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あんどん書房
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@andn
まとまりのない私的な感想をダラダラと書くのが好きです(長ければ長いほどいいと思っていがち)。買い速度に読み速度が明らか伴ってないのに借り本まであって大変です。
  • 2026年5月29日
    三重の碑百選
    三重の碑百選
    バクザン先生を読んで、ちょっと石碑なんかを見てみるのも楽しそうだなぁと思ったので。前の持ち主が俳句を推敲したような紙が挟まっており、あまりに「らしい」な〜と。
  • 2026年5月28日
    読書スタディーズ
    読書記録からして一目瞭然なように私は超ミーハー読者でありSNSや読書会で紹介された本ばかり読んでいる人間なのだけれど、そんな自分に甘そうなことが書いてありそうなので買っちゃった。 明石書店なので諸々しっかりしてそう。
  • 2026年5月24日
    グレタ・ニンプ
    主人公は大手企業で働く40代ぐらいのサラリーマン。妻と四年ぐらい不妊治療をしてきたけれどなかなか子に恵まれず、主人公はそこから目を背けるように出世を目指しているという日々。 しかし、ある日帰宅すると、それまでセミロングでおしとやかな女性だった妻が突然紫のバズカットでファッションセンスが厨二っぽくて口調が悟空という謎に濃いキャラになっていた! 前作との温度差! 何がすごいかってフォントで遊びまくってるところ。もう勢いがすべて。 こういう遊び、ラノベとかでは見たことあるけど、ハードカバーの単行本でやられるとインパクトがすごい。柱の部分に思いっきり被ってる。印刷所さん大変そう… ちなみにグレタというと活動家の方を思い浮かべるとおもうんですけど、実際そこに掛かってもいてご本人の名前も普通に出てくる。 妻は変貌してからそれまでやってなかったデモなどに参加するようになるが、主人公は最初そういう妻に対して元に戻って欲しいと思っている。けれども、だんだんと今のスタイルを受け入れられるようになっていくというのが話の大筋。 このフォント芸とか勢いも、「不妊治療とか妊娠とか子育ての大変さ、男はこんぐらいやらんと分からへんやろ!!」みたいなところがあると思う。 なので、二本目のバレンタイン恋愛心理戦みたいな短編に関してはやらなくて良かった気もする…。 本文書体:筑紫明朝、バサころ 、A1明朝、リュウミンオールド、秀英明朝、アンチックAN+、新丸ゴエンボス、ランパート、ドットゴシック16、A1ゴシック、みちくさ、ひげ文字、ぽってり、教科書ICA、白のアリス、ららぽっぷ、秀英5号 装画:NAKAKI PANTZ 装丁:佐藤亜沙美
  • 2026年5月21日
    文学フリマ物語
    文学フリマ物語
    著者はなんと第一回の文フリに出られている方。共同通信ということで、かなりしっかりした内容になっていそう。 何よりこのコピーが良い。「私であること。/他の誰でもないこと。/他者にそのことを示すこと——。」 作ることの意味が自分の中で迷子になっている今、直感的に読んだ方が良さそうだと思って買いました。
  • 2026年5月21日
    書百話
    書百話
    以前に読書会で紹介されており、そういえば持ってたなと積読から引っ張り出した。莫山先生のこと全く存じていなかったのだが、関西弁混じりの軽妙な語り口が良い。 読み進めるにつれて、文章のリズムの良さが、だんだん体に入ってくる。 “見ようによっては朴訥。眺めようによっては気随気儘。考えようによっては奇妙奇怪。雲南の書き手も彫り手も、こりゃかなりの気分屋さんであった、と思う。”(P27) 漢語を重ねてリズムを作り、最後は読点で柔らかく着地させる。良いなぁ。なんかこれ自体が筆で字を書く動きを感じさせる文章。…うまいこと言い過ぎ? 他にも張猛龍碑の「筆のうごきにほろにがい安らぎがある」(P35)とか月斗の「その気性と気品を文字に坐らせて、くったくのない気分をふりまいて、たのしませてくれる」(P59)とか。表現が素敵だ。 莫山先生はただ整っただけのキャラクターがない書には当然興味がないようで(時に「目の毒」とまで書いている)、紹介されるのはどれも個性的。 “こういう凄い字というのは、意味もからめて見ているだけで身ぶるいがする。電線が風に鳴っているような音も感じる。”(P117) とは良寛の般若心経評。書から音が聞こえる境地。 四章は「野の書」ということで、莫山先生がその辺で見つけてきた名もなき人々の文字が集まっている。ここがなんか無言版アートみたいで良いなと思ったのだった。 そんな章の中に「唐箕の栄光」という一編があり、そういえばこれ昔うちにあったわ〜と懐かしむ。ハンドルを手回しして籾殻と米をより分ける農機具。そんな使い道なんて知らずにただぐるぐる回して遊んでいた記憶。 第五章は「雑抄」ということでいわゆる「書」以外の文字についての話もいろいろ収録されているのだが、そんななかに「毎日新聞」ロゴの話も出てきて面白い。そもそも毎日の連載だからだろうが。 “活字体といっても、元をただせば人間の手がかいた文字である。この“毎日新聞”の字も、デザイナーが苦心してかきあげたにちがいない。”(P222) 当たり前のようにフォントを選べる現代ではついつい忘れてしまうが、大切なことだなと思う。 自分は字が下手すぎて、字への興味を全く持たないまま生きてきてしまった。美術館で署を見かけても「どう見ればいいの…?」と。 しかし本書を読んでいくなかで、今まで目に入らなかった石碑の文字がちょっと気になるようになってきた。これは冷たいかな、温かいかな、莫山先生ならどう見るだろう。 まさに解説で外山先生が仰るように、「この本を読む前と読んだ後では、同じ人間でないことに気づく」(P283)ということなのだ。 ちょうど今月末までやっている莫山展、絶対に行かなきゃな。
  • 2026年5月21日
    温州ミカン今昔物語
  • 2026年5月19日
    成瀬は都を駆け抜ける
    成瀬シリーズもついに完結ということで寂しさはあるけれど、このスタイルだと無限に続けられるので、区切りとしてちゃんと締めてくれて安心もした。 突然の森見登美彦パロディというかもはや二次創作レベルの愛溢れる展開にはニンマリ。 そして、成瀬あかり史を見届けるのはやはりこの人、というこれ以外考えられないラストに読後感も爽快でした。 アニメ化待ってます。
  • 2026年5月19日
    探偵小石は恋しない
    本屋大賞ノミネート作では一番気になっていた作品。 他人の恋愛感情が見える探偵・小石と同僚の蓮杖が、主に不倫調査の依頼を解決する中で段々不穏な何かに巻き込まれてゆき……という展開。 三章ぐらいまでは個別の依頼調査が中心で全体が見えてこないのだけれど、四章からその背後に隠れた大きな何かが過去と絡まり合いつつ明るみに出てきて盛り上がる。「お〜」と「いやいやいや」が交互に来て面白い。 偏見に対して偏見返しするところの伏線回収は素晴らしい。「逆ソクラテス」みもある。三人とばっちりすぎるけど。 最終的に全てがタイトル通り恋愛問題に決着しているのだが、どの恋もおかしな方向に重かったり一方的なのがギャグだった。そんな中でのあのラストは、まあそうなるわなという感じ。読者の求めているものがちゃんと提示されており、まさにエンタメ。 みんな思ってると思うが、表紙イラストはちょっとAdoすぎない? 本文書体:リュウミンオールド 装画:はむメロン 装丁:坂野公一(welle design)
  • 2026年5月19日
  • 2026年5月18日
    いらっしゃいませ、今から授業を始めます。
    推しを、語らせてください。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ブタコヤブックス店主/小学校非常勤講師・船張真太郎(さん)。私はこの人物こそ「今もっとも面白いエッセイの書き手」だと、割と真剣に思っている。 【本書のここがすごい①】 「ユーモアが炸裂している」 古民家の天井ぶち抜きでハムナプトラ状態になったり、百貨店で教卓を買ってフロアを疾走したり。それ自体はまあそういうこともあるよなぁという場面場面なのだが(あるか?)、それをオモロく文章に落とし込むセンスが天才。改行をうまく使ってタメを出してからのバーン!な出し方も素晴らしい。好き。  個人的に昨今の「面白い文章」ってネット的なものに偏りすぎている節があると思っている。スラングを上手く使えるとか、捻くれた大喜利ができるとか。それはそれで面白いのだが、船張さんのユーモアはもっとなんというかこう、小学生でも理解できて笑えるタイプなのだろう。絶対授業中に何箇所かお笑いポイントを仕込んでくるタイプの先生だもん。  そして、そういうハイコンテクストじゃない、プリミティブな笑い(?)は疲れた大人にも効く。効き目抜群サロンパス。書いてて引っ張られていくのがもう好き。 【本書のここがすごい②】 「教え子じゃないのに「先生…!」という気持ちになる」 毎回書いているけれど、ユーモアと真面目さのバランス感覚が非常に良い。そして、真面目なパートが心にすっと入ってくる。  たとえば、祖母の葬儀で叔父と会ったことについて書いた「別れ 2025.9.15(月)」のこんな一文がとても素敵だ。 “久しぶりに会った叔父とは、亡くなった祖母を通じての関係が強かったので、もう会うことはできないのかもしれないと思ってしまったが、私が本屋という場を開いたことで、「またお会いしましょう」という最後の挨拶の言葉が社交辞令ではなく、きちんと温度をもつ言葉に変わったのが嬉しかった。”(P86-87) 一文としては長いこの箇所も、読点で繋げてことばを探りながら書かれた丁寧さみたいなものが伺える。そこが圧倒的に信頼できるのだよなあ。 そして、苦労話的な内容であっても決して苦労話で終わらせない配慮。これも私の勝手なイメージかもしれないが、エッセイや日記には自分の内面を鋭く抉り出して書き、「共感」で読まれることを求めるような文章も多くある。個人的にそういう色の文章は疲れている時になかなか読めないので、ここの安定感というか、ちゃんと線引きがなされている感じはとても安心して読めるのだ。 【本書のここがすごい③】 「ご婦人から見た店主の日記が収録されている」 改行前後の多忙な時期の店主を観察した「本屋開業中年男性観察日記」「本屋営業中年男性観察日記」が合間合間に掲載されている。この淡々と観察してるトーンが箸休め的な感じでとても良い。一方で皿洗いをサボった時には「イラっとした」なども包み隠さず書かれていて、それをそのまま掲載できるというところに、お互い信頼しあっているような関係性の良さが伺えて尊い。仕入れ本の中に欲しい本があって買い取っていたりする下が超ほっこり。 ということで、自分にとってとにかく安心して読めるのが船張さんのエッセイだ。この良さはもっともっと広まって欲しい。ぜひ商業出版や原稿執筆などもじゃんじゃん舞い込んで、第一線で活躍して欲しい。もちろん、本業が大変になりすぎない範囲で。 草葉の陰から応援しています。 本文書体:ヒラギノ明朝体 表紙・裏表紙イラスト:むつみ・せいのすけ 印刷:ちょ古っ都製本工房
  • 2026年5月14日
    中世モンスターのはなし
    中世モンスターのはなし
    妖怪っぽいやつもたくさん出てきて、国や文化が違えど怪異的存在への想像力は似たような部分が多いのだなぁと思った。 鯨に上陸して上で火を起こすと潜って人を道連れにするから悪しきモンスター扱いされてるというのは、普通に鯨がかわいそすぎる。。 アレクサンドロス大王がグリフォンで飛ぶ絵があまりにもシュールすぎる。馬に人参ぶら下げる理論と同じかい。
  • 2026年5月5日
    本の雑誌514号2026年4月号
    特集は日記。昨年も四月号はエッセイだったし、年度はじめはなにかこういうムーヴメントを追う感じなのかしら。 この特集なので巻頭本棚グラビアには日記屋月日。古本のラインナップを見ていると、昨今の日記ブーム以前の日記本は文士や学者のしっかりした本が多いんだなぁと分かる。市井の人の日記がここまでブームになるとは誰も思わなかったのではないだろうか。 特集で面白いのが植本一子さんと古賀及子さんの対談「書けないことは書いてない!」。感情を全面に出す植本さんと、あえて感想的なことは書かないようにしているという古賀さん。異なるタイプのお二人だから面白い。 “あまり自分の感想を信頼してないんですよね。感情というか、思いみたいなものを信用してない。だから周りのものを見て、その何を取捨するかみたいなところにすごく信頼を置いている感じですかね”(P37) 古賀さんが感想禁止にしているというのをはじめて知ったが、言われてみれば確かに古賀さんの日記は描写の比率が高い。 一方の植本さんも年齢を重ねて落ち着いてき、古賀さん的な方向に向かいつつあると話されており、そういう変化はあるんだなぁと思った。 「自分の感情には興味がないけど、自分の周りのことには興味がある」っていうのはもう完全に自分と逆で、そっちのほうが読んでて気持ち良いし面白いからそうなりたいと思うんだけど、まだ自意識がダメだな〜。果たして不惑になれるのか。 インタビューではセルフケア的な文脈を求められるが、本当は何も出力しないでいられる状態がベストなのでは…という植本さんの話は、感覚的にすごくその通りだなと思う。健全で満たされていれば創作なんていらないみたいな話に近いかもしれない。 藤岡みなみ「3つの言語で書く3年連用日記の実験」。三年日記を英語→中国語→日本語で書いてみるという。言語を切り替えることを「コード・スイッチング」、文化の価値観を切り替えることを「カルチュラル・スイッチング」というらしい。言語を変えると人格もちょっと変わるというのはよくあるけれど、自分はなぜかそこがちょっと怖かったりする。演じることの怖さみたいな感じかも? 永江朗「日記で日本の歴史を振り返る!」は平安から令和までの日記文学を概観。勉強になる。 “独立系書店という言葉がまだ使われず、個性派書店などと呼ばれていたころ、そうした店にはたいてい武田百合子の『富士日記』(中公文庫)があった”(P58) 昔からそういう層に愛読されていたんだなあ。 とりあえず林芙美子と武田百合子は早いうちに読まなきゃなと思う。 「新刊めくったガイド」ではネッテルの『一人娘』、こだま『けんちゃん』、久永実木彦『雨音』などなど最近の読書会で紹介されていた本がたくさん出てきており、参加者みんな本の雑誌読んでる…? 感度が高い人が多いのだろう。 表紙イラスト:沢野ひとし 表紙デザイン:クラフト・エヴィング商會 本文書体:游明朝体
  • 2026年4月26日
    スマホ片手に文学入門
    日頃あまりにも雰囲気で呼んでいるため、もう少しじっくり読めるようになりたいなと思う。 まずは芥川の短編「ピアノ」が全文掲載され、それを一文一文チェックしてゆく流れ。「藜」とか普通に読んでたら絶対調べないだろうな〜。 冒頭、震災の影響が残る山手で、秋雨に打たれる廃墟の描写。ここでかなり「暗」のイメージを描いた後で、「雨は幸ひにも上がってゐた。おまけに月も風立つた空に時々光を洩らしてゐた」の一文が来る。これは暗から明への転換と言えるのだが、しかし「月」には(竹取物語など古典に見られるように)不穏なイメージもある。ゆえに読み手は完全には安心しきれずに読み進めることになる…… というような、読み手が受け取る細かい印象について非常に細かく検討している。自分一人だったらこういう読み方は絶対にできないなと思う。 「桜の樹の下には」についても「あ〜、なんか生と死みたいな感じね」ぐらいの理解だったが、「水晶のような液」という表現がその醜と美との間の媒介者である、というような読みをされていて、なるほどねぇと思った。普通に読んだらただの露悪趣味にしか思えない汗が精液だのなんだの比喩も、生殖=花の美と気持ち悪さ両方を併せ持つ媒介的な性質を持つと読めるのではないか、と。こういう視点で読めると楽しめるタイプの作品だったんだな。 “よくわからない——けれども、何かしら魅力を感じてしまうような文章に出会った際には、まず、文章中から読み取れる〈対比〉の関係を探し出してみる。” (P160) 多分読みながら同時に考えるのは無理なので、やはり再読が大切なのだろう。 「やまなし」の章では最初に「幻燈」について、今でこそノスタルジックなイメージをしてしまうが、当時的にはまあまあ普通の教育的な装置だったはず(よって「やまなし」自体が何らかの教育的意図を持つのでは)という指摘があり、言われてみれば…と思った。時代性を踏まえて読むことがいかに難しいか。。 そして、この冒頭と最後の2文については更に深読みが試みられている。はじめの「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。」という文には主語がない一方で、最後の一文では「私の幻燈はこれでおしまいであります。」と、主語が「私」であることが明示されている。物語全体を〈認識の深化〉というコードで読み解くと、冒頭の一文ではまず「幻燈」を見せられる子どもたちを物語世界へと包摂した上で、最終的には「でもこれはあくまで私の幻燈ですよ」と世界から切断するのである。 ……ついつい「宮沢賢治、そこまで考えてるの…?」と思ってしまう。の、だが、小池さんはその考え方は危ういと警鐘を鳴らす。 “作者というのは、ただでさえ、読者に対して特権的な立ち位置にいるのです。そこに、作者還元主義的な読みの制度が絶対化されてしまったなら、〈上—作者/下—読者〉という権威主義的な位階が固定されてしまうことになります。” (P266-67) これはロラン・バルトのテクスト論を踏まえた見解らしい。その辺の小難しいことはよく分からないけれど、作者が絶対視されてしまうのは「著者の気持ちを考えよ」とか言いがちな国語教育が悪いんじゃないかな〜と思う。 ちょっとでも突飛な読みを試みると「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」みたいなミームが飛んでくるSNS社会、多様で開かれた解釈の大切さを痛感する。 本文書体:筑紫明朝、こぶりなゴシック、秀英丸ゴシック イラスト:usi 装幀・デザイン:室田潤(細山田デザイン事務所)
  • 2026年4月23日
    ほんとうのことを書く練習
    だらだらと長く書くことが「ほんとう」なのではないかと思っている節があるかもしれない…。 “自分は何を感じているのか、何を考えているのか。/何を問うていて、何を知りたくて、何に惹かれているのか[…]/つまり、世界に触れている自分自信を感じること。そこで得た言葉こそが「ほんとうのこと」だ。”(P10) 個人的にはこの感覚は違和感が起点になるのではないかと思う。つまり「これはほんとうのことだ」というより、「これはほんとうのことではないのではないか?」と。「本質」とか言っちゃうと急に胡散臭くなるが、なんとなくそういう。 ただ、他人がそういう指摘をしてきた場合は十中八九悪質なので、やはり「私」にとってという部分が一番大事なのだと思う。 “「ほんとうのことを書く」とは、「私を知っていく」ことだ。”(同前) 序章『私たちはなぜ「ほんとうのこと」が書けないのか』では、とある新聞記者による「個性は消して、消して、消しなさい」(P27)という言葉が紹介されている。個性を出そうとしたり、他者の目線を気にしすぎた文章は「化粧くさい」文章だ、と土門さんも書かれていて、これは非常に耳の痛い指摘。 こういう話はついつい禅を引っ張り出したくなってしまうが、他者を気にし過ぎることもまた我執であるという…。 そしてそんな我執を引き出してしまうのが、自己愛である。 “自分に愛されていないから、代わりに誰かに愛されたい。そんな自意識に包まれている。”(P50) あーーー。結局もう、そこなんだよなぁ。怖さを克服して自分と向き合うことができないと、囚われてしまう。 自分が感じている「ほんとうでない」という感覚(物欲とか、コミュニケーションの癖とか、その他諸々)の根底は自傷的な自己愛だ。 「誰にも読ませない文章」としての日記の必要性。自分もこの2年ぐらい、こうしてスマホのメモに書いたものをブログに貼り付けたり冊子にしたりということばかり気を取られてしまい、それまで付けていた「何でもノート」をさっぱり書かなくなってしまった。 投稿が読まれることをそれほど意識しておらずとも、絶対に自分しか読まない何かを書くこともやはり必要なのではないかと読んでいて思う。内容がどうというより、自意識に邪魔されずに書くために。読まれる(かもしれない)からという方にモチベーションの比重が偏ってしまうと、プライベートなものを維持するのが大変難しくなる。SNSのせいで退屈に耐えられなくなるのと似たようなもんだと思う。 “自分だけは、何を言っても否定しない、拒まない、受け止めてくれるんだと実感すること。つまり、自分を受容すること、愛すること。”(P120) 自分がよくやりがちなパターンとして「何でも自虐で終わらせがち」のがあるけれど、それもまあ自意識臭い文章だわなと思う。 第3章は本書の核心部であり、ほんとうのことを書くために必要な「生きる」ことと「考える」こと、という二つの柱が紹介される。 「生きる」とは他者(自己の外部)との関わりであり、「考える」とは自己との対話である。さらっと読むと「経験が大切」「引きこもっていては文章は書けない」みたいな話に思えてしまうが、おそらくここで言われていることはもう少し奥行きがあって、「他者」をきちんと「他者」として受け止めることができるか、みたいなことが問われている気がする。 そう感ずるのは、出不精だし無気力で一日を惰眠とアニメとたまに積読解消で潰してしまう自分を嫌になっちゃいつつも、経験に貴賎なしとも思いたいからである。そりゃ海外とかじゃんじゃん行ってさ、人脈広げてチャレンジして起業して投資して…みたいな経験があったら、それはすごいと思うよ。でも無理じゃん。文化格差があるじゃん。というか資本主義の奴隷じゃん。 まあそんな極端な話にせずとも、寝たり本を読んだりしてるだけだってそこに「他者」を見出して何らかの回路を開くことができれば、「生きる」ことに繋げられるのではないか…と思うわけですよ。 だから「今日は一日中何もできず、寝てるだけだった」止まりじゃなくて、そこからさらに問いを重ねて展開させてゆくことが必要なんだなぁ。 ……ということはすでに第2章に書かれていて(“自分に興味を持ち続け、問い続け、答え続けること。その一連の活動が「書く」ことだ。”(P99))、読むことと理解し納得することの間にある大きな壁をあらためて体感するのであった。 先に出てきた「生きる」と「考える」のバランスについて第4章では、 “前者だけでは社交になり、後者だけでは内省になる”(P185) とも書かれており、自分は後者に偏りがちなんだな〜と思う。養老孟司さんの「情報化」の話を読んでも思うのは、「生きる」(≒「情報化」≒外部のものごとを自分なりに表現する)ためのレッスンとして乗代さんの写生文トレーニングはやはり有効なのではないか、と。 ぶっちゃけ情景や他人が丁寧に描写されたほうが文章は面白く、どれだけ自分の思考や内省を開陳しても、その回路が違う人には響かない。周りをちゃんと書くことが読み手への配慮にもなるということだ。 あと、その時々で自分にとっての「ほんとう」は変わる(変わっても良い)ということも大切かもしれない。 本文書体:リュウミンオールド ブックデザイン:水戸部功
  • 2026年4月17日
    本の雑誌513号2026年3月号
    特集は異世界転生。この絶妙に読者層と被ってなさげな特集をやるのが良い。 初っ端からKADOKAWAのコンテンツ部門の元専務という適任すぎる方が書かれている。西洋型古典ファンタジーと転生ものが異なるのは「赴いた先の異世界で成長し、現実世界に帰還することを、主人公が望んでいるか否か」(P12)という部分が大きいらしい。確かに、帰らないんだと思ったことはあるなぁ。あとは下地となるRPGゲームの文脈が共有されているということ。こちらに関してはRPGを通ってこなかった人間なので、むしろ異世界アニメでその文脈を学んでいるところがある。 昨今の傾向としては女性読者が増えたり電書や「新文芸」など刊行形態の多様化でスローライフ系の支持が拡大しているという。個人的にはネタが尽きないのかが気になるところだが。。 「異世界書店員対談」は異世界系の元祖・高千穂遙『異世界の勇士』の話から始まり棚づくりの困難まで。なろう系という括りになっているのはそういう理由が…。 ライトノベルとか新文芸は昔の時代小説的なポジションにあるのではという指摘になるほどなぁ〜と思った。 あと、コミックはもう電子書籍の割合が大きくなっちゃってる一方で、なろう系小説は紙の方が売れるというのが面白い。なぜならもともとWEBで読めるから。確かにそりゃそうだわ。だからシェアが削られるんじゃなくてむしろWEB+紙で増えていると。推し活需要があるのだって。まあ自分も追ってるウェブ連載とかが紙になったら普通に買うか。 出版社がもう作家をゼロから育てる体力がないというのも大きいだろう。すでに出来上がってる才能を掘り起こせば良いのだから。 読者アンケートの行ってみたい異世界が絶妙に年齢層高めなのもご愛嬌。 特集全体から分かったのは… ・転生と転移は違う ・現実に疲れてて、フィクションに癒しを求めがち(スローライフ系) ・異世界系の中でもジャンルがめちゃくちゃ多様である ・本当はリアルif戦記ものが描きたいが今の時代それでは売れないので、あえて異世界をかます…とかもあるらしい ・新文芸は大人も読めるラノベみたいな受け皿として提唱されたジャンル ・そもそもネットで読める小説なので、電子書籍より紙の本が売れる(推し活として) 記憶が間違ってなければひと昔前は「なろう系(笑)」みたいに下に見られてたWEB小説が、いまや出版・コンテンツ産業に欠かせない存在となっているのはすごい。シーンが成熟するとはこういうことなんだなぁ。異世界にしないと売れないから…というのはちょっとあれだけど。。 なお個人的に最近では「スライム倒して300年(略)」が無心で観られて良かった。やっぱ心が死んでるときはスローライフ求めるわ。「本好きの下剋上」は(最近OPのAI問題とかもあったけれど)そのうち観なきゃなあと思っております。
  • 2026年4月16日
    随風(03)
    随風(03)
    まずは恒例、宮崎さんによる恒例の巻頭随筆批評。随筆が文学たるには何が必要か。それは「不確かさ」なのではないか、というお話。個人的には物語化しすぎない倫理みたいなところと繋げて理解したくなる話だ。 ただ、じゃあ脈略なく自動筆記みたいなことをすればいいというわけでもなく、そこのバランス感覚は難しそうだなぁと思う。 ここから随筆特集、テーマは「学び」。 碇雪恵「無駄だったなんて言いたくないが」は習い事が続かない話。習い事って強制力みたいなのが合う人もいれば合わない人もいるよなぁと思う。自分も習字とかやらされてたけど今も死ぬほど字が下手なので、タメになったとはあまり言えない。 海猫沢めろん「無気力の教え」は中学時代の「無気力」とその転換点について。 “中学生の頃の自分は、勉強もしない、部活もサボる。[…]ただ食事をエネルギーに変換して排泄するだけの、制服を着た肉塊だった。学校の試験はほとんどが0点。”(P21) 自分の高校時代もほぼこれ。起きて、ニコ動見て、日が暮れて寝る…みたいな。 最終的に無気力を否定せずに、それでもなんとかやっていく術を身につけている海猫さんはすごい。 オルタナ旧市街「グレート・サンドイッチの技法」。起承転結のまとまった上手い随筆。しかし最後にまさかの転というか急がきてうおお…という読後感になる。 “時間とはどこまでも平らかで、夕暮れはいつどんな国にいようとものっぺりと同じ顔をしてやってくる。”(P27) 子どもの頃の夕方の孤独感、身に覚えがある。親が帰ってくるよう神棚とかに祈っていた。 鯨庭「頭の中で椅子に座る」。正面から「学び」というテーマに向き合われている。知人の言葉がとても良い。テストで測れない学び、知性。大人になる程そういうものが大切になってゆくのだろうな。 くどうれいん「お土産の学び」。ついにくどうさんも執筆陣に。くどうさんのエッセイはとにかく楽しいものとドキッとするものとがあるが、こちらはとにかく楽しい方。あれもこれもとお土産を買いまくるバタバタ感と家族旅行のほっこり感。そして綺麗にまとまりそうなところで…という結びも非常にくどうさんらしく素晴らしい。 佐川恭一「暗記について」。でもやっぱり暗記も大切だよね、という守破離的な話。 暗記が何となく軽くみられるのは、それこそ「とにかく詰め込め」みたいな根性論のイメージがあるからだと思う。だからどちらにしろ覚えなければならないのであれば「どう覚えるのが自分に合っているのか」を考えるのが大切なのではないかなあ。自分の場合はとにかくまず楽しめるところだけ享受しまくり、でもやっぱり基礎がないとダメだと気付いたタイミングでやるという非効率すぎる方法をとりがち。最初にモチベを上げられるだけ上げとかないと続かないから…。 佐藤舞「廃車にしてから廃車に行った」。冒頭からもう痛い…。何度も同じ場所に頭をぶつけるとかはやりがちだけど、さすがにこれは繰り返したらまずそうだ。たぶんこういうのって不注意とかより身体感覚的な問題ではないかと思ったりする。自分の体の感覚がどこか掴めていない。たぶん合気道とかやると良いのかもなぁと何となく思っている。根拠はないが。 惣田大海水「北極星」。日記ZINE「死ななくてよくなった後の日日」が話題になっていた方。過去を振り返りつつも重くなり過ぎない、バランス感のある文章を書く方だなぁと思う。 “ここではないどこかに、自分の居場所があるという幻想に身を浸す嗜癖だけが内在していると、理解できる歳になっていた”(P47) 若者特有のあの感覚が見事に言語化されており、すごい。これもまた不惑ということか。早くこれになりたい。 友田とん「アドバイスは生きる」。実は友田さんの文章をちゃんと読んだことがあまりないのだが、思ってたより軽さを前面に出されてはいないのだなと感じる。一方で視点の鋭さは想像通りで、そういうところをちゃんと見て考えられているからこそ、あの作品たちを世に出せるのだろうなと。何かを見て、そこからの思考の広げ方が理系的なのかも。少なくとも感覚的な広げ方ではない気がする。 生湯葉シホ「12分」。他者とのコミュニケーションについての学びの話といえるか。自分もそういうのが苦手で、特に「自分が人から見たらどう見えるか」を考えるとものすごく苦しくなる時がある。 “私は笑い、いや、笑うようなことじゃなかったらどうしようとすこし遅れて思う。”(P56) これがもうめちゃくちゃ分かる。何かしら反応しないと!とついフフンみたいな笑いを入れ、「鼻で笑った?」とか言われてしまったり。あああああ 船張真太郎「揺れっぱなしの腹と心」。船張さんはZINEフェスで書店開業日記ZINEを買ったときから「絶対この方は来る…!」と思っていたので、エッセイ界隈を躍進されているのを見るとついつい後方腕組読者顔ムーブをしたくなってしまう。 船張さんのすごいのがノリのコントロールだと思う。今回まさにそういう話を書かれているのだけど、処世術として身につけたお笑い感覚を持ちながらも、コンプライアンスへの目配せも忘れない。読んでいて計り知れない安心感がある。これはベテラン教師としての経験も大きいのかもしれない。 “身体の大きいお笑い芸人から余計な処世術を学ばずとも、誰もがのびのびと暮らせる世の中の方がいい。”(P190) 先生〜〜!!! 教員による不祥事なども見聞きする昨今、こんな先生がもっと増えてほしい。 まつさか ゆう「優しい誰か」。「優しさ」とは何か、という難しすぎる問い。誰かに対して優しいねと声をかけることが、その人にとって呪いとなってしまうこともあるのだと、気付かされる。(「まじめ」とかもそうだ) 積読にある戸谷浩志『生きることは頼ること』を読んだほうが良いかもしれない。 特集はここまで。次に新たな試みとして紀行文が始まっている。扉ページを見てようやく表紙画が日の出か日没の海だということに気付く。色的には日の出っぽいかな。 早乙女ぐりこ「尾道因島放浪記」は林芙美子の足跡をたどりつつ尾道をめぐる。自分も5年前に行ってるんだけど、当時は文学全く読んでいないマンだったため林芙美子のはの字も知らなかった気がする。5年あれば人は多少本を読む人間になれるのだ。まあ、林芙美子は今なお未読であるが……。と思ったら百年文庫の3巻目で「馬乃文章」を読んでいた。百人は読んだって言えるからというミーハーすぎる理由で通読を目指しているのがここにきて役立つ(?)。 千光寺の三重岩は自分も登ったので「やったやったー!」と嬉しくなる。記憶が曖昧なのでこんなハードだったっけ…? とちょっと驚くが、当時みかんバイト帰りで体力がついていたから大丈夫だったのだろう。日々段々畑を上り下りしていたのだ。 巫女バイトのポスターに「インスタデビューのチャンス」と書かれていた話は笑ってしまう。そういうとこ気になるし、書きたくなるよなぁ。 文中に尾道の島々が色々出てくるが、四国の島って絶妙に読めない名前が多いよな…と思う。 前日に鎖やって今日は登山もして歩きまくって疲れているのにさらに因島大橋を往復するというパワーが眩しい。でもせっかくだからと無茶してしまう気持ちは分かる。いやでも29000歩はさすがに歩いたことないな、、、。 最後に後日談も掲載。旅先で知った同人誌を読んでみようと国会図書館に行った話が。あるんだ! これは羨ましすぎる。 とりあえず林芙美子、読んでみよう。ちくまの文学全集が手に入れば良いのだが。 そしてここからは批評。 柿内正午「随筆時評」第三回はいきなり鋭い。「オールドスクールなエッセイの定型」としてまくら→フリ→オチという図式が示されているが、まさに「上手なエッセイだな〜」と思うタイプの型だ。特にオチが斜め上に放り投げられる系が好き。 “あらゆる文章表現は、どうしたら自分の書いたものを真に受けてもらえるか、知らない人にまじめに精読してもらうためにはどうすればいいか、という問題を解決することなしには機能しない。”(P94) というのが今回のテーマのようだ。「真に受ける」を変換しようとしても魔にウケるとかしか出てこなくて死んだが、それはともかく。 この問題に対する一つのアンサーが「ひたすらデザイン(モノとしての良さ)を追求して手に取らせる」ではないかと思ったが、それでは精読までは行かないか…。 そこから話は日記ブームを経由して近代日本文学の自然主義の二面性へと至るが、これはフリではなく真面目な話のはず。身構えて読む。というかこういう「その辺調べたらなんか面白そうだな〜」と思わせてくれる文章が好きなのだ自分は。知った気になれる…。 評論を読み慣れていないため「私」と〈私〉で表記の使い分けがなされていることに気付かず読み飛ばしては戻りをしながら読み進む。(しかし「私」の方の意味がいまいち実感できないままに) 後半では今までの話の流れに沿う表現手法の作品たちが紹介されているが、どれもおそらく自分が何の手助けもなく読んでも「???」となる作品で、うぉおおと思う。何もわからんがなんかすげー難しそう……。そんな見方をしてしまうのもまたポジション確認? ただポジション確認してしまうのは情報が多すぎるからでもあって(文フリで何の前情報も無しに作品を買うことのハードルの高さ)…などと考え始めるとひたすらズレていくので、とりあえずそれは『置き配的』を読んで考えたい。 佐峰存「綴る、転がす、育む——随筆批評の可能性」。英語圏における〈Zuihitsu〉の広がりという話から。そうか、essayはモンテーニュとかそっちになるのか。 文体の種類について何となくしかわかってないのでほえ〜という感じだが、〈Zuihitsu〉は散文でも韻文でもないらしい。というのは散文の概念がそもそも異なるからで…ううんややこしい。 実例として詩人のキミコ・ハーンの作品を引きつつ、これが英語圏の一般的な文体とどう違うのかが解説されてゆく。 Haikuの概念違い問題とかもあるように、単純に翻訳すれば同じ見方のもとで読めるというわけじゃないんだなあ。古い作品の訳が翻訳調で読みにくいというのはまさにそういうことか。 そこから漱石門下の厨川白村が定義した黎明期のエッセイの定義なども紹介されていくが、読んでいると自分のエッセイ観の狭さを再認識する。やっぱりどこか軽い書き物として見てしまっている部分があるのだなと。 しかし最初期の定義からすでに「詩歌における抒情詩を散文的に行ったもの」とも書かれているのだという。記録や羅列とは別物で、文芸たりうるものなのだ。 そして終盤、『随風』創刊号に掲載の作品のテクスト分析も試みられているが……あああなるほど〜〜そういう描写なのかああ!! と全く読み飛ばしていたディテールのこだわりが読み解かれてゆきアハ体験すぎる。いやもう全作解説してほしい。 “詩のように一つひとつの文や言葉を解きほぐし評していくことで、随筆作品における一人称の特権性は薄れ、読はさらに多面的になっていくのではないか”(P123) まさに「おしゃべり」だなぁと思う。そしてそう考えると客観的に見て良い文章というのはついつい言及してしまいたくなるような文章…ということになるか。あまりにもプライベート(「私」が特権的)な話題だと触れにくいしね。 高山京子『坂口安吾とエッセイ、すなわち不可解なる「私」』。偶然なのか意識的なのか、柿内さんの評論の分からなかった部分を補足してくれていて助かる。「私小説演技説」なるものがあったんですね。 随筆文芸誌を読んでいるのでつい随筆とはなんぞや…みたいなことを問い問いしてしまうが、坂口安吾みたいなそこを曖昧に溶かしてゆく書き手もいて、そうだよな〜別に決まってるわけじゃないもんな〜と思う。ちゃんと読んでないけど最近の保坂さんとかそんな感じ? 竹永知弘『「エッセイ」という「イズム」』。古井由吉の「エッセイズム」から考えるエッセイ論。初めてちゃんと古井由吉の経歴みたいなのを知った。 ここで書かれている「ジャンル的不一致感」というのは柿内さんのポジショニングしてくる「視線」から逃れる〈私〉というイメージと近しいものと考えて良いだろうか。 ムジールを参照しつつ、学者にも作家にもなれないからエッセイを書くというあり方を肯定している箇所は、その文脈でエッセイを肯定することもできるんだ、と思った。そう思ってしまうのはやっぱり小説を上に見てしまっているからなのだろうか。 ラストの古井由吉の言葉は納得。実際、人文書とかそうなっていっていると思う。 いつもの編集していないほうの編集後記は点滅社の屋良さん。めちゃくちゃ編集してそうな感が出ているが、編集していない…? この処世術は屋良さんにしかできなさそう。 プロフィール。くどうさん、打ち間違えについての文章の中に打ち間違え(というか余計に打ってしまった何か)が。というかこのちっちゃい+、何??? あ、もしかしてこれ電荷の記号か? H ⁺の「⁺」? いやだとして何故ここにそれが…??? と考えたが、iPhone日本語キーボードで「ま」と打つ際に下の顔文字キーをタップしてしまい挿入された顔文字の残骸説。やりがち。 佐川さんの言及で滋賀作家アイデンティティが激戦区と知る。 惣田さんの紹介では山頭火の名の由来を知る。 「第一回随風賞募集のお知らせ」。ついに新人賞が…! 随風賞ってめちゃくちゃ雅な響きだなぁと思う。原稿5枚程度で応募も多そうなので上限100とされている。ただの散文には興味ありません!散文芸術を求む! みたいなことを審査員の方々は書かれており、そこの違いをまずは噛み砕けないとだなぁと。 編集後記。平林さん。ご愁傷さまです…。随風賞は選考外にもすべて講評すると書かれていて、だからの100作品かと納得。それでもすごすぎる。 宮崎さん。批評はめちゃくちゃ読んでて楽しいのでもっと増やしてください。…って言っちゃったら本末転倒かしら。 早乙女さん。めちゃくちゃためになるアドバイスが。ただ記憶力とモチベーション維持力がある程度必要そうかも。 ということで読了。今回も濃かった。そして読めば読むほど「随筆」のことが分からなくなっていく感覚。そこはもうなんか、考えすぎない方が良い気もしてきた。俺たちは雰囲気で随筆をやったっていいのかもしれない。 本文書体:イワタ明朝体オールド、石井ゴシック 装画:坂内拓 装幀:川名潤
  • 2026年4月13日
    随風(03)
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  • 2026年4月9日
    今度は異性愛
    今度は異性愛
  • 2026年3月30日
  • 2026年3月29日
    粉瘤息子都落ち択
    冒頭を少し読み、これはいわゆる“オモロイ純文”というやつに違いない…! とワクワクしながら一気に読み進めた。軽くてノリの良い掛け合いを抑えめの文体で書くタイプの作品、好きだ。 個人的にピークは「パワハラ」の実情が明かされるところで、一気に力が抜けた。 忍の事情といいリアリティなんて初めから置き去っていて(でも細かい部分は妙にリアルだったりしつつ)、このグルーブにノれるかどうか、みたいな作品だと思う。
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