
DN/HP
@DN_HP
2025年2月19日

クローム襲撃
ウィリアム・ギブソン,
浅倉久志
かつて読んだ
また読みたい
サイバーパンク
ウィリアム・ギブスンの短篇集の最初の一篇、黒丸尚訳の「記憶屋ジョニイ」がサイバーパンクだった。とは言いつつもそれは断片的な情報からわたしがイメージしていたサイバーパンクなので、実際の定義とは齟齬があるかもしれないけれど。
わたしの読解力やイマジネーションの問題もあるかもしれないけれど、「映像が浮かぶよう」と言われるような文章よりも、映像が浮かぶ間も無く文章自体のドライヴ感やグルーヴに急き立てられて読み進めてしまうような、あるいはその文字列自体の美しさ、クールさに感動して立ち止まってしまうような文章が好みだったりする。それらに振り落とされないように、置いていかれないようになんとか意味を掴み、文章にしがみつきながら進んでいくようなスリリングな読書がときにはしたい。黒丸訳のギブスンの文章にはそんなスリリングさと感動があった。なるほど、これがサイバーパンクか、と勝手な納得をしたのだった。
そんな短編を読んでいたときに流していたのはハーレム出身のラップ・グループ、CANNIBAL OXの2枚目のアルバムで。そのタイトル「BLADE OF THE RONIN」が期せずしてサイバーパンクぽい気がした。というところから、単語で意味を、ルビで音を表現しながらテック用語に造語やスラングをスピットしフロウさせていく黒丸訳のギブスンは、ラップ・ミュージックにも近いのではないか。いやしかし、この疾走感、スピードはこの小説が書かれた80年代のパンク、つまりはハードコア・パンクのそれとも共通するものがある気もする。けれどそもそもこのパンクは音楽のそれなのか、みたいなことも考えていた。おもしろい。
何回か読んでいくうちに地の文とルビの関係性に納得と発見があったり、キャラクタや街の造形が浮かび上がってきたり、背景にある時代にも気づけたような気もしてきた。最初に衝動的に感動して、何度も繰り返すうちに新たな魅力にも気がついていく、というのはこれも音楽に近いのかもしれない。受動的から能動的に変わっていく音楽的な読書。これもサイバーパンクぽい。ちょっと違うかもしれない。とはいえ、この一編はめちゃくちゃ楽しめた。まだ楽しめる気がしている。


