このときわたしは、不安よりも心配よりも、なんだか問答無用の温かい水のなかに浸っているような、全身が妙に安心したような、そんな感覚に一気に包まれたのだった。 ・人は、すべての存在は、いったいどこからやってきて、いったいどこにいくんだろう。なんで、こんなわからないものやことを、わたしたち、やってのけることができているんだろう。そして、生まれてこなければ、悲しいもうれしいもないのだから、だったら生まれてこなければ、なにもかもが元からないのだから、そっちのほうがいいのじゃないかと、わたしは小さな子どものころから、ずうっとそんなふうに思ってきた。人生は悲しくてつらいことのほうが多いのだもの。だったら。生まれてこなければいいのじゃないだろうか。生まれなければ、なにもかもが、そもそも生まれようもないのだもの。そんなふうに子どものころから思ってきた。だけど、わたしはいま自分の都合と自分の決心だけで生んだ息子を抱いてみつめながら、いろいろなことはまだわからないし、これからさきもわからないだろうし、もしかしたらわたしはものすごくまちがったこと、とりかえしのつかないことをしてしまったのかもしれないけれど、でもたったひとつ、本当だといえることがあって、本当の気持ちがひとつあって、それは、わたしはきみに会えて本当にうれしい、ということだった。きみに会うことができて、本当にうれしい。自分が生まれてきたことに意味なんてないし、いらないけれど、でもわたしはきみに会うために生まれてきたんじゃないかと思うくらいに、きみに会えて本当にうれしい。このさき、なにがどうなるかなんて誰にもなんにもわからないけれど、わからないことばっかりだけど、でもたったいま、このいま。 わたしはそんなふうに思って、きみを胸に抱いて、そんなふうに思ってる。 ・目のまえの、まだ記憶も言葉ももたない、目さえみえない生まれたばかりの息子。 誰がしんどいって、この子がいちばんしんどいのだ。 おなかのなかからまったく違う環境に連れてこられて、頼るもの、ほしいものはわたしのおっぱいしかないのだ。 こんなふうに両手にすっぽりとそのからだのぜんぶを抱っこできる時間なんて、この子の一生からみてみればあっというまに違いない。 深呼吸して、顔をみよう。生まれてきた赤ちゃん。手足。 たしかに眠ってなくてほぼ限界だし気絶するほど眠いけど、でもこの時間、この子のこの顔をみつめているのはたったいまここにいるわたしだけで、世界中に、いまここにしかない時間なのだ。 この子はきっと、すぐに大きくなってしまうだろう。こんなふうにわたしに抱かれているのも、あっというまに過去のことになってしまうだろう。誰にも伝えられないけれど、でもわたしはいま、きっと想像もできないほどかけがえのない時間のなかにいて、かけがえのないものをみつめているのだ。そして、夜中を赤ちゃんとふたりきりで過ごしたこの時間のことを、いつか懐かしく思いだす日がくるのだと思う。 そう思うと疲労困憊から自然にたれてきた涙とはちがう、熱い涙が流れて止まらなくなった。がんばれ赤ちゃん。そしてわたし。指さきでまだやわらかい赤ちゃんのおでこを何度もなでて、『七つの子』をうたって寝かしつけると、赤ちゃんはその夜はじめて連続で4時間眠ってくれた。わたしも少しだけ、眠ることができた。 ・なぜ、こんなにかわいいのだろう。 ものすごく小さくて、ふにゃふにゃで、赤くて頼りなくて、皮の刻けかけみたいなのがほっぺたとか手足にまだくっついていて、もちろん笑ったりなんかしないし、声だって泣き声以外は「エ・・・・・・」とか「ホニャ」とかそれくらいだし、ただそこにいて息をして泣いて、おしっことうんちをして、おっぱいを飲むだけ。なのに(だからなのか?)、いままで人間にたいして抱いた感情のなかではダントツでいとしいとしかいいようのない気持ちが、どうしてこのようにとめどもなくわきあがってくるのだろ とにかく、どれだけみつめてもみつめたりず、みればみるほど、胸のあたりがほやーっとして、なんともいえない気持ちになるのである。この感情をひとことでいうなら、単純に「至福」みたいな感じになってしまうのがあれだけれども、でも本当に、そんな感じなのだよね。 ・多くの人がそう感じているように、自分が生まれてきたこととか、世界があることとか、物が存在することとか、そういったことは、ただそれがそうあったってだけのことで、こうだっていえるような意味なんてないよね、とわたしもずうっと思ってきた(この場合の「意味』がなんであるのかは、さてき)。だからこそ、「人生には意味がある」とかいいたいわけだし、あとづけしたいわけなのだし。運命とか必然とか、感じてみたくなるわけだし。 で、これも、もちろんそれらとおなじ、ただのロマンティックでナルシスティックな感傷にすぎないのだけれど、でも、息子に会えたのがなぜかといと、わたし自身が存在していたからであって、わたしが存在していたのは親がいたからであって、その親が・・・・・と、こう、“艶が遡ってゆくときりがないんだけれど、でもとにかく、無意味なりにも生まれてきたわたしがこうして生きていて、そして息子に会えた、と。これはまあ、事実だった。生きることに理由も運命もいらないけれど、でも、思わず、「わたしはこの子に会うために、生まれてきたんじゃなかろうか」とうっかりいってしまいそうになるほど、わたしにとって、息子との出会いは、大きな大きなできごとだった。これまでの経験とか感情とかが、息子をめがけてなだれこんで、そこからなにかがはじまるような。これまでのぜーんぶが、生まれてきた息子にしゅうっと収斂されてゆくような。こんな感覚、どう考えたって恥ずかしいけれど、でもこれが素直な気持ちなのだから、さらにますます、恥ずかしい。 ・四六時中なにかに追われながら、まだ涼しい午前中にはオニを連れて、近所の公園まで歩いていった。ベンチに座って抱っこひもからだして、「ほれ、木の葉っぱがゆれてるよ。風が吹いているからだね」と話しかけると、じいっとみているような、そうでもないような。オニ、かわいいオニ。考えてみれば、おまえとはまだおしゃべりしたことがないんだねえ、なのに、こんなに大好きなのは、なんでかねえ。しゃべれるようになったら、最初になにを話そうかねえ、おかあたんもあべちゃんもおしゃべりだから、家のなかがうるさくってたいへんだよ。早く大きく、ゆっくりなってな。 そんなことを話しかけながら、公園のベンチに座って、いつもつぎの風が吹くのを待った。 ・そしてなんのにおいなのか•••・・オニを抱いて皇を近づけるとたまらなくしあわせな匂いがするのだ。おっぱいのにおいなのか、赤ちゃん独自のにおいなのか・••・・・とにかく、かげばかぐほど、自分の汚さのようなものが浄化されるんじゃないかっていうくらい、それはものすんごいいいにおいで、巣鴨のとげぬき地蔵を囲んでお線香の煙を「ありがたや~ありがたや~」つって、一心不乱に体にこすりつける人たちの気持ちがようやくわかるような気がした。 ・朝。抱っこしたままでわたしの背中のほうにあるカーテンをあけて、空をみせてやオニの顔がぱあっと明るくなって、笑顔になって、目がどこまでも大きくなって、つやつやと濡れて、光っている。じっとみつめると、小さな目に空が映っている。わたしはそれを1秒だって見逃すまいと、まばたきもせずにみつめつづける。放っておくと、わたしの目からは涙がたれてくる。まだ言葉をもたないオニ、しゃべることができないオニは、まるでみたものと感じていることがそのままかたちになったみたいにして、わたしの目のまえに存在している。オニはそのまま、空であり、心地よさであり、空腹であり、ぐずぐずする気持ちであり、そして、よろこびだった。オニは、自分がこんなふうにして空をみていたこと、なにかを感じていたこと、泣いたこと、笑ったこと、おっぱいを飲んでいたこと、わたしに抱かれていたこと、あべちゃんに抱かれていたこと、こんな毎日があったこと、瞬間があったことを、なにひとつ覚えてはいないだろう。なんにも、思いだせないだろう。でも、それでぜんぜんかまわないと思った。なぜならば、この毎日を、時間を、瞬間を、オニが空をみつめてこのような顔をしていたことを、わたしがぜんぶ覚えているからだった。そしておなじように、かって赤んほうだったわたしも、おそらくはこのようにして空をみていたときがあったのだ。空をみていた赤んぼうのわたしの目を、いまのわたしとおなじょうに、みつめていた目があったのだ。そして誰にもみつめられなくとも、すべての赤んほうの目は、このように空を映していたときがあったのだ。オニの目に、空が映っている。 オニもいつか、遠いいつか、このようにして赤んぼうを胸に抱いて、そして、空をみる目をみつめるときが、くるのだろうか。 ・オニはすやすや眠っている。またしばらくしたら「エッエッ」とむずかって起きてくるだろうから、わたしもオニを追いかけてこのすきに眠らなければ。小さく、ドビュッシーのペルガマスク組曲をかける。「月の光』になると、なにもかもがいつせいに匂いたつように甦ってくる。オニとふたりの病室で、オニとふたりの真夜中に、ずうっとこの曲を聴いていたから、メロディが流れてくると、あのときのなにもかもがやってくる。おなかの傷の痛みのせいで、オニになにかあっても飛んでいけないのがこわかったこと。オニが小さくて小さくて、本当に生まれたてだったこと。オニが生まれてきたこと。オニに会えて、本当にうれしかったこと。小さなオニを胸に抱いて、小さく息をしながら眠るオニの顔をみながら、こんなしあわせがあったのだと、ほんとうにしあわせだと、心の底から、思ったこと。 どうか、どうかなにも終わりませんように。 ・ハイハイをして、つたい歩きをして、そして歩こうとしてしりもちをついて楽しそうに笑うオニをみていると、この1年にあったいろいろなことがとめどもなくおしょせる。生まれたばかりで、あんなに小さかったオニは、いまこうやって両手と両足をのばして、世界を少しずつ広げて、そしてからだはもっとしっかりとして、走りまわって、すぐに大きくなってしまうだろう。いろいろなことを忘れながら、新しいなにかに出会いつづけて、そしてすぐに、わたしのそばからいなくなってしまうだろう。 オニがおなかにやってきて、そして生まれてから今日までのこの時間は、誰かが、なにかが、わたしにくれた、本当にかけがえのない宝物だった。おまえはおかあたんの赤ちゃん、おかあたんの赤ちゃん、と呼びかけながら、ぜんぶを抱きしめることができた日々。きみは赤ちゃんだねえといいながら、ころころと笑いあった日々。だいすきなオニ。わたしの赤ちゃんだった日々。両手にすっぽりくるむことができた、きみが、わたしの赤ちゃんだった日々。 オニがこっちをみている。小さな手をふっている。なにーといいながらオニのそばにいく。抱っこしようと手をのばすと、ウン、といいながらゆっくり立って、一生懸命、歩こうとしている。背をむけて、足を動かして、むこうに一歩を踏みだそうとしている。もう赤ちゃんじゃなくなった。もう赤ちゃんじゃなくなった、オニ。どうか ゆっくり、大きくなって。きみに会えて、とてもうれしい。生まれてきてくれて、ありがとう。
  • 2025年12月11日
    小説以外(新潮文庫)
    P17 百組の「ロミオとジュリエット」 P29 入口探し P47 週末の風景 P95 家族の最小単位は何人か? P112 残滓と予感の世代 P118 あるアニバーサリー P126 いつも旅の味方 P131 百戦錬磨のストーリーテラー P141 加速した世界が失ったもの P144 ヒロインの成長描く大長編 P147 外から己見る視点に衝撃 P154 旅する読書 P156 善と悪の昼と夜 P179 読書の時間 P199 ファンタジーの正体 P206 私の青春の一冊・司馬遼太郎『坂の上の雲」 P229 オニオングラタン P233 ティーポット P256 一人で歩ける女たち P266 私たちは怪談を必要としている P287 いつも探した別の国
    小説以外(新潮文庫)
  • 2025年12月11日
    スキンケアの科学 科学的に正しい皮膚の話
    ・スキンケアは「予防」 ・コラーゲン・エラスチン・ヒアルロン酸は年齢とともに徐々に減少 ・女性の場合、皮脂量は50歳から減少 ・外因性老化の中で最大の敵は紫外線 ・保湿成分  グリセリン: 水分子を引き寄せ保持する  ヒアルロン酸: 保湿、抗酸化作用、コラーゲン産生の促進 ・保湿状態を保つ成分  エモリエント(セラミド、脂肪酸、植物油): 保護バリア強化  ※美容液などの前に使用しないよう注意(肌に届くのが難しくなる) ・その他の成分  レチノール: しわやたるみを予防・改善  ビタミンC: しわやシミを予防  ※ビタミンCは食事からも摂取することが好ましい  ナイアシンアミド: しわの改善、肌のキメと色調の改善、バリア機能の改善  トラネキサム酸、アルブチン: 美白  AMP: ターンオーバー早期化、メラニンの排出加速
  • 2025年12月10日
    桐島、部活やめるってよ
    朝井リョウの小説は一度も読んだことがなかったので、今更ながら読んでみた。 チャットモンチー、大塚愛、ラッドウィンプス、EASTBOY...出てくる単語が懐かしくて、なんとも言えない気持ちになった。 この苦しい感情も含めて懐かしい... ・なんで高校のクラスっていこんなにもわかりやすく人間が階層化されるんだろう。男子のトップグループ、女子のトップグループ、あとまあそれ以外。ぱっと見て、一瞬でわかってしまう。だってそういう子達っていなんだか制服の着方から持ち物から字の形やら歩き方やら喋り方やら、全部が違う気がする。何度も触りたいと思ったくしゃくしゃの茶髪は、彼がいる階層以外の男子がやっても、湿気が強いの?って感じになってしまう。 少し短めの学ランも、少し太めのズボンも、細く鋭い眉毛も、少しだけ出した白いシャツも、手首のミサンガも、なんだか全部、彼らの特権のような気がする。 ・僕にはわからないことがたくさんある。 高校って、生徒がランク付けされる。なぜか、それは全員の意見が一致する。英語とか国語ではわけわかんない答えを連発するヤツでも、ランク付けだけは間違わない。大きく分けると目立つ人と目立たない人。運動部と文化部。 上か下か。 目立つ人は目立つ人と仲良くなり、目立たない人は目立たない人と仲良くなる。目立つ人は同じ制服でもかっこよく着られるし、髪の毛だって凝っていいし、染めていいし、大きな声で話していいし笑っていいし行事でも騒いでいい。目立たない人は、全部だめだ。 この判断だけは誰も間違わない。どれだけテストで間違いを連発するような馬鹿でも、この選択は誤らない。 なんでだろうなんでだろう、なんて言いながら、僕は全部自分で決めて、自分で勝手に立場をわきまえている。 僕はそういう人間だ。そういう人間になってしまったんだ。 ・自分達が傷つきそうなことには近づかない。もう一度、自分のこの立ち位置を再確認するようなことはしない。 ひとりじゃない空間を作って、それをキープしたままでないと、教室っていうものは、息苦しくて仕方がない。それをかっこよくこなせるほど十七歳って強くないし、もしそういう人がいたとしても自分はそうじゃないってことだ。 あそこの女子ふたりだって、さほど会話はしてなくてもいつもひとつのMP3プレイヤーをふたりで聴いているし、(別世界にいるような)あの目立つ男子三人だって、他の元気な男子を巻き込んだりして何かと群れている。 あいつだって、ポニーテールを左右に揺らしながら笑って、大きな目を見開いたり細めたりしながら、一番おしゃれできらきらしている女子のグループの中にいる。女の子のほうが早く大人になっていくって、たぶん本当のことなんだろう。 ・僕はに光を浴びて揺れる茶髪や、パオマやベルトについたチェーン、きれいに整えられた眉に落書きだらけのスリッパ、「上」にはあって自分にはない 全てをそこに見ていた。 僕らは気づかない振りをするのが得意だ。 気づくということは、自分の位置を確かめることだからだ。 ・「次、体育か」 武文はばたんとキネマ旬報を閉じ、自分のロッカーまで体操着を取りに行った。次、体育か、なんて改めて思いだしたように言ったけれど、たぶん朝から武文の頭の中は体育でいっぱいだったはずだ。だって僕もそうだ。男子の体育はサッカー。サッカーってなんでこうも、「上」と「下」をきれいに分けてしまうスポーツなんだろう。 ・ほんとなんよ、友達から聞いたもん、メイとサツキはもうこの世にはいないんだって。 あいつの、今よりも三年分幼い声が頭の中でかすかに揺れる。きれいな空を見ると思い出す。あの日がきれいな青空だったかなんて忘れたけど、きっとあいつがこの空みたいに透明で清々しいから思い出すんだ。今まで起きたうれしかったことや楽しかったことを大声で叫んだとして、その全部を吸い込んでくれそうな空。 記の空の分だけ大地がある。世界はこんなに広いのに、僕らはこんなに狭い場所で何に怯えているのだろう。 ・体育でチームメイトに迷惑をかけたとき、自分は世界で一番悪いことをしたと感じる。 体育でチームメイトに落胆されたとき、自分は世界で一番みっともない存在だと感じる。 僕は武文の背中を見ながら思った。大丈夫、サッカー映画を撮りたくなったら、ルールを覚えるところから僕と一緒にやればいいんだから。だから、もうちょっとだけでも、背筋を伸ばして走ろうよ。 世界はこんなに広いんだから。 ・僕らには心から好きなものがある。それを語り合うときには、かっこいい制服の着方だって体育のサッカーだって女子のバカにした笑い声だって全て消えて、世界が色を持つ。 ・梨紗がクラスで目立つのもわかる。梨紗だけじゃない、いつも私と一緒にいる沙奈、かすみ、みんな人を惹きつける外見を持っている。高校生活を送る上で女子にとって必要なものって、まず最低限は外見だ。その点私はラッキーだったな、なんて自分で思う。 細い一重で太り気味で髪の毛脂っぽかったりなんかしたら、それだけで友達できないって、どんだけ中身が面白いヤツでもさ。 ・小さくなっていく梨紗の背中を見ながら思う。高校生って不平等だ。たぶん人間的に梨紗より魅力的な人なんて、クラスにたくさんいる。だけど外見が魅力的じゃないから、みんな梨紗に負けるんだ。 ・くだらないかもしれないけど、女子にとってグループは世界だ。目立つグループに入れば、目立つ男子とも仲良くなれるし、様々な場面でみじめな思いをしなくてすむ。だって、目立たないグループの創作ダンスなんて、見ている方までもみじめな思いになる。 どこのグループに属しているかで、自分の立ち位置が決まるのだ。 だけど、時々、なぜだか無性に、どんな子でもいいからたったひとりだけの親友が欲しいと思うときがある。笑いたくないときは笑わなくてもいいような、思ってもないことを言わなくてもいいような、そんな当たり前のことを普通にできる親友が欲しいと思うときがある。私たちは、そんな気持ちを隠すように髪の毛を染めたり爪を磨いたりスカートを短くして、面白くもないことを大声で笑い飛ばす。 ・夕陽を浴びた爪はぴかぴかと光っている。ちゃんと見てないからわからないけれど、きっと今日もピンク色に塗られているのだろう。胴体をほっこりと覆っているベージュのカーディガンは今日もサイズが大きくて、スカートをほとんど隠してしまっている。 あかぶかの袖からほんの少し出た指と、ちいさな背中に背負ったEASTBOYの学生カパンと、赤と白のチェックの靴紐と、きれいにアイラインで囲まれた二重まぶたと高い声と甘えた喋り方と、とにかくすべてが計算されている。私はかわいくておしゃれで目立つ女の子なんだよ、と、全身が主張している。 俺の彼女はかわいい。確かにかわいい。 だけどたぶん、それだけだ。 ・きれいだ、山なりの眉毛もサラサラの髪の毛もしっかりしたアイラインも、ピンクの 頰も爪もマフラーも。 だけど俺は、本当にたまに、だけど強烈に、沙奈をかわいそうだと思う。 宏間の後ろ乗るのスキー、と、沙奈は勝手に俺の自転車の荷台にまたがっている。短いスカートのすそからのぞく細くて白い脚をぱたぱたさせながら、パンツ見えたらどうしょー、なんて笑っている。 沙奈はきっと、これからずっとああいう価値観で生きていくんだろう。カバンの奥の方に手を突っ込み、自転車の鍵を取り出す。「わーいニケツだニケツだー」と、喜ぶ沙奈。ダサいかダサくないかでとりあえず人をふるいにかけて、ランク付けして、目立ったモン勝ちで、そういうふうにしか考えられないんだろう。 だけどお前だってそうだろうが、と、夕陽に長く伸びる自分の影を見て思った。 ・ミスすんなよー!と友弘が尖った声を出す。今のは俺のミスってことで片づけられるんだな、と頭の中で確認して、シューズのつま先をトントンとした。ああやってミスしても、ミスすんなよーとか言ってくれる感じの奴もいないって、やっぱちょっと、さみしいよな。映画部の奴を見て思う。自分がミスしたのにそれすらもなんとなくもみ消されて、自分がいないように扱われて、女子なんかにそれを笑われて、なんかやっぱ、むなしいよな。 しっとりと汗で湿った肌の上を、風が足早に走り去っていく。 だけど、そんな気分も全部一瞬でなくなってしまうくらいのものが、あいつらにはあるんだ。 どっちがむなしいんだろうな、俺と。 ・あのぼさぼさのまゆ毛の下にあった瞳は、いつまでそんなカバンで登校してきてるんだよ、って、もういいんだよ、って、言ってくれていた。 キャプテンは今まで、練習の日程も試合の日程も、全部連絡してくれていた。だけど明日の練習試合なんて、俺は知らない。 もういいんだよ、気にするな、って、キャプテンは俺の肩に手を置いた。 夕陽よりも何よりもやさしい温度のてのひらを、俺の肩の上に、置いた。 はじめからサボるつもりなら、こんな重くて大きなカバンで学校に来ない。馬鹿みたいに道具だって毎日ちゃんと持ってきて、だけどサボることで誤魔化していた。 一番怖かった。 本気でやって、何もできない自分を知ることが。 ほんとは真っ白なキャンバスだなんて言われることも、桐島も、ブラスバンド部の練習の話も、武文という男子の呼びかけも、前田の「わかってるよ」と答えたときの表情も、全部、立ち向かいも逃げもできない自分を思い知らされるようで、イライライライライライラして、 背中でひかりを浴びる。 ・リュックを背負い直して、駅までの道を頭の中で確認しながら、私は、いまさっき自分で言った言葉、自分が思ったことの輪郭を、もう一度なぞる。 自分が好きだから。 私は「ジョゼと虎と魚たち」が好きで、同じクラスにもそれを好きな子がいる。ただそれだけのことだ。それなら、話しかけたほうが絶対に楽しい。絶対に楽しくなる。そんな単純なことなのに、どうしてこれまで踏み出せなかったんだろう。 靴経を固く結び直す。明日の放課後にしよう、話しかけるの。足もとがきゅっと固められて、頭の中によぎった小さな決意もいっそうその形をはっきりさせた気がした。
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