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あんどん書房
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@andn
まとまりのない私的な感想をダラダラと書くのが好きです(長ければ長いほどいいと思っていがち)。買い速度に読み速度が明らか伴ってないのに借り本まであって大変です。
  • 2026年10月22日
    図書館を学問する
    図書館専門誌『ライブラリー・リソース・ガイド』の連載の書籍化。図書館情報学の入門書だが、素朴な疑問に答えていくというスタイルや、元々がブログだったということであちこちに小ネタが仕込まれており(専門書で「打ち消し線」使うの初めて見た)、全くの素人でも全然読める。 「はじめに」で書かれている図書館情報学の成り立ちについては興味深い。19世紀ごろはOJT中心だった図書館職員だが、より専門的人材を育成するために開設されたのが専門学校的な「図書館学校」。そこから色々な分野で科学研究が盛んになる中で理論重視の「図書館学」が出てきて、さらに研究論文の整理や文献調査をコンピュータによって効率化するグループが合流したことで「図書館情報学」が生まれたとのこと。 そんな成り立ちがあるので、「図書館情報学者」と一言に言っても、司書を養成する教員、図書館の課題について調査分析する研究者、情報検索や活用について研究する研究者など色々あるらしい。最後のがいまいち具体的にイメージしにくいけど。 図書館自体にはそこまで関係ないが、学問分野には「ディシプリン(discipline)」と「フィールド(field)」があるという話はへぇ〜と思った。 前者は方法論が先立ち、後者は研究対象が先立つということらしい。いわゆる領域横断的なというのはフィールド系なんだな。 第一章からは具体的な疑問にデータで答えていく構成。図書館の棚で一番見られているのはどこなのか? とか、なぜ月曜休館が多いのか? とか。 読んでいて思うのは、図書館使いまくってるのに全然館内のこと見てなかったなぁ…と。棚が何段だったかも、書架番号が書いてあるのかどうかも全く覚えていない。今度行ったらちゃんと見てみよう。 “検索システムや電子書籍の利用が一般化してきた現代に、本の並べ方を決める理由が「探しやすいから」だけでいいのかは、再考の余地があります。探すだけなら、本と本棚にICタグでも仕込めばどんな並べ方であっても検索して見つけることができます。図書館ももっと、独立系書店がやっているような面白いテーマを設定して本を並べる本棚を作ってみてもいいはず……”(P17) なんとなく図書館側の人ってNDCこそ正義! みたいな感じだと思っていたので(偏見)、そういう意見もあるんだなぁと思った。現場の人だとまた違うのかもしれないけど。 個人的にはNDCだと初めていく図書館でもなんとなく位置感覚が掴めて助かるのだけど、「なるほど、ここの図書館はこういう本を置いてるのか…文化度高いな」みたいなキモい見方する利用客は少数派かもしれないので、文脈棚もありなのかもしれない。まあその辺は利用者層で使い分けていくのが正解なのかな。利用して欲しい層よりは実際に使ってくれてる層向けに。 月曜休館の疑問については「もともと日曜休館が一般的だったのが開館になり、その代休」という肝心のなぜ月曜なのかは不明(なんとなく翌日にした?)というチコちゃん的回答だった。しかし日曜休館だと大人も子どもも不便でしょうがなかったろうな。その頃ってまだ土曜も半日登校とかだったはずだし。 ちなみに最寄りの市立図書館は火曜休館だが、県立は月曜休館。うまく分けられていて助かる。 「貸出関数」というまた専門的な話が出てくるが、要はどんな要因が貸出数に関係するのかということらしい。たとえば車での利用が多い図書館では雨はそこまで関係しない…とか。 ただ、この貸出関数がなかなかに厄介で、有用度の地域差がとても大きいらしい。その要因が何かはまだ不明なのだと。 図書館って館ごとに多種多様だから、規格的なデータ調査は難しいのだろうなぁと思う。 図書館利用者のクラスター分析の話では、様々な図書館利用者が可視化されている。自分は本を借りるぐらいなので、定年後に一日図書館で新聞を読んで過ごす層のことなんて全然考えたこともなかったなぁ。 分析対象データとしてたびたび出てくる国会図書館による調査データ「NDL情報行動調査」では図書館にどんな機能を求めるかというアンケートも行われているのだが、「起業相談」とか「プログラミング教室」「ハッカソン」「宿題支援」などなどの項目に文化格差を痛切する。そんな小洒落たイベント、地方図書館に無えよ!! 絵本読み聞かせ会と映画鑑賞会以外のイベントを見たことがない。だから長岡の互尊文庫を見た時は軽くカルチャーショックだった。岐阜のメディアコスモスとか見たら死んじゃいそう。我が地元ももう少し頑張ってほしい。(どちらかというと県立の方がチャレンジングなことをしていて、地元の書き手たちのZINEを収集して郷土コーナーに入れたり、ロビーで古本市を開催したりしている) 他に面白かったのは13章「人々は図書館のどんな写真をSNSで発信しているのか」。 #図書館 タグの多くは実際のところ図書館で借りた本の記録として付けられているらしい。個人的にはそれが著者に届いてしまい得るのはちょっと露骨であれだなぁと思う。まあ自分もほとんど図書館本なのだけど、微妙にぼかす感じにはしてたり…。 “本棚の効用の一つはアピールであり、威嚇になるということです”(P158) なんて微妙に棘があったりするのも面白い。 ミーハーな自分は新刊本を予約して話題が冷めないうちに読んで…みたいな使い方ばかりだけど、図書館にはいろいろな人が来て、それぞれの関わり方をしているのだなぁというのが何となく知れて面白かった。 これから何らかの研究をしようとしている学生こそ読むべき本だと思う。どうやってテーマを設定してどんな分析手法で取り組めば良いのか、という大学教授の試行錯誤が読めるのが一番面白い。大学出てないと知れない世界だ。 あと個人的に思った点としては、おそらく棚配置と視線の研究とかは書店のマーケティングなんかでも行われていると思うんだけど、そういうところと接続しないのかな?と。それぞれバラバラにやってるよりデータも増えそう。企業秘密とかあるのかもだけど。 本文書体:筑紫明朝、セザンヌ カバー・表紙・扉イラスト:asumin 装丁:ナカグログラフ[黒瀬章夫]
  • 2026年10月11日
    けんぐゎい
    けんぐゎい
    ふだん芥川賞作品ばかり読んでるので、たまには直木賞も…ということで。 時代小説もあまり読まないので分からないけど、おそらくフェミニズム時代小説というジャンルの新しさがあるのではないかと思う。 主人公「ふゆ」は利発な少女だが、全身に「痘痕(あばた)」を持つゆえに周囲からは見た目で軽んじられている。そのため処世術として「へりくだったようす」でいることを身につけていて、自分は「ぶつぶつ」だからと様々なことを諦めてしまう。 一方、妹の「りよ」は縹緻よしだが「逆上せ」を持っており、ふとした拍子に昂ってしまい、じっとしていられず喋りまくる。 それぞれがハンディギャップを抱えた姉妹は母親からも軽んじられながらも、それぞれ手習い師匠の手伝いや船宿の下女奉公へと出されてゆく。 ふゆは師匠からも信頼されて給料を貰いながら働くようになるが、師匠が養子に取った物腰柔らかな青年・宗三郎に惚れてしまう。しかし宗三郎にはすでに許嫁がおり……。 という展開からは男女のドロドロが始まりそうな予感がするものの、本作のあまりにも波乱な展開は全く予期しない方向に進んでいく。 人当たりの良い宗三郎には裏の顔があり、ハンデを負った女性たちに興奮してレイプしまくるという作中きってのハイパーサイコパスクソ野郎なのだ。しかも極めてナルシストでもあり、自分は選ばれた人間だから、自分が不完全な女を愛してやることによって彼女らは人間になれるみたいなことをサラッと言う。 “どんなにお前が賢くてと、見た目がそれじゃあ、なんにもならないし。うん、どっちにしたっておまえは圏外。” “「おまえは、一生、外側にいるしかないんだ。わたしらの側には入れない」”(P102) つまりタイトルの「けんぐゎい」とは圏外で、宗三郎が放った呪いの言葉なのであった。 そんなふゆの人生が新たな局面へと動き始めるのは、孕んでしまった宗三郎の子を下ろすよう脅されて産医の「おこまさま」と出会ってからだ。おこまさまは、師匠が無理やり息子と結婚させようとして来たのを拒み、自らの腕前一つで身を立てて来た女傑のような人物である。ふゆは彼女の元で産医としての技と知識を叩き込まれ、やがて虐げられた女性や「けんぐゎい」たちのためとなるコミュニティ「ガストホイス」を立ち上げる。 前半が超絶どんよりだっただけに、後半の展開はとても勢いが感じられて良い。 ふゆが自身の境遇を引け目に感じる必要なんてなかったと気付く場面は印象的だ。 “「どれほどさもありなんだとしても」  知らぬうちに声が出ていた。  「あると決まっちゃいないんだ」  眉唾だあ、と、はっきり口にしたら、胸のうちの奥のほうにずっと先から広がっていた竹林が根こそぎ浮き上がった。ずどん、と爆裂の音がして砕け散る。粉々になった土や根や葉や棹が、ふゆの胸のうちの奥のほうに降ってきた。”(P201) “だけども、ちがった。間違っていた。[…]あたしが申し訳ないと思うことなど、ほんとうは、なにもないんだ。”(P204) 作中でふゆと表裏一体の存在として置かれているのが宗三郎の妻、ほの。身体に傷を負っているという共通点を持ちながら、大店の生まれという恵まれた境遇に育った彼女は、自身の人生は自分でくじを引いた結果だという自己責任論的な価値観を内面化している。 そんなほのの価値観に揺さぶられながらも、己の人生との向き合い方を確立してゆく、というのが後半の大きなテーマになっていた。 ラスト一文はとにかくかっこいい。 本文書体:リュウミン 装画:feebee 《観察者効果 白沢 憂鬱》 装幀:泉沢光雄
  • 2026年10月7日
    鶏まみれ
    鶏まみれ
    コロナ禍で職を辞した夫の一言で、それまで長男が行なっていた家庭養鶏を拡大し、養鶏場を始めることになった著者。しかし、規模のある養鶏場では産卵期を過ぎた鶏たちが「廃鶏」されることを知り、なんとか親鶏を捌いて命を最後まで頂くことができないかと思案する。 ただ、鶏肉を販売するためには「食鳥処理衛生管理者」の資格が必要であり、その要件を満たすために著者が選択したのは「食鳥処理の業務に3年従事する」ことであった——。 という経緯が始めの50ページぐらいで詳しく綴られている。家庭のことなど含めてかなり赤裸々に書くんだなぁと思った。その誠実さがすごい。 本書の構成的に面白いのが、明朝体で書かれる家族とのエッセイパートとゴシック体で書かれる食鳥加工工場でのルポパートが交互に並べられているところ。自身の養鶏では風が吹き抜ける谷間に作った養鶏場でひよこたちと向き合う優しい時間が流れるのに対して、工場のルポはあまりにも壮絶。ものすごいスピードで流れてくる鶏の首をひたすら切りまくって血や体液まみれになったり、1羽につき6秒で過食部をより分けるベテランおばちゃんが登場したり…。 全く異なる二つの世界が並んでいて、そのどちらもがリアルなんだというのがすごく不思議な感覚になる。 ただ、家族のパートも(著者から見ると)見切り発車的だったり、時には生活費も借金して養鶏に集中した方がいいなんて言う夫との関係性に緊張感が……。本当にそんな賭けみたいに始めてしまって大丈夫なのか。。と読んでてちょっと心配にもなる。 本書は著者自身の養鶏、工場体験を起点として、社会の中で当たり前として受け入れられている様々な「空気」に疑問を呈する一冊だ。 作業に慣れてしまい、血まみれで機械的に鶏を処理することに違和感を抱かなくなっている同僚たち。 食肉の仕事が「誰にでもできる」から最低賃金になっていること。 精肉部門では主婦のパートや外国人労働者が多く働くのに対し、解体の部門には障害者や後期高齢者が多くあてがわれていること。 農業や養鶏といった分野で「付加価値」ばかりに光が当てられて、付加価値がつかないものが透明化されてしまっていること。 “いまの私からは、こう見える”という著者自身の個人的な体験から提起された問題だが、かなり射程の広い問いかけになっていると思う。 写真家でもある繁延さんによる写真はどれもかなり良いのだけど、そんな中で特に胸を打たれた一枚がある。 P297、首切りを一人で担う山崎さん(仮名)の写真がすごい。逆さに吊るされて次々と流れてくる鶏の首をナイフで切り締めてゆく姿が逆光によりシルエットになっている。ラインは奥から流れてきているのだろう。左手で押さえた鶏の頭から滴り落ちる血。そして手前に流れてゆく死んだ鶏は暗い陰に。ポツポツと流れてゆく血。 ルイス・ハインに匹敵するようなすごい写真だ……。 本文書体:本明朝Book新がな、こぶりなゴシック 装画:アジサカコウジ 装幀:セキネシンイチ製作室
  • 2026年10月4日
    夏帆
    夏帆
    絵本作家の夏帆は、編集者がセッティングしたブラインドデートで「ひとクセある」男・佐原と出会う。「君みたいな醜い相手は初めてだよ」なんてことを言って相手の反応を観察するやべー男である。 夏帆はその強烈な印象から逃れるため、「一人の少女が自分の顔を探しに行く物語」を書き上げる。 そんな夏帆の前にある日突然、ブラジルのジャングルからやってきた「ありくい」の夫婦が現れる。ありくいたちは予言のようなもので夏帆を武蔵境へと導いてゆくのだが、妻であるところの雌ありくいがとあるお願いを夏帆に頼み込み……。 という感じで、現実とファンタジー、そして夏帆の描く絵本の三つの世界が不思議な感じに混じり合っていく物語。知人によると『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で言うところの「世界の終り」側の話だということだ。そちらは読んでないから適切かは分からないけど。 読みながらまず思ったのは、親切だなぁということ。例えば「現実」の捉え方に関してはこんな一節がある。 “それは現実に起こったことではあるけれど、たぶんその現実が今ここにある現実とは異なったレベルに属する現実なのだろう。筋道立てて説明はできないが、それが夏帆の確かな実感だった。”(P104) これってもはや作者による「読み方指南」ではないか。多層性を持つ作品に初めて触れる中高生ぐらい向きで書いているのか? いやでも連載は文芸誌だしなぁ。 ここまで親切に書かねばならないほど読者のレベルが下がってるのか…なんて勘繰ってしまう。 ありくいたちと不思議な共同生活(と言っても普段その気配は全く感じられないのだが)を送る夏帆の目の前に現れてくるいくつかの困難(モーターサイクルの男、邪悪なジャガー、シロアリの女王)。複数の現実を行き交いながら、その一つ一つを乗り越えてゆく物語だった。 たぶんこれは物語を書くことについてのメタ創作小説として読めるんじゃないかと思う。夏帆が自らの不思議体験を元にして紡いでいく絵本の世界は、ある程度まで夏帆の手の元にあるのだけれど、やがて彼女の手を離れてオートマチックに紡がれていく。キャラクターが動き出す的な。だから絵本の中のスカーレット・ヨハンソン(猫)も現実(フィクションっぽい方の)に現れて夏帆を導いてゆくのだ。作家にとって物語を紡ぐということもまた人生の一部であり、セルフケア的な意味もあるのかもしれない。(だから絵本の結末はかならず救われなければならない) “お話の中のミソラと同じように、私も力を尽くしてぎりぎりのところで踏みとどまらなくてはならない。何があろうと、たとえ誰ひとり私に感情移入なんてしてくれなかったとしても、決して失われてはならない。”(P214) こういう若者への眼差しには、宮崎駿に近しいものも感じる。それをあくまで説教くさくならないようにやってる感じ。母との和解みたいなところまで説明してたのはちょっと説教くさかったかもしれないけど…。 個人的には最後にもう一度ありくいは出てきて欲しかったな。 本文書体:秀英明朝、ゴシックMB101 装幀:新潮社装幀室
  • 2026年10月1日
    作家と本屋
    作家と本屋
    最初の方からもうわかりみが深い文章だらけだが、横尾忠則の『「画家」改め「買書家」宣言』はもう、これですよ。 “こんなにたくさん本を買うものだから、どれから読んでいいか迷っているだけでどれも読まない。[…]  今日もこの文章を書いたあと本屋に行くつもりだ。午前中三冊買ったので別の本屋に行こう。もうこんなに本を買うなら、この行為をいっそ芸術行為にしてしまったほうがいいと思うくらいだ。”(P16) いや絶対この人は自分より読んでるはずだけど、この気持ちはもう全積読家の本心でしかないな。 芥川の「田端日記より」では「空き地にアセチリン瓦斯をともして、催眠術の本を売っている男」(P23)が出てき、現実が小説みたいな時代があったんだなぁ。 小川未明が紹介している「書を読んで、悉く信ずれば、読まざるに如かず」という諺は耳が痛い……。 寺田寅彦「丸善と三越」。世界の情報が次々と溢れ出てくる丸善の洋書新刊台を熱海の間欠泉に例えているのが面白い。今のSNSなんかを見たら何と例えただろうか。火山噴火? “これらのたくさんの書物のまだ見ぬ内容が雲のようにまた波のように創造の地平線の上に湧き上がって来る。その雲や波の形や色が何であってもそれはかまわない。ただそれだけで何かなしに自分の目は遠い所高い所にひきつけられる。”(P47) やっぱこの人文章上手いなぁ。貸せ、随筆とはこうやるのだ…と言われているような気持ち。 “古いものを新しい目で見るのや、新しいものを古い目で見るような暇つぶしの仕事は、忙しい今の時代には、暇人の道楽でなければ、能率の少ない事業として捨てられなければならないと見える。”(P49) これはもう昔も今も同じなんだなぁ。 千早茜さん。小説家になった原点がかなり面白い。アフリカで過ごした幼少期、日本からは毎月五冊の本しか送ってもらえなかったので、日本には本が少ないのだと思い込んでいたという。それで自ら書いて増やさなきゃってなるのがすごい。 眠い時に本を読むと、一つ一つの文章が過剰に胸を打つ感じがするのは自分だけだろうか? 夢の中で大したことをない思いつきを「天才だ!」と思ってしまうようなあの感じに近いと思うのだけど…。 そんななので、長野まゆみさんの「書棚の空きスペース」の入り方のダイナミックさも余計に響く。いつもなら軽く流してしまいそうなところにいちいち立ち止まってしまうのでなかなか先に読み進められないのが困る。いやでも雨、ヴァニティケース、少年愛の美学……これは天才的導入。 松岡正剛「極上の迷宮」。最初から正剛節全開。 “私の場合は小学校、中学校、高等学校時代のそれぞれを一軒ずつの「本屋さん」が支配していた。それは豊饒で甘美で、やけに挑発的な支配者であった。”(P72) 中盤はややしんみりと回想しているのだが、ラストの畳み掛けがすごい。自由緊張、アンビギュイティ、内面宇宙、ファジーな書店……。 岡崎武志「古本屋の作法指南」。この文章が入っているはずの『古本大全』を全然積んでるので初見。 ここに出てくるような無愛想な古本屋、さすがに絶滅危惧種じゃないかなぁ。過剰なサービスとまでは言わずとも、「いらっしゃいませ」ぐらいは言わないと昨今はGoogleレビューが大変なことになりそうな…。いやそもそも分かってる層しか来ないから大丈夫なのか……? 山本善行「古本泣き笑い日記より」。ちくまのベンヤミンコレクションとかチェーホフ全集とかが百円のブックオフ、いつの時代のどこのお店??? 上林暁は本当に私小説上手いなぁ。無気力な亭主の古本屋とジャケツを着て編み物をする女の古本屋、どちらで本を買うかという葛藤。ごく短い描写しかないのにそれぞれに人生の哀切みたいなのが浮かんでくるのがすごい。そしてしみじみしながらも、ちゃんとオチをつける。上手い。 内堀弘「耽奇日録より」。当時隆盛の新古書店に苦言を呈しつつ、斜陽にならないのだろうけど…みたいに書いているが、全然斜陽になっちゃいましたね。 皆川博子「書物の森を旅して」は取材のためドイツを訪れた話。シュレスヴィヒ・ホルシュタインの資料を探すために訪れたハンブルクの古本屋は、市がホームレスに職を待たせるために作った店だという。すごいなぁドイツ。 穂村弘の文章は唯一読んだことがあった。 pha「蟹ブ店番日記より」。こういうアンソロジーにZINEから収録されることあるんだ。そりゃ知名度もあろうけど、きわめて今っぽい。 読み応えのあるアンソロだった。丸善の名前がめっちゃ出てきたけど、かつての丸善は文人たちが洋書を求めに行くお店だったんだなぁ。洋書どころか翻訳物も縮小されていく昨今だけども。 あと化粧品とか本以外も取り扱うのは昔からなんだなー。 他にも戦時下の書店の商品のなさについて書いている文章もいくつかあり、溢れるように本がある時代に生まれて良かったとつくづく思う。 本文書体:秀英明朝 題字:塩川いづみ 装丁:佐々木暁
  • 2026年9月30日
    鳥たちの素敵な名前の物語
    鳥名の語源を古事記や日本書紀、万葉集といった古典から近代の図譜までを紐解いて解説。 著者は写真家の方なので、写真が全て自前なのがすごい。ナナカマドを食べている小鳥たちがかわよい。特にライチョウの親子と桜のヒヨドリ、癒し。 スズメとかカラスとか、鳴き声+鳥の接尾辞なんだな(スズメの鳴き声は「シュシュ」だったらしい)。 カイツブリの「掻く+ズブリ(入水音)」という説も面白い。昔の人ってかなり生態を観察して名付けていたんだなあ。 ユリカモメとミヤコドリの話はやっぱり出てきた。古典と鳥を語る上で欠かせないネタなのだ。 雷鳥は「霊鳥」らしい。そりゃ霊山にいたら神々しいわ。暴れん坊将軍こと8代吉宗が捕まえてこさせた雷鳥はどうなったのか…。 語源の出典として古典の鳥類図鑑(「禽譜」というのが鳥類図鑑のことらしい)や『大言海』などを比較検討していて、それぞれ信用できる箇所があったりなかったりするのが面白い。 ヨシゴイの章では、本来ヨシゴイサギとなるところが「ヨシ」という接頭辞がついたため接尾辞の「サギ」が略される(他にも「ヒメイソヒヨ」など)という法則が紹介されており、言語学の勉強にもなる。 ウソの章では、古語における嘯=口笛のことで、つまり嘯くとは口笛を吹くことなのだという解説がためになった。確かにうそぶくって言うと口笛吹いてしらばっくれみたいなイメージがあるわ。それは本来の意味から来ていたのか。 モズは仁徳天皇のエピソードや「モズの借金」、鳴き声に由来する「百舌鳥」表記など話題に富んでいて面白い。 ツミの章では「大鷹狩」と「小鷹狩」についての話があり、古文化についての勉強にもなる。 チュウヒの語源ははっきりと確定していないが(中型の昼の鷹説が推されている)、最後に触れられているノスリの別名がひどい。ネズミしか獲らず狩に使えないから「くそとび」とか漢字で「鵟」とか…。 トビ。神武天皇の絵に描かれているのは鳶なんだって。 アカショウビン。前に鳥展を見た時「カワセミって翡翠なんだ〜」みたいなということを知ったがことを思い出す。語源としてはカワセミの古語「そび」が「しょび」→「しょうびん」と「せび」→「せみ」になったので、元を辿れば同じなのだとか。そんな長くなることもあるんだなぁ。 しかも「そにとり」のそ丹は赤色絵の具で、翡=緋色なのでカワセミよりアカショウビン起源説だという。へぇ〜。 トラツグミの章ではやはり「鵺」が登場するのだが、江戸時代の僧・厭求の「十ほどの子供を絞め殺せば出すであろう声」という表現はなかなかにパンチが効いている。 という感じで、面白い本だった。思ったより言語学の勉強になる。 本文書体:リュウミン デザイン:きみしまあきら
  • 2026年9月13日
    ロッコク・キッチン
    国道6号線(ロッコク)沿いに広がる、原発事故の被災地域。避難指示が解除された町に戻ってきた人や、震災後に移住してきた人たち。彼らの生活を「食」を通して描き出そうというのが本書を含む「ロッコク・キッチン・プロジェクト」。 プロジェクトの柱になっているのが、地域に住む人々から募ったエッセイ集、そして現地に暮らす人々を取材したドキュメンタリー映画、そしてその取材を川内さんの視点から綴った本書ということらしい。 川内さんの著書は今回が初めてだが、ノンフィクションとしてはかなり主観的というか、著者の個人的なことを書いているなと思う。立場もはっきりしている。それが取材で取り上げる人たちとの真摯な関わり方につながっているのだろうなと思う。 印象的だった場面をいくつか。 まずは二章、インド出身で双葉町に移住したスワスティカさんへのインタビュー。母の味であるチャイをめぐる話の中で、認知症の祖父が何度もチャイを求める姿を描いた自作の詩の朗読が挿入される。ここはものすごく透き通ったような、厳かな気持ちになった。 一方で元第二原発所長、復興会社代表の方が出てくる章は最も緊張感があった。立場的に絶対に言えないことがあるのだろうなぁと。 終盤に登場するのは、昼間は原発内で板金の仕事をし、夜は更地になった祖母の家で本屋を営む男性。 焚き火を囲んだ写真は映画版のメインビジュアルにもなっているとても良い一枚だ。 “六〇年代からロッコクの沿道には発電所が次々と建設され、首都圏までエネルギーを運び、日本の経済を支えてきた。つまりロッコクの四〇年は「光を求め続ける歴史」そのものだった。  人類が光を求め続けた先にあったのが、この暗闇の地だ。”(P268) ちょうど高校受験が終わって入学式前のころに発生した東日本大震災。当時のTwitterに一日中張り付いて、流れてくる悲惨な情報をただただ眺めていたことを覚えている。 当時の自分にとっては地震や津波のインパクトが強く、原発事故については結局あまり知らないまま15年も経ってしまっていた。 それだから、少し考えれば分かるような、原発事故のため立ち入り禁止になった区域では亡くなられた方の遺体が未だ確認できず放置されている…といったことも本書を読んで初めて気付かされたのだった。 本書を読んでいる最中にもまた浜岡原発をめぐる様々なドタバタが報道されていたのだが、なんというかもう、人類は核を扱うには未熟すぎるんじゃないかと思うな。 本文書体:筑紫明朝 写真:一之瀬ちひろ 装幀:鈴木千佳子
  • 2026年9月10日
    帳の向こう
    帳の向こう
    『文學界』で毎度楽しみにしていた連載がついに書籍化。 若林さんが國分先生に素朴な疑問をぶつけ、それに対して國分先生が説明したものを、若林さんが自身の体験に照らして具体的に考えてみる…という流れが多くて読みやすかった印象。 全体としてはネオリベ批判と「目的—手段」に対して遊ぶことの大切さを説く感じで、ここ最近の國分先生の新書三部作とも関連しているだろう。
  • 2026年9月10日
    寿歌
    寿歌
    演劇のことをまったく知らないので、知名度や内容といった前知識ゼロで読んだ。 核戦争後、荒廃した世界をリヤカーで旅する芸人のゲサクとキョウコ。二人の前に現れたのは不思議な技を持つヤスオ。三人は共に街へと向かうことになるが…という表題作。 核戦争以前の過去編となる寿歌Ⅱでは芸人仲間のカリオも加わり、そこにやはり突然やってくるクマという男。 「寿歌西へ—寿歌Ⅲ—」はおそらくⅡと無印の間を描いており、さらにキチジロという下使いのような男も登場する。 そしてラスト、「寿歌Ⅳ-火の粉のごとく星に生まれよ-」は本書に際して書き下ろされた30年ぶりの新作ということで、コンピュータウイルスという新しい概念が登場する。 ゲサクとキョウコを中心とした「九重五郎吉一座宣伝隊」の元へ誰かがやってきて、去って行くという構成が(Ⅲ以外は)共通している。そして本作が面白いのは何よりも関西弁の軽妙な掛け合い。これがあるからこそ終末の世界なのに不思議と暖かさを感じられる。こんなに関西なのだから北村さんもそちらの方なのかと思ったら名古屋らしい。 一方でポストアポカリプス的な寂しさも随所に散りばめられていて、特に別れの場面はどの話も印象的だった。 しかしその中でも特にグッとくるのはやはり無印のラスト。 “かなたは吹雪、その雪に向かって動き出すリヤカー。/音楽、ザ・ピーナッツの『ウナ・セラディ東京』。/その日、世界は雪。/地球すべて雪。この日より氷河期始まる。”(P45) この戯曲を読み終わってすぐ、演劇ユニット「いいいのいー」による上演を観劇した。 作中の人物はおそらく若者〜中年ぐらいで想定されているのだが、今回の上演は平均年齢70代という異色の演出。それでもまったく違和感なく、むしろ作品が描かれた時代の空気を持つ役者たちの姿にはものすごい説得力があった。 そして舞台を見てようやくヤスオの正体とその名の意味に気付いたのだった。やはり戯曲は本読むだけじゃなくて観なきゃダメだなと思う。 本文書体:小塚明朝 装画:長谷川義史 装丁:山中亜希子
  • 2026年9月6日
    発達障害診断日記
  • 2026年9月6日
    アクロイドを殺したのは誰か
    アクロイドを殺したのは誰か
  • 2026年9月6日
    特攻隊振武寮──証言:帰還兵は地獄を見た──
    平成18年にNHKスペシャルで放映された「学徒兵 許されざる帰還〜陸軍特攻隊の悲劇〜」の書籍版。 著者の大貫健一郎さんがミュージシャンの大貫妙子さんの父であるということ、それと最近感動ドラマに仕立て上げられがちな特攻隊についてもう少し知りたいというので読んだ。 第一章は召集から特攻隊に志願するまでの経緯が語られる。 当初は歩兵連隊に入れられたという大貫さん。しかし軍務経験の無い学徒ということで徹底的にいびられたという。そんな環境から脱するために、一年足らずで将校になれる「特別操縦見習士官(特操)」に志願する。 そこからは戦闘機乗りになるために訓練には明け暮れる日々。同じ学徒出身の仲間もでき、三重の明野教導飛行師団でも飛んだという。 しかし戦況が悪化する中、陸軍航空のトップから直々やってきて、「新任務」への参加を訓示する。応募紙に書かれていたのは「熱望する/希望する/希望しない」の選択肢。 その任務が爆弾を抱えた突撃だと知り、戦闘機乗りを目指す彼らは始め拒否しようとするが、結局は「熱望」をしてしまう。そこにあったのはやはり、軍隊組織内での学徒としてのプライドだった。 “学徒だからといって馬鹿にされてたまるかという意地のようなものが根本にありました。二束三文の消耗品だとか、軍人精神が入っていないとか毎日言われていたので、それに対する強い反発心が湧いてきたのです”(P36) 若者の格差やコンプレックスがいかに都合良く使われていたのかが分かる話だ。集団内で立場差を設けて対立を作っておけば結果的に上の都合良くことを運ぶことができる。恐ろしい。 各章の合間にはディレクター渡辺さんによる時代背景の解説が挟まれる。 陸軍は当初ソ連の方を重要視していた一方で海軍は米英を意識して南方戦線を広げていったという流れは初めて知った。そもそも特攻隊って海軍なの陸軍なの?ぐらいの知識不足なのでこの解説は助かる。予備学生は海軍、特操は陸軍。特攻兵器に先に着手したのは海軍。台湾沖航空戦の、練度の低さから見誤った戦果を大本営発表してしまい、引くに引けずとんでもないレイテ戦に突入してしまったという組織のガバガバさ。 ついに招集がかかり、「と号第二二飛行隊(のち第二二振武隊)」に転属する大貫さん。この部隊は操縦士が通常つける白マフラーではなく、喪服に倣った黒いマフラーを付けたことから「黒マフラー隊」とも呼ばれることになる。 ここでページを割かれているのが同隊に所属する十一人の仲間達について。二十歳前後の青年たち、しかも死の運命を共にする面々の間には特別な一体感が育まれていく。 しかし昭和二十年二月末、戦闘機「隼」に乗り急降下の訓練が始まると、見えてきたのは特攻の困難さであった。 “それでも一二人のなかには、どうせ死ぬのだから勇ましく死のう、俺は行くぞという、英雄気取りが三人いました。それから絶対成功しない、当たらないという、特攻そのものに懐疑的な者もいた。[…]特攻隊と一口にいってもそういういろんな人間の集団だったわけで、戦後世間で大づかみにいわれているような、みんな国のために勇ましく死んだなんてことではけっしてなかったのです。”(P95) それぞれの思いを脇に、飛行隊は沖縄作戦への参加を決定され、都城を経由して知覧へと移動することになる。 再び解説。沖縄戦時点ですでに日本軍の暗号は筒抜であったこと、またレーダーの性能差が圧倒的であったことが指摘されている。「海軍暗号書D」が解読されていると気づいていたのに、それに代わる新暗号が浸透していないので旧暗号と一緒に送ってしまい新暗号も解読されちゃった、というこれもまたお粗末な話も。 解説後半は陸軍航空本部長・菅原大道中将の日記から、どのように郡内で特攻が是認されていったのかが読み解かれる。 海軍に遅れを取っている焦りや、あらゆることが後手後手で、どんどん体当たり以外の道が閉ざされていくという悲惨な歴史だ。 捷号作戦とか連合艦隊司令官とか名前の響きに格好良さを感じてしまうところはあり、でも本当にちゃんと知らなければならないのは「逃げ場をなくした約一万名の民間人が島北部のマッピ岬(通称・バンザイクリフ)などで自決している」(P53)というようなことのはずだと思う。 そして第三章はついに出撃に至るまで。美談コメントを取ろうとする報道部員や、「お国のために立派に死んで参ります」と書かれた「遺書の見本」などなど、特攻を正当化しようとする社会のクソさが伺える記述もある。そんな事実があったのだから、特攻隊員の遺書なんてものもどこまで信頼できるものか。 第二二振武隊がついに出撃を迎えた昭和二十年四月三日。担当整備兵が急遽報告する。戦闘機がエンジントラブルで飛べる状態ではないという。 これもまた偶然ではなくヒューマンエラー。知覧にかき集められた整備兵たちには最新式のエンジンの知識がなかったのだ。さらに飛べないのは大貫さんだけでなく、12人中5人が飛ぶことができないという。それまで仲間達と訓練してきたからこそ死地に赴く覚悟を決めていたところが出鼻をくじかれ、ますます特攻への意欲が薄れていったという。 その上当時の日本軍は完全に全てを読まれており、飛び立ったもののすぐにグラマンに撃墜される者も多かったという。 数日後、やがて整備が終わった大貫さんたちは、別の隊に組み込まれて出撃することになる。視界が悪い上に、たった三機での飛行。それでも参謀は判断を覆してはくれない。 “「軍神」にまつりあげられてしまったんです、我々は。神風が吹くとか神兵が舞い降りるとかもてはやされて、精神的に縛られていたわけです。嘘でごまかして飛ぶのを拒否したら、軍法会議にかけられて死刑ですから。敵前逃亡したなんてことになると、家族がどんな目に遭うかわからない。軍神って、つまりはそういうことだったんです。”(P160) いまでいう闇バイトみたいなもんだよな。家族を人質に取られて。 四月五日に知覧を発ち喜界島で一夜を明かすが、翌六日の早朝、ついにグラマンの襲撃に遭う。共に飛んでいた仲間は撃墜されて爆発。大貫さんはとっさに爆弾を切り離し、徳之島に不時着する。 ここからの展開もあまりにも壮絶で過酷。隊長や仲間の爆死を知らされ、喜界島では困窮生活を送り、内地に戻るため飛んだ重爆撃機が銃撃されて爆発するのも目の当たりにする。 そんな数々の死線を乗り越えて戻ってきた大貫さんを待ち構えていたのは代わりの特攻機ではなく、「振武寮」への軟禁生活だった。毎日毎日上官からいびられ、軍人勅諭や般若心経を写経させられる日々。「軍神」として華々しく散ったことにされている者たちが実は生きているということは軍にとって信頼を揺るがしかねない事態なので、特攻の生還者は徹底的に秘匿され隔離されていたのだ。これはもう日本の悪いところが全部出ているような史実だと思う。しかも公的にも「死亡」で二階級特進扱いにされていたため、戦後結婚の際に戸籍の復活でかなり苦労されたのだという。 第六章は戦後、慰霊の旅を始められたエピソードが書かれている。この章にはものすごく印象に残る場面があった。実際に仲間の死を目にした大貫さんが、遺族にその話をするのだが、遺族はその死の真実をなかなか受け入れられなかったのだという。 “遺族としては米艦隊に突入したと思い込んでいるし、そう信じたいのです。[…]西長も大上も柴田小隊長も伊東も立川も全員敵艦を撃沈したことになっており、遺族は感状をもらっています。でも感状などというものは、みな同じ文面なんです。”(P267) ここに、特攻が美化されてしまう根本的な原因があるんじゃないだろうか。つまり、 ・エンジントラブル、練度不足、戦力差などにより、実際に特攻を完遂した者はかなり少ない ・しかし、戦果確認機も飛ばされていないので事実は不明である ・だから国でははとりあえず感状を発行し、華々しく散ったということにしている ・遺族は、せめて特攻をしてお役目を果たしたのだと思っているし、事実を受け入れ難い ・なぜならば、無駄死にということになってしまうから そうしたことを踏まえた上で、最後に大貫さんの語る言葉はとても重い。 “喜び勇んで笑顔で出撃したなんて真っ赤な嘘。特攻隊の精神こそが戦後日本の隆盛の原動力だ、なんて言う馬鹿なやつがいますが、そういう発言を聞くとはらわたがちぎれる思いがします。陸海軍あわせておよろ四〇〇〇人の特攻パイロットが死んでいますが、私に言わせれば無駄死にです。特攻は外道の作戦なのです。”(P292) “青春を謳歌しているいまの若者たちを見てうらやましく思うこともあります。でもいまの若者たちも不幸にして戦争に直面すればやむを得ず特攻隊員になってしまうかもしれない。そんな時代が二度とやってこないようにするためにも、私は自分が見た悲惨をしっかりと後世に語り継ぎたいのです。”(P292-293) この本はもっと多く読まれなければならないし、これからも読み継がれなければならない。 本文書体:リュウミン ブックデザイン:日下潤一+長田年延+荒井千文
  • 2026年9月3日
    夏 (新潮クレスト・ブックス)
    母娘のやり取りから始まる本作。娘のサシャは環境問題に意識が高く、自動車を拒否したりする一方で、若者らしくレポートは適当にこなしていたりする。対する母は引用文献の出典とか教養的な部分には口うるさいが、社会問題に対しては距離感がる…という微妙な世代間すれ違いが描かれる。リアルだなぁ。 そしてそんな彼女らが揃って頭を抱えるのが弟のロバート。クラスで人種差別的な発言をしては首相の真似だと言ってみたり、ひとの自転車の地面を切り刻んだり。絶賛反抗期という感じだが、もともとの賢さもあって詭弁を弄してのらりくらりとかわしてしまう。クソガキである。 折しも英国はブレグジット後のコロナ禍。排外主義がますます高まっている状況を描くパンデミック文学でもある。なんかあのウイルスの見た目に言及する小説は前にも読んだ気がするのだが何だったか…。 “それはどれも、表面からトランペットが突き出している小さな惑星みたいだ。あるいは棘のような腫瘍に覆われた小さな惑星。昔の遊園地で使われていた羽根付きのダーツがいっぱい突き刺さった地球。あるいは第二次世界大戦の映画に出てくる海の中の機雷。”(P47) この比喩を畳み掛けていく感じは実にアリ・スミス。 そしてグリーンロー家の複雑な事情も少しずつ見えてくる。父親は事業に失敗し、両親は別居しているのだが、なぜか父は愛人? のアシュリーとお隣の家に住んでいる。いや何で? アシュリーはウェールズ出身で、今の政治のあり方に異議を唱える本を書くなどしていたが、ある日突然声が出なくなってしまったという。これもまた暗示的な出来事だ。 また今作はところどころに戯曲的な表現が出てくるのも独特。具体的には鉤括弧ではなくセリフの表記だったりト書きみたいなの入ってたり。小説中に急に神の視点っぽくなる。 やがて一家の元に『冬』の主要人物だったシャーロットとアーサーがやってきて、一同はダニエルの元へと荷物を届けることになる。いよいよ物語が繋がってきてわくわくする。 一方のダニエルは未だ夢の中で過去を回想する。ユダヤ系ドイツ人ということで収容所に父共々収容された過去の記憶。現代と鏡写しのような過去。 “僕は自分が書いた字を先生に見せた。「あなたはたくさんの季節を持つ人物だ」と先生は言った。”(P199) ダニエルが収容所で筆占いをしていた医師に言われた言葉だが、これはシリーズの確信的な意味合いを含んでいるのかもしれない。直接的に登場するのは『秋』と『夏』だが、一応『冬』『春』にもちらっと出ていて、そしてそれぞれの主要人物と不思議な関わり方をしている。季節とは人生と出会いそのものなのかもしれないなと思う。 ダニエルの生き別れになってしまった妹、ハンナはナチ政権の迫害の下、名を変えてレジスタンス活動に身を投じる。 そしてサシャとロバートの母の名がついに明かされる。グレース。シャーロットたちと訪れたサフォークで、彼女は1989年の夏のことを少しずつ思い出してゆく。 “でも、それが夏だ。夏という季節はちょうどこんな一本道を、光と闇の両方に向かって歩くのに似ている。夏は単なる陽気なお話ではないから。闇を伴わない陽気なお話など存在しないから。”(P295) それぞれの女性たちの抱えるものに光が当てられていく中、最後にカメラが向けられるのはシャーロット。エリサベスに夢中になってしまったアートとの距離が生まれていくなか、アートの叔母アイリスとコーンウォールで二人暮らしをすることになるシャーロット。アイリスは80代にしてバリバリの活動家でもあり、シャーロットはそのエネルギーに当てられて自信喪失してしまう。そんな彼女に光を当ててくれたのは、アインシュタインに憧れるあのロバートだった。 いやー、なんかよく分からんけどすごかった。いろんな立場の人たちがいて、それぞれに彼ら彼女ら自身の歴史を抱えていて、時にはそれが交わったりもして。 そして散りばめられたシェイクスピアの引用と、シリーズそれぞれにつき一人のアーティストの生涯とも結びつけてゆく。 めちゃくちゃハイレベルなことやってるなというのがわかる。
  • 2026年8月26日
    純文学って何だよ
    数年前に『文學界』を読み始めてから純文学の魅力にはまったのだが、しかし改めて純文学ってなんだ?と言われると答えられないので読んだ。 はじめに著者の経歴と、自身が考える純文学観が書かれているのだが、純文学=音楽説は面白い。 “そう、読むという行為そのものが快楽になる。[…]音楽を聴く快楽は、純文学を読む快楽と性質が似ている。”(P23-24) また純文学の最も重要な機能として「作家だけでなく、読者の身体をも抑圧から解き放つ」(P24)とまとめられていて、最近読んだなかでは八木詠美『アンチ・グッドモーニング』なんてまさにそんな作品じゃなかろうか。 町屋良平さんとの対談では、小説家は自作に自己言及することを求められているという話や、小説特有の「遅さ」をいかに乗り越えるかという話が興味深い。 “そもそもリアリティがないからこそリアリティがある。リアリティがあるからこそリアリティがない。っていう逆転の瞬間こそが“小説のリアリズム”なんですよね。”(P76) という町屋さんの話はなるほどなーと思う。本当らしく書こうとするほどウソっぽくなり、その逆も然りと。 高山羽根子さん。元々は美術をやられていたというだけあって、絵画での例えが秀逸だ。 “たとえば、絵画の騙し絵みたいに色んな難しいものが絵のなかに埋まっていても、“一枚の絵として風景がきれいだからずっと見ていられる”みたいな作品を目指したい。”(P98) まさに冒頭で鴻池さんが言われた音楽との類似性だ。文体の快楽。 石田夏穂さんとの対談は純文学悪口大会(笑) 純文学はマニアックに書いていいジャンルに縛りがあって、映画とか音楽とか純文好きな人が好きそうなジャンルであれば許されるとか、「性」の話が要求されるとか、流行のテーマ(フェミニズムとか)をかました解釈しかしない読み手が多すぎるとかとか。最後の指摘は耳が痛すぎる。 尾崎世界観さんとの対談は商業としての純文学みたいなテーマが濃く出ていた。「作品に対して誰かが何かを言ってくれないと成立しない世界なのかも」(P169)という尾崎さんの言葉は確かにだなーって気がする。いちおう読解は試みるけれども、批評とかを読んでなるほどなそう読むんか〜ってなっている。誰かの読解を見ないと安心できないみたいな。ネガティヴ・ケイパビリティが足りないのかも。 川本直さんは一時期話題になってた『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』の著者。よく分かってなかったけど限りなくルポの体裁を取ったフィクションということらしい。 アングラ雑誌のライターから出発し、日本ではあまり知られていないゴア・ヴィダルというアメリカの作家に突撃インタビューしてから10年かけて作家デビューというかなりユニークな経歴が面白い。 そんな川本さんは次のようなことを言われている。 “よく小説では“他者を書け”みたいに言われることがありますよね。自分ではなく他者を書くことが大事とか言うけど、あれは正確には、自分が解き放たれて勝手に他者になってしまうんですよね。”(P184) この言葉は自分にとってかなり示唆に富んでいる。なんとか自意識から逃れたいといつもいつも思っているから。 なんとなく物語を書ける人(と演技ができる人)とかは自意識から距離取れるんだろうな〜と思っているけれど、やはり「作り話を書く」というのが一つのとっかかりになるのだなぁ。 永井みみさんとの対談はBL回。なぜBLが人気なのかというところで、“産む”性であることを常に意識させられることから逃れたいからなのではないか、という話には説得力がある。逆にオタク男性にゆるふわ百合アニメが流行るのも性役割からの逃避だよね、というのは既に『エトセトラ』の男性学特集号で指摘されていたことだったか。 それと純喫茶起源説も興味深い。 ラスト、田中慎弥さんとの対談もバチバチやってて面白かった。具体的に言うと社会へのコミットの必要性についてなのだが、鴻池さんは社会的トピックなんていらない派、田中さんは社会の要請に耳を傾ける必要がある派。 本書全体を通しても鴻池さんは純文学をしがらみから解放したい側なのだなというのが伝わってくる。「ジェンダーに無関心ではいけない」というモラルもまた一つのしがらみになるのだ。この辺のバランス感は本当に難しいなと思う。 自分はそれまで社会問題に一切コミットできていなかったので、文芸誌を読み始めたことでその必要性に気付けたみたいなところがあるんだよな。だからどちからというと社会コミットメントはあっても良い派だし、そういう作品が芥川賞を獲るんじゃないかと予想しがち。 ただそれだけが文学ではないということは常に念頭に置いておかないとダメだなと思った。 また田中さんは文章修行として窓から見える風景をスケッチしていたというエピソードがあり、やっぱり効果あるんだなと思った。乗代ワークショップの新作ZINE積んでるけど読んでモチベーション取り戻さないと。 純文学って何だよ、の答えはやっぱり分かるような分からないようなだけど、「純文あるある」を楽しめる本ではあった。だからある程度最近のものを読んでる人向けかもしれない。 それと純文学と私小説の関係性とか文学論争とかの話も色々断片的に出てきていて、そのへんの文学史もちゃんと知っておきたいなぁと思った。便覧とか読めば載ってるかな。 お酒を酌み交わしてる対談写真がいいなと思っていたら撮影:金川晋吾だった。そりゃ良いわ。 本文書体:秀英明朝 装幀:仁木順平
  • 2026年8月20日
    特攻隊振武寮──証言:帰還兵は地獄を見た──
    Xで流れてきたので。 特攻隊が感動ドラマに組み込まれがちな昨今、このような事実が埋もれてしまう危機感。
  • 2026年8月20日
    ミーハーBOOKCLUB 創刊号
    「本棚に並んでいたら『この人のこと好きかも』と思ってしまうかも!な本」というお題で編まれたエッセイアンソロジー。8/11名古屋イマZINEで購入。 先日もなぜ本好きは本棚を晒しがちなのかみたいな論文を見たけれど、やはり本棚の写真が流れてきたらついつい拡大して見てしまうのが本好きのサガ。ここに書かれていらっしゃる皆様もそういう方々なのだろうと思う。 このシリーズ!とかこの著者!とか参加者それぞれに好みを色々挙げられているのだが、面白いなと思ったのが「美術館や博物館の図録」を挙げられている方。その理由が、そういう趣味にお金をかけられる人ならば安心して付き合えるから……と。んなるほどな〜! と思った。 ちなみに自分は美術図録はちょっとためらってしまうが、写真集は割と買う。まあ古本が多いけど。 あと小鳥書房の『コレクターズパレード』を挙げられている方。その選書もさることながら、冒頭から大いに共感してしまう内容だった。 “本屋好きの顔をしているけれど、実は小説はほとんど読まない。感情移入が激しく、生活に支障をきたしてしまうから。”(P44) わかる!! 最近は割と読んでるけど、読書会に行き始めるまでは小説全然読まなかった。嫌いというより、疲れちゃう。作品世界からしばらく帰ってこられなくあの感じとかがね。好きなんだけど。 そう考えると極度の感情移入を拒んでくる純文学と出会ったことは幸運だったのかもしれない。 ちなみに自分が「本棚並んでいたら(略)な本」は、ちくま文庫。もしくは河出文庫の海外文学もの。この辺がずらっと並んでいたら好き、というより「信頼できる!」と思うだろう。自分は全く読んでないけどね。 ピンク・紫を基調としたテーマカラーは今までの作品とも統一されている感じで、面白いなぁ〜と思う。 本文書体:小塚明朝、凸版文久ゴシック、凸版文久見出し明朝、ロゴG、ヒラギノ角ゴ、ベストテンFONT、ニューロダン カバーイラスト:合沢鴨
  • 2026年8月19日
    読書会主催者の頭のなか
    趣味で読書会主催者にインタビューしている著者のZINE。四つの読書会主催者に、「始めたきっかけ」「課題本の選び方」「運営上の苦労」「今後の展望」などを尋ねられている。 地方だと読書会の数が少ないので、知り合い以外の会に参加する機会もほとんどない。だからこうして他の会の話を知れるのはとても興味深く思う。 本書に登場するのは主に関東の、それなりに回数を重ねてて参加者もいるような会ではあるが、それでもデカくしたい派の人もいれば、グループ分けするほど人を増やしたくない派の人もいて面白い。 特になるほどなーと思った点。 読書会ってそもそも知らない人にとっては「怪しさ」があるので、逃げ場のないレンタルスペースよりオープンな場所、できればカフェとか公共施設が良いという話。 自己啓発と心理学と哲学はネットワークビジネス系に繋がりやすいのでやらないという主催者さんの話。 課題本の手に入りやすさは参加人数に響くという話。 本文書体:MS P明朝体 表紙デザイン:ぶり
  • 2026年8月19日
    サタンタンゴ
    サタンタンゴ
    伝説の七時間映画の原作。映画は観てないけど、本で読むのもまあまあ苦行ではある。何せ改行ゼロののり弁組。ページの随所に散りばめられた蜘蛛も怖い。特にノドにいるやつ。電車とかで読んでたら覗き込んだ人が本当にビビりそうなのでおすすめしない。 秋の終わり、フタキはどこからともなく聞こえてくる鐘の音に目を覚ます。窓の外には不穏な空と枯れ果てた荒地が広がっている。 そこは解体された農場の跡地。行く当てのない夫婦や独り身の医者たちが細々とその日暮らしをしている集落なのだった。 “哀しげに、不穏な空と、イナゴの大群に襲われて無惨に枯れ果てた夏の残骸をぼんやり眺めていると、忽然として、同じ一本のアカシアの枝の上を、春、夏、秋、冬が次々と飛び去っていくのが見えたが、それは、時間とはとどのつまり、永遠という不動の球体における戯れなのであり、山あり谷ありの混沌を魔の直線と偽っては、全体を見渡せる高みを創出して、狂気や不条理を必然に見せかけている、そう直感したからなのかもしれなかった……。”(P11) 初っ端からもうだいぶ挫けそうになってしまうが、粘って読む。 フタキとシュミットは仲間たちと企んで、大金を持ち夜逃げしようとしている。その金はどこから来たのだ…? そんななか、街には死んだはずの「イリミアーシュ」が帰ってきたという目撃談が飛び交い始め——。 そこから章ごとに色々な人物の視点が移り変わってゆくが、誰と彼もがどんよりとした空気の中にいて読むのが辛い。何が起きるのかも分からない。 “ただひたすら待つ、ある時点でふいに真実が浮かび上がってくるまで、それまでただじっと待つことだ”(P126) などと居酒屋の店主は考えるが、果たしてこの作品に「真実」なるものがあるのかどうか…。 読み進めて第五章。ついに癒し枠なのかと思われたエシュティケのパートだったが、全然そんなことはなかった。「知恵おくれ」の厄介者とされ、兄からはいいように搾取されまくっている…。 “梁、「窓」、板切れ、屋根瓦、鎹、塞がれた天井口、どれもが統制が緩んだ命令待ちの軍隊のように、本来の持ち場を離れて浮遊し始め、さながらどの物体も、もはや光も届かぬ湖底の深みにあって、そこでは物体の動きの方向や勢いが、重量によって決定されるがごとくに、軽量のものは段々と遠ざかっていき、重たいものは奇妙なことにゆっくりと接近してきた。”(P153) こんなんどうやって映像化するんだ。気になる。 エシュティケのその純真さゆえに訪れてしまう不幸の数々。間違っても一休みなんかではない。サタンタンゴに癒しを求めてはならない…。あと猫好きは読まない方がいい。 六章で再びフタキとシュミットたちが出てくるあたりまできて、ようやく今起きている出来事の輪郭がぼんやり把握できた感じ。 あらすじにある「救世主」とはフタキにとってのイリミアーシュのことで、イリミアーシュがやってくることで今の出口のない日々に希望がもたらされると信じている。シュミット夫人もイリミアーシュの玉の輿みたいなのを狙ってる。 一方で居酒屋の店主(ヤーノシュ)はイリミアーシュを恐れている。住民たちにとってこの男の見え方はバラバラなのだ。 ただし読者は第二章でイリミアーシュたちの心のうちも読んでいるので、クソ詐欺師みたいな男なのだろうなとは分かっている。どう考えてもろくなことにならない。 ところで六章のタイトル「蜘蛛の戦略Ⅱ (悪魔のおっぱい、悪魔のタンゴ)」。悪魔のおっぱいって何やねんと思っていたら、店主がシュミット夫人を脱がすために気付かれずにストーブをガンガン焚いてる場面があり、そこだけ謎のコントだった。 “その「全体」を一望のもとに目で捉えたいと思ったが、興奮のあまり「細部」の「気も狂いそうになる連続」しか目に入ってこなかった。”(P173) “「人生における大なり小なりの真実」を短文に凝縮して表現する性癖のある店主は、幸せの絶頂で恍惚のうちにある自らに向かってこう問うた。「これがために灯油を節約せんとする男がこの世のどこにいようか」。”(P174) なんかここが一番筆のってない?? あと急に出てきた「校長」もアホだった。 この場の全員シュミット夫人に恋してるけど夫人は本命のイリミアーシュ以外眼中にないという喜劇空間なのである。 そしてついにタイトル回収。不運と踊っちまった的な感じかと思っていたがちゃんとタンゴを踊っている。 予告編で見たパンを両方から食べるシーンもあった。 ケレケシュが一人哀切なメロディを奏でる印象的な場面で第一部が終わり、第二部。なぜか六章から始まり逆行していて読み順に戸惑う。タンゴのステップ進んで戻るということか。 エシュティケの死に沈み込む一堂の前で演説をかますイリミアーシュ。事件の謎を解き明かし、悲嘆に暮れる人々を導こうとするような姿に「あれ?ちょっといいやつ?」と思うも、その流れからぬるっと投資話みたいな方向に持っていき、やはりクソ詐欺師だ。 ハンガリーの歴史を全然知らないので警察の場面やイリミアーシュの目的が理解できていなかったのだけれど、解説を読んでなるほど〜と思った。てっきり文字どおり爆弾テロでもするのかと思ってた。 最後のウロボロスエンドは絶望なのか、はたまた……。
  • 2026年8月18日
    サタンタンゴ
    サタンタンゴ
    六章あたりから急におもろい(六章までしかないけど)
  • 2026年8月16日
    青天
    青天
    弱小チームである総大三校アメフト部の三年、中村昴(アリ)が強豪校、遼西学園の練習を盗撮しにいく場面から始まる第1Q(クォーター?)。 盗撮がバレつつもチームメイトの河瀬が見出した勝利の可能性に向け一同は士気を高めてゆく。 “フィールドに走る試合前の緊張感。ここから約2時間、1ヤードでも、1インチでも、前に進めばいいだけの存在になれる。それはいつも俺の救いだ。”(P63) しかし、遼西の強さは圧倒的で、アリも試合中に「アオテン」させられてしまう。 “アメフトにおいて、仰向けに倒されることはアオテンと呼ばれていて、最も屈辱的な状態だ。チームメイトも、ギャラリーも、敵さえも静まり返っている。”(P67) こうして彼らの戦いは呆気なく終わってしまい、引退したチームメイトたちが受験に向けて切り替える中、アリは大学を目指す気も起きずにいる。 元チームメイトのつながりから不良グループに接近するも、自由でいるようでそのグループ内の決まりに従っている彼らのことを内心ダサいと思っている。こういう捻くれ具合、めっちゃ若林正恭。 あと倫理の先生に色々聞きにいくくだりも若林さんらしいなと思う。実際に大学生の家庭教師つけていろいろ教えてもらっていると対談で話されていたし。 不良グループと一悶着ありボコボコに殴られたアリは、後輩からの声掛けで再び部活に戻り、本来三年は出場しない秋大会を目指すことになる。 “クラスの一軍の人気者とかじゃなくて、元いじめられっ子の復讐でもない。すべてが中途半端。語るべきことが何もない。だから、人にぶつかってないと自分が生きてるかどうかよくわからなくなる。”(P132) この展開の構成、すげえ上手いな。本当に初小説?? 第3Qは特訓編。舞い戻った部活では新キャプテンのチョモこと高山が、チームメイトのモチベーション維持に悩んでいた。アリは言葉で言うより力を見せつけるしかないと諭し、特別メニューの朝練を始める。 うおおお。青春部活ものだー! そしてついに迎えた秋季大会。やはり強豪の池ノ上高校との対戦。中盤まで苦戦し、得点を得ることができず。しかし極限に回想が挟まって覚醒し「1秒後が見える」境地に達するところはあまりにもスポーツ王道もので、胸が熱くなる。 そんなスポ根でありつつもやはり倫理の先生との対話が挿入され、シーシュポスの岩運びみたいな話が出てくるのが面白い。この話、だいぶ國分メソッド入ってるよね? 最初の方に「捻くれ方が好き」みたいなことも思ったけど、改めて考えるとめちゃくちゃ純粋な作品だったなと思う。著者自身が見てきたもの、感じてきたこと、学んできたものがものすごくストレートに込められている。やっぱ芯に熱情があるんだろうなぁ。でなきゃこんな熱い作品書けまいて。
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