綾鷹
@ayataka
読んだ本の内容を忘れちゃうので、自分の記録用...
- 2026年1月16日
百冊で耕す近藤康太郎読書術の本。 読書って頭も使うし、時間も必要。 それでも沢山読書してる人の話は 節々に読書への強い思いが感じられて、面白い。 私もかっこつけ読書家目指すぞ、、! ・一日に三冊もの本を読む人間を、世間では読書家というらしいが、本当のところをいえば、三度、四度と読みかえすことができる本を、一冊でも多くもっているひとこそ、言葉の正しい意味での読書家である。 篠田一士『読書の楽しみ』 ・新聞書評を見る ・読書はやみくもにしていいものではない。気の向くまま、自分の好みにあった本ばかり読んでいたら、じつにつまらん人間になっていただろう(いまでもたいしておもしろい人間ではないが)。そもそも「自分の好み」が変わっていくのでなければ、読書なんてなんのためだ、と思う。自分の好みが増える、好みの層が厚くなる。 自分が変えられる。わたしにとっては、それが読書の最大の目的だ。 自由に読むのは、自由のようでいてそうではない。ちっぽけな,自分"に隷属している。 ・射抜くべき的があまりにも遠くに見え、自分たちの弓の力がどこまで届くかを知っている者たちが、目指す場所よりもはるかな高みへ向って的を定めるときのように、振舞うべきである。それは自分たちの矢をさほどの高みへ当てようとするのではなく、そのような高みへ狙いをつけることによって、何とかして彼らの標的へ到達したいと願うためである。 マキャベリ『君主論』 ・積ん読は、人を変える。 それは、「いつか自分もこのような本を読む人間になりたい」という、自分に向けたマニフェストなのだ。自分にはっぱをかけているのだ。未来の自分への約束なのだ。 ・読書はファッションである。かっこつけである。本棚は、なりたい自分の姿、未来の自分への約束だ。読める読めないは別として、難しい本を買ってしまう。百冊本棚が、少しずつ充実したものに変わっていく。本棚の「つらがまえ」が変わる。それは、自分が変わることを、直接的に意味する。 ・わたしは、書物をたいへん大事にしたので、ついには彼らのほうもお返しにわたしを愛するようになった。 書物は熟しきった果実のようにわたしの手のなかではじけ、あるいは、魔法の花のように花びらをひろげて行く。そして、創造力をあたえる思想をもたらし、言葉をあたえ、引用を供給し、物事を実証してくれる。 『エイゼンシュテイン全集1』 ・読書の実益とはなにか。読書で得すること。 その第一は〈沈着〉。 本を読む人は、落ち着いている。本を読むという行為は、原則、ひとりですることだ。 孤独な作業だ。ひとり孤独に読み、ひとり孤独に心動かされる。感動を分かち合う人は、基本、いない。孤独に耐えられる人は、動じない人だ。 その第二は〈油断〉。 読書は、人を油断させる。「キモい、ヤバい、エモい」。言葉が少ない人は、世界を切り分ける能力が低い人だ。逆に言葉が豊かな人は、世界がカラフルに見えている。極地の狩猟民が雪を表現する単語は、われわれよりずっと多い。雪の状態を知ることが、命に直結するからだ。 言葉によって世界を切り分ける。語彙の豊富な人には、世界が色彩豊かに、美しく見えている。言葉の豊かな者は、人を安心させる。言葉は、命に直結するからだ。 また、本を読むのは、分かりたいからだ。世界を、人間を、分かりたい。他者の気持ち、感情に、接近したい。そういう意志を顕現させているのが、本のページを繰るという動作だ。そういう意志に対して、人は気をゆるめる。安心する。一緒に話したい、働きたい。あるいは一緒に暮らしたい。 読書の実益の第三にして、もっとも大事なこと。それは〈自発〉。 隠蔽された奴隷制を生きるわたしは、なぜ本を読むのか。 自由に、なるためである。 自由というのは、上から与えられるものではない。なる>ものだ。自らつかみ取るものだ。契約も、意志も教育も恋愛も選挙も、そして仕事も。「自分がつかみ取った」という実感のないものは、それは自由ではない。 あらかじめ仕組まれた”自由"だ。 だが、本を読むということ。このささやかな目の運動だけは、小さな、かけがえのない自由になり得る。 本は、わたしが選ばなければわたしの手の中にやってこない。本は、わたしが目を動かさなければ、語り始めてくれない。本は、わたしの知らないことはもちろん、予期しない問い、嫌いな結末さえ運んでくる。テレビやネットといちばん違うところ。 つまり、本はへ自発>だ。そして、権力者がもっとも恐れるのが、この自発である。 いかなる中立性も、いやそれどころか、自発的に表明された好意すらも、全体的支配の立場からすればはっきりとした敵対とまったく同様に危険なのだ。その理由はほかでもなく、自発性はまさに自発性であるが故に予測不可能なものであって、そのため人間に対する全体的支配の最大の障碍になるからである。 ハンナ・アーレント『全体主義の起原』 ・個々の読書体験が、ふとしたことでつながる。分かる>とは、そういうことだ。 数学の本を読んでいて、足し算引き算から代数系の話を知る。考古学の本を読んでいて、文字発生の仮説を知る。狩猟の本を読んで、人類史を知る。言語学の本を読み、言葉の抽象機能を知る。 そうした<知る=follow>行為が堆積していって、分かる=understand>が発火する。 ある日、ある瞬間、「ユーレカ!(分かった!)」と叫ぶ。 読書の楽しみといって、これ以上のものはない。 ・本は、答えが入っている箱ではない。読書とは、問いを、自分で言葉にできるようにする、遠回りの、しかし確実なトレーニングだ。問う筋力をつけている。自分の問いのほんとうの意味が、分かる。本ににじりよっていくうち、自分の言葉で、問いを表現できるようになる。正しく問うことができて初めて、暫定的な答えが現れる。 <分かる)とはそういうことだ。<知識>が堆積していって、そのエネルギーで発火するのが、<理解>という現象の本質だ。 問いは、在るのではない。答えは、探すものではない。 問いも、答えも、自分が創るものだ。 それを可能にするのは、読書だけだ。 ・言葉を変えれば、「我慢することを覚える」ということだ。我慢してでも読む。「よさ」が分からないのは、著者のせいではない、自分のせいだ。そう、観念してしまう。 あきらめる。観念する。そういう感性は、読書にとって死活的に重要だ。がむしゃらに、分かっても分からなくても、読む。むちゃな修業じみた読書を、早めに体験する。いずれ分かる。分かるに決まっている。そう肩じ込む。 ・本を読んだって、結論・答えには達しない。辛気くさくも、一枚一枚ページを繰り、なんの生産物も生み出さない、読書という、暢気で無駄な行為の、それが核心だと思うから。 ・文章を読むという行為には、読者の人格そのものが現れる。怠惰な人間は、文章を怠惰に読む。浅い人間は、浅く読む。 「結論が一目で分からない」「著者の言いたいことが分からない」そうではなくて、わたしだったら、なにが分からないかを、自分の頭で言葉にする。疑問を言語化する。そのとき、読書はかなりの深度を得ているはずだ。 そもそも問う能力がないから、読書に「答え」を待つようになる。読書とは、答えや結論を得る方便ではない。読書とは、新しい問い、より深い問いを獲得するための冒険だ。 「問い」が、そのまま「答え」になっている。終着駅ではない。始発駅に立つために、本は読む。 そして、問いを発見した人が、世界を変える。答えは、世界を動かさない。 なぜなら、世界にも、人生にも、そもそも「答え」はないから。 ・疑いを抱きつつ、批判的に読む。自らの考えと相反するもの、しかし、無視して避けるには巨大過ぎる名著。そうしたものに、玉砕覚悟でぶつかっていく。人生のある時期、そうした蛮勇はあってもいい。 読み、批判し、乗り越える。 自分の歴史観、自分の倫理観を、反対側から眺める。鍛え直す。 ・批判しつつ読む。クールに読む。 しかし相手は知の巨人、こちらは素手の初学者である。どうしても、相手に飲まれてしまうことはある。そんなとき、ひとつテクニックがある。 同時代人の論敵をあわせて読む。 ・並判的に読むというのは、なにも、非難することではない、あらを探して読むことではない。相手を言い負かすためのテクニック、はやりの「論破力」とはもっとも遠い。批判、クリティークとは、むしろ「自己吟味」だ(柄谷行人『トランスクリティーク』)。 批判とは、「たえまない『移動』をくりかえすこと」。単に場所を移すのではない。政治的、経済的、倫理的な立場を改めてみる。別の立ち位置に移動する。 世界を変えるのではない。自分を変える。 自分を変えれば、自分が太く、強くなる。 世界は繊細に、カラフルになる。 ・小林秀雄は、作品だけでなく、書簡も創作ノートもすべて読むのだと書いている。そこまでせずとも、生前に、著者が作品として公表した文章をすべて読む。それだけでもじゅうぶん、作家に取り憑かれる。文体に慣れ、考え方が似てくる。生活態度も1食事に風呂に睡眠に、服装や異性の趣味さえー影響される。まねしたくなる。 そうやって、完全に影響下に置かれる。数年すると、卒業する。飽きたわけではない。 別の、まねしたいような巨人に出会う。 ある作家や学者、批評家に憑依される。数年経って卒業し、また別の作家に憑依される。 それを、二度、三度と繰り返す。そうしてようやく、自分)になれる。自分らしい、オリジナルな問題意識、考え方の癖、文体、つまり生き方のヘスタイル)ができあがる。 オリジナルは、憑依から生まれる。 ・ジャーチリストの本田靖春が書いていたことだが、ワンテーマで五十冊の本を集中して読めば、その分野の見通しがつけられる。本田は元読売新聞記者だ。その方法論は、わたしの体動にもおおよそ合致する。 最初は書店で、自分が取り組もうと思っているトピックに関する入門書的な書籍を数冊、手に取る。新書でもまったく構わない。ただし、巻末などに参考文献が列挙されているものを選ぶ。その入門書をまずは読み、あげられている参考文献をたどり、さらにくわしい専門書の森に分け入っていく。 そうこうしていると、絶対に読まなければならない基本文献、いわばその分野の古典が明らかになってくる。だれもが認めている基礎文献、その「最古のもの」を特定する。 その古典を頂点に、読むべき本を五十冊、ピックアップする。いや、実際に読まなくても構わない。書き出すだけで見晴らしがよくなる。それらの本を、図書館や書店で手に取り、めくる。 つまり、人為的に、意図的に、はまる感覚を作り出してしまおう、ということだ。 そもそも人間に「自由意志」などないのだと喝破したのはスピノザだが、わたしも、少しそれに近い意見を持っている。自分の感覚や意志なんて、自由なように見えてたいそうポ日由だ。宿用できたものではない。 言い換えれば、「はまる」という感覚も、自然発生的なものばかりではない。人為的に、"不自然"に、作り出してしまえるものだ。 ・小説でも詩でも、社会科学でも自然科学でも、「これを読んでいなければ始まらない」という基礎的な古典リストは、必ずあるものだ。定評のある「必読リスト」。そのリストに沿って読む。 偏食しない。順番に。機械的に。なにも考えず、文句をいわず。ただただ、リストを妄行して読む。 ・社会科学のリストは、時代の古い方から新しいのに向けて、順に読んでいく。まずは、プラトン、アリストテレスから読むということである。 ・日本文学のリストは、新しい方から古いものにさかのぼるのがいいと思う。いきなり源氏物語を原典で読めといわれても、早々に挫折するのが関の山だ。 まずは、同時代の作家から順に読んでいく。『必読書150』でいえば、中上健光から始めて二葉亭四迷に至る。『私学的・・・・・」でいえば高橋源一郎から始まり尾崎紅葉へと、時代をさかのぼっていく。そういう意味で、加藤典洋リストの現代作品十二作をまずは準備運動として読破してしまう、というのは賢い選択だ。 江戸期以前の文学にとってもこの手法は有効だった。加藤周一『日本文学史序説』のリストで、近松や西鶴、上田秋成に本居宣長ら近世のものから読んでいき、室町時代の世阿弥、ついで鎌倉時代の徒然草、方丈記、平家物語、そしていよいよ本丸の源氏物語を含む平安宮廷文学に進む。さらに万葉集をへて古事記へ。 言葉遣いや語彙の点で、近世のほうが現代日本語に近いから、理解が容易だということもある。それ以上に、平安時代の宮廷人は、ものの考え方も世界の見え方も、わたしたち現代に生きる日本人とはまるで違う。現代語訳を読んでも意味の分からない考え方をする。 ・海外文学も、基本的には同様だ。新しいものから始めて、最終的には小説の始祖である「ドン・キホーテ』やポッカチオにさかのぼる。しかし、少しだけ注意がいる。あまりに新しすぎるのも考えもので、小説に慣れていない人が、プルーストやジョイス、クロート・シモンにミシェル・ビュトールから始めるのはおすすめしない。これらの作品は、小説を否定するかたちで出発したものだ。いずれ読むべき書物であることに変わりないが、小説らしい小説を読んで、そして、その否定、超克へ進むのが筋であろうし、分かりやすくもある。 だから、ここでの「新しいもの」とは、せいぜいヘミングウェイ、スタインベック、トーマス・マン、マルタン・デュ・ガール、ロマン・ロラン、モーム、そういった第一次大戦の前後、二十世紀の初めに華々しく活躍した作家たちから始める、という意味だ。 整理すると、十九世紀ヨーロッパ小説が海外文学の主戦場だ。そこに乗り込む準備運動に、二十世紀初頭の海外文学で目を慣らしておく。ついで十九世紀小説の大巨匠、ディケンズにバルザックやスタンダール、ドストエフスキーにトルストイらに挑む。あらかた読み終えたら、ボッカチオや、セルバンテス、ゲーテら十七、十八世紀小説草創期の巨人に挑む。 それが終わったら、いよいよ現代の小説、「小説の否定」であるプルーストやジョイス、クロード・シモンやジャン・ジュネ、中南米のマジック・リアリズムに移るという行程表。 自分にはこれがいちばん向いていた。というより、こういう行程表がなかったから(あたりまえだ)、やみくもにぶつかっていき、ずいぶんと苦労した。 ・自分自身に課している日課では、これに加えて④詩集がある。この四種の課題図書リストを同時並行で最低でも毎日十五分ずつ読む。 ・やはり「忙しい」ということが大きい。加えて、「不安だ」ということもある。重要そうな新刊書籍は山ほどある。忙しい毎日で、なぜリストにあるような古くさい本を読まなければならないか。自分の仕事に役立つのか。さっぱり分からない。不安だ。 もっともだと思う。ただ、なんの役に立つのかは、本を読み、リストをつぶしているまさにその当座には分からないという原理がある。そこが肝だとも、同時に思う。 小利口になってはいけない。むしろ大馬鹿になれ。いまの自分に、なんの役に立つのかと、こしゃくなことは考えない。肩じ切る。馬鹿になって、リストにしたがって、単に目を動かす。なにしろ、相手は肩じ切っていい大巨人ばかり。知的山脈だ。 あらすじや登場人物があやふやでも、思想がさっぱり分からなくても、目を動かしていると、はっとする一行、目が釘付けになる文字が、飛び込んでくる。一冊を読み終えて、一行も目に飛び込んでこない大古典など、あり得ない。必ず、ある。そして、その一行、一段落が、一生残る砂金だ。 ・つまり、読書そのものは、人格を育てない。劇薬だ。興味の赴くままただ読むのは、有害でさえある。ヒトラーのように、人類の災厄とすらなる。生を濫読で終わってはいけない。人生のある時期だけでもいい。リストに沿ってカノン(正典)を読む。リスト読書を通過したのちには、あとはなにを読んだって構わない。劇薬であろうとなんであろうと、暗するあごの力が備わっているのだから。 いまの自分を甘やかすな。変わる。変わり続ける。どこまでも転がっていく。 そして、リストはいまの自分を突き放してくれる。自分の好み、嗜好とは、関係がない。 食指が動かないものばかり。それでいい。安心していい。なにせ、時間が証明している。 リストに載っている大古典は、何百年ものあいだ、何千万人、場合によっては何億人によって読み継がれ、新しい読みを発見され、生き残ってきた本物ばかりだ。 リストは、偶然の出会いを促す。自分を、強制的に旅に出す。自分が、自分以外のものになっていく。いまだ自分ではない自分への召喚状だ。 ・わたしにとって、正気に戻る時間とはいつだろうか。 もちろん本を読むときだ。テレビもネットも遮断して、意識して一人きりになる。 本は、一人で読む。一人で読むに決まっている。むしろ、独りになるために読む。 孤高を気取っているのではない。世間から浮きたいわけでもない。ただ、一人でいることも苦ではないことを学習する。孤立を求めず、孤独を恐れず。 ・実際、集中できるということは、ひとりきりでいられるということであり、ひとりでいられるようになることは、人を愛せるようになるための必須条件のひとつである。 もし自分の足で立てないという理由で他人にしがみつくとしたら、その相手は命の恩人にはなりうるかもしれないが、ふたりの関係は愛の関係ではない。逆説的ではあるが、ひとりでいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。 フロム『愛するということ ・孤立を求めず、孤独を恐れず。 本を読む。その、もっともすぐれた徳は、孤独でいることに耐性ができることだ。読書は、一人でするものだから。ひとりでいられる能力。人を求めない強さ。世界でもっとも難しい強さ>を手に入れる。 読書とは、人を愛するレッスンだ。 ・ある文章、ある作品を読んで、感銘を受ける。強い印象をもつ。新鮮な解釈を思いつくもしかしたら、作者の意図していなかった解釈かも知れない。 それでいい。それこそ尊い。テクスト(文章)は、作者の元にとどまっていない。読者が新しい解釈を付け加えて、どんどん太くなっていく。それが、いい文章だ。風通しのいい文章だ。 古典が新しい本より価値が高いのは、端的にいえばそこだけだ。古典の方が、世界でいろんな読み方をされている。長い期間、広い地域で、読者に受容されてきた。その分、読まれ方のレイヤー(層)が厚い。そうした読み方のうち、どれが正解ということはない。 本を読むのに、誤読ということはない。 ・難読本に惨敗しないために知っておきたいテクニック (1)目標をはっきりさせるーアタックできる山頂 読み終えて、少なくとも内容を彼氏、彼女、パートナー、友人におしゃべりでき名、自分がどういう感想をもったかを語れる。そして相手が多少は興味をもってくれる。これができれば、もう成功だ。 (2)読む番を間違えないールートを事前に頭に入れる読む順番を間違えない。社会科学系の本は、古い方から読む。結局、それが近道だ。人は、新しい思想に飛びつきがちだ。流行に飛びつかない。 ところが、文学となると話は逆になる。新しい方から読んでいくのが筋がいいと思う。 時代をさかのぼり、時系列の逆順に片付けていく。 (3) 参考の影響を恐れないー旅に携行するガイドブック 古典と呼ばれる社会科学系の本も、あるいは小説でさえも、解説書を読むことを恥じない。いまは「100分d名著」だとか、「マンガで読む〇〇」といった解説本が出ていてなかなか便利である。解説本や漫画で準備運動をすることは、恥ずかしいことではない。ただし、参考書を読んで満足してはならず、その後、必ず本編を読む。 以上は小説の場合。一方、社会科学系の大古典を読むとき、わたし自身は参考書なしに読み進めることの方がむしろ少ない。 カント『純粋理性批判』やヘーゲル『精神現象学』、マルクス『資本論』にウィトゲンシュタイン『哲学探究』といった、思想史にそびえる高峰を登ろうとするとき、ガイドもなく踏み出すことは、遭難、あるいは途中で棄権する蓋然性が高くなる。これらの本では、いずれも十冊以上の参考書を、九の古典と同時並行して読み進めていた。 ・百冊読書家は、蒲団に顔を埋めて泣いたりしない。たとえばそんなとき、フロイトやラカンの難解な本を読む。 自意識、無意識、対象a、大文字のAなどの概念装置で、自分の「欲望」を説明される。 自分が苦しんでいる妄執・衝動のシステムが解説される。解説されたからといって傷が癒えるわけではない。ないが、難読本に必死に食らいついて苦労したぶん、少し、納得する。 思い当たる節はある。自分を客観視できる。メタ意識をもてる。 つまり、ここでも言葉が自分をだましている。 いや、だます、というのは適当ではない。言葉で自分を馴致している。言葉によってコントロールする。言葉という幻影によって苦しんでいた自分の欲望を、やはり言葉によって飼いならす。自由にしてやる。言葉によって苦しめられた欲望から自由になるには、言葉によるしかない。 毒を制するには、毒をもって。 ・本を読むとは忍耐力のあることだと書いた。もっといえば、本を読むとは、孤独に耐えられるということも意味する。世界で一人きりになっても、本の世界に遊ぶことができる。 それはつまり、人を愛せる、ということだ。 いつでも他者を必要とする人は、弱い。常に他者からの承認を求める人生は、苦しいものとなるだろう。愛されることを渇望する人は、孤独の重さに耐えられない。 ひるがえって、本があればなんとか生きられる人は、必ずしも愛されることを必要としない。ただ人を愛することができるのみだ。 そして、逆説めくが、人を愛せる人が、人から愛される人だ。人から愛されるには、まず自分から愛さなければならない。 ・勉強をする。カルティベートされる。耕す。でも、なんのために?太宰が、ここではっきり書いている。 「むごいエゴイスト」にならないためだ。 人にやさしく。 <百冊で耕す>とは、ついに、人を愛せるようになるためだった! そして、人を愛せる人こそ、自分を幸せにする人だ。自分を愛するのが幸せなのではない。注意せよ。ここに大きな落とし穴、錯誤がある。幸せな人を、よく観察するといい。 幸せな人は、必ず、人を愛している人だ。 長々とここまで本を執筆してきて、ようやく、ほかならぬわたし自身が、いま気づいた。 はっきり、つかんだ。 なぜ、本など読むのか。勉強するのか。 幸せになるためだ。幸せな人とは、本を読む人のことだ。 ・辞書なしで英語の本を読むのに必要な語彙は一万語といわれている。 英語の語彙は、百万語以上もある。一万語などは、ほんの序の口だ。しかし、一万語を覚えると、辞書を引く必要はなくなる。未知の単語もーページにつき数語は出てくるが、前後の文脈から類推することができる。あるいは、飛ばして読んでなんの支障もない。 一万語を覚えるのはたいへんだと思われるが、じっさいにしてみると、そうでもなかった。ここでも一日十五分だけ、単語帳を眺める。そんな暮らしを一年も続けただろうか。 だいたい、分かるようになった。 単語を暗記する作業で、いちばんへこたれるのは、ゴールがない、終点が見えないことだ。英語は百万語以上も語彙がある。覚えても覚えても、未知の単語はわいて出てくる。 しかし、そんなことはもう気にしない。一万語を覚える。しかしそれ以上は、なにがあっても、一語も覚えない、 - 2026年1月15日
13歳からの地政学田中孝幸地政学を勉強したことがなかったので勧められて。 「それは、どういう視点でみるかによって変わってくる。たしかなのは、どちらかが絶対的に正しいことや悪いことはない、立場の違いがあるだけだ。ただ、だからといって世の中に正義がまったくないというわけでもない。相手との立場の違いがあり、それを謙虚にわかろうとした上で、何がより正しいのか考え続けることが大事だ」 「外国語を勉強するということは、その国の言葉だけでなく、考え方や文化を知ることであり、それと比較して自分の国を理解することでもある。そうすれば話し合いや商売の場面で、自分の国の理屈を無理に押し付けたりしないだろう。大きな国の会社や政府は、それができないために失敗することも多い。いざという時に理にかなった良い判断ができなくなるんだよ(大国病)。こういうことはアメリカ、中国、ロシア、日本など世界中の国で大なり小なり起こっている」 「アインシュタインの名言で、『学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるか思い知らされる。自分の無知に気づけば気づくほど、より一層学びたくなる」というものがある。一見自分と関係のないような分野の学問でも、取り組んでみれば面白く、役に立つこともある。学校で知識を増やしたり物を考える習慣をつけておけば、君たちをだまそうとする人の言葉にも、立ち止まっておかしいかもしれないと考えることができるようになる。知識を増やすということは、だまされないように武装するということなんだ」 ◾️物も情報も海を通る ▶世界の貿易はほとんどが海を経由し、海を支配するアメリカが世界の仕切り役になっているこのためアメリカのドルが世界中の貿易の大半で使われている ▶アメリカは自国通貨で外国から物を買うことができるので、豊かになっている ▶世界のほとんどのデータは海底を経由し、海の支配は情報をおさえることにつながる ▶情報はたくさん集めても、分析して使えなければ持っていないのに等しい ▶経済成長の度合いは人口と技術の伸びによって決まる ◾️日本のそばにひそむ海底核ミサイル ▶核兵器は①原子力潜水艦②海中からミサイルを発射する能力③深くて安全な海、の3つをそろえてはじめて最強のアイテムになる 1中国は3である南シナ海を支配し、アメリカと対等になることを目指している ▶ 遠くの国と仲良くして近くの国の脅威に対応する 「遠交近攻」は地政学の王道である ▶日本がアメリカと同盟を組んで、中国に対する立場を強めようとするのも遠交近攻の一環である ◾️大きな国の苦しい事情 ▶長い陸続きの国境は管理が難しく、領土を守るのにも大きな困難がともなう ▶中国など多くの大国の侵略的な行動には、自国を守ろうとする心理が強く働いている ▶少数民族を多く抱える大国は、独立や反政府の動きをいつも必死におさえこもうとしている ▶選挙を行う利点は、暴力や流血なしに政権を代えられることにある ▶戦争にったカリスマでなければ、選挙なしにリーダーであり続けるのは難しい ◾️国はどう生き延び、消えていくのか ▶小国は遠交近攻で近くの大国に圧倒されないように、必死でバランスをとっている ▶伝統ある王家には、国民を一つにまとめて協力し合えるようにする力がある ▶多くの国では、王様と政治家は多忙な国の代表としての仕事をワークシェアしている ▶通常、国が分裂すると一般市民の生活は苦しくなる ◾️絶対に豊かにならない国々 ▶アフリカが貧しい最大の原因は、お金が欧米などに大量に流れ出ているためである ▶アフリカの政治家が国民のお金を着服するのは、国境となった境界線が無理やり引かれたことも背景にある ▶民族や部族の争いが多い国では選挙を行っても国内は安定せず、発展しにくい ▶多民族国家でもシンガポールのように、同じ国民としての意識を高めて豊かになった例もある ◾️地形で決まる運不運 ▶アメリカが超大国となったのは、地理的条件に恵まれていることが大きい ▶大国は他の国に目が向きにくく、無知からテロや戦争を引き起こしてしまうことがある ▶朝鮮半島のように大国に囲まれた土地は争いに巻き込まれやすく、独立を保つのが難しい 1日本が敗戦を天災のようにとらえたのは、復興のための知恵だったが、マイナス面もあった ▶ 黒人差別などの社会問題が残る限り、関連するネガティブな歴史は蒸し返され続ける ◾️宇宙からみた地球儀 ▶内向きな中国は外国との付き合いに慣れていないため、世界中でトラブルを起こしている ▶無料で得られるネット上の情報にはうそも多く、信頼性を確認するのは難しい ▶地球温暖化を天然資源の開発を助けるとしてポジティブにとらえる国もある ▶歴史上、強い大国は自らが中心であるという世界観を他国に受け入れさせてきた - 2026年1月15日
私たちのテラスで、終わりを迎えようとする世界に乾杯すんみ,チョン・セラン希望を持てない世界の中で、自分の小さな幸せために、世界が少しでもよくなるために、希望を捨てない。そんなたくさんの物語が集まった短編集。 「そして、バトンは渡された」がからっと明るい話だったから、その後に読んだことで「全体的に暗いな、、」というのが第一印象。今の時代にすごくあった内容だと思う。 「努力すれば報われる」みたいなことを上の世代は未だに言うし、下の世代の反応を物足りなく感じてるようだけど、下の世代は冷静に世界を見てるだけなんだろうな。その上で何が自分にとっての幸せか考えている。 明るい未来が見えない世界で、でもささやかな希望を失わずに生きる人たちが世界中にたくさんいることを感じられる本だった。 ◾️十時、コーヒーと私たちのチャンス 「どう?」 「味は妙に普通だけど、すごく芳醇な香りがする。これってなんのコーヒー?」「実験室で栽培したものなんだって。農薬も使わないし、栽培に必要な水も少ないって。世界中にいるバリスタにテイスティングしてほしいとサンプルを送ってるみたい。どう評価すればいいと思う?おいしい豆をてきとうに混ぜ合わせてるような味って感じではあるよね・・・・・・」 カウルさんが使うコーヒー豆はフェアトレードで輸入したものだけれど、それでもいつも後ろめたい気がしている。コーヒーが熱帯雨林を破壊し、環境を汚して、現地の人々はコーヒーを栽培するために食料主権を深刻なまでに侵害されている。 「・・・・・・大げさに褒めちゃおうよ。ほんのちょっとだけね」私は言った。ちょっとだけ大げさにめて、まだ中途半端な魅力の豆にチャンスを与えよう。もっと改善できるチャンスを。 「やっぱ、それがいいよね?」 カウルさんが頷きながら同意した。私たちは額を寄せて程よいほめ言葉を紙に書き始めた。ふとスマホの画面を覗くと、十時ぴったりだった。 ◾️スイッチ 「オンニはいつも本当に大事な話だけをされてるんですよね。それが面接では不利になるかもしれないけれど、何重ものフィルターで濾されて出てくる言葉が好きなんです。私にはできないことなので」 アラはハンピッを見ながら、いまどんな気持ちかとは関係なく、おそらくずっと友だちでいることはできないだろうという甘ったるくて悲しい思いに耽った。これまでも講習会が終わってからプライベートでも親しくできたケースはあまりなかったし、はっきり言ってハンピッには友だちがたくさんいるだろうから。私たちは外の世界へと散っていくのだろう。それでもハンピッと交わしたさっきの会話は、しばしば思い出すような気がして、アラは笑みを浮かべた。 自分の話す番になり、プレゼントしてもらったスイッチをオンにした。 ◾️アラの傘 無限に成長しつづける時代が終わってしまったことだけは、ハッキリとわかる。 何もかもこのままは続かないだろう。上の世代が誤解しているように、なんとなく敗北主義に陥っているわけではない。ただ事実が指し示しているところを淡々と見つめているだけ。騙されないようにと。騙してこようとするすべての試みを阿呆らしいと思いながら。この小さな惑星で何かが無限に成長すると主張していたなんて。 そんなことを昔はよくも信じられたと思う。二十世紀の勢いよく無責任なスローガンが力を失いつつある頃に生まれてしまったのを、こちらにどうしろというのだろう。騙されにくい世代に属しているという自負だけはある。もう我慢をしなくなった世代に属しているという自負も。 疲労困憊した。歳にそぐわない疲労感のせいで、若者が老いぼれていく。変わらない世界、分かち合わない世界、過酷なほうへと悪化してしまう世界で、老化は加速される。なんとかの支援金を受け取るために、義務で受けなければならない授業で心理テストを受けたら、退職者レベルの心理状態だという結果が出て噴き出してしまった。人生の質を最も優先しているという結果に、まだそうなるには早すぎると講師に突っ込まれた。人生の質を犠牲にして得るものがなければ、自分を燃料がわりにして燃やそうと思えないだろう。いい時代を送ることができた人間にしか通用しない言葉だろう。 ミニマリズムとは、この時代にとっての実用主義で、見栄ではなく生存術だ。そのことが理解できる人と、一生理解できない人がいるだろう。それまでの搾取方法が通じなくなったことと、若い世代が別の方向へ向かうのが気にくわない後者の人たちが、足を踏み鳴らしているのに目を向けつつ、アラとアラの友だちは怒りながらも笑うだろう。 ◾️ヒョンジョン 足元で子どもの頃に縮約版で読んだ『海底二万里』が見つかった。この間読んで印象に残っている『すべての見えない光』の主人公、マリー"ロールが点字で読んでいた本だ。本と本がつながるのはいつも不思議でならない。そのネットワークを探検しながら十分な人生を送りたかった。 好きな気持ちで、好きだから焦る気持ちで、ずっと待っていた。それがヒョンジョンの仕事だった。待つこと。次の本を、その次の本を。新しい作家に出会うために冒険しては失敗することをくり返しながら。平均寿命で計算すれば、あと何冊読めるのだろうと考えながら。ジョージ・R・R・マーティンは、読書家は死ぬまでに千回の人生を生きると言っていたことが、いまさら慰めになる。今日死んだとしても、私は千回の人生を生きていたことになるから。 本棚が完全に倒れはしないかとドキドキしながらも、遠くに手を伸ばした。すぐ後ろの本棚は、児童書のコーナーのようだ。ヒョンジョンは嬉々としてロアルド・ダール、アルキ・ゼイ、ルイス・サッカーの本を見つけた。ロアルド・ダールの本は『マチルダは小さな大天才』だった。改めて読んでも面白い。本の最後に、ロアルド・ダールがロ癖に言っていた言葉が記されている。「私は思う。親切こそが人間の持ちうる最高の資質だと。勇気や寛大やその他の何よりも。あなたが親切な人間なら、それで十分だ」。彼の本は親切な人をどれだけ多く生み出したのだろう。ヒョンジョンは涙を流しながら、死後の世界というものがあるなら、ロアルド・ダールが先に渡っている世界だろうと考える。 特別な人間ではなかったなあ、とヒョンジョンは夢うつつのなかでつぶやいた。 それでも心の内側は美しい文章で埋め尽くされている。本に線を引かず、折り目も付けなかったけれど、文章をありったけ吸収できた。それでよかったと自分を評価する。寒さに縮こまってひざを抱えている格好のまま、引用ノートになれそうな気がする。折れて、くっついているところまでの体表面積を計算したら、何ページ分のノートになるだろうか。後ろのページは白紙のままだろう。そんな突拍子のない想像をしながら、眠りにつく。眠ったら危険だとわかっているのに。 - 2026年1月13日
そして、バトンは渡された瀬尾まいこ良すぎた、、、! 読み終わってからも こんなに胸の奥がずっとずっと暖かい物語はない。 梨花さんの「親になるって、未来が二倍以上になることだよ」って言葉も、森宮さんの「恋愛より大事なものはけっこうあるし、何か一つ手にしていればむなしさなんて襲ってこない。」という言葉もとても共感できる。 自分のためだけに生きていたときは、もっともっとといつまでも満たされない気持ちが常にあった。 でも自分の息子が産まれてから、無条件に誰かのために生きること、可能性に満ちた日々を見守れるとこに今までにない幸せを感じる。 この物語を読んで、子供のためにならなんでもできてしまう、親の愛情ってすごいなと改めて思うと共に、自分が受けてきた愛情も思い出すことができた。その時は当たり前でちゃんと感謝できてなかったな。今からでも親孝行したい。そして息子にも自分が受けたものを引き継いでいけるように。 ・その後、私の家族は何度か変わり、父親や母親でいた人とも別れてきた。けれど、亡くなっているのは実の母親だけだ。一緒に暮らさなくなった人と、会うことはない。でも、どこかにいてくれるのと、どこにもいないのとでは、まるで違う。血がつながっていようがいまいが、自分の家族を、そばにいてくれた人を、亡くすのは何より悲しいことだ。 ・いい運動になるし、大家さんにお世話になってるから何かしたいと申し出ているポチとの散歩。 でも、散歩の一番いいところは、ここでこうして、ポチと並んで涙を流せることだ。一人家の中で泣いていたら、そのまま私はどこまでも閉じこもってしまうだろう。泣かずに我慢をしていたら、いつかどこかが破裂してしまいそうになるはずだ。だけど、だだっ広い空の下、川を見ながら泣いていると、涙も思い出も、一緒に流れて行ってくれる気がする。 私は不幸ではない。梨花さんとの生活だって楽しい。けれど、どうしたって寂しいし、お父さんが恋しい。そんな気持ちが簡単に消化できるわけがなかった。 ・「そんなにほめられたら気持ち悪いよ」 「本当のことなのに。まあ、ちょっと親ばかかな」私が照れるのを、大家さんは笑った。 「親ばか?」 梨花さんがばかってことだろうか。聞いたことのない言葉に、私はきょとんとした。 「そう。親ばか。自分の子ども可愛さのあまり、必要以上にすばらしいって思っちゃうこと。親ばかって言っても、私は優子ちゃんと血はつながってないけどね」大家さんはリンゴをむきながら言った。 血がつながった人は、お父さんと離れて以来、私の前には現れていない。けれど、それが親ばかなら、梨花さんだってそうとうの親ばかだ。 ・大家さんにお父さん、おばあちゃんにおじいちゃん。思い出の中でしか会えない人が増えて行く。だけど、いつまでも過去にひたっていちゃだめだ。あんなに年老いた大家さんが、新しい生活を始めるのだ。私だって、返事の来ない父親にいつまでも手紙を書いているわけにはいかない。 親子だとしても、離れたら終わり。目の前の暮らし、今一緒にそばにいてくれる人を大事にしよう。大家さんを乗せた車を見送りながら、私はそう、心に決めた。 ・また始まった。餃子だけじゃなくカレーでも語るんだ。森宮さんの理屈を聞きながら、私はカレーを口いっぱいにほおばった。カレーは辛いのに、玉ねぎもにんじんも甘くておいしい。きっとしっかり炒めたからだ。塞いでいるときも元気なときも、ごはんを作ってくれる人がいる。それは、どんな献立よりも力を与えてくれることかもしれない。 ・「梨花は優子ちゃんの本当のお父さんも知ってるし、幼かった優子ちゃんも知ってる」それがなんなのだろう。子ども時代を知っていることが、一緒に暮らすうえで重要なことだろうか。私は何も言わず、ただ泉ヶ原さんの言葉を聞いていた。 「優子ちゃんのことは大事に思う。幸せになってほしいと願ってる。一緒にいた時間は短くたって、優子ちゃんは実の子どものようにかけがえない存在だ。だからこそ、僕には自信がない。梨花よりもいい親だと言いきる自信がないんだ」 泉ヶ原さんは静かに丁寧に言葉を並べた。自信。親になるのに、そんなもの必要なのだろうか。 自信に満ち溢れた親なんか私は見たことがない。 母親は亡くなって、父親は海外に行き、梨花さんはここから出て行った。泉ヶ原さんはちゃんと目の前にいる。それなのに、父親じゃなくなってしまうのだろうか。小学四年生の時には選択権は私にあったのに、十五歳の私は決める立場にはないようだ。 ・お腹はすいていないけど、作ってくれたものを食べないのは悪い。私は箸を手に取った。だしを一口飲んでから、うどんを口にする。少し柔らかくなった麺はつるっと喉を滑っていく。具はきざんだ油揚げとかまぼことねぎで、あっさりと食べやすい。 「こんなの売ってるんだ」 三枚も浮かべられているかまぼこには、必勝の文字が刷られていた。受験を意識した商品がいろいろあるものだ。このかまぼこをスーパーで見つけた時、森宮さんほくほくしただろうな。かまぼこを買う森宮さんの顔を想像すると、思わず笑ってしまった。 「ごちそうさま」 ちゃんと食べきって、私は手を合わせた。不必要な夜食であっても、ごはんを作ってくれる人がいること。それは、とてもありがたいことだ。 ・「まあ、七割は当たってたけどね。梨花が言ってた。優子ちゃんの母親になってから明日が二つになったって」 「明日が二つ?」 「そう。自分の明日と、自分よりたくさんの可能性と未来を含んだ明日が、やってくるんだって。親になるって、未来が二倍以上になることだよって。明日が二つにできるなんて、すごいと思わない?未来が倍になるなら絶対にしたいだろう。それってどこでもドア以来の発明だよな。しかも、ドラえもんは漫画で優子ちゃんは現実にいる」 森宮さんと結婚したかった梨花さんが、うまいこと言って私のことを承諾させようとしただけだ。私はますます森宮さんが気の毒になって、「梨花さん、口がうまいから」と言った。 「いや。梨花の言うとおりだった。優子ちゃんと暮らし始めて、明日はちゃんと二つになったよ。 自分のと、自分のよりずっと大事な明日が、毎日やってくる。すごいよな」 「すごいかな」 「うん。すごい。どんな巨介なことが付いて回ったとしても、自分以外の未来に手が触れられる毎日を手放すなんて、俺は考えられない」 ・私もあのころ、このピアノを毎日弾いていた。梨花さんは、ピアノを弾かせるために私をこの家に連れてきてくれた。だけど、ここで私が手に入れたのは、ピアノだけじゃない。窮屈で息苦しかった。それでも、私はこの家で、穏やかな平和な暮らしというものを知った。経済的な安定ではなく、そばにいる人が静かに見守ってくれることで得る平穏さを感じることができた。 中学の三年間。ただでさえ、多感な時期だ。不安や寂しさや孤独感や苛立ち。そんな思いが渦巻くこともあった。けれど、私は投げやりになることはなかった。それは、ピアノが私の不安定な感情をまぎらわせてくれているからだと、思っていた。でも、そうじゃない。いつも同じ音を鳴らすピアノを確かめることで、私は泉ヶ原さんの愛情に触れていたはずだ。早瀬君が奏でるピアノの音に、それを思い知った気がする。 ・梨花さんが過去の人なら、そろそろ森宮さんも好きな人ができるといいのにね」「まあな。けど、いいや。昔は俺も、恋愛をしたり結婚をしたりしてないのはむなしいことかもしれないと考えてたけど、そうじゃないんだよな」「そうなの?」 「恋愛より大事なものはけっこうあるし、何か一つ手にしていればむなしさなんて襲ってこない。 優子ちゃんも大人になったらわかるよ」 森宮さんはしみじみと言った。 ・私は梨花さんから離婚届が送られてきた時のことを思い出した。あの時、森宮さんはまるで動じず届けに判を押していた。その後も梨花さんを恋しく思っている姿など一度も見たことはない。 だから、この人はどんな変化でも流してしまえるんだ。そう思っていた。 だけど、森宮さんはちっとも平気なんかじゃなかったのかもしれない。思い切った行動をする早瀬君を認められないくらいに。七年経っても誰も好きになれないくらいに。きっと、私の気持ちを乱さないように平然を装っていただけだ。どうしてそんな簡単なことがわからなかったのだろう。いや、私にわかるわけがない。梨花さんが病気だったことも、愛する人に出て行かれた森宮さんの気持ちも。私の親である人は、あまりにもたやすく子どもを優先してしまうのだから。 ・きっと、お父さんは会わないうちに優子ちゃんへの気持ちも薄れるだろう。そう思っていました。けれど、私自身優子ちゃんの母親を辞めようと決心した時、お父さんの気持ちがよくわかった。離れたって、自分に新しい家族ができたって、子どもに対する思いは少しも薄められないって。 ・「守るべきものができて強くなるとか、自分より大事なものがあるとか、歯の浮くようなセリフ、歌や映画や小説にあふれてるだろう。そういうの、どれもおおげさだって思ってたし、いくら恋愛をしたって、全然ピンとこなかった。だけど、優子ちゃんが来てわかったよ。自分より大事なものがあるのは幸せだし、自分のためにはできないことも子どものためならできる」森宮さんはきっぱりと穏やかに言った。まだ私にはその気持ちはわからない。早瀬君と共に進む時間が増えたら、わかる日が来るのだろうか。 「自分のために生きるって難しいよな。何をしたら自分が満たされるかさえわからないんだから。 金や勉強や仕事や恋や、どれも正解のようで、どれもどこか違う。でもさ、優子ちゃんが笑顔を見せてくれるだけで、こうやって育っていく姿を見るだけで、十分だって思える。これが俺の手にしたかったものなんだって。あの時同窓会に行ってよかった。梨花と会わなかったら、俺今ごろ路頭に迷ってたな」 「まさか。それこそおおげさだよ」 「まあ、俺、頭はいいから路頭には迷わないけど、でも、人生はきっともっとつまらなかった。 よかった。優子ちゃんがやってきてくれて」 私もだ。森宮さんがやってきてくれて、ラッキーだった。どの親もいい人だったし、私を大事にしてくれた。けれど、また家族が変わるかもしれないという不安がぬぐえたことは一度もなかった。心が落ち着かなくなるのを避けるため、家族というものに線を引いていた。冷めた静かな気持ちでいないと、寂しさや悲しさややるせなさでおかしくなると思っていた。だけど、森宮さんと過ごしているうちに、そんなことなど忘れていた。ここでの生活が続いていくんだと、いつしか当たり前に思っていた。血のつながりも、共にいた時間の長さも関係ない。家族がどれだけ必要なものなのかを、家族がどれだけ私を支えてくれるものなのかを、私はこの家で知った。 ・「最後にお父さんと呼ぶのかと思った」 「そんなの、似合わないのに?」 優子ちゃんは声を立てて笑うと、「お父さんやお母さんにパパやママ、どんな呼び名も森宮さんを越えられないよ」 と俺の腕に手を置いた。 どうしてだろう。こんなにも大事なものを手放す時が来たのに、今胸にあるのは曇りのない透き通った幸福感だけだ。 「笑顔で歩いてくださいね」 スタッフの合図に、目の前の大きな扉が一気に開かれた。 光が差し込む道の向こうに、早瀬君が立つのが見える。本当に幸せなのは、誰かと共に喜びを紡いでいる時じゃない。自分の知らない大きな未来へとバトンを渡す時だ。あの日決めた覚悟が、ここへ連れてきてくれた。 「さあ、行こう」 一歩足を踏み出すと、そこはもう光が満ちあふれていた。 - 2026年1月13日
- 2026年1月11日
Tシャツの日本史高畑鍬名たまたま目にしたので読んでみた。 面白い内容だったが、 「男性のファッション」に関する内容だったため、 思っていたよりも興味が湧かず... 読み終わるまでに時間がかかってしまった。。 ファッションの流行は制服化し、同調圧力を生む。 先輩世代への拒絶が次のファッションを生む。 時代によってキレイめ、ストリートカルチャー系等、流行りの系統が変わるのも、Tシャツのタックイン、タックアウトの流行が変わるのも、メディアが仕組んだものではない。全時代の形を壊そうとする若者の姿勢や、世の中の流行とは関係ないところで服を着て、自分達の文脈を突き通す姿勢から、「当たり前」が書き換えられた結果であるということがわかった。(「ファッションとは街に対する挑戦である。」という哲学者の千葉雅也のツイートはかっこいい!) 著者が「『幽★遊★白書』では、Tシャツ過渡期の格闘シーンでは、コマによって裾が出たり入ったりするほど、製作陣がタックインとタックアウトに無頓着。登場人物だけではなく、製作陣が時代の同調圧力を受け、その混乱がそのまま掲載されている稀有な例」と表現しているのが面白かった。笑 「SLAM DUNK」は登場人物の性格描写と、Tシャツの裾のイン/アウトがシンクロしており、作者は、はっきりとした意図をもって主人公にTシャツを着せ、物語の冒頭で、その裾を入れている、らしい。 Tシャツがタックイン、タックアウトどちらかなんて注目してなかったから、しばらくは街中でも気になってみてしまいそう。 ◾️覚え ・安政6年(1859年)(前年に日米修好通商条約が調印され、横浜・長崎・箱館が開港され、貿易が開始された)時点で、百姓や町人は「異形の服」(洋服)を既に着用していた。 ・慶応3年(1867年)(王政復古の大号令発令の年)に福沢諭吉によって書かれた「西洋衣食住」に肌着としてのシャツ(オンドルショルツ)が紹介される。 ・明治4年(1871年)(廃藩置県実施の年)に明治天皇が「服制変革の内勅」を出して、洋服を採用。廃藩置県実施前までは公家と武家で、髷が違った。着る服の色も違った。天皇から与えられた位階の上下によって外見がまるで違った。洋服の着用によって、旧藩士たちが身分制度の解体を試みた。洋服・散髪・脱力は、「世襲門閣制による身分制から実力や能力を重視する四民平等へ」時代が変わっていく予兆となった。 ・明治時代にはフリースタイルな洋服着用者たちで溢れ、ストリートファッションが誕生し、メディアがそれをバカにする構図が150年以上も前から日本にあった。 ・ 1953年(1952年、サンフランシスコ講和条約による日本は独立の翌年)、工夫をすればという条件付きで、本来肌着であるTシャツ1枚で出歩いても問題ないと、女性向けファッション雑誌のコラムで記載される。 ・1958年に「六本木族」(日本で最初にTシャツを制服化した族)が誕生。 ・1964年、「みゆき族」と「平凡パンチ」(男性向け週刊誌)が誕生したことで、“男がおしゃれをしても顰蹙を買わない時代"になった。 ・1967年夏頃、日本でヒッピースタイルが広まり、Tシャツやジーンズの流行をもたらした。(1960年代は「政治の季節」と呼ばれている。権威に反抗する若者たちは、サンフランシスコではヒッピーと呼ばれた。) ・80年代は「雑誌の時代」と呼ばれるほど、雑誌の影響力が強まっていた。雑誌は、その時代の「正解」を規定していくことになる。逆に言えば、雑誌によって「不正解」が誕生した。 ・2005年に「電車男」のブームがあり、タックインはみっともないものという認識になった。 ・タックアウトの流行は単発で終わらず、何年も続いて風俗になった。 ・菅田将暉のスタイル、デンマークのパンクバンド/アイスエイジの来日等の影響で、タックインが若者の間で一般化していった。 - 2026年1月7日
子どもとの関係が変わる 自分の親に読んでほしかった本フィリッパ・ペリー,高山真由美話題になっていたので読んでみた。 当たり前のことばかりだが、自分に余裕がなくなると感情的になり、それが子供にも影響することはあり得る。 常に意識するとともに、反省すべき対応をしてしまったら、素直に子どもに謝るという姿勢を持ちたい。 ・子育ての核心は、子どもとの関係にあります。人が植物だったら、親子関係は土壌です。親子関係は人という植物を支え、育み、成長させ、場合によっては成長を妨げます。いざというときに頼りになる親子関係ができあがっていなければ、子どもの安心感は損なわれてしまいます。あなたと子どもとの関係は、子どもにとってしやがては子どもの子どもにとってもー力の源となるべきものです。 ・子どもは、親が言うとおりのことはしない。親がするとおりにする。 ・子どもは何歳になろうと、あなたがその子どもに近い年齢だったころに経験した感情を、体感できるくらいはっきりと思いださせる ・もしあなたに頭のなかで自分を責める癖があるとしたら、あなたの子どもも同じように、有害なその癖を身につけている可能性があります。 ・人間は常に変化し、成長します。とりわけ子どもはそうです。だから判定して断ずるよりも、あなたが目にするものを表現し、高く評価する言葉を口にするほうがずっといいのです。たとえば、こんなふうに言いましょう。「あなたがその計算にすごく集中しているのが、とてもいいと思った」。 これはただ「算数が得意なのね」と言うよりずっといいのです。同様に、単に「いい絵だね」と言うのではなく、「よく考えて描いてあるね、感心したよ。家が笑っているみたいに見えるところが好きだなあ。楽しい気持ちになれる」と伝えましょう。 ・乳児は100パーセント感情だけで生きています。感情の固まりと言ってもいいでしょう。私たちは子どもが感じることをすべて理解できるわけではありませんが、ときには子どもが落ち着くまで長い時間をかけてなだめなければならないこともあります。これは子どもの心の健康の基礎を築くために、愛情をこめてすべき仕事です。生まれて最初の数年のあいだ、親が子どもの感情に真剣に向きあい、共感を示しつつ受けいれれば、その子は何かいやなことがあってもいずれ好転すると思えるようになります。 あなたが子どもの感情に敏感に反応すれば、子どもは自分の感情との健全なつきあい方を覚えます。それがどんな感情であれ極度の怒りや悲しみであれ、穏やかで落ち着いた充足感であれ、溢れんばかりの歓喜や寛大さであれ!うまく扱えるようになります。 ・親からなだめられた経験が充分にあると、楽観的になれて、抑鬱や不安の影響を受けづらくなります。心の健康を害することを完全に避ける方法はありませんが、どんな感情を経験しようと受けいれてもらえる、どんなにいやな気持ちになろうとそれはいずれ過ぎ去ると教えられていれば、確実に助けになるのです。 ・子どもが必要としているのは、親が自分の感情の受け皿になってくれることです。つまり、あなたがそばにいて、子どもが感じていることを知り、受けいれ、それでいてあなたが圧倒されることはない状態です。これは心理療法士がクライアントに対して取る態度と同じです。 受け皿になるとは、子どものなかにある怒りを目の当たりにし、なぜ子どもが怒っているのかを理解し、場合によっては子どもの代わりにその怒りを言葉にして、怒りを表現する適切な方法を示すことです。怒りに対して罰を与えたり、親のほうが圧倒されたりしてはだめなのです。ほかの感情についても同様です。 ・その決心はよかったのですが、ときには後悔するようなこともしました。そういう行動を取ったときに、もし自分でハッとしたり、あとになって気がついたりしたら、必ず娘に謝るか、考えや行動を変えるようにしました。娘の父親も私も、自分の行動が役に立っていないときにはそれを改め、どこでしくじったのか、姫に打ち明けました ・これから親になる人や、すでに親である人にとって、一番いいのはものごとを長い目で見ることです。つまり、乳幼児や学童やティーンエイジャーと関わることを、食事を与えたり清潔にしたりといった片づけ仕事のように見なすのではなく、彼らを最初から人として、一生のあいだ関係の続く相手として捉えるべきなのです。 ・親から離れるペースが自分に任されていると、子どもが不安を感じてまとわりついてくることはありません。夜別々に寝るときも、保育園に1人で置いていかれるときも、ほかのどんな状況でも同じです。親は「そっと押し」て、子どもがこうした状況を受けいれられるように励ますことはできますが、子どもの自立を急かしすぎると親子関係にダメージを与え、修復が必要になります。親にとっては自立を励ましているつもりでも、子どもにとっては突き放され、罰を与えられていると感じられることもあるのです。子どもが自分のペースで親離れするのをじて、親のペースを押しつけるのはやめましょう。 ・大人もそうですが、子どもは選択の余地が大きすぎると圧倒されて固まってしまいます。選択肢は多いほうがいいと思うかもしれませんが、心理学者のバリー・シュワルツがおこなった実験によれば、そうではありませんでした。彼の発見によると、人は30種類のチョコレートが入ったボックスよりも6種類のボックスを喜び、自分が選んだチョコレートへの満足度も後者のほうが高いそうです。あまりにも選択肢が多いと、間違った選択をしてしまうのではないかと不安になるのです。 西欧の平均的な子どもは150以上のおもちゃを持っていて、さらに毎年70個を新たにもらうそうです。これでは子どもは圧倒されてしまいます。これだけの量のおもちゃがあると、何か1つのものにじっくり集中することができず、せわしなく次から次へと別のおもちゃで遊ぶことになります。買い与えようとするのはたいてい両親で、そうすれば親が相手をしなくても勝手に遊んでくれると思うようですが、そううまくはいきません。 ・子どもを上手に遊ばせるには ・集中している子どもの邪魔をしない。 ・幼い子どもがあなたと遊びたがったら、子どもがやりたいことに最初にしっかりつきあう。子どもが遊びに没頭してあなたを必要としなくなったら、そっと身を引く。 ・少し大きい子どもの相手をする場合、子どもが何をして遊んだらいいかわからずにいても、毎回親がリードしようとしないこと。子どもが退屈していたら、子どもを頼し、「きっと何か楽しいことを見つけられるよ」と伝える。退屈は、創造に不可々です。 ・ボードゲームやカードゲーム、スポーツ、カラオケなど、あなたも一緒に楽しめる活動のための時間を確保しておくこと。 ・さまざまな年齢の友達と遊ばせること。 ・あなたは自分の行動をどう説明しますか?いつも他人に敬意を払っているでしょうか?他人の感情を思いやることができますか?あなたの「良いおこない」は心からのものですか、それともただマナーを守っているだけでしょうか?表面上は人あたりがいいのに、陰で悪口を言ったりしていませんか?厳しい競争社会で行き詰まっていませんか?どんな行動であれ、あなたは同じ行動を取るようにと子どもに教えているのです。 ・あなたの仕事はお手本となる行動を取ることです。子どもやほかの人々に対して等しく親身な態度で接し、子どももそれに倣ってくれることを願うだけです。社会に適応できるように、子どもが身につけるべき4つのスキルがあります。 ①ストレス耐性 ②柔軟性 ③問題解決能力 ④相手の視点で物事を捉えられる能力 これを先ほどの例にあてはめてみましょう。①娘が買物から帰る途中に座りたがったとき、私は早く家に着きたいと思って感じたストレスをやり過ごしました。②家へ向かう速度について期待値を変え、柔軟に対応しました。③娘が休憩を必要とするのを受けいれることで問題を解決しました。④どうして休みたいのか、娘の視点から考えました。 ・より良い行動のために ・子どもへの決めつけをやめて、自分の気持ちを明示する ・あなたの決断が事実にもとづいているようなふりをしない。実際にはあなたの感情や好みにもとづいているのだから ・親子は敵ではないのだということを忘れない ・支配するより、協力して、意見を出しあう ・誠実さの久如は断絶を生む。あなたが誠実になることで関係は修復できる ・子どもは自分がされたことをする ・10代後半の子どもを下宿人だと思ってみる 10代後半の子どもに対してどこに境界線を引くべきか迷ったら、子どものことをあなたの家に住む下宿人だと想像してみましょう。家のルールは変わりませんが、境界を示しやすくなります。 ・あなたの荷物は廊下ではなく自室に置いてもらえるとうれしいです ・12時までに帰宅してください。あなたが遅く帰ってきて物音で起こされるのではないかと思うと、私は熟睡できません ・食器を自室に放置されるのは困ります ・洗濯機はいつでも自由に使ってもらってかまいません - 2026年1月7日
バッタを倒しにアフリカへ前野ウルド浩太郎昆虫学者を目指す著者が、農作物を食い荒らす「サバクトビバッタ」の大発生を防ぐため、アフリカ・モーリタニアへ渡り、過酷な環境や困難に直面しながら、研究に奮闘する姿を描いた科学冒険ノンフィクション 「酒を主食にする人々」を読んだ時も思ったが、 フィールドワークのノンフィクションは面白い! 特に干ばつでバッタが見つからず、 代わりにゴミダマの研究をする場面がよかった。 容器を皿を合わせて工作したり、ゴミダマの活動記録のために砂漠の砂を使ったり、ゴミダマの寝床として水道用のパイプを使ったり、ハリネズミを捕まえたり...研究者というと研究所で最新設備を使って研究するイメージだが、限られたリソースの中で試行錯誤し、形にしていく様子は「どんな状況でもできないことはない」という前向きさを感じた。 著者のバッタ研究への強い思いがあるからこそ、周りもサポートしてくれる。ババ所長、相棒ティジャニとの関係性は心が暖かくなった。著者の周りへ感謝する姿勢も素敵。著者に感情移入して、松本総長との面接のシーンでは私が泣いてしまった。 全体を通して、笑えて、感動して、前向きになれる本だった。 P188 以前の自分も含め、大勢の若い研究者はパソコンの前で、オフィスの中で研究している。 自然を理解せずに生物学を勉強することが、どれだけ多くの危険に満ちていることか。気をつけなければならないと強く感じた。ハロウは私に自然の大切さを教えに来てくれた、砂漠からの使者だったのだ。 P227 ティジャニが大喜びで私を迎え入れてくれた。不在中、研究所の他の職員たちから、「コータローはもう戻ってこないぜ。フランスがコータローを奪ったんだ」と言われ、肩身が狭かったそうだ。 ティジャニは「いや、コータローはバッタが重要だから、モーリタニアでバッタが出たらすぐに戻ってくるはずだ」と言い張っていたので、実際に私が帰ってきたときには、同僚たちに「ほらみろ」と勝ち誇ったそうだ。 前「いつでもミッションに行ける?」 テ「ウィー!そう言うと思って車の整備は終わらせておいた」 バッタが続々とモーリタニアに戻ってきていた。運命の第2ラウンド開始である。この闘いで、なんとしても結果を残さなければ、昆虫学者を続けるための次のポストを獲得できない。人生を決する正念場を迎えていた。 P262 ババ所長は、私の行く末をずっと気にかけてくださっていた。 「なぜ日本はコータローを支援しないんだ?こんなにヤル気があり、しかも論文もたくさんもっていて就職できないなんて。バッタの被害が出たとき、日本政府は数億円も援助してくれるのに、なぜ日本の若い研究者には支援しないのか?何も数億円を支援しろと言っているわけじゃなくて、その十分の一だけでもコータローの研究費に回ったら、どれだけ進展するのか。コータローの価値をわかってないのか?」大げさに評価してくれているのはわかっていたが、自分の存在価値を見出してくれる人が一人でもいてくれることは、大きな救いになった。 P299 今年で5期目となる白眉プロジェクト。一人で何百人もの面接をしてきた中で、松本総長にとって、初めてモーリタニアから来た面接者だったのだろう。 「前野さんは、モーリタニアは何年目ですか?」という素朴な質問が来た。 「今年が3年目です」 それまではメモをとったら、すぐに次の質問に移っていた総長が、はっと顔を上げ、こちらを見つめてきた。 「過酷な環境で生活し、研究するのは本当に困難なことだと思います。私は一人の人間として、あなたに感謝します」 危うく泣きそうになった。まだ何も成果を上げていないから、人様に感謝される段階ではないが、自分なりにつらい思いをしてきており、それを京大の総長が見抜き、労をねぎらってくださるなんて。ずっとこらえていたものが決壊しそうになった。泣くのをこらえて、その後の質問に答えるのはきついものがあった。 なんとスケールの大きい感謝だろうか。世界を我が身の如く捉えていなければ、こんな感謝ができるはずはない。ましてや京大の総長が一介のポスドクに、面接の場で。ご自身が大きな視野を持ち、数多くの困難を経験していなければ、このような大きな感性は身につかないはずだ。京大の総長ともなると次元が違う。 - 2026年1月5日
三宅香帆さんをテレビやYouTube等でよくお見かけするようになり、人を傷付けず、でも自分の考えを伝える姿が素敵だなと思い、著書を読んでみた。 自分はここまで細かく意識して発信することはないと思うが、何かを伝えるときに伝える相手を意識している点は当たり前でありながら忘れてはいけないなと思った(自戒)。 ・SNS等で友人や見知らぬ人の言葉が日々大量に頭の中に流れ込んでくる現代で、他人の言葉と、距離を取るために。自分の言葉をつくる技術が、今の時代には不可欠。 ・クリシェ(ありきたりな表現)を使わずに言葉にする。 ・妄想力を広げて感想を生み出す(妄想だから正しくなくていい!) ・ネガティブ・ケイパビリティ(もやもやを抱えておく力)を身につける ・言語化とは、いかに細分化できるかどうか ・自分の言葉をつくるための3つのプロセス ①よかった箇所の具体例をあげる ②感情を言語化する(どういう感情をどうして) ③忘れないようにメモする ・ポジティブな感情の言語化プロセス (1)「共感」(既に自分が知っている体験/好みと似ている)。もしくは、「驚き」(今まで見たことのない意外性を感じる)のどちらなのかを考える (2)「共感」の場合 ①自分の体験との共通点を探す ②自分の好きなものとの共通点を探す 「驚き」の場合 ③どこが新しいと感じるのか考える ・なんらかの情報を、誰かに手渡そうとすること。つまりは「発信」ーそれらはすべて、相手との距離(発信する内容についての事前の情報量の差異/どれくらい知っているのか、どのような印象を抱いているのか)をつかむところから始まる。 ・自分の伝えたいことを伝える前に自分と相手の情報格差を埋める ・聞き手との溝を想像するクセをつける ・「どこへ連れて行きたいか(しゃべりの終着点)」をわかっておく ・書き始める前にやるべき2つのこと ①読者を決める ②伝えたいポイントを決める
- 2026年1月3日
YABUNONAKA-ヤブノナカー金原ひとみ文芸誌元編集長・木戸悠介への性加害をネットで告発した女性をきっかけに、関係者8人の視点が交錯する群像劇。 告発を巡る加害者、被害者、その家族、同世代の作家、編集者、そして子供世代の視点から、それぞれの主観で物語が描かれている。 読み進めるたびに考えることが多すぎて、 でも答えが出なくて、読み切るのに時間がかかった。。 どの登場人物ももっともな考えを持っているように見えて、誰にも共感できない。 絶対に分かり合えないという絶望感に似た感情が湧き上がる。 自分の中に押し込まれていた怒りが思い出される。 何が正しいんだという答えが自分の中で見つからない。 むしろ読めば読むほど、安易に自分の考えを出すことが怖くなる。 自分の考えが偏っていることが浮き彫りになっていく。 私は無意識に誰かを傷付けているのではないかと不安になる。 時代に合わせて自分の考え方をアップデートする必要があるということはもちろんだが、一つの側面、方法だけで判断することは危険だと、自分の戒めとして残す。 ここまで考えさせられる小説は久しぶりだった。。 小説でこんなに多くのものを表現できるのか。。 2025年一番の小説だった。 - 2026年1月2日
- 2025年12月31日
YABUNONAKA-ヤブノナカー金原ひとみ・俺は一つの、現代的に言えばトキシックなマスキュリニティに到達する。この世は女性ばかりが優遇されている。レディースデーも女性専用車両も、おじさんはおじさんなだけでバカにされることも、ハゲやデブが人外の扱いを受けることも、女は何歳になってもそれなりの扱いを受けるのに、男は雑な扱いばかりされることも、マチアプでも外食でも男ばかりが課金を強いられることも、唐突に許せなくなっていく。俺だって好きで男に生まれたわけじゃない。 三十を過ぎた頃からどんどん脂ぎって、肉がつき始めて、毛穴が開いて、髪が薄くなって、何故か足まで少し短くなったように感じられる。何もしてないわけじゃない。リアップ的なものを使ったり、肌を整えるための化粧水や乳液を使ったり、美容室の頻度を高めたりもしている。二十歳前後の頃は見方によってはイケメンと自認したこともあったのに、加齢の波には抗えず、ここ数年自分がどんどん汚いおじさんになっていくのを自分でもハラハラしながら見守ってきた。自分でも自分のおじさん化が辛い。そしておじさんは社会に軽んじられ、虐げられている。自分は腹を立てていた。社会性のない、理不尽な怒りに、震えていた。自分を癒すのは、同世代の平均よりも、ほとんどの女よりも高い収入だけだった。行く当てのない漠然とした怒りは、性欲には変化せず、ただ胸の奥に振動のような寂しさを残した。 ・僕は告発自体よりも、告発されて、自分の何がそんなに彼女を傷つけたのか、全く分からなかったことにショックを受けたんだよ。僕は彼女を物のように扱ったことはなかった。普通に、人として敬意を持って接してた。昔から、切り離すと決めたものには冷たいって言われてたし、自分でもそういう質だとは自覚してたけど、それは自分自身を納得させるために必要な経緯でもあって、別れ際に冷たくしたのは相手のためでもあると思ってた。別れたい相手から優しくされたって、嫌なだけだろうしね。小説のことだって、最後には恨まれたけど、親身になって考えた結果だよ。もちろん、僕の赤入れを採用するかどうかは自分で決めてくれとは言ったけど、それはそれこそ人として尊重したからだし、読んでくれって言われて、急かされて、プロの作家の原稿を差し置いてまで赤入れして、でもこんな修正したくないとか、感覚が古いとか言われたらカチンとくるし、恨み言はいくつか言ったかもしれないけどね。でも僕だって彼女にひどいことをたくさん言われたんだよ。それはもう、ひどい罵詈雑言を浴びせられた。もちろん、自分に都合の悪いことは忘れてるんだろうけどね。僕も彼女も ・結局、まあお互い言い分があるってことなんですよね。恋愛関係とか肉体関係のあった二人の間の善悪なんて、その二人の間にしかないし、どっちかの話だけ、いや両方から聞き取りしたって、どっちの方がどっちより悪いとか、僅差でこっちの方がましとか言えないわけで。 ・どんなに慎ましく生きてても、どんなに言動に気をつけて生きてても、変な巡り合わせで恨まれることはあるんだって、思い知らされたよ。僕より悪質なことしてたやつなんていくらでもいたのに、なんの制裁も受けずにのうのうと生きてる。僕だって、ハメようと思えばハメられるやつは会社にも作家にも何人もいる。まあ、録音とかしてないから証拠はないけど、でもそれ言ったら彼女の告発にだって別に証拠はないんだよね。だからあれは厳密には告発じゃない。あれは、いわば彼女の回顧録で、小説みたいなものなんだ。彼女もあの中で書いてたしね、これは私の復帰第一作だって。僕は彼女の創作に、実名出されて付き合わされただけなんだよ。世間的には、女子大生を性的に搾取して、ぞんざいに扱った罰だって言われるのかもしれないけどね ・今自分の中に湧き上がっているのは、怒りではなく虚しさなのかもしれないと、駅前まで戻ってきて、高架下で一定間隔を空けて拠点を作っている路上生活者たちの脇を顔を背けて通り過ぎながら思った。俺はATMとしての機能しか持たなくなった木戸さんの姿に、未来の自分や、現在の自分の空虚さ、そもそも人に生きる意味があるのかという、思春期に抱いていたような哲学的、文学的な問いとは一線を画した、ただひたすら数学のように無機質かつ単純な、意味と無意味の足し算引き算を経て導き出される「自分には特に意味がない」という結論を突きつけられたような虚しさを感じたのだ。妻もいない子供もいない彼女もいなければ今いい感じの女もいない、友達は数人いるけど皆年一か二くらいでしか会わないし、会っても特に人生や人格に影響を与えあうような存在ではない。どんどん知識と経験を積み重ねて仕事ではやりたいことを実現できるようになってはいるけど、その事実は自分の存在意義を裏付けしない。なぜなら社内に「仕事や会社に依存するのは恥ずかしいこと」という認識が愛延っているからだ。それは、仕事も結婦も育児もこなすのが女性の役割とされ、そういう女性をバックアップしていますと表明するためにそういう女性が役職を与えられ地位を得ていったことが原因の一つだろう。彼女たちは会社の滞在時間を極限まで削り、まるで片手間のように仕事をこなしては保育園が夕飯がという枕詞と共にさっさと帰っていく。もちろん彼女たちは彼女たちで本当に手一杯なのだろうが、そういう女がいると、俺みたいな家庭もなく子供もなく会社に長時間いるような人間は怠け者のように認識されてしまう。長時間労働が美徳とされ、会社に行けば仲間と呼べるような人がたくさんいて、公私の線引きなんて馬鹿馬鹿しい。そういう時代を経験してきた木戸さんが羨ましい。定年間際にそれが通用しなくなったからって何だっていうんだ。頭の中でそう腐して、はっとして「加齢臭消えない対策」でググった。 ・私たちは常にグラデーションの中にいる、理性と感情、精神と肉体、セックスとしての男と女、ジェンダーとしての男と女、悪と善、モラルとアンモラル、知性と反知性、常にグラデーションのどこかにいる。現代だって、過去と未来の間にしかない。常に移ろいゆくものだ。でも絶望にグラデーションはない。絶望は死と同じで、グラデーションがない。絶望には、あるかないかしかない。だとしたら私は、正義感でも怒りでもなく、絶望に依存しているのかもしれない。そう思いついた瞬間鼻で笑って、小説に使えるかもと思ってスマホのメモに書き留めた。私にはまだ小説という乖離がある。現実世界での乖離がなくなったとしても、小説があれば大丈夫だ。乖離に依存して結局煮詰まってパンパンになっている自分の最後の砦がやはり小説であるということに鑑みると、やっぱり小説はもうオワコンなのかもしれないと、不吉な予想にまたゾッとした。 最近こうして、あらゆる方面から、自分が詰んでいっている気がする。身体中から汁を出して死んでいるあらゆるタイプの虫の姿がよく脳裏に蘇る。自分が気づかないうちに踏み潰してきた生き物の呪いだけで死ぬほどに、私は弱っているのかもしれない。着々と料理を続ける一哉だけが私の救いで、でもそんな生き方、きっと時代にそぐわないのだ。まるで私は、時代という呪いにかかっているようだ。 ・「いや、なんか若い男はすごく軽んじられるってしょげてて。女性は若くてもそれなりに歳がいっててもチヤホヤされるのに、若い男は空気みたいな扱いを受ける、って。女性はいいですよねとか言われて、はあ?って思っちゃいました」 「だって、若い男性を軽んじてるのって、男性ですよね?女性は基本的に誰かが蚊帳の外になってたら、気を使って話を振るじゃないですか。でもそうやって、権力のある男性から受けた屈辱が女性への憎しみに転化して、自分が権力を持ったら女性を蔑むようになるパターンって意外と多いのかもしれませんね」 ・人は唐突に、自分の魂がどこにも紐づけられていなかったことに気づく。生まれた時から、親と、親の親と、環境と、そして未来に自分を愛してくれる人々と、繋がっているのであろうあらゆる糸を感じていたあのうざったい感じ、あれが全て幻想であり、自分は一人、たった一人で誰もいないホルマリンの海の中で胎児のように丸くなっているのだと気づく。全てへの怒りや共感や慈愛が、全て自分から出ているもので、自分には何も入ってきていないことに気づく。つまり人は人と溶け合わない。その皮膚をもって断絶していることに気づくのだ。そしてそのことに気づくのは、往々にして中年や高年の、もうそのことを嘆くこともできない歳になってからだ。 私たちは個人として閉じた存在である。性器や際の緒を通じて誰かと繋がったとしても、筋口と傷口を擦り合わせても、私たちは己の持つ思いを一つも交換できない。ある程度の歳になり吹き荒ぶ風に晒されながら唐突に、嬉しいわけでも悲しいわけでもないその寒々しい真実にたどり着く。 そしてその時気づく。正しいか間違っているかが問題ではない。そんなことは問題ではない。 この世には正しい真理や間違っている真理、適切な真理や不適切な真理、色々な真理があって、その中でどれだけ多くの真理に触れ、把握できるかが重要なんだ。結局のところ我々はどうしたって、混ざり合うことのない生き物なのだから。 ・何が間違っていて、何が正しいのか、ここ数年そればかりに心を奪われてきた。でも私の人生はその判別のために存在しているわけじゃないような気もしていた。 ・自分は色々なことを、測り兼ねている。ずっとそんな思いの中にいた。十五年くらい前からうっすらと、十年くらい前からはっきりと、少しずつ時代の流れについていけなくなった。それは奇しくも世の中が激変している中途のことで、私は少しずつ自分が何を発言するべきで、何を発言してはならないのかを判断できなくなっていった。自由に発言すれば必ず誰かの安全基準に引っかかり、気をつけて発言していても時に誰かを傷つけ怒らせた。何も言えなくなった後に待っていたのは、ただ消化していくだけの人生だった。ヘマをしないだけの人生。それでも時々へマをして責められる人生。なんの喜びもない人生。 ・中年、高年層が抱く昔は良かったの正体は、直感的に惹かれた仕事をしていれば、自分が時代の先端を走っていられた、あの全能感なのだろう。自分は今、何が正しいのかも、何が求められているのかも、何が忌避されているのかも、何がウケるのかも分からない。今の時代の若者は可哀想だと嘆く高齢男性は自分が若者の頃から生息していたけれど、自分が高齢に近づいている今は、当時より解像度高く理解できる。彼らは現代的感覚を喪失したことを受け入れられず、若者たちを蔑み憐れむことでしか自尊心を保てず、過ぎ去った時代にしがみついていたのだ。哀れな存在ではあるが、そうしてがむしゃらにしがみつける人はまだいい。彼らは哀れな人間として周囲の目には映るだろうが、彼ら自身は己の哀れさに決して気付かないからだ。自分はしがみつけないし、自分が哀れな存在であることをよくは分からなくとも、何となく分かってしまい、しがみつくことすらできないからこそ、より哀れなのだ。 Twitterやインスタを見れば訳のわからないものがバズっていて、今話題だという映画も漫画も小説も特に面白くなく、人との会話も仕事の愚痴と病気の話と誰が死んだ誰が金に困ってる誰が儲かってる、がほとんど。皆、何が楽しくて生きているのだろうと思う。でも明らかに皆は楽しそうで、自分だけがポカンとしていた。自分だけが、この世界の楽しさを忘れてしまったようだった。 そうしてあらゆる喜びを無くし続けた私には、責任だけが残った。息子や親を養わなければならない、妹の入院費を払わなければならない経済的な責任だ。毎月の支払いのために「どんな意義があるのかよく分からない」仕事を続け、なんとなく「ここにいるべき人間」の顔をして、会社に居残り続けた。それは「パーティで手持ち無沙汰な時」に似ている。顔見知りはたくさんいるけれど、特に一緒に連れ立つ人はいなくて、一通り挨拶をするが、皆挨拶と当たり障りのない世間話をすると僅かに気まずそうに「じゃ」と姿を消し、自分は一人になる。招待されていることも、そこでそれなりの立場があることも無意味で、誰一人として盛り上がって解散できないほどの楽しい会話をする人がいない。そういう状態だ。自分には居場所がない。それでも、ここにいろと言われたからこの部署の、このポジションにいる。人事とはその言い訳のために用意された部署のようだ。 ・もう終わったんだ。そう思うと、終わるということが内包する深遠なものに気づかされた気がした。終われば、もう誰に文句を言われることもない、生きること生活すること働くこと人間関係の煩わしさもなく、毎月金を振り込む必要もなく、誰に何を言われるか、自分が何をどれだけ分かっていないのか、怯えながら生きる必要もない。 家族席ではなく後ろの席についた妹は、もう疲れた、頭が痛い、薬を飲みたいから水を買ってきてと彼氏に喚いていて、恥ずかしいと思うけれど、どこか自分は別の世界に生きていて無関係という気もした。バーチャルな世界にいるように、現実味がない。五十を過ぎた頃から、ふらりと訪れたこのバーチャル感、現実味のなさが、高齢男性が所構わず威張り散らしてキレ散らかせる所以なのではないだろうかと、私は考えてきた。彼らにとって、全ての人はCPUなのかもしれない。つまり自分は、この世に存在していない方が良いのだろうという確信により自死に向かいつつあるが、同時にこの世の誰の視線も別にどうでもいいという現実味のなさによって自死を回避している状態、なのかもしれない。 ・あの熱式からだ。自分はこの世にいない方がいいのだという思いと、別に自分も社会もどうなっても構わないんだからいてもいいのだという投げやりさのバランスが、確実にいない方がいい、という急流に飲み込まれ始めたのは。ラフロイグの三杯目を注ぎ、舐めるのではなく喉を焼くように液体を暖奥に押し込んでいく。 今自分は社会のことなど何も考えていない。文学の行く先や哲学的苦悩、遠い国の戦争もどうでもいい。子供が何人死のうと自分には全くリアリティのある情報として把握できない。憂うことなど何もない。人生の中で最高齢でありながら最もアッパラパーな時間を生きている。もう何も、自分を煩わせることはないのだ。世界も社会も世の中も周囲の環境もどうでもいい。自分は正義など求めていない。正しさも、誠実さも、崇高さも、切実さも、高尚さも、何も求めていない。 いかに世界の悲惨な話をスルーして、いかに残りの人生を消化して、いかにあらゆる支払いを終え、いかに自分の老後を快適なものにしていくか。これがポジティブな方向の自分のハイライトだ。そしてそんなハイライトはない方がいい。 「何か、ないのか?」 恵斗の言葉は、何だったのだろう。答えはもちろん「何もない」でしかない。自分には何もない。SDGs的に言っても、自分は消えている方がいい。こんな存在が酸素を消費していることや、ゴミを出したり水を汚したりしていることは、世界にとって申し訳ないことだ。私はえている方がいい。圧倒的に無駄な存在だ。無駄すぎる。 ・私は自分が告発される告発文を読みながら、傷つきながら、どこか感動してもいた。同時に、起こっていることがどんなことなのか、分からなくなるような攪乱を感じた。でもそれは決して不誠実な攪乱ではなかったと言い切れる。そもそも人生とは常に攪乱の中にあり、その中で何を決定的なものとしていいのか分からないのだという諦めに似たあの達観を得られたことで、私は何かを諦め、何かを受け入れ、何かを切り捨てることができたように思う。それが私があの告発に、決定的なまでには打ちひしがれなかった理由だ。 ・私は吉住さんと木戸さんを見ていると、社会の生き物だと感じるのです。 戦後の経済成長の中で、男性たちは社会と共に生き、社会と共に育ってきました。 そして今、新陳代謝の激しい日本で、吉住さんや木戸さんのような、かつての時代を象徴する存在が、社会とともに死につつあるのではないかと感じたんです。 社会はずっと緩やかに死に向かっていましたが、ここ数年でその速度を一気に早めています。 きっと戦後日本を支えてきたこれまでの社会が一度完全に潰える過渡期に、私たちはいま直面しているのです。 男女雇用機会均等法が施行されて以来、女性たちも社会と連動しながら生きてきましたが、女性は男性ほど社会と同化しませんでした。 男女の賃金格差にも明確に表れていますが、女性は社会に優遇されておらず、ただの労働力とみなされいいように使われてきたため、女性は利害関係抜きには社会と関わってこなかった。 だからこそ同化を免れたのでしょう。(もちろん名誉男性的な女性など例外はいます) 男性もいいように使われていたのは同じですが、彼らの最大限のパフォーマンスを引き出すため、社会は男性たちに幻想を見せていました。 自分は社会の重要な一員、大切な家族、社会の重大な構成員であるという幻想です。 吉住さん、木戸さんの世代はおそらく、その旧社会を体現した最後の構成員になるのではないかと私は感じています。 最後の構成員たちも幻想が幻想であったことに気づき、その母体である旧社会の死を感じ取りつつある、今はそういう時なのではないかと。 この過渡期を木戸さんがどう生きていくのか、私は楽しみなのです。 木戸さんはどうやって現社会と折り合いをつけていくのか。それとも拒絶してドン・キホーテながら幻の旧社会を生き続けるのか。それとも旧社会と共に死にゆくのか。それがいま、自分にとって一番ホットなトピックなのです。 ぜひまたお話を聞かせてください。 ・改めてこのメールを読んで思うのは、私は社会と共に死に始めていたということだ。それまで何かあれば自分を仲間とし擁護し救ってくれた社会が、もう私を救わないものになり変わりつつあることを感じ取り、権力や影響力も会社内などの小さい村の中でしか作用せず、つまり自分は世界、あるいは社会を変えようと思っていたけれど、その社会自体がかつての影響力、権力を喪失し限りなく矮小化し、得体の知れないものに変化しつつあるのだという、根本からひっくり返されじわじわと真綿で首を絞められるような確倉の中で鬱になり、鬱になったことで逆に、私は社会から追放され個に戻ったのかもしれない。そうして還った個には、何もなかった。恵斗に言われた通り、何にもなかった。ただの老いたおっさんだった。元妻や息子、母親や妹に金を送り続ける、金はあるがセックスはできない老いた身体だった。何もなくてもガンガン生きれる奴はいくらでもいるのだ。そういう奴らは腐るほどいる。そして自分がそういう人間になれなかったのは、文学のせいなのかもしれなかった。文学は人の心にブラックホールを作歪みとも言えるかもしれないし、暗闇とも言えるかもしれない。そしてそれが作られることによって、人は耐え難き苦しみの中を生き抜くことができたりする。文学とはそういうものだ。 しかしそれによって死に追いやられることもある。文学に触れずに生きていたら、私はこの旧社会と心中などせず、時代の終焉や変革など我関せずで、老害として堂々と生き続けられたのかもしれないのだ。 自分は新しい顔を見せ始めた社会から転げ落ち、個としての存在の意味のなさに緩やかな自死を始めていた。そして自死がとうとう肉体に辿り着いて、あの自殺未遂となったのだ。長岡さんに会いたかった。自分は旧時代と共に死ぬこともできず、何もなさに絶望して自死し続けているんですと、酒を酌み交わしながら自嘲的に話して笑われたかった。そして彼女は言うのだ。人間なんてみんな死に損ないですよと。そんな自分の想像に飲み込まれ、取り込まれ、現実から綺麗さっぱり消失してしまいたかった。 最初の離婚の時にほんやりと感じたのが最後だった寂しいという感情が、二十年以上ぶりに訪れた。改めて、私はこんなにも寂しくない人間だったのかと思う。自分はこんなにも寂しくなくて、寂しくないほどに虚しい人間だったのかと思う。寂しいを封殺され社会にいいように飼い慣らされた五十男が、今ようやく、寂しくなったのだと思った。誰かに話したかった。誰かに。 ・いま改めて振り返ると、新しいことに出会えるのは、三十代までだった。四十半ばを過ぎると、新しいものはほとんどなくなった。あっても、これまでの経験と比較できる内容で、本当に新しいものには出会えなくなった。全ての体験は仕系化され、体感するものではなくどこかに分類されるものとなった。何かを享受した時「あれに似てる」「あれの系譜」「誰々と誰々の影響を感じる」などと経験済みの何かに当てはめて分かった気になるのが楽しかったのは三十代までで、それから先はもう、「当てはめられるが感想がない」という思考停止状態に陥った。あれは、自分が思考する生き物として終わった瞬間だったのだろう。思えば思考停止に陥ったのは、今の長岡さんと同じくらいの歳だったはずだ。そう考えると、私たちは同じ享年と思ってもいいのかもしれない。 ・ 確かに自分は彼女を傷つけたのだろう。彼女の告発が嘘だなどとは思わない。でも私も傷ついていたのだ。でも私はそんなことを告発しなかったし、同僚にも話さなかったし、飲み屋でさえも話さなかった。中年男性が傷つくことは、世間的に恥ずかしいことだからだ。傷ついた中年男性は、目も当てられないほどましい存在だからだ。中年男性は、誰からも慰めてもらえないからだ。何をしても「自業自得」と笑われるからだ。同類の中年男性には慰めてもらえるかもしれないが、そんなことをするよりは「傷ついていない自分」を装った方が楽だからだ。そうして私は感情のない男になり、何一つ反論もせず、静かに死のうとしていたのだ。そんな男にどうして恵斗は、「よく来れたね」などと軽蔑の目を向けられるのだろう。肩じられない心地で、横山さんに椅子を勧める恵斗を見つめる。 ・もし長岡さんにも鬱や更年期障害の症状が出て、彼を思いやれず別れていたら。 長岡さんも十年後に告発されていたかもしれない。今はこうしてヒーロー扱いされて美談になっているが、彼女が若い男と不倫していたことが公になったら、皆掌を返して非難するのではないだろうか。今はそこまでではなくとも、きっと十年後には、そこまでの年齢差の相手と恋愛関係になること、そして不倫に、今よりずっと強い批判が起こるはずだ。そして長岡さん自身も、自分の罪が許されなくなる時がくることを予期していたのではないだろうか。自分が蔑まれる日、斜弾される日がくることを。 ・でもそれは、今の時代は、でしかない。時代は唐突に人を裏切り、蹴落としていくのだ。それを見越して、長岡さんは逃げ切ったのかもしれない。 ・でもあなたに死なれたら困る。あなたが死んだら私が告発したせいだって、私が叩かれて死に追いやられるから。告発してから、そういう人がたくさん湧いた。お前のせいで一人の男が命を絶つかもしれないんだぞって何度も言われた。それで、もしあなたが自殺して私が責められて自殺したら、今度は後追い自殺って言われる。皆私のことを勘違いするために生まれてきたみたいな反応しかしない。こんな世の中に向けて告発したのが間違いだった - 2025年12月29日
ひとりずもうさくらももこYABUNONAKA考えることが多すぎて 脳疲労気味なので、間にほっこりするものを。 さくらももこさんにかかると 多感で不安定な青春時代も、こんなに面白く描けるのか。 何もしてないけど、なにかしなきゃという 学生時代の焦燥感は自分だけじゃなかったんだなと。学生時代に出会いたい本だった。 あとがきの言葉がとても素敵だった。 特別なことは起こってないけど、 その時々の日常がかけがえなくて面白い。 ありきたりな自分の日常を愛おしく思えるエッセイだった。 ・自分に起こっていることをよく観察し、面白がったり考え込んだりすることこそ人生の醍醐味だと思う。 - 2025年12月27日
YABUNONAKA-ヤブノナカー金原ひとみ・スポーツ経験者だし、と言いそうになったのを止めて、言葉を切った。自分は敢えて無自覚を装っている。向田さんがどう感じているかなんて分からない。ある日突然無断矢勤をして、退職代行を使って一度も顔を見せずに辞めた広報部の女性、適応障害で休職したと聞いてから一向に復帰の報告を聞かない同期、そうでなくとも一緒に健やかに働いていると思っている同僚たちの中にも、ハラスメントで死を意識するほど苦しんでいる人がいるのかもしれない。でもそんなことを考えていたら仕事にならないし、もちろん相談されれば相談先のアドバイスをしたり、信頼できる上長に報告したりなんかはするけど、結局仕事を辞めたり死を考えているような人を自分が救えるはずもないし、やれることをやるしかないじゃないか。友梨奈は、自分は誰でも救えると思っているからこんなことを言うんだ。だから苦しむんだ。そんなこと、できるはずがないのに。 ・友梨奈は正しさで追い詰めたんだよ。友梨奈の言うことは正しすぎる。だから伽耶は潰れた。 友梨奈といたら、伽耶は正しいことができなかった自分を責める。正しいことができなかった自分は軽蔑されてると感じる。安寧は得られない。正しさなんてどうでもいいと思ってる俺といる方が、伽耶は楽なんだよ。だから友梨奈がここに来て恩着せがましく料理大量に作ったり掃除したりしても顔も出さない。友梨奈の顔を見たら、正しいことをしろって胸ぐら掴まれてる気分になるからだよ ・もちろん正確なっていうのは便宜的なものでしかないのは分かってる。それぞれに正確な理解がある。自分の正解を押し付けるつもりはない。でも彼女は今戦わなかったら、きっといつか後悔する。悔いて悔いて、自分の中を貫く裂に苦しみながら生きてくことになる。今の伽耶みたいに。そのことも、ちゃんと話して説得しようと思ってる。私のやるべきことは、それで間違ってないよね?と俺に聞いた。何も間違ってないと思うよ。でも、その事件に関わった人たちが、今何を求めてるのか、ちゃんと配慮して汲み取った方がいいだろうとは思う。人によっては、いつかではなくて今の方が大事で、今を捨てることはいつかを捨てることと同じかもしれない。告発しなかった人が愚かなんてことはもちろんなくてい告発した人だけが正解というわけでもなくて、こういうことに関しては答えとか正解なんてものはないと思うから ・自分が謝っても、世界は何も変わらない。自分たちはハラスメントに関与していない、全くもってそんなことをしたいと思ったこともなければ、加担したこともない。でも、それでも、目の前でこうして彼女が傷ついたり、向田さんがセクハラの刃を向けられたりするシーンを目の当たりにしたりするのだ。思い返せば、自分は幾度か経験している。これはセクハラなのではないかと思うシーンを。その時自分は黙っていた。同僚に、こんなことがあったんですよとネガキャンをすることや、目安箱に送することはあっても、直接咎めたことは一度もなかった。そうして、私たちは泣き続ける。そう呟かれたような気がして、俺は彼女が告発などをして不特定多数の人から中傷されることは恐れるくせに、彼女がそうして泣くことは怖くないのだろうかと自らを顧みる。自分自身が分からなくなって、立っている地面がぐらつくような、三半規管的危機感が襲ってくる。自分が何をしたらいいのか分からない。どうしたら友梨奈の安寧を、どうしたら伽耶ちゃんの安寧を確保できるのか、自分には全く分からない。怖かった。でも被害者たちのそれに、自分のそれは全く及ばないのだろうと思った。 ・でも、定期的に外に出て人と関わっていると、気楽さからは遠ざかって、少しずつ世間と自分は溶げ合ってしまう。できることなら、旅先で会う地元の人や、観光客同士みたいに、互いにその場限りの関係だけで人生を構成したい。だからこそ、私はインターネットの世界に没入しているのかもしれない。インスタ Twitter YouTube VTube TikTokスペース、んなソーシャルメディアを股に掛けて生きてるけど、どの世界もこの現実世界より居心地が良い。SNSは、苦手な人たちを目にせずに済むのがいい。好きな人、気になるものだけをフォローして、嫌いな人やものはミュートや興味ありませんをすれば、自分を乱すものは現れなくなる。痰を吐くおじさん、歩きタバコの臭い、スマホに向かって怒鳴り声をあげている人、扇情的な水着姿の女性を使った広告、胡散臭い成功する本の広告、痩せたい人毛をなくしたい人、賄賂不正取引不倫ゴシップゴシップ。こんな怒りと喧騒と金と性で彩色された世界に生きたい人が、本当にいるんだろうか。 外に出るとそう思う。それとも多くの人は、生まれちゃったし死ぬのもちょっとあれだからってことで、惰性で生きてるだけなんだろうか。 ・ハラスメント被害者の講演会は、途中で苦しくなって見るのを止めた。落ち着いてから見ようと思っていたけど、気がついたらアーカイブも期限を過ぎてしまっていた。私の弱さはこういうところなんだろうか。でも誰だって人の苦しかった話、誰かを強烈に恨んだ、憎んだ話なんて聞きたくないんじゃないだろうか。知るべき、考えるべき、学ぶべき、こうするべき、こうしない べき、お母さんはいつもそういうことを言っていて、その「べき」の重さに、私はずっと不感を持ってきた。人が生きる上で、「べき」なんて一つもないはずだ。そんなのは、彼らの個人的な、あるいは組織的な美意識でしかない。私は全ての「べき」から自由でありたい。もし「ベき」を設けるのであればそれは自分にとってのみの「べき」、自分以外の人には一切当てはめない「べき」にしたい。お母さんは「べき」があまりに重すぎ、強すぎることを知らないし、「ベき」を使わない人間は肩念のない風見鶏だとでも言いたげに批判する。私の念は、そういう言 念じゃないんだ。あなたには肩念に見えないような脆弱なそれこそが、私の念なんだ。それだけなのに、私の肩念が脆弱すぎるせいか伝わらない。 ・大学のフェンスの向こう側から桜が枝を伸ばし、花びらが降ってくる様子に思わず目を取られていると、実は僕、花粉症じゃないんですーと彼は何か思い出したような表情で嬉しそうに言った。花粉症でないことの尊さは、花粉症になったことのある人にしか分からないよと思いながら、そうなんだいいね、と私は微笑む。 ・彼女のことは、直接は知らなかった。でも、多分友達の友達で倍々に増えていたインスタアカウントで、いつの間にか相互になっていた子だった。でも、画面の中の子が今一人の男の性談のせいで死にかけているという事実がうまく理解できなかった。私はきっと半径数百メートルの中では、誰よりも性談を忌み嫌う人間だろうに、性欲により加害され、殺されかけている二年生の女の子という存在が、うまく認識できなかった。こういうところが、無性愛者が気味悪がられる所以なのかもしれない。性的指向は人間の一部分でありながら、核の部分でもあって、それが算らない人とは本質的な誤解が生じ続けてしまう。私が引きこもり始めたことに動し、特手に真由に聞き取りをして自殺未遂をした子の話を聞いたお母さんが戦うべきだと喚き立てる様子を見ながら、私はその誤解を解清する難しさを思い知った。今まで見たことがないほど興奮して、加害者を揄し罵倒し徹底的に存在を否定し呪詛の言葉を吐き続けるお母さんは、魔女のようだった。お母さんの嫌悪だけで、岡崎先生は本当に死ぬのではないかと思うほどだった。すごかった。 すごい、と思いながら私はお母さんの提案や勧めに、同意することも反論することもできま、お母さんはそのうち、そんな私を意志のない無思考な若者と見限ったようだった。 ・有性愛者とや無性愛者、世界の責任を取ろうとしているお母さんのような人と何にも責任を感じない自分のような人、真由のように実際どれくらい傷ついていたのかは計り知れないけど、性的被害に平気な顔をする人と自殺するほど思い詰める人、私はあの事をきっかけに人と人との違いを考えざるを得なくなった。その違いは考えれば考えるほど悍ましく、今自分が立っている地面を揺るがし兼ねないもので、地面が揺るがされるかもしれないことに怯えているうち私は身支度をすることができなくなった。そして必然的に、外に出ることができなくなった。無性愛者が、社会不適合者になった瞬間だった。 ・「そうそう。俺結構昔っから、小さい頃からこの世に生きる意味あんのかなって思ってて。捻くれとか逆張りとかじゃなくて、真っ直ぐに、純粋に考えて、この世に生きる意味あんの?って本気で思ってる」 越山くんが爽やかな微笑みを崩さず言うから、思わず笑ってしまう。すみません、お水もらえますか?爽やかな笑みを店員さんに使い回して頼んだ彼は、特に社会不適合者には見えない。 丁寧で、爽やかで、グレたりもしてなさそうだ。 「本当に?」 「うん。人生マジで楽しいことたくさんあるけど、その他諸々の嫌なこと、全部我慢してまで生きる意味あんのかなって。世界中の生きてる人たち皆に生きてる意味聞いて回っても、俺は多分どの答えにも納得いかないんじゃないかって思う。だから自分で意識して、目的とか意味とか考えないようにして、ほんやり生きてる。俺痛いのまじ無理だから、自分から死のうとかは考えないし、死なないとみたいな衝動もないし、絶望してるわけじゃないけど別に希望もなくて、これ意味あんのかなって、別になくね?って思ってる。毎日ちょっとずつ苦しくて、毎日ちょっとずつ楽しい。比率はいつも大体7:3、たまに6:4。だからいつか、きっかけっていうか、いい機会があったら、死ぬんだろうなって思う。死にたいガチ勢じゃなくて、きっかけがあれば死ぬかなガチ勢」 ・何で俺はこんなに未来が現実的に見通せてしまうんだろう。何で何が起こるか分からない人生! みたいな輝きが、自分にはないんだろう。側から見ればそれなりに輝いてる高校生のはずなのに、青春青春してるだろうに、その内側ではこんなに冷めてるんだろう。 ・俺には何かがあるとは思わない。母親への感謝、彼女へのかわいいな好きだなって気持ちと健全な性欲、友達にはまあまあ情もあるし、人並みの正義感もないわけじゃないし、社会とか政治への憤りだってなくもない。でもじゃあ何かあるのって言われたら特に何もないんじゃない? って感じ。まあ、あるのって聞かれたらあるよとも言えるしないよとも言えるみたいなものくらいしかないって感じだ。でもそれをあるよって言うのはちょっと抵抗がある。あってもなくてもそんなに変わらないようなものを、あるよなんてきっぱり言い切れる?って思うとまあ別に大した「ある」ではないわけだから、「ある」よりは「ない」にしておこうかなって感じ。 ・抽象の重要さと、具体に寄ることの危険性を、彼らは語り合っていた。抽象化することによって初めて人は自分自身や世界を認識することができ、具体に寄り過ぎると盲目的になってしまうという話で、最近の若い作家が具体に寄り過ぎる傾向があることに懸念を濁らす甲子哲夫に、お父さんはいくつかの若い作家のサンプルを出し、深く頷いていた。それで彼らは、俺からはあんまりその良さが分からないような古き良きなのかなんなのか、古い作家の作品を何作か挙げた。 実際その時代にそういう作品が求められてたって事実はあったんだろうし、そういう作品がウケてもいたんだろう。でもそれを安易に今の時代に当てはめるのはおかしくないか。それはなんかその文脈の中で、その界隈で、その時代を共有した人たちの内輪での「刺さるね!」だったわけで、今の時代にそれをそのまま持ってきてやっぱこれがいいよねみたいなことを言われてもそれは「別に刺さらないね!」なわけで、何でそれを現代の人にも分かりやすくするためのプレゼンとか漫画化とか要約とかもせずそのまんまこっちに押し付けようとしてくるのかがちで意味が分からない。 ・例えば編集者が自宅に原稿を取りにやって来た時、窓から一枚ずつひらひらと投げ捨て拾わせたモラハラ作家がいたなんて昭和の時代にはザラにあった話だが、じゃあその作家の書いた小説の価値はそのエピソードひとつで下がるのか。人のモラルや振る舞いなんて、文化や時代の流れの中で変化していくもの。首狩族が首を狩っていたのにだって豊作や来愛、神をを知るため、など様々な意図があったし、豊作や天候のために生費を捧げる風習は世界中のあらゆる土地で自然発生的に行われていた。自分だってその時代のその風習の中に生きていれば、首を持ったり、生を捧げたり、自分が生贄になったりしただろう。そこまで極端な話でなくとも、例えば今も残る一夫多妻制などにはその土地ならではの宗教的、経済的理由がある。 自分たちが生きる時代のモラル、常識、自分が生きる国の法律などに則って全く別の文化や背景を持つ民族や人種を断罪するのは、あまりにもナンセンス。大きなパラダイムシフトが短期間に押し寄せる現代を生きているからといって、前時代を全否定してアップデートすることだけを目指していれば高みに到達できると思っている人々はあまりにも視野が狭く、そんな言説が力を持ては、ややもすれば人間という存在がこれまでとは全く違う存在、狭く弱く愚かな存在に成り果ててしまう危険性すらある。 半蔵佳子の主張は、まとめればこんな感じで、Twitterで見ている時よりもまともなことを言っている印象だった。記事中のあらゆる文章がTwitterで拡散され、彼女は主に中年以上の層から賛同を得た。でも俺からすると、狭く弱く愚かってそれこそあなたたちの価値観ですよね、俺たちはそっちからすれば狭く弱く愚かだろうけど、別に仲良くやってます、そんな古い価値観押し付けないでください老害です。で感想はおしまいだ。老人たちが手を取り合って若い人たちをバッシングして一体何になるんだとうんざりする。どうしてもうそろそろ死ぬっていうのに最後くらい大人しくしていることができないんだろう。そんなのはこれから生きていく人に任せるべきことだ。橋山美津さんの断罪は、これから先の未来への期待、このままではいけないという焦りから生じているんだろう。もちろん死んでいく人の意見はいらない黙って死ねとは思わない。でもこういう、世界のルールが変わっていってるよね、っていう前提の話に、首を突っ込んでかき乱すのはやめてもらいたい。あなたが大切に思っているものと、あなたがどうでもいいと思ってるものは、俺らにとってのそれと全然違うんだ。そんな価値観でこっちは生きていないんだ。 その前提を分かってる人は、性別も年齢も問わず口出しなんてしてこない。どうして俺らは、何の前提も共有しようとしない、自分たちの古い価値観古い常識古い前提古い言説に依存してそこに疑いすら抱かないような図太く鈍感な奴らに好き放題言われなきゃいけないんだ。 ・性自認が曖昧っぽいカズマは、こういう時男か女かとか、何高とか、どうやって知り合ったのかとか、どんな人なのかとか聞かないから気が楽だ。こういう時、男?女?女なの?かわいい?背何センチくらい?可愛い系キレイ系?誰に似てる?とウザい男友達もいるし、そういう奴らといても別に平気だけど、カズマとかユウゴとかのこういう普通のやりとりができる友達といる時の方が正直気が楽だ。中学の頃から彼女が途切れなかったこととか、リコと付き合い始めて二年近くなることを自慢するつもりは毛頭ないけど、そこに余裕があることで女の子に飢えてる同級生たちと一線を画したところにいられるのは良かったなと密かに思っている。 ・「お母さんて、どんな人?」 「うーん、理詰めの人。それで自分自身が理にがんじがらめになって、どうしようもなくなってる人。私も人のこと言えないけど、なんであんな面倒臭い人生を送ってるんだろうって思う。私は無性愛者だから、そもそも有性愛者の人たち皆ちょっと面倒くさそうって思ってる節もあるんだけどね」 「それは、無性有性関係ないんじゃない?性がないから単純でいられるってことでもないでしよ?」 「まあ、確かに。でもなんか、猫って毛玉吐くの大変そうだなーとか思う感じ。本人にとっては普通のことなんだろうけど、私はそもそも毛繕い文化共有してないから、なんでそんなことするんだろ、絶対もっと合理的なやり方あるよね?って思っちゃうんだけどみたいな。まあ越山くんのいう通り、逆にそっちから見たら何でそんな生き方すんのめんどくさそー、って思われるんだろうけどね」 ・聞きながら、俺は父親が自分に与えてきた「反体制的であれ、反骨精神を持て、『何か』のある人間になれ」という、本や情報の与え方、何を嘲笑い何を肯定するかの線引き、俺の話に対する苛立ちや喜びみたいな僅かな態度から感じ取ってきたプレッシャーを思い出していた。もしかしたら、伽耶さんと俺は似たような家庭環境とまでは言わなくても、似たような抑圧を親から受けてきたのかもしれない。 ・木戸さんは編集長になった頃かな、なってしばらくした頃かな、突然枯れたんだよ。承認欲求が完全に潰えて、枯葉になった。あちこち穴の空いた、踏めば粉々になる茶色い枯葉。この業界、じゃなくてもよくある話なのかもしれないけど、少なくともこの業界ではよくある話で、意欲的に現場仕事をしていた編集者が、四十を過ぎた頃から唐突に現場への意欲を喪失して、流れ作業的に無難に仕事をこなすようになっていく現象。多分あれは、個人が仕事を通じて世界を変えることを諦める瞬間なんじゃないかな。ここまでやってきて何も変わらなかったし、評価もさほどされないし、以前のような体力もないし、自分のこれからの人生も何となく先が見えちゃって。 アクセル全開でガチガチに仕事する、から、省エネで余生を生きていく、にスイッチが切り替わる瞬間 ・私や越山くんにできるのは、せいぜいあの動画を拡散して、加害者男性を追い詰めることくらいだろう。でも、追い詰めてなんになるの?とも思う。それで加害者男性が自殺したら?やったーバンザイ?別にレイプ犯が自殺しようと私に良心の町責はないし、死ねないなら死ぬほど苦しめとは思うけど、もしかしたら加害者男性の妻とか子供もことによっては自殺するかもしれない。それで加害者を死に追いやったら、次はまた別の加害者を追い詰める?個人的にはレイプ犯はレイプした瞬間爆発でいいけど、でもそうして皆でリンチして殺してやったー!とは思えない。この間、女子供を虐待する差別主義者の男が、ヒーロー的な人に殺される勧善懲悪ストーリーの超大作映画を観たけど、観てる時スカッとして、観終えた後スカッとしていた自分にげんなりした。どんなに精巧に作られた勧善懲悪だとしても、令和を生きる私は、殺人がエンターティメントになることに耐えられないのだ。悪人が殺されてスカッとするなんて野蛮だ。何人もの教え子に強制わいせつ、強制性交をしていたあの教授だって、自殺したと聞いたらスカッとした後、やっぱりげんなりするだろう。死んで終わりって、あなたの人生すごろくですか?被害者にとっての人生は、すごろくじゃないんです。上がりとかいう概念もないんです。そう思うはずだ。 ・でも越山くんの置かれた環境を考えると、越山くんにとってこれは重要な問題なのだろうとも思う。加害者が捕まればいいのか、どこまで懲らしめればいいのか、死ねばいいのか、社会的に死ねば、精神が死ねば、肉体が死ねばいいのか、それとも改心すればいいのか、自分の罪を認め償えばいいのか、でも償いって何なんだろう。懲役刑?示談金?家族やお金を失うこと? ・でもだからって、そこに異議を唱えて何になるんだろう。結局、私は絶望前提で生きてるから、だから何って感じなのかもしれない。結局、世界が変わる、人が変わると宿じていなければ、人は強い思想を持つことなんかできない。私はそう思うし、自分の周りにも何かが変わると肩じて何かに突き進んでいる人なんていないような気がする。そんな、何かを変えたことのある人、変える必然の中で生きてきた人、変わると言じられる人たちと、私は違う。結局、人は希望がなければ何もできないってことなんだろう。希望がなければそこに自分の時間や経験や労力、何一つ削ぎ落とすことはできないのだ。いつもいつも、面白い思いをするためにTkTokを開く。面白くなければ二秒でスワイプ。二秒に自分の求めているものがなければ、次にいく。YouTubeでいえば、サムネとタイトルに「面白さ」の希望がなければまず観ない。基本面白いものしか求めないTikTokとYouTube に対してすら、ここまでギブアンドテイクを求めてしまう現代人が、なんの見返りもない事柄に関して考え続けたり討論し続けたり戦い続けたりなんて不可能だ。それは偏にタイムパフォーマンスの問題で、二年を引きこもりに充てた私ですらこんな風にタイパについて考えてしまうんだから、まじでこの「で、それすると何が得なの?」は現代の病だと思う。確かにこんな狭量な考え方じゃダメだとも思う。でもそれを強要してるのはこの世界の方じゃないかとも思う。少なくとも、私のせいじゃない。 ・何だよそれと越山くんは笑ったけど、カズマがうっすらと浮かべた笑みには心配が混じっているように見えた。二人がどんな関係性なのか分からないけど、きっと友達とかクラスメイトとかの枠内ではなくて、ちゃんと個人と個人として向き合ってるんだろうと思った。自分が尊敬する人、好きな人、ずっと活躍を見てきた人が亡くなって悲しい、辛い、どうして、という気持ちも、そりゃ人には色々あるよ自分たちには計り知れないものがあったんだろうよ、邪推するのはやめようぜという気持ちも分かる。両方とも、好きだからこそ、そうなるんだろう。好きというスタート地点は一緒なのに、思いが共有できないこともある、という悲しい人間の性を、私はいま目の当たりにしているのだ。 ・一哉はセクハラパワハラの残存する社会を許容して、こういうものは時代と共に駆逐されていくからって、駆逐されるまでに生じるであろう被害を容認してる。私は一哉みたいな緩やかな容認派の人こそが被害を拡大させてると思ってる。そこで声を上げないことで生じる被害を週小評価してると思う ・それを同じ気持ちって言っていいんですかね。双子だって、精子と卵子が同じでも金持ちと貧人とに育てられたら、全然違う人生を歩みますよね。そんなの、種と始まりが同じでも、だからなにって感じじゃないですか。多様性の時代とか言いますけど、色々見えるようになった今、結局越えられない壁が高くそびえたってるのが分かって、これは乗り越えられないねって、皆が諦めるフェーズに入ったんじゃないかなって、俺は思います ・どうして世の中にはこうも、性加害が溢れているのだろう。世の中はあまりに浅はかで欲望に忠実なおじさんが多すぎる。本当に心から、うんざりする。自分はこんなにも無害な人間なのに、どうしてこんな自分とは無関係の加害や被害について考えながら生きていかなければならないのだろう。友梨奈の言うことも分かる。この世界の一員として生きる以上、自分は無関係、では済まされないし、自分は無関係と思う人々が事態を容認することで、加害を助長し続けてきたのだと。でも俺はこの社会を作ったことなんかない。俺は何一つ、こんな世界を作ってなんかない。こんな社会を作ったのは、上の世代、その上の世代、その上の上の世代だ。俺じゃない。そんな憤りもある。俺は生まれてこの方、誰かに迷惑をかけたことは一度もない。こんなに慎ましく生きてきたんだ。 ・その時代の変化は、あなたの中に痛みとともに刻まれているの?写真週刊誌とはいえ名の知れた出版社に勤める中年男性記者が、時代が変わる必然性を感じたことが、一度でもあるの? ハラスメント研修めんどくせーくらいのことしか感じたことないんじゃないの?なんとなく空気の変化を感じ取ってる風に見せて、話を合わせてるだけなんじゃないの?私は最近、サラリーマンっぽい男の人を見ると怒りが込み上げてくる。あなたたちはどんな抑圧にも性被害にも遭わず、道う可能性も考えず、満員電車や公衆トイレ、夜道に恐怖を抱いたこともないだろう、と。 - 2025年12月25日
YABUNONAKA-ヤブノナカー金原ひとみ・しかし結局のところ、文学性というのは己に通底するテーマを深掘りし続けるそのスタンスに表れるのではないだろうか。自分の企画する特集の凡庸さ、有名どころの文芸誌の創刊時からのパックナンバーを漁り様々な特集テーマをストックし、その焼き直しや改変でお茶を濁し続けてばかりの自分の浅はかで空っぽな手法に疑問を持った時、そう思い至った。逆に、自分の好きな作家たちの多くは、手を替え品を替え様々な小説を書いていると思わせながら、実際には生涯をかけて同じテーマを書き続けている。そう気づいたとも言える。彼らは対社会、対体制、対外部的な小説を書いていると思わせつつ、実際にはずっと個人的な問題と向き合い続けているのだ。個人的な問題とは、フェティシズムや変態性欲、コンプレックス、偏執、タブーや死への衝動など理性や理論では語り得ないものであることが常で、だからこそ彼らはそれらと生涯をかけて向き合い続けられたのかもしれない。 ・でも軽い鬱痛くらいが、この世を生きる最もバランスの良い状態なのかもしれないとも思う。 家族も友達も趣味もない。何ものにも執着しない、執着されない、愛さない、愛されない。金を線き各所に配付し経済を回し、とこも汚さず誰の邪魔にもならず、食って排泄して寝る。ジャンダルに暮らす動物たちのようにシンプルだ。 ・しかし私の中には、善悪の判断をし、悪を徹底的に潰さなければならない、間違っているものを排除し世を正さなければならないという、それはもう悪のような正義感が渦巻いているのだ。つまり私の言う多様性とは、私が認められる多様の中でのみ機能する多様性のことであり、そこから外れる女性を殺した者であったり女性を搾取する者であったり子供を殺したり搾取する者であったりはどんなに残酷な刑にかけられ殺されても構わないむしろそうしてもらわないと気が済まないという反社会的な怒りがあるのだ。もちろんそこまで極端な例に限らないが、一度激昂すると相手の死さえ厭わない悪のような正義感に一哉は引いているのだろうし、主義的には死刑反対と言いながら、個人的な怒りには打ち勝てない自分自身のダブスタ具合に、私も引いている。 ・自分がこんな四十代になるとは思っていなかった。こんな不安なまま、こんな歳になるとは思っていなかった。今四十三になって、二十三、いや十三の自分にだって同じことを言える。お前はあと二十年生きても三十年生きても今のお前と大して変わらないぞ。二十年、三十年、自分がいいものを書いているのか確信が持てないまま縋るように小説を書き続け、二十年、三十年、恋愛で幸せになったり不幸になったりするが決して不安は消えない。もちろん生きてて良かったと思うこともある。あの時死ななくて良かったと思うこともある。でもお前の人生はどこを切っても金太郎飴のようなものだ。金太郎の顔がぐにゃっとしていたり、精悍だったり、潰れていたりしても、内容を構成する要素は同じだ。いつか変わるのだろうか。いつか、例えば老いが無視できないところにまで忍び寄り、そこにいつしか引き込まれていく途中、あるいは孫ができて自分の子供ができた時とは違った心持ちで赤子を抱いた時、親が亡くなった時、自分自身が病魔に侵された時などに、私の中にこれまでの金太郎飴にはなかった重要な要素が入り込むことはあり得るのだろうか。人生には様々なフェーズがあると聞く。いつまでも自分が今の自分のままなはずはない。でも、自分がこの三十年以上にわたってあまりにも変わらないことに、私は驚愕し続け、ようやく絶望しかけているのだ。 ・同じことを感じている女性は、今すごく多いと思います。 自分の中ではこういうもの、と納得して適宜引き出しにしまっていた記憶が、昨今の告発の数々の中で突如暴れ出して、引き出しから飛び出して自分を襲う。そしてそこに入れてしまった自分自身への不信感、かつての無自覚な時代への憎悪、相手側にはそんな葛藤は一切なく、いい思い出フォルダにまとめられているんだろうという耐えがたい予測、この古傷が耐え難いほど痛み出す現象については、それなりに年齢を重ねた女性たちとの間で最近よく話題になります ・「分かります。最近のあらゆる告発文は、私たちの中に眠っていた過去の罪を照らし出してくれますよね。打ち上げ花火が上がって、同じ痛みを持っている人たちが照らされた自分の古傷を見出す。あれは断罪されるべき罪なんだと気づかされていく。それは社会が急に変化していく中で必然的な流れだし、それぞれ個人が変化し続けているからこその気づきでもあります。当時は大して気にしていなかったことが、どんどん大きな罪になっていく。時代の変化によって、そしてその変化に呼応した自分自身の変化によって。つまり、私たちはとても流動的で、まるでアメーバのような存在に身を任せながら、自分達自身もまたアメーバのように手からこぼれ落ちてしまうような存在だということです。そんな不確かな存在として不確かな世界に生き続ける苦しみって、今この変化に気づいている人たちだけが抱えているもので、気づいている人と気づいていない人の間に鮮やかなグラデーションができていることに最近気づいたんです」 ・禿げかけて顎下にたっぷり脂肪をつけたおっさんが、三歳児のようなわがままっぷりを披露する。レイプしておいて、話さない。根こそぎ尊厳を奪っておいて、敵意を恐れる。ほら見ろ過去と今が瞬時に、直接的にドッキングした。生涯に亘って許せないことというのは、昨日のことなのだ。いや、今も継続しているのだ。私はこの十年近く、毎時毎分毎秒ずっとレイプされ続けている。尊厳を奪われ続け、犯され続け、自我を殺され続けている。だから私は、いい加減にその被虐から逃れなければならない。戦い、勝たなければならない。これは尊厳を取り戻すための戦いなのだ。グラスを持ってリビングを出ていこうとする克己に「話し合いに応じないなら弁護士に相談します」と声を掛けるが、目すら合わさず彼はドアを閉じた。 ・正直、自分は個人主義の立場をとっていて、基本的には全てのお金を折半したいし、自分が興味ないことやりたくないこと、例えばバーベキューだったり遊園地だったりナイトプールだったりにお金を払いたくはない。行くことになればお金は出すが、本当は全く割りきれない思いでいる。正直にこの愚痴を言ったら、担当作家の長岡さんに「五松さんが付き合えば付き合うほど不幸な女性が増えるだけだから、恋愛やめたほうがいいと思いますよ。まあ五松さんには女を不幸にさせる程の魅力もないから大丈夫かもですけど」と笑われた。あまりにサラッと軽い口調で言われ、周囲がドッとウケていたから苦笑いで流したけど、時間が経てば経つほど思い出した時の怒りが増していく。男だったら分かってくれるだろうと、担当作家の七樹さんに同じことを言ったら、「五松くんは誰かにお金や愛情を分け与えられるほど満たされてないんだろうね。まあ、どれだけ満たされてても与える器がない奴もいるけどね」と同情された。確かにそうなのかもしれなかった。自分は昔から、自分のものは自分のもの。で、お菓子もおもちゃも分け与えることができなかった。僕の!僕の1というのが口癖だったと、親に今も笑われる。お母さんお父さん、僕はいまだに僕のお金を女性に使うことにモヤモヤしてしまいます。それでもこすい奴と思われるのは嫌だから、いつもお金を払っています。課金もしています。でもどこかで「払ってやってる」という意識が働いてしまい、彼女達が自分に優しさや体で接待するのが当然だという思いを捨てきれません。自分が現代に於けるマッチョ的害悪であるという自覚はしています。でも自覚以上の境地にはまだ立てていません。 ・でも、自分の中にはそんな暴力的な血は流れていない、とも言い切れないことを、最近よく痛感する。もちろん今だって口説き倒してセックスをしようとも思わないし、風俗も好んで行きはしない。歳のせいもあるかもしれないが、もはやセックスに持ち込むためのエネルギーをケチるような男だ。それでも自分は女性をルッキズム全開でランクづけし、金を払えば払っただけの見返りが欲しくなり、後腐れなくセックスできるならばより多くの見た目のいい女性たちいい体をした女性たちとセックスしたいと望む、下世話で暴力的な存在だ。自分のことをそんなふうに捉えるようになったのはきっと、女性を射精のための道具としか思っていないあの作家のような老害に対する嫌悪と、今の彼女が初めての彼女です、と歓迎会で自信満々に言って部署の女性たちの好感度をかっさらっていったという、新卒で文芸編集部に配属された二年目の梨山くんみたいな若者に対する不可解さの、両方があってこそのことなのだろうと最近気づいた。 ・皮肉屋で、気に入らないやつを目一杯一刀両断するから、頭がキレてウィットに富んでいると評価されていた時期もあったようだが、四十代半ばに差し掛かった今はただの愚痴おばさんだ。近所のスーパーが値上げをしたことや、旦那の家事のやり方への不満までダダ漏れにしてきてちょっと引く。木戸さんによると、昔はああいう女性編集者が多かったとのことだ。過去のノリを引きずっちゃってるんだろうねと不憫そうに言っていたが、それはあんたも同じなんじゃないかとも思う。こんなところにも、時代の変化は見え隠れするのだ。いや、この人の移り変わりこそがまさに、時代の移り変わりと言えるのかもしれない。 ・「私は本を通じていろいろな人と対話をしてきました。例えばカラマーゾフを読めば、ドミートリイ、イヴァン、アリョーシャ、スメルジャコフ、フョードル、そしてカチェリーナとも対話をします。もちろん著者自身とも、小説そのものとも対話をします。これは人間関係と同じようなものでありながら、現実の人間とのそれよりずっと濃密な関係でもあります。現実に顔を突き合わせる人たちと、人はどのように生きるべきか、罪とはなんなのか、貧困とどう向き合うべきか、なんて真面目に語り合うシーンはあまりありませんよね。だからこそ、考えざるを得ないシチュエーションと、多様な意見が取り入れられている小説には大きな存在意義があると私は思っています。もちろんそれとは全く違う意義も小説には含まれているのですが、意義の一つが、このように現実よりも深い思考や対話を持てることだと思っています。この、本を通じてあらゆるものと対話する、という関係は、言い換えてみればいわばリモートの一種ですよね」 ・人間は、本や映像という媒体がなかった頃から伝聞や歌で何かを継承する、受け取る、といういわばリモートのコミュニケーションを経てきました。今では本や映像、画像や絵画を通して、時代や国境、文化や宗教を超えて、遠くの顔を見たこともない誰かから、すでに死んでしまった誰かから、大切なものを受け取るということを日常的にしています。そう考えると、受け取る場所が書籍であろうが、データであろうが特に大きく変化する所以はないのではないか、と私は考えています。つまり、小説に関して言えば、そこでやりとりされているのはエスプリや心、思考、価値観です。それは目には見えないもの、感じることしかできないもので、そういったものが文学、書籍というものを通じて人に届くようになったけれども、今はデータでも届く。手で触れない、目には見えないものに少しずつ近づいていっている、つまり元来の形に戻りつつあるとも言えます。 ・数年前、自分の担当作家が、時折無邪気さを丸出しにする人と、一切無邪気さを見せない人に二分されていることに気づき、どうしてこんなに明らかに二分されているんだろうと考えた結果、ずっと専菜作家で一度も社会に出たことのない人に共通しているのがこの無邪気さだと気づいたのだ。長岡さんは若くしてデビュー、就職経験のない作家だ。数は少ないけれど、こうした社会に出たことのない人や、フリーターのような自由な働き方や、フリーの仕事をしていた人は、「社会人なら必ず削られてしまう場所」が百%の状態で残っていて、時々子供と向き合っているような違和感に駆られ、戸惑うことがある。「社会人なら必ず削られてしまう場所」が割れている作家の方が共感能力が高いし、社会に対して開けているため読みやすいという傾向もある。どちらがいいというわけではないものの、なんとなくこの削れていない作家に対しては嘲りと羨望が入り混じった苛立ちが湧き上がるのだ。 ・あんたが外部に削られず生き延びることができたのは、儲に作家としてやっていけてるからであって、そんな才能もなく世間に揉まれて苦しむ奴らへの想像力がないからそんなことを平然と口にできるんだ、と唐突な憤怒に駆られる。最初はお望みの部署にはいけません、泥臭い編集部でも大丈夫ですか?と週刊誌行きを示唆され、断腸の思いで「もちろんです」と答えた自分の味わった苦渋も、編集長のモラハラや取材対象からの罵倒、過酷なスケジュールに苦しみ続けた週刊誌時代の胃痛も、時代の変化によって泥臭い部署を経ず新卒で希望通り文芸の編集部に配属された梨山くんのような奴への滾るようなルサンチマンも、お前には分からないだろう。だからあんたはずっと地に足のつかない、リアリティのない小説ばっかり書いてて、だから売れないんだ。呪いの言葉を頭に思い浮かべながら「やめてくださいよ。僕はまだ編集者の中では若手の範囲ですよ。若い人はどう思うの?とか聞き取られる側ですからね」とヘラヘラ諂って見せる。俺には、こういう長いものに巻かれる自分に対する激しい怒りがある。 ・その時優美の手と脚が胴体に回され、俺は抱きしめられる。優美の手も足も熱く、包まれた心地に、重力とは正反対に胸が軽くなっていく。女性上司に勃起したり、胸に惹かれたり、でも勃たなかったり、抱きしめられて安堵したり、自分の体はどうしょうもないなと思う。俺だって望んで、クズやゴミ予備軍に生まれたわけじゃない。男をクズとかゴミとか言える女はいい身分だ。男が逆のことを言ったら死刑なのに、なんでこんなにひどいことをあんなに軽いトーンで言えるんだろう。憤りが体の中でどすどす荒ぶっていても、安塔はどこまでも体に入り込んで、主に胴を中心に脂肪をつけ始めた俺の体を支配して行った。 ・表現っていうのはどんな場でどんな形でどんな人からなされようと一方的なものだよ。人は自分というフィルターを死ぬまで外せないからね。もちろん Twiterとかの匿名投稿がその最底辺にあるっていうことは分かるし、その痛々しさに耐えられないって意見も分かるけどね。 ・普段あまり本を読まない自分でもさすがに気になって何度か手に取って数ページ読んでみたけど続かなかった。それでもここまで売れて話題になればやっぱりちょっと本腰を入れて読んでみようかなと思うから、自分はオピニオンリーダーから最も遠い人種、資本主義社会と世間に踊らされる大来の一員でしかないのだと自覚せざるを得ない。 だからこそ、友梨奈に惹かれたんだろう。自分の中に確固とした価値観を持ち合わせていない俺には、「それは正しい」「それは間違っている」「それは正しいけどもっとこうするべきだ」「それは救いようのない悪だ」と自信満々に全てにジャッジを下せる彼女が眩しかった。 「私が間違ってると思ったらちゃんと言ってほしい。一哉の言葉を受け取ったら、私はその都度きちんと考えるし、一哉の意思や価値観を取り入れて、私は人としてさらにバージョンアップしたいんだよ」 付き合い始めた頃、いつも私ばかりが提案して私ばかりが全てを決めて私ばかり話題を出して私ばかりが話を先導して私ばかりが結論を出してる、と不満を漏らしたのち友梨奈はそう言った。 情けないかもしれないけど、俺は友梨奈と話しているだけで幸せだし、友梨奈が間違ってると思ったことは一度もないし、一緒にいると幸せだから話す内容はなんでもいいんだと言ったら、彼女はショックを受けたような表情をしたけど、主張がないということが一哉の主張なんだねと前向きに理解したようなセリフで話を終わらせた。何故かは分からない。自分には許せないものがないのだ。苦手なものはある。でも許せないものは特にない。つまり自分にあるのは、信念ではなく、傾向でしかないんだろう。それでも、何が何でも友梨奈と一緒にいたいという仰に近いものが自分にはあるのだから、それで十分じゃないかとも思う。 ・それでも新しい時代の人たちがそんな前時代の負の遺産で傷つくことはあってはならないし、何よりも今の時代の正しさを執行するために、セクハラは取り締まらなければならない。私は変わりゆく時代に抗う必要は感じてないからね。でも最近、あの頃は間違ってた、自分も含めて皆がおかしくなっていた、って昔を振り返って悔恨の念を漏らす女性たちを見ながら、私はそうじゃないと感じてる。あの時は「あれが普通だった」んだよ。常識と言ってもいいかもしれないね。そして今は常識が変わっただけ。そして、今の常識だって、あと数十年すればきっと「間違ってた」と言われるようになる。でも間違ってたわけじゃない。時代によって常識が変化してるだけ。正しさを執行するためにと言ったけど、それは便宜的な言い方であって、本来はそこに正しいも間違いもない。ただただ時代にはそれぞれの正解がある。移り変わる正解の蔵の中で、今の環境における正解を正確に捉えることだけが、今を真っ当に生きる術だよ。現代にだって、あらゆる国や村で略奪婚、一夫多妻制もあれば、赤ん坊をシロアリの巣に入れて精霊として還す民族もいる。そこには先進国とは全く違う結婚制度やジェンダー観があって、何が幸せかなんて環境によって全く違う。自分たちと価値観を共有しない人たちを可哀想と切り捨てるのは邪悪だし、愚かな行為だよ。でも現代に於いてはインターネットがあって、先進国に生きる者たちは移民問題やグローバル化の潮流の中で他者との共存、多様性っていうテーマに直面してる。でもそこで、我々は全くもって画一的な価値観を持っていないという当たり前の問題にぶち当たる。例えば現代の先進国に於いて人々は犬猫を家族のように大切に思ったりするけれど、ゴキブリは容赦無く殺す。でも数十年後には、人間はゴキブリを家族のように大切に思って一緒に暮らしているかもしれないし、百年後には生き物の肉を食べるという行為もまた非人道的と捉えられてるかもしれない。そしてその時には言うんだろうね。「昔の人は野蛮で、人の心を持っていなかったんだろうね」って。 ・二人の生活がこんなにも二人の要素で完成されていて、強固な ものになっているという事実が、こんなにも胸を挟るのは何故だろう。さっき、別れを切り出された七年前のことを思い出してしまったせいかもしれないし、料理がとてもおいしかったせいかもしれない。あるいは、彼女が痩せたと感じたせいだろうか。いや、多分違う。俺は最近、五松さんやとりあえずンコチ、イエニスト茂吉好き、木戸さんと橋山美津といった面々の、恋愛を巡る男女の不幸な末路を目の当たりにし続け、自分でも知らず知らずのうちに心を痛めていたのかもしれない。そんなことを思いながら、柚子胡椒ものすごく合う、やっぱこれが最適解かも、と満面の笑みでチキンを口に運んで、そろそろ柚子胡椒買わなきゃねと瓶を覗き込んで言う彼女に、「柚子胡椒はストックがあるよ。まだあるよって言う俺を無視して、友梨奈が物産展で買ったやつ」と微笑んだ。あー! と無邪気な表情を見せる友梨奈がこれから、旦那さんが美意識的に耐えられないと感じる泥沼の離婚協議や離婚調停に挑むのだと思ったら、それが友梨奈のみならず自分のためにもなされる行為だと知りながら、止めたくなる。 ・「へーすごい。本当にあるんだねバーベキューやろうとか言う会社」 ね、と同意して眉を顰める。思えば、これまでも社内で誰々の家でバーベキューやるとか、誰々さん幹事でバーベキュー大会するとかで誘われたことが何度かあった。あんな準備と片付けが大変なものをなぜやろうと思えるのか、神経を疑う。焼いた肉を食べたいなら焼肉屋やサムギョプサルを出す韓国料理屋、シュラスコなど選択肢はたくさんあって、都内には無数の美味しい店がひしめいているのに、どうして自ら大して美味しくもない肉を焼いたり、気を使いながらどうぞと取り分けたりなどの茶番を繰り広げなければならないんだろう。反射的にそう思う俺は、人生の中で一度もバーベキューをしたことがない。 ・私、あるいはこの場にいる誰かが何らかの病気により子供を作れない体質であるという可能性を全く考えないんですか?誰かが子供が死ぬほど嫌いで永遠に子供を持ちたくないと考えている可能性、あるいはこの場に性的マイノリティの人がいる可能性も考えないんですか?あなたの発言は、全ての人は子供を持つべき、子供は全ての人に求められ愛されるもの、という社会的刷り込みに則っていて、二重にも三重にも愚かで失礼です。課長とはいえ人の上に立つような人がそんなアドバイスを装って想像力の久如した先輩風を吹かせることは、ここにいる全ての人たちにとって害悪でしかないですよ ・いつの時代も、正しさや現代らしさは、病的なものと捉えられるのかもしれない。SDGs、環境保護、動物愛護、LGBTQ+、あらゆる運動の最先端にいる人たちが病的に見えるという意見も分からなくはない。それでも、気づいてしまった人、見えている人は、もう前に進むしかないのだろう。 ・彼女がそうして周囲の人を凍りつかせた場面を、俺は他に何度も目撃してきた。「女なら一度は出産するべき」「あなたたちは顔が綺麗だからたくさん子供を作ったほうがいい」「ゲイには敷居を跨がせない」などなどの発言をした人に対する人格批判だ。彼女の言っていることはまともで、誰よりもまともで、誰も反論の余地はないだろう。でもその無自覚な相手を徹底的に論破しゴミクズに鋭く唾を吐き捨てるかの如き冷酷さは、見る者を不安にさせる。彼女は差別主義者、セクハラパワハラをする人、固定観念に捕われている人々を許さない。俺であっても伽耶ちゃんであっても誰であっても、そのような発言をしたら徹底的に、生まれてきたことを後悔させるほど強烈に叩きのめすだろう。もう脳震盪を起こして伸び切ったゴム人形みたいになった相手をいつまでも左右から殴り続けているかのような、そんなボコボコ感が、俺には耐えられないのだ。 もういいんだ殴らなくていいんだと、彼女を抱きしめたくなる。人がボコボコにされるのは、言葉によってでも、肉体によってでも見ていて辛い。でもきっと彼女は言うだろう。ボコボコにされたのは私の方だ。傷ついているのも私の方だ。あいつらは何一つ傷ついてない。でもそうじゃないと俺は思う。彼らもまた、彼女の思うような形でなくとも、それなりには傷ついているはずなのだ。そしてこれは口にはしないけど、俺もまた彼女が誰かをけちょんけちょんに貶めている時、ガラスの破片を踏みつけたような痛みを感じる。彼女の痛みに共鳴しているのか、それとも彼女にけちょんけちょんにされている人の痛みに共鳴しているのか、それとも二人がぶつかって飛び散ったガラスを踏んでいるだけなのか分からない。それでも誰にも露呈しない痛みではあるけど、俺の痛みもまた本物で、その痛みが彼女にとって取るにたらない痛みであるという事実もまた、俺にとっては小さな苦痛だった。 ・プラスチックコップに延々、ジュースや水を注ぎ続けていると、気が休まる。自分はこういう無機質なものと、専門的な技術を必要としない関わりを持っているのが一番気楽なのだ。今はマーケティングの部署にいてそれは本当に面白いし勉強になるしやりがいがあるしずっと続けていきたいと思うけど、本来の資質的には、延々段ボールに何かをつめて宛名シールを貼って閉じて重ねるといった出荷作業のようなものが合っているという事実はあるにはあって、それは自分が責任というものに過大なストレスを感じてしまうことに起因しているのだろうと自分では考えている。 ・うちの会社には、こういう人が多い。体育会系で与えられた課題を無思考にクリアし続けてきて、就職してからも与えられた課題を気合と根性でクリアし続けている人、自分が偏った人間であること、無知であることを知らない人。 - 2025年12月24日
六番目の小夜子恩田陸津村沙世子――とある地方の高校にやってきた、美しく謎めいた転校生。高校には十数年間にわたり、奇妙なゲームが受け継がれていた。三年に一度、サヨコと呼ばれる生徒が、見えざる手によって選ばれるのだ。そして今年は、「六番目のサヨコ」が誕生する年だった。 ビビりな性格なのでホラー系はほとんど読んだことないのだが、この小説は面白かった。。 ところどころゾクッとするシーンがあるが、特に学園祭のシーンはエリック・サティのジムノペディを聞きながら読んだら本当にゾクゾクした。。 あのシーンの何がこんなに怖いのか。。 全体としてはただの怖い話ではなく、高校3年の青春も描かれていてとても愛おしさを感じたし、ミステリ的要素も面白くて、一気に読み進められる小説だった。 ・「あたしは子供の頃から多かったわよー不思議よねえ、どうしてみんな転校生をいじめるのかしらねえ?田舎の方とかに転校するとね、帰り道に大勢に待ち伏せされていじめられるのよ。 考えてみると、これって不条理よね?なぜいじめる必要があるのか?身体の中に異物が入ると、ほら、いろいろ白血球なんかが寄ってきて取り込もうとするっていうじゃない、あれなのかもしれないわよね。まあ、その土地に馴染むための通過儀礼の意味があるのかもしれないししでも、要するに『異物』だからよね。知らないものだから、自分たちとは異質の空間と時間を過ごしてきたから!未知なるものは常に恐怖の対象だったからーほーんと、テレビドラマのいわゆる『謎の転校生』は、いつもなんらかの悪意と目的を持ってやってきたものね。それでまあ、いじめて、過剰に接触して、屈服させて、免疫をつけて、自分たちの中に取り込もうとするわけね」 ・「そうだよな。日本て学歴重視の割には学問の地位低いもんね」 「ねえ、知ってる?国立大学の予算の半分をT大とK大だけで使ってるんですって。そうよ、こんなに長いことつまんない勉強ばっかさせられたんだもの、あたし絶対どっちかに行って国家予算を使いまくってやる」 「津村はいちいち言うことが激しいなあ。俺なんか、しょせん小心者の点取り虫だからさ、一あ、点取り虫って言葉、なんか懐かしくない?一結構、あのあざとくてせこいルール探しみたいな受験勉強って嫌いじゃないよ。学歴社会とかみんなけなしてるけど、いきなり明日からさ、じゃあ君の好きで得意なことやって君の個性を見せてくださいなんて言われたら困るよな。そんな、僕点数で判断してもらわなきゃ困ります、って言い出す奴がいっぱいいるんだろうな。俺だってそうだもん」 「そう言い切るところが秋くんのすごいとこよね。あなた自分に自があるからそんなことが言えるのよ」 ・特定の個人を重点的に、などとポロリと漏らしてしまったのは、あの、八月の海辺での津村沙世子との会話がどこかに残っていたせいだ、と秋は気付いていた。沙世子はあの時痛いところをついていた。「どれもちょっとずつ」などと控えめに答えたけれども、本当はどれも「ちょっとずつ」どころではなかった。他人が自分の中に踏み込んでくるのが怖い他人の中に踏み込んでいくのも怖い1自分は他の大勢の人間とは違うのだー自分の心をほんのちょっとでも掘り返せば、そういう感情が山ほど転がり出てくるのを秋は知っている。自分の傲慢さ、薄情さ、小心さが、自分の撮る写真を通して他人にバレるのを彼は何より恐れていたのだ。 でも、今年の学園祭の終りには、津村と、花宮と、由紀夫の写真を撮ってやろう。 秋はその時決心した。 真っ正面から、どアップであいつらの写真を撮ろう。 - 2025年12月23日
世界地図の下書き朝井リョウ突然の事故で両親を亡くし、「青葉おひさまの家」で暮らすことになった小学生の太輔。悲しみでしばらく心を閉ざしていたが、同じ部屋の仲間たちのおかげで少しずつ打ち解けていく。とくにお母さんのように優しい高校生の佐緒里は、みんなにとって特別な存在。施設を卒業する佐緒里のため、4人の子どもたちは、ランタンに願い事を託して空に飛ばす「蛍祭り」を復活させようと、作戦を立てはじめる・・・・・・ 切なくて温かい物語だった。 結局人はひとりだということが、この境遇の子供達の話だからこそ鮮明に表れている。 結局はばらばらになってしまう。でも離れたくないと思い合えるような人達に出会えたことで、次の一歩を踏み出せるようになる。。 この物語を読んで「対岸の彼女」の「ひとりでいるのがこわくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何かと出会うことのほうが、うんと大事な気が、今になってするんだよね」という言葉を思い出した。 物語の中の登場人物だけど、どの子供達もとても愛おしくて、この子達に希望に溢れる未来がありますようにと願ってしまった。 ・一生口をきいてやらない、と、何度も何度も決意していた気持ちが、お湯の中に入れた氷の粒のように、形をなくしていく。 佐緒里は、眉を下げて太輔のことを見つめている。 「家族だよ。だから、願いとばし、していいんだよ」 朝から雑草を抜き、いろんなところからいろんなものを調達し、つくりあげてくれた家。 「家族・・・・」 太輔が声を痛らすと、右手をぎゅっと麻利に握られた。えへへ、と、下から顔を覗き込まれる。 「お兄ちゃんがもうひとりできた」 麻利はそう言って、もう一度てのひらに力を込めた。とても小さな握力が、太輔の指の関節を包む。 ・私ね、と、続けて、佐緒里は一度唾を飲み込んだ。 「ひとりでこんなところに来て、どうしていいかわからなかった。そんなときに太輔くんが入ってきて・・・弟と同い年で、同じアニメのTシャツを着てた」 太輔は、自分のTシャツの胸のあたりを見る。お母さんに買ってもらった、好きなアニメのTシャツ。 「弟が近くにいるみたいで、嬉しかった。この子のお姉さんになれば寂しくなくなるって思った」 どうしてこの人はこんなにやさしいんだろう、と思っていた。やさしい人はすぐにうらぎる、と思っていた。 「ほんとは私も、太輔くんと同じくらい寂しかっただけなの。お姉さんぶって、自分の寂しさを紛らわしたかっただけ」 ごめんね、と、佐緒里は謝った。太輔は、どうして謝られているのかわからなかった。 ・施設にいる高校生は、施設を出るまでにある一定額の貯金をするようにと言われている。だから、高校生の子たちはほとんどみんなアルバイトをしている。 「高校生になると、塾のお金、出ないんやな。そんなん知らんかった」 ねー、という麻利の明るい声が、淳也のつぶやきを打ち消した。 たまに、自分たちが生きていくためには、自分の力ではどうしようもないところからの支えが必要なのだと実感するときがある。そしてそれは、家で家族と暮らしているクラスメイトも感じていることなのかどうか、よくわからなくなる。 ・「伯母さん」 大輔は足の指をぎゅっと丸める。 「伯母さんは、お母さんの代わりにはなれないよ」キルトを掲げている伯母さんの腕が少し下がる。 「それとおんなじで、おれは、伯父さんの代わりにはなれない」ずっと、不思議に思っていた。 伯母さんは突然、運動会に来た。別々に暮らし始めてもう三年も経つのに、いきなり会いに来た。なぜいま会いに来たのか、なぜいま手紙をくれるようになったのか、太輔にはずっとわからなかった。 伯父さんがいなくなった。だから伯母さんはその代わりを探した。 「なに言ってるの、太輔」 佐緒里がもうすぐいなくなってしまう。だから太輔はその代わりを探した。 「ねえ、こっちを見て」 伯母さんも、おれとおんなじだった。【ずっと一緒にいてくれる】人の代わりを、探さなければいけなくなった。 ・とんでもなく広い宇宙に放り出された気がした。自分は一体、これから、誰と生きていくのだろうと思った。脱げそうになるスニーカーが地面と擦れて音を立てる。心のどこかで、また、戻れるかもしれないと思っていた。お母さんが、お父さんが、ずっと一緒にいてくれる人がいたあの世界に、もしかしたらもう一度、戻れるのかもしれないと思っていた。 もう戻れない。 戻れる、戻れないの話ではない。そんな世界なんて、もうどこにも存在しない。ずっと一緒にいてくれる人なんて、いない。 どこにもいないんだ。 ・伯母さんの家から飛び出したとき、自分は、果てしなく広い宇宙にたったひとりきりで放り出されたような気がした。ここに帰ってくれば、きっと、その宇宙に誰かが入ってきてくれると思っていた。みんなに会えば、何もない宇宙がにぎやかになってくれると肩じていた。 麻利がびしょ濡れになって泣いている。淳也が、今までで一番悲しそうな顔をしている。美保子が泥に汚れたまま、ベッドの上で小さくなっている。 勘違いをしていた。みんな、それぞれの宇宙の中にひとりっきりなんだ。 ・離れたくない。そう思った。 入り口も出口もよくわからないような衝動のど真ん中に、突然、降り立ってしまうことがある。 佐緒里がいなくなったそのあとも、途方もなくひろがる人生の余白。その予感がほのかに薫った気がした。佐緒里はここからいなくなる。それでも自分の生活はこの場所で続いていく。太輔は、だらんとした凧を見つめた。 離れたくないのだ。この人と。 ・「次、うまくいかなかったら、ミホ、もう、お母さんのこと好きじゃなくなるかもしれない。そしたら、ミホにとってのおうちは本当になくなる。そうなったら、もう全部終わり」美保子はぎゅっと膝をたたみこむ。 「今まではずっと、そう思ってた」小さな声が、膝の間に落ちていった。 「でも、みんなでランタン作ってるうちに、そうじゃないかもって」空の真ん中でランタンは揺れる。 「新しいおうちでうまくいかなくたって、お母さんのこともう嫌いになっちゃったって、そのあと、また、ここが新しいおうちですって言えるような人に会えるかもしれない。毎日、夜中まで一緒にランタン作れるような、みんなみたいな人に」 ・麻利は、膝と膝の間に顔をうずめている。 「麻利がクッとられて裸足で帰ってきたとき、もうあの学校から逃げようって思った。いつまでもがまんして、いつまでも同じところにおる必要なんてないって、あのときやっと気づいた」 佐緒里が麻利にポケットティッシュを渡している。ティッシュの白さが夕闇の中で鈍く光る。 「ぼくな、絶対、アリサ作戦を成功させたかった」 淳也の顔はすがすがしい。 「それでも変わらん人がおるってことを、麻利に知ってもらいたかった」施設に美保子の担任の先生が来たとき、太輔は、あんなにも堂々と大人に向かっていく淳也を初めて見た。 「でも、自分たちでこんなにもすごいことができるって、自分たちだけは変われるんやって、そうも思いたかったんや」 話し続ける淳也は、どこからどう見ても笑顔だ。 太輔はそれがとてもかなしかった。 ・淳也の顔はすがすがしい。 「それでも変わらん人がおるってことを、麻利に知ってもらいたかった」施設に美保子の担任の先生が来たとき、太輔は、あんなにも堂々と大人に向かっていく淳也を初めて見た。 「でも、自分たちでこんなにもすごいことができるって、自分たちだけは変われるんやって、そうも思いたかったんや」 話し続ける淳也は、どこからどう見ても笑顔だ。 太輔はそれがとてもかなしかった。 ・「太輔くん」 佐緒里がこちらを見る。 「これから中学生になって、高校生になって、大人になって、もっとたくさんの人、たくさんのことに出会うよ。いままで出会った人以上の人に、いっぱい出会うの」 お母さん。お父さん。伯母さん。伯父さん。みこちゃん。淳也。麻利。美保子。佐満里。いままで出会った人。これまで生きてきた世界にいた人。 「その中でね、私たちみたいな人が、どこかで絶対に待ってる。これからどんな道を選ぶことになっても、その可能性は、ずっと変わらないの。どんな道を選んでも、それが逃げ道だって言われるような道でも、その先に延びる道の太さはこれまでと同じなの。同じだけの希望があるの。 どんどん道が細くなっていったりなんか、絶対にしない」 ・「また、こんなふうに、私のために町じゅうにチラシを貼ってくれるような人に、これから出会えるのかな」 佐緒里はそのチラシを見たまま、わあっと泣きだした。 「出会えるよね、絶対」 握りしめられたチラシが、くしゃ、と丸まる。 「希望は減らないよね」 嗚咽の中で、佐緒里は言う。 「そう思ってないと、負けそう」 - 2025年12月17日
遠い山なみの光〔新版〕カズオ・イシグロ,小野寺健長女・景子を自殺で亡くしたイギリス在住の日本人女性・悦子が、次女・ニキの訪問をきっかけに、戦後長崎での若き日の記憶(友人・佐知子とその娘・万里子との交流、元夫・次郎と元夫の父・緒方とのやり取り)を回想する物語 解説が充実していて、そこも面白かった。 三宅さんの解説の"イシグロが小説でずっと描き続けてきたのは、「人は後悔を秘密にして生きる」という主題"という解説が分かりやすかった。 確かに自分も過去について色々な後悔があるけど、周りに本音は言わず、あの時はしょうがなかったんだと心の中で言い訳してみたり、逆に無理に前向きに考えようとしたり...そんな自分が嫌になることもあったけど、人間って普遍的にそういうものなのかと思ったら気が楽になった。 悦子とニキ、悦子と佐知子の絶妙に噛み合ってないやり取りが、最近の私と母とやり取りに似ていて苦笑してしまった。話を聞いているようで聞いていない。否定はしないけど、納得していない。笑 ・「でも、わたしはよかったと思ってるのよ。わたしはほんとに・・・・・・」「万里子はアメリカへ行っても大丈夫なのに、どうしてそれを言じてくれないの。子供を育てるには向こうのほうがいいわ。向こうのほうがずっといろいろなチャンスもあるわ。 女にとっては、アメリカの生活のほうがずっといいのよ」「わたしはほんとに、あなたのこと喜んでいるのよ。わたしのほうだって、今の暮らしは申し分ないわ。二郎の仕事も順調だし、こんどはちょうど欲しいと思ったときに子供が生まれることになったし…・・」 「万里子は勤めることだってできるわ。映画女優にだってなれるかもしれないわ。アメリカっていうのはそういうとこなのよ、何だってできる国なの。ーー」 ・ニキは肩をすくめた。わたしはしばらく彼女を見ていたが、また口をひらいた。「でもね、ニキ、わたしには初めからわかっていたのよ。初めから、こっちへ来ても景子は幸せにはなれないと思っていたの。それでも、わたしは連れてくる決心をしたのよ」娘はちょっと考えている様子だった。「バカなこと言わないでよ」ニキはわたしのほうを向いた。「そこまでわかったはず、ないじゃない。しかも、お母さまは景子のためにできるだけのことをしたわ。お母さまを責められる人なんかいないわよ」わたしは黙っていた。化粧をしていないと、ニキの顔はひどく幼かった。 「とにかく、時には賭けなくちゃならない場合があるわ。お母さまのしたことは正しかったのよ。ただ漫然と生きているわけにはいかないもの」わたしは手にしていたカップを置くと、ニキの背後の庭にじっと見入った。雨の気配はなく、空はこの数日よりも明るい感じだった。 「お母さまがそのころの生活で満足して、そのままじっとしていたとしたら、バカよ。すくなくとも、努力はしたじゃないの」 ・「まだ、結婚する予定はないんでしょうね」「結婚なんかして、何になるの」「ただ訊いてみただけよ」 「どうして結婚しなきゃならないの?どういう意味があるの?」「ただロンドンで1暮らしていくだけ?」 「そうね、なぜ結婚しなくちゃならないの。バカげてるわよ、お母さま」ニキはカレンダーを丸めてスーツケースにしまった。「女はもっと目をさまさなきゃだめよ。みんな、人生はただ結婚してうじゃうじゃ子供を産むものだと思ってるけど」 わたしは彼女を見ていたが、また口をひらいた。「でも、結局、ほかにたいしたことがあるわけじゃないでしょ」 「まあ、お母さま。やれることなら、いくらでもあるわよ。亭主とうるさいチビをうじゃうじゃ抱えてどっかへ押しこめられるのなんか、まっぴらだわ。でも、どうして急にそんな話を持ち出したの?」スーツケースの蓋が、どうしても閉まらない。ニキはいらいらしながらそれを押さえていた。 「ただ、これからどうするつもりかと思っただけよ」わたしは笑った。「怒ることはないじゃない。もちろん、あなたはあなたの考えるように生きればいいわ」娘はもう一度蓋を開けて、中をすこし整理した。 「ねえ、ニキ、怒ることはないでしょう」 こんどは何とか蓋も閉まった。「なんで、こんなにたくさん持ってきちゃったんだろう」ニキは一人でつぶやいた。 ◾️解説 ・カズオ・イシグロの世界の本質は、第五作『わたしたちが孤児だったころ』(二〇〇〇)に到ってようやくはっきりしてきたように見える。一言でいえば、一見リアリズムの小説と思える第二作『浮世の画家』や、その前後のいくつかの短備もふくめ、けっきょく根底にあるのは世界を不条理と見る見方だということである。つまり、哲学的な意味での世界における自分の位置が見えない状況、言い換えれば自分と世の中の関係が分からない、したがって、たとえば過去についても未来についてもどう考えればいいか分からないといったことであり、理想などとは無縁のまま薄間のなかで手探りでうごいている、そんな人間の状況を描いているのである。それなら、カフカ的という形容はだれでも思いつくだろう。だが、イシグロの世界は単にカフカ的なだけではない。 彼は、価値のパラダイムが変わったとき戦争に負けたときなどが典型的な例であるーに訪れる過渡期の混乱のなかでも、不条理という見方だけで割り切らず、たとえかすかなものでも希望を棄てない生き方を描くことが多い。その人生をつつんでいる光は、強く明るい希望の光でも、逆に真っ暗な絶望の光でもなく、両者の中間の「薄明」とでもいうべきものである。イシグロの世界はこういう、どちらかというと暗さの勝っている「薄明の世界」であり、この感覚が現代人の好みというか実感にはよく合うのだと思う。 ・この三作の共通のテーマは、価値の転換期に遭遇した人物が、心の中で自分の過去をどう清算すればよいかに悩むというものだったのである。さいしょの二作はどちらも舞台は日本だが、『遠い山なみの光』については後でまたふれるとして『浮世の画家』のテーマはその典型であり、第二次大戦中は軍に協力して大家の地位にあったのに敗戦とともに没落した老画家の苦悩を描いている。次の『日の名残り』も、舞台こそこんどは英国でも、戦時中に誠意と友情からナチに協力したのが裏目に出て戦後には売国奴と罵られ、失意のうちに死んでいく貴族に仕えた、老執事の物語である。彼は老年のいま、徹底的にわが身を殺し、恋愛もあきらめて主人の大義に殉じた自分の人生の意味について思い惑う。つまりこれも価値の転換期の身の処し方がテーマなのだ。イシグロはケント大学を出たあとで一時働いた国外からの難民の収容施設で、そういう悩みをかかえた大勢の人々に出会い、この問題について深刻に思いをひそめた経験を活かしたと言っている。 『遠い山なみの光』のばあいは、語り手でヒロインでもある悦子の生涯は、もっと大きな時代環境の変化を背景に、長女景子の自殺という犠牲も払ったのち、英国人の夫との娘ニキによってほぼ完成する女性の自立というテーマが、全体をつらぬく一本の強い線となって作品をまとめているが、緒方さんと佐知子母娘という価値観の変化による典型的な犠牲者のテーマもふくんでいて、その点ではつぎの二作のテーマにもつながっている。 ・弁証法という哲学用語の語源は対話術ということだ。Aなる考えとBなる考えがぶつかって、その違いを検証する対話の内からどちらをも超えたCという考えが生まれる。すなわち思想の生成の過程である。 しかし、われわれの日常的な会話の大半はそれほど生成的ではない。双方の思いの違いが明らかになるばかりで、いかなるCにも到着できないのが普通の会話というものだ。それがまた哲学と文学の違いでもある。両者がボールを投げるばかりで相手の球を受け取らないのでは、会話はキャッチボールにならない。人間は互いに了解可能だという前提から出発するのが哲学であり、人間はやはりわかりあえないという結論に向かうのが文学である。 ・作家には、作中で自分を消すことができる者とそれができない者がある。三島由紀夫は登場人物を人形のように扱う。全員が彼の手中にあることをしつこく強調する。会話の途中にわりこんでコメントを加えたいという欲求を抑えることができない。司馬遼太郎はコメントどころか、登場人物たちの会話を遮って延々と大演説を振るう。長大なエッセーの中で小説はほとんど窒息している。J・G・バラードはエゴセントリックで脇人物にはそれ以上の待遇を与えないし、セイディー・スミスは全体プランに合わせて工学的に細部を作ってゆく。会話はパーツの一つであり、それを加工する手の動きが読者にも見える(ぼく自身もこれに近い)。 カズオ・イシグロは見事に自分を消している。映画でいえば、静かなカメラワークを指示する監督の姿勢に近い。この小説を読みながら小津安二郎の映画を想起するのはさほどむずかしいことではない。特に、旧弊な緒方とそれを疎ましく思っている息子二郎の関係を第三者である悦子の視点から見る描写など、まさに悦子は低い位置に固定されたカメラである。そして、作者のイシグロは更にその悦子の背後にひっそりと隠れている。この自信は無視できない。 ・カズオ・イシグロは文学が普遍的な人間の心の動きを扱うものであることをじてこれを書いた。作品の出来がそれを証明した。Sachikoの心はイギリス女やヴェトナム女と変わらない。それが文学の、今の時代の世界文学の意味である。佐知子と悦子は世界中にいる。 ・遠い記憶の物語である。 罪悪感と後悔に満ちた風景が、暗く苦しいものだとは限らない。むしろ、罪悪感と後悔に満ちているからこそ、記憶のなかの港の上の山なみは、美しく幸福なものだったのかもしれない。 カズオ・イシグロが故郷を描くとき、そこにあるのはいつも、後悔と喪失の記憶である。 美しい故郷とは、それが美しければ美しいほど、美しさを見出したいくらい後悔した記憶を抱えている。そういうことについて、書いた小説である。 ・イシグロが小説でずっと描き続けてきたのは、「人は後悔を秘密にして生きる」という主題である。 ・もう二度と戻れない、取り返しのつかないことは、この世にたくさんある。どうしたって指の隙間をすり抜け、こぼれ落ちてしまうものは存在する。 悦子にとって、景子との関係も、原爆で失ったものも、緒方との思い出も、二郎やイギリス人の夫との結婚生活も、取り返しのつくものでは決してない。 誰の人生においても、取り返しのつかないことをしてしまったのだと、理解し後悔し失に叩く瞬間は存在する。 自分は間違ったのだ、その結果、自分は大切なものを決定的に失ってしまったのだ、と私たちは時にそこでしゃがみ込んでしまう。 しかしー後悔と喪失は決して時を止めてくれない。川岸のぬかるみのように、足に絡まった縄のように、何かに足をとられても、それでも歩みを止めず生き続けるしかない。 どんなに罪悪感を持っても、起こったことは決して止められない。「何事もなかったみたいに」、人は後悔を隠して生きるほかないのである。そのことをイシグロは何度も小説に刻む。だから私は彼の小説を頼している。 悦子に対して娘を殺した母だとか、緒方に対して時代遅れの男性だとか、糾弾することは簡単だ。しかし彼らは彼らで後悔を隠して生きている。そこに痛みがないわけではないことを、イシグロはたしかに描きだす。 後悔を秘密にして生きる悦子が思い出す、港の上の山の風景はーその痛みが強ければ強いほど、おそらく美しい。「あの時は景子も幸せだったのよ」と嘘を述べつつ微笑んでニキを送り出す悦子の姿は、決して特別ではない私たちの普遍的な輪郭を浮かび上がらせている。 - 2025年12月16日
光の帝国 常野物語恩田陸特殊な能力を持つ「常野一族」の人々を描いた、十編の物語からなる連作短編集。 「常野」とは、東北地方にあるとされる架空の地域を指し、権力を持たず、目立たず、常に野にある存在であれ、という意味が込められている。 彼らは穏やかで知的な性質を持ち、普通の人々の中で静かに暮らしている。 全て違う物語だが、少しずつ繋がっていて面白い。 「光の帝国」からの「国道を降りて...」の終わり方は暖かい気持ちになった。 「大きな引き出し」が一番好きかなぁ。 親の子への想いが伝わる系には弱い。 ・じわじわと熱いものが込み上げてきた。父が丹念に切抜きをしている姿が目に見えるようだった。一番新しいスクラップブックを手に取る。 彼の最新作、カンヌで賞を取った作品も、父はちゃんと初日に見ていた。 まだ新しい半券の脇に目を走らせる。 言ウコトナシ。 父の評はそれだけだった。それが、父の最大の褒め言葉であったのを彼は唐突に思い出した。子供の頃から、そうだった。 ・ここまで一息に書いてきて、フト外を見ると、白々と夜が明けて障子の向こうが青白く膨らんで来る。その光を見ていると、自分が大きな夢の中に生きているような、誰かの夢の中に居るような静かな気分になって来る。人間の一生と言うのは不思議な物だ。小生にとっては、「常野」以前と「常野」以後で全く別の人生を生きているような気がする。 ・あのさ、僕の導するチェリストが言ってたんだけどね。音楽にすれば全てが美しいって。 憎しみも燃妬も軽度も、どんなに醜いおぞましい感情でも、それを音楽で表現すればそれは芸術だからって。だから音楽はどんな時でも味方なんだって。武器なんだって。心変わりしない。浮気もしない。いなくなったり死んだりしない。そのへんの男よりかよっぽど頼りになる。君は世界一の味方を手放そうっての?君の頭の中にあるのは、それを手放すに値するだけのものなの? ・恩田さんは常に書く。世界は美しくて楽しい幸福なところなのだけれど、同時に、ゾッとするほど醜いものであり、血が凍りそうなほど残酷で恐ろしいところでもあるよね、と。どっちも、であって、どっちか、は無理。白黒きっちりそれぞれの領土にわけて、別々に処理することなんてできるもんじゃない。いいもんがほしければ、わるいもんも連れなくついてきてしまう。感しいことだけ手にいれて、悲しいことは避けて通るなんてワガママはとおらないよ…と。 ・不可知は不可知のままに、不可分は不可分のままに、不条理は不条理のままに、混沌は混沌のままに、そうして、すべてを優しさと愛しさで包んで、お書きになるんである。小説の中だからといって、ものごとを、作者に都合よく並べ替えたりしない。 いいもんはいいもんなんだけど、弱いとこもあるし、ダメなとこももってる。わるもんはわるもんなんだけど、かわいいとこもあるし、無理もないところもある。善悪に境界線はない。それはグラデーションする。 - 2025年12月15日
夜のピクニック恩田陸高校の伝統行事「歩行祭」(24時間で80kmを歩く)を舞台に、主人公である甲田貴子が、クラスメイトで異母兄弟でもある西脇融に声をかけるという「小さな賭け」を胸に挑む物語 とても爽やかな物語だった。 もっと学生時代・青春を大切にしておきたかったな〜と思いつつ、この感情は自分が大人になったから感じるのだろうな。 その時々のかけがえのなさは後になってから気付くことの方が多い。 ありきたりだけど今を大切にしたいと思わせてくれる小説だった。 ・みんなで、夜歩く。たったそれだけのことなのにね。どうして、それだけのことが、こんなに特別なんだろうね ・おまえが早いところ立派な大人になって、一日も早くお袋さんに楽させたい、一人立ちしたいっていうのはよーく分かるよ。あえて雑音をシャットアウトして、さっさと階段を上りきりたい気持ちは痛いほど分かるけどさ。もちろん、おまえのそういうところ、俺は尊敬してる。だけどさ、雑音だって、おまえを作ってるんだよ。雑音はうるさいけど、やっぱ聞いておかなきゃなんない時だってあるんだよ。おまえにはノイズにしか聞こえないだろうけど、このノイズが聞こえるのって、今だけだから、あとからテープを巻き戻して聞こうと思った時にはもう聞こえない。 おまえ、いつか絶対、あの時聞いておけばよかったって後悔する日が来ると思う ・記憶の中で、あたしは、西脇融は、どんな位置に収まっているのだろうか。あたしは後悔しているのか、懐かしく思い出すのか、若かったなと苦笑いするのか。早く振り返られればいい。早く定位置に収まってくれればいい。だけど、今あたしは、まだ自分の位置も、自分がどんなピースなのかも分からないのだーー ・融は幸せだ。貴子は、二人の後ろを歩きながらそう心の中で呟いた。 母親や、友人や、女の子たちから無償の愛(内堀亮子はどうなのか分からないが)を与えられているし、それを当たり前だと思っている。なのに、恐らく、彼自身だけは自分が幸せだとは思っていないのだ。まだ自分は何も手に入れていないと思っている。 ・「でもさ、もう一生のうちで、二度とこの場所に座って、このアングルからこの景色を眺めると となんてないんだぜ」 忍は例によって淡々と言った。 「んだな。足挫いてここに座ってることもないだろうし」 そう考えると、不思議な心地になる。昨日から歩いてきた道の大部分も、これから二度と歩くことのない道、歩くことのないところなのだ。そんなふうにして、これからどれだけ「一生に一度」を繰り返していくのだろう。いったいどれだけ、二度と会うことのない人に会うのだろう。 なんだか空恐ろしい感じがした。 ・よく持ちこたえたものだ、と融は自分の足ながら感嘆した。とてもじゃないけど、自由歩行を終えられると思わなかったのに、ここまで辿り着いた。 感謝感謝、と誰にでもなく彼は心の中で呟いた。 俺は、世界中に感謝する。 ・歩行祭が終わる。 マラソンの授業も、お揃いのハチマキも、マメだらけの足も、海の日没も、缶コーヒーでの乾杯も、草もちも、梨香のお芝居も、子形の片思いも、誰かの従姉妹も、別れちゃった美和子も、忍の誤解も、融の視線も、何もかもみんな過去のこと。 何かが終わる。みんな終わる。 頭の中で、ぐるぐるいろんな場面がいっぱい回っているが、混乱して言葉にならない。 だけど、と貴子は呟く。 何かの終わりは、いつだって何かの始まりなのだ。
読み込み中...
