@s_ota92
2026年5月1日
六人の超音波科学者
森博嗣
p12
「「喧嘩したかったらね、もっと陰湿にやりなさいよ。そんな開けっぴろげで公明正大な喧嘩は鬱陶しいだけ。もっと執拗に計画的に徹底的に、相手に肉体かつ精神的ダメージな的確に与えることだけに集中する。その場では笑って相手を油断させておいて、夜になったらこっそり行動開始。一撃必中、即離脱。わかった?」」
p14
「「ペコちゃんなぁ、あれは、首が据わってへんだけに、ちょいやばいかもしれん。」」
p18
「人の反応は複雑だ。ただ一つだけいえる真理は、それらが実態のない、思い描かれただけの虚像である、という点である。」
p25
「「残留した応力が解き放たれないまま凝結してしまった物質みたいな。」「固まってしまえば動かない。その形を一応は保持する。けれど、あるとき溶けだす寸前に、力を解き放つ方向へ、突然動きだす、変形しようとする。つまり、行動しようとする意志を記憶したまま封印されて眠っている物質。」」
p26
「もう一度彼女の笑顔を見たい、もう一度彼女の唇に触れたい、しかし、そのあとに何が待っているだろうか、それに対して、私は紳士的に行動できるだろうか、といった一点集中の狙撃的予測においてさえも、同種のシュミレーションとアブゾーバによるシステムが(この私の心の中にでさえ)用意されていることを、最近になって学んだ。」
p27
「未来は過去を映す鏡だ。心配する者はいつか後悔するだろう。自分が生まれ変わるなんて信じている奴にかぎって、ちっとも死なない。」
p31
「まるで豪華客船の中にいるようだ。つい最近、実物の豪華客船に乗ったことを練無は思い出していた。」
p38
「大きな瞳をぐるりと回し、彼女はペコちゃんみたいに首を揺すりながら欠伸をする。」
p46
「しかし、本来、男性は恐がりで、女性は怖がらない、」
p49
「ほとんど原形を留めたまま、橋は落ちていた。」
p54
「「君の責任ではまったくない。僕の中の問題なんだ。君は知らないかもしれないけれど、纐纈さんのお嬢さんに、君はそっくりなんだよ。」」
p57
「絵に描かれているのが、その六人なのは間違いなさそうだった。」
p62
「「小鳥遊さんです。纐纈様のお知り合いで……。」「ああ、例の……。」」
p65
「彼女はそう言いながら、壁にある六人の肖像画を見上げ、囁くように小声で呟いた。「魔法陣か……。」」
p69
「優しさなんて、その辺りに転がっている石ころと同じだ。どこにでもある。いつだって拾える。そんなものが欲しいわけではないのだ。生きていくために必要なのものは、もっと別のもの……、もっと危うくて、もっと切ない、もっともっと苦いものだ。一度でも落としてしまったら、もう見つからないものだ。」
p74
「「以前にも同じようなこと、なかったっけ?困るなあ。手口なんだよなあ、保呂草さんの。」」
p81
「橋の爆破とは?」
p89
「「えっとじゃあ、年齢順で……、土井先生、レンドル博士、宮下博士、ファラディ博士、あと、園山さん、それに僕です。」」
p93
「「芦屋のお嬢様なんだよ。」」
p97
「「ねえ、六人いるんでしょう?さっきいた部屋に絵があったから、六人の博士たちの。」」
p97
「「そう、ファラディ博士がいないね、ドクタ・スコット・ファラディが。」」
p102
「「ジレンマとは、知りたいものと、計算できるものを、天秤にかけることの意義です。」」
p102
「「もちろん、勉強はいたしましたわ。知りたいことのほとんどは書物で学びました。書かれていないことは、実験もいたしました。」」
p104
「「小田原先生とは、そうですね、よく温室でお会いしました。大変面白い方です。植物のことにとても詳しいの。私、生物は全然駄目ですから、いろいろと教えていただきましたわ。」」
p111
「七夏が話しかけたとき、遠くで悲鳴のような声が聞こえた。とても小さかった。」
p114
「「浮気しちゃ駄目よ。」」
p115
「非常に安易な選択だ。おそらくは、自分で価値を決められない、だから何も考えないで値段だけで選んだ、と断言できる。残念ながら、この建物には彼が見たい品があるとは思えなかった。」
p115
「悲鳴が聞こえた。」
p121
「「スコット・ファラディ博士です。」」
p122
「「ちょっと、この人の手相を見てみたいの。」紅子が言う。「爪の形が細長くて、綺麗だわ。」」
p122
「紅子は立ち上がり、戸口の保呂草のところまで来て、目をわざとらしくぐるりと回してみせた。それが実に可笑しくて、そして可愛らしかった。」
p122
「ファラディ博士は整理魔だったのだろうか。」
p127
「「いろいろなものが意図的だ。」」
p133
「「信用されていないんですよ。」」
p136
「「タイトルのアルファベット順に並んでいるの。こんな並べ方をしたら、しょっちゅう本を移動させなくてはいけないわ。」」
p141
「雷田さん、ご研究は、発振端子の関係ですね?」
p143
「紅子はモールス信号だと気づいた。」
p147
「人間の精神は、船の復元力のように常にバランスを保とうとする。」
p148
「自分の感情からなるべく遠くへ。そうして、遠くから離れた位置から自分を観察する癖がついてしまったのだ。」
p148
「「憶えておくと良い。」」
p174
「「信じてもらえないってことかな。」」
p177
「「無線機とか電話とか、あまり関係ないんだな。」紅子がぼそぼそと呟く。」
p181
「「人が一人死んだくらいで、大切な自分の時間が取られたくない、というのは、わかるなぁ。」」
p182
「「ようするに、それが弾性波なの。超音波と弾性波は、ほぼ同じ物理現象だと思って良いわ。物体が力によって伸び縮みする。それが次々に隣へ隣へ伝わっていく、それが弾性波。私たちが耳で聞く音は、空気の体積弾性によって伝わってきたもの。」」
p183
「「これは、へっ君が言いだしたことなの。」」
p188
「「あれ?」練無は振り返る。「何の音。」」
p200
「一瞬、空気が流れ、次に軽い圧力を感じた。聞いたことのない、不思議な音を立てて、ドアが閉まった。」
p202
「練無は驚いた。紅子の手が震えていたからだ。」
p204
「これも超音波だろうか。それがだんだん喧しくなる。」
p207
「「あれ?」保呂草がこちらを見た。「冷えてる?」」
p209
「夢のような、現実から乖離した、遠い異国との無線交信みたいな、不思議な距離感、大草原の中央にただ一人残され、しかも、もの音一つ聞こえない、耳もとで揺れている草の擦れる音が何故か聞こえてこない、自分の声が体内の振動としてしか、伝わってこない、しかし、そこから抽象されるものは、恐ろしいほど、魅惑的な冷たさなのだ、まるで、耳の中に氷を入れられたような。」
p212
「この涙は、なくなるまで流した方が良い、と考えた。けれども、そうもいかないだろう。なるほど、こうして、人間の頭脳に皺が寄るのだな、と思う。」
p215
「「あれ?なんかさ、変な臭いしない?」練無が言った。」
p218
「ノブは回り、ドアが開く。」
p220
「それと同時に、僅かな空気の負圧。大きな音。ドアが開いたのだ。」
p221
「そうだ、思い出した。犬の名は、クロ。目が覚めたら、きっと忘れているだろう。」
p224
「「鍵をかけた?」保呂草はきき返す。「いつ?」」
p225
「「いえ、これをグラスに入れたのは、私ではございません。」」
p228
「練無は、土井博士の仮面を思い出した。」
p230
「チッチッチッチ……。」
p234
「「それが人間関係の重みというものじゃありませんか?」」
p239
「木製の球に棒を刺した木琴用のバチが添えられていたが、それが三本あった。」
p240
「「えっとね……、二十年ほどまえ、ある人の娘を殺してしまった。その娘は自殺したと世間で報道されているが、責任はすべて私にある。したがって、あの人に、私は殺されるだろう。それはしかし、許容すべきことだ、私の人生にとっても、あるいは、常識的な価値観の上でも。どうすべきかは、もはや私の問題ではない。何故なら、私は、生きていくことに疲れたし、私は、既に生かされる価値を失ったシステムだからだ。崩壊は自然にやってくる、時間や酸化と同様に。それを人が受け入れようが、受け入れまいが、関係なく。」」
p242
「「困ったなあ。そこは、秘密なんですよ。」」
p244
「そのとき、後ろから、男の叫び声が聞こえた。」
p249
「白い仮面が、首の上には、なかったのだ。」
p263
「「たとえば、モールス信号。」」
p269
「「発振端子かな。」」
p271
「六人より三人を選んだときは、すべて等しいか、すべて等しくないか、いずれかで分け与えよ。そうすれば、長くも、短くも、強い調和となる。死は、我々とともにあり、死は、我々とともにない。」
p272
「「木琴のバチが三本。」」
p283
「「単なるデータです。研究上の価値は極めて高い。しかし、それが直ちに金になるといった代物ではない。一般的な価値はないはずだ。」」
p295
「「ああ、あのエレベータの中で見つかったんですか。」」
p298
「私は、約二十年まえ、その人の娘を過って殺してしまった。彼女は自殺したと報道されているが、責任は私にある。したがって、私は殺されるだろう。しかし、私はそれを許容するつもりだ。もう生きていくことに疲れた。」
p305
「「ええ、これなら、人間の一人や二人、あっという間に溶かしてしまえるでしょうね。」」
p308
「「ああ、ホンマ、博士たちの顔が描いてあんねんな……。うーん、六人か。これ、魔法陣っていうたっけ?」」
p313
「一番上が土井、一番下がファラディ、この二人が死んだ。右には、レンドルと宮下、左は雷田と園山の二人。生き残っているのは、四人である。」
p313
「まるで愛息のへっ君に話しかけているときのようだった。」
p327
「「六・二・四・七・四」」
p330
「「例のデータのことかな……。対処を相談しているんでしょうか。」」
p334
「「エレベータのルールだ。」」
p342
「「学術的なデータ、新しい発想と、それを逐一確認するための労力、それらすべてが最上のものであり、ときには人の命よりも、自分たちの人生よりも、大切なものです。でも……。」
「大切だからって、いったい何なのでしょうか?大切なものって、何が大切なのですか?大切に思うことが大切なのかしら?それとも、大切だと教えることが大切なの?私の申し上げていることがわかりますか?」」
p345
「「それが許されることと、それができることの差です。気づかれたら困る、自分が誰だか見破られたら困る……、だから黙らせる、だから首を絞める、だから殺してしまう。だから、だから、だから、という理由で人はどんどん堕ちていく。人でなくなってしまうのです。思い出しなさい。考えましたか?殺したら、もとに戻らないのよ!」」
p345
「「もし、小鳥遊君が死んでいたら、私がこんなに腹を立てることはなかったでしょう。単に悲しいだけ。ええ……、人が死んだときには、それしかないわ。けれど、生きていたのです。それは、本当に幸運だった。小鳥遊君の首を絞めた人にとっても、とても大きな、奇跡的な幸運でした。神は貴方を見捨てなかったのです。おわかりかしら?私は、こうして腹を立てている。怒っているの。何故なら、怒る価値があるからです。貴方に腹を立てているのは、貴方にその価値がまだあるから。夜が明けて、警察が来たら、賢明な貴方は、きっと自首することになるでしょう、私に名指しされるまえにね。」」
p358
「六人より三人を選んだときは、すべて等しいか、すべて等しくないか、いずれかで分け与えよ。」
p360
「「ほら、このね、すべて等しいか、すべて等しくないか、てやつ、これは、つまり、正三角形か直角三角形にしろってことなんだ。二等辺三角形じゃあ駄目だぞってこと。」」
p364
「例外は、ただ一つだけ。デスクと書棚の間に、死体がなかったのである。」
p371
「「今はないな。」」
p373
「「ご自分たちを窮地に追い込むようなことだけは、どうかなさらないで下さい。まだ間に合うことです。悲劇的な自殺行為だけは、お考えにならないで。」」
p373
「「ここで起こっていることを、小田原先生はご存知だった。だから、私を送り込んだのです。私が来れば、きっとこうなる、と……。」」
p375
「「無理だよ。瀬在丸さんは、もうすっかりお見通しなんだ。馬鹿な真似はこれくらいにしよう。いや、もう終わったんだよ。諦めなさい。」」
p379
「「そう、目先の整合性のために、将来の矛盾を見過ごす。人が犯すミスの多くは、それと同じメカニズムです。」」
p384
「「わからない?私、あのとき、透明の手袋越しにファラディ博士の手を見て、こう言わなかった?手相が見てみたい。爪の形が綺麗だって。」」
p389
「「小鳥遊君が聞いた、チッチッチという音がそれです。」」
p389
「「エレベータで重量を計る、それから、人間の頭の中に超音波を通して、五人の個人が存在することを確認する。もしかして、土井博士の一番新しい研究テーマは、音声認識だったのでは?」」
p393
「「死体を切断したことも、死体損壊罪として、一般的な倫理からは許し難い行為かもしれないけれど、私には特に異常な意志とも思えません。科学者ならば、死んだ人間の肉体に個人の尊厳が残っているとは考えないはずですし。私も、小さいときに、それを学びました。飼っていた犬が死んでしまった夜にね。」」
p395
「「人間というのは、多少は不便があっても打つ手がある場合にはそれを使う。それが使えることで、それ以外の方法を考えなくなってしまう。」」
p396
「「名前で選ばれたのでしょう。」紅子は答える。「ド・レ・ミ・ファ……で。」」
p396
「「ドは土井博士のド、レはレンドル博士のレ、ミは宮下博士、ファはファラディ博士、ソは園山博士、ラは雷田博士、さあ、歌いましょう。」」
p397
「「エレベータの壁に書かれていた、死は、我々とともにあり、死は、我々とともにない、という文句……、あれは明らかに、音階のシのことです。本来は7つある音階、ドレミファソラシだから、シはともにある。でも、この研究所には六人しかいない、したがって、シはともにない。」」
p397
「「六人より三人を選ぶ……。」紅子は続ける。「これは、和音のことですね。遊戯室にある魔法陣の絵が、六人の博士の位置を示しています。あの配置も、もちろん、ドレミの順です。すべて等しく選ぶというのは、角度を等しくする正三角形の頂点。つまり、たとえば、一つおきに取って、ド・ミ・ソの和音か、レ・ファ・ラの和音。長くも、短くもとは、つまり、長調であれ、短調であれ、いずれも協和音です。保呂草さん、そうね?貴方、音楽はお得意でしょう?」」
p397
「「シャープやフラットを使わないなら、ドレミのどこから始めても、一つおきに音を取れば、全部協和音になる。ドミソとかファラドがメジャ。ミソシやレファラがマイナですね。全部で六つかな。」」
p398
「「あの魔法陣ではシがないから、中には、正三角形にならないものがあります。その場合は直角三角形。すべてが等しくない三角形になる。すべて等しいか、すべて等しくないか、で三つを選択するとそうなる。それ以外の選択の方法とは、二つだけ等しいもの、という条件しかありません。それはつまり一般的な二等辺三角形で、魔法陣の場合は、三つ隣り合った連続した頂点を選ぶことに等しい。たとえば、ドレミを選んだ場合には、二等辺三角形になりますけれど、これでは協和音、つまり正常な調和にはならないわけです。」」
p398
「「バチが三本あったわ。土井博士の寝室に木琴の……。」」
p404
「車の中で保呂草は、否、私は、彼女の寝顔を何度を見た。この幸運は、著名な絵画を一枚手に入れたことに匹敵するといっても過言ではない。一言でいうなら、掛け替えのないものだ。したがって、今回のことすべて、私にとってはプラス、大いに満足である。」
p404
「紅子は、数学者の小田原博士に事件のことで報告にいった、と話していた。」
p405
「人間が生きる道もまた、必然と奇跡に彩られた偶然だ。」