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Chance Meeting.
  • 2026年1月8日
    群像 2026年 2月号
    群像 2026年 2月号
  • 2026年1月8日
    群像 2026年 2月号
    「ならば、というか、だから、というか、見えないところに少しの親切や配慮を用意することが、全部を嘘と疑うことを半ば強いられるこの世界に抵抗を示すことにはならないだろうか。枠井梓に「ガン無視」された窓川夫人にネギを持っていこうとしたのは、庭野広のそのような心の動きだった。これが自分の陰謀。」 滝口悠生「庭野広の駄洒落と陰謀」
    群像 2026年 2月号
  • 2026年1月8日
  • 2026年1月7日
    群像 2026年 2月号
    滝口さんの短編小説を読み終わると、岸本佐知子さん訳のルシア・ベルリンの小特集がはじまる流れもとても良い。流れにのって最初の一編「電話交換台」を読んだけど、仕事とプライベートをシームレスにスピットしまくる交換手たちの会話が作り出すグルーヴ、そこから浮かび上がる時代と世代と社会、当然これもとても良い短編小説でした。
    群像 2026年 2月号
  • 2026年1月7日
    群像 2026年 2月号
    目当てのひとつだった滝口悠生さんの「庭野広の駄洒落と陰謀」を読んだ。わたしも庭野広氏のような態度と心持ちで世界や他人に接し、「親切や配慮」の優しい「陰謀」を巡らせながら生きていきたいものです、とじんわり思っている。今の世界、社会で読みたかった、優しく(優しさで)抵抗しているようにも思える小説でした。これもシリーズになったら嬉しいな。庭野氏にも「語るべきことはまだまだたくさんある」みたいだし。
    群像 2026年 2月号
  • 2026年1月7日
    群像 2026年 2月号
    今日のところは一旦立ち読みしよっかなー、と立ち寄った本屋では扱っていなくて、そうなると意地になってしまうものでもう一軒ハシゴして、そのお店で見つけた瞬間テンションが上がって結局買ってしまった。
    群像 2026年 2月号
  • 2026年1月7日
    ついてくるもの (講談社ノベルス ミG- 9)
    これは怖かった。「実話怪談」小説、と言いたい「ホラー短編集」。ホラー作家が「蒐集」したとされる「実話怪談」の形式を使った小説たちが集められ「ホラー短編集」として差し出されるとき、これは全てが「実話」なのか、ベースになった話はあるのか、あるいは全てがフィクションの小説なのか、と野暮とは思いながらも勘ぐりながら読むのは結構楽しいし怖い。それはわからないし、実はわかりたくもないから、語られる怪異と同じように「答え」は出ない、出さないまま、問いも解釈も手放して寄る辺がない読み終わる、というのもやっぱり怖くて良い。 などと思いながら読み進めていくと、最後にシリーズもののキャラクタを使った明らかなフィクションの軽めの謎解き小説が収められていることで、これまでの話で憑いてしまった恐怖を落とす、短編集自体のオチにもなっていて、なるほど、と思えたのも良かった。まあ、わたしは読後もしばらくの間は恐怖を抱えていたいタイプなのだけど。 居るはずのないものが居て、あるはずの記憶がない、何故だかはわからないけれど、な「ルームシェアの怪」が、話自体も語り方も特に好きだった。こういうのもっと読みたい。
    ついてくるもの (講談社ノベルス ミG- 9)
  • 2026年1月6日
    狂人日記
    狂人日記
    この日記のかたちをした小説に書かれている幻覚幻聴以外の主人公の心情や苦しみ、孤独も全部知ってる、というか少なくとも分かる、とは思えてしまったんだよな。それはまあ「現代人の意識に通底する」部分であって特別な事では無いとも思っているんだけど、それがもしわたしだけが感じているものだとしたら、と思うと少し怖くはなってきますね。
    狂人日記
  • 2026年1月6日
    狂人日記
    狂人日記
    裏表紙にあるような「現代人の意識に通底する絶対的な孤絶」が分かったような気がした。この日記の書き手が幻聴する「世間というものの底にいつも波打っているリズム」も感じたことがあるような気がしてきた。その孤独なリズムは、今もこの本を読んでいるときにも流れていた、いや、半ば意識して流していた阿部薫の演奏にもある、と思い込み始めている。 いちばん好きな《JAZZ BED》も最近手に入れた《NORD》もどちらもデュオによる演奏だけれど、阿部のサックスの音は日記や小説を書くように孤独(演奏相手がいる、ということとは別の意味で)だ。これは《NORD》のライナーノーツで読んだ、彼が小説を書こうとした後にサックスを吹き始めた、というエピソードの影響かもしれないけれど、そんな風に感じている。 色川武大の小説では「百」という短編の文体、そこから生まれるフロウが大好きだったのだけど、この小説ではそこにあった、惹かれたあっけらかんとしたような軽やかさは感じられなかった。代わりあるのは、哀しみを湛えた暗く響いてくるリズムで。それは単純に心地よいだけのものではないけれど、それでも読み進めてしまう魅力がある。そんな感覚は、激しく速くて哀しい、楽しいとは言い難い阿部の演奏にも感じている魅力でもあって。 「自分のことを他の誰にも委ねる意思がない以上、自分の不安定な実感を抱えているより仕方がない」人間はその孤独で不安定な実感を日記(小説)に書き音楽として演奏するのかもしれない。あるいはそれらが出来ないときには、この日記の書き手のように「死を選ぶ」ことにもなるのかもしれない。 それでも「死んでやろうじゃない。死ぬよりほかに道はなしということだ。それで、自然死がよろしい。今日から、喰わぬ。」と書かれるとき、そこには悲観やあきらめ以外、以上のもの、当てつけでは無い反抗や闘争、もしかしたら文章や音楽でするようなある種の「表現」とも言えるようなものがあるようにも思えてくる。のは良くないのかもしれないけれないし、他人の死を勝手に評価してしまうべきでも無いけれど、少なくとも小説の上ではそんな風にも思えたのだった。 そんな小説を読むことで誰もがもつ「絶対的な孤絶」を、そこから発せられる世界に流れるリズムを改めて実感してしまったとき、その実感を誰とも共有出来ず「誰にも委ね」られず、日記や小説を書くことも音楽にして演奏することもなく表現するすべを持たず、ましてや、「死を選ぶ」ことも未だ出来ない人間はどうするべきなのだろうか。その孤独、「不安定な実感」をただ抱えていることしか出来ないのだろうか。ああ、それが人生か。とか考え始めてしまうと暗澹たる気持ちにもなりはじめるけれど、同時に素晴らしい小説を読んだ、最高の音楽を聴いている、という感動や喜び(は他人に共有したい感情だ)もたしかに感じながらこんな文章を書いているから、今のところは全然OKなんだけど。多分。カバーアートに使われている有馬忠士の画集も欲しい、と物欲もあるしね。
    狂人日記
  • 2026年1月5日
    ユニヴァーサル野球協会 (新潮文庫 ク 15-1)
    ユニヴァーサル野球協会 (新潮文庫 ク 15-1)
    やはり単行本で入手したい。
    ユニヴァーサル野球協会 (新潮文庫 ク 15-1)
  • 2026年1月5日
    狂人日記
    狂人日記
    日記の書き手が少年時代にハマっていた、掌を力士に見立てたところから始まり、カードと五つのサイコロを使うように進化したオリジナルの相撲ゲーム。それぞれの力士の個性と勝敗は勿論、次第に入場者数や金銭の流れに引退後に至まで、その「社会」を隅々まで想像していく様にロバート・クーヴァーの『ユニヴァーサル野球協会』を思い出した。 こちらでは相撲に止まらず野球にも手を出し「どういうわけか」映画の撮影所も加わることになり、更に自分でも「恐れていたことに」それらを観に行く無数の市民のカードも制作されてしまう。神がサイコロを振る、完全に偶然に支配された「世界」の創造である。凄まじい。 そのゲームに書き手は「もうとっくに煩瑣に耐えられなくなっていたし、倦きたし、馬鹿馬鹿しくもなっているところがあった。それ以上に、すべてを動かすとなると実行不可能だった。ところがそれがやめる理由にならないのである。現実というものが、そもそも煩瑣で、退屈で、阿呆らしくて、どうにもならないもののように思える。自分が生きている以上この遊びもやめられない。」のである。少年が思いがけず覚ってしまう現実の人生の、困難と苦しみと哀しみ。 『ユニヴァーサル野球協会』も苦しく哀しいけれど、凄い小説だった、と思い出してまた読みたくなってきた。今は白水Uブックスに入ってるけど、単行本のカバーが最高なんだよな。今度みつけたら入手したい。
    狂人日記
  • 2026年1月5日
    狂人日記
    狂人日記
  • 2026年1月4日
    ノヴァ
    ノヴァ
  • 2026年1月4日
    マッドヴィランの嘘と真実
    マッドヴィランの嘘と真実
    「それから、事切れるまえに最後にひとつだけ矛盾した虚偽を共有させてほしい。《Madvilainy》は史上最高のアルバムである、ということだ。これは嘘だ。なぜなら、あの作品はアルバムではない、というのが真実だからだ。《Madvilainy》はリスナーのコミュニティに命を吹き込みつづける伝説であり、それを聴く者や共有する者ごとに異なる意味をもった無数の物語を生みだしている。」 これを語っているのは「真実嫌悪博士ことドクター・トゥルーサヴァース」、Madvillainの《Madvilainy》についての本が書かれるために生み出された「虚構」の存在だ。そしてこれがこの本で導き出される「真実」だ。ということは、この本自体も「伝説」から生み出された無数の「物語」のひとつなのだ。 なるほど、そうだとするならばわたしの大好きな小説、トミー・オレンジの『ゼアゼア』で描かれた物語もこの「伝説」から生まれた「物語」と言えるだろう。 オークランドで暮らす胎児性アルコール症候群(ドローム)の「都市インディアン」の少年、トニー・ローンマンがバスで拾った「MF ドゥーム」の音楽だけが入ったiPodで聴くMad villainの〈Rhinestone Cowboy〉。彼がその曲、リリックを聴き「ドゥームが好きだって直感した。しびれた。どういう意味なのか速攻で、何もかも分かった」救われた瞬間、「伝説」はオークランドのストリートで暮らす「都市インディアン」の少年までたしかに届いたのだ。 これは小説として書かれているのだから、勿論「虚構」だ。しかし、その物語が書かれたことは「真実」だ。つまり、「伝説」は少年と同じくオークランド出身の「都市インディアン」である作者のトミー・オレンジまで届き、そこでひとつの「意味」をもち「物語」が生み出された、ということだ。 この本を読んだ後では、そんな「物語」もその後ろにあるはずの「真実」も、より特別でロマンティックなものに思えてきた。そんな気持ちのまま書いてしまえば、「都市インディアン」の少年が「何もかも分かった」瞬間を読んで感動して、そこで引かれるリリックの一部から〈Rhinestone Cowboy〉という曲に辿り着き、本をバッグに入れて、その文章を何度も読みながらその曲が収録されたアルバム、《Madvilainy》を探して何軒ものレコード・ショップを巡った、というあのときのわたしの行動も、順序は逆だけれど、「伝説」から生まれた「物語」と言ってもいいのではないか。多分あのときわたしも何かから救われた。 そう言い切ってしまえれば、『ゼアゼア』のことを思うとき、大好きな気持ちや感動と同時に浮かび上がってくる、こびりついていた嫌な思い出、汚点がようやく剥がれ落ちていって、より大切な小説、物語になった気もしてきた。 この本で語られるのはアルバム、アーティスト(という「伝説」)に近いところで生まれた数々の「真実」「虚偽」、その「記録」が中心であって、それは興味深いけれど、もう少し離れたところで無数に生まれたはずの、トニー・ローンマンやトミー・オレンジ、のような「物語」の方が読みたかった、と思うと少し物足りない気がしてしまっていた。けれど、わたしにも「物語」があったと気付かされた、大切な小説がより大切に思えるようになったことを思えば、これも読みたかった本だ、と思えるし、この本も「伝説」から生み出された無数の「物語」のひとつ」ということも踏まえれば、やはりこの本も素晴らしかった、最高の読書だった、となるのだった。 そういえば、この本も近くの本屋に売っていなくて、何軒かの本屋を巡ってようやく手に入れたのだった。それもまた「物語」とも言える、かも…… 『ゼアゼア』の件の文章、加藤有佳織さんの翻訳はリズムもフロウも素晴らしい。「ラップミュージックのように読みたい小説」、と昔書いたレコメンドを思い出しながら、また読んでみたらやっぱり最高だった。そして、この文章を訳すとき加藤さんはあの曲を聴いたのだろうか、もし聴いていたとするなら、そこにももうひとつ「伝説」から生まれた「物語」があったはず、とも想像しておきたい。
    マッドヴィランの嘘と真実
  • 2026年1月3日
    マッドヴィランの嘘と真実
    マッドヴィランの嘘と真実
    虚構を纏ったアーティストの作品は、それに触れた人たちからそれぞれの「真実」の物語を引き出す。良くも悪くも。みたいなところがタイミングにもハマっていて良かった。それの一例がまさしくここ本であり、「ゼアゼア」でのあの少年の物語であり、それを書いたトミー・オレンジの物語であり、それを読んだわたしの物語でもあるのだ。と今のところそんなことを考えながら《Madvillainy》のCDを聴いている。
    マッドヴィランの嘘と真実
  • 2026年1月3日
    マッドヴィランの嘘と真実
    マッドヴィランの嘘と真実
    MF DOOMの《Operation: DOOMsday》のカバーアートを手がけた「ドゥームの友人でグラフィティライターのKEO、またの名をロード・スコッチ79」は『孤独の要塞』を書いたジョナサン・レセムの実兄である。という話をとても特別な話のように思っている。
    マッドヴィランの嘘と真実
  • 2026年1月3日
    ザ・ドロップ
    ザ・ドロップ
    クリスマスの二日後に読みはじめた小説の続きを読み終わって、この世のままならなさを思っている。 「そうさ。たんに、なんというか、いろいろへまをして、それを挽回しようとまたへまを重ねて、そのうちそれがそいつの人生になるだけだ」
    ザ・ドロップ
  • 2026年1月2日
    こどもの頃のこわい話 きみのわるい話
    この本には「真実」が書かれている、と思い切って書いてみたい2025年のベストのひとつ。 事実と真実というのは客観と主観の関係にあって、だから「真実はいつもひとつ」ではなくて、人の数だけそれぞれにある、と思っている。「僕にしかない記憶は、つまるところ誰のものでもない僕だけのかけがえのない記憶」(「それはベス」)、誰にでもありえるそんな記憶をわたしは真実と呼びたい。普段は事実をベースにして他人や社会に関わったり関わられたりしているなかで、簡単には表には出てこず触れることの出来ないそんな他人の記憶、真実を真摯に聴き取り否定せず解釈を出来るだけ加えずに書くことで、読んだり話したり考えたり出来るようにするのが「怪談」、だと最近はそんな風に考えている。 そんな他人のその人だけの記憶、真実に触れる、というのはどういうことなのか。誰しもがわたしとは違う記憶、真実をもっている、自分とは違う人間なのだ、と改めて理解することでもあるかもしれない。それはつまり、すべての人の悩みをたちどころに解決したり、世界の謎を一気に暴くような、あるいは「幽霊」が居て、誰の目の前にも同じような姿で出現し得るとか、そんな共通した都合の良い真実など無い、ということも確認出来るということでもあって。 「霊感商法」や「陰謀論」などそうした共通した「真実」が「ある」という、私の不幸や社会の問題もすべてはふだそのせいなのだ、という疲弊した人生では縋りつきたくなるかもしれない心理を利用した「悪意」は、普段は見えていない「隠されて」いるものを見えるようにする、という構造的に「怪談」との親和性が高いのかもしれないし、それを利用することも出来るのだろうけれど、優れた「怪談」、しっかりと誰かのその人だけの記憶、「真実」を書こうとしているものは、その「悪意」に抗する、否定するものでもありえるのだ。わたしはそんな風にも、「怪談」を、この本を読んでいる。読みたい。この優れた怪談本はそんなことも思わせてくれたのだった。 記憶という真実はひとつではなく無数にあるのと同時に、それらは常に同じ形をしているものでも、ひと所に留まっているものでもない。経験が記憶になった時点から変化は始まっているだろうし、それが特異なものであればあるだけ、否定と肯定を繰り返したり、幾つもの解釈を加えたり捨てたり、あるいは一度は忘れようとして、それでも思い出してしまうことで新たな視点が生まれたり、強固に「信じ」込むことで先鋭化したり、そんなことを繰り返すものな気がしている。それが「こどもの頃」(と振り返れる年齢なら)という遠い過去から長い時間そんなことを繰り返してきた、記憶、真実ならば、それは読むものに衝撃を与えるものにまで更に「仕上がって」いたりするのかもしれない。だって、ここに編まれた話は、こわくてきみがわるくて、強烈な異彩と魅力を放っているものばかりではないですか。そんな話に触れてしまったら、立ち尽くし震えながらすべてそのまま受け入れるしかない。まったく。最高である。 そして更に恐ろしいことに、世界との関係がまだ不確かだった「こどもの頃」という時期は誰にでも存在するのだ。他人の仕上がっている強烈な記憶に触れた後に自らの「こどもの頃」を振り返らずにはいられない。そうしてみれば、私だけの「こわい話 きみのわるい話」も蘇ってくる。わたしの「神社のお祭りで父親が入れ替わっていた話」も改めて思い出すことで「仕上がり」つつある。怖い。そんな特別な経験、その追憶もまた、私は他人とはたしかに違う人間なのだ、という根本的ななことを思い出させる。 優れた怪談本には、強烈でユニークなモチーフ、「ネタ」の強さと同時に、それに負けないだけの文章の強さがある。もしかしたらその強さがあれば、「ネタ」の強弱は関係ないのかもしれない。それぞれの話をより伝える為の文体を選び、話のキモを掴み、流れを作り、細部や欠落をときに想像で補い、他人が読んだり考えたり「楽しんだり」出来るものにする。正に文藝である。 この本でわたしが好きな話だと…… 「犬屋敷」の3人の小学生が廃屋に忍び込む様を語る冷徹な印象も受ける三人称視点。この文章はカッコいい、と思った。普段読んでいる海外の犯罪小説にも近い「クール」さも感じる。最後にエピローグ的に語られる無惨な「その後」の語り口にも震えた。 わたしの好きな取材時の作家の存在がたしかに描かれるタイプの「きつね」。体験者が語る「きつね」がわたしの認識しているそれとはまったく違うものだ、と作家が気付くと同時にわたしたちも気付かされる、という展開から、もうひとつの「真実」に今度は体験者自身が驚き恐怖を感じる。二度の驚きとふたつの恐怖。そして最後の一文には綺麗な「話のオチ」があって痺れた。 全体としてもかなり改行が多い書き方がされているのだけど、それが特に効果的に感じられた「ミロクノゾキ」。叔母の通夜の晩、ある「決まり」が破られた場に居合わせてしまった少年に迫ってくる怪異の臨場感と少年の焦りと恐怖が短文の連続によってこちらにも迫ってくる感。怖い。 怪異に触れることで促された登場人物の変化を、最後の一文のある文章上の変化によって「事実」として世界、社会のなかにたしかに位置付けるような「別れる理由」。そうか、「怪談」でもこういうことが出来るのか、と感動した。 そしてこの本でいちばん好きな「死柱にこうべを垂れよ」。報告者との出会いから描かれる怪異取材ドキュメント、として読みたい一話。体験者の記憶を聴き取った作家の記憶、というのは「怪談」の基本的な構造だとも思うのだけど、隠したり小出しにすることが効果的だったりする後者の記憶が強く出てくることで不穏さが増し新たな恐怖が現れることもある。最後の一文のまだ「終わっていない」感も怖いし、文章としてカッコ良かった。 そして、各話だけではなく、それら(のモチーフ同士を)をたしかに微かに繋げながら語ることで大きなグルーヴも生み出し、それが徐々に高まっていく全体の構成も素晴らしい。それでいうとトリの大ネタ「人形地獄」もやっぱり凄い。ひとつの話のなかで語られる幾つかの怪異が準に強度、恐度を増していき(怖い→凄い怖い→もっと凄い怖い)、最後にはひとつの体験談にまとまり、その怖さに辿り着く。一冊の本での構成を一話に凝縮したような密度と適切な配置。これもめちゃくちゃ凄い。 ああ、そう、この本はカバーのデザインも素晴らしいのだった。完全に持っておきたいフィジカル感…… などと長々と書いてしまっているけれど、わたしの語彙と「読み」では魅力を伝えきれないかもしれない、というか前半に書いていたことも的外れかもしれない。みたいな不安と不満はあるし、それだったら「怖い!最高!」とだけ書いて終わりにしてしまっても良いのだけれど、「めんどくさい」ことや魅力、素晴らしさについて考えたり、それを纏まらないままに長々書いてしまったりするのは、本を読むことにまつわる楽しみのひとつだし、それが出来る本は良い本なのはたしかだ。去年の発売から少しして買ってから、何度か読み直しながら、途切れ途切れではあるけれど、考えたり話したり書いたりし続けていたこの一冊は、やっぱり2025年のベスト、と確信を持って書いておきたい。
    こどもの頃のこわい話 きみのわるい話
  • 2026年1月2日
    お別れの音
    お別れの音
    過去を「日常」という道として振り返るとき、そこにあったはずの起伏やひび割れや分岐は、「日常」という言葉によって平坦で起伏のないダラダラと続く一本の道のように平されてしまっている気がする。そうやって「日常」に覆い隠されてみえなくなってはいても、過去のそこかしこには、小さな、感情の揺れやあきらめ、それらに由来する言動や決断が絶対にあったはずで。そんな「日常」に隠されてしまった小さくて歪な、だからこそ忘れてしまっているような部分を大切にすくいあげ、丁寧に物語ったような短編小説たち。特に冒頭にある「新しいビルディング」という一編。 その短編を読み進めるうちに、わたしの日常の端も少しだけめくられる。この短編集でも書かれる「心地の良いあきらめ」や「調和しないタイミング」、しっくりこない世界との関係。少しずつ失ってしまったものたち、意識していなかったような別れがわたしの「日常」にもやはりあったのだった。それらは隠されてみえないままでも良かったのかもしれないけれど、思い出し気付いたのなら、今のわたしに影響を与えたはずのそれらをもう一度抱きしめて、今度は大切に覚えておきたい。この短編集を読んだこと、そこで感じたり考えたりしたこと一緒に。そんなことを思った。
    お別れの音
  • 2026年1月2日
    暗殺者たちに口紅を (創元推理文庫)
    「性自認が女性で、憤るすべての人に。わたしもおなじです。これはあなたの本です。」 クイーンたちが矜持や生活、人生そのものを取り戻すため、これからクイーンになるものたちのために“kick ass”する物語。これはわたしの物語ではないのかもしれない、と思ったけれど、それでも燃えた。あつかった。冒頭に引いた、最後の作者の言葉に納得しつつ、その言葉やこの小説が書かれたこと自体もあついと思った。 ここでいうクイーンという言葉は地位や権力を持っているという意味ではなくて、「世界と対峙して、そこで屈せずに自らの人生を自らでコントロールして生きる、生きようとする女性」のような意味合いで使っています。ボストン・テラン・インスパイア。
    暗殺者たちに口紅を (創元推理文庫)
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