
あんどん書房
@andn
2026年4月16日
随風(03)
くどうれいん,
佐川恭一,
宮崎智之,
早乙女ぐりこ,
生湯葉シホ
読み終わった
まずは恒例、宮崎さんによる恒例の巻頭随筆批評。随筆が文学たるには何が必要か。それは「不確かさ」なのではないか、というお話。個人的には物語化しすぎない倫理みたいなところと繋げて理解したくなる話だ。
ただ、じゃあ脈略なく自動筆記みたいなことをすればいいというわけでもなく、そこのバランス感覚は難しそうだなぁと思う。
ここから随筆特集、テーマは「学び」。
碇雪恵「無駄だったなんて言いたくないが」は習い事が続かない話。習い事って強制力みたいなのが合う人もいれば合わない人もいるよなぁと思う。自分も習字とかやらされてたけど今も死ぬほど字が下手なので、タメになったとはあまり言えない。
海猫沢めろん「無気力の教え」は中学時代の「無気力」とその転換点について。
“中学生の頃の自分は、勉強もしない、部活もサボる。[…]ただ食事をエネルギーに変換して排泄するだけの、制服を着た肉塊だった。学校の試験はほとんどが0点。”(P21)
自分の高校時代もほぼこれ。起きて、ニコ動見て、日が暮れて寝る…みたいな。
最終的に無気力を否定せずに、それでもなんとかやっていく術を身につけている海猫さんはすごい。
オルタナ旧市街「グレート・サンドイッチの技法」。起承転結のまとまった上手い随筆。しかし最後にまさかの転というか急がきてうおお…という読後感になる。
“時間とはどこまでも平らかで、夕暮れはいつどんな国にいようとものっぺりと同じ顔をしてやってくる。”(P27)
子どもの頃の夕方の孤独感、身に覚えがある。親が帰ってくるよう神棚とかに祈っていた。
鯨庭「頭の中で椅子に座る」。正面から「学び」というテーマに向き合われている。知人の言葉がとても良い。テストで測れない学び、知性。大人になる程そういうものが大切になってゆくのだろうな。
くどうれいん「お土産の学び」。ついにくどうさんも執筆陣に。くどうさんのエッセイはとにかく楽しいものとドキッとするものとがあるが、こちらはとにかく楽しい方。あれもこれもとお土産を買いまくるバタバタ感と家族旅行のほっこり感。そして綺麗にまとまりそうなところで…という結びも非常にくどうさんらしく素晴らしい。
佐川恭一「暗記について」。でもやっぱり暗記も大切だよね、という守破離的な話。
暗記が何となく軽くみられるのは、それこそ「とにかく詰め込め」みたいな根性論のイメージがあるからだと思う。だからどちらにしろ覚えなければならないのであれば「どう覚えるのが自分に合っているのか」を考えるのが大切なのではないかなあ。自分の場合はとにかくまず楽しめるところだけ享受しまくり、でもやっぱり基礎がないとダメだと気付いたタイミングでやるという非効率すぎる方法をとりがち。最初にモチベを上げられるだけ上げとかないと続かないから…。
佐藤舞「廃車にしてから廃車に行った」。冒頭からもう痛い…。何度も同じ場所に頭をぶつけるとかはやりがちだけど、さすがにこれは繰り返したらまずそうだ。たぶんこういうのって不注意とかより身体感覚的な問題ではないかと思ったりする。自分の体の感覚がどこか掴めていない。たぶん合気道とかやると良いのかもなぁと何となく思っている。根拠はないが。
惣田大海水「北極星」。日記ZINE「死ななくてよくなった後の日日」が話題になっていた方。過去を振り返りつつも重くなり過ぎない、バランス感のある文章を書く方だなぁと思う。
“ここではないどこかに、自分の居場所があるという幻想に身を浸す嗜癖だけが内在していると、理解できる歳になっていた”(P47)
若者特有のあの感覚が見事に言語化されており、すごい。これもまた不惑ということか。早くこれになりたい。
友田とん「アドバイスは生きる」。実は友田さんの文章をちゃんと読んだことがあまりないのだが、思ってたより軽さを前面に出されてはいないのだなと感じる。一方で視点の鋭さは想像通りで、そういうところをちゃんと見て考えられているからこそ、あの作品たちを世に出せるのだろうなと。何かを見て、そこからの思考の広げ方が理系的なのかも。少なくとも感覚的な広げ方ではない気がする。
生湯葉シホ「12分」。他者とのコミュニケーションについての学びの話といえるか。自分もそういうのが苦手で、特に「自分が人から見たらどう見えるか」を考えるとものすごく苦しくなる時がある。
“私は笑い、いや、笑うようなことじゃなかったらどうしようとすこし遅れて思う。”(P56)
これがもうめちゃくちゃ分かる。何かしら反応しないと!とついフフンみたいな笑いを入れ、「鼻で笑った?」とか言われてしまったり。あああああ
船張真太郎「揺れっぱなしの腹と心」。船張さんはZINEフェスで書店開業日記ZINEを買ったときから「絶対この方は来る…!」と思っていたので、エッセイ界隈を躍進されているのを見るとついつい後方腕組読者顔ムーブをしたくなってしまう。
船張さんのすごいのがノリのコントロールだと思う。今回まさにそういう話を書かれているのだけど、処世術として身につけたお笑い感覚を持ちながらも、コンプライアンスへの目配せも忘れない。読んでいて計り知れない安心感がある。これはベテラン教師としての経験も大きいのかもしれない。
“身体の大きいお笑い芸人から余計な処世術を学ばずとも、誰もがのびのびと暮らせる世の中の方がいい。”(P190)
先生〜〜!!!
教員による不祥事なども見聞きする昨今、こんな先生がもっと増えてほしい。
まつさか ゆう「優しい誰か」。「優しさ」とは何か、という難しすぎる問い。誰かに対して優しいねと声をかけることが、その人にとって呪いとなってしまうこともあるのだと、気付かされる。(「まじめ」とかもそうだ)
積読にある戸谷浩志『生きることは頼ること』を読んだほうが良いかもしれない。
特集はここまで。次に新たな試みとして紀行文が始まっている。扉ページを見てようやく表紙画が日の出か日没の海だということに気付く。色的には日の出っぽいかな。
早乙女ぐりこ「尾道因島放浪記」は林芙美子の足跡をたどりつつ尾道をめぐる。自分も5年前に行ってるんだけど、当時は文学全く読んでいないマンだったため林芙美子のはの字も知らなかった気がする。5年あれば人は多少本を読む人間になれるのだ。まあ、林芙美子は今なお未読であるが……。と思ったら百年文庫の3巻目で「馬乃文章」を読んでいた。百人は読んだって言えるからというミーハーすぎる理由で通読を目指しているのがここにきて役立つ(?)。
千光寺の三重岩は自分も登ったので「やったやったー!」と嬉しくなる。記憶が曖昧なのでこんなハードだったっけ…? とちょっと驚くが、当時みかんバイト帰りで体力がついていたから大丈夫だったのだろう。日々段々畑を上り下りしていたのだ。
巫女バイトのポスターに「インスタデビューのチャンス」と書かれていた話は笑ってしまう。そういうとこ気になるし、書きたくなるよなぁ。
文中に尾道の島々が色々出てくるが、四国の島って絶妙に読めない名前が多いよな…と思う。
前日に鎖やって今日は登山もして歩きまくって疲れているのにさらに因島大橋を往復するというパワーが眩しい。でもせっかくだからと無茶してしまう気持ちは分かる。いやでも29000歩はさすがに歩いたことないな、、、。
最後に後日談も掲載。旅先で知った同人誌を読んでみようと国会図書館に行った話が。あるんだ! これは羨ましすぎる。
とりあえず林芙美子、読んでみよう。ちくまの文学全集が手に入れば良いのだが。
そしてここからは批評。
柿内正午「随筆時評」第三回はいきなり鋭い。「オールドスクールなエッセイの定型」としてまくら→フリ→オチという図式が示されているが、まさに「上手なエッセイだな〜」と思うタイプの型だ。特にオチが斜め上に放り投げられる系が好き。
“あらゆる文章表現は、どうしたら自分の書いたものを真に受けてもらえるか、知らない人にまじめに精読してもらうためにはどうすればいいか、という問題を解決することなしには機能しない。”(P94)
というのが今回のテーマのようだ。「真に受ける」を変換しようとしても魔にウケるとかしか出てこなくて死んだが、それはともかく。
この問題に対する一つのアンサーが「ひたすらデザイン(モノとしての良さ)を追求して手に取らせる」ではないかと思ったが、それでは精読までは行かないか…。
そこから話は日記ブームを経由して近代日本文学の自然主義の二面性へと至るが、これはフリではなく真面目な話のはず。身構えて読む。というかこういう「その辺調べたらなんか面白そうだな〜」と思わせてくれる文章が好きなのだ自分は。知った気になれる…。
評論を読み慣れていないため「私」と〈私〉で表記の使い分けがなされていることに気付かず読み飛ばしては戻りをしながら読み進む。(しかし「私」の方の意味がいまいち実感できないままに)
後半では今までの話の流れに沿う表現手法の作品たちが紹介されているが、どれもおそらく自分が何の手助けもなく読んでも「???」となる作品で、うぉおおと思う。何もわからんがなんかすげー難しそう……。そんな見方をしてしまうのもまたポジション確認?
ただポジション確認してしまうのは情報が多すぎるからでもあって(文フリで何の前情報も無しに作品を買うことのハードルの高さ)…などと考え始めるとひたすらズレていくので、とりあえずそれは『置き配的』を読んで考えたい。
佐峰存「綴る、転がす、育む——随筆批評の可能性」。英語圏における〈Zuihitsu〉の広がりという話から。そうか、essayはモンテーニュとかそっちになるのか。
文体の種類について何となくしかわかってないのでほえ〜という感じだが、〈Zuihitsu〉は散文でも韻文でもないらしい。というのは散文の概念がそもそも異なるからで…ううんややこしい。
実例として詩人のキミコ・ハーンの作品を引きつつ、これが英語圏の一般的な文体とどう違うのかが解説されてゆく。
Haikuの概念違い問題とかもあるように、単純に翻訳すれば同じ見方のもとで読めるというわけじゃないんだなあ。古い作品の訳が翻訳調で読みにくいというのはまさにそういうことか。
そこから漱石門下の厨川白村が定義した黎明期のエッセイの定義なども紹介されていくが、読んでいると自分のエッセイ観の狭さを再認識する。やっぱりどこか軽い書き物として見てしまっている部分があるのだなと。
しかし最初期の定義からすでに「詩歌における抒情詩を散文的に行ったもの」とも書かれているのだという。記録や羅列とは別物で、文芸たりうるものなのだ。
そして終盤、『随風』創刊号に掲載の作品のテクスト分析も試みられているが……あああなるほど〜〜そういう描写なのかああ!! と全く読み飛ばしていたディテールのこだわりが読み解かれてゆきアハ体験すぎる。いやもう全作解説してほしい。
“詩のように一つひとつの文や言葉を解きほぐし評していくことで、随筆作品における一人称の特権性は薄れ、読はさらに多面的になっていくのではないか”(P123)
まさに「おしゃべり」だなぁと思う。そしてそう考えると客観的に見て良い文章というのはついつい言及してしまいたくなるような文章…ということになるか。あまりにもプライベート(「私」が特権的)な話題だと触れにくいしね。
高山京子『坂口安吾とエッセイ、すなわち不可解なる「私」』。偶然なのか意識的なのか、柿内さんの評論の分からなかった部分を補足してくれていて助かる。「私小説演技説」なるものがあったんですね。
随筆文芸誌を読んでいるのでつい随筆とはなんぞや…みたいなことを問い問いしてしまうが、坂口安吾みたいなそこを曖昧に溶かしてゆく書き手もいて、そうだよな〜別に決まってるわけじゃないもんな〜と思う。ちゃんと読んでないけど最近の保坂さんとかそんな感じ?
竹永知弘『「エッセイ」という「イズム」』。古井由吉の「エッセイズム」から考えるエッセイ論。初めてちゃんと古井由吉の経歴みたいなのを知った。
ここで書かれている「ジャンル的不一致感」というのは柿内さんのポジショニングしてくる「視線」から逃れる〈私〉というイメージと近しいものと考えて良いだろうか。
ムジールを参照しつつ、学者にも作家にもなれないからエッセイを書くというあり方を肯定している箇所は、その文脈でエッセイを肯定することもできるんだ、と思った。そう思ってしまうのはやっぱり小説を上に見てしまっているからなのだろうか。
ラストの古井由吉の言葉は納得。実際、人文書とかそうなっていっていると思う。
いつもの編集していないほうの編集後記は点滅社の屋良さん。めちゃくちゃ編集してそうな感が出ているが、編集していない…?
この処世術は屋良さんにしかできなさそう。
プロフィール。くどうさん、打ち間違えについての文章の中に打ち間違え(というか余計に打ってしまった何か)が。というかこのちっちゃい+、何??? あ、もしかしてこれ電荷の記号か? H ⁺の「⁺」? いやだとして何故ここにそれが…??? と考えたが、iPhone日本語キーボードで「ま」と打つ際に下の顔文字キーをタップしてしまい挿入された顔文字の残骸説。やりがち。
佐川さんの言及で滋賀作家アイデンティティが激戦区と知る。
惣田さんの紹介では山頭火の名の由来を知る。
「第一回随風賞募集のお知らせ」。ついに新人賞が…! 随風賞ってめちゃくちゃ雅な響きだなぁと思う。原稿5枚程度で応募も多そうなので上限100とされている。ただの散文には興味ありません!散文芸術を求む! みたいなことを審査員の方々は書かれており、そこの違いをまずは噛み砕けないとだなぁと。
編集後記。平林さん。ご愁傷さまです…。随風賞は選考外にもすべて講評すると書かれていて、だからの100作品かと納得。それでもすごすぎる。
宮崎さん。批評はめちゃくちゃ読んでて楽しいのでもっと増やしてください。…って言っちゃったら本末転倒かしら。
早乙女さん。めちゃくちゃためになるアドバイスが。ただ記憶力とモチベーション維持力がある程度必要そうかも。
ということで読了。今回も濃かった。そして読めば読むほど「随筆」のことが分からなくなっていく感覚。そこはもうなんか、考えすぎない方が良い気もしてきた。俺たちは雰囲気で随筆をやったっていいのかもしれない。
本文書体:イワタ明朝体オールド、石井ゴシック
装画:坂内拓
装幀:川名潤





