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Chance Meeting.
  • 2026年7月21日
    愛と人生
    愛と人生
    滝口作品で電車といえば「愛と人生」の「郡山から黒磯、黒磯から宇都宮、と東北本線を乗り継ぎ、そこからまた上野へと長い移動が続いた。」という父親を亡くした少年の上京ルートを東京から宇都宮、そこから黒磯に向かう東北本線の車内で読んだ、というエピソードも大切に思い出したい。
    愛と人生
  • 2026年7月21日
    遠くまで歩く
    遠くまで歩く
  • 2026年7月21日
    翻訳する私
    翻訳する私
  • 2026年7月21日
    長い一日
    長い一日
    今作の主要というか滝口作品において重要人物である窓目くんが自身でもモデルになっていると思う(同じく滝口さんの)『「茄子の輝き』の人のことを考えはじめ」ればいつにまにか、直前に髪を切ってもらった美容師の草壁さんと行ったこともない島根のJR伯備線に乗っている「伯備線に乗って」という章も良いんだよな。滝口さんの書く電車の話はいつもちょっと幻想的でロマンティックな気もしてうっとりしちゃう。アンソロジー『鉄道小説』の「反対方向行き」とか『新潮』に載っていた「テレポートの軌道」とか。 で、そんな「窓外をずっと線路と並行するように川が流れていた」シーンに音楽を流すとしたら、草壁さんが「私は音楽はアンビエントとかドローンとかが好きなんですけど、」と言っていたから、Hinako Omoriの「Studies On A River」はどうだろうか。川からの連想というか、わたしが最近聴いていただけな気もするけど、結構良い感じになるのではないだろうか。
    長い一日
  • 2026年7月20日
    砂漠が街に入りこんだ日
    砂漠が街に入りこんだ日
    余裕のない日々というのも日常のなかにはあるのだけど、そんなときにはアンビエント・ミュージックのように静かに寄り添ってくれるような音楽を聴きたい。日常という言葉には平穏なイメージがある気がするけれど、そこにも当然、苦悩や混乱だったり怒りや哀しみなんかがこびり付いている。それらを抱えながら過ごすのが日常なのだとも思う。この短編集でも登場人物たちもそれらを抱えて日常を生きている。そこにある苦悩や混乱、怒りや哀しみには覚えがある。覚えがあるから、心が乱される。けれど、それが小説というかたちになると、静かで美しくも感じられてくる。気がつくと、とても集中して読んでいた。一瞬、静けさや美しさだけに満たされる。「日常」には音楽と、こんな小説にも寄り添っていて貰いたい。 🎶 Chihei Hatakeyama 『Void XX』
    砂漠が街に入りこんだ日
  • 2026年7月20日
    理由のない場所
    理由のない場所
    16歳で自死した少年とその母親がある場所で交わす会話。それを「完璧」に書き残すための言葉についての議論、過去と現在、それに未来についても。悲しみや絶望、決定的でもう取り返しの付かない出来事が起きた後の日常。それを耐えるために作り出される、2人だけの会話のための場所。汚れのない白い床が続き、2人だけがいる。そんな光景を思い描きながら読んでいた。そこはとても静かだけれど、2人の会話を邪魔しないように、とても薄く音楽が流れているかもしれない。もしかしたら2人には聴こえず、その場所、会話を読んでいる者だけが気がつけるような、静かで美しい音楽。そんな想像をした。吉村弘の「MUSIC FOR NINE POST CARDS」を小さい音で再生する。彼女たちの会話にも寄り添っているような気がした。 🎶 吉村弘『MUSIC FOR NINE POST CARDS』
    理由のない場所
  • 2026年7月20日
    ある一生
    ある一生
    「人の時間は買える。人の日々を盗むこともできるし、一生を奪うことだってできる。でもな、それぞれの瞬間だけは、ひとつたりとも奪うことはできない。そういうことだ。」 その時代や社会、自然からも大きく影響を受け、多くを奪われながらも自らのハンドリングを手放さなかった男の、それぞれの瞬間。それが連なることで描き出されるタフな一生。そこには様々なドラマもアクシデントもあるのだけれど、それを一生という長いスパンでみる、物語るとき、それはとても静かなもののようになる。少なくともそう物語られるべきだと思わされる。静かに流れる音楽にいつのまにか心を奪われるように、幾つもの瞬間が、その人生が静かに心に染み込んでくる。とても美しいと思う。 🎶 Nala Sinephro 「Continuum 4」
    ある一生
  • 2026年7月20日
    残響
    残響
    「何も起こらない」と言われる、イメージしてしまうような「日常」での出来事は、過去を思い出させ、思索を走らせ、他者をイメージさせる。実際には見ることは出来ないけれど、個人の想いや思索は、想った人に、あるいは全く別の誰かのそれに繋がっていく。そして世界にも確実に影響を与える。それらが連なり響き合う様を描いた小説。世界とは多分そうやって出来ていて、もしその世界が美しいとしたら、ここに収録された2篇の小説はそれと同じように美しい。そんな風に思える。それを描き出すことは小説にしか出来ないかもしれないけれど、そこに音楽が流れているとしたら、同じように静かで深く美しい音楽なのだと思う。 🎶 H.Takahashi「Enter」
    残響
  • 2026年7月19日
    最後の植民地 (1979年)
    最後の植民地 (1979年)
    図書館の除籍本リサイクルコーナーから頂いてきた。
    最後の植民地 (1979年)
  • 2026年7月19日
    寝相
    寝相
    図書館に避難して中編をひとつ読む。滝口悠生さんの最初の一冊から表題作。一昨年、去年と新潮に載っていた中短編がどれも最高だったあの家族の話が最初に語られる一編。あの世界の描き方。自分以外の誰かを想像して書くことが出来るなら、木目のことだって同じように書けるよね、と納得しながら読み終わったら嬉しい気持ちになって、やっぱり少し泣きたくもなった。 仰向けになって足をあぐらのように組む、上から見たら栓抜きのような寝相、言われてみればわたしもよくやっている気がする。
    寝相
  • 2026年7月19日
    あなたの人生の物語
    あなたの人生の物語
    表題作。異星人から言語を学ぶ「わたし」の物語と、交互に語られる心に浮かぶ完結している「あなたの人生の物語」。決定的に変化した世界の見方。繰り返される、現在あるいは過去と未来の記憶。自由意志と必然性。既知の未来を生きること、失うことを知ったうえで生み出すこと。それらはとても残酷なことだと思える。けれど、その世界の見方を受け入れ語られた物語では、諦めよりも希望が語られているような気もしてくる。理論がわかりはじめるにつれ、静かに語られるふたつの物語の反復に引き込まれていく。そして物語は美しく円環を描く。ループする物語。もう一度始めから読みなおしたい、そう思える物語の構造とそこにある感動は、音楽を聴くことにもとても近いような気がしてくる。静かに流れ続け染み込み感情も動かす、アンビエント、ループミュージックみたい。 🎶 TOMC & H.Takahashi「TRUE LIFE AGAIN」
    あなたの人生の物語
  • 2026年7月18日
    長い一日
    長い一日
    「窓目くんは手すりを叩く手を止めて、自分の腹まわりに手をやった。若い頃は皮膚のすぐ向こうにあった胃袋が、いまは厚い肉を隔てた向こうにあると感じられる。体の表面からの距離は遠くなっても、胃袋の存在感は昔より増している。昔はそのなかでどんな音楽も鳴ることはなかった。食い道楽、私は食い道楽、と歌はまだ続いていて、歌の出処は口元から随意に腹のなかへと移動する。体が揺れれば、お腹も揺れる。余分な肉が遠心力でタイムラグを生み、それがグルーヴになる。涙を流した感じはいつの間にかひいていた。」 わたしもお腹でグルーヴを感じるようになってしまった。
  • 2026年7月18日
    長い一日
    長い一日
    「気のせいかもしれないけれど、それは自分の気なのだから無視しようがないじゃないか。」(p53)
    長い一日
  • 2026年7月18日
    楽園の不運な紳士たち
    楽園の不運な紳士たち
    河村要助さんによるカバーアートが素敵な探偵小説を読んだ。河村要助さんがカバーを描いている本は見つけ次第「ジャケ買い」しているから、内容を確認しないこともよくあるけれど、それでも眠れない平日の夜なんかに開いて、そのまま翌日の移動中にも読み進めてみれば、ああ、これは読みたかった小説だった、と思えたりもして。そこで改めてカバーを眺めながら、河村さんやっぱり流石っすね、とか思ってしまうのも「ジャケ買い」の妙だろうか。 そんな感じでこの小説もなかなか良かった。平日の夜というよりは、日曜午後にテレビで適当に観始めたい映画的なちょうど良さが、今ちょうど良かった。 不審死の調査のためにリゾート島の名門ゴルフクラブを訪れる探偵。賭けゴルフに入れ込んだりブードゥーの儀式に慄いたり麻薬取引を目撃したり島の女性と海中でセックスしそうになったり盛り沢山の体験をしながらする彼の推理は、ゴルフで言えば完全にアウト・オブ・バウンズであらぬ方向に勢いよく飛んでいく。 それでも小説、物語は、探偵以外の人間と偶然の力も使って事件を解決に導いていく、というか探偵自身がその場にいること自体も偶然なひとつの要因として事件は色々なものを取りこぼしながら「意外な事実」を掠め解決という決められた物語の終わりへと向かっていく。 こういうのは、まあご都合主義と言えばそうだろうけれど、物語はすべてを提示して、名探偵はすべてを明らかにした上で完璧な推理で事件を解決する、みたいなやつよりもこういうのがちょうど良い。というか、やっぱり完璧な推理よりも偶然による不完全な解決の方に断然リアリティを感じる。世界も人生も完璧じゃないし解決もしないし、人生における偶然も信じているからね。こういうのが読みたかった「探偵小説」ぽい。 そんな読みたかったちょうど良い小説を車中で読めば移動も俄然楽しくなるし、本を閉じればカバーには大好きなイラストレーターの作品があるし、それは気分も上向くわけだ。ということで、「ジャケ買い」した好きなカバーアートの本も、部屋で眺めるだけじゃなくどんどん外に持ち出して読んでいきたい。これからも「ジャケ買い」はどんどんしていきたい。 河村要助さんのカバーアートはいつだって探している。
    楽園の不運な紳士たち
  • 2026年7月18日
    「恥」に操られる私たち
    「恥」に操られる私たち
  • 2026年7月17日
    楽園の不運な紳士たち
    楽園の不運な紳士たち
    河村要助さんがカバーアートを描いている本は見つけ次第「ジャケ買い」しているから、内容を確認せずに買っていたりもするけど、それでも読みはじめてみればどれも結構良かったりするんですよね。 リゾート島の名門ゴルフクラブを舞台に、不審死の調査に訪れた探偵が賭けゴルフに入れ込んだりブードゥーの儀式に慄いたり麻薬取引を目撃したりしているうちにもう一人殺されたりする(今のところ)これも、日曜の午後のテレビでなんとなく観はじめたい映画的なちょうど良さを移動中にちょうど良く楽しんでいる。 あと、好きなアートを持ち歩く、というのは単純に結構テンションがあがるから、好きなカバーアートの本は部屋で眺めるだけじゃなくどんどん外に持ち出して読んでいきたいところ。
    楽園の不運な紳士たち
  • 2026年7月16日
    愛の単離
    愛の単離
  • 2026年7月15日
    44 小田イ輔怪異聞集
    表題作の「44」と別視点で語られるその前日譚となる「1」。そこで作者と読者に「共有」される、怪異体験をキッカケにして、今まで信じていた世界と認知が決定的にズレてしまう、信じられなくなったズレた世界で、それでも生きていかなくてはならないという苦痛と恐怖。しかもそのキッカケが、怪異体験に限らず「その辺に無数にある」ものなのだと言われてしまえば、もうこの世界で生きること自体が不安で怖くなってしまうじゃないか!という話だった。 さらにここで 「様々な人と出会い、それぞれが体験した怪異を収集していくと、日常の感覚がおかしくなる。自分自身がこれまで生きて学習してきた“常識”や”枠組み”といったものが酷く偏ったものなのではないかという懸念を覚え始める。」 ——『厭怪談』「マナアナ 一」 という以前読んだ作家の言葉も思い出してしまえば、その収集された様々な人が体験した怪異を読むことでも、「日常の感覚がおかしくなる」はずだし、怪談実話を読むことも「その辺に無数にある」キッカケのひとつになり得てしまうではないか、と考え始めてしまえば、めちゃくちゃ怖いんですけど。でもこの本は名作だからもう三回読んでるんですけど。
    44 小田イ輔怪異聞集
  • 2026年7月15日
    ミニチュアの妻
    ミニチュアの妻
    久しぶりに翻訳された「海外文学」の読み心地を堪能した。日本文学のとある本を探しに行ったお店で偶然この本に出会った、というタイミングもなんか良かったな。 そうそう、これこれ、と思った「海外文学」を読む心地良さはどこからくるのか、と少し考えてみると、それは物語、文章とそれを読むわたしとの間にある距離感のような気がしてきている。違う国で育った作家が、訪れたことのない土地の舞台に、完全には理解出来ていない言語で書き、それを翻訳というまた別の言語のようなもの(「翻訳というのはそれ自体がひとつの言語のようなものですから。」多和田葉子『文字移植』)で書き直された物語の遠さと、それが今手の中にあり読むことが出来る、という近さ。その絶妙というか奇妙な、実際の距離では測ることの出来ないわたしだけの距離「感」がなんとも心地良いのかもしれない。そして、知らないわからないことの遠さとそれが読める近さというのは、「知らない誰かの考えを知りたい」という読書における根源的な欲望をより刺激し叶えてくれるような気もする。というのはちょっと大袈裟な気もするけど、この感じわかりますかね。わたしはちょっと書いていてわからなくなってきた気もしますけど。 その距離感というのはこの短編集に収録されているような、飛行機はダラス上空を20年間旋回し続け、妻はミニチュア化し、音楽家は耳から言葉を話し、オフィスワーカーのゾンビは「受付嬢」に恋をし、アフリカ大陸が沈没するような所謂「奇想」と呼ばれるような物語では特に重要で。 もし、同じような設定「奇想」が日本を舞台に日本語で書かれたとしたら、その距離の近さ故に「いやいや、それはないでしょ」とちょっと冷めてしまうかもしれない。それはまあ、想像力の問題でもあるけれど、そんな想像力の乏しいわたしには、距離の遠さと、それ故のわからなさの担保する「あるかもしれない、だってあの土地も言語もよく知らないから」みたいなリアリティが必要だったりするわけですね。そして物語にリアリティを感じることが出来れば、そこから現実になにかを持ち帰ったり、省みたりもより出来るわけで結果的に素晴らしい読書になるということでも、ある。 ああ、でも日本の小説にも「奇想」と言えるようなアイディアを扱ったものでもリアリティも感じて大好きなのもあるか、と即前言を翻しそうになっているけれど、それらの小説を思い出してみると、その文体には「翻訳」に近いような「遠さ」を感じていた気がしないでもない。 そんなことを考えているのも、この短編集の物語も文章/翻訳も、そこにある心地良さも全部素晴らしかったから、と強引に文章を締め括りたい暑さと蚊に翻弄された夏の日だった。
    ミニチュアの妻
  • 2026年7月15日
    ミニチュアの妻
    ミニチュアの妻
    「俺は心の中で考える。これで良かったんだ。何もかも。 そして、ロジャーや警備員やその他の人類のことを考えればもっと嫌な気分になるべきなのかもしれないが、俺たちにはこうした瞬間が必要なのかもしれないと考えてしまう自分がいる。静寂の瞬間ではなく、俺たちの人生が暴力的な悲劇、怪物、ゾンビどものせいでひっくり返される瞬間だ。それなくして、どうやって俺たちは夢見た男たちや女たちに出会えるのか?どうやって過去の過ちを償えるのか?どうやって自分の真の姿——勇気や思いやり、強さ、知性——を見せられるのか? そうだ、どうやって?」 ——「ショッピングモールからの脱出」 「人間にとってフィクションとは何なのか」と言われれば、普段は見せることの出来ない「真の姿」を描くものだ、とも言えるかもしれない。そして人間はその物語、そこで描かれる「真の姿」に影響を受け夢見ながら、今はまだ「真の姿」を見せることはできないけれど、人生が「ひっくり返される瞬間」がおどずれたならば……とその訪れるかもわからない瞬間を待ち望みながら生きているわけだ、といえなくもない。 逆にというか同時に、ゾンビに襲われてショッピングモールに閉じ込められる、ところまでいかなくとも、人生が「ひっくり返される瞬間」に遭遇したとき、今までに語られてきた物語、そこでの理想の「夢見た」人間の「真の姿」をロールモデルにして演じようとする、してしまう。みたいな気持ちもわかる。
    ミニチュアの妻
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