綾鷹
@ayataka
- 2025年11月20日
日の名残りカズオ・イシグロ,土屋政雄第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての時代に、英国有力貴族の屋敷で執事を務める男を主人公に据えたーーというか彼の視点から語られるーー年代記。 信頼していたダーリントン卿に仕えていた時の話を「昔はこんなことがあったな」と主人公が思い出しながら語る物語であり、現在の主人との関係性との対比から全体的に哀愁が感じられる。 誰しもいいとき、そうでもないときがあるが、自分で自分を納得させて進んでいくしかないのだな。 主人公の仕事への姿勢に共感する点が多かったが、村上春樹の解説を読んで納得。 この物語とは関係ないが、カズオ・イシグロがミュージシャンを目指していたことに驚き。 ・その偉大さを真似しようとした人々が、うわべを本質と取り違えてしまったのです。私どもの世代は「飾り」を追い求めすぎました。本来なら、執事としての基本の習得にすべての時間とエネルギーを振り向けるべきなのに、やれ誰の矯正だ、弁舌だ、百科事典だ、雑学事典の勉強だと、どれほど時間を無駄遣いしてきたことでしょうか。 ・品格の有無を決定するものは、みずからの職業的あり方を貫き、それに堪える能力だと言えるのではありますまいか。並の執事は、ほんの少し挑発されただけで職業的あり方を投げ捨て、個人的なあり方に逃げ込みます。そのような人にとって、執事であることはパントマイムを演じているのと変わりません。ちょっと動揺する。ちょっとつまずく。すると、たちまちうわべがはがれ落ち、中の演技者がむき出しになるのです。偉大な執事が偉大であるゆえんは、みずからの職業的あり方に常住し、最後の最後までそこに踏みとどまれることでしょう。外部の出来事にはーーそれがどれほど意外でも、恐ろしくても、腹立たしくてもーー動じません。偉大な執事は、紳士がスーツを着るように執事職を身にまといます。公衆の面前でそれを脱ぎ捨てるような真似は、たとえごろつき相手でも、どんな苦境に陥ったときでも、絶対にいたしません。それを脱ぐのは、みずから脱ごうと思ったとき以外にはなく、それは自分が完全に一人だけのときにかぎられます。まさに「品格」の問題なのです。 ・あまりにも理想主義的にすぎ、理論的にすぎて、大方の理解は得られないのではありますまいか。 たしかに、ある程度の真実は含まれておりましょう。イギリスのような国に住む私どもには、世界の大問題についても自分なりに考え、自分なりの意見をもつことが、多少は期待されているのかもしれません。しかし、現実の生活に追われている一般庶民が、あらゆる物事について「強い意見」をもつことなど、はたして可能でしょうか。ここの村人たちはみなもっている、というミスター・スミスの主張は、おそらく空想にすぎぬでしょう。一般庶民にそのようなことを期待するのは、とても無理というものです。さらには、望ましいことでもないようにー私にはし思われます。 一般人が知り、理解できることには、たしかに限界があるのです。そのことを無視して、誰もが国家の大問題について「強い意見」をもち、発言すべきだと主張するのは、とても賢明とは思われません。 ・しかし、あの朝、ビリヤード室でが私に語ってくださったことの中には、重要な真実が合まれていたことも否定できますまい。ミスター・スペンサーが私にお尋ねになったたぐいの質問に権威をもって答えることなど、どのような執事にも期待するほうが無理と申すものでしょう。それができなければ「品格」を保てない、などというミスター・スミスの主張は、ナンセンスの最たるものと言ってよかろうかと存じます。執事の任務は、ご主人様によいサービスを提供することであって、国家の大問題に首を突っ込むことではありません。この基本を忘れてはなりますまい。国家の大問題は、常に私どもの理解を超えたところにあります。大問題を理解できない私どもが、それでもこの世に自分の足跡を残そうとしたらどうすればよいか・・・・?自分の領分に属する事柄に全力を集中することです。文明の将来をその双肩に担っておられる偉大な紳士淑女に、全力でご奉仕することこそ、その答えかと存じます。 ・この結果は少しも意外なことではありません。結局はそうなるのです。と申しますのは、雇主に対して批判的な態度をとりながら、同時によいサービスを提供するということは、現実にはとても可能とは思われないからです。もちろん、レベルの高いお屋敷になりますと、つまらないことに気をとられていたら、執事のもとに出される無数の要求をさばききれないというのも事実でございまして、それも理由の一つと考えられましょうが、それだけではありません。より基本的には、「思誠心」の問題に行き着きます。雇主の行動について「強い意見」をもとうと絶えず鵜の目鷹の目をつづけている執事は、この職業に従事するすべての人々に不可々の特質である「忠誠心」を、必然的に久くことになるのです。 ・ダーリントン卿にお仕えした長い年月の間、事実を見極められるのも、最善と思われる進路を判断されるのも、常に卿であり、卿お一人でした。私は執事として脇にひかえ、常にみずからの職業的領分にとどまっておりました。最善を尽くして任務を遂行したことは、誰はばかることなく申し上げることができます。そして、私が提供申し上げたサービスが一流だったと認めてくださる方々も、決して少なくはありません。卿の一生とそのお仕事が、今日、壮大な愚行としかみなされなくなったとしても、それを私の落ち度と呼ぶことは誰にもできますまい。私がみずからの仕事に後悔や恥辱を感じたりしたら、それはまったく非論理的なことのように思われます。 ・私にはダーリントン卿がすべてでございました。もてる力をふりしぼって卿にお仕えして、そして、いまは・・・・私には、ふりしぼろうにも、もう何も残っておりません ・ダーリントン卿は悪い方ではありませんでした。さよう、悪い方ではありませんでした。それに、お亡くなりになる間際には、ご自分が過ちをおかしたと、少なくともそう言うことがおできになりました。卿は勇気のある方でした。人生で一つの道を選ばれました。それは過てる道でございましたが、しかし、卿はそれをご自分の意思でお選びになったのです。少なくとも、選ぶことをなさいました。しかし、私は・・・・私はそれだけのこともしておりません。私は選ばずに、信じたのです。 私は卿の賢明な判断を言じました。卿にお仕えした何十年という間、私は自分が価値あることをしていると信じていただけなのです。自分の意思で過ちをおかしたとさえ言えません。そんな私のどこに品格などがございましょうか? ・人生が思いどおりにいかなかったからと言って、後ろばかり向き、自分を責めてみても、それは詮無いことです。私どものような卑小な人間にとりまして、最終的には運命をご主人様のーーこの世界の中心におられる偉大な紳士淑女のーー手に委ねる以外、あまり選択の余地があるとは思われません。それが冷厳なる現実というものではありますまいか。あのときああすれば人生の方向が変わっていたかもしれないーーそう思うことはありましょう。しかし、それをいつまで思い悩んでいても意味のないことです。私どものような人間は、何か真に価値あるもののために微力を尽くそうと願い、それを試みるだけで十分であるような気がいたします。そのような試みに人生の多くを犠牲にする覚悟があり、その覚悟を実践したとすれば、結果はどうであれ、そのこと自体がみずからに誇りと満足を覚えてよい十分な理由となりましょう。 ◾️村上春樹 解説 ・ずいぶんたくさん音楽の話をしたことを記憶している。イングロも僕に劣らず音楽が大好きだった。彼は小説家になる前はミュージシャンになることを志していたということだし、僕自身も小説家になる前は、音楽に関わる仕事をして生計を立てていた。 ・この本のページを繰りながら、読者は当時の英国貴族の暮らしぶりの中に、また彼に仕える忠実な執事の生き方や心理の中に、そしてそこに繰り広げられるドラマの中にとても自然に、抵抗なく引き込まれていく。しかし物語全体を読み終えたときに、僕がひとつ強く実感したのは、「これはまるで日本人の物語であるみたいに書かれているな」ということだった。ひょっとしてこの物語をそのまま日本に置き換えても、それほど不自然ではないんじゃないかと思うくらいに。 たしかにここに描かれている社会環境はすべて英国のそれであり、取り扱われているのはまさに英国的なものごとであり事象だ。しかしそこに登場する人々の感覚や感情は、あるいはその感覚や感情の描きかは、僕に驚くほどありありと、日本的な感覚や感情を想起させることになる。誤解されると困るのだが、僕はこの物語が「国際的」「普遍的」な域に達しているとか、文化の違いを超えて共感が成立しているとか、そういう一般的なことを主張しているわけではない。僕が言いたいのはもっと狭義に、それが優れて日本的なものとして成立しているということだ。たとえばーーこれはあくまで一例に過ぎないがーーそこに描かれた英国人執事のどこまでもストイックな、自らを殺してまで主人に仕える、あるいは規範に殉じるその生き方は、そして彼の内で堅固にクリアに維持される限定された世界観は、日本古来の武士の生き方と共通項を有しているようにさえ感じられ る。 ・なぜか?その理由はとてもはっきりしている。それはイシグロが高い能力を有した作家であり、しかも常に新しいテーマを追求し続けている、スリリングで意欲的な創作者であるからだ。僕が考えるところ、世の中には大きく分けて二種類の小説作家がいると思う。ひとつは作品をひとつひとつ系統的に積み重ね、いわば垂直的に進歩していく(あるいは進歩しようと試みている)作家であり、もうひとつはそのたびに異なったテーマや枠組みを取り上げて、自分を水平的に試しながら進歩していく(あるいは進歩しようと試みている)作家だ。僕自身はどちらかといえば前者に属すると思う(進歩を遂げていればいいと思う)。そしてイシグロはどちらかといえば後者に属しているようだ(間違いなく進歩を遂げている)。 『日の名残り』(一九八九)を書き上げたあとのイシグロは『充たされざる者』(一九九五)『わ たしたちが孤児だったころ』(二〇〇〇)『わたしを離さないで』(二〇〇五)『忘れられた巨人』(二〇一五)と、そのたびに異なるフォーマットを持つ長備小説に次々に挑戦してきた。あるものはカフカ的な道具立てを用い、あるものは歴史ミステリーの衣を纏い、あるものはサイエンス・フィクションの構図を借用し、あるものは古代説話を下敷きにしている。まことに多種多様だ。 僕の知る限り、一人の作家がこれほど多様なスタイルを用いて小説を書くというのは、他にほとんど例を見ないことだ。そして僕の目からすれば驚くべきことに(というべきだろう)、どの作品も水準を軽々とクリアしている。 ・そのような実験的な姿勢をポストモダン的手法のひとつととるか、あるいはあくまで個人的な方向性ととるかは、評価の分かれるところだろうが、僕としてはとりあえず「結果的にポストモダン的手法ともとれる、しかしあくまで個人的な営為」みたいなものではないかと考えている。そして彼の追求する自らのアイデンティティーの中には、彼の「内なる日本人性」みたいなものも間違いなく含まれているだろうし、そのことと彼の物語の「水平志向性」をどこかで結びつけて考えてみるのも、彼の文学を追究するための興味深いアプローチのひとつとなるかもしれない。 - 2025年11月20日
生きのびるための事務 (SHURO)坂口恭平,道草晴子「自分のやりたいことをやって生活するには」ということと、「仕事で潰れないためには」ということを<事務>を活用することで実現できると説いた本。 仕事で自己否定して苦しんでいる人も、楽になれる考え方が載っていた。 ・大切なのは<事務>こそが創造的な仕事を支える原点だということ ・<事務>=<量>を整える ・<事務>の仕事で重要なことは<スケジュール管理>と、<お金の管理> ・将来の夢ではなく、まずは<将来の現実>を24時間の円グラフで作ることでイメージしやすくする(<将来の現実>には楽しくないことは1秒も入れない) ・<事務>とは抽象的なイメージを数字や文字に置き換えて、<具体的な値や計画>として見える形にする技術 ・<好き>は<自信>を凌駕する。<自信>はなくなると作業が止まりますが、<好き>は止まらない ・上手くいく人は、上手くいくことしかしません。 簡単なことです。<上手くいく>とは、ただ<やり方が合っていた>ということだけ ・上手くいかない<やり方>を省みず、自分自身を無駄に疑って、怒って、その反動として「自己肯定感」を生み出そうとしてませんか? ・否定すべきは<己>ではなく、己が選んだ<方法>のみである ・<評価>は見る人によって違いますし、日によっても変わっていきます。他者の<評価>で気分が変わってしまっては、継続して物事を進められません。ダメな時も良い時も、自分の<事務>を<評価>するんです。 ・<才能>っていうのはそれだけです。 いつまでも楽しく好きなことを、続けられる=<才能>があるってだけです。それが本になったり、売れて食っていけるようになるのは、<才能>ではなく<評価>についての話ですよね。 ・<事務>は分からないものを明らかにするのではなく、分からないまま仕事を延々と継続するためにある - 2025年11月19日
かしましめし(4)おかざき真里・仕事を忙しくするのは "今やってる仕事は無意味かもしれない" っていうのに気がつかないフリを するためなんじゃないかって思う ・私たちは忙しい方がいいんだと思う 暇だと自分を呪っちゃうから 忙しい方がいいんだよ ・食事の摂り方も効率的だ でも効率で幸せになれるか というとそうではない まあ幸せになることが 人の目的でもないからな - 2025年11月18日
クララとお日さまカズオ・イシグロ,土屋政雄クララというAF(人工親友)とジョジーという身体が弱い少女の物語。 AI、親・友人との関係性、格差社会などをテーマに書かれている。 「わたしを離さないで」のときも思ったが、クララの語る世界が映像のようにイメージしやすい。 ・わたしがカパルディを嫌うのは、心の奥底で、やつが正しいんじゃないかと疑っているからかもしれない。やつの言うことが正しい。わたしの娘には他の誰とも違うものなどなくて、それは科学が証明している。現代の技術を使えば、なんでも取りだし、コピーし、転写できる。 人間が何十世紀も愛し合い憎み合ってきたのは、間違った前提の上に暮らしてきたからで、知識が限られていた時代にはやむを得なかったとはいえ、それは一種の迷言だった・・・・。カパルディの見方はそうだ。わたしの中にも、やつの言い分が正しいのではないかと恐れている部分がある。だが、クリシーは違う。わたしのようじゃない。自分では気づいていないだろうが、あれは絶対に丸め込まれない。だから、クララ、君がいくら巧みに役を演じようと、すべてうまくいってほしいとクリシー自身が望んでいようと、来るべき瞬間が来れば、あれはすべてを拒絶するぞ。なんと言うか、旧式な人間すぎるんだ。自分が科学に楯突き、数学に反対しているとわかっていても、受け入れられないものは受け入れられない。そこまで自分を広げられない。一方、わたしは違う。クリシーにはない冷徹さを内部に抱えている。君の言う優秀な技術者だからかもしれない。だから、わたしはカパルディみたいな男には普通の接し方ができないんだと思う。連中がやることをやり、言うことを言うと、そのたびに、この世でいちばん大切にしているものが自分の中から奪われていく気がする。言っていることがわかるかな ・考えるまでもないよ。ぼくとジョジーは一緒に育って、二人ともお互いの一部だ。そして二人の計画もある。だから、もちろん、ぼくらの愛は心からのもので、永遠だ。一方が向上処置を受けてて、他方が受けてないなんて、ぼくらには関係ない。それが答えだ、クララ。これ以外の答えはないよ ・ジョジーとぼくは、これから世の中に出て互いに会えなくなったとしても、あるレベルではーー深いレベルではーーつねに一緒ということさ。ジョジーの思いは代弁できないが、ぼく自身は、きっといつもジョジーみたいな誰かを探しつづけると思う。少なくとも、ぼくがかつて知っていたジョジーみたいな人をね。だから、嘘じゃなかったんだよ、クララ。当時の交渉相手が誰なのか知らないが、その人がぼくの、そしてジョジーの心の中をのぞけたら、君がだまそうとしたんじゃないとわかってくれるはずだ ・カパルディさんは、継続できないような特別なものはジョジーの中にないと考えていました。 探しに探したが、そういうものは見つからなかったーーそう母親に言いました。でも、カパルディさんは探す場所を間違ったのだと思います。特別な何かはあります。ただ、それはジョジーの中ではなく、ジョジーを愛する人々の中にありました。だから、カパルディさんの思うようにはならず、わたしの成功もなかっただろうと思います。わたしは決定を誤らずに幸いでした - 2025年11月17日
わたしを離さないでカズオ・イシグロ,土屋政雄2016年にドラマを見た時の衝撃が忘れられず、小説を読み始めた。 マダムの家からの帰り、トミーが絵の入ったバッグを抱えているシーンは胸が痛くなる。 ・わたしたちはみな、新しい生活に順応しようともがいていました。おそらく誰もが、のちに後悔することを何かしていたと思います。あのとき、わたしはルースの一言に反発しましたが、コテージで生活しはじめた頃のルースの行動を――いえ、誰の行動であれ――いま、あれこれあげつらうのは、意味のないことに思われます。 ・ロジャーと会ってからの数カ月間、わたしはヘールシャムの閉鎖と、それが意味することを考えつづけました。そして、徐々にあることに思い至りました。それは、時間切れ、ということです。やりたいことはいずれできると思ってきましたが、それは間違いで、すぐにも行動を起こさないと、機会は永遠に失われるかもしれない、ということです。 ・ぼろ切れを見つけ、できるだけの泥を拭い取りました。トランクからそのぼろ切れを取り出すとき、トミーのスポーツバッグも一緒に出しておきました。動物の絵が入っているあれです。走りはじめてふと見ると、トミーがそのバッグを膝の上に抱えていました。 わたしたちは、あまりしゃべることもなく、走りつづけました。バッグはトミーの膝の上です。絵のことで何か言ってくれるのを待ちました。ひょっとしたら、また癇癪を起こし、絵を全部窓からばらまいたりしないだろうか、と思ったりもしました。でも、トミーはバッグを保護するように両手を置き、前方に現れる道を見つめつづけました。 ・おれはな、よく川の中の二人を考える。どこかにある川で、すごく流れが速いんだ。で、その水の中に二人がいる。互いに相手にしがみついている。必死でしがみついてるんだけど、結局、流れが強すぎて、かなわん。最後は手を離して、別々に流される。おれたちって、それと同じだろ? 残念だよ、キャス。だって、おれたちは最初から――ずっと昔から――愛し合っていたんだから。けど、最後はな……永遠に一緒ってわけにはいかん - 2025年11月11日
独学大全読書猿・記録を取る者は向上する。(P165) ・同じことが、あらゆる知識とそれらを学ぶことについて言うことができる。 知識は多くの人々の知的貢献からできており、その一つひとつが人類の認識能力を構成している。新しい知識を生み出すことは、人類の認識能力を拡大することである。個人もまた、それに接続することで自身の認識能力を高めることができる。ニュートンはこのことを「巨人の肩に乗る」と表現した。(P203-204) ・無知に立て篭もることは危険であり、最終的には致命的ですらある。知は可能であるというより不可避なのだ。知ることから逃げる者は、知的営為の果てに知ることができたかもしれないそのことを、やがて最も手痛い形で思い知らされることになる。 吉報もある。いくらかでもまともに物を知っている人(物を知ることが何かを知っている人)は、こうした痛みを繰り返し味わっている。だから彼らは他人の無知をそして無知に起因する失敗や迷走を、嘲笑しない。 真面目に無知に挑むことを続けていけばやがて、あなたの無知をあざ笑う人は遠ざかり、あなたを助けてくれる人、物を知る人に出会うことになる。(P276-277) ・過去とは、二度と省みられない廃棄物なのではない。それは我々の現在を支える大地なのだ。焦りに我を失い、浮わついた自身に気付いた時、自分がどこへ向かっているのかさえ見失った時、再び現在という地表を踏みしめるために、書物の遅さ・変わらなさは救いとなり恵みとなる。 ある部分で未来を追い求めていても、それ以外の部分では、人は旧態依然とした存在にとどまらざるを得ない。書物は、人の改訂されざる部分を、静かにいつまでも待っていてくれる。(P351) - 2025年11月11日
- 2025年11月8日
酒を主食とする人々高野秀行エチオピア南部の酒を主食とする民族をTBS「クレイジージャーニー」で撮影しに行った紀行文。 コンソ民族、デラシャ民族の取材内容についてだけでなく、出国不能、緊急搬送、ヤラセなどなど・・・旅の中で起こる予想外の出来事に思わず笑いながら読んでしまった。 デラシャ人の生活を知ると、自分が常識だと思っていることへ疑問を覚える。 「酒は健康に悪い」と決めつけるのではなく、その周辺(脂っこいもの、塩分の多いものを取っていないかなど)も見る、「全体」を見る視点が大切だと思った。 自分もミクロの視点だけになっていないか気をつけたい。 【衝撃を受けた内容】 ・デラシャ民族はパルショータと呼ばれるお酒を主食としており、朝から晩までパルショータのみの摂取で済ますこともある ・酒は煮炊きする必要がなく、1日陽にさらされていても傷まない。好きなときに好きなだけ飲める。パルショータは食事と水を兼ね備えたスーパードリンク ・5歳の子供もパルショータを飲む ・妊婦も推定アルコール度数4%程度のパルショータを飲んでいる ・肝臓疾患や高血圧、糖尿病など、酒をたくさん飲む人がかかりやすい病気がデラシャ人に多いというデータはなく、パルショータが健康に被害を与えていると示唆する兆候やデータはない。また、デラシャでは子供の栄養失調が極めて少ない。 ・デラシャ人は油を摂取しない。砂糖も塩分もほとんど取らない。もっと言えば固形物の摂取量が少ない。 ・近くには様々な食材を食べる民族がいるが、デラシャは決まったものを毎日毎食食べている(あえてその食生活を選んでいる) 【印象に残った内容】 彼らは決して「遅れている」わけではない。「自然と共生している」わけでもない。コンソ人もデラシャ人も強烈なデベロッパーであり、自然を作り替え、コントロールしようとしていた。 酒を主食とする食生活もやむをえずそうなってしまったのではなく、意識的につかみ取ったものだろう。その意味では現代の日本人や西洋人と同じだ。ただし、「進んだ方向性がちがう」のである。だから西洋文明が世界基準になってしまった今、「遅れている」ように見えるだけだ。 - 2025年11月3日
街とその不確かな壁村上春樹・淋しいひとりぼっちの夏だった。ぼくは暗い階段を降り続ける。階段は限りなく続いている。 そろそろ地球の中心まで達したんじゃないか、という気がするくらい。でもぼくはかまわずどんどん下降していく。まわりで空気の密度や重力が徐々に変化していくのがわかる。しかしそれがどうしたというのだ?たかが空気じゃないか。たかが重力じゃないか。 そのようにして、ぼくは更に孤独になる。 ・からっぽの部分を何かで充たしておく必要があるから、周りにある目についたものでとりあえず埋めていっただけだ。空気を吸い込む必要があるから、人は眠りながらも無意識のうちに呼吸を続ける。それと同じことだ。 ・子易さんは自分という存在の意味がうまく把握できなくなっていたが、そんなことはもうどうでもいいように思えた。自分は親からひとまとまりの情報を受けぎ、そこに自分なりに若干の変更加筆を施したものを、また自分の子供に伝達していくー結局のところ単なる一介の通過点に過ぎないのだ。延々と継続していく長い鎖の輪っかのひとつに過ぎないのだ。でもそれでいいではないか。たとえ自分がこの人生で意味あること、語るに足ることをなし得なかったとしても、それがどうしたというのだ? 自分はこうして何かしらの可能性ーそれがただの可能性に過ぎないとしてもーを子供に申し送ることができるのだ。それだけでも自分が今まで生きたことの意味があるのではないか。 ・孤独とはまことに厳しくつらいものです。生きておっても死んでしまっても、その身を削る厳しさ、つらさにはなんら変わりありません。しかしそれでもなおわたくしには、かつて誰かを心から愛したという、強く鮮やかな記憶が残っております。その感触は両の手のひらにしっかり染みついて残っております。そしてその温かみがあるとないとでは、死後の魂のありかたにも大きな違いが出てくるのです ・閲覧室のいつもと同じ窓際の席に陣取り、そこで脇目も振らず本を読んでいた。その姿は、満開の花の蜜を一滴残らず飲み干そうとしている蝶の姿を私に思い起こさせた。 それは花にとっても蝶にとっても、互いに有益な行為なのだ。蝶は栄養を得て、花は交配を助けてもらう。共存共栄、誰も傷つかない。それは読書という行為の優れた点のひとつだ。 ・「孤独が好きな人なんていないよ。たぶんどこにも」と私は言った。「みんな何かを、誰かを求めているんだ。求め方が少しずつ違うだけで」 ・「あなたのものになりたい」とその少女は言った。「何もかもぜんぶ、あなたのものになりたいと思う。隅から隅まであなたのものになりたい。あなたとひとつになりたい。ほんとうよ」 ・真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。僕はそのように考えているのだが。 - 2025年11月3日
PRIZE-プライズー村山由佳出版業界を描く小説。小説出版の裏側、賞の選考方法等がよくわかった。 天羽カインは感情剥き出し、なぜこんな言葉を言えるんだと最初は思っていたが、いい作品を出すために努力を惜しまない、自分の欠点にも向き合う姿勢に、途中からはなんとか直木賞が取れますようにと応援したい気持ちになった。 自分の気持ちを大切にして行動した結果の、最後の天羽と石田のやり取りが快い。 承認欲求とは悪いものというイメージがあるが、誰にでも承認欲求はあるし、正しい方向に力を向かわせることができたらそれは悪いものではないと思えた。 ・それに私、あの子たち二人が愛おしくて、哀しくて・・・・・ほんとうの悪人なんて一人も出てこないのに、なんでこんなにうまくいかないんだろう、なんでみんなこんなに傷つかなくちゃいけないんだろう、だけど人生って、生きるって、きっとそういうものなんだよなあ・・・・・って。 ・自分はこのひとに恋をしているのだろうか、と思ってみる。 そう、なのかもしれない。肉体を伴う欲望とはだいぶかけ離れているけれども、このひとにとっての特別でありたい、唯一でありたいと願う心は、すでに火照って焼けつくようだ。それを恋と呼ぶのなら、どうぞ呼んでもらってかまわない。 ・どうしてもこの賞が・・・・・直木賞が欲しかった。私の書く小説は、ただ面白いだけじゃない、ただ感動できるだけじゃない、何かもっと大きな値打ちのある立派な文学作品なんだと、世間に認めさせたかった。これまで私を何度も候補にした文藝春秋や、何度も落とした選考委員を、実力で見返してやりたかった。いつか必ず受賞して、何よりも自分で自分を認めてやりたかったんです ・たぶん彼女の言うとおりなのだ。書き手と伴走者はどこまでも共に走ってゆける。地の涯までもゆける。が、度を超えて同化してはならない。脚がもつれて共倒れになってしまう。 - 2025年10月24日
・人間の太り方には人間の死に方と同じくらい数多くの様々なタイプがあるのだ。 ・「遅かれ早かれあんたにもそれがわかるじゃろうが、進化というのは厳しいものです。進化のいちばんの厳しさとはいったい何だと思われるですかな?」 「わかりません。教えて下さい」と私は言った。 「それは選り好みできんということですな。誰にも進化を選り好みすることはできん。それは洪水とか雪崩とか地震とかに類することです。やってくるまではわからんし、やってきてからでは抗いようがない」 ・「疲れを心の中に入れちゃだめよ」と彼女は言った。「いつもお母さんが言っていたわ。疲れは体を支配するかもしれないけれど、心は自分のものにしておきなさいってね」 ・私の人生は無だ、と私は思った。ゼロだ。何もない。 私がこれまでに何を作った? 何も作っていない。誰かを幸せにしたか? 誰をも幸せにしていない。 何かを持っているか? 何も持っていない。家庭もない、友だちもいない、ドアひとつない。勃起も しない。仕事さえなくそうとしている。 ・「疲れるってどういうことなのかしら?」と娘が訊ねた。 「感情のいろんなセクションが不明確になるんだ。自己に対する憐憫、他者に対する怒り、他者に対する憐憫、自己に対する怒り――そういうものがさ」 「そのどれもよくわからないわ」 「最後には何もかもがよくわからなくなるのだ。いろんな色に塗りわけたコマをまわすのと同じことでね、回転が速くなればなるほど区分が不明確になって、結局は混沌に至る」 ・人は何かを達成しようとするときにはごく自然に三つのポイントを把握するものである。自分がこれまでにどれだけのことをなしとげたか? 今自分がどのような位置に立っているか? これから先どれだけのことをすればいいか? ということだ。この三つのポイントが奪い去られてしまえば、あとには恐怖と自己不信と疲労感しか残らない。 私が現在置かれている立場がまさにそれだった。技術的な難易というのはそれほどの問題ではない。 問題はどこまで自己をコントロールできるかということなのだ。 ・君は俺にこの街には戦いも憎しみも欲望もないと言った。それはそれで立派だ。俺だって元気があれば拍手したいくらいのもんさ。しかし戦いや憎しみや欲望がないということはつまりその逆のものがないということでもある。それは喜びであり、至福であり、愛情だ。絶望があり幻滅があり哀しみがあればこそ、そこに喜びが生まれるんだ。絶望のない至福なんてものはどこにもない。それが俺の言う自然ということさ。 ・街はそんな風にして完全性の環の中を永久にまわりつづけているんだ。不完全な部分を不完全な存在に押しつけ、そしてそのうわずみだけを吸って生きているんだ。それが正しいことだと君は思うのかい?それが本当の世界か?それがものごとのあるべき姿なのかい?いいかい、弱い不完全な方の立場からものを見るんだ。獣や影や森の人々の立場からね ・しかしもう一度私が私の人生をやりなおせるとしても、私はやはり同じような人生を辿るだろうという気がした。何故ならそれがしその失いつづける人生が私自身だからだ。私には私自身になる以外に道はないのだ。どれだけ人々が私を見捨て、どれだけ私が人々を見捨て、様々な美しい感情やすぐれた資質や夢が消滅し制限されていったとしても、私は私自身以外の何ものかになることはできないのだ。 かつて、もっと若い頃、私は私自身以外の何ものかになれるかもしれないと考えていた。カサブランカにバーを開いてイングリット・バーグマンと知りあうことだってできるかもしれないと考えたことだってあった。あるいはもっと現実的に ーそれが実際に現実的であるかどうかはべつにしてー 私自身の自我にふさわしい有益な人生を手に入れることができるかもしれないと考えたことだってあった。そしてそのために私は自己を変革するための訓練さえしたのだ。「緑色革命』だって読んだし、「イージー・ライダー」なんて三回も観た。しかしそれでも私は舵の曲ったボートみたいに必ず同じ場所に戻ってきてしまうのだ。それは私自身だ。私自身はどこにも行かない。私自身はそこにいて、いつも私が戻ってくるのを待っているのだ。 - 2025年10月15日
罪と罰 下ドストエフスキー,工藤精一郎・ラスコーリニコフの理論 人類は凡人と非凡人に大別され、大多数は凡人で現行秩序に服従する義務があるが、選ばれた少数の非凡人は人類の進歩のために新しい秩序をつくる人々で、そのために現行秩序を踏みこえる権利をもつ 殺人は権力掌握の手段であり、目的は新しい空想社会主義のファランステールを作ること(殺人によって金を獲得、その金によって権力を握り、その権力によって新しいエルサレムを作り、民衆を幸せにしてやる) ・ソーニャの信念 支配者たちの国家宗教(ロシア正教)に転ずる以前の貧しき者、病める者、不幸な女や子どもたちを救ってくれるキリスト教を信じた ソーニャは一度死んだ、自分の意志で自分を殺した、だが「ラザロの復活」を信じることによって、キリストに生命 をあたえられた、だからキリストの教え、愛による救いをひろめることが、自分の生きる道であると素朴に信じた。 愛と自己犠牲によって身近の人間を自分の道へひきこみ、自分のまわりに正義を広める。 ソーニャが無意識に目ざしていた理想社会は富も権力もない兄弟愛の世界 →二人は逆方向から同じ目的を目ざしていた →彼は唯一人の道連れであるソーニャ、自分が救わねばならぬ哀れな人々のシンボルであるソーニャを失うことはできない。 →彼はソーニャの愛に負けて、自白する そして、シベリアの流刑地で、囚人たちの間に身をおいて、ついにソーニャの信念に負ける →人間の本性を忘れた理性だけによる改革が人間を破滅させる - 2025年10月14日
- 2025年10月9日
罪と罰 上ドストエフスキー,工藤精一郎・《みんないろいろな方法で金を儲けている。だか らわたしも手っとり早く金持になろうと思ったのだ》正確な言葉はおぼえていないが、 他人の金で、手っとり早く、労せずに、という意味だ! みんな住居食事つきの生活 をしたり、他人のいいなりになったり、他人が噛んでくれたものを食べたりすることに、慣れきってしまったのです。そこへ、突然偉大なる時代(農奴解放)が訪れたものだから、みんなその正体をあらわしてしまったのさ でも、それなら、道徳というものは? それに規律といいますか…………… ・苦悩と苦痛は広い自覚と深い心にはつきものだよ。真に偉大な人々は、この世の中に大きな悲しみを感じ取るはずだと思うよ。 - 2025年8月3日
図解 世界5大宗教全史中村圭志 - 2025年8月2日
対岸の彼女角田光代・ひとりでいるのがこわくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何かと出会うことのほうが、うんと大事な気が、今になってするんだよね ・なぜ私たちは年齢を重ねるのか。生活に逃げこんでドアを閉めるためじゃない、また出会うためだ。出会うことを選ぶためだ。選んだ場所に自分の足で歩いて行くためだ。 - 2025年8月1日
カラマーゾフの兄弟(5(エピローグ別巻))フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフス,亀山郁夫・人間関係と人間心理の複雑さがとても面白い小説だった ・「人って感情的に行動することがあるよね」と少しの共感できる部分もあったが、大半はあまりに極端な言動から「なぜそうなるんだ」と突っ込んでしまう、でも憎めない個性的なキャラクター達が印象に残った ・宗教的・哲学的なテーマの話が多く出てくるが、自分の知識不足で理解できないことも多く...宗教や哲学について学んで再読したいと思った ・5巻に掲載されているドストエフスキーの生涯を読むと、この小説が本人の生涯を表しているとても壮大な小説だと分かって、なお感動した - 2025年7月28日
カラマーゾフの兄弟(4)フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフス,亀山郁夫 - 2025年7月27日
カラマーゾフの兄弟(3)フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフス,亀山郁夫 - 2025年7月22日
カラマーゾフの兄弟(2)フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフス,亀山郁夫
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