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Chance Meeting.
  • 2026年1月13日
    この画像を見てください(1)
  • 2026年1月13日
    オールド・ディック
    オールド・ディック
    チップスをつまむように読みたい小説というのもあるけれど、チップスをつまみながら読むと、本は汚れるから注意が必要である。
    オールド・ディック
  • 2026年1月12日
    夕陽の河岸(新潮文庫)
    ここ文庫に収められているような「どれを小説に、どれを随筆に分けていいか、私自身、判断をつけかねている」ような文章を読んでいると、気持ちが落ち着いてくるような気がする。完璧に整っているけれど堅苦しくはない、最上級の丁度良さを感じている。一読して大好きになった「犬」という短編やいくつかの文章には哀しさをはじめとする感動があるけれど、それもじんわり沁みいってくる感じ。これは安岡章太郎さんがいうところの「文章のうま味」ということか。そうだとするならここにある文章はわたしには落ち着く「味」ということだろう。そんな文章が収められた本を何冊か持って、いつでも読めるようにしておきたいものです。
    夕陽の河岸(新潮文庫)
  • 2026年1月11日
    オウマガの蠱惑(1)
  • 2026年1月10日
    モンキービーチ
    モンキービーチ
    「先住民の伝統と現代が交差する」話にはずっと興味がある。
  • 2026年1月10日
    群像 2026年 2月号
    思いがけず発売日に買った文芸誌、目当てだった大好きな小説家、滝口悠生さんの短編「庭野広の駄洒落と陰謀」を早速読んだ。すぐ後にもう一回読んで、翌日にももう一回読んだ。 ある袋小路、フランス語だと「Cul-de-sac」——という表記に纏わる話、あれは小説では均されたり切り捨てられてしまう、現実にはたしかにあった歪さや間違いを小説で表現する試み、かもしれない。とにかく最高だ——を舞台に、その突き当たりに建つ家のベランダから「袋小路と袋小路に面した家々の人々」、その景色、「社会」を眺めながら庭野広氏の巡らす物思いや考えごと、思い出、口には出されない思い浮かんでは取り下げられる(しかし笑える)「駄洒落」と密かに微かに実行される「陰謀」の話。 庭野氏はわたしよりも大分年上のおそらく70代なのだけれど、毎朝訪れる寂しさを抱きしめながら、他人からの指摘や諭し教えを喜びとともに受け入れる。世界に立ち現れる微かな悪意や敵意以前の翳りを帯びた光景、不穏な予感、歪みを見過ごさず、あるいは見過ごせず、それに抗するように見えない「親切や配慮を用意する」。密かに微かな「自分の陰謀」を巡らす。そんな彼の生き方は理想的にも思えてくる。これからわたしはそんな生き方に辿り着けるだろうか、一回目にはそんなことも思っていた。 続けてニ回目を読んだ後には、「陰謀論にはまりかけた」庭野氏の窮地を救い、「自分の陰謀」を企てるきっかけを図らずも作った彼とは「五十ほども年の違う」大学生、風呂田くんのことを思っていた。わたしは彼の年齢はもうとっくに過ぎてしまったけれど、同じ袋小路に暮らすという「だけ」の関係の庭野氏を助け、諭し、その後には良好な関係性を築きながら年上の友人、とも言える人物に影響と変化も与えていく。そんな彼の振る舞い、生き方もまた理想的に思えた。わたしはあんな風には生きてこれなかったな、と思う。 滝口さんとは大体同世代だから、彼もわたしもこの二人とは世代が大分違うのだけど、そんな世代の彼らのようなキャラクタが描かれた意味を考えてみる。それはやはり、そう出来なかった生き方、それと、これからはもしかしたらそう出来るかもしれない生き方、自分の前後にあるふたつの理想的な生き方を描いているのではないか。というのは勿論妄想よりの想像だけれど、たしかにそんな風に読んでいた。読んでいる。 今の私の前後にある理想は、その中間にいるが故に、まだ取り戻せるかもしれないし、今後手に入れることが出来るかもしれない。それを意識して「ナイス」に生きようと出来れば。そんな宣言とエールのようにも、これもまた勝手に受け取っている。 三回目に読んだ時には庭野氏と同世代の母親のことを思っていて。彼女は寂しさを抱きしめることが出来ているだろうか、家のなかが中心の生活が続くなかで生じる滞りに追われる恐怖に襲われてはいないだろうか。陰謀論にはハマっていない、とは思いたいけれど…… 哀しいような寂しいような気持ちになってきたけれど、今度タイミングをみてそんなことも話にいってみようとも思えている。この小説を持っていっても良いな。そのときには風呂田くんのように振る舞えたら良いのだけれど。 そんな個人的で世代的なものを超えたところでも、この短編小説が書かれて、読めることには感動している。 「ならば、というか、だから、というか、見えないところに少しの親切や配慮を用意することが、全部を嘘と疑うことを半ば強いられるこの世界に抵抗を示すことにはならないだろうか。枠井梓に『ガン無視』された窓川夫人にネギを持っていこうとしたのは、庭野広のそのような心の動きだった。これが自分の陰謀。」 「全部を嘘と疑うことを半ば強いられるこの世界」にこの小説が書かれ読まれるということも、その「世界に抵抗を示す」ことになっているのではないか。読んだ人たちが庭野氏のように世界に蔓延る翳りや不穏な予感、歪みを見過ごさず、優しく「自分の陰謀」を企てはじめれば、世界も変わっていくのではないか。大袈裟な話をしはじめている。これはそれこそ「理想」だけれど、わたしはこの小説を読んで、「理想」に向けて、少しだけ生き方を、世界や他人との向き合い方を変えようと思っている。 わたしにとってこの短編小説を読んだことは、庭野氏の会社員時代に「駄洒落中毒」から救ってくれた同僚の説論や、(彼自身はまだわからないというけれど)風呂田君との出会いと関係の深まりがそうだったように、人生における「画期的な出来事」だった、と思ってみたい。 重要なことも考えられた気がしているけれど、同時に、というかそれ以前に、その文体とそこから生み出されるフロウの読み心地は当然最高で、読んでいると純粋に楽しく嬉しくもなってくる。ああ、良い小説を読んだ。今日からも持ち歩いて四回目以降も読みたい。という思いで短編小説を雑誌から抜き出す(アイロンで背表紙のノリを溶かすやり方)。表紙をつけてステープラーで閉じたら、そっとOPPの袋に入れてお気に入りのビートとアンビエント・ミュージックのテープと一緒にバッグに入れて散歩に出かける。快晴の、土曜日の午後一時過ぎ。風が強い。いつもは会釈で通り過ぎてしまう家の前の駐車場でなにやら作業をしているおじいさんに、今日は声に出して挨拶をした。
    群像 2026年 2月号
  • 2026年1月8日
    群像 2026年 2月号
    群像 2026年 2月号
  • 2026年1月8日
    群像 2026年 2月号
    「ならば、というか、だから、というか、見えないところに少しの親切や配慮を用意することが、全部を嘘と疑うことを半ば強いられるこの世界に抵抗を示すことにはならないだろうか。枠井梓に「ガン無視」された窓川夫人にネギを持っていこうとしたのは、庭野広のそのような心の動きだった。これが自分の陰謀。」 滝口悠生「庭野広の駄洒落と陰謀」
    群像 2026年 2月号
  • 2026年1月8日
  • 2026年1月7日
    群像 2026年 2月号
    滝口さんの短編小説を読み終わると、岸本佐知子さん訳のルシア・ベルリンの小特集がはじまる流れもとても良い。流れにのって最初の一編「電話交換台」を読んだけど、仕事とプライベートをシームレスにスピットしまくる交換手たちの会話が作り出すグルーヴ、そこから浮かび上がる時代と世代と社会、当然これもとても良い短編小説でした。
    群像 2026年 2月号
  • 2026年1月7日
    群像 2026年 2月号
    目当てのひとつだった滝口悠生さんの「庭野広の駄洒落と陰謀」を読んだ。わたしも庭野広氏のような態度と心持ちで世界や他人に接し、「親切や配慮」の優しい「陰謀」を巡らせながら生きていきたいものです、とじんわり思っている。今の世界、社会で読みたかった、優しく(優しさで)抵抗しているようにも思える小説でした。これもシリーズになったら嬉しいな。庭野氏にも「語るべきことはまだまだたくさんある」みたいだし。
    群像 2026年 2月号
  • 2026年1月7日
    群像 2026年 2月号
    今日のところは一旦立ち読みしよっかなー、と立ち寄った本屋では扱っていなくて、そうなると意地になってしまうものでもう一軒ハシゴして、そのお店で見つけた瞬間テンションが上がって結局買ってしまった。
    群像 2026年 2月号
  • 2026年1月7日
    ついてくるもの (講談社ノベルス ミG- 9)
    これは怖かった。「実話怪談」小説、と言いたい「ホラー短編集」。ホラー作家が「蒐集」したとされる「実話怪談」の形式を使った小説たちが集められ「ホラー短編集」として差し出されるとき、これは全てが「実話」なのか、ベースになった話はあるのか、あるいは全てがフィクションの小説なのか、と野暮とは思いながらも勘ぐりながら読むのは結構楽しいし怖い。それはわからないし、実はわかりたくもないから、語られる怪異と同じように「答え」は出ない、出さないまま、問いも解釈も手放して寄る辺がない読み終わる、というのもやっぱり怖くて良い。 などと思いながら読み進めていくと、最後にシリーズもののキャラクタを使った明らかなフィクションの軽めの謎解き小説が収められていることで、これまでの話で憑いてしまった恐怖を落とす、短編集自体のオチにもなっていて、なるほど、と思えたのも良かった。まあ、わたしは読後もしばらくの間は恐怖を抱えていたいタイプなのだけど。 居るはずのないものが居て、あるはずの記憶がない、何故だかはわからないけれど、な「ルームシェアの怪」が、話自体も語り方も特に好きだった。こういうのもっと読みたい。
    ついてくるもの (講談社ノベルス ミG- 9)
  • 2026年1月6日
    狂人日記
    狂人日記
    この日記のかたちをした小説に書かれている幻覚幻聴以外の主人公の心情や苦しみ、孤独も全部知ってる、というか少なくとも分かる、とは思えてしまったんだよな。それはまあ「現代人の意識に通底する」部分であって特別な事では無いとも思っているんだけど、それがもしわたしだけが感じているものだとしたら、と思うと少し怖くはなってきますね。
    狂人日記
  • 2026年1月6日
    狂人日記
    狂人日記
    裏表紙にあるような「現代人の意識に通底する絶対的な孤絶」が分かったような気がした。この日記の書き手が幻聴する「世間というものの底にいつも波打っているリズム」も感じたことがあるような気がしてきた。その孤独なリズムは、今もこの本を読んでいるときにも流れていた、いや、半ば意識して流していた阿部薫の演奏にもある、と思い込み始めている。 いちばん好きな《JAZZ BED》も最近手に入れた《NORD》もどちらもデュオによる演奏だけれど、阿部のサックスの音は日記や小説を書くように孤独(演奏相手がいる、ということとは別の意味で)だ。これは《NORD》のライナーノーツで読んだ、彼が小説を書こうとした後にサックスを吹き始めた、というエピソードの影響かもしれないけれど、そんな風に感じている。 色川武大の小説では「百」という短編の文体、そこから生まれるフロウが大好きだったのだけど、この小説ではそこにあった、惹かれたあっけらかんとしたような軽やかさは感じられなかった。代わりあるのは、哀しみを湛えた暗く響いてくるリズムで。それは単純に心地よいだけのものではないけれど、それでも読み進めてしまう魅力がある。そんな感覚は、激しく速くて哀しい、楽しいとは言い難い阿部の演奏にも感じている魅力でもあって。 「自分のことを他の誰にも委ねる意思がない以上、自分の不安定な実感を抱えているより仕方がない」人間はその孤独で不安定な実感を日記(小説)に書き音楽として演奏するのかもしれない。あるいはそれらが出来ないときには、この日記の書き手のように「死を選ぶ」ことにもなるのかもしれない。 それでも「死んでやろうじゃない。死ぬよりほかに道はなしということだ。それで、自然死がよろしい。今日から、喰わぬ。」と書かれるとき、そこには悲観やあきらめ以外、以上のもの、当てつけでは無い反抗や闘争、もしかしたら文章や音楽でするようなある種の「表現」とも言えるようなものがあるようにも思えてくる。のは良くないのかもしれないけれないし、他人の死を勝手に評価してしまうべきでも無いけれど、少なくとも小説の上ではそんな風にも思えたのだった。 そんな小説を読むことで誰もがもつ「絶対的な孤絶」を、そこから発せられる世界に流れるリズムを改めて実感してしまったとき、その実感を誰とも共有出来ず「誰にも委ね」られず、日記や小説を書くことも音楽にして演奏することもなく表現するすべを持たず、ましてや、「死を選ぶ」ことも未だ出来ない人間はどうするべきなのだろうか。その孤独、「不安定な実感」をただ抱えていることしか出来ないのだろうか。ああ、それが人生か。とか考え始めてしまうと暗澹たる気持ちにもなりはじめるけれど、同時に素晴らしい小説を読んだ、最高の音楽を聴いている、という感動や喜び(は他人に共有したい感情だ)もたしかに感じながらこんな文章を書いているから、今のところは全然OKなんだけど。多分。カバーアートに使われている有馬忠士の画集も欲しい、と物欲もあるしね。
    狂人日記
  • 2026年1月5日
    ユニヴァーサル野球協会 (新潮文庫 ク 15-1)
    ユニヴァーサル野球協会 (新潮文庫 ク 15-1)
    やはり単行本で入手したい。
    ユニヴァーサル野球協会 (新潮文庫 ク 15-1)
  • 2026年1月5日
    狂人日記
    狂人日記
    日記の書き手が少年時代にハマっていた、掌を力士に見立てたところから始まり、カードと五つのサイコロを使うように進化したオリジナルの相撲ゲーム。それぞれの力士の個性と勝敗は勿論、次第に入場者数や金銭の流れに引退後に至まで、その「社会」を隅々まで想像していく様にロバート・クーヴァーの『ユニヴァーサル野球協会』を思い出した。 こちらでは相撲に止まらず野球にも手を出し「どういうわけか」映画の撮影所も加わることになり、更に自分でも「恐れていたことに」それらを観に行く無数の市民のカードも制作されてしまう。神がサイコロを振る、完全に偶然に支配された「世界」の創造である。凄まじい。 そのゲームに書き手は「もうとっくに煩瑣に耐えられなくなっていたし、倦きたし、馬鹿馬鹿しくもなっているところがあった。それ以上に、すべてを動かすとなると実行不可能だった。ところがそれがやめる理由にならないのである。現実というものが、そもそも煩瑣で、退屈で、阿呆らしくて、どうにもならないもののように思える。自分が生きている以上この遊びもやめられない。」のである。少年が思いがけず覚ってしまう現実の人生の、困難と苦しみと哀しみ。 『ユニヴァーサル野球協会』も苦しく哀しいけれど、凄い小説だった、と思い出してまた読みたくなってきた。今は白水Uブックスに入ってるけど、単行本のカバーが最高なんだよな。今度みつけたら入手したい。
    狂人日記
  • 2026年1月5日
    狂人日記
    狂人日記
  • 2026年1月4日
    ノヴァ
    ノヴァ
  • 2026年1月4日
    マッドヴィランの嘘と真実
    マッドヴィランの嘘と真実
    「それから、事切れるまえに最後にひとつだけ矛盾した虚偽を共有させてほしい。《Madvilainy》は史上最高のアルバムである、ということだ。これは嘘だ。なぜなら、あの作品はアルバムではない、というのが真実だからだ。《Madvilainy》はリスナーのコミュニティに命を吹き込みつづける伝説であり、それを聴く者や共有する者ごとに異なる意味をもった無数の物語を生みだしている。」 これを語っているのは「真実嫌悪博士ことドクター・トゥルーサヴァース」、Madvillainの《Madvilainy》についての本が書かれるために生み出された「虚構」の存在だ。そしてこれがこの本で導き出される「真実」だ。ということは、この本自体も「伝説」から生み出された無数の「物語」のひとつなのだ。 なるほど、そうだとするならばわたしの大好きな小説、トミー・オレンジの『ゼアゼア』で描かれた物語もこの「伝説」から生まれた「物語」と言えるだろう。 オークランドで暮らす胎児性アルコール症候群(ドローム)の「都市インディアン」の少年、トニー・ローンマンがバスで拾った「MF ドゥーム」の音楽だけが入ったiPodで聴くMad villainの〈Rhinestone Cowboy〉。彼がその曲、リリックを聴き「ドゥームが好きだって直感した。しびれた。どういう意味なのか速攻で、何もかも分かった」救われた瞬間、「伝説」はオークランドのストリートで暮らす「都市インディアン」の少年までたしかに届いたのだ。 これは小説として書かれているのだから、勿論「虚構」だ。しかし、その物語が書かれたことは「真実」だ。つまり、「伝説」は少年と同じくオークランド出身の「都市インディアン」である作者のトミー・オレンジまで届き、そこでひとつの「意味」をもち「物語」が生み出された、ということだ。 この本を読んだ後では、そんな「物語」もその後ろにあるはずの「真実」も、より特別でロマンティックなものに思えてきた。そんな気持ちのまま書いてしまえば、「都市インディアン」の少年が「何もかも分かった」瞬間を読んで感動して、そこで引かれるリリックの一部から〈Rhinestone Cowboy〉という曲に辿り着き、本をバッグに入れて、その文章を何度も読みながらその曲が収録されたアルバム、《Madvilainy》を探して何軒ものレコード・ショップを巡った、というあのときのわたしの行動も、順序は逆だけれど、「伝説」から生まれた「物語」と言ってもいいのではないか。多分あのときわたしも何かから救われた。 そう言い切ってしまえれば、『ゼアゼア』のことを思うとき、大好きな気持ちや感動と同時に浮かび上がってくる、こびりついていた嫌な思い出、汚点がようやく剥がれ落ちていって、より大切な小説、物語になった気もしてきた。 この本で語られるのはアルバム、アーティスト(という「伝説」)に近いところで生まれた数々の「真実」「虚偽」、その「記録」が中心であって、それは興味深いけれど、もう少し離れたところで無数に生まれたはずの、トニー・ローンマンやトミー・オレンジ、のような「物語」の方が読みたかった、と思うと少し物足りない気がしてしまっていた。けれど、わたしにも「物語」があったと気付かされた、大切な小説がより大切に思えるようになったことを思えば、これも読みたかった本だ、と思えるし、この本も「伝説」から生み出された無数の「物語」のひとつ」ということも踏まえれば、やはりこの本も素晴らしかった、最高の読書だった、となるのだった。 そういえば、この本も近くの本屋に売っていなくて、何軒かの本屋を巡ってようやく手に入れたのだった。それもまた「物語」とも言える、かも…… 『ゼアゼア』の件の文章、加藤有佳織さんの翻訳はリズムもフロウも素晴らしい。「ラップミュージックのように読みたい小説」、と昔書いたレコメンドを思い出しながら、また読んでみたらやっぱり最高だった。そして、この文章を訳すとき加藤さんはあの曲を聴いたのだろうか、もし聴いていたとするなら、そこにももうひとつ「伝説」から生まれた「物語」があったはず、とも想像しておきたい。
    マッドヴィランの嘘と真実
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