Reads
Reads - 読書のSNS&記録アプリ
詳しく見る
あんどん書房
あんどん書房
あんどん書房
@andn
まとまりのない私的な感想をダラダラと書くのが好きです(長ければ長いほどいいと思っていがち)。買い速度に読み速度が明らか伴ってないのに借り本まであって大変です。
  • 2026年4月17日
    本の雑誌513号2026年3月号
    特集は異世界転生。この絶妙に読者層と被ってなさげな特集をやるのが良い。 初っ端からKADOKAWAのコンテンツ部門の元専務という適任すぎる方が書かれている。西洋型古典ファンタジーと転生ものが異なるのは「赴いた先の異世界で成長し、現実世界に帰還することを、主人公が望んでいるか否か」(P12)という部分が大きいらしい。確かに、帰らないんだと思ったことはあるなぁ。あとは下地となるRPGゲームの文脈が共有されているということ。こちらに関してはRPGを通ってこなかった人間なので、むしろ異世界アニメでその文脈を学んでいるところがある。 昨今の傾向としては女性読者が増えたり電書や「新文芸」など刊行形態の多様化でスローライフ系の支持が拡大しているという。個人的にはネタが尽きないのかが気になるところだが。。 「異世界書店員対談」は異世界系の元祖・高千穂遙『異世界の勇士』の話から始まり棚づくりの困難まで。なろう系という括りになっているのはそういう理由が…。 ライトノベルとか新文芸は昔の時代小説的なポジションにあるのではという指摘になるほどなぁ〜と思った。 あと、コミックはもう電子書籍の割合が大きくなっちゃってる一方で、なろう系小説は紙の方が売れるというのが面白い。なぜならもともとWEBで読めるから。確かにそりゃそうだわ。だからシェアが削られるんじゃなくてむしろWEB+紙で増えていると。推し活需要があるのだって。まあ自分も追ってるウェブ連載とかが紙になったら普通に買うか。 出版社がもう作家をゼロから育てる体力がないというのも大きいだろう。すでに出来上がってる才能を掘り起こせば良いのだから。 読者アンケートの行ってみたい異世界が絶妙に年齢層高めなのもご愛嬌。 特集全体から分かったのは… ・転生と転移は違う ・現実に疲れてて、フィクションに癒しを求めがち(スローライフ系) ・異世界系の中でもジャンルがめちゃくちゃ多様である ・本当はリアルif戦記ものが描きたいが今の時代それでは売れないので、あえて異世界をかます…とかもあるらしい ・新文芸は大人も読めるラノベみたいな受け皿として提唱されたジャンル ・そもそもネットで読める小説なので、電子書籍より紙の本が売れる(推し活として) 記憶が間違ってなければひと昔前は「なろう系(笑)」みたいに下に見られてたWEB小説が、いまや出版・コンテンツ産業に欠かせない存在となっているのはすごい。シーンが成熟するとはこういうことなんだなぁ。異世界にしないと売れないから…というのはちょっとあれだけど。。 なお個人的に最近では「スライム倒して300年(略)」が無心で観られて良かった。やっぱ心が死んでるときはスローライフ求めるわ。「本好きの下剋上」は(最近OPのAI問題とかもあったけれど)そのうち観なきゃなあと思っております。
  • 2026年4月16日
    随風(03)
    随風(03)
    まずは恒例、宮崎さんによる恒例の巻頭随筆批評。随筆が文学たるには何が必要か。それは「不確かさ」なのではないか、というお話。個人的には物語化しすぎない倫理みたいなところと繋げて理解したくなる話だ。 ただ、じゃあ脈略なく自動筆記みたいなことをすればいいというわけでもなく、そこのバランス感覚は難しそうだなぁと思う。 ここから随筆特集、テーマは「学び」。 碇雪恵「無駄だったなんて言いたくないが」は習い事が続かない話。習い事って強制力みたいなのが合う人もいれば合わない人もいるよなぁと思う。自分も習字とかやらされてたけど今も死ぬほど字が下手なので、タメになったとはあまり言えない。 海猫沢めろん「無気力の教え」は中学時代の「無気力」とその転換点について。 “中学生の頃の自分は、勉強もしない、部活もサボる。[…]ただ食事をエネルギーに変換して排泄するだけの、制服を着た肉塊だった。学校の試験はほとんどが0点。”(P21) 自分の高校時代もほぼこれ。起きて、ニコ動見て、日が暮れて寝る…みたいな。 最終的に無気力を否定せずに、それでもなんとかやっていく術を身につけている海猫さんはすごい。 オルタナ旧市街「グレート・サンドイッチの技法」。起承転結のまとまった上手い随筆。しかし最後にまさかの転というか急がきてうおお…という読後感になる。 “時間とはどこまでも平らかで、夕暮れはいつどんな国にいようとものっぺりと同じ顔をしてやってくる。”(P27) 子どもの頃の夕方の孤独感、身に覚えがある。親が帰ってくるよう神棚とかに祈っていた。 鯨庭「頭の中で椅子に座る」。正面から「学び」というテーマに向き合われている。知人の言葉がとても良い。テストで測れない学び、知性。大人になる程そういうものが大切になってゆくのだろうな。 くどうれいん「お土産の学び」。ついにくどうさんも執筆陣に。くどうさんのエッセイはとにかく楽しいものとドキッとするものとがあるが、こちらはとにかく楽しい方。あれもこれもとお土産を買いまくるバタバタ感と家族旅行のほっこり感。そして綺麗にまとまりそうなところで…という結びも非常にくどうさんらしく素晴らしい。 佐川恭一「暗記について」。でもやっぱり暗記も大切だよね、という守破離的な話。 暗記が何となく軽くみられるのは、それこそ「とにかく詰め込め」みたいな根性論のイメージがあるからだと思う。だからどちらにしろ覚えなければならないのであれば「どう覚えるのが自分に合っているのか」を考えるのが大切なのではないかなあ。自分の場合はとにかくまず楽しめるところだけ享受しまくり、でもやっぱり基礎がないとダメだと気付いたタイミングでやるという非効率すぎる方法をとりがち。最初にモチベを上げられるだけ上げとかないと続かないから…。 佐藤舞「廃車にしてから廃車に行った」。冒頭からもう痛い…。何度も同じ場所に頭をぶつけるとかはやりがちだけど、さすがにこれは繰り返したらまずそうだ。たぶんこういうのって不注意とかより身体感覚的な問題ではないかと思ったりする。自分の体の感覚がどこか掴めていない。たぶん合気道とかやると良いのかもなぁと何となく思っている。根拠はないが。 惣田大海水「北極星」。日記ZINE「死ななくてよくなった後の日日」が話題になっていた方。過去を振り返りつつも重くなり過ぎない、バランス感のある文章を書く方だなぁと思う。 “ここではないどこかに、自分の居場所があるという幻想に身を浸す嗜癖だけが内在していると、理解できる歳になっていた”(P47) 若者特有のあの感覚が見事に言語化されており、すごい。これもまた不惑ということか。早くこれになりたい。 友田とん「アドバイスは生きる」。実は友田さんの文章をちゃんと読んだことがあまりないのだが、思ってたより軽さを前面に出されてはいないのだなと感じる。一方で視点の鋭さは想像通りで、そういうところをちゃんと見て考えられているからこそ、あの作品たちを世に出せるのだろうなと。何かを見て、そこからの思考の広げ方が理系的なのかも。少なくとも感覚的な広げ方ではない気がする。 生湯葉シホ「12分」。他者とのコミュニケーションについての学びの話といえるか。自分もそういうのが苦手で、特に「自分が人から見たらどう見えるか」を考えるとものすごく苦しくなる時がある。 “私は笑い、いや、笑うようなことじゃなかったらどうしようとすこし遅れて思う。”(P56) これがもうめちゃくちゃ分かる。何かしら反応しないと!とついフフンみたいな笑いを入れ、「鼻で笑った?」とか言われてしまったり。あああああ 船張真太郎「揺れっぱなしの腹と心」。船張さんはZINEフェスで書店開業日記ZINEを買ったときから「絶対この方は来る…!」と思っていたので、エッセイ界隈を躍進されているのを見るとついつい後方腕組読者顔ムーブをしたくなってしまう。 船張さんのすごいのがノリのコントロールだと思う。今回まさにそういう話を書かれているのだけど、処世術として身につけたお笑い感覚を持ちながらも、コンプライアンスへの目配せも忘れない。読んでいて計り知れない安心感がある。これはベテラン教師としての経験も大きいのかもしれない。 “身体の大きいお笑い芸人から余計な処世術を学ばずとも、誰もがのびのびと暮らせる世の中の方がいい。”(P190) 先生〜〜!!! 教員による不祥事なども見聞きする昨今、こんな先生がもっと増えてほしい。 まつさか ゆう「優しい誰か」。「優しさ」とは何か、という難しすぎる問い。誰かに対して優しいねと声をかけることが、その人にとって呪いとなってしまうこともあるのだと、気付かされる。(「まじめ」とかもそうだ) 積読にある戸谷浩志『生きることは頼ること』を読んだほうが良いかもしれない。 特集はここまで。次に新たな試みとして紀行文が始まっている。扉ページを見てようやく表紙画が日の出か日没の海だということに気付く。色的には日の出っぽいかな。 早乙女ぐりこ「尾道因島放浪記」は林芙美子の足跡をたどりつつ尾道をめぐる。自分も5年前に行ってるんだけど、当時は文学全く読んでいないマンだったため林芙美子のはの字も知らなかった気がする。5年あれば人は多少本を読む人間になれるのだ。まあ、林芙美子は今なお未読であるが……。と思ったら百年文庫の3巻目で「馬乃文章」を読んでいた。百人は読んだって言えるからというミーハーすぎる理由で通読を目指しているのがここにきて役立つ(?)。 千光寺の三重岩は自分も登ったので「やったやったー!」と嬉しくなる。記憶が曖昧なのでこんなハードだったっけ…? とちょっと驚くが、当時みかんバイト帰りで体力がついていたから大丈夫だったのだろう。日々段々畑を上り下りしていたのだ。 巫女バイトのポスターに「インスタデビューのチャンス」と書かれていた話は笑ってしまう。そういうとこ気になるし、書きたくなるよなぁ。 文中に尾道の島々が色々出てくるが、四国の島って絶妙に読めない名前が多いよな…と思う。 前日に鎖やって今日は登山もして歩きまくって疲れているのにさらに因島大橋を往復するというパワーが眩しい。でもせっかくだからと無茶してしまう気持ちは分かる。いやでも29000歩はさすがに歩いたことないな、、、。 最後に後日談も掲載。旅先で知った同人誌を読んでみようと国会図書館に行った話が。あるんだ! これは羨ましすぎる。 とりあえず林芙美子、読んでみよう。ちくまの文学全集が手に入れば良いのだが。 そしてここからは批評。 柿内正午「随筆時評」第三回はいきなり鋭い。「オールドスクールなエッセイの定型」としてまくら→フリ→オチという図式が示されているが、まさに「上手なエッセイだな〜」と思うタイプの型だ。特にオチが斜め上に放り投げられる系が好き。 “あらゆる文章表現は、どうしたら自分の書いたものを真に受けてもらえるか、知らない人にまじめに精読してもらうためにはどうすればいいか、という問題を解決することなしには機能しない。”(P94) というのが今回のテーマのようだ。「真に受ける」を変換しようとしても魔にウケるとかしか出てこなくて死んだが、それはともかく。 この問題に対する一つのアンサーが「ひたすらデザイン(モノとしての良さ)を追求して手に取らせる」ではないかと思ったが、それでは精読までは行かないか…。 そこから話は日記ブームを経由して近代日本文学の自然主義の二面性へと至るが、これはフリではなく真面目な話のはず。身構えて読む。というかこういう「その辺調べたらなんか面白そうだな〜」と思わせてくれる文章が好きなのだ自分は。知った気になれる…。 評論を読み慣れていないため「私」と〈私〉で表記の使い分けがなされていることに気付かず読み飛ばしては戻りをしながら読み進む。(しかし「私」の方の意味がいまいち実感できないままに) 後半では今までの話の流れに沿う表現手法の作品たちが紹介されているが、どれもおそらく自分が何の手助けもなく読んでも「???」となる作品で、うぉおおと思う。何もわからんがなんかすげー難しそう……。そんな見方をしてしまうのもまたポジション確認? ただポジション確認してしまうのは情報が多すぎるからでもあって(文フリで何の前情報も無しに作品を買うことのハードルの高さ)…などと考え始めるとひたすらズレていくので、とりあえずそれは『置き配的』を読んで考えたい。 佐峰存「綴る、転がす、育む——随筆批評の可能性」。英語圏における〈Zuihitsu〉の広がりという話から。そうか、essayはモンテーニュとかそっちになるのか。 文体の種類について何となくしかわかってないのでほえ〜という感じだが、〈Zuihitsu〉は散文でも韻文でもないらしい。というのは散文の概念がそもそも異なるからで…ううんややこしい。 実例として詩人のキミコ・ハーンの作品を引きつつ、これが英語圏の一般的な文体とどう違うのかが解説されてゆく。 Haikuの概念違い問題とかもあるように、単純に翻訳すれば同じ見方のもとで読めるというわけじゃないんだなあ。古い作品の訳が翻訳調で読みにくいというのはまさにそういうことか。 そこから漱石門下の厨川白村が定義した黎明期のエッセイの定義なども紹介されていくが、読んでいると自分のエッセイ観の狭さを再認識する。やっぱりどこか軽い書き物として見てしまっている部分があるのだなと。 しかし最初期の定義からすでに「詩歌における抒情詩を散文的に行ったもの」とも書かれているのだという。記録や羅列とは別物で、文芸たりうるものなのだ。 そして終盤、『随風』創刊号に掲載の作品のテクスト分析も試みられているが……あああなるほど〜〜そういう描写なのかああ!! と全く読み飛ばしていたディテールのこだわりが読み解かれてゆきアハ体験すぎる。いやもう全作解説してほしい。 “詩のように一つひとつの文や言葉を解きほぐし評していくことで、随筆作品における一人称の特権性は薄れ、読はさらに多面的になっていくのではないか”(P123) まさに「おしゃべり」だなぁと思う。そしてそう考えると客観的に見て良い文章というのはついつい言及してしまいたくなるような文章…ということになるか。あまりにもプライベート(「私」が特権的)な話題だと触れにくいしね。 高山京子『坂口安吾とエッセイ、すなわち不可解なる「私」』。偶然なのか意識的なのか、柿内さんの評論の分からなかった部分を補足してくれていて助かる。「私小説演技説」なるものがあったんですね。 随筆文芸誌を読んでいるのでつい随筆とはなんぞや…みたいなことを問い問いしてしまうが、坂口安吾みたいなそこを曖昧に溶かしてゆく書き手もいて、そうだよな〜別に決まってるわけじゃないもんな〜と思う。ちゃんと読んでないけど最近の保坂さんとかそんな感じ? 竹永知弘『「エッセイ」という「イズム」』。古井由吉の「エッセイズム」から考えるエッセイ論。初めてちゃんと古井由吉の経歴みたいなのを知った。 ここで書かれている「ジャンル的不一致感」というのは柿内さんのポジショニングしてくる「視線」から逃れる〈私〉というイメージと近しいものと考えて良いだろうか。 ムジールを参照しつつ、学者にも作家にもなれないからエッセイを書くというあり方を肯定している箇所は、その文脈でエッセイを肯定することもできるんだ、と思った。そう思ってしまうのはやっぱり小説を上に見てしまっているからなのだろうか。 ラストの古井由吉の言葉は納得。実際、人文書とかそうなっていっていると思う。 いつもの編集していないほうの編集後記は点滅社の屋良さん。めちゃくちゃ編集してそうな感が出ているが、編集していない…? この処世術は屋良さんにしかできなさそう。 プロフィール。くどうさん、打ち間違えについての文章の中に打ち間違え(というか余計に打ってしまった何か)が。というかこのちっちゃい+、何??? あ、もしかしてこれ電荷の記号か? H ⁺の「⁺」? いやだとして何故ここにそれが…??? と考えたが、iPhone日本語キーボードで「ま」と打つ際に下の顔文字キーをタップしてしまい挿入された顔文字の残骸説。やりがち。 佐川さんの言及で滋賀作家アイデンティティが激戦区と知る。 惣田さんの紹介では山頭火の名の由来を知る。 「第一回随風賞募集のお知らせ」。ついに新人賞が…! 随風賞ってめちゃくちゃ雅な響きだなぁと思う。原稿5枚程度で応募も多そうなので上限100とされている。ただの散文には興味ありません!散文芸術を求む! みたいなことを審査員の方々は書かれており、そこの違いをまずは噛み砕けないとだなぁと。 編集後記。平林さん。ご愁傷さまです…。随風賞は選考外にもすべて講評すると書かれていて、だからの100作品かと納得。それでもすごすぎる。 宮崎さん。批評はめちゃくちゃ読んでて楽しいのでもっと増やしてください。…って言っちゃったら本末転倒かしら。 早乙女さん。めちゃくちゃためになるアドバイスが。ただ記憶力とモチベーション維持力がある程度必要そうかも。 ということで読了。今回も濃かった。そして読めば読むほど「随筆」のことが分からなくなっていく感覚。そこはもうなんか、考えすぎない方が良い気もしてきた。俺たちは雰囲気で随筆をやったっていいのかもしれない。 本文書体:イワタ明朝体オールド、石井ゴシック 装画:坂内拓 装幀:川名潤
  • 2026年4月13日
    随風(03)
    随風(03)
  • 2026年4月9日
    今度は異性愛
    今度は異性愛
  • 2026年3月30日
  • 2026年3月29日
    粉瘤息子都落ち択
    冒頭を少し読み、これはいわゆる“オモロイ純文”というやつに違いない…! とワクワクしながら一気に読み進めた。軽くてノリの良い掛け合いを抑えめの文体で書くタイプの作品、好きだ。 個人的にピークは「パワハラ」の実情が明かされるところで、一気に力が抜けた。 忍の事情といいリアリティなんて初めから置き去っていて(でも細かい部分は妙にリアルだったりしつつ)、このグルーブにノれるかどうか、みたいな作品だと思う。
  • 2026年3月21日
    トピーカ・スクール
    トピーカ・スクール
    文体がかなり独特なので、かなり苦戦した。(たとえば「——」の挿入が非常に多く、その度に読んで戻っての時間がある。たぶんあえてそのように書かれているのだろうが、その意図はどう解釈できるだろう。 作品のテーマを一言で表すのは極めて困難。あまりにトピックが多い。(文字でさえ混乱してしまうのだから、スプレッドなんて仕掛けられた日には泣いちゃう……) 中心にあるのは「話すこと」とアダムの成長物語なのだろうが、登場人物一人ひとりの物語が多層的に折り重なって融合しているため、単純な物語として整理(プロセス)することはできない。 しかしキーワードを抜き出さないことには何も思い出せないので、いくつか重要そうな部分を挙げてみると ・スプレッド ・おとなこども(マンチャイルド) ・ドウッチョの「聖母子」 ・関係の力学 ・紫の牛 あたりだろうか。 スプレッドの残酷さや政治とのリンクについては既に多く言及されているので、断章として挟まれるダレンのパートについて考えてみる。 おそらく軽度の知的障害を持つ青年・ダレンは同級生たちから揶揄われたり湖畔に置き去りにされるなど酷い扱いを受けている。一方で彼は白人男性というマジョリティでもあり、マイノリティの障害者が受けるようなさらに深刻な被害は免れている面もある。 ダレンのエピソードが挿入されるのは、彼が結果的にある事件を起こしてしまったことが青年期のアダムに罪悪感を与えたということもありつつ、訳者あとがきにある(P358)ようにアダムにとってもう一人のあり得たかもしれない自分として対比されているのだろう。ダレンが直接的に何かを話している描写はあまりないが、おそらくその発話はアダムのスプレッドのようなものではなく。 36ページにやや唐突に出てくる「主題統覚検査(TAT)」で提示される、ディベートで勝利を収めたアダム少年の姿と、334ページで同じように出てくる(おそらく政府への)抗議者としてのダレンの姿。そして最終章のタイトルはまさに「主題統覚(アダム)」である。 やはりここは口の立つもの側であったアダムが自身のユダヤとしてのルーツやプエルトリコルーツのパートナー・ナタリアとの出会いを通して、ダレンの側に立つことができるようになった、と解釈できるか。
  • 2026年3月18日
    トピーカ・スクール
    トピーカ・スクール
  • 2026年3月1日
    叫び
    叫び
    芥川賞受賞作。万博小説というか大阪小説というか茨木小説。史実とフィクションとが巧みに混ぜ込まれている。 恋人に振られ、風俗店を出禁になった青年・早野が憔悴して夜の川沿いを歩いていると、どこからか鐘の音が聞こえてくる。その音を辿った先で出会ったのが、生活保護で暮らしながら銅鐸作りを続けている「先生」だった。 銅鐸作りを習いながらアシスタントを始める早野。「聖」(国家の霊性面における柱的な存在)を生み出すという思想を持つ先生に感化され、銅鐸と郷土史の探究にのめり込んでゆく。 先生の助言で茨木市の公共施設でボランティアを始めた早野は、そこで出会った一人の女性に惹かれてゆき…。 銅鐸は祭祀道具だと習った記憶があるが、本作においてはどちらかというと警鐘の鐘のようなイメージで用いられている気がする。聖の思想とか紀元万博とか国家と祭祀的なアイコンも出てくるけれど、何せタイトルは「叫び」なのだから。 ただ、かと言ってずっしり重い作品かというとそういうわけでもなさそう。関西弁の醸し出す空気とか、距離感間違えて銅鐸で殴られるみたいなおもろ場面とかで全体的に飄々とした雰囲気。壮大なハッタリをかましているのではないか、とも思わせられる。 選評で否定的なコメントもあった終盤について。なんで今の天皇に? とは思ったが、醒まされて終わる感じは悪くないかな。どっちへ行くのか読めずグラグラする中盤だったので、何にせよ引き戻されたことでちょっと落ち着いた。(ここを「あわや天皇陛下に何らかの危害を加えたかもしれない青年には謎の宗教的思想が」と世間側から読むと怖い話になり、川又青年としおりさんとの間で揺れた早野が最終的に川又青年への恋を選んだ、ととればハッピーエンド…ではないか) 一番良かったのは炭鉱を降りていくところとか大屋根リングから万博見るところ。 “誰もいない道をのぼっているせいか、足を置いた岩がぐらりとするのも、急傾斜に差し掛かり、樹々のざわめく音がして、振り返るとしかし何の影もなく、再び歩き始めようとしたところで鳥の鳴き声がするのも、自分自身のおどけに風景を付き合わせているような心地がして、何とはなしに早野は遊歩道を逸れて、沢を登り始めていた。”(p90) “それらのパビリオンを地上から見ているときに抱いた、一つ一つの箱の中身を決して知り尽くすことができないという、無力感にも似た焦燥が、大屋根リングからの一望で、たちまち悠然とした、既にコレクションが済んだのだという所有感にも近い全能感に転じていく。”(p110) 情景描写と心情を組み合わせるバランスが良くて好き。 本文書体:リュウミン 装幀:新潮社装幀室 装画:須永有「逆光の中の人」2016
  • 2026年2月26日
    よくわからないまま輝き続ける世界と
    期待値に阻まれるからか、好きなタイプの文章ほどなかなか読み始められないということがままあって、古賀さんの著書はまさにそんな感じだ。 「日記を書くために何かし続けた」一夏の日記集。その何かするというのも、野菜ファーストをやめてみるとか道の花を摘んでみるとか、めちゃくちゃささやかだし、やはりどことなくDPZっぽさもある。 この言語化はすごいな…と思ったところをいくつか。 “私は水を飲むという行為に、つまり拗ねていたのだ。拗ねていては人生はつまらない”(P32) 美容の世界で水がもてはやされていることへのアゲインストの気分を自覚してのコメント。自分はありとあらゆることに拗ねまくってるので(そんならもういいもん、やんない!となりがち)この冷静さはマジで見習いたい。 “外へ出ればベースは秋なものの上部に夏が戻ってかぶさったような空気だった。上澄みの夏に惑わされないように気を確かに秋の風を積極的に感じとって仕事場へ。”(P197) 前半はまだしも、この後半は古賀さんにしか書けないよなぁこんな。 “夏の朝、そうめんをピザにする。/生きるとはこういうだしぬけなところに宿るよなと思う。”(P222) そこで「だしぬけ」という単語が出てくる語彙力というか世界との向き合い方というか。そうめんピザも初めて知った。 この本の副題は「気がつくための日記集」で、それは古賀さんが暇を「ふせいだ」先に見出される何かしらのことなのかと思うが、読んでいる側も「あ、世界ってそんなプレイ方法あるんだ…」みたいな気付きができるのが良いなぁと思う。 あと見返していて冒頭にすごく良いことが書いてあった。 “自分の生活や心境を記録したい意思は実はあまり無く、作文に興奮したいのがほとんど目的だ”(P1) そのモチベーションだから謎の迫力が出せるほど続けられるんだろうなあ。 本文書体:アンチックAN+リュウミン,見出し:石井ゴシック ブックデザイン:中村妙 イラスト:いそのけい アンチックと明朝の組み合わせ、あまり見ないけど空間がゆったりしていてよい。
  • 2026年2月26日
    芥川賞候補作全部読んで予想・分析してみました: 第163回~172回
    ここ数年なんとなく追っている芥川賞。候補作をいくつか読んだり受賞作を読んだりしてみるけれど、結局芥川賞って何なんだ…? というのが知りたくて読んだ。 とりあえず分かったのは ・文学実験は評価される ・エンタメ性は評価されない ・平野啓一郎にぶった斬られ、山田詠美にぶん殴られがちな選評 という感じ。 自分が芥川賞を追い始めたのが『ハンチバック』やら『東京都同情塔』といった社会的テーマと強く結びつく作品が並んでいた時期だったのでそういう傾向かと思っていたが、「実験性」のほうはまだちゃんと理解できてないなと思った。(だから『サンショウウオの四十九日』などはピンときていなかったり) そもそもそれ以前に本書の対談と選評コメントの総括を読んでいると、自分の読みなんてカスやという現実がよく分かってごめんなさいという気持ちになる。なんちゃって予想はもうしません…(獲ってほしい、とは言うけど)。 しかし『ハンチバック』のインパクトが大きかったことは間違いないらしく、ここからまた潮流が変わるのではないかという指摘も。 “芥川賞ではしばらくテーマとそれを書く側の当事者性問題について敏感であった時期がありました。それが「ハンチバック」(第一六九回芥川賞候補作)の受賞によっていったん収束したように見えます”(P233) “主流文芸でもこれからは、「目をそらすわけにはいかない社会的テーマにどう寄り添うか」よりも、「お前の脳にはいったい何が見えているのか」という、知覚と認識の本質がよりシビアに問われていくような気がします”(P126) 当事者性の極致みたいな作品でありつつ、選考ではあくまで小説的技術を評価したというのが全面に押し出されたことによって、当事者性が全てではないという流れになったということかな。こういうのは長年追い続けていないと分からないので、ためになる。 乗代さんの続きものがノミネートされて不利になっちゃう感じとかどうなのかなぁと思うけど、でも作家も出版社も文芸誌に未受賞作家の中編を載せるってことはある程度芥川意識してるものなのかな。 本文書体:リュウミンオールド、見出し:A1ゴシック カバーデザイン:荒木香樹 カバーイラスト:フクイヒロシ
  • 2026年2月22日
    猫社会学、はじめます
    猫社会学、はじめます
    猫本の皮を被った社会学入門書である。進路選択に迷う高校生や専攻を決めかねている大学生にめちゃくちゃよさそう。 第1章「猫はなぜ可愛いのか?」では質的統合法によりインタビューから猫の可愛さの七要素を抜き出して整理する。猫に対する愛情が表面的な可愛さからだんだんお猫様…になっていくというのが面白い。 第2章「私たちは猫カフェから何を得ているのか?」には興味深いデータがいくつか出てきていた。例えば犬はペットショップ購入が圧倒的に多いが、猫は(令和4年時点では)「野良猫を拾った」のが一番多いとか、江戸時代にも「花鳥茶屋」なるものがあったとか、猫カフェに行く客層は猫を飼っている人が多いとか。猫を介したコミュニケーションの可能性からサードプレイスとしての猫カフェの効能についてなども。 第3章「ふつうの猫しかいない「猫島」に人はなぜ訪れるのか?」は観光社会学の知見。猫島を訪れる人々は事前に予習するがゆえに猫島としてだけ現地を見てしまい、過疎地域の抱える問題が不可視化されているという指摘。最近よく見るアーリの名前も。 第4章「猫から見た「サザエさん」」はサザエさん全7193話から「家族」としての猫のイメージの変遷を辿る大変そうな研究の賜物。高度成長期には「ネズミ捕り」として半ば放し飼いされていた猫が、「純粋なペット」として家族の一員になるという時代の変化。その兆候をサザエさんの描写のなかに見つけるという試みだ。 一番意外だったのは「タマ」はアニメ版だけで、原作では特定の猫を飼っている描写がないということ。そうなんだ。 第5章「人と猫は、いかにして互いを理解し合っているのか?」は理論社会学からの研究で、なかなか難しい。人間(文明)と対立する自然という観念のなかで、そのどちらにも属し得る猫という存在。 “猫と和解するということは、文明が自然に対して振るう暴力を抑制し、自然と和解する第一歩になり得るということです。”(p173) どうしてもあの看板を思い浮かべてしまうけれど…。 最終的にそもそもコミュニケーションとは何なのか?という話になり、猫と人間との「相互行為秩序」とか猫がコミュニケーションのパートナーたる「主観的他者」である(と人間から認識される)要因とか専門性が深まってきて???となってしまったが、ざっくり言うと「猫社会学を掘り下げることは、人間中心主義や理解できることへの信仰を解きほぐすのではないか」ということか。 最後は特別対談として赤川さんとオープンダイアローグ第一人者の斎藤環さんの対談。猫を飼うことは社会との接点回復やケアとしての効能があるかもしれないが(もちろんその道具として猫を利用することには反対されている)、独身男性は保護猫の里親になるハードルがめちゃくちゃ高いらしいという話も。飼育費の増加とかも、ペット家族化の難しい面だなぁと思う。 装丁:鈴木千佳子 本文書体:筑紫明朝
  • 2026年2月7日
    雪の練習生
    雪の練習生
    多和田葉子作品は初めてだったけれど、極力説明せずに納得させていく感じが独特だなぁと思った。 ホッキョクグマを主役にした三世代の物語。最終章に出てくる「クヌート」はドイツに実在したクマらしく、絶妙にリアルとフィクションが交差している。 序章の「祖母の退化論」に出てくる(クヌートにとって祖母である)「私」はサーカスを引退してから、さまざまな会議に引っ張りだこになっている。この時点ですでに何かが不思議なのだが、かといって完全に人間化されている訳ではなく、サーカスで芸を覚える前は普通に檻で飼われていたりして、この世界の人間と動物の微妙な立ち位置がなかなか把握できずにもどかしい。 第二章の「死の接吻」に出てくるトスカは言葉を喋れずより動物的な存在として描かれており(ただし、クマたちが組合を作ってストをするような世界線ではある)、第三章のクヌートまで来ると完全にクマである。たぶんこの時代の人間は動物と喋るなんて全く想像していない。 (もう一つややこしい点としては、クヌートの母である「トスカ」と「祖母」の娘である「トスカ」は魂を引き継いだ別個体…というようなところ) 一体どういうことなの…? と思ってしまうが、この三世代には時代的な隔たりと文化的な隔たりがあって、つまるところこれは「東側」から「西側」への、近代から現代への移行の物語として書かれているのだろうなということは理解できた。 個人的には文化的移行期的な時代のシスターフッドを描いた二章が好きだが、序章はユーモアと「作家」としての葛藤といった著者自身とのリンクもあり面白く、第三章のラストはジョイスを思わせる余韻があって良い。 歴史や東欧文化を知っていればもう少し深く楽しめるのだろうなと思う。 装画:庄野ナホコ 本文書体:秀英明朝
  • 2026年1月14日
    激しく煌めく短い命
    『文學界』の連載で最後の数回だけ読んだけど、やはり最初から通して読みたいと思って手に取った。悠木久乃と朱村綸、二人の少女が出会い、恋に落ち、別れ、そして再び出会うまでを描く大作。 辞書並みの厚さになっているのは中学時代と再会後32歳の今を描く二部構成になっていることもあるが、何よりも圧倒的なディテールの描写によるものだろう。たとえば序盤には90年代の京都の中学における同和教育の授業風景が出てくる。恋だけでなく、その周囲にある時代性や社会を描くことへの並々ならぬ熱量が伺える。 『文學界』のインタビューによると、綿矢さんは本作を意識的に「百合小説」として書かれたという。一方で、百合にありがちな「きれいごと」だけで終わってしまう展開にはしたくなかったとも。 個人的に百合というと日常系アニメのゆるふわ系やSNS漫画の関係性重視のようなものを思い浮かべてしまうが、当事者性を娯楽として消費してしまっていいのかという後ろめたさもある。そこを誠実に向き合われている綿矢さんはすごいと思う。 二人の人物像として、久乃は家庭のこともあって、周りから変に思われたりルールを破って怒られないことにものすごく気を遣っている。綸の影響でだんだん遊ぶようにはなってくるけれど、それでも中心の部分は変わらずにいる。一方の綸は周囲の目なんて知ったこっちゃないという溌剌なタイプ。この微妙な噛み合わなさが後々亀裂をもたらしてしまうのだが、それを20年越しに乗り越える展開にはやはりカタルシスがあった。 作品のメインテーマが恋であるならば、もう一つの大きなテーマが「世代」だろうか。90年代というギリギリ昭和の価値観のなかで育ってきた人たちが、急速に変わってゆく時代に取り残されてゆく。どちからというとおじさんメインの作品に多いテーマだが、そんな社会に適応してきてしまったバリキャリとしての久乃もまた、その流れの中で戸惑っている。 “時代性とはそういうものだ。無関係に生きていたように見える人間さえ、その時代の空気に飲み込まれ、溶け込んでいる。”(P528) 戸惑いの中で疲弊してゆく久乃を救ってくれるのは、やはり綸しかいないのだった。 二人は中学生の頃にできなかったことのその先へと進むが、合間合間で中学時代の(書かれなかった)記憶が挟まれていて、あの頃も確かに豊かな時間だったんだなぁと伺えるのが良い。 本文書体:凸版文久明朝 写真:釜谷洋史 装丁:野中深雪
  • 2026年1月8日
    なにも食えない
    “いつもおれは、ビザやパスタのある国や都市だけを選んで行く。”(P7) 前回の東京文フリはカタログを隅々まで読み込んで行ったのだけれど、そんな中でも特に異彩を放っていたのが本書。 世界各地に行って、現地の名物を、食べないのだ。シンガポールでは海南鶏飯を食べず(奇妙な光沢と色が変)、上海では上海蟹を食べない(蟹味噌はセメントみたい)。 なんか垂れていたり、よく分からないものは基本ダメ。食べられそうであっても、ピザやパスタがあればそちらを選ぶ…。 “騙されたと思って、の意味がわからない。食べてみたところでふつうに不味い。自分の舌を信じている。”(P62) 食わず嫌いも極まるとコンテンツになるんだなぁ。そしてこの太々しさみたいなものが、全体に独特のユーモアを纏わせていて良い。 さらに、謎に冷めているのは食に対してだけではない。インフィニティプールは冷たすぎて楽しめなかったり、間欠泉の写真は汚い噴水みたいになったり…。なぜかそういう記憶ばかりが続いてゆく。 自分なぞはせっかく旅に来たのだからと名産や名所を求めてしまうほうの人間だが、本書はそんな「当たり前」に一石を投じるような紀行エッセイになっていると思う。(頭木さんの「共食圧力」みたいな話も思い出す) しかし、何より一番興味深いのは、そんな食えないもんだらけでも海外に行くことをやめない著者のスタイルだろう。 “夜、風呂から上がり髪を乾かし、夜風に当たりながらコンビニへ向かう、そのときいつもの道なのに少しばかり心が浮つく、ともすると来たことのない場所に来てしまったという感覚さえある、そういうときにふと、このまま海外にでも行きたいな、と思うことがある”(P11) 日常にひびをいれるために、海外へゆく。その発想は自分には全く無いものだからこそ、著者のことをもっと知りたくなる。 ぜひ活躍されて色々書いてほしいお一人だ。 (経歴を見るとカフカショートストーリーコンテストで優秀賞を獲られていて、『文學界』ですでに出会っている方だった…!) 本文書体:游明朝体 著者・装幀・発行者:染水翔太
  • 2026年1月7日
    超楽器
    超楽器
    京都コンサートホールの周年記念エッセイ集なのだが、鷲田清一編で三宅香帆、岸田繁という執筆陣に惹かれた。音楽と建築の観点で書かれた文章が主。 堀江敏幸「一度しかない出来事を繰り返すよろこび」はオーディオとコンサートホールの音響について。こういう繊細なテーマを表現するのがそりゃもう上手い。 “ながらくFM放送で親しみ、場内の音を想像しつづけてきた空間にはじめて腰を下ろしたとき、開演前のノイズのうつくしさに陶然となった。[…]すぐれた演奏の下地に、こういう空気の層が擦れ合うような音の網がひろがっていたのか。”(P34) 小説の一節みたい。 そして、そういったホールの音響は「演奏家や観客の、体温と呼吸の研磨」によって成長し、成熟してゆくものだともいう。 その違いを感じ取れるような繊細な感性がすごいと思う。 佐渡裕「第九から始まる心と街の復興」より。 “僕は、「第九」は決しておめでたい曲ではないと思っている。たとえば、有名な「歓喜の歌」が現れた後、男声合唱が厳しく「Seid umschlungen(抱き合いなさい)」と歌う箇所が出てくる。僕は、この歌詞が「抱き合いなさい、抱き合うことができなければ、この歓喜は手に入らないのですよ」ということを示唆していると解釈した。” 何となくおめでたニューイヤーで聴いてるだけではこういう鑑賞はできないだろうなぁ。知ることの大切さ。 三宅香帆「奏でるよりも聴くことで」にも興味深い話が出てくる。ピアノの上手さについて、 “「ピアノが上手い」を私なりに定義すると——自分の理想の音楽が脳内に存在しており、その理想が的確で、さらに現実でその理想に届くことができている状態——なのである。”(P49) 話はさらにそこから敷衍されて、才能とは理想をイメージできることだ…と三宅さんは書かれている。なるほどなぁ。自分にはあらゆる才能がねぇってことですね。。 岡田暁生さんも堀江さんと似たような趣旨のことを書かれている。 “ホールが「機能」ではなくて「文化」だとするなら、「古くなれば建て替えればいい」というわけにはいかない。重要なのはむしろ、古い寺社や教会と同じく、ホールが街並から切り取ることのできない風景の一部となるまで、それを熟成させることである。”(P58) 昨今のお金のない自治体にはなかなか厳しいところがあるとは思うけれど、理想はそうなのだろうなぁ。 世界の名だたるコンサートホールは19世紀末ごろのバブル&都市改造ブームの産物というのも初めて知った。 彬子女王「神々に届く音」は割と気軽で現代的なところもありつつ、尊敬語がものすごく多い上品な文章はさすがの皇室エッセイ。音楽の来歴としてちゃんと天岩戸神話に繋げていくところも、非常に完璧な一編だと感じる。 岸田繁「魔法の音楽」。ホールについてというお題に真正面から向き合った文章だ。 “私たちは音楽の船に乗ったまま甲板で海図を確認しながら、耳と心を微調整する。休憩時間はコンサートにとって大きな意味を持つのだ。”(P91) 休憩のあるような格式高いコンサート、ほとんど行ったことがないなぁ…。 交響曲を書いたことについて。 “私は元々ブルース・ギタリストであり、今もなおバンドマンでシンガー・ソングライターである。ただ、それ以前に私はあらゆるジャンルの、あらゆる地域の音楽を愛する駆け出しの作曲家だ。”(P95) うーんかっこいい。 鷲田清一さんは「初源」というキーワードから始まる音楽の話。民族音楽学者・小泉文夫の「生活と音楽が分離してしまった」という言葉を引用しながら、それでも純化し突きつめられた「ふつう」の音楽と、流行歌や戯れ歌、歌謡など生活の音楽の間にある「ぶれ」こそが、音楽をたえず進化させてきたものだという。 山極寿一さんのゴリラの音楽の話から始まって鷲田さんの初源の音楽の話で終わる構成がいいなと思った。 鷲田さん、編者紹介で好きな楽器は「エレクトリック・ギター」と書かれている笑 本文書体:リュウミンオールド 装丁:大倉真一郎
  • 2026年1月4日
    BOXBOXBOXBOX
    BOXBOXBOXBOX
    宅配荷物をトラックに積み込みする物流倉庫「宅配所」。午前中は向かい側のレーンも見えなくなるほど深い霧が入り込んでくるこの場所で働く四人の視点から描かれる作品。 単純作業の退屈を紛らわすために「箱の中身を想像する」という遊びをしていたが、ある出来事を境に盗みの快楽に溺れてしまう安。妻の入院費を稼ぐために働くものの、介護のストレスから仕事中に飲むほど酒に溺れてしまう斎藤。派遣の仕事を切られ、次への繋ぎの間だけと働くが、初日からレーンを蹴飛ばすほど仕事が嫌になっている稲森。盗品や破損など不始末の尻拭いやさまざまな雑務を押し付けられ、頭痛が止まらない契約社員の神代。 これは令和のプロレタリア文学。 レーンの一部となって人間らしさを剥奪される人々。彼ら彼女らはそれぞれ何らかの方法で抵抗を試みているのだが(間接的に描かれる技能実習生たちのストライキなども)、何か不気味で巨大な、霧に包まれる宅配所という存在の中で有耶無耶にされていってしまう。 最終的にはそれぞれ四人が向かう未来が描かれていて、そこは一瞬希望を持てるものの、根本的にはなにも解決してないよねというところ。そりゃまあ、この物流を要求する社会の側の問題なのだから、そんな簡単に変わらないだろう。 「鳩」たちはそんなアホらしい人間たちに対する自然の象徴なのかなぁと思った。 本文書体:イワタ明朝体オールド 装画:杉野ギーノス 装丁:川名潤
  • 2025年12月31日
    文学は何の役に立つのか?
    冒頭に収録されている表題の講演と、様々な媒体で発表された批評・エッセイがまとまった一冊。 講演では「人は皆自分の悩みに価値があると思っていないので、ちょっと憧れるような登場人物とか立派な人の中に共感を見出すと、心地良く共感できる」(P27)といった興味深い話もいろいろありつつ、特に印象に残ったのが後半の不幸を「機因化」してしまうという問題。 貧困を描いた作品が当事者にとって救いになるかもしれないが、それは一方で現状の肯定に繋がってしまうのではないか…というようなことだと思う。これは「生きてるだけでいいんだよ」みたいな言説にありがちなやつだ。その言葉が必要な時もあれば、それだけ(最低限の生存)で満足ってわけじゃないでしょ?という時もある。 これは東畑さんの「贅沢な悩み」ともリンクする話だなぁ。 そこから軽めのエッセイを挟みつつ、ドストエフスキー論や三島由紀夫論など骨太な批評が並んでいる。 ドスト論はさすがに読んでいないとなかなか理解できない。「分人」が現れている登場人物もいれば、ほとんど分化できない姿で描かれる人物もいる、みたいなところがあるのはわかった。 続いての「三島戯曲の世界」も三島を読んでないのでほーん…という感じで読んでしまうが、戦後日本人に海外旅行が解禁されたのが1964年というのを初めて知った。オリンピックなんかより全然重大事項じゃないか。 追悼エッセイ「瀬戸内文学の再評価に向けて」では、日本の文壇の男性中心主義批判や瀬戸内作品のフェミニズム的批評の必要性が指摘されている。ここを読んでいて、確かに自分の中でもフェミニズム文学っていうとどうしても現代作家ばかりイメージしてしまうなぁと思った。現代に至るまでの女性作家の作品がすっぽり抜け落ちている。読まなきゃなぁ。 “私たちは、瀬戸内さんのケータイ小説などの取り組みを、単なる新しいもの好き、と見るのではなく、この枠組みを踏まえた上で評価する必要がある。” (P189) 女性の性という主題から、評伝の仕事を通して「社会道徳と自由及び欲望とな軋轢」の探究に至る。やがて宗教との出会いから「個と社会変革、個と魂の救済」という瀬戸内文学の骨格が完成してゆく…というように平野さんは整理されている。 やはり一時期だけ見て作家を理解するのじゃなくて、ライフヒストリーも踏まえて見ていく必要があるんだなぁ。 『オッペンハイマー』論は特に気合い入ってる感じがしたが、依頼原稿ではなく本人の希望で書かれたものらしい。被爆国である日本から見るとモヤモヤしてしまうであろう作品でありながら、ノーラン監督がいかに原作にはない要素で批判的視点を加えようとしたのか、というのが興味深い。また最終的にオッペンハイマーとの対比で林京子の作品に触れているのがさすが作家だと思う。 ノーラン作品全体に共通する時系列のあり方についても解説されてあて、観ていないのでネタバレも多少あるものの、でもこの複雑さは初見じゃ理解できなかろうなぁと思った。 本文書体:リュウミンオールド
  • 2025年12月16日
    フクロウ 地球上で最も謎めいた鳥の科学
    フクロウ 地球上で最も謎めいた鳥の科学
    フクロウとみみずくの違いも知らなければ、エッホエッホのフクロウがどの種類で何をしているのかも知らない… そんな無知な自分が初めてフクロウという鳥にじっくり向き合ってみた読書だった。 まず構成については、海外の科学本にありがちな「研究者の〇〇は〜という発見をし」みたいなのが羅列されていく読みにくさはあり、次々とフクロウの名前が出てきてもなかなか頭に入ってこないのだが、DNA周りの技術向上で類縁関係が見直されたというのは鳥展で見たやつだなぁと思った。猛禽や夜行性鳥類の仲間と思われていたが、実は昼行性の鳥類から分岐したらしい。 色素によって重さが違うから羽の暗い部分が効率的に配置されている、みたいな話(P63)も興味深い。色で重さが違うとか考えたこともなかったなぁ。 “ヘンリー・デイヴィッド・ソローは、アメリカオオコノハズクの求愛の歌は、自殺願望のある恋人たちが互いを慰めているように聞こえると思った。” (P184) ソロー積んだままなのでわかんないけど、森の生活とかにそんなこと書いてるんかな。印象的だがいまいちイメージしにくい。 飛んで7章「捕らわれのフクロウ」より。 “日本は世界最大のフクロウ輸入国であり、何千羽に及ぶ輸入フクロウの90パーセント以上を占める。[…]日本の法律は人間によって育てられたフクロウのみ販売を許可すると明確に定めているが、業者は捏造文書や古い許可証を違法に使い回して法の穴をくぐりぬける。” (P315-316) ここまで読んできたらフクロウを飼うことの困難は十分に感じられるものなので、当然そんな気軽に飼っていいもんじゃない。あのナイチンゲールでさえ死なせてしまったのだから…。 刷り込みについても意外な事実が書かれていた。なんとなく人間が刷り込まれた動物は友好的になるようなイメージもあるが、フクロウにとって人間の顔は自分達と似ている故に、縄張りを主張して攻撃的になるのだとか。 本書のメッセージとして最も大きいのは「知ることの大切さ」である。たとえばフクロウの保全については次のような観点が考えられる。 “まだ生きている木を切るか剪定する前に、樹洞がないかどうか確かめる。立ち枯れ木や死んだ木はリスクがなければそのままにする。巣箱を設置する。ネズミ胎児には毒ではなく罠を使う。周囲にいるフクロウについてできる限り学ぶ。どんなフクロウが暮らしているか。どこで暮らしているのか。彼らが直面する脅威は何か。外に出て地元のフクロウを見つける。でも、自分がフクロウに与えるかもしれない影響を認識しておく。フクロウの鳴き声の録音を流すのは、すでにストレスを抱えているフクロウにさらにストレスを与えることになると知る。” (P424) 改めて、フクロウについてほとんど何にも知らないんだなぁということがよく分かった。 本文書体:秀英明朝 装幀・組版:佐々木暁 日本版カバー写真:ジョエル・サートレイ「PHOTO ARK(動物の箱舟)」より
  • 2025年12月10日
    十二月の十日
    十二月の十日
    12月10日に表題作を読めるように読み始め、おそらく予定通り読めそうなぐらいのところまできた。
読み込み中...