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あんどん書房
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@andn
まとまりのない私的な感想をダラダラと書くのが好きです(長ければ長いほどいいと思っていがち)。買い速度に読み速度が明らか伴ってないのに借り本まであって大変です。
  • 2026年7月9日
    熟柿 (角川書店単行本)
    2008年、嫌われ者の大伯母の葬儀に参加した「わたし」(かおり)は、帰りの夜道で老婆をひき逃げしてしまう。 刑務所内で出産した我が子の将来を案じた夫からは離婚を申し入れられ、「わたし」は一人社会に放り出されるのだった……。 という冒頭からしてもうだいぶ辛い内容だったので、心を確かに持って読もうと思った。 自分の立場を承知しながらも、我が子会いたさに幼稚園や小学校へ向かってしまい警察沙汰を繰り返してしまう「わたし」。そんな彼女を導くのは不思議な縁で、千葉から山梨、岐阜、大阪、そして福岡へと仕事を転々としながら移り住んでゆく。 もちろんその人生は決して平坦なものではない。コロナ禍で旅館業が成り立たなくなってしまったり、隠していた前科が明るみに出て仕事を追われたり、挙句は同居人に大金を盗まれてしまったり…。この畳み掛けるような理不尽さは又吉さんの『生きとるわ』を読んだときのしんどさに近しいものがあった。 それでも最終的に辿り着いた福岡で、彼女の「機」はようやく熟し始める。仕事を斡旋してくれた女性から初めに提示された介護職を選ばずホテルの職に就いたものの、どこかでその選択に疑問を感じてもいる。 “でもわたしは一も二もなくホテルスタッフの職を選び、介護施設の職を一顧だにしなかった。それはとりもなおさず、将来の長期的な展望を捨て、過去に犯した罪、刑務所に入って償ったはずの罪をもうなかったものとして忘れたい一心の、臆病な選択に過ぎなかったのではないか。”(P215) そんな葛藤を抱えているなか、つながってゆく不思議な縁。かおりは自身の過去と向き合い、これからの未来に向けて歩んでゆく決心をする。 “『熟した柿の実が自然に落ちるのを待つように、気長に時機が来るのを待つこと』の語意もあるらしいんだよね、熟柿には。だから、何事によらず僕は長期戦を覚悟で人生を生きているから”(P360) というのは縁が繋いでくれた一人、土居さんの言葉で、この「人生は長期戦」というところに本作の強いメッセージが込められていると思った。 最後に明かされる元夫の告白。そして、ついに息子との対面。「わたし」の人生の再スタートが、ようやく、ここから始まってゆくのだという幕引きに希望があった。 犯してしまった罪、変えられない過去。そういったものを抱えながら、それでも待ち続けることで、何らかの機が熟したり、縁が繋がったりして、人は生きていくことができるのかもしれない。 加害者側の人生を描くという点で万人にお勧めできる作品ではないかもしれない。それでも、あまりに短期的な尺度で断罪されることが多い現代には、こういう物語も必要なのかもしれないと思う。人生は長期戦なのだから。 テーマ的にもかなり純文学寄りなのだけど、この作品が本屋大賞二位に入っているというのはすごく良いな。希望がある。 本文書体:リュウミンオールド ブックデザイン:鈴木成一デザイン室 カバー写真:lingqi xie/Moment/getty images
  • 2026年7月5日
    三崎黒鳥館白鳥館連続密室殺人 (講談社ノベルス)
    なんだかいまいち情景がイメージしにくいなぁと思いつつ読んでいたら、そういうことかい! 「伏線」に関してはもはや恐ろしいほどの執念を感じる。
  • 2026年6月15日
    新潮 2026年 4月号
    芥川賞候補作、仁科斂「丹心(まごころ)」を読みました。 都内某大学建築学科の教授・鹿野川航(ししのかわわたる)とその指導学生でアシスタントの青年・レンは、中国浙江省は寧波市の未完成マンション(爛尾楼)を美術館に設計し直すプロジェクトの発注を受ける。 まもなく子が生まれる予定で中国語の話せない鹿野川に代わって先に現地入りしたレンを待ち受けていたのは、前金を払ったが故に自ら部屋(房子)を作り退去を拒む住人たちや、プロジェクトの発注者であるエリート役人のミスQ、その父で地元の富豪であるQ氏といった面々との探り合いのような駆け引きであった。 読んでいて独特だなーと思ったのはそれぞれの人物の心情。例えば唐突に「レンはミスQに嫉妬する」(P53)みたいなことが書かれるのだが、その感情の由来がなかなか推し量れない。 そんな中でも鹿野川とレンくんの関係は、互いに下に見たりしてる部分もありつつ依存もしているという複雑な感じで面白いなと思った。 ちなみにこの二人は前作「さびしさは一個の廃墟」にも登場、とのことで、そちらを読んでいたら関係性はもう少し分かりやすかったのかな。 “お前たちには歴史也没有、一点的丹心也没有(歴史もない、一点の丹心もない)”(P86) というのは美術館の着工パーティーの趣味悪さ?に怒るQ氏の言葉だが、これはつまり世代とか価値観による「丹心」のズレ、みたいなのが書かれた作品なのかなと思う。 そのずれが最も顕著現れるのが終盤、退去反対派に対して鹿野川が土下座する場面だ。彼としては最大限の誠意を見せているつもりなのだが、中国の人々にとってその光景はただ嫌悪感を抱かせるだけで、結果的にドン引きされたことで場は収まってしまう。(調べたところ中国には土下座文化は基本的に存在せず、何してんのこいつ?みたくなるらしい) たぶんレンくんは理想に燃えてるところがあって、あくまで当初通りの美術館を完成させることに躍起になっている。一方の鹿野川は住人退去の話を知り、建築にコンドミニアムを併設しようとしている。その案は実際美術館よりもリゾートを作りたいQ氏一族にとっても都合が良いので、レンは内心で先生の不理解を嘆いている……というズレがあっての、この土下座。レンくん的にはかなり脱力してしまったというところなのだろう。 そう考えると、レン→教授への矢印の大きさが感じられて、関係性小説として読むのが面白い作品だったかもなと思った。
  • 2026年6月13日
    群像 2026年 5月号
    2026年度上半期芥川候補作品に選ばれた小砂川チト「ゾンビ回収婦」を読んだ。 雪山にあるホテルで働く「わたし」。そこでは日夜ゾンビと人間との戦いが繰り広げられ、銃やグレネードランチャーをぶち込まれたゾンビたちが爆発四散する。そんなゾンビたる「あなたたち」の肉片を回収し、ホテルを清潔に保つのが「ゾンビ回収婦」である「わたし」の仕事である。 というのが、一つ目の世界。もう一つの世界において「わたし」は夫とほぼ同時に解雇を言い渡される。AIに仕事を奪われたことに憤る「わたし」をよそに夫はおかしなテンションになり、これからはやりたかったことだけやると言って家を出ていってしまう。残された「わたし」が夫の部屋で見つけたのが、VRのヘッドセットとFPSゲーム『プラグの抜かれた丘』であった。 つまりゾンビ回収の仕事は全てVR空間の話なのだが、「わたし」にとってはもはやこちらの世界のほうがリアルになっている。 “なによりもこの視界は、三十余年わたしの生きてきた主観よりも、ずっと主観的なのだった。わたしはいま生れてはじめて、ちゃんと身体のなかにいるような気がしていた。”(『群像』2026年5月号/ P21) リアルであるはずのほうの現実世界において「わたし」は乖離してしまっている感じなのだが、その原因になっている呪いのようなものが徐々に見えてくる、というのが作品の軸になっている。 作中において、不思議な立場逆転が発生している。そもそもこういうゲームにおいて死体とかのオブジェクトは一定時間で消えたりするのが普通だと思うが、「わたし」の目の前で爆散したゾンビの肉片は消えてゆかない。それは「わたし」が本当の清掃NPCである通称「グッドニュースさん」を殺してNPCの立場になり変わってしまったからだ。ここで、AIに仕事を奪われた人間がAIの仕事を奪うという逆転が発生している。 また「わたし」の物語の合間に現れるミーシカという男も、電子世界を保つために「見えない業務」に取り組み、AIの痛みを取り除こうとする。 彼らの抱える痛みが交差して共鳴するのが、中盤に出てくるカウンセリングの場面。ここを読んで真っ先に連想するのは昨今何かと話題になる「チャッピーにお悩み相談する若者たち」だった。 中盤以降が色々と事態も起こり錯綜していて混乱するのだけれど、「わたし」の抱える傷というのは過度に内面化された能力主義の呪いだと思う。 “急げ、急げ、結果出せ。急げ、急げ、ミスすんな。改善しろ向上しろ発展しろ進歩しろ、死んでもミスすんな、進化しろ。そういってさんざん機械みたいにあくせく働かせておいて、今度は「ミスすることこそ人間固有の愛らしさ」ですって。そういうことになったんですって。”(P50) 子どもの頃から蓄積してきた呪いのような言葉たち。愛情に飢えた「わたし」は傷つきながらもそれらを求めてしまう。 “わたしの生き死ににかんしてなんらかの権限を持った人物が出現するとわたし、そのひとのことで寝ても覚めても頭がいっぱいになって、自分の意思や価値といったもの、すべてまとめて箱に詰めてりぼんまでむすんで相手にみんな、みんなみんな明け渡してしまうのです”(P55) 「わたし」がゾンビ回収の仕事に勤しむのは、認められたく、感謝されたく、褒められたいからなのだ。たとえそれがただのゲームであったとしても、AIにできる仕事であったとしても、「わたし」はそこに安心を見つけ、そこでのみ主体を取り戻すことができる。 作中で登場するゾンビ、「わたし」が「アラスカ」と名付けた個体は他のゾンビとは異なる挙動をする。戦闘が始まると人を襲わずに逃げ隠れする臆病なゾンビ。彼はその初語(初期値)として「ᐃᓄᒃᑎᑐᑦ(イヌクティトゥット=人間らしく)」を与えられた存在だった。 AIが人間に代わって仕事をする時代。仕事を失った人間は何をすればよいのか。(早々に振り切った「夫」のような人間もいる一方で、「わたし」のようにアイデンティティ喪失してしまう人間もいるだろう) 果たして「人間らしさ」とは何なのか。そこを問うている作品だと思う。 余談だがバーチャル世界から帰れないとか開発者の孤独が世界に溶け込んでゆくあたりの構造は、コナン映画のベイカー街を連想した。 続いて掲載の舞城王太郎「ベルゼバビブベボ」は逆方向に向かうような話で、この二作が並んでいるのは面白いなと思った。
  • 2026年6月9日
    春 (新潮クレスト・ブックス)
    秋に『秋』を読み始め、季節ごとに一冊読んできて、ようやく3冊目。もう春ではないけども……。 いきなりネトウヨのバリバリ排外主義言説から始まったかと思いきや、それに呼応するような泰然とした自然の声が書かれる。この印象的な対比の謎は中盤で明かされてゆく。 今作の主要な登場人物は三人。信頼できる仕事上のパートナーである脚本家のパディーを亡くし、失意に沈む映像監督リチャード。 「入国者退去センター(IRC)」で働きながら、収容される移民たちの置かれた環境などから目を背けているブリット。 そんなIRCに突然現れた少女フローレンスは、なぜかセキュリティを自然に抜けて所長の元へ辿り着き収容所の環境を改善させたり、駅や旅では金銭を要求されることなくやりすごされる。 そこに駅前でコーヒーを売らない不思議なコーヒートラックを営む女性アルダが加わり、一行の不思議な旅が始まる。 読んでいていちばん意外に思ったのはイギリスが抱える民族問題の根深さ。なんとなく連合王国ということは知っていつつも、イングランドとスコットランドの間でもそこまで対立みたいなものがあるのだな、と驚く。 “イングランド国内では、よその言語を許してはならない。 いや、イギリス(ブリテン)だ。スコットランド、ウェールズ、北アイルランドを含むイギリスの中では。”(P312) おそらくここで言われているのはゲール語なのだと思うが、ブリットは同僚の喋るスコットランドの古詩に対して「その言葉を聴いているだけで、なぜか腹が立った。ほとんど泣きたい気分にまでなった」(P311)とまで思わせるその理由は何なのだろう。 “二月。最初の蜜蜂が窓のガラスにぶつかる。凛とした寒さの中、光が押し返し始める。”(P110) こういう詩的な描写を読んでいるだけでも心地よいのがアリ・スミス作品の良いところ。 解説を読んでいて、連作全てに出てくるダニエルの存在を思い出した。シーズンごとに読んでるともう前作の内容を全く覚えてない…。ダニエルはたぶんアンディ・ホフヌング氏だろう。 リルケとマンスフィールドの話はほとんど拾えなかった。またいつか再読すれば理解できるだろうか。とりあえずは『マンスフィールド短編集』を読んでから。 次回の『夏』はこれまでの主要人物集合回らしいので楽しみ。それまで覚えてられたら良いのだが…。 本文書体:精興社書体 装画:水沢そら 装幀:新潮社装幀室
  • 2026年6月1日
    日記をつけて何になる?
    SNS、情報ノート、ブログ、読書記録…と日記的なものはあちこちに書き散らしてきたけれど、自分は一度書いたものをほとんど見返さないな〜と思った。撮った写真とかも同じく。 頭の中がずーっとごちゃごちゃしていて、それを吐き出すために書き捨てているというのが一つの理由だと思う。そしてもう一つは、書いてから時間が経ち「他者」と化した過去の文章に再接続してしまうことの怖さ、みたいなものがありそう。 本書の第六章あたりで「書いてあること以外のことを受け取らない」というテクニックが出てくるが、つまりあくまで自他境界を確実に保って日記に接するということだと思う。自分はそれが計り知れなく苦手なので、近しい人の日記なんかを読むとすぐドロっとしてしまう。 と同時に資本主義的な時間軸をもんのすごく内面化しちゃっており、「他者のペースに身を委ねる」ことも苦手である。遠すぎる人の日記を読む気力も起きにくい。 そんな感じなので、冷静に日記を読めるようになるというのが自分にとっては一つの目標になり得るかもしれないな。 “ある一日の出来事や、それにともなう私の「過去」が、書いた日、本にした日、誰かの手に渡った日という、まったく違う時間に、違う意味を巻き込みながら存在しつづける。その循環に身を委ねていると、明日も生きてみよう、というやる気が出てくる気がします。”(P104) そうなれたら良いなと思う。 本文書体:リュウミンオールド 装丁:北村陽香 装画:正一
  • 2026年5月29日
    三重の碑百選
    三重の碑百選
    バクザン先生を読んで、ちょっと石碑なんかを見てみるのも楽しそうだなぁと思ったので。前の持ち主が俳句を推敲したような紙が挟まっており、あまりに「らしい」な〜と。
  • 2026年5月28日
    読書スタディーズ
    読書記録からして一目瞭然なように私は超ミーハー読者でありSNSや読書会で紹介された本ばかり読んでいる人間なのだけれど、そんな自分に甘そうなことが書いてありそうなので買っちゃった。 明石書店なので諸々しっかりしてそう。
  • 2026年5月24日
    グレタ・ニンプ
    主人公は大手企業で働く40代ぐらいのサラリーマン。妻と四年ぐらい不妊治療をしてきたけれどなかなか子に恵まれず、主人公はそこから目を背けるように出世を目指しているという日々。 しかし、ある日帰宅すると、それまでセミロングでおしとやかな女性だった妻が突然紫のバズカットでファッションセンスが厨二っぽくて口調が悟空という謎に濃いキャラになっていた! 前作との温度差! 何がすごいかってフォントで遊びまくってるところ。もう勢いがすべて。 こういう遊び、ラノベとかでは見たことあるけど、ハードカバーの単行本でやられるとインパクトがすごい。柱の部分に思いっきり被ってる。印刷所さん大変そう… ちなみにグレタというと活動家の方を思い浮かべるとおもうんですけど、実際そこに掛かってもいてご本人の名前も普通に出てくる。 妻は変貌してからそれまでやってなかったデモなどに参加するようになるが、主人公は最初そういう妻に対して元に戻って欲しいと思っている。けれども、だんだんと今のスタイルを受け入れられるようになっていくというのが話の大筋。 このフォント芸とか勢いも、「不妊治療とか妊娠とか子育ての大変さ、男はこんぐらいやらんと分からへんやろ!!」みたいなところがあると思う。 なので、二本目のバレンタイン恋愛心理戦みたいな短編に関してはやらなくて良かった気もする…。 本文書体:筑紫明朝、バサころ 、A1明朝、リュウミンオールド、秀英明朝、アンチックAN+、新丸ゴエンボス、ランパート、ドットゴシック16、A1ゴシック、みちくさ、ひげ文字、ぽってり、教科書ICA、白のアリス、ららぽっぷ、秀英5号 装画:NAKAKI PANTZ 装丁:佐藤亜沙美
  • 2026年5月21日
    文学フリマ物語
    文学フリマ物語
    著者はなんと第一回の文フリに出られている方。共同通信ということで、かなりしっかりした内容になっていそう。 何よりこのコピーが良い。「私であること。/他の誰でもないこと。/他者にそのことを示すこと——。」 作ることの意味が自分の中で迷子になっている今、直感的に読んだ方が良さそうだと思って買いました。
  • 2026年5月21日
    書百話
    書百話
    以前に読書会で紹介されており、そういえば持ってたなと積読から引っ張り出した。莫山先生のこと全く存じていなかったのだが、関西弁混じりの軽妙な語り口が良い。 読み進めるにつれて、文章のリズムの良さが、だんだん体に入ってくる。 “見ようによっては朴訥。眺めようによっては気随気儘。考えようによっては奇妙奇怪。雲南の書き手も彫り手も、こりゃかなりの気分屋さんであった、と思う。”(P27) 漢語を重ねてリズムを作り、最後は読点で柔らかく着地させる。良いなぁ。なんかこれ自体が筆で字を書く動きを感じさせる文章。…うまいこと言い過ぎ? 他にも張猛龍碑の「筆のうごきにほろにがい安らぎがある」(P35)とか月斗の「その気性と気品を文字に坐らせて、くったくのない気分をふりまいて、たのしませてくれる」(P59)とか。表現が素敵だ。 莫山先生はただ整っただけのキャラクターがない書には当然興味がないようで(時に「目の毒」とまで書いている)、紹介されるのはどれも個性的。 “こういう凄い字というのは、意味もからめて見ているだけで身ぶるいがする。電線が風に鳴っているような音も感じる。”(P117) とは良寛の般若心経評。書から音が聞こえる境地。 四章は「野の書」ということで、莫山先生がその辺で見つけてきた名もなき人々の文字が集まっている。ここがなんか無言版アートみたいで良いなと思ったのだった。 そんな章の中に「唐箕の栄光」という一編があり、そういえばこれ昔うちにあったわ〜と懐かしむ。ハンドルを手回しして籾殻と米をより分ける農機具。そんな使い道なんて知らずにただぐるぐる回して遊んでいた記憶。 第五章は「雑抄」ということでいわゆる「書」以外の文字についての話もいろいろ収録されているのだが、そんななかに「毎日新聞」ロゴの話も出てきて面白い。そもそも毎日の連載だからだろうが。 “活字体といっても、元をただせば人間の手がかいた文字である。この“毎日新聞”の字も、デザイナーが苦心してかきあげたにちがいない。”(P222) 当たり前のようにフォントを選べる現代ではついつい忘れてしまうが、大切なことだなと思う。 自分は字が下手すぎて、字への興味を全く持たないまま生きてきてしまった。美術館で署を見かけても「どう見ればいいの…?」と。 しかし本書を読んでいくなかで、今まで目に入らなかった石碑の文字がちょっと気になるようになってきた。これは冷たいかな、温かいかな、莫山先生ならどう見るだろう。 まさに解説で外山先生が仰るように、「この本を読む前と読んだ後では、同じ人間でないことに気づく」(P283)ということなのだ。 ちょうど今月末までやっている莫山展、絶対に行かなきゃな。
  • 2026年5月21日
    温州ミカン今昔物語
  • 2026年5月19日
    成瀬は都を駆け抜ける
    成瀬シリーズもついに完結ということで寂しさはあるけれど、このスタイルだと無限に続けられるので、区切りとしてちゃんと締めてくれて安心もした。 突然の森見登美彦パロディというかもはや二次創作レベルの愛溢れる展開にはニンマリ。 そして、成瀬あかり史を見届けるのはやはりこの人、というこれ以外考えられないラストに読後感も爽快でした。 アニメ化待ってます。
  • 2026年5月19日
    探偵小石は恋しない
    本屋大賞ノミネート作では一番気になっていた作品。 他人の恋愛感情が見える探偵・小石と同僚の蓮杖が、主に不倫調査の依頼を解決する中で段々不穏な何かに巻き込まれてゆき……という展開。 三章ぐらいまでは個別の依頼調査が中心で全体が見えてこないのだけれど、四章からその背後に隠れた大きな何かが過去と絡まり合いつつ明るみに出てきて盛り上がる。「お〜」と「いやいやいや」が交互に来て面白い。 偏見に対して偏見返しするところの伏線回収は素晴らしい。「逆ソクラテス」みもある。三人とばっちりすぎるけど。 最終的に全てがタイトル通り恋愛問題に決着しているのだが、どの恋もおかしな方向に重かったり一方的なのがギャグだった。そんな中でのあのラストは、まあそうなるわなという感じ。読者の求めているものがちゃんと提示されており、まさにエンタメ。 みんな思ってると思うが、表紙イラストはちょっとAdoすぎない? 本文書体:リュウミンオールド 装画:はむメロン 装丁:坂野公一(welle design)
  • 2026年5月19日
  • 2026年5月18日
    いらっしゃいませ、今から授業を始めます。
    推しを、語らせてください。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ブタコヤブックス店主/小学校非常勤講師・船張真太郎(さん)。私はこの人物こそ「今もっとも面白いエッセイの書き手」だと、割と真剣に思っている。 【本書のここがすごい①】 「ユーモアが炸裂している」 古民家の天井ぶち抜きでハムナプトラ状態になったり、百貨店で教卓を買ってフロアを疾走したり。それ自体はまあそういうこともあるよなぁという場面場面なのだが(あるか?)、それをオモロく文章に落とし込むセンスが天才。改行をうまく使ってタメを出してからのバーン!な出し方も素晴らしい。好き。  個人的に昨今の「面白い文章」ってネット的なものに偏りすぎている節があると思っている。スラングを上手く使えるとか、捻くれた大喜利ができるとか。それはそれで面白いのだが、船張さんのユーモアはもっとなんというかこう、小学生でも理解できて笑えるタイプなのだろう。絶対授業中に何箇所かお笑いポイントを仕込んでくるタイプの先生だもん。  そして、そういうハイコンテクストじゃない、プリミティブな笑い(?)は疲れた大人にも効く。効き目抜群サロンパス。書いてて引っ張られていくのがもう好き。 【本書のここがすごい②】 「教え子じゃないのに「先生…!」という気持ちになる」 毎回書いているけれど、ユーモアと真面目さのバランス感覚が非常に良い。そして、真面目なパートが心にすっと入ってくる。  たとえば、祖母の葬儀で叔父と会ったことについて書いた「別れ 2025.9.15(月)」のこんな一文がとても素敵だ。 “久しぶりに会った叔父とは、亡くなった祖母を通じての関係が強かったので、もう会うことはできないのかもしれないと思ってしまったが、私が本屋という場を開いたことで、「またお会いしましょう」という最後の挨拶の言葉が社交辞令ではなく、きちんと温度をもつ言葉に変わったのが嬉しかった。”(P86-87) 一文としては長いこの箇所も、読点で繋げてことばを探りながら書かれた丁寧さみたいなものが伺える。そこが圧倒的に信頼できるのだよなあ。 そして、苦労話的な内容であっても決して苦労話で終わらせない配慮。これも私の勝手なイメージかもしれないが、エッセイや日記には自分の内面を鋭く抉り出して書き、「共感」で読まれることを求めるような文章も多くある。個人的にそういう色の文章は疲れている時になかなか読めないので、ここの安定感というか、ちゃんと線引きがなされている感じはとても安心して読めるのだ。 【本書のここがすごい③】 「ご婦人から見た店主の日記が収録されている」 改行前後の多忙な時期の店主を観察した「本屋開業中年男性観察日記」「本屋営業中年男性観察日記」が合間合間に掲載されている。この淡々と観察してるトーンが箸休め的な感じでとても良い。一方で皿洗いをサボった時には「イラっとした」なども包み隠さず書かれていて、それをそのまま掲載できるというところに、お互い信頼しあっているような関係性の良さが伺えて尊い。仕入れ本の中に欲しい本があって買い取っていたりする下が超ほっこり。 ということで、自分にとってとにかく安心して読めるのが船張さんのエッセイだ。この良さはもっともっと広まって欲しい。ぜひ商業出版や原稿執筆などもじゃんじゃん舞い込んで、第一線で活躍して欲しい。もちろん、本業が大変になりすぎない範囲で。 草葉の陰から応援しています。 本文書体:ヒラギノ明朝体 表紙・裏表紙イラスト:むつみ・せいのすけ 印刷:ちょ古っ都製本工房
  • 2026年5月14日
    中世モンスターのはなし
    中世モンスターのはなし
    妖怪っぽいやつもたくさん出てきて、国や文化が違えど怪異的存在への想像力は似たような部分が多いのだなぁと思った。 鯨に上陸して上で火を起こすと潜って人を道連れにするから悪しきモンスター扱いされてるというのは、普通に鯨がかわいそすぎる。。 アレクサンドロス大王がグリフォンで飛ぶ絵があまりにもシュールすぎる。馬に人参ぶら下げる理論と同じかい。
  • 2026年5月5日
    本の雑誌514号2026年4月号
    特集は日記。昨年も四月号はエッセイだったし、年度はじめはなにかこういうムーヴメントを追う感じなのかしら。 この特集なので巻頭本棚グラビアには日記屋月日。古本のラインナップを見ていると、昨今の日記ブーム以前の日記本は文士や学者のしっかりした本が多いんだなぁと分かる。市井の人の日記がここまでブームになるとは誰も思わなかったのではないだろうか。 特集で面白いのが植本一子さんと古賀及子さんの対談「書けないことは書いてない!」。感情を全面に出す植本さんと、あえて感想的なことは書かないようにしているという古賀さん。異なるタイプのお二人だから面白い。 “あまり自分の感想を信頼してないんですよね。感情というか、思いみたいなものを信用してない。だから周りのものを見て、その何を取捨するかみたいなところにすごく信頼を置いている感じですかね”(P37) 古賀さんが感想禁止にしているというのをはじめて知ったが、言われてみれば確かに古賀さんの日記は描写の比率が高い。 一方の植本さんも年齢を重ねて落ち着いてき、古賀さん的な方向に向かいつつあると話されており、そういう変化はあるんだなぁと思った。 「自分の感情には興味がないけど、自分の周りのことには興味がある」っていうのはもう完全に自分と逆で、そっちのほうが読んでて気持ち良いし面白いからそうなりたいと思うんだけど、まだ自意識がダメだな〜。果たして不惑になれるのか。 インタビューではセルフケア的な文脈を求められるが、本当は何も出力しないでいられる状態がベストなのでは…という植本さんの話は、感覚的にすごくその通りだなと思う。健全で満たされていれば創作なんていらないみたいな話に近いかもしれない。 藤岡みなみ「3つの言語で書く3年連用日記の実験」。三年日記を英語→中国語→日本語で書いてみるという。言語を切り替えることを「コード・スイッチング」、文化の価値観を切り替えることを「カルチュラル・スイッチング」というらしい。言語を変えると人格もちょっと変わるというのはよくあるけれど、自分はなぜかそこがちょっと怖かったりする。演じることの怖さみたいな感じかも? 永江朗「日記で日本の歴史を振り返る!」は平安から令和までの日記文学を概観。勉強になる。 “独立系書店という言葉がまだ使われず、個性派書店などと呼ばれていたころ、そうした店にはたいてい武田百合子の『富士日記』(中公文庫)があった”(P58) 昔からそういう層に愛読されていたんだなあ。 とりあえず林芙美子と武田百合子は早いうちに読まなきゃなと思う。 「新刊めくったガイド」ではネッテルの『一人娘』、こだま『けんちゃん』、久永実木彦『雨音』などなど最近の読書会で紹介されていた本がたくさん出てきており、参加者みんな本の雑誌読んでる…? 感度が高い人が多いのだろう。 表紙イラスト:沢野ひとし 表紙デザイン:クラフト・エヴィング商會 本文書体:游明朝体
  • 2026年4月26日
    スマホ片手に文学入門
    日頃あまりにも雰囲気で呼んでいるため、もう少しじっくり読めるようになりたいなと思う。 まずは芥川の短編「ピアノ」が全文掲載され、それを一文一文チェックしてゆく流れ。「藜」とか普通に読んでたら絶対調べないだろうな〜。 冒頭、震災の影響が残る山手で、秋雨に打たれる廃墟の描写。ここでかなり「暗」のイメージを描いた後で、「雨は幸ひにも上がってゐた。おまけに月も風立つた空に時々光を洩らしてゐた」の一文が来る。これは暗から明への転換と言えるのだが、しかし「月」には(竹取物語など古典に見られるように)不穏なイメージもある。ゆえに読み手は完全には安心しきれずに読み進めることになる…… というような、読み手が受け取る細かい印象について非常に細かく検討している。自分一人だったらこういう読み方は絶対にできないなと思う。 「桜の樹の下には」についても「あ〜、なんか生と死みたいな感じね」ぐらいの理解だったが、「水晶のような液」という表現がその醜と美との間の媒介者である、というような読みをされていて、なるほどねぇと思った。普通に読んだらただの露悪趣味にしか思えない汗が精液だのなんだの比喩も、生殖=花の美と気持ち悪さ両方を併せ持つ媒介的な性質を持つと読めるのではないか、と。こういう視点で読めると楽しめるタイプの作品だったんだな。 “よくわからない——けれども、何かしら魅力を感じてしまうような文章に出会った際には、まず、文章中から読み取れる〈対比〉の関係を探し出してみる。” (P160) 多分読みながら同時に考えるのは無理なので、やはり再読が大切なのだろう。 「やまなし」の章では最初に「幻燈」について、今でこそノスタルジックなイメージをしてしまうが、当時的にはまあまあ普通の教育的な装置だったはず(よって「やまなし」自体が何らかの教育的意図を持つのでは)という指摘があり、言われてみれば…と思った。時代性を踏まえて読むことがいかに難しいか。。 そして、この冒頭と最後の2文については更に深読みが試みられている。はじめの「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。」という文には主語がない一方で、最後の一文では「私の幻燈はこれでおしまいであります。」と、主語が「私」であることが明示されている。物語全体を〈認識の深化〉というコードで読み解くと、冒頭の一文ではまず「幻燈」を見せられる子どもたちを物語世界へと包摂した上で、最終的には「でもこれはあくまで私の幻燈ですよ」と世界から切断するのである。 ……ついつい「宮沢賢治、そこまで考えてるの…?」と思ってしまう。の、だが、小池さんはその考え方は危ういと警鐘を鳴らす。 “作者というのは、ただでさえ、読者に対して特権的な立ち位置にいるのです。そこに、作者還元主義的な読みの制度が絶対化されてしまったなら、〈上—作者/下—読者〉という権威主義的な位階が固定されてしまうことになります。” (P266-67) これはロラン・バルトのテクスト論を踏まえた見解らしい。その辺の小難しいことはよく分からないけれど、作者が絶対視されてしまうのは「著者の気持ちを考えよ」とか言いがちな国語教育が悪いんじゃないかな〜と思う。 ちょっとでも突飛な読みを試みると「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」みたいなミームが飛んでくるSNS社会、多様で開かれた解釈の大切さを痛感する。 本文書体:筑紫明朝、こぶりなゴシック、秀英丸ゴシック イラスト:usi 装幀・デザイン:室田潤(細山田デザイン事務所)
  • 2026年4月23日
    ほんとうのことを書く練習
    だらだらと長く書くことが「ほんとう」なのではないかと思っている節があるかもしれない…。 “自分は何を感じているのか、何を考えているのか。/何を問うていて、何を知りたくて、何に惹かれているのか[…]/つまり、世界に触れている自分自信を感じること。そこで得た言葉こそが「ほんとうのこと」だ。”(P10) 個人的にはこの感覚は違和感が起点になるのではないかと思う。つまり「これはほんとうのことだ」というより、「これはほんとうのことではないのではないか?」と。「本質」とか言っちゃうと急に胡散臭くなるが、なんとなくそういう。 ただ、他人がそういう指摘をしてきた場合は十中八九悪質なので、やはり「私」にとってという部分が一番大事なのだと思う。 “「ほんとうのことを書く」とは、「私を知っていく」ことだ。”(同前) 序章『私たちはなぜ「ほんとうのこと」が書けないのか』では、とある新聞記者による「個性は消して、消して、消しなさい」(P27)という言葉が紹介されている。個性を出そうとしたり、他者の目線を気にしすぎた文章は「化粧くさい」文章だ、と土門さんも書かれていて、これは非常に耳の痛い指摘。 こういう話はついつい禅を引っ張り出したくなってしまうが、他者を気にし過ぎることもまた我執であるという…。 そしてそんな我執を引き出してしまうのが、自己愛である。 “自分に愛されていないから、代わりに誰かに愛されたい。そんな自意識に包まれている。”(P50) あーーー。結局もう、そこなんだよなぁ。怖さを克服して自分と向き合うことができないと、囚われてしまう。 自分が感じている「ほんとうでない」という感覚(物欲とか、コミュニケーションの癖とか、その他諸々)の根底は自傷的な自己愛だ。 「誰にも読ませない文章」としての日記の必要性。自分もこの2年ぐらい、こうしてスマホのメモに書いたものをブログに貼り付けたり冊子にしたりということばかり気を取られてしまい、それまで付けていた「何でもノート」をさっぱり書かなくなってしまった。 投稿が読まれることをそれほど意識しておらずとも、絶対に自分しか読まない何かを書くこともやはり必要なのではないかと読んでいて思う。内容がどうというより、自意識に邪魔されずに書くために。読まれる(かもしれない)からという方にモチベーションの比重が偏ってしまうと、プライベートなものを維持するのが大変難しくなる。SNSのせいで退屈に耐えられなくなるのと似たようなもんだと思う。 “自分だけは、何を言っても否定しない、拒まない、受け止めてくれるんだと実感すること。つまり、自分を受容すること、愛すること。”(P120) 自分がよくやりがちなパターンとして「何でも自虐で終わらせがち」のがあるけれど、それもまあ自意識臭い文章だわなと思う。 第3章は本書の核心部であり、ほんとうのことを書くために必要な「生きる」ことと「考える」こと、という二つの柱が紹介される。 「生きる」とは他者(自己の外部)との関わりであり、「考える」とは自己との対話である。さらっと読むと「経験が大切」「引きこもっていては文章は書けない」みたいな話に思えてしまうが、おそらくここで言われていることはもう少し奥行きがあって、「他者」をきちんと「他者」として受け止めることができるか、みたいなことが問われている気がする。 そう感ずるのは、出不精だし無気力で一日を惰眠とアニメとたまに積読解消で潰してしまう自分を嫌になっちゃいつつも、経験に貴賎なしとも思いたいからである。そりゃ海外とかじゃんじゃん行ってさ、人脈広げてチャレンジして起業して投資して…みたいな経験があったら、それはすごいと思うよ。でも無理じゃん。文化格差があるじゃん。というか資本主義の奴隷じゃん。 まあそんな極端な話にせずとも、寝たり本を読んだりしてるだけだってそこに「他者」を見出して何らかの回路を開くことができれば、「生きる」ことに繋げられるのではないか…と思うわけですよ。 だから「今日は一日中何もできず、寝てるだけだった」止まりじゃなくて、そこからさらに問いを重ねて展開させてゆくことが必要なんだなぁ。 ……ということはすでに第2章に書かれていて(“自分に興味を持ち続け、問い続け、答え続けること。その一連の活動が「書く」ことだ。”(P99))、読むことと理解し納得することの間にある大きな壁をあらためて体感するのであった。 先に出てきた「生きる」と「考える」のバランスについて第4章では、 “前者だけでは社交になり、後者だけでは内省になる”(P185) とも書かれており、自分は後者に偏りがちなんだな〜と思う。養老孟司さんの「情報化」の話を読んでも思うのは、「生きる」(≒「情報化」≒外部のものごとを自分なりに表現する)ためのレッスンとして乗代さんの写生文トレーニングはやはり有効なのではないか、と。 ぶっちゃけ情景や他人が丁寧に描写されたほうが文章は面白く、どれだけ自分の思考や内省を開陳しても、その回路が違う人には響かない。周りをちゃんと書くことが読み手への配慮にもなるということだ。 あと、その時々で自分にとっての「ほんとう」は変わる(変わっても良い)ということも大切かもしれない。 本文書体:リュウミンオールド ブックデザイン:水戸部功
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