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READING IS MY THERAPY
  • 2025年10月8日
    ファシストは未来を支配するためにいかに過去を改竄するのか
  • 2025年10月8日
    あなたの人生の物語
    あなたの人生の物語
    テッド・チャンの短編集からお気に入りの短編「地獄とは神の不在なり」を久しぶりに読み直した。 天使が降臨し天国と地獄が顕現する世界に生きる「男がいかにして神を愛するようになったかを描く物語」。 災害とともに恩寵も同時に起こす天使の降臨や、その際に現れる、浴びると誰もが天国に行ける「天国の光」を追いかける「ライト・シーカー」の“ビジュアル”面に主に惹かれていた気がするけれど、天使の降臨に愛する人を殺され、天国に上っていった彼女にもう一度会うためには神を愛さなければならない男の苦悩、そして神を愛する(ことも神が与えたものだ)ようになった後にすべて(神の存在すらも)を奪われる男の物語は、改めて残酷で凄まじいと感じた。 巻末の「作品覚え書き」にもあったけれど、ヨブ記の結末が、美徳は完全に報われず、この物語のようにすべてを奪われたままの状態で終わるとしたら、それでも信仰を保ち神を愛し続けることは可能なのか。それが可能というか受け入れるのが信仰なのだ、と言われれば、なるほど、そうですか、としか言いようがないけれど、もしわたしがそんな場面、物語に立ち会ってしまったとしたらきっと、こんな堕天使の言葉に積極的に耳を傾けるだろう。 「堕天使が現れる際に、人は質問を投げかけることがよくあった——あなたたちは神の御意志をご存知なのか?なぜ反抗したのか?堕天使たちの回答はいつもおなじだった——『みずから決めるがいい。それがわれわれのおこなっていることだ。おまえたちもおなじようにするがいい』」 Word。わたしは自由意志や偶然を信じたいのだ、などとおまんじゅうを食べながら考えている。
    あなたの人生の物語
  • 2025年10月8日
    あなたの人生の物語
    あなたの人生の物語
    「堕天使の降臨はまれで、幸運も悪運ももたらさなかった。堕天使たちは神の指示の下で行動しているのではなく、想像もおよばぬ仕事に出かける際に、たんに人間界を通過するだけだった。堕天使が現れる際に、人は質問を投げかけることがよくあった——あなたたちは神の御意識をご存知なのか?なぜ反抗したのか?堕天使たちの回答はいつもおなじだった——「みずから決めるがいい。それがわれわれのおこなっていることだ。おまえたちもおなじようにするがいい」 「地獄とは神の不在なり」
    あなたの人生の物語
  • 2025年10月7日
    星の時
    星の時
    わからなさを大切にしたい、と話したのはやっぱり快晴だった大塚で、そのときにバッグと頭のなかにあったのはこの本だった。 作者の創造した作家が書く無知故に“哀れな”イノセンスを持つある少女の人生。メタを重ねたような書き方は複雑だけれど、まだわかる。人生のある一時期を切り取った物語の筋はシンプルだ。納得出来る言葉が連なったセンテンスの美しさにはため息が出た。けれど、この小説はわからないと思った。 「物語というのは、作り出されたものであっても真実だ」 冒頭で宣言されていた通り、ここにあるのは、少女の、作家の、そしてもちろん作者自身の真実だ。多分この小説のわからなさはそこからきていると思う。他人の真実は簡単にはわかることが出来ない。それでも、それを真摯に表現しようとしたものに感じるわからなさは、“わかった”ときの感動と同じように自分だけのものだから、それを持ち続けることも、取り出して考えることもとても心地良く感じる。 「考えることはひとつの出来事。感じることはひとつの事実。」 そこにあるものを全部、大切に持っておきたいと思う。そんな考えがあの会話のなかで漂いはじめていた気がする。 今手元にあるわからなさは、この小説をもう一度読んだときにわかるようになるかもしれないし、別の本を読んだときにヒントが見つかるかもしれない。あるいは本を手放した生活のなかで考え続けることで、別の大切にしたいものが見つかるかもしれない。もしかしたら、ただわからないままかも知れないけれど、しばらくの間はこのわからなさもそこにあるものも全部大切に「抱きしめて」おきたい。 例によって乱立している付箋も、おあつらえ向きのコメントが入った栞もそのままにして、もう一度読むまでこの本も大切に持っておきたい。そう思って机の上の特別なコーナーに差し込んだ。 この文章にもわからなさがあるとしたら、それは、まあ、浅薄さと文章力のせいかもしれない。
    星の時
  • 2025年10月7日
    こどもの頃のこわい話 きみのわるい話
    「死柱にこうべを垂れよ」という話は怪談採話ルポ、報告文学として読みたい話だった。聞き取りの場面から作者の視点で書いていく、それが感情的でウェットなら私小説的(好き)になっていくけれど、理性的にドライに書いていけばこういったルポ的なものになるのではないか、とか考えてみる。怪異自体もかなり強いからそれを書く、その部分だけでも成立しそうだけれど、まるッと全部書くことで立ち上がる怖さや分からなさがあって、あるいはそうしないとこぼれ落ちてしまうものがある、ような気がした。最後の一行あけた後の一文が現在形で終わっているのにも痺れた。
    こどもの頃のこわい話 きみのわるい話
  • 2025年10月7日
    過疎ビジネス
  • 2025年10月7日
    凍てついた七月
    凍てついた七月
    角川文庫から出ているランズデールの作品群は内容も鎌田三平さんの翻訳も最高なんだけど、それに加えて寺田克也さんによるジャケも最高なのだ。ジャケットに使われる絵を描いているのではなくて、タイトルなどのフォントも含めてジャケット自体を描いているのもやばい。持っていたくなる文庫たち。そのなかでも世界観を共有したノン・シリーズのこれが一番好きかも。映画版も結構良い。
    凍てついた七月
  • 2025年10月6日
    夜になるまえに―ある亡命者の回想
    夜になるまえに―ある亡命者の回想
    わたしがノーベル文学賞と聞いて思い出すのはアレナスのこの発言。 「今世紀の最もよく知られた知的不正の例の一つがホルへ・ルイス・ボルヘスであり、単に政治的姿勢のせいでボルヘスは組織的にノーベル文学賞を阻止されたのだ。ボルヘスは今世紀の最も重要なラテンアメリカ作家の一人である。たぶんいちばん重要な作家である。だが、ノーベル賞はフォークナの模倣、カストロの個人的な友人、生まれながらの日和見主義者であるガブリエル・ガルシア゠マルケスに与えられた。その作品はいくつか美点がないわけではないが、安物の人民主義が浸透しており、忘却の内に死んだり軽視されたりしてきた偉大な作家たちの高みには達していない。」
  • 2025年10月6日
    こどもの頃のこわい話 きみのわるい話
    さっき読んだ話で、草冠に亡「芒」でススキって読むの知ったけど、縁起悪るそうでいいなと思った。亡は「尖っているもの」という意味みたいで別に縁起悪くなくて、ああ、五芒星ってそういうことか、とか今さら納得もして。まあ、それは良くて、怪談で普段開きがちな漢字だったり、異常に画数の多くてうねうねした漢字使ったりするのって、話の分からなさや不気味さを増すためのテクニックだと勝手に思ってるけど、あれ良いですよね。わたしが勉強不足だというのも、まあ、あるけれど。
    こどもの頃のこわい話 きみのわるい話
  • 2025年10月6日
    こどもの頃のこわい話 きみのわるい話
    ちょっと雰囲気の違う2話目に収録された「犬屋敷」の語りが好みで2回連続で読んだ。わたしの好きな海外犯罪小説ぽさがある、ような気がしないでもない。
    こどもの頃のこわい話 きみのわるい話
  • 2025年10月6日
    ピザマンの事件簿 デリバリーは命がけ (ヴィレッジブックス F フ 14-1)
    続編も読みたい。ブックオフとかで地道に探しているけれど、全然みつからないんだよな。
    ピザマンの事件簿 デリバリーは命がけ (ヴィレッジブックス F フ 14-1)
  • 2025年10月6日
    ピザマンの事件簿 デリバリーは命がけ (ヴィレッジブックス F フ 14-1)
    「これは仲間と労働、いい愛と悪い愛、それと殺人事件をめぐる物語だ。」 たしかに。 刑務所帰りのOnce againモノというジャンルがある。そこでは更生しようとしたり、再度犯罪で一山当てようとしたり、新しい友人に影響を受けたり昔の仲間とトラブったり、事件に巻き込まれたり、うまくいったり、やっぱりいかなかったりするわけだけれど、この小説は、仲間や環境に恵まれた主人公の“更生”、やり直す人生がご都合主義と思えるほどに上手くいくパターン。 クライム・ノベルやミステリとして読むと物足りないというか、弱いのだけれど、この小説で作者がフォーカスして書きたかったのは、犯罪や殺人(の解決)よりも最初に引いた冒頭の一文でいうなら「仲間と労働」とそこで彼ら彼女らの「いい愛」、優しさや良心、それによって救われる人生なのだった。 訳者あとがきで予想しているようにこの小説が作者の自伝的要素を含んでいるというのはきっと当たっている気がするし、そう思えばご都合主義に感じた部分も更に納得できる。その実際にあった、かもしれない愛や良心に触れるとあたたかい気持ちになって、もう少しこの人生も世界も信じてみたくなる。というのは大袈裟な気もするけれど、それでもこの小説を読んだあとには「人生ってのは不思議なもんだ。うまくいかないときは我慢していればいい。そうすればいまにいいことが巡ってくるかもしれない」、この小説のようにはいいことは巡ってこないかもしれないけれど、そんな言葉も信じ込みたくなる。さらに大袈裟なことをいえばこの小説には希望があった、と少し思ってしまった。 誰かも言っていたけれど隠れた名作。続編も読みたい。
    ピザマンの事件簿 デリバリーは命がけ (ヴィレッジブックス F フ 14-1)
  • 2025年10月6日
    青い壺 (文春文庫)
    有吉佐和子は小説が上手い。 わたしが生まれる前の時代、無名を選んだ陶芸家がものにした奇跡の一品、「青い壺」が旅をし辿り着いた先々で主に女性の視点から物語られる、絶対の秘密というよりも少しずつ漏れ出してもきそうな絶妙なラインの、ありそうである、家族の、友人の、ある一時の、人間関係の悲喜交交。それに、まだところどころには“戦後”がこびりついていたその時代。 それぞれの物語とわたしの間にある距離と差異に、分からなさ、反発、掴みきれていない本質もあるけれど、それでも読んでいるうちに自分を重ねて驚いてしまうくらいに感情的になってしまった話、部分もあった。 特に第五話の両目が見えなくなってしまった老母を東京の一人暮らしのマンションに引き取る話には、状況は大分違うけれど、自分の母親の顔が思い浮かんで、少し、とは言えない程度には泣いた。この一編のことを考えながら、暫く会えていない彼女にもまだ元気でいて欲しい、と思い始めるとまた鼻の奥がツンとしてくる。ああ。 そんな母娘を中心とした話には残酷さがあったり、わだかまりを残してはいても“良い話”としても読めたけれど、人の内心や関係性のなかにあるドロりとした暗い感情や思考を見せつけされる話、部分も勿論あって、というか大体がそうで。 そういうの見せられるの苦手なんですよね… と思いながらも読む手が止められなかったのは、冷静で的確な描写、さらりと乾いた文体、何気ないようで特別なフローと自然と乗せられてしまうグルーヴ、つまり、有吉佐和子の書く文章、小説の力があったからだ、と思ってみる。 そして、徐々に各編の登場人物が僅かに重なり合いながら全編を通して運ばれていく壺自体の物語。壺には感情も意思もないけれど、物語るための道具以上の存在感と意味がある気がしてきたところ、最後の一編で陶芸家と再会する様には各編にあったのとはまた別の感動があった。やはり偶然というものは存在する、と思いこめる瞬間。表だって書かれてはいなくても、そこにもうひとつの長い物語がありそれが浮き上がってきたのだ、と思わせれる。鮮やかである。やっぱり有吉佐和子は小説が上手い。 それと、直接的に家父長制を批判するセリフも出てきたりするけれど、全編通してフェミニズムが漂っている、ような気もした。文章自体が古びないのはClassicの特徴だけれど、そんなところにも今読む、読める、読まれている理由があるのかもしれない、と思ったのだった。有吉佐和子は小説が上手いし、その小説は色褪せない。とそんなふうなことも思ったのでした。と、書いてるうちにわたしの文章は散らかってきているけれど、でも良い小説を読んだのは確かである。
    青い壺 (文春文庫)
  • 2025年10月5日
    狼が連れだって走る月
    管啓次郎さんの文章を読んでいると、旅に出たくなる、というのはわたしには少しハードルが高いから、とにかく部屋を出て歩き出したくなる。「無用の歩行、気まぐれな小さな旅」あるいは何処かを目的地にして。内容もそうだけれど、文章自体の響きとフロウがそんな気にさせてくれる。そんな文章、本をズボンのポケットに入れて出かければ、「手ぶらでどこまでも歩いてゆける」という気にもなる、ことにしておきたい。
    狼が連れだって走る月
  • 2025年10月5日
    こどもの頃のこわい話 きみのわるい話
    ようやく買えた。
    こどもの頃のこわい話 きみのわるい話
  • 2025年10月5日
    あなたが私を竹槍で突き殺す前に
    「それぞれの声を詩にしたり絵画にしたり小説にすることで、登場人物や物語を変えてみることで、この巨大なプラネットをさまざまな角度から押すことができる。指の引っかかりの位置を変えてみることができる。(…)届かなかった声、壁に吸い込まれた声、燃やされた声、というのも決してゼロではないはずで、文化や芸術には、なもなき声たちが何億何兆と集まった結果としての、世界を善き方向に押してゆくそういう力がある。」 この物語が「予言の書」だと言ってしまうのは、わたしやあなたが気づいていなかった、目を逸らしていただけのような気もするけれど、それでもこの物語が「予言」だとするならば、あるいはそうでなくとも↑のような言葉こそ信じたい。
    あなたが私を竹槍で突き殺す前に
  • 2025年10月4日
    人体模型の夜 (集英社文庫)
  • 2025年10月4日
    季刊 ジャズ批評 30号 (特集:私の好きな一枚のジャズ・レコード) ジャズ批評社
    「好きな一枚のレコードなり、ひとつの音楽を語ることは、即ち自分の人生を物語ることにもなる。」 たしかに。 買ったタイミングや場所も忘れてしまったし、執筆者をみて(赤塚不二夫やタモリも書いている)話のネタに、なんて思いながらわりと適当に買った気がする81年発行のムック本。たしかその日の帰りの電車で読んだはずの、数人目に登場する浅川マキのビリー・ホリデイと「ヴァイヴの男」に関する文章が素晴らしかった。特別な、人生の物語だった。そう思ったところで満足して例によって積んでしまっていた。 阿部薫の音源を久しぶりに聴いた後に、その文章をまた読みたくなってもう一度手に取ってみる。浅川マキの文章は最初の印象通り何度読んでも素晴らしかった、やっぱり特別だとも思った。しかし、他のページもパラパラとめくっていくと、そこには同じように人生と一枚のジャズ・レコードが私の話として語られる特別な文章が幾つも載っていたのだった。 親に嘘をついて深夜に通う東京駅八重洲口のジャズ喫茶。高校の帰り道に寄る新宿ピットイン、〈60年代後半・新宿・ジャズ〉のキーワード。友人に借りた新車のオートバイで向かった箱根の展望台でウォークマンで聴いたピアノトリオ。そんな青春時代と音楽、JAZZを重ね合わせたような文章たちに特に感動した。わたしはそういう、自分にもあったはずの青春と音楽の話が大好きなのだ。 適当に買ってしまったし、ディスクガイドとしても“使える”かな、みたいな少しいやらしい考えもあったけれど、これはジャズ・レコードに関する、ジャズ・レコードを介した私の話、エッセイのアンソロジー、しかも最高の一冊だった。まだ読み切ってないけれど。 本の下に写っているのはわたしの「私の好きな一枚のジャズ・レコード」。この一枚は買った場所もタイミングも覚えているし多少のエピソードもあるけれど、まだ「自分の人生を物語る」ような文章は書けない気がするのが残念なのだけど。 ここで書かれるサブスクなんて想像も出来なかったであろう時代の人生たちのなかで知ったレコードは、きっと、街に出てレコード屋で探して手に入れて聴く、という行為が似合うし、物語というのはそうやって生まれるような気もする。とは思いつつも、エンヤ・レコード(好き)のファウンダーのひとりの書いた文章を読んで、すぐにサブスクで検索してしまった『ラメント・フォー・ブッカー・アービン』を聴きながら、これがハード・バップの最良の演奏か、などと感動しているのだった。そういうところだな、とは思う。
    季刊 ジャズ批評 30号 (特集:私の好きな一枚のジャズ・レコード) ジャズ批評社
  • 2025年10月4日
    暗闇のなかの希望 増補改訂版
    暗闇のなかの希望 増補改訂版
    「あなたの敵は、もう希望はないとあなたが信じることを願っている。無力で、立ち上がる理由もない、もう勝てないのだ、そうあなたが思い込んでしまうことを。希望はギフトだ。誰にも譲り渡す必要はない。そして力だ。捨ててしまう必要はない。」 ことあるごとに思い出したり引いたりしている気がするけれど、諦めるわけにはいかないなら、何度でも励まされるしかない。 ——  「大衆を指して『眠れる巨人』ということがある。それが目覚めるとき、つまり私たちが目覚めるとき、私たちはただの大衆であるだけではない。私たちは市民社会という強大な力となる。その非暴力という方法は、時として、束の間の輝かしい瞬間においては暴力よりも強力であり、体制や軍隊よりも強力である。私たちは自分の足と、存在と、集められた声とヴィジョンによって歴史を書く。」 —— 2023 4/24 「物語は私たちを陥れもするし、解き放ちもします。物語によって生かされもし、死にもする私たちですが、聞き手で終わる必要はなく、みずから話し手にもなれます。ここに記す私の物語の目的は、あなたがあなた自身の物語を語るように励ますことなのです。」 冒頭の“日本のみなさんへ”に書かれた文章から思っていたけれど、レベッカ・ソルニットの文章、それが物語る幾つもの小さい勝利、希望にはとても元気が出るし励まされる。最終的な目標に到達することは未だなくてもその過程や、今では当然とされていることの後ろには、幾つもの勝利や希望があったということは、それまでの失敗や挫折、敗北と、少なくとも同じか、それ以上に記憶やこの本のように記録にも留めておく必要があるのだと思う。 アクティビズム、社会運動とのあまり多くはない関わりのなかでたまに思い出すのは、国会前に通っていたときあの坂を下りながら良く聴いていたラップ・ミュージックと、国会前の車道に人が溢れたときに隣を歩いていた友達のことで。多分あれもこの本が改訂された2016年あたりのことだったと思うけれど、そのラッパーは今でも最高にカッコいいし、その友達とは今もたまに並んで街を歩いて本や音楽、社会の話もすることがある。あのときの状況には小さいけれど勝利も感じた気がしているし、彼らの活動や関係が今でも続いていることは、これもやっぱり希望なんじゃないかと思ったりもした。 ここには個人的なことが多分に含まれているけれど、個人の生活のなかにも目を逸らせない失敗や挫折も小さな勝利や希望は同じようにあるし、たまに言うように人生は解決することはないから、ここでもやはり、サボらずに自分自身の物語を語ることは必要なのかもしれない。というのは最近よく辿り着くオチなのだけど、物語、それも“小説”と呼ばれるものはそんな、記録しておかなければ失くしてしまうかもしれない“小さい”希望を、敗北や挫折のなかに書き残すものでもあるかもしれない。多分それは「舞台の真ん中ではなく周縁の暗がりにある」読みたかった物語、そんな気がしています。 「あなたの敵は、もう希望はないとあなたが信じることを願っている。無力で、立ち上がる理由もない、もう勝てないのだ、そうあなたが思い込んでしまうことを。希望はギフトだ。誰にも譲り渡す必要はない。そして力だ。捨ててしまう必要はない。」
    暗闇のなかの希望 増補改訂版
  • 2025年10月4日
    ハーレム・シャッフル
    ハーレム・シャッフル
    藤井光さん翻訳のコルソン・ホワイトヘッドの新刊はクライムノベルだった。殆どのクライムノベルがそうであるように、主人公は巻き込まれたり、カモられたり、あるいは自ら進んで関わる犯罪、事件を解決しようと奔走するけれど、そこで本当に解決しようとしているのは自らの生活、人生で、それは”事件”が解決して物語ることを終えても解決することがない。これも解決しない物語。同時にニューヨーク、ハーレムの変わる部分も変わらない部分も詳細に描いた街の話でもあって、ああ、やっぱり、これも読みたい小説だった。 たしかにそうでもあったのだけど、この本を読み始める前に「福音と世界」に掲載されていた山下壮起さんの論考「Fuck The Policeーフッドとハッスルの霊性」を読んでいて、それからすぐにバッグから取り出して読み始めたこの物語は”フッド”での”ハッスル”の物語だということを強く意識して読んでいた。「黒人たちは正規の販売経路への参入を妨害され」るため「フッドではそこに生きる人びとによって資本主義社会とは異なる経済活動-ーハッスルーが行われている」。家具店を経営しながら、細々と故買も行う主人公が巻き込まれる強盗事件も、”上流社会”への参入を餌にカモられたことへの復讐にも、白人も含めた町の権力構造を垣間見るときにも、その根底には”ハッスル”をする意味や理由、「奴隷制とそれを正当化する法的規範」を引きずった社会や「人種差別的な枠組みを歯車とする資本主義」があるのだと思えた。 そんな風に読んでいくと”解決しない物語”はまた少し別の意味を持ち始める。”黒人文学”と言われるような作品は、様々な物語を使って自分たちの生活、苦境や怒り悲しみを書き続けている。その根底には”解決”出来ていない社会構造があって、解決できないが故に書き続けられている。改めてそう思った。それらが書き続けられるということは、未だ解決していないということでもあるのだけど、そこには書かれる意味も読む意味も、効果や作用も絶対にある。そう思いたい。そう思う。それに、解決していない根深い問題というのは世界にも身の回りにも数多く残っているから、この小説やその他の本を読んで考えた後の目でそれらを見逃さずに、目をそらさずにいたいと強く思った。
    ハーレム・シャッフル
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