中村 "社会存在論" 2026年4月17日

中村
中村
@boldmove33
2026年4月17日
社会存在論
社会存在論とは、社会的世界にはどのような構成要素で成り立っているのか、どのように構築されているのか、それらはどのように存在しているのかといった社会的世界(=社会的事実)の根本的な問題に取り組む新興の学問領域だという。代表的なトピックとして、集合的志向性や社会的カテゴリー、制度、社会的集団などが挙げられている。このような社会存在に関するさまざまな議論を社会存在論として全体図を示そうとしているのが本書である。本書が立脚するのは「社会の存在は個人の存在に依存するが、個人の存在も社会の存在に依存する」という形式で表現される、ギデンズの構造化理論のような耳馴染みのよいベーシックな存在論である。ここから出発することで筆者が取り組んでいるのは、方法論的個人主義の批判であり、存在論的全体主義ないし方法論的非個人主義の擁護である。具体的に取り組んでいるのは、社会的現実はどのような構造をもっているのか、社会的カテゴリーはどのように実在しているのか、制度はどのように定義することができるのかといった問いである。これらを踏まえて、戦後日本の集合的責任というテーマに帰着するというのがトリッキーだった。どの議論も刺激的で面白かった。また、社会存在論は社会科学の哲学をかならずしも経由しないという主張も面白かった。より根本的な問題に取り組もうとしている。 >リトルの行為者中心的な社会存在論は、強固な存在論的個人主義を基盤にしているように見えるが、そこに現れる究極の単位としての「個人」とは——社会的に構成され、かつ位置づけられているという意味で——すでに社会化された個人であることが判明した。つまりそこでは、個人は社会を形成するが、当の個人は社会によって形成されるという、個人と社会との存在論的相互依存ないし循環が前提されていたのだ。先ほど述べた意味での「実在論」を採用するならば、私たちはこの存在論的特性に合致する仕方で社会的世界の説明を行う必要がある。(p. 29) >サールのように会社を個人の義務的力関係の「たんなるプレースホルダー」と捉えることは「標準理論」としてはむしろ不自然であり、またそれは私たちの社会的実践から乖離した社会存在論を帰結してしまいかねない。(p. 69) >実際、「説明する側の事実」が「説明される側の事実」の原因ではない事例は数多く存在するように見える。たとえば「なぜその行為はいじめであったのか」について説明を求められた第三者委員会が、[その行為は無抵抗のクラスメートに対して日常的に身体的暴力を加えるものだった]からだと答えるケースを考えてみよう。ここで言及された事実は[その行為はいじめであった]という事実を説明すると考えられるが、それはいじめの事実の原因とは明らかに異なる。(「日常的な暴力が原因となっていじめ行為が引き起こされた」と述べるのは奇妙である!)もしこれが真正な説明であり、かつそれが因果関係に言及するものでないとすれば、「非因果的説明は存在する」と結論してもよいだろう。グラウンディングによる説明はこうした非因果的(形而上学的)説明の一種である。(pp. 74–75) >私自身は、構成的依存(構成的構築)の否定は、次の二つの点で適切ではないと考える。[……]第二に——こちらの方が重大だが——社会種に関する因果的構築は構成的構築を前提するということを、グァラはまったく考慮していない。私の考えでは、一般的に、社会種を含む因果推論を行う際、説明項または被説明項(あるいはその両方)は、すでに社会的事象ないし事実(の記述)として理解されていなければならない。たとえば「なぜ結婚している男性は、独身の男性よりも(平均的に)長生きするのか」という問いに因果的な説明を与える際に、「結婚している男性」(あるいは「独身の男性」)とは何であるのか、言い換えれば、どのような条件を満たせば、誰かが「既婚男性」(あるいは「独身男性」)という社会種に属するのかを知っている必要がある(そうした条件には第 3 章で論じたグラウンドする事実や現行の婚姻制度(構成的ルール・フレーム原理)を支えているアンカー等が含まれるだろう)。これを解明するのは「因果」ではなく「構成」である。つまり、「何ゆえに」の問いに答える前に、私たちは「何であるのか」の問いに答えなければならない。因果性に訴えて社会種の実在性を擁護しようとする論者たちには、この「自明の理」を等閑視してしまう傾向にある。(p. 119) >ハッキングの理論は、その実用的因果法則の概念によって、「社会種の実在論」に説得力を与えただけでなく、社会種の独自性を解明することで、自然種とは異なる仕方で、その実在性を擁護する可能性も示したと言えよう。帰納的一般化あるいは因果推論への社会種の寄与が、その実在性の根拠となることはたしかである。しかし、分類された物への私たちの振る舞い、分類された者の自己意識・行動の変化、それらに起因する分類自体の変化または強化といった独自の因果メカニズムもまた社会種の実在性を担保することに貢献する。これに加えて、私の見解によれば、ハッキングの理論は、社会種(人びとを分類する種)の実在性の度合いを測る基準(の一つ)——ルートの理論における「規範性」とは異なる基準——を与えてくれるように見える。その基準は自己理解ないしアイデンティティーと関わる。すなわち、自己理解やアイデンティティーに対してより大きな影響を与える社会種は、そうでない社会種と比べて、「より実在的である」(more real)とするような基準である。(pp. 129–130) >もし制度理論がこうした根本制度(理念的制度)から導出される諸制度の存在を認めないのであれば、(一)それは現行の(実行的)制度を追認するだけになるか、(二)現に生じてきた/生じている制度変化をすべて経済的合理性等に帰着させるか、(三)理念をこっそりと密輸入するかのいずれかになるだろう。[……]第二の選択肢が適切ではないことを示すために、次のような反事実的な状況を想像してみよう。ある信頼に足る研究によって、男女平等な制度は経済的合理性をもたないことが判明したとしよう。はたしてそうした状況において、平等な差別は妥当でなくなるだろうか。そのようなことはないだろう。「人は性別によって差別されてはならない」という根本規範が存在するかぎり、それは妥当な制度であり続けるはずである。したがって、男女平等雇用制度が妥当であるのはそれが経済的な合理性をもつからではない。(pp. 232–233) >多くの哲学者および社会科学者たちにとって、方法論的個人主義から逸脱すること、いわんや「全体論者」(集合主義者)」を名乗ることは——それが存在論的な立場ではなく、方法論的な立場であっても——大きなリスクを伴うと考えられている。それはどのようなリスクなのかと言えば、第一に「非科学的」というレッテルを貼られるリスクであり、第二に「全体主義的」(反民主主義的)というレッテルを貼られるリスクである。(p. 249) >私は、ペティットによる集団行為者の実在論に賛同しながらも、彼の「方法論的個人主義」およぼそれを維持するためのスーパーヴィーニエンス・テーゼの擁護は説得力を欠くと主張した。だが私自身も、集団の態度がもつ「ある種の自律性」は、集団行為者の実在論を擁護する際に重要な根拠の一つになると考えているため、以下では、より直接的かつシンプルな仕方でそれを論じることにしたい。ポイントは次のような表現される。行為者になりうる集団は——それを「組織」(organization)と言い換えてもよいが——ある構造をもち、ルールに支配される。それらの構造・ルールは、個人の態度や行為を集団の態度や行為に変換する役割を担っており、それらは集団行為者にとって本質的な構成要素である。前説で見たように、メンバーたち(個人)の態度はまったく同じであるにもかかわらず集団の態度が異なるという事態は、構造・ルールを異にする二つの集団においてはごく自然に生じうる。集団行為者の「ある種の自律性」は、こうした構造・ルールによっても説明されうると考えられる。(p. 253) >私自身は、集団行為者の実在論と方法論的個人主義は両立不可能だと考えている。[……]しかしながら、人びとの態度・行為(の集まり)は集団の態度・行為と同一ではない。それらは構造・ルールを介して集団の態度・行為に変換される。そうした構造・ルール自体は、すでに述べたように、個人の態度・行為に還元されえない存在者なのである。(p. 257) >第 9 章の根本的な問いは次のように表現することができる。私たち日本の戦後世代が先の対戦および植民地支配がもたらした害に関して何らかの責任を負うとすれば、いったいそれはどんな種類の責任であり、いかなる内容をもつのか。また、そうした責任の帰属を正当化する根拠はどこにあるのか。(p. 260) >責任 RS が集合的責任であるのは、RS を説明するためには、何らかの集団への言及が不可欠である場合、かつその場合にかぎる。この CRSは、「集合的責任に関する方法論的個人主義は成り立たない」という言明とほぼ等しい。[……](三)いわゆる「集団の責任」は個人の責任のみによって説明されなければならない。(「方法論的個人主義」)[……](三)に関しては、「方法論的個人主義」に対する批判は繰り返し行なってきたので、ここで述べ直すことはしない。ただ「集合的責任」という文脈において一つだけ強調したいのは、(集合的責任の一つとしての)「集団の責任」は、個人の責任と相互に排除しあうものではないということである。方法論的個人主義者たちは、集合的な事象を是が非でも個人に関する事象だけから説明したいようだが、それはあくまで彼らの「願望」にすぎない。実際にそのような説明が適切でないケースにおいては、方法論的個人主義の原則に固執するべきではないと私は考える。集合的責任はそうしたケースの一つである。(pp. 264–267) >「戦争に関与した世代の責任」という意味での戦争責任はいくつかのそうに区分されうる。組織化された集団である国家が戦争責任を負うことで、そのメンバーたちが免責されるわけではない。とりわけ国家の意思決定に深く関与した個人、あるいはそうした国家の機関に属していた個人に思い責任が分配されるべきだろう。[……]ところが「戦後世代の戦争責任」について同様の論理は成り立たない。私たちは戦争の惨禍をもたらした国家の意思決定にいかなる意味でも関与していないからである。しかし、前説で論じたように、大きな変化を伴いつつも戦中から現在に至るまで日本は同一の国家であり続けていることは否定しえない事実である。日本という国家(組織化された集団)が戦争責任を負い、当時の世代だけではその責任(賠償責任)を果たすことができなかったのであれば、現世代の日本国民がそれを引き継ぐことになる。しかも、戦後世代の国民は——戦前・戦中世代の国民とは違って——日本国の主権者である。私たち国民は、近隣諸国との共生を促進する政策をとるか否かに関する国家の意思決定に——主に投票行為を通じて——関与しているかぎり、戦後世代の日本国民は、たんに過去の被害に対する賠償に関してだけでなく、未来におけるアジア地域の安定に関しても責任を担っていると言えよう。(pp. 274–275)
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