

あんどん書房
@andn
まとまりのない私的な感想をダラダラと書くのが好きです(長ければ長いほどいいと思っていがち)。買い速度に読み速度が明らか伴ってないのに借り本まであって大変です。
- 2026年9月6日
発達障害診断日記中村雅奈読んでる - 2026年9月6日
アクロイドを殺したのは誰かピエール・バイヤール,大浦康介読みたい - 2026年9月6日
特攻隊振武寮──証言:帰還兵は地獄を見た──大貫健一郎,渡辺考平成18年にNHKスペシャルで放映された「学徒兵 許されざる帰還〜陸軍特攻隊の悲劇〜」の書籍版。 著者の大貫健一郎さんがミュージシャンの大貫妙子さんの父であるということ、それと最近感動ドラマに仕立て上げられがちな特攻隊についてもう少し知りたいというので読んだ。 第一章は召集から特攻隊に志願するまでの経緯が語られる。 当初は歩兵連隊に入れられたという大貫さん。しかし軍務経験の無い学徒ということで徹底的にいびられたという。そんな環境から脱するために、一年足らずで将校になれる「特別操縦見習士官(特操)」に志願する。 そこからは戦闘機乗りになるために訓練には明け暮れる日々。同じ学徒出身の仲間もでき、三重の明野教導飛行師団でも飛んだという。 しかし戦況が悪化する中、陸軍航空のトップから直々やってきて、「新任務」への参加を訓示する。応募紙に書かれていたのは「熱望する/希望する/希望しない」の選択肢。 その任務が爆弾を抱えた突撃だと知り、戦闘機乗りを目指す彼らは始め拒否しようとするが、結局は「熱望」をしてしまう。そこにあったのはやはり、軍隊組織内での学徒としてのプライドだった。 “学徒だからといって馬鹿にされてたまるかという意地のようなものが根本にありました。二束三文の消耗品だとか、軍人精神が入っていないとか毎日言われていたので、それに対する強い反発心が湧いてきたのです”(P36) 若者の格差やコンプレックスがいかに都合良く使われていたのかが分かる話だ。集団内で立場差を設けて対立を作っておけば結果的に上の都合良くことを運ぶことができる。恐ろしい。 各章の合間にはディレクター渡辺さんによる時代背景の解説が挟まれる。 陸軍は当初ソ連の方を重要視していた一方で海軍は米英を意識して南方戦線を広げていったという流れは初めて知った。そもそも特攻隊って海軍なの陸軍なの?ぐらいの知識不足なのでこの解説は助かる。予備学生は海軍、特操は陸軍。特攻兵器に先に着手したのは海軍。台湾沖航空戦の、練度の低さから見誤った戦果を大本営発表してしまい、引くに引けずとんでもないレイテ戦に突入してしまったという組織のガバガバさ。 ついに招集がかかり、「と号第二二飛行隊(のち第二二振武隊)」に転属する大貫さん。この部隊は操縦士が通常つける白マフラーではなく、喪服に倣った黒いマフラーを付けたことから「黒マフラー隊」とも呼ばれることになる。 ここでページを割かれているのが同隊に所属する十一人の仲間達について。二十歳前後の青年たち、しかも死の運命を共にする面々の間には特別な一体感が育まれていく。 しかし昭和二十年二月末、戦闘機「隼」に乗り急降下の訓練が始まると、見えてきたのは特攻の困難さであった。 “それでも一二人のなかには、どうせ死ぬのだから勇ましく死のう、俺は行くぞという、英雄気取りが三人いました。それから絶対成功しない、当たらないという、特攻そのものに懐疑的な者もいた。[…]特攻隊と一口にいってもそういういろんな人間の集団だったわけで、戦後世間で大づかみにいわれているような、みんな国のために勇ましく死んだなんてことではけっしてなかったのです。”(P95) それぞれの思いを脇に、飛行隊は沖縄作戦への参加を決定され、都城を経由して知覧へと移動することになる。 再び解説。沖縄戦時点ですでに日本軍の暗号は筒抜であったこと、またレーダーの性能差が圧倒的であったことが指摘されている。「海軍暗号書D」が解読されていると気づいていたのに、それに代わる新暗号が浸透していないので旧暗号と一緒に送ってしまい新暗号も解読されちゃった、というこれもまたお粗末な話も。 解説後半は陸軍航空本部長・菅原大道中将の日記から、どのように郡内で特攻が是認されていったのかが読み解かれる。 海軍に遅れを取っている焦りや、あらゆることが後手後手で、どんどん体当たり以外の道が閉ざされていくという悲惨な歴史だ。 捷号作戦とか連合艦隊司令官とか名前の響きに格好良さを感じてしまうところはあり、でも本当にちゃんと知らなければならないのは「逃げ場をなくした約一万名の民間人が島北部のマッピ岬(通称・バンザイクリフ)などで自決している」(P53)というようなことのはずだと思う。 そして第三章はついに出撃に至るまで。美談コメントを取ろうとする報道部員や、「お国のために立派に死んで参ります」と書かれた「遺書の見本」などなど、特攻を正当化しようとする社会のクソさが伺える記述もある。そんな事実があったのだから、特攻隊員の遺書なんてものもどこまで信頼できるものか。 第二二振武隊がついに出撃を迎えた昭和二十年四月三日。担当整備兵が急遽報告する。戦闘機がエンジントラブルで飛べる状態ではないという。 これもまた偶然ではなくヒューマンエラー。知覧にかき集められた整備兵たちには最新式のエンジンの知識がなかったのだ。さらに飛べないのは大貫さんだけでなく、12人中5人が飛ぶことができないという。それまで仲間達と訓練してきたからこそ死地に赴く覚悟を決めていたところが出鼻をくじかれ、ますます特攻への意欲が薄れていったという。 その上当時の日本軍は完全に全てを読まれており、飛び立ったもののすぐにグラマンに撃墜される者も多かったという。 数日後、やがて整備が終わった大貫さんたちは、別の隊に組み込まれて出撃することになる。視界が悪い上に、たった三機での飛行。それでも参謀は判断を覆してはくれない。 “「軍神」にまつりあげられてしまったんです、我々は。神風が吹くとか神兵が舞い降りるとかもてはやされて、精神的に縛られていたわけです。嘘でごまかして飛ぶのを拒否したら、軍法会議にかけられて死刑ですから。敵前逃亡したなんてことになると、家族がどんな目に遭うかわからない。軍神って、つまりはそういうことだったんです。”(P160) いまでいう闇バイトみたいなもんだよな。家族を人質に取られて。 四月五日に知覧を発ち喜界島で一夜を明かすが、翌六日の早朝、ついにグラマンの襲撃に遭う。共に飛んでいた仲間は撃墜されて爆発。大貫さんはとっさに爆弾を切り離し、徳之島に不時着する。 ここからの展開もあまりにも壮絶で過酷。隊長や仲間の爆死を知らされ、喜界島では困窮生活を送り、内地に戻るため飛んだ重爆撃機が銃撃されて爆発するのも目の当たりにする。 そんな数々の死線を乗り越えて戻ってきた大貫さんを待ち構えていたのは代わりの特攻機ではなく、「振武寮」への軟禁生活だった。毎日毎日上官からいびられ、軍人勅諭や般若心経を写経させられる日々。「軍神」として華々しく散ったことにされている者たちが実は生きているということは軍にとって信頼を揺るがしかねない事態なので、特攻の生還者は徹底的に秘匿され隔離されていたのだ。これはもう日本の悪いところが全部出ているような史実だと思う。しかも公的にも「死亡」で二階級特進扱いにされていたため、戦後結婚の際に戸籍の復活でかなり苦労されたのだという。 第六章は戦後、慰霊の旅を始められたエピソードが書かれている。この章にはものすごく印象に残る場面があった。実際に仲間の死を目にした大貫さんが、遺族にその話をするのだが、遺族はその死の真実をなかなか受け入れられなかったのだという。 “遺族としては米艦隊に突入したと思い込んでいるし、そう信じたいのです。[…]西長も大上も柴田小隊長も伊東も立川も全員敵艦を撃沈したことになっており、遺族は感状をもらっています。でも感状などというものは、みな同じ文面なんです。”(P267) ここに、特攻が美化されてしまう根本的な原因があるんじゃないだろうか。つまり、 ・エンジントラブル、練度不足、戦力差などにより、実際に特攻を完遂した者はかなり少ない ・しかし、戦果確認機も飛ばされていないので事実は不明である ・だから国でははとりあえず感状を発行し、華々しく散ったということにしている ・遺族は、せめて特攻をしてお役目を果たしたのだと思っているし、事実を受け入れ難い ・なぜならば、無駄死にということになってしまうから そうしたことを踏まえた上で、最後に大貫さんの語る言葉はとても重い。 “喜び勇んで笑顔で出撃したなんて真っ赤な嘘。特攻隊の精神こそが戦後日本の隆盛の原動力だ、なんて言う馬鹿なやつがいますが、そういう発言を聞くとはらわたがちぎれる思いがします。陸海軍あわせておよろ四〇〇〇人の特攻パイロットが死んでいますが、私に言わせれば無駄死にです。特攻は外道の作戦なのです。”(P292) “青春を謳歌しているいまの若者たちを見てうらやましく思うこともあります。でもいまの若者たちも不幸にして戦争に直面すればやむを得ず特攻隊員になってしまうかもしれない。そんな時代が二度とやってこないようにするためにも、私は自分が見た悲惨をしっかりと後世に語り継ぎたいのです。”(P292-293) この本はもっと多く読まれなければならないし、これからも読み継がれなければならない。 本文書体:リュウミン ブックデザイン:日下潤一+長田年延+荒井千文 - 2026年9月3日
夏 (新潮クレスト・ブックス)アリ・スミス読み終わった母娘のやり取りから始まる本作。娘のサシャは環境問題に意識が高く、自動車を拒否したりする一方で、若者らしくレポートは適当にこなしていたりする。対する母は引用文献の出典とか教養的な部分には口うるさいが、社会問題に対しては距離感がる…という微妙な世代間すれ違いが描かれる。リアルだなぁ。 そしてそんな彼女らが揃って頭を抱えるのが弟のロバート。クラスで人種差別的な発言をしては首相の真似だと言ってみたり、ひとの自転車の地面を切り刻んだり。絶賛反抗期という感じだが、もともとの賢さもあって詭弁を弄してのらりくらりとかわしてしまう。クソガキである。 折しも英国はブレグジット後のコロナ禍。排外主義がますます高まっている状況を描くパンデミック文学でもある。なんかあのウイルスの見た目に言及する小説は前にも読んだ気がするのだが何だったか…。 “それはどれも、表面からトランペットが突き出している小さな惑星みたいだ。あるいは棘のような腫瘍に覆われた小さな惑星。昔の遊園地で使われていた羽根付きのダーツがいっぱい突き刺さった地球。あるいは第二次世界大戦の映画に出てくる海の中の機雷。”(P47) この比喩を畳み掛けていく感じは実にアリ・スミス。 そしてグリーンロー家の複雑な事情も少しずつ見えてくる。父親は事業に失敗し、両親は別居しているのだが、なぜか父は愛人? のアシュリーとお隣の家に住んでいる。いや何で? アシュリーはウェールズ出身で、今の政治のあり方に異議を唱える本を書くなどしていたが、ある日突然声が出なくなってしまったという。これもまた暗示的な出来事だ。 また今作はところどころに戯曲的な表現が出てくるのも独特。具体的には鉤括弧ではなくセリフの表記だったりト書きみたいなの入ってたり。小説中に急に神の視点っぽくなる。 やがて一家の元に『冬』の主要人物だったシャーロットとアーサーがやってきて、一同はダニエルの元へと荷物を届けることになる。いよいよ物語が繋がってきてわくわくする。 一方のダニエルは未だ夢の中で過去を回想する。ユダヤ系ドイツ人ということで収容所に父共々収容された過去の記憶。現代と鏡写しのような過去。 “僕は自分が書いた字を先生に見せた。「あなたはたくさんの季節を持つ人物だ」と先生は言った。”(P199) ダニエルが収容所で筆占いをしていた医師に言われた言葉だが、これはシリーズの確信的な意味合いを含んでいるのかもしれない。直接的に登場するのは『秋』と『夏』だが、一応『冬』『春』にもちらっと出ていて、そしてそれぞれの主要人物と不思議な関わり方をしている。季節とは人生と出会いそのものなのかもしれないなと思う。 ダニエルの生き別れになってしまった妹、ハンナはナチ政権の迫害の下、名を変えてレジスタンス活動に身を投じる。 そしてサシャとロバートの母の名がついに明かされる。グレース。シャーロットたちと訪れたサフォークで、彼女は1989年の夏のことを少しずつ思い出してゆく。 “でも、それが夏だ。夏という季節はちょうどこんな一本道を、光と闇の両方に向かって歩くのに似ている。夏は単なる陽気なお話ではないから。闇を伴わない陽気なお話など存在しないから。”(P295) それぞれの女性たちの抱えるものに光が当てられていく中、最後にカメラが向けられるのはシャーロット。エリサベスに夢中になってしまったアートとの距離が生まれていくなか、アートの叔母アイリスとコーンウォールで二人暮らしをすることになるシャーロット。アイリスは80代にしてバリバリの活動家でもあり、シャーロットはそのエネルギーに当てられて自信喪失してしまう。そんな彼女に光を当ててくれたのは、アインシュタインに憧れるあのロバートだった。 いやー、なんかよく分からんけどすごかった。いろんな立場の人たちがいて、それぞれに彼ら彼女ら自身の歴史を抱えていて、時にはそれが交わったりもして。 そして散りばめられたシェイクスピアの引用と、シリーズそれぞれにつき一人のアーティストの生涯とも結びつけてゆく。 めちゃくちゃハイレベルなことやってるなというのがわかる。 - 2026年8月26日
純文学って何だよ鴻池留衣読み終わった数年前に『文學界』を読み始めてから純文学の魅力にはまったのだが、しかし改めて純文学ってなんだ?と言われると答えられないので読んだ。 はじめに著者の経歴と、自身が考える純文学観が書かれているのだが、純文学=音楽説は面白い。 “そう、読むという行為そのものが快楽になる。[…]音楽を聴く快楽は、純文学を読む快楽と性質が似ている。”(P23-24) また純文学の最も重要な機能として「作家だけでなく、読者の身体をも抑圧から解き放つ」(P24)とまとめられていて、最近読んだなかでは八木詠美『アンチ・グッドモーニング』なんてまさにそんな作品じゃなかろうか。 町屋良平さんとの対談では、小説家は自作に自己言及することを求められているという話や、小説特有の「遅さ」をいかに乗り越えるかという話が興味深い。 “そもそもリアリティがないからこそリアリティがある。リアリティがあるからこそリアリティがない。っていう逆転の瞬間こそが“小説のリアリズム”なんですよね。”(P76) という町屋さんの話はなるほどなーと思う。本当らしく書こうとするほどウソっぽくなり、その逆も然りと。 高山羽根子さん。元々は美術をやられていたというだけあって、絵画での例えが秀逸だ。 “たとえば、絵画の騙し絵みたいに色んな難しいものが絵のなかに埋まっていても、“一枚の絵として風景がきれいだからずっと見ていられる”みたいな作品を目指したい。”(P98) まさに冒頭で鴻池さんが言われた音楽との類似性だ。文体の快楽。 石田夏穂さんとの対談は純文学悪口大会(笑) 純文学はマニアックに書いていいジャンルに縛りがあって、映画とか音楽とか純文好きな人が好きそうなジャンルであれば許されるとか、「性」の話が要求されるとか、流行のテーマ(フェミニズムとか)をかました解釈しかしない読み手が多すぎるとかとか。最後の指摘は耳が痛すぎる。 尾崎世界観さんとの対談は商業としての純文学みたいなテーマが濃く出ていた。「作品に対して誰かが何かを言ってくれないと成立しない世界なのかも」(P169)という尾崎さんの言葉は確かにだなーって気がする。いちおう読解は試みるけれども、批評とかを読んでなるほどなそう読むんか〜ってなっている。誰かの読解を見ないと安心できないみたいな。ネガティヴ・ケイパビリティが足りないのかも。 川本直さんは一時期話題になってた『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』の著者。よく分かってなかったけど限りなくルポの体裁を取ったフィクションということらしい。 アングラ雑誌のライターから出発し、日本ではあまり知られていないゴア・ヴィダルというアメリカの作家に突撃インタビューしてから10年かけて作家デビューというかなりユニークな経歴が面白い。 そんな川本さんは次のようなことを言われている。 “よく小説では“他者を書け”みたいに言われることがありますよね。自分ではなく他者を書くことが大事とか言うけど、あれは正確には、自分が解き放たれて勝手に他者になってしまうんですよね。”(P184) この言葉は自分にとってかなり示唆に富んでいる。なんとか自意識から逃れたいといつもいつも思っているから。 なんとなく物語を書ける人(と演技ができる人)とかは自意識から距離取れるんだろうな〜と思っているけれど、やはり「作り話を書く」というのが一つのとっかかりになるのだなぁ。 永井みみさんとの対談はBL回。なぜBLが人気なのかというところで、“産む”性であることを常に意識させられることから逃れたいからなのではないか、という話には説得力がある。逆にオタク男性にゆるふわ百合アニメが流行るのも性役割からの逃避だよね、というのは既に『エトセトラ』の男性学特集号で指摘されていたことだったか。 それと純喫茶起源説も興味深い。 ラスト、田中慎弥さんとの対談もバチバチやってて面白かった。具体的に言うと社会へのコミットの必要性についてなのだが、鴻池さんは社会的トピックなんていらない派、田中さんは社会の要請に耳を傾ける必要がある派。 本書全体を通しても鴻池さんは純文学をしがらみから解放したい側なのだなというのが伝わってくる。「ジェンダーに無関心ではいけない」というモラルもまた一つのしがらみになるのだ。この辺のバランス感は本当に難しいなと思う。 自分はそれまで社会問題に一切コミットできていなかったので、文芸誌を読み始めたことでその必要性に気付けたみたいなところがあるんだよな。だからどちからというと社会コミットメントはあっても良い派だし、そういう作品が芥川賞を獲るんじゃないかと予想しがち。 ただそれだけが文学ではないということは常に念頭に置いておかないとダメだなと思った。 また田中さんは文章修行として窓から見える風景をスケッチしていたというエピソードがあり、やっぱり効果あるんだなと思った。乗代ワークショップの新作ZINE積んでるけど読んでモチベーション取り戻さないと。 純文学って何だよ、の答えはやっぱり分かるような分からないようなだけど、「純文あるある」を楽しめる本ではあった。だからある程度最近のものを読んでる人向けかもしれない。 それと純文学と私小説の関係性とか文学論争とかの話も色々断片的に出てきていて、そのへんの文学史もちゃんと知っておきたいなぁと思った。便覧とか読めば載ってるかな。 お酒を酌み交わしてる対談写真がいいなと思っていたら撮影:金川晋吾だった。そりゃ良いわ。 本文書体:秀英明朝 装幀:仁木順平 - 2026年8月20日
- 2026年8月20日
ミーハーBOOKCLUB 創刊号穂坂ユズハ「本棚に並んでいたら『この人のこと好きかも』と思ってしまうかも!な本」というお題で編まれたエッセイアンソロジー。8/11名古屋イマZINEで購入。 先日もなぜ本好きは本棚を晒しがちなのかみたいな論文を見たけれど、やはり本棚の写真が流れてきたらついつい拡大して見てしまうのが本好きのサガ。ここに書かれていらっしゃる皆様もそういう方々なのだろうと思う。 このシリーズ!とかこの著者!とか参加者それぞれに好みを色々挙げられているのだが、面白いなと思ったのが「美術館や博物館の図録」を挙げられている方。その理由が、そういう趣味にお金をかけられる人ならば安心して付き合えるから……と。んなるほどな〜! と思った。 ちなみに自分は美術図録はちょっとためらってしまうが、写真集は割と買う。まあ古本が多いけど。 あと小鳥書房の『コレクターズパレード』を挙げられている方。その選書もさることながら、冒頭から大いに共感してしまう内容だった。 “本屋好きの顔をしているけれど、実は小説はほとんど読まない。感情移入が激しく、生活に支障をきたしてしまうから。”(P44) わかる!! 最近は割と読んでるけど、読書会に行き始めるまでは小説全然読まなかった。嫌いというより、疲れちゃう。作品世界からしばらく帰ってこられなくあの感じとかがね。好きなんだけど。 そう考えると極度の感情移入を拒んでくる純文学と出会ったことは幸運だったのかもしれない。 ちなみに自分が「本棚並んでいたら(略)な本」は、ちくま文庫。もしくは河出文庫の海外文学もの。この辺がずらっと並んでいたら好き、というより「信頼できる!」と思うだろう。自分は全く読んでないけどね。 ピンク・紫を基調としたテーマカラーは今までの作品とも統一されている感じで、面白いなぁ〜と思う。 本文書体:小塚明朝、凸版文久ゴシック、凸版文久見出し明朝、ロゴG、ヒラギノ角ゴ、ベストテンFONT、ニューロダン カバーイラスト:合沢鴨 - 2026年8月19日
読書会主催者の頭のなかshikada趣味で読書会主催者にインタビューしている著者のZINE。四つの読書会主催者に、「始めたきっかけ」「課題本の選び方」「運営上の苦労」「今後の展望」などを尋ねられている。 地方だと読書会の数が少ないので、知り合い以外の会に参加する機会もほとんどない。だからこうして他の会の話を知れるのはとても興味深く思う。 本書に登場するのは主に関東の、それなりに回数を重ねてて参加者もいるような会ではあるが、それでもデカくしたい派の人もいれば、グループ分けするほど人を増やしたくない派の人もいて面白い。 特になるほどなーと思った点。 読書会ってそもそも知らない人にとっては「怪しさ」があるので、逃げ場のないレンタルスペースよりオープンな場所、できればカフェとか公共施設が良いという話。 自己啓発と心理学と哲学はネットワークビジネス系に繋がりやすいのでやらないという主催者さんの話。 課題本の手に入りやすさは参加人数に響くという話。 本文書体:MS P明朝体 表紙デザイン:ぶり - 2026年8月19日
サタンタンゴクラスナホルカイ・ラースロー,早稲田みか読み終わった伝説の七時間映画の原作。映画は観てないけど、本で読むのもまあまあ苦行ではある。何せ改行ゼロののり弁組。ページの随所に散りばめられた蜘蛛も怖い。特にノドにいるやつ。電車とかで読んでたら覗き込んだ人が本当にビビりそうなのでおすすめしない。 秋の終わり、フタキはどこからともなく聞こえてくる鐘の音に目を覚ます。窓の外には不穏な空と枯れ果てた荒地が広がっている。 そこは解体された農場の跡地。行く当てのない夫婦や独り身の医者たちが細々とその日暮らしをしている集落なのだった。 “哀しげに、不穏な空と、イナゴの大群に襲われて無惨に枯れ果てた夏の残骸をぼんやり眺めていると、忽然として、同じ一本のアカシアの枝の上を、春、夏、秋、冬が次々と飛び去っていくのが見えたが、それは、時間とはとどのつまり、永遠という不動の球体における戯れなのであり、山あり谷ありの混沌を魔の直線と偽っては、全体を見渡せる高みを創出して、狂気や不条理を必然に見せかけている、そう直感したからなのかもしれなかった……。”(P11) 初っ端からもうだいぶ挫けそうになってしまうが、粘って読む。 フタキとシュミットは仲間たちと企んで、大金を持ち夜逃げしようとしている。その金はどこから来たのだ…? そんななか、街には死んだはずの「イリミアーシュ」が帰ってきたという目撃談が飛び交い始め——。 そこから章ごとに色々な人物の視点が移り変わってゆくが、誰と彼もがどんよりとした空気の中にいて読むのが辛い。何が起きるのかも分からない。 “ただひたすら待つ、ある時点でふいに真実が浮かび上がってくるまで、それまでただじっと待つことだ”(P126) などと居酒屋の店主は考えるが、果たしてこの作品に「真実」なるものがあるのかどうか…。 読み進めて第五章。ついに癒し枠なのかと思われたエシュティケのパートだったが、全然そんなことはなかった。「知恵おくれ」の厄介者とされ、兄からはいいように搾取されまくっている…。 “梁、「窓」、板切れ、屋根瓦、鎹、塞がれた天井口、どれもが統制が緩んだ命令待ちの軍隊のように、本来の持ち場を離れて浮遊し始め、さながらどの物体も、もはや光も届かぬ湖底の深みにあって、そこでは物体の動きの方向や勢いが、重量によって決定されるがごとくに、軽量のものは段々と遠ざかっていき、重たいものは奇妙なことにゆっくりと接近してきた。”(P153) こんなんどうやって映像化するんだ。気になる。 エシュティケのその純真さゆえに訪れてしまう不幸の数々。間違っても一休みなんかではない。サタンタンゴに癒しを求めてはならない…。あと猫好きは読まない方がいい。 六章で再びフタキとシュミットたちが出てくるあたりまできて、ようやく今起きている出来事の輪郭がぼんやり把握できた感じ。 あらすじにある「救世主」とはフタキにとってのイリミアーシュのことで、イリミアーシュがやってくることで今の出口のない日々に希望がもたらされると信じている。シュミット夫人もイリミアーシュの玉の輿みたいなのを狙ってる。 一方で居酒屋の店主(ヤーノシュ)はイリミアーシュを恐れている。住民たちにとってこの男の見え方はバラバラなのだ。 ただし読者は第二章でイリミアーシュたちの心のうちも読んでいるので、クソ詐欺師みたいな男なのだろうなとは分かっている。どう考えてもろくなことにならない。 ところで六章のタイトル「蜘蛛の戦略Ⅱ (悪魔のおっぱい、悪魔のタンゴ)」。悪魔のおっぱいって何やねんと思っていたら、店主がシュミット夫人を脱がすために気付かれずにストーブをガンガン焚いてる場面があり、そこだけ謎のコントだった。 “その「全体」を一望のもとに目で捉えたいと思ったが、興奮のあまり「細部」の「気も狂いそうになる連続」しか目に入ってこなかった。”(P173) “「人生における大なり小なりの真実」を短文に凝縮して表現する性癖のある店主は、幸せの絶頂で恍惚のうちにある自らに向かってこう問うた。「これがために灯油を節約せんとする男がこの世のどこにいようか」。”(P174) なんかここが一番筆のってない?? あと急に出てきた「校長」もアホだった。 この場の全員シュミット夫人に恋してるけど夫人は本命のイリミアーシュ以外眼中にないという喜劇空間なのである。 そしてついにタイトル回収。不運と踊っちまった的な感じかと思っていたがちゃんとタンゴを踊っている。 予告編で見たパンを両方から食べるシーンもあった。 ケレケシュが一人哀切なメロディを奏でる印象的な場面で第一部が終わり、第二部。なぜか六章から始まり逆行していて読み順に戸惑う。タンゴのステップ進んで戻るということか。 エシュティケの死に沈み込む一堂の前で演説をかますイリミアーシュ。事件の謎を解き明かし、悲嘆に暮れる人々を導こうとするような姿に「あれ?ちょっといいやつ?」と思うも、その流れからぬるっと投資話みたいな方向に持っていき、やはりクソ詐欺師だ。 ハンガリーの歴史を全然知らないので警察の場面やイリミアーシュの目的が理解できていなかったのだけれど、解説を読んでなるほど〜と思った。てっきり文字どおり爆弾テロでもするのかと思ってた。 最後のウロボロスエンドは絶望なのか、はたまた……。 - 2026年8月18日
- 2026年8月16日
青天若林正恭読み終わった弱小チームである総大三校アメフト部の三年、中村昴(アリ)が強豪校、遼西学園の練習を盗撮しにいく場面から始まる第1Q(クォーター?)。 盗撮がバレつつもチームメイトの河瀬が見出した勝利の可能性に向け一同は士気を高めてゆく。 “フィールドに走る試合前の緊張感。ここから約2時間、1ヤードでも、1インチでも、前に進めばいいだけの存在になれる。それはいつも俺の救いだ。”(P63) しかし、遼西の強さは圧倒的で、アリも試合中に「アオテン」させられてしまう。 “アメフトにおいて、仰向けに倒されることはアオテンと呼ばれていて、最も屈辱的な状態だ。チームメイトも、ギャラリーも、敵さえも静まり返っている。”(P67) こうして彼らの戦いは呆気なく終わってしまい、引退したチームメイトたちが受験に向けて切り替える中、アリは大学を目指す気も起きずにいる。 元チームメイトのつながりから不良グループに接近するも、自由でいるようでそのグループ内の決まりに従っている彼らのことを内心ダサいと思っている。こういう捻くれ具合、めっちゃ若林正恭。 あと倫理の先生に色々聞きにいくくだりも若林さんらしいなと思う。実際に大学生の家庭教師つけていろいろ教えてもらっていると対談で話されていたし。 不良グループと一悶着ありボコボコに殴られたアリは、後輩からの声掛けで再び部活に戻り、本来三年は出場しない秋大会を目指すことになる。 “クラスの一軍の人気者とかじゃなくて、元いじめられっ子の復讐でもない。すべてが中途半端。語るべきことが何もない。だから、人にぶつかってないと自分が生きてるかどうかよくわからなくなる。”(P132) この展開の構成、すげえ上手いな。本当に初小説?? 第3Qは特訓編。舞い戻った部活では新キャプテンのチョモこと高山が、チームメイトのモチベーション維持に悩んでいた。アリは言葉で言うより力を見せつけるしかないと諭し、特別メニューの朝練を始める。 うおおお。青春部活ものだー! そしてついに迎えた秋季大会。やはり強豪の池ノ上高校との対戦。中盤まで苦戦し、得点を得ることができず。しかし極限に回想が挟まって覚醒し「1秒後が見える」境地に達するところはあまりにもスポーツ王道もので、胸が熱くなる。 そんなスポ根でありつつもやはり倫理の先生との対話が挿入され、シーシュポスの岩運びみたいな話が出てくるのが面白い。この話、だいぶ國分メソッド入ってるよね? 最初の方に「捻くれ方が好き」みたいなことも思ったけど、改めて考えるとめちゃくちゃ純粋な作品だったなと思う。著者自身が見てきたもの、感じてきたこと、学んできたものがものすごくストレートに込められている。やっぱ芯に熱情があるんだろうなぁ。でなきゃこんな熱い作品書けまいて。 - 2026年7月30日
口笛吹きと音楽の犬大滝瓶太読み終わったまず冒頭から「よ、読める…!」と感動した。前作があまりに数学すぎて読めなかったので…。 元天才ピアニストで、現在は芸大音楽家で作曲を専攻する青年・勅使河原秋。かつてはコンクール荒らしとも呼ばれ正確無比な演奏をしていたが、とあるコンクールで一人の少女の演奏を聴いたことで彼の中の音楽観が狂い始めてしまい、現在は挑戦的な音楽ばかりを作曲している。 そんな彼が先輩の伝手で出会い、コンクール用の伴奏演奏をすることになるのが口笛奏者の柚月春菜。天才しか入れないと言われる大学に口笛で入学した彼女は、まわりから「ほんのり残念な子」と言われるほどの無邪気さを持ち合わせている。 物語は彼らを中心とした音楽コンクールものとして進む…かと思いきや、続いて突然始まるのは、20世紀初頭にスペインで生まれた作曲家、イダ・デ・アンダの物語。パリの芸術家コミュニティとの関わりなど史実と絶妙にリンクした境界の曖昧なフィクションは、前作のギターの話の発展系という感じもする。 そこからは現代と20世紀パリの物語が交互に進んでいくのだが、次第にそれぞれの主要人物が鏡写しのようになっていることが分かってくる。 あまりにも良すぎる耳を持ち、その才能ゆえに苦しむ秋とイダ。そんな彼らの才能を見抜き、飄々としながらも導いてゆく小川先生と「先生」。倍音を持つ口笛を吹く才能を持つ春菜とアンドレス。 時代と国を隔てる彼らの物語は、やがて「口笛のための協奏曲」を通してつながってゆく。 本作に登場するのはさまざまな形の「天才」たちだ。自らの天才性ゆえに苦しむ者。あるいは自身の才能の特異さに全く気付いていない者。賢すぎて自身の生涯を見通してしまう者や、限界を突きつけられる者。 ここまで「天才」について突き詰めて考えるのは作家自身の何かしらの経験があるんじゃないかなぁと勘繰ってしまうが、才能を評価されたことのない人間にはとても想像できない世界の葛藤が描かれるのは読んでて面白い。 ただ、後半に視点があちらこちら移動してそれぞれの天才たちの葛藤が綴られていくのはちょっと詰め込み感もある。春夏秋冬、そして四季の名を持つ人物が出てくるが、それぞれのウェイトにはややばらつきがあった。そして、割と葛藤の質が似ている感じが。冬馬はもう少し掘り下げて欲しかった。 めちゃくちゃ雑にまとめてしまうと、才能を持つがゆえに届かなかった何かとの出会い小説、という感じになるだろうか。 ただ言語化のレベルが違いすぎて、しっかりと受け止められたのは全体の二割ぐらいかも。瓶太さんの作品は読み手の言語能力がものすごく問われる。。 あと、cosmo@暴走Pの名前とポプテピパロディが出てくる小説は初めて読んだし、おそらく今後出てくることもなさそう。 本文書体:リュウミンオールド 装丁:大島依提亜 装画:yasuo-range - 2026年7月27日
彼女のカロート荻世いをら不穏さとモヤモヤを存分に味わえる作品。 一作目「彼女のカロート」。 墓のメンテナンス業を営む「彼」。元々は経営的目論見から始めたその仕事だったが、今では墓地という空間に落ち着きを見出し、やりがいを感じている。 “墓地は今や彼の人生の隠れ家だった。静かで、空気が澄んでいて、何もかもが眠っているけれども一人ぼっちでないという感じ。”(P18) 落ち着いた文体だけどこういう遊び心的なものがあって良き。飄々としてるというか。 「彼」のもとにかかってきた依頼の電話。その主は今まさにニュースで原稿を読んでいるはずの「世利まこと」であった。 「彼」は世利から「自分自身の声以外の音が聞こえなくなってしまった」ことを明かされる。つまり身体的疾患が原因ではないということ。しかしアナウンサーである彼女にとってその事態は致命的である。彼女はそれを一種のスランプと捉え、その解決の手がかりとして墓づくりを依頼してきたのだった。 もうだいぶ色々とメタファーな感じがする。文体はそこまで重くないのだが、やはり「墓地」と無音の世界のイメージとがあって、どこか不穏でもある。ここからどこへ行くのかが全く分からない…。なんとなくこの不穏さの重なり方はファイト・クラブみを感じる。 しかし作品は思ったよりも急に終わりを迎えた。鳴り止まない電話。果てしない廊下。近づいてくるどす黒い雨雲。 “部屋一杯に溢れる静寂が、誰も知らない暗渠を伝って彼女のカロートへと続いているようだった。”(P94) とても単純な解釈を試みるならば、やはり「向こう側」と「こちら側」の話ということになるのだろうか。カロートの静寂とは墓地の静寂であり、つまり死後の世界。最後に「彼」の声が世利に届いてしまうということはつまり、そういうことで……。 いやしかし、なぜだ。なぜ「彼」はそちら側に引き込まれなければならなかったのだ。空虚だからなのか。 二作目「宦官への授業」。 まずなんと読むのか分からなかったので調べたところ、真っ先に出てくる画像があまりに知っているブレッソンの写真で、あの写真って最後の宦官だったんだなというのも初めて知った。 初っ端から書き出しが最高で、 “読めば読むほどに、読んでいる当座の自分が状況から滑っていき、さっきは読めたはずの文字へ破れ目が伝う——無意味が伝染していくのだ。”(P98) という箇所は読めなさについて書いた文章で一番好きかもだった。また99Pの「つまりこの小説は陰茎をめぐる冒険譚である。」という一文で、もうこれは最高におもろいやつだなと思って読み進めた……しかしそんなに甘くないのが純文学。愉快な物語かと思っていたのだが、やはり不穏さが侵食してくるのだった。 年齢国籍不明の「幸福老人」(幸福倫太郎)のもとで世界史の家庭教師を行うことになる「誠」(天生目誠)。そんな幸福老人の元恋人(?)で性別不詳な「環」(宇利=バージェン・環)。ひょんなことから二人は幸福老人の陰茎を探すことになり……。というか幸福老人にしても本当に元宦官なのかが分からないままで、つまりシュレディンガーの陰茎状態のまま有るのか無いのか分からないそれを探すというもう何書いてんのか分かんなくなってきたが。 着地点が全く見えず宙吊りにされる感覚は二作ともに共通で、ネガティヴ・ケイパビリティ的なものを試される作家なのだなと思う。 ありがたいのは千葉雅也さんと江南亜美子さんによる解説。構造やテキストの物質としての面白さといった批評的な読み方の指針を示してくれると「なるほどな〜」と思う。 本文書体:筑紫明朝 装丁:加藤賢策(LABORATORIES) - 2026年7月25日
過去の出来事から自身の未来に悲観的でちょっと擦れてる主人公・誠。高校に入学してすぐ、才色兼備の少女・煌から「ずっと会いたかった」と言われ——。 冒頭からもうラノベ展開全開なのだが、そもそもなぜ本書を読んだかというと課題図書だからである。長岡花火の。 毎年8月2日と3日に開催される長岡まつり大花火大会。ここ3年ほどは配信を毎回鑑賞し、2年前には実際現地にも行ったお気に入り花火大会である。そして本書はそんな長岡花火がモチーフとして取り込まれた作品なのだ。 長岡花火の重要なテーマには復興と祈りがある。空襲やソビエト連行で亡くなった方への追悼として挙げられる「白菊」や新潟中越地震の復興花火「フェニックス」。本書は特にその戦争被害への祈りというところを描いており、端的に言うとタイムスリップものである。似たようなところで言うと「時かけ」とか「あの花」(めんまじゃない方)などがあるが、さすがに主人公が過去に行ってしまうと後者とあまりにも一致してしまうため、戦時中のとある人物が現代にタイムスリップという設定になっている。 個人的には中盤でヒロインの煌の存在がほぼ消えてしまうあたりがちょっと残念ではあるのだが(設定上仕方ないとは言え、最終的にくっつくのであればもう少し関係性の掘り下げが欲しかった。一巻完結のラノベにそれを求めるのも難しいのかもだけど)、長岡花火というローカルなテーマの作品が映画化して全国上映されるのはすごいな〜と思った。もし市民だったら純粋に嬉しいだろう。 本文書体:リュウミン - 2026年7月25日
クマゼミから温暖化を考える沼田英治今年も蝉シーズン真っ盛り。そして間も無くセミ会(※食べる)もある。ちょっとでもセミに親しんでおこうと読んだ。 本書を読めばクマゼミの知識が増えるのはもちろんなのだが、それ以上に大切なメッセージは科学におけるエビデンスの重要さに関する部分だろう。自分のような一般人は「温暖化でクマゼミが増えてるんだってさ〜」と言われたら「へ〜」と納得してしまうが、じゃあ科学的にそれでいいかって言うとそんなわけがない。ちゃんと仮説-実験の証明プロセスが必要になってくるのだ。 本書は構成がものすごく丁寧になっていて、まず温暖化の基本的知識から入る。長期的な地球の温暖化と温室効果ガスによるヒートアイランド現象を区別した上で、何でもかんでも温暖化に結びつけてしまう陰謀論的態度と、逆に温暖化なんて大丈夫という(資本主義的な経済利益が背景にある)楽観論、どちらにも釘を刺す。 次にセミ以外の研究例を紹介しつつ、温暖化と生態系の変化について実証することの難しさを示す(絶滅や分布縮小の研究は本当に難しいらしい)。 そこまでお膳立てしてようやく、第6章からセミ研究の具体的内容に入ってゆくのである。 温暖化によって変動するパラメーター(気温と湿度)を用いてさまざまな実験を行っているが、そもそもセミは生き物なので卵の発生に一年、羽化までに七年という非常に時間と手間がかかる研究対象だ。ものすごい根気がいるだろうなあとひしひしと伝わってくる。 そして最終的にクマゼミが増えた要因(というより、他のセミが減っている要因)が明らかになっていくあたりは読んでいて何らかのカタルシスが感じられるのだった。 - 2026年7月9日
熟柿 (角川書店単行本)佐藤正午読み終わった2008年、嫌われ者の大伯母の葬儀に参加した「わたし」(かおり)は、帰りの夜道で老婆をひき逃げしてしまう。 刑務所内で出産した我が子の将来を案じた夫からは離婚を申し入れられ、「わたし」は一人社会に放り出されるのだった……。 という冒頭からしてもうだいぶ辛い内容だったので、心を確かに持って読もうと思った。 自分の立場を承知しながらも、我が子会いたさに幼稚園や小学校へ向かってしまい警察沙汰を繰り返してしまう「わたし」。そんな彼女を導くのは不思議な縁で、千葉から山梨、岐阜、大阪、そして福岡へと仕事を転々としながら移り住んでゆく。 もちろんその人生は決して平坦なものではない。コロナ禍で旅館業が成り立たなくなってしまったり、隠していた前科が明るみに出て仕事を追われたり、挙句は同居人に大金を盗まれてしまったり…。この畳み掛けるような理不尽さは又吉さんの『生きとるわ』を読んだときのしんどさに近しいものがあった。 それでも最終的に辿り着いた福岡で、彼女の「機」はようやく熟し始める。仕事を斡旋してくれた女性から初めに提示された介護職を選ばずホテルの職に就いたものの、どこかでその選択に疑問を感じてもいる。 “でもわたしは一も二もなくホテルスタッフの職を選び、介護施設の職を一顧だにしなかった。それはとりもなおさず、将来の長期的な展望を捨て、過去に犯した罪、刑務所に入って償ったはずの罪をもうなかったものとして忘れたい一心の、臆病な選択に過ぎなかったのではないか。”(P215) そんな葛藤を抱えているなか、つながってゆく不思議な縁。かおりは自身の過去と向き合い、これからの未来に向けて歩んでゆく決心をする。 “『熟した柿の実が自然に落ちるのを待つように、気長に時機が来るのを待つこと』の語意もあるらしいんだよね、熟柿には。だから、何事によらず僕は長期戦を覚悟で人生を生きているから”(P360) というのは縁が繋いでくれた一人、土居さんの言葉で、この「人生は長期戦」というところに本作の強いメッセージが込められていると思った。 最後に明かされる元夫の告白。そして、ついに息子との対面。「わたし」の人生の再スタートが、ようやく、ここから始まってゆくのだという幕引きに希望があった。 犯してしまった罪、変えられない過去。そういったものを抱えながら、それでも待ち続けることで、何らかの機が熟したり、縁が繋がったりして、人は生きていくことができるのかもしれない。 加害者側の人生を描くという点で万人にお勧めできる作品ではないかもしれない。それでも、あまりに短期的な尺度で断罪されることが多い現代には、こういう物語も必要なのかもしれないと思う。人生は長期戦なのだから。 テーマ的にもかなり純文学寄りなのだけど、この作品が本屋大賞二位に入っているというのはすごく良いな。希望がある。 本文書体:リュウミンオールド ブックデザイン:鈴木成一デザイン室 カバー写真:lingqi xie/Moment/getty images - 2026年7月5日
- 2026年6月15日
芥川賞候補作、仁科斂「丹心(まごころ)」を読みました。 都内某大学建築学科の教授・鹿野川航(ししのかわわたる)とその指導学生でアシスタントの青年・レンは、中国浙江省は寧波市の未完成マンション(爛尾楼)を美術館に設計し直すプロジェクトの発注を受ける。 まもなく子が生まれる予定で中国語の話せない鹿野川に代わって先に現地入りしたレンを待ち受けていたのは、前金を払ったが故に自ら部屋(房子)を作り退去を拒む住人たちや、プロジェクトの発注者であるエリート役人のミスQ、その父で地元の富豪であるQ氏といった面々との探り合いのような駆け引きであった。 読んでいて独特だなーと思ったのはそれぞれの人物の心情。例えば唐突に「レンはミスQに嫉妬する」(P53)みたいなことが書かれるのだが、その感情の由来がなかなか推し量れない。 そんな中でも鹿野川とレンくんの関係は、互いに下に見たりしてる部分もありつつ依存もしているという複雑な感じで面白いなと思った。 ちなみにこの二人は前作「さびしさは一個の廃墟」にも登場、とのことで、そちらを読んでいたら関係性はもう少し分かりやすかったのかな。 “お前たちには歴史也没有、一点的丹心也没有(歴史もない、一点の丹心もない)”(P86) というのは美術館の着工パーティーの趣味悪さ?に怒るQ氏の言葉だが、これはつまり世代とか価値観による「丹心」のズレ、みたいなのが書かれた作品なのかなと思う。 そのずれが最も顕著現れるのが終盤、退去反対派に対して鹿野川が土下座する場面だ。彼としては最大限の誠意を見せているつもりなのだが、中国の人々にとってその光景はただ嫌悪感を抱かせるだけで、結果的にドン引きされたことで場は収まってしまう。(調べたところ中国には土下座文化は基本的に存在せず、何してんのこいつ?みたくなるらしい) たぶんレンくんは理想に燃えてるところがあって、あくまで当初通りの美術館を完成させることに躍起になっている。一方の鹿野川は住人退去の話を知り、建築にコンドミニアムを併設しようとしている。その案は実際美術館よりもリゾートを作りたいQ氏一族にとっても都合が良いので、レンは内心で先生の不理解を嘆いている……というズレがあっての、この土下座。レンくん的にはかなり脱力してしまったというところなのだろう。 そう考えると、レン→教授への矢印の大きさが感じられて、関係性小説として読むのが面白い作品だったかもなと思った。 - 2026年6月13日
群像 2026年 5月号講談社2026年度上半期芥川候補作品に選ばれた小砂川チト「ゾンビ回収婦」を読んだ。 雪山にあるホテルで働く「わたし」。そこでは日夜ゾンビと人間との戦いが繰り広げられ、銃やグレネードランチャーをぶち込まれたゾンビたちが爆発四散する。そんなゾンビたる「あなたたち」の肉片を回収し、ホテルを清潔に保つのが「ゾンビ回収婦」である「わたし」の仕事である。 というのが、一つ目の世界。もう一つの世界において「わたし」は夫とほぼ同時に解雇を言い渡される。AIに仕事を奪われたことに憤る「わたし」をよそに夫はおかしなテンションになり、これからはやりたかったことだけやると言って家を出ていってしまう。残された「わたし」が夫の部屋で見つけたのが、VRのヘッドセットとFPSゲーム『プラグの抜かれた丘』であった。 つまりゾンビ回収の仕事は全てVR空間の話なのだが、「わたし」にとってはもはやこちらの世界のほうがリアルになっている。 “なによりもこの視界は、三十余年わたしの生きてきた主観よりも、ずっと主観的なのだった。わたしはいま生れてはじめて、ちゃんと身体のなかにいるような気がしていた。”(『群像』2026年5月号/ P21) リアルであるはずのほうの現実世界において「わたし」は乖離してしまっている感じなのだが、その原因になっている呪いのようなものが徐々に見えてくる、というのが作品の軸になっている。 作中において、不思議な立場逆転が発生している。そもそもこういうゲームにおいて死体とかのオブジェクトは一定時間で消えたりするのが普通だと思うが、「わたし」の目の前で爆散したゾンビの肉片は消えてゆかない。それは「わたし」が本当の清掃NPCである通称「グッドニュースさん」を殺してNPCの立場になり変わってしまったからだ。ここで、AIに仕事を奪われた人間がAIの仕事を奪うという逆転が発生している。 また「わたし」の物語の合間に現れるミーシカという男も、電子世界を保つために「見えない業務」に取り組み、AIの痛みを取り除こうとする。 彼らの抱える痛みが交差して共鳴するのが、中盤に出てくるカウンセリングの場面。ここを読んで真っ先に連想するのは昨今何かと話題になる「チャッピーにお悩み相談する若者たち」だった。 中盤以降が色々と事態も起こり錯綜していて混乱するのだけれど、「わたし」の抱える傷というのは過度に内面化された能力主義の呪いだと思う。 “急げ、急げ、結果出せ。急げ、急げ、ミスすんな。改善しろ向上しろ発展しろ進歩しろ、死んでもミスすんな、進化しろ。そういってさんざん機械みたいにあくせく働かせておいて、今度は「ミスすることこそ人間固有の愛らしさ」ですって。そういうことになったんですって。”(P50) 子どもの頃から蓄積してきた呪いのような言葉たち。愛情に飢えた「わたし」は傷つきながらもそれらを求めてしまう。 “わたしの生き死ににかんしてなんらかの権限を持った人物が出現するとわたし、そのひとのことで寝ても覚めても頭がいっぱいになって、自分の意思や価値といったもの、すべてまとめて箱に詰めてりぼんまでむすんで相手にみんな、みんなみんな明け渡してしまうのです”(P55) 「わたし」がゾンビ回収の仕事に勤しむのは、認められたく、感謝されたく、褒められたいからなのだ。たとえそれがただのゲームであったとしても、AIにできる仕事であったとしても、「わたし」はそこに安心を見つけ、そこでのみ主体を取り戻すことができる。 作中で登場するゾンビ、「わたし」が「アラスカ」と名付けた個体は他のゾンビとは異なる挙動をする。戦闘が始まると人を襲わずに逃げ隠れする臆病なゾンビ。彼はその初語(初期値)として「ᐃᓄᒃᑎᑐᑦ(イヌクティトゥット=人間らしく)」を与えられた存在だった。 AIが人間に代わって仕事をする時代。仕事を失った人間は何をすればよいのか。(早々に振り切った「夫」のような人間もいる一方で、「わたし」のようにアイデンティティ喪失してしまう人間もいるだろう) 果たして「人間らしさ」とは何なのか。そこを問うている作品だと思う。 余談だがバーチャル世界から帰れないとか開発者の孤独が世界に溶け込んでゆくあたりの構造は、コナン映画のベイカー街を連想した。 続いて掲載の舞城王太郎「ベルゼバビブベボ」は逆方向に向かうような話で、この二作が並んでいるのは面白いなと思った。 - 2026年6月9日
春 (新潮クレスト・ブックス)アリ・スミス秋に『秋』を読み始め、季節ごとに一冊読んできて、ようやく3冊目。もう春ではないけども……。 いきなりネトウヨのバリバリ排外主義言説から始まったかと思いきや、それに呼応するような泰然とした自然の声が書かれる。この印象的な対比の謎は中盤で明かされてゆく。 今作の主要な登場人物は三人。信頼できる仕事上のパートナーである脚本家のパディーを亡くし、失意に沈む映像監督リチャード。 「入国者退去センター(IRC)」で働きながら、収容される移民たちの置かれた環境などから目を背けているブリット。 そんなIRCに突然現れた少女フローレンスは、なぜかセキュリティを自然に抜けて所長の元へ辿り着き収容所の環境を改善させたり、駅や旅では金銭を要求されることなくやりすごされる。 そこに駅前でコーヒーを売らない不思議なコーヒートラックを営む女性アルダが加わり、一行の不思議な旅が始まる。 読んでいていちばん意外に思ったのはイギリスが抱える民族問題の根深さ。なんとなく連合王国ということは知っていつつも、イングランドとスコットランドの間でもそこまで対立みたいなものがあるのだな、と驚く。 “イングランド国内では、よその言語を許してはならない。 いや、イギリス(ブリテン)だ。スコットランド、ウェールズ、北アイルランドを含むイギリスの中では。”(P312) おそらくここで言われているのはゲール語なのだと思うが、ブリットは同僚の喋るスコットランドの古詩に対して「その言葉を聴いているだけで、なぜか腹が立った。ほとんど泣きたい気分にまでなった」(P311)とまで思わせるその理由は何なのだろう。 “二月。最初の蜜蜂が窓のガラスにぶつかる。凛とした寒さの中、光が押し返し始める。”(P110) こういう詩的な描写を読んでいるだけでも心地よいのがアリ・スミス作品の良いところ。 解説を読んでいて、連作全てに出てくるダニエルの存在を思い出した。シーズンごとに読んでるともう前作の内容を全く覚えてない…。ダニエルはたぶんアンディ・ホフヌング氏だろう。 リルケとマンスフィールドの話はほとんど拾えなかった。またいつか再読すれば理解できるだろうか。とりあえずは『マンスフィールド短編集』を読んでから。 次回の『夏』はこれまでの主要人物集合回らしいので楽しみ。それまで覚えてられたら良いのだが…。 本文書体:精興社書体 装画:水沢そら 装幀:新潮社装幀室
読み込み中...
