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@koitoya
  • 2026年9月27日
    姥棄て考 老いの場所をさがして (岩波新書 新赤版 2126)
    民俗学者の赤坂憲雄が、姥捨山など、主に日本の伝承や文学作品に描かれてきた棄老伝承を手がかりに、家族・共同体・国家について考えていく。『遠野物語』、『楢山節考』はもちろん、少し意外なところでは映画『ミッドサマー』や『私を離さないで』など、幅広い作品を取り上げている。 棄老伝承が「いまは昔」の物語として語られることが常であり、それ自体が実際にそういう行いがあったことの証明にはならないが、そこにこそ贖罪の痕跡が見られるのではないか、と赤坂は述べ、以下のようにつなげる。 「しかし、わたし自身はこの世界において、老人の遺棄や緩慢な死にまつわる棄者のフォークロア、また、全員一致の暴力として生け贄を殺すお祭り騒ぎなどの供犠のフォークロアは、いまもなお「現在の事実」であり、「目前の出来事」だと感じている。」(p30) 姥捨山といえば、深沢七郎の『楢山節考』が私も真っ先に出てくる。それについて書かれた箇所も興味深い。 「『楢山節考』以後に発表された作品としては、山本昌代の「デンデラ野」や村田喜代子の『蕨野行」、さらに佐藤友哉の『デンデラ』などがあるが、興味深いのは、それらが「楢山節考」の影は曳かずに、真っすぐに「遠野物語』のデンデラ野伝承を承けて書かれた小説であることだ。『楢山節考』はある完成された現代の姥棄て譚であり、いわば余白がなく、付け入る隙がない。それにたいして、遠野のデンデラ野伝承はそもそも断片の寄せ集めであり、まさに余白だらけで、勝手な解釈をいくらだって許容する不純なテクストなのである。おそらく、だからこそ、現代の作家たちは好んでデンデラ野伝承を素材にしながら、それぞれの棄老伝承を紡ぎ続けているのではないか。」(p106) また、三島由紀夫の引用も面白い。 「そういえば、「遠野物語」には、無数の死がそっけなく語られている。民俗学はその発祥からして屍臭の漂う学問であった。死と共同体をぬきにして、伝承を語ることはできない。このことは、近代現代文学の本質的孤立に深い衝撃を与えるのである。 (「『読売新聞』一九七〇年六月十二日) 三島はここで、『遠野物語』を文学として読むという立場を表明しながら、しかも、いや、だからこそ、それがこの国の近現代文学の「本質的孤立」に深い衝撃を与えることを、あえて言い添えずにはいられなかった。死と共同体を抜きにして、伝承を語ることはできず、屍臭を漂わせた民俗学の誕生もありえなかった。ならば、無数の死をそつけなく語る「遠野物語」は、近代という時間に属しながら、近代以前の伝承世界に半身を浸していることにおいて、近現代文学の抱えこんだラディカルな孤立からは逃れている、ということか。」(p108 「姥捨考」赤坂憲雄) デンデラ野が集落のすぐ裏手にある、というのは驚いた。やはり『楢山節考』などの影響で、遠く山を上がっていき、そこまで行ったら戻って来られないような場所というイメージがあった。 「村落近くの棄老の地が、『楢山節考』では山の奥深くの秘境的な場所へ、つまり山中他界へと移されている。村に近接していた現世的な他界が、人々の生の現場からかぎりなく遠ざけられる。そこにいたる道筋もまた、禁忌と秘密のヴェールに分厚く覆われている。その遠隔化と秘儀化の度合いにしたがって、物語化は深められ、また物語としての強度は増していったにちがいない。村落からデンデラ野を経てダンノハナへいたる、生→老→死のゆるやかに移ろいゆく循環的な習俗の時間が、『楢山節考』では、楢山まいりという生から老=死へと一気に昇りつめる劇的な道行きへと圧縮されている。そこに、習俗や伝承のなかには、また「遠野物語」には見られなかった、『楢山節考』において固有に紡がれた物語の位相、それゆえ物語への意志がきわやかに覗けているといっていい。』(p138『姥棄て考』赤坂憲雄) また、この後に現代の小説をいろいろ紹介しているのだが、さまざまなデンデラ野があり、それらの小説も読みたくなった。 ここから現代の話へと移っていく。 「野本寛一が「近代文学とフォークロア」のなかで、こう述べていたことを想い起こしておくのもいい。すなわち、「もはや、養老院の比喩表現として「山」を用い、親を老人ホームに送ってかえりみない核家族世代を批判し、福祉行政の遅れを指摘したり概嘆したりしているだけでは済まされない。ここには、わが民族のかつて体験していない状況が生まれているのであり、そこに伝承の原型はない」と。ここに見える、もはや現在地を照射するための「伝承の原型」は存在しない、という言葉を記憶に留めておきたい。むしろ、この時代が必要としているのは、「伝承の原型」といったものに還元してわかった気になるのではなく、その微能や不在こそを「現在の事実」として引き受けることである。」(p171) 隔絶されてしまった環境になってしまっている、ということに気づいた。 「幸か不幸か、わたしたちの生かされている世界には、多くの人を納得させるような棄老を肯定するための他界観や死生観が、すでに失われている。あらためて論じることになるが、棄老のシステムほど経済効率がわるい制度はない、と言い捨てにしておく。」(p137) 「隠居の習俗/制度は、とりわけ世代間の継承や葛藤において、すぐれた緩衝材でありえたのではなかったか。だから逆に、隠居制をもたない社会では、世代間をやわらかく架け渡すための継承の仕組みはどのようにデザインされているか、そこに生まれる葛藤や対立はどのように処理されているか、といった問いが大切なものとなる。」p231 難しい問いが残されている。 最近、年齢的にも「老い」ということを意識するようになった。できれば嫌な老い方をしたくないな、と思いつつ、争わず自然に身を任せているのだが、人よりも健康体であり、長生きしそうな気がする。しかし、それは幸せだとは思えない。 『楢山節考』のおりんの気持ちが、最近わかってきた気がする。10代の頃に読んだときは、おりんが歯が丈夫なのが恥ずかしいと石で歯を打ちつけるなんて、けったいなおばあちゃんだな、と思っていた。けれど今考えると、「今この体だと共同体にいられない」「老けないとは、苦労をしていない証明」という疎外感があったことが理解できる。 おりんの場合、残酷ではあるが、生まれる → 働く → 家族をつくる → 老いる → 死ぬ、という人生の位置づけが共同体によって用意されている。 だから「死」は怖くても、少なくとも自分がどこへ向かっているのかが、社会的にわかる。 現代社会では、それらが消えた一方で、核家族化や高齢化によって、かつて共同体が担っていた問題だけは個人のところに残っている。 私自身も、どこかの共同体に属しているという感覚があまりなく、孤独に一人で死んでいくのかもしれないと思うようになった。 老いていく自分を、「誰か」との関係の中に位置づけられないまま、ただ時間だけが延びていくこと。それが恐ろしいのだな。
    姥棄て考 老いの場所をさがして (岩波新書 新赤版 2126)
  • 2026年9月1日
    池袋怪談 (竹書房怪談文庫)
    池袋怪談 (竹書房怪談文庫)
    百貨店や高層ビル、公園、劇場などが立ち並び、今も多くの人で賑わう街、池袋。 その一方で、巣鴨プリズンや旧日本軍の地下壕、空襲の犠牲者の埋葬地など、戦争の記憶を色濃く残す土地でもあるという。 そんな池袋で語られる怪異には、街に残る過去や、さまざまな「負の記憶」を連想させるものも多い。 怪談には、ただ怖がるだけではない効能もあるのだと思う。 そこにあった出来事を忘れないために語り継いだり、誰かの死や土地に残された傷を、怪異というかたちで受け止めたりする。そう考えると、怪談は過去を現在につなぎとめるものでもあり、ある種の癒しにもなり得るのかもしれない。 (ミッドナイトジュンクラブのトークイベントにも参加し、サインを書いていただきました。)
    池袋怪談 (竹書房怪談文庫)
  • 2026年8月23日
    傷を愛せるか 増補新版 (ちくま文庫)
    精神科の医師として臨床をおこないつつ、研究をつづけている著者のエッセイ。 トラウマや回復について、自身の日常生活の中での経験や映画や小説などのフィクション、ベトナム戦争の慰霊碑から考えたことなどが書かれている。 私自身、親友の死が未だにトラウマでまともに生きる気力がなく、じっとりとした希死念慮、この生活があと何年続くんだろうと考えることが多い。 傷を愛せるか?と問われたら愛せない。 「過ぎてしまえば笑い飛ばせることも、悩み事の真っただ中にいるときは、見通しのきかない、いつ終わるかわからない、果てしない暗闇だ。」(p19) という一節はまさにその通りだな、と思う。 ミッドナイトジュンクラブ 中の読書。
    傷を愛せるか 増補新版 (ちくま文庫)
  • 2026年8月20日
    みちのく民話まんだらーー民話のなかの男たち
    みちのく民話まんだらーー民話のなかの男たち
    ついになる本『民話のなかの女たち』が面白くて、今回読んでみた。 「貧しい農村から寺にやられる小僧は、農家の次三男の口減らしであったといいます。女であれば子守り、下女奉公、遊女。男は体力を買われて作男に使われるか、年奉公。体力に恵まれない、しかし、賢い子は寺にやられることが多かったそうです。 民話のなかの小僧たちはみんな知恵者に描かれ、その頓知で和尚をやりこめるのもうなずけます。そして、生への執念を「食い物争奪」の一点にむけて繰り返し語られるのは、口減らしという現実に深くかかわっています。」(p62) 長男ではない男児が小僧になるというのは知っていたのだが、どこか食には困らない家庭の子というイメージがあった。和尚と小僧が食べ物を争う話もこれまで数多く読んできたが、そういう背景があることは全く考えていなかった。今まで小僧が食い意地を張っているとただ笑っていたが、実はそこには生きるための切実さがあったのだと思うと、同じ話が違って見えてくる。 「『ひとり暮らしの男』ーこれはたいてい農家の次三男を意味し、継ぐべき農地を持たず、婿にももらわれず、寺の小僧にいくほどの才覚もなく、嫁の来手もなく、ひとり実家をはなれて山地や沢地など、荒地につくばって開し、わがカマドを立てんと苦闘している男だと言うことができます。こういう男を好んで主人公にするのが「民話」のやさしさ、奥深さではないかと思います。」(p90) これも初めて知った。現代では「ひとり暮らしの男」という言葉はごく普通のものだけれど、当時の農村では、家や土地を継げないことが、そのまま共同体の中での居場所のなさにつながっていたのだろう。 「持ち山があって、人を雇って木を伐り出す旦那衆を除けば、多くは入会で山に入って、一年間の薪を確保するのが習わしでした。その仕事は村落の共同作業でおとなわれたものでした。作業に参加すべき体力を失った「子持たじ」の老夫婦たちは、村落の共同体から次第に離れ、ぽつりと山近くで暮らすことを余儀なくされ、わずかな「柴」で命の火をともしつづけることになります。」(p277) これも知らない。なんと肩身が狭いんだろうと思う。共同体に参加できるだけの体力を失うことが、そのまま共同体から少しずつ外れていくことにつながっていたのだ。 『民話のなかの女たち』では一般的な女性像が多かったように思うが、『民話のなかの男たち』では、寺の小僧や土地を持たない猟師、芸術家など、はずれものが多くなっている。この違いも面白かった。 長男ではない男、土地を持たない男、共同作業に参加できなくなった老人。そうした共同体の中心から少し外れた人々の人生が、民話の中では繰り返し語られている。 笑っていた話の背後にも、口減らしという現実がある。そのような社会の弱いところの記憶が民話にはかなり埋まっているのだな。 民話はそうした人々の切実な生を、笑いや知恵の物語として後世に残しているのかもしれない。
  • 2026年8月15日
    一日の終わりの詩集
    生活、孤独、悲しみ、死…… 単に「孤独で悲しい」という詩集ではなくて、人間が生きていることの、どうしても埋められない孤独を毎日の小さな出来事のなかで言葉を使って確かめ直している感じがある。 最近、みんな少なからず孤独で、大多数の人が不幸せである、という感じがしてくる。 みんながみんな望むような人生を送れず、生まれて死ぬのは皆同じ。 これは絶望でもなく、人間についての非常に平等な事実であるのではないか。 孤独だからこそ、誰かと過ごした一日のことや、ものを見たこと、言葉を交わしたことがかけがえなくなる。 そんな詩たちだった。
  • 2026年8月15日
    山なら言いたいことがある
    山なら言いたいことがある
    大学のワンダーフォーゲル部、接待登山、狩猟山行、海外の高峰、身近な低山まで、それぞれの作家が異なる距離感で「山」を語っている。 大好きな穂村弘はやはり山を書いても面白い。 文章内で「自衛隊払い下げ品」というものを知る。そんなものがあるのか、と妙に惹かれてしまい、欲しくなった。 そして松永K三蔵「義弟を撃つ」を読んでいて、ふと、自分が山で聞いてきた銃声のことを思い出した。 私は山近くの育ちなので、子どもの頃から山のほうからピストルの音が聞こえてくることがあった。定期的に聞こえてくるものもあれば、不規則に、間を置きながら聞こえてくるものもある。不規則なほうは、この話に出てくるように、人が銃を撃ちながら山を歩いていたものだ。 本の中では、その銃声は自分と義弟とそして妹を繋ぐ音のように響く。自分の聞いていた音が違うもののように感じれられて面白い。 著者が山とどんな距離で生きてきたのかを語っていた。「みんな山嫌いすぎじゃない?」と思いつつ、でもこれは嫌い嫌い言って実は好きなんだろうな、と思った。
  • 2026年8月13日
    みちのく民話まんだらーー民話のなかの女たち(増補新装版)
    筆者が歩いて集めた19の民話と随筆が収められている。 民話にはそれぞれ「あと語り」がつけられていて、いつ、どこで聞いた話なのか、どのように受け継がれてきたのか、語り手の思い、そして筆者がどう考えたのかまで書かれている。それがとてもいい。 とくに第十二話「鯉嫁さん」とそのあと語りが気に入っている。小野は異類婚姻譚について、「民話の世界では、たくさんの生き物たちが、人間の男のところへ嫁にきます。(中略)ただ、婿になる生き物たちは、自分本来の姿、猿なら猿の姿のまま婚姻する場合も多いのですが、嫁にくるほうは、必ず変身して美しい人間の女になってあらわれます。」(p.180)と書く。 さらに、「どんなに変身しても、侵してほしくない一線はあり、それは、生き物が個別に持っている命そのもの」だとし、「相手を侵さない、相手との一線を守ることこそが、幸せの根源であった」(p.181)と語る。 「かつて、鯉の哀しさを味わわなければならなかった女は少なくなかったでしょう。(中略)みすみす侵されていくわが命をまじまじと見つめているしかなかったのでしょう」(p.182)。 ここでは異類婚姻譚が、女性が自分自身であることを許されなかった時代の苦しみを、動物の姿を借りて語ったものとして立ち上がってくる。どの話も、動物に置き換えたり、笑い話にしたりすることで、物語の裏に当時の女性の苦しみが隠されている。それを理解している語り手から聞く言葉は、物語以上の深みを持っている。 小野が集めていたのは、単なる民話ではなく、民話という形に姿を変えた生活者の記憶だったのだと思う。この本の対になる『民話のなかの男たち』も読みたい。
    みちのく民話まんだらーー民話のなかの女たち(増補新装版)
  • 2026年8月8日
    廊下に植えた林檎の木
    廊下に植えた林檎の木
    中国作家・残雪の短編集。 反右派闘争で父親が「右派」として追放され、母親は労働改造に送られ様々な迫害を受けたそうだ。 表題作は異形の家族の生活を描いた超現実的な幻想文学。他の4編も奇妙な物語だ。 「母が溶けて、たらい一杯分の石鹸水になってしまった。」(p215) 始終こんな感じの超現実的な表現が多く、面白いと思いつつ、いまいち頭に入らないなぁと思いながら読んだ。(「本パ」という新潮社主催のオールナイト読書イベント中に読んでいたのによく寝なかったな、と思う。) 今回一番読めてよかったと思ったのが、実は本編ではなく「付録2 残雪との対談」だった。 「わたしが創作を始めたのは文革後数年たった一九八〇年ころからですが、「創作の自由」が一応保証され、自由に作品を発表できるようになった解放感に満ちた時期でした。当時は「傷痕文学」が大半を占め、やがてまたいろいろと出てくるわけですが、わたしはそうした小説に対して常に物足りなさを感じていました。彼らの小説は公認された「現実」を模倣する傾向が強すぎる、他人の目を通して他人が見るようにしかものを見ていない。」(p215) と残雪自身が語る。 翻訳者の近藤直子の言葉も印象的だ。 「残雪の世界では、ことばは永遠に「もの」にたどりつかない。人々はみんないい加減なことをいい加減にしゃべり、どこまでが本当でどこまでが嘘なのか、だれにもわからない。 (中略) いつの時代でも、どんな場所でも、ことばが確かなものであったためしはないわけですが、そのいかがわしさがいやでも剥きだしになってしまうときというのがあるのではないでしょうか。たとえば残雪さんが生きてこられた中国の社会で、くり返し行われた政治運動の中で、御両親を含めておびただしい数の人が、「右派」だとか「走資派」とか「叛徒」といったレッテルを貼られ、大変な辛酸をなめている。レッテルというのは要するにことばですね。 先にことばがあって、それからその指示対象というか、該当者が区分されていく。そしてこの区分というのが、結局のところ実にいい加減なものでしかありえない。「右派」と「非右派」の境界線はどこにあるのか、あるいはある人の「どこ」が「右派」なのか。」(p217、218) そもそも「現実」というものを誰かが定義してしまった時点で、それはすでに他人の視線を通した現実なのではないか。 現実とは、本当にそんなに簡単に言葉で分類できるものなのか。 不確かな言葉によって、人間の人生が決定されてしまうという経験をした著者の言葉は重い。 現実をそのまま描けば現実になるというわけではないし、社会が「これが現実だ」と決めたものをそのまま描くことのほうが、現実を隠してしまう可能性があるのだろう。
  • 2026年8月8日
    夏帆
    夏帆
    今回特に気になったのは、現実とフィクション、どちらが主人なのかということ。 単純にフィクションを通して自分の現実を見つめ直すというだけの話ではないと思う。 現実を理解するためにフィクションを使っているうちに、フィクションのほうが現実よりも強い現実になってしまう……というのもまたそれだけではない。 私たちの生きている世界は、物語で溢れている。「母親ならこうする」「娘ならこうする」 そうした物語を、自分で作っているだけではなく、他人から渡され、社会から与えられ、それを知らないうちに自分の中に取り込んでいる。 今回母親殺しの物語なので、父親殺しの物語として『海辺のカフカ』を思い出した。 カフカには、父親から「父を殺し、母と姉と交わる」という呪いのような物語が与えられており、カフカはその物語から逃れようとする。 しかし『夏帆』はもっと複雑なこんがらがった話になっている。 自分の人生に他人が物語を与えてくること自体が問題なのではなく、その物語が自分の中に入り込み、自分自身の現実を規定するようになってしまうことが問題なのではないか。 夏帆は冒頭から母親とは物理的に、精神的にはすでに距離を取れているように感じられる。 ただ読み進めていくうちに「母親ならこう言う」「母親ならこう考える」「母親なら私をこう見る」という想像が、夏帆の中に存在する。 夏帆にとって母親から逃げるというより、自分の中にいる「母親を想像する自分」から逃げる必要があるのだろう。 母親が読んでいる本がジェーン・オースティンの『高慢と偏見』なのも印象的で 「独身の青年で莫大な財産があるといえば、これはもうぜひとも妻が必要だというのが、おしなべて世間の認める真実である。」 という有名な冒頭。 「世間の認める真実」と言っているけれど、客観的な真実ではない。 そして『高慢と偏見』の母親・ベネット夫人は、その「世間の真実」をものすごく忠実に生きている。 彼女は娘を苦しめようとしているわけではない。むしろ彼女自身は、娘たちのためを思っている。ベネット夫人自身もまた、社会から与えられた物語の中で生きている。そして、その物語を娘たちに渡している。 そう考えると、母親が子どもに何かを押しつけるということは、単純な「親から子への支配」ではない。 親自身もまた、誰かから与えられた物語を生きていて、その物語を次の世代へ手渡している。 村上春樹は人間が他者に物語を与え、その物語によって他者の人生を規定してしまうことへの関心があるように思える。 だから『夏帆』で問われているのは、 「親から逃げられるか」だけではなく、「自分の中に入り込んだ他者の物語から逃げられるのか」なのではないか。 しかしどこまでいっても物語から逃げる、というのはできない。 大事なのは物語の取捨選択なのかな。
  • 2026年6月23日
    台湾漫遊鉄道のふたり
    2026年国際ブッカー賞受賞作。 台湾で講演を行うため招かれた食いしん坊の日本人作家・青山千鶴子と、食や歴史に詳しい謎めいた台湾人通訳・王千鶴の物語。 台湾各地の食文化が描かれておりグルメ小説としても楽しめるが、日本統治下の台湾が舞台である以上、その歴史的背景は切り離せない。ふたりの会話の端々にも植民地支配の影が差している。 特に印象に残ったのは、青山が王に和服を贈ろうとする場面だ。 「「私は土人参であることを受け入れています。そして土人参の姿で生きていくつもりです。でも、私のことを玉だと思ってくださる青山さんは、私に本物の薬用人参の格好をしてほしいのでしょうか?」 (中略) 「和服を着た方がいいと思ってるんじゃない。千鶴ちゃんは長杉でも洋装でもとてもすてきよ。でも和服は、何でも表面しか見ない人たちの目から、千鶴ちゃんを護ってくれるお守りになるでしょう?」 「・・・・・・私には、そんなお守りは必要ないのです」 「千鶴ちゃんは強いから、必要ないのかもしれないわねーでも、千鶴ちゃんを護ってあげたい私の気持ちとして、和服を贈りたいというのも、だめかしら?」」 (p200〜201) 植民地支配はしばしば「現地人を保護し、教育し、文明化するため」という名目によって正当化されてきた。その歴史を踏まえると、「護ってあげたい」という言葉には保護者と被保護者という非対称な関係が潜んでいるように感じられる。(青山は王に対してずっと友人でありたいと好意を示すが王はそれを拒絶している) しかし一方で、青山自身は同化を求めているわけではない。彼女は「和服を着るべきだ」と言っているのではなく、「世間は表面しか見ない。その理不尽な視線から少しでもあなたを守りたい」と考えている。自分を客観的に見れていないがその気持ち自体は純粋な愛情でもある。 興味深いのは、この場面が単純な加害者/被害者の図式では描かれていないことだ。青山は自らの言葉に含まれる権力性に気づいていないし、王もまた青山の愛情を完全には受け取れない。互いに理解しきれないまま、それでも相手を大切に思っている。 植民地という非対称な関係のなかで生まれた親密さと、そのふたりに入り込む権力の影。その危うさと切実さが非常によく描かれていると感じた。 また、この小説には解説やあとがきに関する仕掛けがあり、読者がどこまでを「作品」として読むのかが揺さぶられる構造になっている。子ども向け文学では時折見かける手法だが、大人向け小説でここまで境界を曖昧にした作品はあまり読んだことがない。 そのため刊行後にはSNSなどで批判も起こったようだが、個人的には面白く読めた。
  • 2026年5月19日
    左川ちか詩集
    左川ちか詩集
    名前に惹かれ手に取ったが、詩はあまり響かなかった。 何が合わないのかを考えてみると、退廃的なモチーフ、それらがあまりにも美しすぎるからかもしれない。 左川ちかの詩には、どこか肉体の不在を感じる。痛みや欲望、生活の手触りが削ぎ落とされ、ガラス細工のように感じられる。 病に侵されていた人間がこのような詩を書くこと自体には強く惹かれる。衰弱していく身体から生まれた言葉が、逆にここまで無機質で硬質な質感を持つということ。それがとても興味深かった。
  • 2026年5月15日
    USO7
    USO7
    「あなたの嘘を教えてください」というテーマで書き下ろされた文芸誌シリーズ。 特に印象に残ったのは畑中章宏のエッセイだった。民俗学と恋愛という組み合わせが意外で気になったのだが、そもそも「恋愛民俗学」という分野があり、柳田國男がその端緒を開いていたという。 ただ、恋愛はフィールドワークに向かない。恋をしている人間は話を盛るから。なるほどと思った。恋愛の記憶や語りは、事実を伝えるというより、自分の感情や願望によって絶えず編集されるものなのだろう。 畑中はそれなら自分自身を調査対象にしようとしてきたが、結婚するともちろん外部で恋愛することはできず、代わりに動物や異類婚姻譚について妄想するようになったと書いていて、その身軽さとユーモアが面白かった。 読んでいて、昔犬派だった恋人が、私がいなくなった後に猫を飼い始めたことを思い出した。犬と猫という違いだけなのに、そこに不思議と「物語」を感じてしまう。失われた関係の痕跡を、人は別の生き物との関係に読み込んでしまうのかもしれない。これもある種の異類婚姻譚のように思えた。 また、若林恵「落ちたあとの世界」にあった、「声」に関する文章も印象深い。 「万葉集や古事記を通して、古代人にとって「声」がもつ意味を探究した国文学者の西郷信網は、言葉はものの名前ではなく、ものを動かす力だったと、どこかで書いていた記憶がある。かつ、それは、情報伝達の手段ではなく、感情を生成するものだとも語っていた。恋の歌、死の歌、祈りの歌は、いずれも、すでにあった感情の発露ではなく、声にすることで初めて感情が生まれ出るもので、声が感情をつくり出すのであって、感情が声を生むのではない。 この転倒は、人が、AIが書いた文章やロボットの演奏に「声」を聴き取れてしまう倒錯が、いかなる事情から発生するのかを説明してくれる。「声」というものは、「声」を求める者と出会うことで「声」になる、ということだ。別の言い方をするなら、声は、声を求めた者に、届く。それは伝達行為ではなく、相互が求め合うことで成り立つ、生成行為なのだ。」(p75) 国文学者の西郷信綱を引用しながら、古代において言葉は単なる情報伝達ではなく、ものを動かす力だったと述べている。恋の歌や祈りの歌は、感情が先にあって発せられるのではなく、声にすることで感情が生成されるという。興味深い。
    USO7
  • 2026年5月14日
    (新装版)石垣りん詩集
    石垣りんといえば戦争の詩というイメージがある。 正直それを読むのはしんどいかもな、と思って読み始めたが、それはやや見当違いで戦争というよりもひとりの女が自分のためではなく働き、家計を支え、日常に押し潰されながら生きていくこと。その暮らしが、戦後になってもなお戦争と地続きであること。その静かな重さが胸に残った。 「私の家はちいさいのに暮しが重い。 二本の足で支えているのに 屋根がだんだんずり落ちてくる。 しかたがないので 希望とか理想とか 幸福とかいうもの それらの骨格のようなものを ひとつずつぬき捨て ついに背骨までひきぬいてしまい 私のからだはぐにゃぐにゃになってしまい。」 (『生えてくる』より) 平易な言葉で書かれているのに、少しずつ心に沈殿していく。読み終えてからじわじわ効いてきて、その悲しさにあとから気づくような詩たちだった。 教科書やアンソロジーで触れたときには、そこまで惹かれる詩人ではなかった気がする。でも今読むと、静かに削られていく生活や、自分を後回しにして生きる感覚が切実に迫ってくる。 ここ最近、自分を追い詰めるような本ばかり選んでいる気もする。けれどそれは人が少しずつ摩耗していく現実を、誤魔化さずに書いた言葉を読みたいのかもしれない。
    (新装版)石垣りん詩集
  • 2026年5月12日
    自然のものはただ育つ
    自然のものはただ育つ
    二人の息子を自死で失った作家のエッセイ。2026年ピューリッツァー賞を受賞した。 私は親友を亡くした経験と重ね合わせながら読んだ。 「子どもが死んだ後に母親が本を書いたら、結果的にその本を通じて子どもへの注目を求めることになりかねない。でもジェームズは注目とは対極にある人、とブリジッドは言った。ジェームズのために書くのは不可能に近いでしょうね。(中略)それでも、私には昔からなじんでいるこの言語しかないのだから、新しい文字といってもそれは象徴的な話にすぎない。破滅的なことが起こると、言葉は軟弱に見えたり陳腐に見えたりしがちだが、子どもを二人失うという極限状態に生きねばならない人間にとっては、言語の力が足りないことなどささいな不運にすぎない。 言葉もございません。言葉では言い尽くせません。 この二つの陳腐な決まり文句は反論しがたい真実を語っている。つまりジェームズのために何を書いても、部分的には失敗に終わる運命だ。」(p17-18) と述べる。それでもなお書くしかない。どんな言葉も息子の本質からずれてしまうと理解しながら、それでも問い続ける。その態度が印象的だった。 また著者は、 「それでもなお人生を生きねばならない。悲劇の中でも、悲劇の外でも、悲劇があっても」(p30) と書く。喪失が人生を完全に停止させるわけではなく、世界はその後も続いていく。その感覚は残酷でもあり、現実でもある。 特に印象に残ったのは、ヴィンセントの死を予感しながら生きていたという記述だった。 「現実にも非現実にも直面する母親は、直感を寄せつけないようにしながらも、同時に直感に頼るしかない。 直感とは物語だ。私は物語というものを根本的に信用していない。物語は人生の何よりも人を惑わせるものだ。物語に救われた人生も、物語に狂わされた人生も見たことがある。(中略) 直感は油断ならない物語群である。未完成で完成不可能。私は直感を言葉にするのは避けている。それは蝶を確かに所有していると主張するために、標本箱に虫ピンで留めるようなことだろう。」(p50) と語る。未来の破滅を感じながら、それを言葉にして確定させることを避ける感覚。私も、親友がいなくなってしまう気がして、何度も確認したことがあるのでよくわかった。 本書で興味深かったのは、「怒り」が中心になっていない点である。精神科医から怒りの有無を繰り返し尋ねられた著者は、 「怒りという感情は、私の人生の中で大きな存在どころか小さな存在ですらない」(p59) と答える。私自身も、彼女の死によって「人生がめちゃくちゃになった」という感覚はあっても、それを「怒り」とは呼べない気がする。怒りによって世界を整理することができないのだ。 さらに興味深かったのは、 「愛より大事なのは子どもたちを理解し尊重することだ。(中略)命を絶つという選択を理解し尊重することも含まれる」(p55) という言葉だった。自死を「理解し尊重する」という考え方に、私はこれまで出会ったことがなかった。完全には理解できないがなんだか風通しの良さを感じた。 「もしかするとその六年と四か月の間、彼が生きていたのはいま、次、後、ずっと先ではなく、いま、いま、いま、いまだったかもしれない。極みであり、奈落の底であり、私が彼を愛しても変えられなかった状態。」(p124-125) という箇所も印象深い。「後」があるから人は耐えられる。しかし「いま」だけが閉じた空間のように続く状態は確かに存在すると思った。 終盤の、 「足踏みする行為は何でも生者の世界のものだ。死者はどこにも行かない」(p139) という言葉も強く残った。私は親友の墓へまだ行けていない。「もう少しまともな人間になれたら行こう」と思い続けている。しかし変わろうとし、資格を測り続けているのは生者の側だけである。 そして著者は 「芸術には携わる価値があり、科学には探究する価値があり、正義には追い求める価値がある。 同じように人生には、突き詰めれば生きる価値がある。しかし、やる価値があるからといって必ずしもそれをやる力が与えられていることにはならないし、やる力があってもそれを失わずにいられることにもならない。やる価値があることとやれることには隔たりがあり、その隔たりこそ若者に野心が宿り、老人に衰えが待ち構えているところなのだ。」(p152) と書く。人生には価値がある。それでも、生き続ける力を失ってしまうことはある。そのどうしようもなさを、この本は否定もしないし、無理に救おうともしない。 本書には解決法も救済も提示されない。ただ、著者に届いた数多くの手紙の中で、「言葉にならないけれど伝えようとしたもの」が確かに存在したと書かれている。私もまた、この本から同じものを感じた。
    自然のものはただ育つ
  • 2026年5月3日
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 下
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 下
    『プロジェクト・ヘイル・メアリー』 アンディ・ウィアー、小野田和子(訳)(早川書房) 映画が面白かったので、原作も読んでみた。 映画・原作を通して惹かれたのは、主人公の圧倒的な好奇心と、種族を超えても「伝えよう」とする姿勢。 「これはほんとうに異星生物なのか?ぼくはそんなに運がいいのか?生きているうちに人類が初めて地球外生命体を発見する瞬間に立ち会えるほど?! ワオ!だってーペトロヴァ問題は、それはやっぱり恐ろしい、が……ワオ!エイリアンだぞ!これはエイリアンかもしれないんだ!あした子どもたちにこの話をするのが待ちきれないー。」(上巻p62) 恐怖と興奮がほぼ同時に立ち上がってくる、この感情の混線がとてもいい。人類規模の危機のただ中にいながら、それでもなお「エイリアンだ」と歓喜してしまう。そのうえで「子どもたちに伝えたい」と思うところに、このキャラクターの本質が表れている。 彼はすごく教育者的で、どこか無邪気でもある。そして、その無邪気さこそが人類を前に進める原動力なのだ。 異星人ロッキーとの生活には、共有できるものとできないものがある。最初から分かり合えるものもあればそうでもないものがある。 ここで思い出したのが、星新一のショートショートだ。記憶がおぼろげだが、人間が宇宙人に出会い挨拶として口にキスをするが、実はその種族は鼻行類で人間から見れば肛門にキスをしていた、という話。 ロッキーとの関係も同じで、最初は行動・文化などの意味がまったくわからない。けれど観察や経験を積み重ねることで、「これはこういう存在なのだ」と少しずつお互いに再構築していく。このプロセスこそが、この小説のいちばん面白い点だった。 また、星新一のこの話が示しているのは、「人間中心的な認識が裏切られる」ことのおかしさ・皮肉だと思う。 そして本作は、それを乗り越えていく物語である。 異なる存在と理解し合おうとする過程にヒューマニティーを感じた。
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 下
  • 2026年5月3日
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 上
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 上
    『プロジェクト・ヘイル・メアリー』 アンディ・ウィアー、小野田和子(訳)(早川書房) 映画が面白かったので、原作も読んでみた。 映画・原作を通して惹かれたのは、主人公の圧倒的な好奇心と、種族を超えても「伝えよう」とする姿勢。 「これはほんとうに異星生物なのか?ぼくはそんなに運がいいのか?生きているうちに人類が初めて地球外生命体を発見する瞬間に立ち会えるほど?! ワオ!だってーペトロヴァ問題は、それはやっぱり恐ろしい、が……ワオ!エイリアンだぞ!これはエイリアンかもしれないんだ!あした子どもたちにこの話をするのが待ちきれないー。」(上巻p62) 恐怖と興奮がほぼ同時に立ち上がってくる、この感情の混線がとてもいい。人類規模の危機のただ中にいながら、それでもなお「エイリアンだ」と歓喜してしまう。そのうえで「子どもたちに伝えたい」と思うところに、このキャラクターの本質が表れている。 彼はすごく教育者的で、どこか無邪気でもある。そして、その無邪気さこそが人類を前に進める原動力なのだ。 異星人ロッキーとの生活には、共有できるものとできないものがある。最初から分かり合えるものもあればそうでもないものがある。 ここで思い出したのが、星新一のショートショートだ。記憶がおぼろげだが、人間が宇宙人に出会い挨拶として口にキスをするが、実はその種族は鼻行類で人間から見れば肛門にキスをしていた、という話。 ロッキーとの関係も同じで、最初は行動・文化などの意味がまったくわからない。けれど観察や経験を積み重ねることで、「これはこういう存在なのだ」と少しずつお互いに再構築していく。このプロセスこそが、この小説のいちばん面白い点だった。 また、星新一のこの話が示しているのは、「人間中心的な認識が裏切られる」ことのおかしさ・皮肉だと思う。 そして本作は、それを乗り越えていく物語である。 異なる存在と理解し合おうとする過程にヒューマニティーを感じた。
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 上
  • 2026年4月21日
    いくつもの武蔵野へ 郊外の記憶と物語
    「昭和三十年代の府中や国分寺こそが武蔵野だったのである。(省略)東京という大都市が、開発によって武蔵野を呑みこんでゆく最前線であり、町はずれであり、郊外であるような特別な場所だった。少年院や刑務所があり、カソリック墓地や多磨霊園、精神病院があり、広大な米軍基地があった。(省略)」(p19) 赤坂憲雄の幼少の記憶の武蔵野、カブトムシを捕まえ、雑木林で遊び、キャベツ畑が広がっていたという風景は、現在の場所からは想像がつかない。 さらに武蔵野は、単なる自然ではなく、都市と深く結びついた循環の場でもあった。 「蘆花が早くに、「都会の汚物を浄化してまた送り戻す循環作用」と表現していたことを思い返すのもいい。(省略)糞尿は発酵と分解によって、はじめて作物への肥料として役に立つ下肥となる。(省略)それはたんなる負のシステムではなかった。やがて、それは皮革や肉をめぐる差別や穢れの問題へと敷衍されてゆく。」(p94) 「『草の花』の終わりに近く、(省略)草は暖かく萌え、たんぽぽの花が咲き乱れていた、と。しかし、いかにも草の武蔵野は淡く霞んでいる。それと比べれば、武蔵の雑木林はそれなりにくっきりと像を結んでいた。」(p154) また、たくさんの文学作品の中にも武蔵野も現れる。どの作品にも原風景としての美しいイメージが重なる。 「武蔵野の文明史を研究しようとする人にとっては、「水の問題は最初に注意すべき事柄である」と見える。(省略)水の流れがときに地下に隠れるのを「逃げる」といい、こうした逃げ水は武蔵野には多かったのである。(省略)「まいまいず井戸」こそが、武蔵野の井戸掘りのふつうの形であったか。」(p161) 実際に府中市郷土の森博物館で見たまいまいず井戸は印象的だった。ひとりで覗き込んでいると通りがかりの人もつられて覗くが、皆「なんだろう」という顔をして通り過ぎていく。それは素朴だったからだろう。でも奇妙な構造に、かつての生活の気配が凝縮されているように思えた。 こうして読み進めるうちに、「武蔵野」という曖昧で、しかしどこか懐かしい存在に触れていると、次第に寂しさが立ち上がってくる。実際に体験したわけではないのに、もう戻ることのできないものに触れているような感覚。寂しい原風景。 そのイメージに重なるのが夕景だ。 「東都の西のはずれの丘のうえが、美しい夕陽を眺める特別な場所として指名されている。(省略)西の空一帯に夕陽の燃え立つとき、そこに、「最も偉大なる壮観」が姿を現わすのである。(省略)夕焼けの空が(省略)殺風景な山の手の大通りをいくらかでも美しいと思わせるのは、夕陽があるゆえだ。(省略)そして、荷風は続けて、これら夕陽の美ととも語られるべきは、市中より望む富士山の遠景である、という。(省略)夕陽と富士はあくまで西の方位を指しており、それゆえに、そこには武蔵野が見え隠れしていたのである。」(p184-185) 群馬で育ちながらも、イメージの中の武蔵野を思い描くときに夕日が重なるのは、おそらくこうした文学的・文化的なイメージの共有によるものだろう。 「百姓たちは「ここへ畑起してもいいかあ」「ここに家立ててもいいかあ」(省略)森はいっせいに「いいぞお」とか「ようし」と答えるのだ。(省略)これはまさに〈借り〉の思想であった。(省略)〈借り〉とは野生にたいして適度な距離をとり、生態環境が再生・更新されてゆくように持続可能な関係を築くための作法であり、モラルであった。」(p242-243) この視点から見ると、参照されていた『借りぐらしのアリエッティ』も、人間と自然のあいだの緩衝地帯としての生活を描いた作品として理解できる。 武蔵野とは単なる地理ではなく、いくつもの層から成る存在である。幼少期の記憶、文学によって見出された風景、生活の循環の場、そしてすでに失われたものとしての像。それらが重なり合い、「寂しい原風景」として立ち上がる。 武蔵野とは、日本の近代が生み出した想像上の故郷だった。
    いくつもの武蔵野へ 郊外の記憶と物語
  • 2026年4月19日
    京都 祈りと差別の千二百年
    宗教学の視点から京都の歴史をたどり、差別の構造とその根源を問い直す一冊。単に「差別は悪い」と断じるのではなく、なぜそれが成立し、社会の中で必要とされてきたのかに踏み込んでいる。 --- 「差別は都市の発生と密接な関係を有しており、平安京における差別の社会構造が、京都から全国へと転移されていったと考えられる。」(p28-29) 本書はまず、都市と分業の成立が差別を生み出す条件であったことを示す。役割の固定は効率を高める一方で、不平等を制度化し、特定の人々に「穢れ」や「罪」を担わせる構造を作り出した。 「宗教は決して善なる性質だけを有するものではない。(省略)社会の統合は宗教的差別と表裏一体のものである。」(p30) 宗教は人々を結びつけるが、その裏で排除も正当化する。正しさの確信は暴力と隣り合わせであり、救済の感覚すら危ういものとして捉え直される。 中世においては、「穢れ」と「罪」という異なる論理のもとで人々が区分されていた。 「河原者の場合は穢れの色彩が強く(省略)癩者や声聞師の場合は穢れとはまた異なる理由であった。」(p104) これらの呼称は一様ではなく、歴史的にも流動的で混同されやすい。単純な階層ではなく、複数の要因が重なった結果として差別が形成されていた。 「問題は『私たち』と見なされない者たちに向かって、その穢れが放出されたと想起されることなのだ。」(p113) 共同体の内部で秩序を保つために、外部へ負担を押し出す構造がある。そこでは他者が同じ「人間」と見なされていたのかすら曖昧であり、罪悪感は生じにくい。 一方で、社会は完全に固定されていたわけではない。 「良民が非人に変じたり、逆に非人が社会の階層をのし上がる例は(省略)いささかの可能性が含まれていた。」(p134) こうした流動性は、能力や文化資本を通じて「人間として認識される」条件を浮かび上がらせる。 また、差別は無関心からも生まれる。 「他人に対する無関心さ(省略)それが差別の起点をなすようにも私には感じられる。」(p170) 社会は自らの秩序の維持を優先し、その代償を誰が負うかには無頓着でありうる。 こうした構造は祭礼にも組み込まれている。たとえば祇園祭のように、穢れを扱う存在が不可欠でありながら、同時に周縁化されるという矛盾が存在する。 さらに本書は、女性の位置づけにも踏み込む。 「女性は社会の再生産を推進する力であるにもかかわらず、避けるべき禁忌の対象にされてしまう。」(p265-266) 生命を生む存在でありながら、血や出産は穢れとして忌避される。このダブルバインドが、差別と禁忌の構造を生み出している。 「女人往生の難しさとは(省略)男性の欲望の断ちがたさの証なのだ。」(p273) 女性に付与された穢れは、実際には男性の欲望や恐れの投影でもある。 「一部の人間のみに罪を背負うように強要してきた社会構造そのものが、悪の様相を帯びる。」(p330) 社会は自らの内にある醜さを外部に投影し、特定の人々にそれを担わせてきた。 近代以降、世俗社会が前面に出ると、生への欲望は肯定されるようになる。 「資本主義とは、個々人の抱える生への欲望を全面的に肯定し(省略)社会を駆動する。」(p342) しかしその裏で、死や病、暴力といった領域は不可視化されていく。 著者は最後に、分業社会における「見えない仕事」を可視化する必要を説く。 「我々が分業社会を生きる以上、誰かが日の当たらない仕事を引き受けることは現実としては仕方のないことなのかもしれない。問題はその陰に隠れた仕事を犠牲者とともに闇の領域に押しやることなく、社会の生産および文化活動として目に見える領域へと、社会の公的領域へと絶え間なく分節化していく作業が行えるかどうかにあるのだろう。」(p359) 「自分が屠殺業に従事して、動物の瞳に映る自分の姿を見ながら彼らを殺すことは平気なのか。 遊女になって、見知らぬ客に抱かれることは受け入れられるのか。それは身体の五感を挙げて、他者に自分を開く行為になりかねないので、自他の境界を保つことが難しくなる。差別の根源をなす仕事がこの世からなくならない以上、差別を思考するということは、闇の領域に及ぶ想像力と、それを何らかのかたちで自分の主体に引き受ける覚悟が求められる。しかし、本当のところは、自分のような人間がそんな場所に身を置くことはあり得ないと思いなしているのではないのだろうか。」(p360) 身体的な嫌悪は、その対象に関わる人間の排除へと接続されやすく、結果として社会秩序の一部として機能してしまう。差別は特定の誰かの問題ではなく、人間の側に常に生じうる条件である。 「結局のところ、自分が加害者である可能性に対する想像力を欠く差別論は、それが見てくれの良いスローガンであるからこそ、感傷的なヒューマニズムの域を出ることはない。しかし、それでは穢れが人間の歴史において、なぜ必要とされてきたのかという問いに答えたことにはならない。本書で辿った歴史は、通俗的な人間中心主義とは逆の答えを指し示すものであった。」(p379) だからこそ、見えなくされてきたものを意識に上げ続けること。その不快さや矛盾ごと引き受けることが、この本の提示する出発点なのだと思う。
    京都 祈りと差別の千二百年
  • 2026年4月1日
    人恋しくて女性用風俗に行ったあとで考えたお金とケアと欲望のこと
    筆者自らが女性用風俗ユーザーであり、自身の経験やセラピスト、経営者、女性セラピストなどを取材し、また自身も男性風俗店に勤務した経験を書いたルポエッセイ。 私は、女風を利用したこともないし、ホストもないし、風俗店で働いたこともないので興味深かった。 「「男性用風俗」と「女性用風俗」の語られ方がこれほどまでに違うことに、驚く以上に、だんだん苛立ってきました。」(p43) 「以前、女性教師が男子生徒に性加害を行ったというニュースがSNSで話題になったことがありました。興味本位でリポストを見てみると、「ご褒美」などといったコメントが並んでいて、胸が詰まる思いでした。「男性だから」見過ごされている痛みやリスクは、少なくないのではないかと思います。「男性(の身体や心)は傷つかない」「男性にとって女性との性的接触はなんであれ嬉しいことである」ーそんな先入観。誰が、なんのために、こうした物語を作ったのでしょう。」(p58) これらのように男性と女性の性欲や風俗の利用はどうして受け取られ方が違うのか?という疑問は私も気になっていルので興味深かった。 「性に奔放な女性の話は「病」として処理されがちです。女性の性体験の話は「トラウマ」や「自傷」「メンヘラ」的な言葉と結びつけられるのに、男性のそれは少し前までは「健康の証」「元気でよろしい」で済まされてしまっていたし、今は今で「加害者にならないように」という話になりがちで、その男性自身の抱える悩みの話には至らない。」(p142) 「つまり、女性の性欲は世間に認められていないから「風俗を利用する理由は性欲だけじゃない」ってことにしたがる一方で、男性は弱さを認められていないから「性欲だけ」ということになってしまうのでしょうか。」(p159-160) 私はある程度仲良くなった男性で聞いてもよさそうな相手であったら風俗を利用したことがあるかどうかを聞いてみたい欲求がある。それは隠されている欲望を知りたいっていうのもあるし、弱さというのを知りたいからなのかもしれない。 それは語られていない領域を見たい欲望なんだけど、男性の風俗利用ってただの「性欲」だけではなく、寂しさ、承認欲求、自信のなさ……とかいろんなものが絡んでる場合があるのではないか?社会的・または個人もそれを全部「性欲」に圧縮してしまっているのではないか?だからそこをほどきたい気がする。 「今みゆきさんが語っている内容は、いわゆる「ケア」にも近いのでしょう。ただ、根本的に言えば、性サービスを受けたことで、自分自身の抱える問題が解決されるわけではない。むしろ、それを望むのはお門違いです。 福祉や介護のような仕事は「問題解決」や「自立の支援」を目的としている。一方で性風俗は、問題解決を第一の目的にやってくる人は少ないはず。みゆきさんは、「性風俗のお客さんの中には、自分の見たくないものから逃げた結果、性的な刺にたどり着いた、という人も少なくないと思うんです」と言います。 「でも逃げたところで、結局見たくないものを見なければならなくなることもあるんですよね。」(p170-171) ただこれもわかる。 性風俗って、問題解決はしないものだし(これの言うとおりそもそもそう)、でも一時的に「触れられる・肯定されるっていう、すごく曖昧な位置にある。 福祉みたいに正しく救うわけでもなく、恋愛みたいに継続する関係でもない。 では風俗ってなんなんだっていろいろやっぱりわからなくなるものだなあって思った。 --- 『人恋しくて女性用風俗に行ったあとで考えたお金とケアと欲望のこと』藤谷千明(中央公論新社) 筆者自身が女性用風俗のユーザーであり、自らの体験に加え、セラピストや経営者、女性セラピストへの取材、さらに自身が男性風俗店で勤務した経験も含めて書かれたルポエッセイ。 私は、女性用風俗を利用したこともなければ、ホストに通ったこともなく、風俗店で働いた経験もないため、その内実を知るという意味でも非常に興味深く読んだ。 ⸻ 「『男性用風俗』と『女性用風俗』の語られ方がこれほどまでに違うことに、驚く以上に、だんだん苛立ってきました。」(p43) 「以前、女性教師が男子生徒に性加害を行ったというニュースがSNSで話題になったことがありました。興味本位でリポストを見てみると、『ご褒美』などといったコメントが並んでいて、胸が詰まる思いでした。『男性だから』見過ごされている痛みやリスクは、少なくないのではないかと思います。『男性(の身体や心)は傷つかない』『男性にとって女性との性的接触はなんであれ嬉しいことである』――そんな先入観。誰が、なんのために、こうした物語を作ったのでしょう。」(p58) こうした指摘にあるように、男性と女性の性欲や風俗利用が、なぜここまで異なるかたちで受け取られるのかという問いは、以前から私自身も気になっていたものであり、とても興味深かった。 「性に奔放な女性の話は『病』として処理されがちです。女性の性体験の話は『トラウマ』や『自傷』『メンヘラ』的な言葉と結びつけられるのに、男性のそれは少し前までは『健康の証』『元気でよろしい』で済まされてしまっていたし、今は今で『加害者にならないように』という話になりがちで、その男性自身の抱える悩みの話には至らない。」(p142) 「つまり、女性の性欲は世間に認められていないから『風俗を利用する理由は性欲だけじゃない』ということにしたがる一方で、男性は弱さを認められていないから『性欲だけ』ということにされてしまうのでしょうか。」(p159-160) 私は、ある程度関係性のできた男性で聞いても大丈夫そうな人であれば、風俗を利用したことがあるかどうかを聞いてみることがある。それは単なる興味というより、隠されている欲望や、そこに含まれる弱さを知りたいからなのかもしれない。男性の風俗利用は、単なる「性欲」だけではなく、寂しさや承認欲求、自信のなさなど、さまざまな感情が絡み合っているのではないか(そこは女性と同じではないだろうか?)。しかし社会的にも、あるいは本人自身によっても、それらはすべて「性欲」という言葉に圧縮されてしまっているように思う。だからこそ、その内側をほどいてみたいという気持ちがある。 「今みゆきさんが語っている内容は、いわゆる『ケア』にも近いのでしょう。ただ、根本的に言えば、性サービスを受けたことで、自分自身の抱える問題が解決されるわけではない。むしろ、それを望むのはお門違いです。 福祉や介護のような仕事は『問題解決』や『自立の支援』を目的としている。一方で性風俗は、問題解決を第一の目的にやってくる人は少ないはず。みゆきさんは、『性風俗のお客さんの中には、自分の見たくないものから逃げた結果、性的な先にたどり着いた、という人も少なくないと思うんです』と言います。 『でも逃げたところで、結局見たくないものを見なければならなくなることもあるんですよね。』」(p170-171) この感覚もよくわかる。性風俗は問題解決をする場所ではないし、そもそもそのようなものとして設計されていない。それでも、一時的に「触れられること」や「肯定されること」が得られる場ではある。 福祉のように「正しく救う」ものでもなければ、恋愛のように関係が継続していくものでもない。風俗とはケアとは……と考えても答えはなかなかでない。 「やっぱりこういうのに男女差はないのかもしれません。職業に貴賤なし、クソ客に性差なし ......なんてね」(p34) この言葉好きだな。
    人恋しくて女性用風俗に行ったあとで考えたお金とケアと欲望のこと
  • 2026年3月17日
    貝殻航路
    貝殻航路
    半年間どこにいるかわからない夫とそれを受け入れている主人公。 夫はアイヌの母を持ち、その妹は物心がつくまえに母を亡くしたのでアイヌのことを教えてもらえなかったが和人からはアイヌだと言われる。 夫婦だけれども婚姻関係ではない、夫婦だけれどもずっと一緒にはいない。船と船、または港と船のような関係性。 「〈Signalny〉は貝殻島の英語名で、並んで書かれた 〈Остров Сигнальный〉はロシア語、シグナリヌイ島。灯台という信号があるから、こういう名称なんだろうか。カイカライ、日本ではそこに誰かが漢字をあてて貝殻になった。地名には歴史の足跡がある。誰かが誰かの土地を踏みしめ命名し共有されていく。それが占領のひとつの姿だ。」(p36) 名付けるという暴力性。 波が行き来する海に本来は線なんてないのに主人公の父親はロシアの沿岸警備船に拿捕され漁ができなくなってしまった。見えない線によって人が、生活が傷つけられる。 父は解放されてからは港で犬を殺しまわる。 「港にはロシアの犬と呼ばれていた野良犬がうろついていた。航海のお守りとしてロシア船に乗せて連れられてきた犬だった。船が接岸すると港に放され、離岸する時刻になっても戻らなかった犬はそのまま置いていかれた。」(p40) 犬も犬で被害者だ。関係がない。しかし父は弱い存在である犬を殺していく。 そしてその犬の死体を主人公は庭に埋める。 父親は介護施設に入ってからベッドのシーツを引っ張ってぐちゃぐちゃにする。介護人が父が漁網を引いていると思っていると教えてくれる。 誰かの習慣を誰かの制度・価値観が壊していく。 そして主人公は戦後ロシアに占拠され続けている歯舞群島に属している、こちらからは誰もいくことができない島の、もう光を灯さない灯台を見つめる。それは父との楽しかった思い出の象徴でもある。 「あの灯台はわたしにとって一生懸命に手を伸ばしても触れることのできない宝物だった。それを含む北方領土を夕希音はもういらないと言ってのけた。わたしの心の中の灯台に、小さな傷がつき、ちりちりと痛む。けれど痛みに痛みでやり返すことは、父さんがロシアの犬を殺したのと同じだ。わたしはたった一言だけ「わかるよ」と呟いて目を伏せた。その言葉を自分の傷にあてがってみる。わかるよ、この一言には領土の諦めを認める響きがある。でも、同時にわたしはずっと手の届かないものを求め続けなければならないとも思う。」(p99) 痛みの連鎖は止めなければならない。ただ彼女は諦めもしない。 領土や婚姻、家族。 それぞれ人間が定めたものであり名付けて世界をわかりやすくしたものだ。そこには少なからず切り捨てられるなにかがある。 制度が絡まない関係性。名前や制度がない世界。それは理想のようでやはり不安で怖いものだと思う。そう思ってしまうこと、実現不可能だとわかってしまうことが悲しい。 人間は「安心」と「自由」を同時には完全に持てない構造にある。 主人公のように不安も、傷も、矛盾も引き受けたまま関係を続けることができるだろうか。 悲しい感情が残る作品だった。
    貝殻航路
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