
chika
@koitoya
2026年4月19日
京都 祈りと差別の千二百年
磯前順一
読み終わった
宗教学の視点から京都の歴史をたどり、差別の構造とその根源を問い直す一冊。単に「差別は悪い」と断じるのではなく、なぜそれが成立し、社会の中で必要とされてきたのかに踏み込んでいる。
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「差別は都市の発生と密接な関係を有しており、平安京における差別の社会構造が、京都から全国へと転移されていったと考えられる。」(p28-29)
本書はまず、都市と分業の成立が差別を生み出す条件であったことを示す。役割の固定は効率を高める一方で、不平等を制度化し、特定の人々に「穢れ」や「罪」を担わせる構造を作り出した。
「宗教は決して善なる性質だけを有するものではない。(省略)社会の統合は宗教的差別と表裏一体のものである。」(p30)
宗教は人々を結びつけるが、その裏で排除も正当化する。正しさの確信は暴力と隣り合わせであり、救済の感覚すら危ういものとして捉え直される。
中世においては、「穢れ」と「罪」という異なる論理のもとで人々が区分されていた。
「河原者の場合は穢れの色彩が強く(省略)癩者や声聞師の場合は穢れとはまた異なる理由であった。」(p104)
これらの呼称は一様ではなく、歴史的にも流動的で混同されやすい。単純な階層ではなく、複数の要因が重なった結果として差別が形成されていた。
「問題は『私たち』と見なされない者たちに向かって、その穢れが放出されたと想起されることなのだ。」(p113)
共同体の内部で秩序を保つために、外部へ負担を押し出す構造がある。そこでは他者が同じ「人間」と見なされていたのかすら曖昧であり、罪悪感は生じにくい。
一方で、社会は完全に固定されていたわけではない。
「良民が非人に変じたり、逆に非人が社会の階層をのし上がる例は(省略)いささかの可能性が含まれていた。」(p134)
こうした流動性は、能力や文化資本を通じて「人間として認識される」条件を浮かび上がらせる。
また、差別は無関心からも生まれる。
「他人に対する無関心さ(省略)それが差別の起点をなすようにも私には感じられる。」(p170)
社会は自らの秩序の維持を優先し、その代償を誰が負うかには無頓着でありうる。
こうした構造は祭礼にも組み込まれている。たとえば祇園祭のように、穢れを扱う存在が不可欠でありながら、同時に周縁化されるという矛盾が存在する。
さらに本書は、女性の位置づけにも踏み込む。
「女性は社会の再生産を推進する力であるにもかかわらず、避けるべき禁忌の対象にされてしまう。」(p265-266)
生命を生む存在でありながら、血や出産は穢れとして忌避される。このダブルバインドが、差別と禁忌の構造を生み出している。
「女人往生の難しさとは(省略)男性の欲望の断ちがたさの証なのだ。」(p273)
女性に付与された穢れは、実際には男性の欲望や恐れの投影でもある。
「一部の人間のみに罪を背負うように強要してきた社会構造そのものが、悪の様相を帯びる。」(p330)
社会は自らの内にある醜さを外部に投影し、特定の人々にそれを担わせてきた。
近代以降、世俗社会が前面に出ると、生への欲望は肯定されるようになる。
「資本主義とは、個々人の抱える生への欲望を全面的に肯定し(省略)社会を駆動する。」(p342)
しかしその裏で、死や病、暴力といった領域は不可視化されていく。
著者は最後に、分業社会における「見えない仕事」を可視化する必要を説く。
「我々が分業社会を生きる以上、誰かが日の当たらない仕事を引き受けることは現実としては仕方のないことなのかもしれない。問題はその陰に隠れた仕事を犠牲者とともに闇の領域に押しやることなく、社会の生産および文化活動として目に見える領域へと、社会の公的領域へと絶え間なく分節化していく作業が行えるかどうかにあるのだろう。」(p359)
「自分が屠殺業に従事して、動物の瞳に映る自分の姿を見ながら彼らを殺すことは平気なのか。
遊女になって、見知らぬ客に抱かれることは受け入れられるのか。それは身体の五感を挙げて、他者に自分を開く行為になりかねないので、自他の境界を保つことが難しくなる。差別の根源をなす仕事がこの世からなくならない以上、差別を思考するということは、闇の領域に及ぶ想像力と、それを何らかのかたちで自分の主体に引き受ける覚悟が求められる。しかし、本当のところは、自分のような人間がそんな場所に身を置くことはあり得ないと思いなしているのではないのだろうか。」(p360)
身体的な嫌悪は、その対象に関わる人間の排除へと接続されやすく、結果として社会秩序の一部として機能してしまう。差別は特定の誰かの問題ではなく、人間の側に常に生じうる条件である。
「結局のところ、自分が加害者である可能性に対する想像力を欠く差別論は、それが見てくれの良いスローガンであるからこそ、感傷的なヒューマニズムの域を出ることはない。しかし、それでは穢れが人間の歴史において、なぜ必要とされてきたのかという問いに答えたことにはならない。本書で辿った歴史は、通俗的な人間中心主義とは逆の答えを指し示すものであった。」(p379)
だからこそ、見えなくされてきたものを意識に上げ続けること。その不快さや矛盾ごと引き受けることが、この本の提示する出発点なのだと思う。

