@sotaono
- 2026年9月30日
銀河帝国の興亡 3アイザック・アシモフ,鍛治靖子 - 2026年9月29日
銀河帝国の興亡2【新訳版】アイザック・アシモフ,鍛治靖子p18 「「そうですね。不幸なことに、無学な大衆は学問と魔術を混同しがちでしてね。恋愛とは、非常に多くの魔術的な助けを必要とするもののようです。」「確かにそうなのだろう。だがわたしはちがう。学間とは、難しい問題に答えを出す手段以外の何ものでもあるまい。」」 p31 「「ホバー・マロウなら、そしてサルヴァー・ハーディンなら、こうはしなかっただろう。暴力という不確かな道はほかの者に歩ませ、自分は確かで静かなやり方を選ぶ。」」 p46 「「いま攻撃しようと攻撃せずに終わらせようと、一隻で攻めようと帝国の総力で襲いかかろうと、軍事力を使おうと経済的圧力をかけようと、堂々と宣戦布告をしようと卑劣な急襲をかけようと。自由意志を最大限に駆使してお好きな方法をとられるがよろしいでしょう。それでもやはり、あなたは敗北するのです。」「死者たるハリ・セルダンの手によってか。」「とめることも曲げることも遅らせることもできない、人間行動の数学という死者の手によってです。」ふたりはにらみあったまま膠着状態に陥った。ついには将軍が一歩譲った。「挑戦を受けよう。」彼はさらりと宣言した。「死者の手に、生者の意志で立ち向かってみせ よう。」」 p72 「「いいだろう。ちょっと質問させてくれ。あんた、あんたの国も以前敗北したって言ったよな。どこにやられたんだ。外縁星雲からきた彗星人か」バーは視線をあげた。「帝国だ。」「なんだって?じゃあ、あんた、こんなとこで何してるんだよ。」バーは沈黙を守ったが、それが何よりも雄弁に答えを告げていた。」 p78 「「ですが、勇敢と無鉄砲は同じではないことをお心にとめていただきたいかと。敵をよく知り、どの程度の危険があるか、少なくともある程度の予測が立てられるときは、一か八かの賭けもいいでしょう。ですが、まったく未知の敵に立ち向かっていく蛮行を勇気と呼ぶことができるでしょうか。昼間に障害物コースを軽々と走り抜ける男が、夜に自分の部屋で家具につまずいてころぶのはなぜかと問うようなものです。」 p117 「そして、力ない闇をずたずたに切り裂く一万もの恒星からなる星団の中心に、巨大帝国の惑星トランターが周回している。だがそれは単なる惑星ではない。二千万の星系からなる帝国の、生きた鼓動だ。それのもつ唯一の機能は行政。唯一の目的は統治。唯一の産物は法律。」 p121 「この帝国首都惑星生民のせわしなく冷やかなありようを見ていると、恐ろしいほど陰鬱な孤独感にかられる。自分がなんの意味もない取るに足らぬつまらない存在であることを思い知らされる。」 p131 「「そうでしょうね。心理歴史学を学んでいないと理解しにくいでしょう。言葉は数学的方程式を曖昧に伝える代用品にすぎません。ですが、そうですね──。」 p140 「「大丈夫よ、お馬鹿さん。さあ、いつものように下唇をだらんとさせて、死にかけのアヒルみたいに情けない顔を見せてちょうだい──わたしの肩にもたれかかろうとするときのあの顔。静電気が起きるくらいぐしゃぐしゃに髪を撫でてあげるときの顔よ。あなた、甘ったるい返事を期待していたんでしょ。『トラン、あなたとならどこに行ったって幸せよ!』とか、『あなたといっしょなら、恒星間の深淵だってわが家だわ!』とか、わたしが言うと思ってたんでしょ。さあ、白状なさい。」」 p140 「見かけはいかにも気でガードがかたく、現実的かつ現実的な態度で毅然と人生に立ち向かおうとしている。だがその内側には、つついてもけっして姿をあらわしはしないものの、優しさの小さな池がある。やり方を知っていて──さらにはせがむような真似をしなければ、たどりつくことができる。」 p146 「「だがおまえはどうなんだ、トラン。いったいどこであんな綺麗な花嫁を見つけてきたんだ。」若者は小さな笑い声をあげて腕を組んだ。「三年がかりの苦労話をひと息で話せって?」」 p154 「「トランの言うとおりだよ、フラン。自分の奥深くをさぐって耳を傾ければ、おまえにもわかるはずだ。だがそれは不快な思考だから、おまえは大声をあげて否定してしまう。それでも心の奥深くではおまえもそれを認めているんだよ。トラン、わたしがなぜこんな話をはじめたのか、説明しよう。」」 p171 「空間的距離と同様、時間的にも距離があるほうが物事に焦点を定めやすいというのは、人類にとって不変の教訓である。」 p236 「ふたたびじっと見つめる。小さな人の形──ほんとうに人の形?──心が追いつかないほどすばやく身体を曲げたり回転したりしているあれは、ほんとうに燃える髪をした小さな女だろうか──そんな小さな人の姿が、星の形に集まって、ぐるぐるまわって──音楽はかすかな笑い声のようで──耳の内側ではじまる女の子たちの笑い声のようで。」 p244 「だが、こうした否定要素をすべてよせあつめ、合計を処理したあとに、何かが残る。そのおわるとは、部屋の半分を占める中身が空っぽのガラスのブースだ。三世紀のあいだに四度、ハリ・セルタンの生きているような画像がそこに腰かけて話した。そのうちの二度は、聴衆はひとりもいなかった。三世紀、九世代のあいだ、宇宙帝国の繁栄を見てきたかの老人は、おのが姿を映し──そしてなお、はるかな子孫の住む銀河系を、当のはるかな子孫たちよりもはるかによく理解していた。」 p250 「「そうよ、この人たちみんながね。」ベイタは断言し、そっと彼を揺すぶった。「そしてきっと、みんながみんな、あなたは銀河系一のすばらしい演奏家だ、こんなすてきなコンサートははじめてだって思うのよ。だからしゃんとして、まっすぐすわってなさい。威厳をもって。」」 p254 「ベイタはもう少しで泣きだしそうになった──悲しいからでも恥辱をおぼえたからでもなく、恐ろしいほど果てしのない絶望のためだ。」 p266 「「セルダンがわれわれの期待に応えられない」ランデュは親指の爪を嚙んだ。「それはすなわち、われわれの支柱が消えることを意味する。われわれはあまりにも長期間その柱にしがみついていたため、筋肉が美縮しきって、それなしでは立っていることもできなくなってしまった。」「そういうことさ。譬えとしては下手くそだがね。だがそのとおりだよ。」「そしてあなたはどうなのだ、エブリング、あなたの筋肉は。」心理学者は深々と葉巻を吸い、ゆっくりと煙を吐きだした。 「錯びついちゃいるが、萎縮してはおらんな。職業柄、ちいとばかり思考の独立性を維持してきたからな。」」 p324 「「あの……申しあげないほうがよろしいのではないかと存じます。その昔に教わったことなのですが、ヴィジソナーはもっとも奥深いところで神経組織に影響を与えます。むろん、あれは邪悪なものでございました。レディのごとき美しく穢れなき方には無縁のものでございます。」「あらあら、マグニフィコったら。わたしはそんなに清廉潔白じゃないわよ。そんなにおだてちゃ駄目。ねえ、あの人たちが見たものを、わたしも見たの?。」」 p325 「「マグニフィコ、あなたはほんとうに勇者の魂をもっているのね。」」 p340 「トランは挑むように答えた。「銀河にかけて、やってみせるとも!」」 p349 「「これくらいのことはすぐにわかったさ。ほかにもいろいろとな。わたしはときどき、自分の中で何が起こっているんだろうと不思議になる。さまざまなことが不明だったときのこともなんとなくおぼえているが、いまではすべてがはっきりとわかる。疑問などない。疑問に思えそうなものに出くわしても、なぜだか心の中に答えが見えて理解できるのだ。そしてわたしの推論は、理論は、いつだって実証される。わたしの中には衝動があって……いつだってわたしを駆りたてて……だからわたしはとまることができず……何かを食べたいとも眠りたいとも思わず……いつだって前へ……前へ……前へと──。」」 p371 「「すわってくれてかまわない。寝そべってゆっくり手足をのばし、くつろいでもいい。ゲームは終わった。話を聞いてほしい。これがわたしの弱点なのだ──人に理解してもらいたいと願わずにはいられない。」」 p377 「「彼女は、わたしが感情を支配しなくとも、わたしに好意を抱いてくれた。嫌悪することも、面白がることもなく、ただわたしを哀れんでくれた。純粋に好意を抱いてくれた!わからないか。それがわたしにとってどのような意味をもつか。かつて誰ひとりとして ──そう、わたしは……それを大切にしたいと思った。わたしはすべての他者を支配しながら、おのれの感情にあざむかれた。そう、わたしは彼女の心に触れなかった。干渉しなかった。自然の感情をあまりにも大切にしてしまった。それがわたしの過ちとなった──はじめての過ちだ。」」 p380 「「わたしたちが、トランとわたしが、あなたを負かしたのよ。これで満足して死ねるわ。」だがミュールの悲しげな茶色の目は、いまもなお、マグニフィコの愛情あふれる悲しげな茶色の目だった。「あなたの生命も、あなたの夫の生命も、奪いはしない。つまるところ、あなた方ふたりにこれ以上わたしを傷つけることはできないのだし、あなた方を殺したところでエブリング・ミスがもどってくるわけではないのだから。わたしの過ちはわたし自身のものだ。その責任はわたし自身でとる。夫とともに行くがいい!心安らかに去ってほしい。わたしが──友情と呼ぶものに免じて。」そこでふいに自尊心の欠片に突き動かされて、「わたしはいまもなおミュール、銀河系でもっとも力ある者だ。必ずや第ニファウンデーションを打ち負かしてみせよう。」ベイタは冷静に、確固たる確信をもって、最後の矢を放った。「無駄よ!わたしはいまもセルダンの知恵を信じている。あなたはあなたの王朝の、最初にして最後の統治者となるのよ。」いまの言葉がマグニフィコの何かに訴えたようだった。「わたしの王朝?そうだ、わたしもしばしば考えた。自分の王朝をうちたてたいと。ふさわしい妃を迎えたいと。」ベイタはふいに彼の視線の意味に気づき、恐怖に凍りついた。マグニフィコは首をふった。「嫌悪しているのか。それは愚かなことだ。もしすべてが逆に進んでいたら、わたしはいともたやすくあなたを幸福にしていた。確かにそれは紛い物の幸せかもしれない。それでもほんものの感情となんのちがいもない。だがすべてはこのように進んでしまった。わたしはミュールと名のっている──それは、わたしの力ゆえではない──そうとも──。」そして彼は、一度もふり返ることなく、去っていった。」 - 2026年9月28日
銀河帝国の興亡1【新訳版】アイザック・アシモフ,鍛治靖子p24 「彼の目に映っているのはただ、ひとつの惑星を傲慢にも徹底に征服してのけた、人類による最大の偉業だった。」 p30 「「わたしの言葉を盲目的に受け入れないのはよいことだ。しかしながらこれは、命題の立証に役立つ近似値だ。それは認めるね。」」 p41 「ガアルにとって博士は、この世界に唯一残された不動のものだった。」 p43 「A以前も申しあげた。もう一度くり返そう。トランターは今後五世紀のうちに廃墟と化す。 Qその言葉が不敬にあたるとは思わぬのか。 A思わぬ。科学的真理は敬不敬を超えたところにある。 Qおのが発言が科学的真理をあらわしていると確信しているのか。 A確信している。 Qいかなる根拠によってか。 A 心理歴史学の数学的処理によって。 &その数学的処理が正しいことを証明できるか。 A 相手が数学者であれば。 Q (微笑し)ではあなたは、あなたの真理はあまりにも難解であるため、一般人の理解を超えていると主張するわけだな。真理とはより明快で、謎めいておらず、受け入れやすいものであるべきではないか。 Aいともたやすく理解する者もいる。熱力学として知られるエネルギー転換物理学は、神話時代より人類の全歴史を通じて明快な真理とされているが、動力エンジンの設計ができない者もいるだろう。高い知力をもった人間であってもだ。学識豊かな委員諸氏は……。」 p48 「A 説明は簡単である。きたるべきトランター滅亡は、それ自体、人類の発展段階において孤立した単独の現象ではない。数世紀前にはじまり、これまで絶えず加速度に進展してきた複雑なドラマのクライマックスである。諸君、そのドラマとはすなわち、いま現在進行中の銀河帝国そのものの衰退と滅亡である。」 p50 「A 人類の知識を保存することによって。人類の知識総量はひとりの人間に扱いきれるものではない。千人でも不可能である。社会機構の崩壊により、科学は分解して百万もの断片と化す。個々人に知り得るのは、どれだけ大量であろうと、知るべき知識のあまりにも小さな断面にすぎなくなる。そうした断片そのものは無意味で役に立たない。無意味な知識の断片は伝えられることなく、数世代のうちに忘れられてしまう。しかし、いますべての知識の集大成をはじめれば、それらが失われることはなくなる。きたるべき世代はそれを基盤として構築され、自力で知識を再発見する必要もない。三万年の努力が一千年ですむのだ。 Q それらすべては── Aそれがわたしのプロジェクトである。わたしの集めた三万人は妻子とともに一心に『銀河百科事典』編の準備に取り組んでいる。彼らの存命中に完成することはない。わたしもまたおそらくは、そのはじまりをすら見届けることはできない。だがトランター滅亡のときまでには完成し、銀河系の主要な図書館すべてにそのコピーが備わることになるだろう。」 p53 「「わたしは今後五年も生きることはできないでしょう。」セルダンは答えた。「それでも、どうしようもないほど心悩ませておりますよ。理想主義といってもいいでしょう。“人類”と呼ばれる神秘的概念に自分が属していることを確認しようとしているのかもしれません。」」 p56 「その言葉を聞いて、ガアルの心臓が一瞬鼓動をとめた。死をまぬがれたことで、心は大きな歓喜に満たされている──それを喜ばない者はいないだろう。だが深い安堵にひたりながらも、彼の心のごく一部は、セルダンの敗北に小さな失望を味わっていた。」 p61 「「”星界の果て”につくられるということをね。わたしはもうすぐ死ぬのだから、そのあとのいろいろはきみ自身がその目で見てくれたまえ──いやいや、驚くことはない、気遣いの言葉もいらない。わたしはあと一、二年も生きられないと医師が言っているのだよ。だかわたしはこの人生において意図したことを成し遂げた。人としてこれ以上に幸せな死に方があるだろうか。」」 p80 「「この討議は完全に論点がずれておる。テルミヌスは惑屋ではない、偉大なる百科事典を編纂するための科学研究機関だ。いやはや、あなた方は科学に対する敬意というものをもっておられんのか。」」 p82 「「そうじゃない。あれは単なる環境の産物だな。あの男が理解しているのはせいぜい、『自分は銃をもっている、こいつらはもっていない』ってことだけさ。」」 p92 「じつをいえば、話を聞いてさえいなかったのだ。彼は新しい思考の道筋をたどっていた。物事が──ほんの少しではあったけれども──おさまるべきところにおさまろうとしていた。あの角とこの角がちょうどあわさる。ひとつ、ふたつとつながっていく。心理歴史学が鍵だ。それは間違いない。懸命に、かつて学んだ心理歴史学理論を思いだそうとした。そしてそこから、まずひとつのことを理解した。セルダンのように偉大な心理歴史学者は、人の感情や反応を解読し、未来における大まかな歴史の流れを予言することができる。ということはつまり──なるほど!」 p107 「「暴力は無能者が用いる最後の切り札ですよ。」」 p109 「「あからさまな逃避だ!ファラ博士、まさしく天才のみに可能な思策中の愚策。凡人には到底受け入れられるもんじゃない。」」 p111 「「見ようといでいないからだ。一度だって見ようとしたことがない。あんたたちは最初、そもそも脅威があることすら認めようとしなかった! それから、盲目的にして絶対的な信頼を皇帝におくことで安堵してしまった!そしていまは、その信頼をハリ・セルダンにおきかえようとしている。最初から最後まで、あんたたちは終始一貫して、権威に、もしくは過去に、すがってきたんだ──一度も自分で行動しようとしたことがない。」」 p122 「「きみたちの未来の歴史がどれほど迂遠な道をたどろうとも、これだけはつねに子孫代々の心に刻みつけておいてほしい。道はすでに計画されている。そしてその果てには、より偉大なる新帝国が待っているのだ!」」 p129 「猛きものもついには滅びる、だ!」 p131 「「そうだろうね。もちろん意見をもつのは自由だ。それにきみはまだ若い。」「たいていの人間は人生において、その欠点をともなう時期を必ず経るものでしょう。」サーマクが淡々と答える。「ここの市長になったとき、あなたはいまのわたしより二歳も若かったと思いますが。」」 p135 「ハーディンは優鬱な気分で若者のささやかな金色の口髭を見つめた。サーマクは絶対な自信をもっている。さもなければこれほど多弁にはなれない。彼の発言は間違いなく、市民の大多数の意見を反映している。そう、大多数をだ。」 p152 「「物事がそのように進むだろうことは、誰もが知っています。ですが、だからといって危険を冒してもいいのでしょうか。漠然とした未来のために、現在を危機にさらすのですか。」」 p153 「「セルダンの高等心理歴史学をもってしても限界があるからだ。あまりにも多くの独立変数を扱うことはできない。長期であれ短期であれ、個人を対象とすることはできないのだ。気体分子運動論を個々の分子に適用できないのと同じだね。彼が扱ったのは群衆たる全惑星の住人──それも、自分たちの行動の結果に関する予備知識をもたない群衆だけだ。」」 p163 「「なんということだ。まさしく叔父上の言われるとおりだ。わが国が先制攻撃をしかけなくてはならない。それこそが正しい自己防衛手段だ。」」 p187 「「ああ、きみの有名な格言なら聞いたことがある。『暴力は無能者の最後の切り札なり』か。いいかね。」──摂政はいかにもほんやりとしたていで、片方の耳を掻いた──「わたしはけっして自分を無能者だとは思わんがね。」ハーディンは沈黙を守ったまま礼儀正しくうなずいた。「にもかかわらず。」ウィーニスがつづける。「わたしはつねに直接行動を信じてきた。目にまっすぐつづく道をつくり、そこを歩むことこそが最善だと信じてきた。そうやって多くのことを成し遂げてきたし、これからも成し遂げられることを疑ってはいない。」」 p204 「「昔々の寓話がある。」ハーディンは語った。「たぶん人類そのものと同じくらい古いものだよ。それを収録したもっとも古い記録もまた、それ以上に古い記録の写しにすぎないのだからね。きっとあんたも興味をもつだろう。こういう話だ。狼という強く物騒な敵がいたため、馬はつねに生命の危険に怯えながら暮らしていた。絶望にかられた馬は、強力な味方をさがそうと思いあたった。そこで馬は人間に近づき、狼は人間にとっても同じように敵なのだから、同盟を結ばないかと申しでた。人間はすぐさま承諾し、新たなる友がそのすばらしい脚力を人間の望むがままに使わせてくれるなら、ただちに狼を殺してやろうと約束した。馬は喜んで轡や鞍をつけることを許した。人間は馬にまたがり、狼を狩って殺した。馬は安堵と歓喜にあふれ、人間に感謝して言った。『わたしたちの敵は死んだ。さあ、この轡と鞍をはずし、わたしを自由にしてくれ。』すると人間は大声で笑った。『何を言っているのだ、愚かな馬め、さあ走れ!』そして思いきり拍車をあてた。」」 p207 「「最後まで。”直接行動”の男だったな。これが最後の切り札というわけか!」」 p211 「「八十年前に設立されたもうひとつのファウンデーション──銀河系の向こう端、“星界の果て”のファウンデーションのことを、けっして忘れぬように。彼らの存在をつねに考慮にいれておくのだよ。諸君、きみたちの前には九百二十年にわたる〈プラン〉が待ち構えている。問題を解くのはきみたちだ!さあ、はじめたまえ!」」 p239 「「おまえが三十日という海化期間を提案したのは、おそらく、何かもう少し重要なものに関心をむけさせるための時間を稼ぎたかったからであろう。だがあの黄金が不純であると判明したら、どうするつもりなのだ。」ポニェッツはあえて不機嫌そうに答えた。「その判定をくだすのは、黄金が純粋であることをもっとも願っている人たちではありませんか。」」 p278 「「同胞なる者を邪悪と死の中に見捨てる裏切り者よ、呪われてあれ。弱き者の懇願を聞かぬ耳よ、ふたがれよ。罪なき者を見ぬ目よ、盲いよ。闇とまじわる魂よ、永遠に闇に沈め──。」」 p284 「「きみたちはつねに理不尽ではないか。わたしはわが国の経済に可能なかぎり、あらゆる貿易を歓迎している。だがきみたちのやり方はどうだ。わたしはひとりでこの国を支配しているわけではない。」声が高くなる。「世論の僕にすぎぬのだ。わが民は緋と黄金の輝きを帯びた交易を受け入れはせん。」」 p285 「「まことか。」コムドーは鼻を鳴らした。「だが富があったとてなんになろう。其の財産は民の愛だ。わたしはすでにそれを手にしている。」「どちらも手にすればよいではありませんか。片手で黄金を集め、もう一方の手で愛を得ることも不可能ではありません。」」 p304 「「思い出はふいによみがえって痛みをもたらすのだよ。まあ、聞きなさい!そして自分で判断するがいい!シウェナがこの星郡の都であったころ、わたしは名門貴族で、星都の元老院議員だった。古く栄誉ある家柄なのだよ。わたしの曾祖父は──。いやいや、やめくおこう。過去の栄光を反芻しても虚しいばかりだ。」」 p312 「五分後、マロウはその家を去った。だが永遠に立ち去る前に、ほんの一瞬、一度だけ、老貴族の家にもぐったのだった。翌早朝、ささやかな庭に出たオナム・バーは、足もとに小さな箱を見つけた。中には食料がはいっていた。宇宙船内で使う濃縮食料で、味も調理方法も異質だった。しかしながら、それは美味で、長持ちした。」 p321 「「おやおや。いったいいつから、偏見が差別意識を捨てて法に従うようになったのだね。」」 p325 「「おれは法律は遵守するが、慣習は気にしない。」「慣習が法より重視されることもある。」「だったら法廷に訴えればいい。」」 p330 「「どんなものであれ、主として信仰や感情に基づいた教義は、他人にむけて使用すると、危険な武器になる。その武器が逆転し、使用者にむけて使われないという保証はないからね。」」 p362 「「未来なんか知るもんか。きっとセルダンがそれも予見して、準備をしているだろうさ。いま宗教の力が衰えたように、金だっていつか効力を失う。そのときつぎの危機が訪れる。今日おれがひとつの危機を解決したように、新しい問題の解決は後継者たちにまかせてやるよ。」」 - 2026年9月26日
黒後家蜘蛛の会5【新版】アイザック・アシモフ,池央耿p105 「「この世の中で、文句なく自己の存在を正当としうる人間がいるとすれば、それは、本の調達、供給を生業とする者です。本というものはですね、皆さん、その中に人類の知恵が詰まっておるのです。本は、古今東西の思想家の知識、優れた才能によって創り出された楽しみや喜びの集大成です。本には笑いがあります。美があります。知性のきや、情緒、思想、その他もろもろを含めて、そう、本は人生のすべてです。本がなければこの世は闇です。」」 p119 「「"そうだとも。どこよりも安全な場所にしまってある。きみはチェスタトンを読んだな?小石を隠すのに一番いい場所はどこかな?"」「わたしは思わずにやりとしました。ちょうどブラウン神父の連作が登場したての頃で、わたしはこれを愛読しておったのです。“浜辺です”わたしは答えました。"木の葉を隠すのに一番いい場所は森です。"」「"そのとおり"ラインウィーヴァー老は大きくうなずきました。"だから、わたしの本もこの書斎だ”」」 p186 「ロジャー・ホルステッドが一家言を呈した。「俗に偶然の一致というやつは、まずたいていがこうやって作り出されるものなんだね。ロビン・フッドと名がつけば誰しも弓に手を染めてみずにはいられない。中には相当な腕前を見せるのもいるだろう。それを、驚くなかれ、と言ったところで本質をそれた議論でしかないのだよ。それより、わたしはかねがね思っているのだがね、誰にでもある不思議な体験ということだけれども、よくよく考えてみれば不可解でも何でもありゃあしない、理屈から言って当然、起こるべくして起こることなんじゃあないだろうか。例えば……。」」 p187 「テラーは質問に動ずる気色もなかった。「人に物を考えさせることです。」「どういった手段によってですか?」「わたしは新聞に〈豊図らんや〉というコラムを書いておりましてね。ニューヨークの新聞にはどれも載っていませんが、全米百二紙の地方新聞に掲載されているコラムです。このコラムで、わたしはもっぱら少数意見を取り上げることにしているのです。必ずしも、少数意見だからといって熱心に肩入れするわけではありません。ただ、少数意見といえども一般大衆の前に開陳の機会が与えられて然るべきだとわたしは思います。だってそうでしょう。物事には常に二つの側面があるのです。それを、一方の側の主張だけ聞かされたら大衆は判断を誤るかもしれません。場合によってはそれが危険な結果を招かないとも限りません。大衆の多くは、別の考え方もあるのだということさえ知らずにいるかもしれないのです。」」 p278 「「恋は思案の外という。まさかと思われるような二人が、およそ考えられないような情況で恋に落ちる例はままあることだ。絵画でよく愛の神エロスが盲人の姿に描かれるのはそのためなのだね。」」 p341 「「んーん、そいつぁ気がつかなかったなあ。」ダイナストは呆然として言った。ヘンリーは控え目に声を落とした。「どのようなことにも、必ず筋のとおる理屈というのはあるものです。いつもながら、黒後家蜘蛛の皆さまが枝葉を落としてくださいましてね、わたくしは残ったところを指さしたまででございます。」」 - 2026年9月24日
黒後家蜘蛛の会4アイザック・アシモフ,池央耿p14 「「おいおい、それはないぞ、トム。べらぼうべろべろベルゼブブだ、それは。ぜっかくきょうは古き佳き時代の……。」」 p42 「They also serve who only stand and wait. 「佇ちて待つのみなる者またよく主に仕う」」 p77 「「蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘ると言うが、きみも自分の尺度でしか物を見られない男だね。」」 p98 「「単なる習慣であって、宇宙の法則のように絶対の決まりではないでしょう。」「習慣も、場合によっては絶対です。」」 p105 「「まあ、しかし、教育のある人間にとって、強いられて愚者を演ずるのは耐え難い苦痛ですよ。遅かれ早かれ、博識をひけらかさずにはいられなくなるものです。教養は隠しても溢れ出ますからな。」」 p122 「「でも、わたくしは常々こんなふうに考えておりますの。そもそも生きていくこと自体が人間にとっては一つの賭けで、まったく危険がない状況というのはしょせんかなわぬ夢か、あるいはお伽話の世界なのではないか..。ですから、危険を恐れていては何一つ楽しいことなんてなくなってしまいます。現にわたくし、これまでにずいぶんいろいろなところに参りましたけれど、危ない目には一度だって遭ったことはございません。」」 p197 「「いずれにしたところで、ヴィの意識の中でいかなる変化が起こったか、わたしらにはしょせん知り得ぬことですよ。事実をありのままに受け取って、幸運を感謝すればそれでいいじゃあありませんか。あなたは無事にライオンの牙を逃れたのです。それが何よりですよ。」」 p247 「その後また会う機会があって、やがてわたしたちは逢瀬を重ねる仲になりました。知り合えは知り合うほど、お互いに願ってもない相手だと思えてきました。政治、文学、美術……どんな話題になっても、二人の見方、考え方は基本なところで一致していました。ところが、細かい点になると意見が分かれて、それでますます話が弾むという具合なのです。クレアのいちばん良いところは、何かで対立した場合、自分の意見を理路整然と主張して、わたしの反対意見にはまた、それはそれで冷静、公平に耳を傾けることでした。わたしの意見でクレアが考えを改めることもあれば、彼女の論理でわたしが立場を変えることもありました。もっとも、正直なところ、たいていは互いに譲らず平行線のままでしたがね。例えば、わたしがどんなに言っても、クレアは頑として共和党を支持しませんでした。そうこうするうちに、わたしはクレアに首ったけになってしまいました。いえ、わたしは何も、肉体関係を夢に見て抜けのようになったわけではありません。もちろん、それもありましたよ。でも、それ以上に、わたしは何よりもクレアとは生涯にわたる関係を願っていました。お互いに支えになりながら、それぞれの目的と利益を追求することができる、そんな関係を考えていたのです。」 p315 「「そりゃあそうだ。知性は誇るに値するものだからね。とはいうものの、何か重大な目的のために、必要とあれば、ぼくは一時馬鹿になれますよ。長いこと作り阿呆でいることだってできます。奥さんだって、あなたの目をくらまそうと思ったら、その間だけ愛をかぶることに抵抗はなかったんじゃあないですかねえ。本当に馬鹿な人間でなモい限り、自信とか誇りとかはそんなに融通のきかないものじゃあないですよ。」」 p331 「「ヘンリーです、レヴァンさん。ヘンリーこそ、まさに天才画家ですよ。わたしらは最初の丸を描くだけです。それに、ヘンリーが手を入れて、はじめて一枚の絵ができあがるんです。」」 - 2026年9月6日
黒後家蜘蛛の会3アイザック・アシモフ,池央耿p29 「「わたしも思わず笑いました。その言い方がよかったのです。不平をこぼすでもなし、くどくど愚痴るわけでもなく、世の中を呪うような態度は少しも見せないのです。ありのままの事実を、およそ屈託なげにさらりと言ってのけたまでなのですが、それを聞いてわたしはすっかり嬉しくなりました。」」 p35 「「ところが、八歳の賢い子供となるとわけが違います。頭のいい子の前ではめったな手品はできません。必ず見破られますからね。」」 p43 「「ただ頭が単純なだけでございます。」ヘンリーは言った。「もっとも、馬鹿というわけではございませんけれども。」」 p48 「「人間一人の知識というのは、要するにそれまでの見聞だろう。限られたいくつかの生物学的本能を別とすれば、先天性なんていうものはありゃあしない。特に、知識教養ということになればなおさらだよ。経験を積んでいれば……いいか、ここが大事なんだ、マリオ。経験を積んでいれば、人は自分が今目の前にしているものに、即座に解釈を与えることができる。あるいは推論を下すこともできるし、その場の観察と過去の体験とから演繹ないしは帰納することによってある結論を引き出すんだ。ところが、これがまさに一瞬の作業でね。論理の段階をひとつずつ追うようなことはしない。というより、段階を追うという意識がないんだよ。それを勘という。勘のいい人間を傍から見て才能がある、というんだ。ああ、ヘンリー。」」 p68 「「アレグザンダーさん、理屈で割り切るのは簡単なことですがね、現実には、しょせん人間は複雑怪奇な矛盾だらけの生きものですよ。なるほど、その容疑者の性格はおっしゃるとおりちぐはぐなところがあるようですが、それは何も、その男に限ったことではないでしょう。人間誰しも、多かれ少なかれ、へえ、あの人がねえ、というようなところがあるものです。まあ、運が悪かったと諦めることですな。」」 p76 「「あなたは、あまりにも家庭人でいらっしゃいます。それが禍いしたのでございます。情というものを、あなたは人と人のこととしかお考えになっていらっしゃいません。かく申すわたくしも、家庭こそ持ってはおりませんが、情というものが、もっと広いものであることを承知いたしております。人間を蛇場の如く忌み嫌う世のすね者にも、情というものはございます。何かに強く心を動かされる、惹かれる、ということはあるものでございます。」」 p125 「「人間、力のおよばぬことで自分を責めるものじゃあありませんよ。」」 p131 「「特定の数字ひとつを判断の根拠とするのは大きな間違いというものだよ。」」 p149 「「とはいえ。」サッチャーはゴンザロの言葉などまるで意に介すふうもなく先を続けた。「わたしはこうして毎日自分が暮らしている世の中を眺めています。近頃では、およそどんなことでも人は信じますね。"現実に即していない"ことなどありはしないのです。どんな馬鹿げた話でも、これは真実である、と自信をもって大声で言えば、たちまち大勢の人間がそこへ集まってくるんですから。」」 p162 「「サッチャーさん、ここは現実を直視なさったほうがいいように思いますよ。わたし自身の経験から言いましても、仮にあなたがトライ-レシフェリアンの教義に瑕瑾を見出されたとしてもですね、おそらくそれは何の役にも立たないでしょう。感情的な理由から信に走る人というのは、自分のしていることの非論理性を指摘されたところで決して後戻りはしませんからね。」 p199 「「あなたにとっては些細なことかもしれない。しかし、それはあなたが相手の立場でものを見ていないからです。たとえほんのわずかな、取るに足りない点だとしても自分の作品に手を入れるということは、彼にとっては許しがたかったのです。それで、彼はあなたをとことんまで追いつめる気なんですよ。」」 p211 「「しかし、それだけではないよ、マリオ。ヘンリーはわたしらの目に入らないものをちゃんと見ている。それは、ヘンリーが澄んだ目で、はっきりと世の中をとらえているからだ。わたしらにはそれができない。彼のようにこだわりのない、直截的な物の見方をしないから、ヘンリーの目に映るものも、わたしらの目には見えないのだよ。仮に目に映っていたとしても、ヘンリーのようにそこから答を引き出すことができないのだね。」」 p215 「「人間に限らず、次の世代の教育というのはまず躾からはじまりますな。」「そう信じている人々は。」バリーは言った。「往々にして、教育の最終的な目的もまた躾だと信じ込んでいます。そして、学校と刑務所の目的を混同してしまうのです。」」 p277 「「短編を書くときはね。」彼は言った。「結末を決めておくことだよ。話の結末というのは、読者にとっては要するにそこで終わりさ。ところが、作者にとってはそこから話がはじまるんだ。書いている途中、最後にはどこへ行き着くか、それがわかっていなかったら結局そこへは行かれない……それどころか、話は支離滅裂になってしまうからね。」」 p279 「「そりゃあまあ、書きたければ書いてもいいがね。ぼくはそんなことはしない。どの道を行くか、それを細かく知る必要はないんだ。どこへ行くか、目地さえわかっていればいいんだよ。それさえはっきりしていれば、道はおのずとわかってくる。書いている間、作者は絶えずそのあらかじめわかっている結末からふり返って話を進めることになるからね。かえりみすれば、それがすなわち道しるべというわけだよ。」」 p305 「「もし.....ああ......彼女の気に入らなくても、彼女にふられても、ほくは平気だよ。作品のほうがよっぽど大事なんだ。」ヘンリーは穏やかな笑みを浮かべて言った。「よくぞおっしゃってくださいました。ものをお書きなさいます方は、何が最も大切か、その順序をおわきまえになることが肝腎でございます。」」 p343 「「わたしはね、偽善というのは罪に罪を重ねるものだと思うんだ。」」 p365 「「それは違うね、トム。それじゃあ鍵にならないよ。問題は、知るべくして、かつ知らないんじゃあない。知っていながら、しかも知らずにいる、というんだから、これは違うよ。」」 - 2026年9月4日
黒後家蜘蛛の会2アイザック・アシモフ,池央耿p13 「「お答えしましょう。わたしは、わたしがこの地球上に存在した結果、一部の人々は科学について、わたしがまったく存在しなかった場合よりも、いくらか豊富な知識を得ているはずだと思います。」」 p15 「「わたしについて言いますと、わたしはそういう分類には縛られないようにしています。その時その時、自分として一番関心のあることを書くのです。そうやっていると、世の中なかなか面白いものでしてね。だからわたしはよく作家にある、行き詰まった、という経験がありません。それに、はやりすたりもわたしには関係ないのです。ある傾向のものが売れなくなっても、わたしは一向に困りません。別のものを書けばいいのですから。」」 p16 「「書きたい時に書きます。ところが、わたしはいつだって書きたい気分なのです。」」 p37 「『そのテーブルで塩を嫌ったのは彼女一人だった。他の者たちは皆肉を嫌った。実際、何人かは肉から塩をこそぎ取り、作法通りにもったいぶって塩だけを食べた。』」 p69 「「ヘンリーは正直な男でしてね、それに、考えることにおよそけれんがありません。わたしらが妙にややこしく考えていたずらに四苦八苦した後で、彼はわたしらが見落とした一本のまっすぐな糸を引くのです。」」 p71 「「人は、何か習慣に沿わぬことが起こりました時に、はじめてそれと気づくものでございます。習慣どおりに物事が進んでおりますと、それはしばしば、まったく看過されるものでございます。」」 p82 「「人情をこき降ろすのは簡単です。珍しいものは、実際、虚栄心をもって見る者の目には非常に価値あるものに映ります。それが、かなり珍しいものであって、同時にそれなりの宣伝効果があるものならば、およそ美しいとは言えないものでも、大層な値打が出るのだろうと思います……。」」 p109 「「とんでもない。彼は反対のための反対をする男だから。」」 p110 「「ヘンリー、きみはまさに天下一品だな。」もちろんこれは<ブラック・ウィドワーズ>たちの一致した評価だった。」 p110 「「言葉というものは、何語であれ、必ず寄合所帯である、つまり、一つの言葉に別の意味が雑居しているということを、実際の例で示そうと思うんだ。」」 p116 「「皆、いい加減にルービンが正しいなんて言うのを止めにしてくれないかねえ。」「きみは皆に虚偽りを言えっていうのか?」 p123 「「いや、もっと視野を大きく拡げますと……世界は現在、時間と競争しています。」」 p137 「「先程、あなたご自身もお話になりました。誰にでもすぐわかるようなことでも、実際には、たまたまそこに目をつけたのは一人だけ、ということがあるものでございます。この場合、最初に手がかりをお摑みになりましたのは、ゴンザロさまでいらっしゃいます。」」 p170 「「わたくしは、ドラマチックな感覚に欠けております、デリュアシュキンさま。あなたはニューヨークを密林のようにお感じになりました。それで密林の声をお聞きになったのでございます。わたくしはと申しますと、学生はやはり学生の声で話す、と考える方でございます。」」 p182 「「人間の腹の底というのは、実にミステリですよ、皆さん。」」 p200 「「面接の場でのウィリアムズの行動は、文字どおり芝居でございましょう。」」 p236 「「感性界における例を一つお話ししましょう。われわれは、中庸の大きさ、中庸の速度、中庸の温度の範囲内でものを観察することから、ものの動態に関する常識を獲得します。アルバート・アインシュタインは、広大な宇宙と非常な速度を扱う論理体系を確立しましたが、そこに示された世界はおよそ常識に反するものでした。つまり、日常の体験とはまったくかけはなれているのです。」」 p237 「「理知はそれなりの効用があります。それに、何人も否定し得ない恩恵をもたらします。理知のおかげで、人間は以前より長く生きられるようになりました。しかし、周囲を見回してごらんなさい。理知は、はたして、われわれが清潔に生きることを可能にしたでしょうか?寿命が伸びたところで、人間としての品位を欠いたならば、果たしてそれは一点の曇りもない祝福と言えるでしょうか。」」 p243 「「大儲けを殺しというのは、理にかなったことだと思います。悪徳を表わす言葉は、それぞれに特有の暴力的な響きがあるものですね。」」 p265 「「ミステリの読書といたしましては、ルービンさま、あらかじめ証拠となるべき事実が示されておりまして、あとになって、そこに気づかなかった自分の知恵の不足を恥じるという方が、わたくしは好きでございます。」」 p269 「「あなたは、SF作家ですね。あの、マニーの友だちみたいな。……ええと、何と言ったかな……アシモフ。」」 p269 「「あいつめ、ブリタニカの誰かを買収して、新しい改訂十五版に自分の名前を入れさせたに違いないんだ。何しろ今じゃあ、どこへ行くにも、あの厖大な百科事典全巻を引きずって行くんだからね。」」 p281 「「愛情は。」セルヴェは言った。「一方通行ではしあわせを生みません。彼女の方が彼を愛していたとは、わたし、言っていません。」」 p293 「「人生は残酷でございます。」」 p328 「「ものを失くすっていうことはないんだ。忘れてしまうんだよ。ぼくなんか、いつもそうだ。誰だってそうだろ。何か手に持っていて、ちょっと別のことに気を取られて、それを置くね。二分もすると、どこに置いたか、さあ、わからない。まったく偶然にそれが見つかったとしても、そこに置いたことなんて、まるで記憶にないんだよね。ロジャーのカフ・リンクだって、失くなってやしないさ。どこかに置いたのを、思い出せないだけなんだ。」」 p337 「「伯母の口癖でした。わたしはよく憶えています。伯母は古風な口のきき方をする人でして……意識的にそうしていたんです。伯母は、言葉というのは地位や身分を表すものだと思っていましたから……。」」 p384 「「ご遠慮にはおよびません、メイスンさま。私からの贈りものでございます。大変楽しい一夜にしてくださいましたお礼、と申しては何でございますが。実はわたくしも、かねてからシャーロック・ホームズを心から崇拝いたしておるのでございます。」」 - 2026年9月3日
黒後家蜘蛛の会1アイザック・アシモフ,池央耿p29 「『わたしは生涯に数えきれないほど何度も人があんなふうに笑うのを聞いたよ。かく言うわたしも、何度ああして笑ったかわからない。あれは会心の笑いだ。咽喉から手の出るほど欲しがっていたものを、他人の負担において手に入れた時のしてやったりという会心の笑いだよ。この世の中に、ドアの向こう側で聞いても、あの笑いの意味を解せる者がいるとしたら、それはこのわたしを措いて他にない。わたしの耳に狂いはない。ジャクスンは何かわたしのところから盗っていったのだ。そして、快哉を叫んでいたのだ。』」 p36 「「ヘンリー。きみが実に行届いたサーヴィスに努めているこの方たちに、わたしからあらためてきみを紹介しよう。……皆さん、ヘンリー・ジャクスンをご紹介いたします。」」 p38 「「あの男の心の平和だけでございます。」ヘンリーは穏やかに言った。」 p46 「「ドクター・ドクター・ステイシー。」ドレイクは重々しく口を切った。「あなたは何をもって、あなたの存在を正当となさいますか?」」 p56 「「わたしの友人で、医科大学で教えている男のことを考えていたのだよ。そこの学生たちは、世の中で正当に学位と呼べるのは医学博士、M.D.だけだと言っている。彼らに言わせるとPh.D.とは贋博士(Phony Doctor)のことだというわけなんだよ。」」 p68 「「自分をさんざん笑いものにした人たちにでございますか?」」 p71 「「『イリアス』の冒頭の一章を片づけたよ。こういうんだ── "並びなきギリシャの総帥アガメムノン アキレスめとめ向かっ腹の強談判 丁々発止の口諍い アキレス怒髪天つく勢い 座を蹴って陣屋の内へ疾く退散"」」 p76 「「あなた、そう言うけどね、噓は身を守る手段としてなかなか有効だよ。周到であればね。ところが、たいていの場合噓ってやつは悲しいかなそこまではいかないんだ。」」 p82 「「きみはアガサ・クリスティの読みすぎだよ。」」 p83 「「きみは立派な<ブラック・ウィドワー>じゃないか。それどころかきみはこの会はじまって以来、唯一の皆勤賞だよ。」」 p85 「「けれども、普段の場合でしたら、あれが嫌いかと訊かれれば、わたくしは嫌いではないとお答え申し上げるだろうと存じます。厳密に申しますと、これは噓でございます。しかし、わたくしはあのようなおたわむれなど問題にはならないほかの理由で、トランブルさまが大好きでございます。ですから、厳密な意味で本当のことを申し上げますと、わたくしはトランブルさまが嫌いだという含みになりまして、実際には大きな偽りになってしまいます。それ故、トランブルさまが好きだという真実を伝えるために、わたくしは嘘を申します。」」 p86 「「いえ、そんなことはございません、ゴンザロさま。言葉を正確に聴く人は稀でございます。文字どおりの真実は、多くの場合、そこに噓を含んでおります。そのことは、常に周到に文字どおりの真実のみを話す人間が誰よりもよく知っているのではございませんでしょうか?」」 p90 「「いつまで経ってもCがない、すなわち、Long time no C(see)。」」 p91 「「こういうんだ── "アガメムノンの夢の一計功薄し 須臾にして麾下の将兵意気低し 罵詈讒謗はテルシテス 諫言するはオデュセウス さあお立合いギリシャの軍勢の船づくし"」」 p118 「「"行け、小さき書物よ、わが幽居より/われ汝を流れに打ち捨てん……疾く去れ"」ホルステッドが口の中で呟いた。「ロバート・サウジーだよ。」」 p121 「「おいおい。」ルービンが叫んだ。「ヘンリーをぼくたちから取り上げないでくれよ。」「ご心配なさいますな、ルービンさま。」ヘンリーは慌てる様子もなく言った。「わたくしはここのほうが楽しゅうごさまいます。」」 p125 「「さて、こういうんだ── "メネラーオスは非力の武将 パリスは逃げ腰目にもの見しょう ヘレンを賭けた一騎打ち そこへ女神のアフロディーテこの勝負預かりましょう"」」 p139 「「『行動が物を言う』んだよ。」アヴァロンが言った。「ああしていれば、こうしていれば、と言ってみたところではじまらない。」」 p154 「愚かなるかなりリュキア人 ゼウスの威を借り一矢報いる敵の陣 トロイの信義形もなし そもパンダロスの勇み足 神かけた誓いの和平破れて残念閔子騫」 p155 「「ヘンリーの言うことに間違いはないからね。」ドレイクが言った。「彼がからたまに言う以上、こいつは人畜無害だよ。」」 p156 「「恥をかくというのは、他愛もないことですな。」」 p158 「「言い換えると、人は自分を騙すってことですな。」エルドリッジが口を挟んだ。「そのとおり。」ルービンは言った。「人間は皆騙されたがっているわけですよ。」」 p158 「ルービンはすかさず言った。「ドクター・エルドリッジ。あなたは何ももって、あなたの存在の事実を正当となさいますか?」「わたしが真実と誤謬とを区別することに努めている事実によってです。」」 p159 「「誤りを知った時、わたしは可能であればそれを正そうと努めます。ところが、それは必ずしも容易なことではありません。」」 p180 「「いえ、どんな場合にも、それは常に一つの可能性でございます。いつもそのことを頭に置いて、用心しなくてはならないのでございます。ジェファースン大統領の言葉を思い出しましたのも、実はそこなんでございます。」」 p187 「「いい参考書だよ、コロンビアの百科事典は。一巻本の何でも事典としては世界一だね。ブリタニカよりよっぽど役に立つ。アイザック・アシモフなんかにページを割いているのは無駄というものではあるがね。」「誰だって?」ゴンザロが尋ねた。「アシモフさ。ぼくの友だちでね。SF作家なんだが、こいつが病的な自惚れ屋なんだ。パーティにこの百科事典を担いでいくんだよ。で、こんなふうに言うんだ。『コンクリートって言えばね、コロンビア百科事典のわたしの項の、ほんの二四九ページ後に実に行届いた説明が載っているよ。ほら、これだ。』で、やつは自分の項を見せるのさ。」ゴンザロは笑った。「まるできみそっくりじゃないか、マニー。」「そんなことをやつに言ってみろ、ぶっ殺されるぞ……ぼくが先に殺していなければだがね。」」 p208 「「ただ指さしただけで、言葉であれ何であれ、何を指さしているかの説明がないといたしますならば、その指が示しているのはただ方向だけでございまして、それ以外の何を明らかにしているわけでもございません。」」 p210 「「たまたま、皆さまそれぞれに違う道筋を辿られました。わたくしはただ、残った道を行ってみただけのことでございます。」」 p237 「「わたくし、そのようなむずかしいことではあるまいと存じます。これはわたくしの日頃からの持論でございますが、すべてが甲乙つけ難い時には、一番簡単な説明が、一番よろしゅうございます。」「オッカムの剃刀だね。」アヴァロンが言った。」 p238 「「<ブラック・ウィドワーズ>の皆さまがでございます。皆さまが謎を解明なさるのです。わたくしはただ、落穂拾いをいたすだけでございます。」」 p243 「「今は自由の時代でございます。」ヘンリーは言った。「人それぞれが好きなようにする時代でございます。わたくしは、これがいいのでして。」」 p258 「「いや、そうでもないんだ。何度かそんな音を聞いたっていうやつはちらほらいたよ。問題は、誰も何とも思っていないということさ。音には気づいていても、うるさいとは思わないんだ。ニューヨーク人はそこまで音に鈍感になっているんだよ。爆弾を叩きつけたって知らん顔じゃあないのかな。」」 p278 「「とにかく聞いてもらうよ── "勇気と技とを武器となし ディオメーデースは行くところ敵なし 神々すらも刃の錆 軍神アレースに気はすさび 胴一本息の根止めるも荒げなし"」」 p306 「「それはきみが最後の作品だと言ったから、ほっとして賞めたまでさ。ところがよく聞いてみれば何のことはない最新作じゃないか。」」 p327 「「言っておきますがね、アトウッドさん。ヘンリーはこうやって給仕をすることが域外だという顔をしていますが、どうして、彼の推理はまさに快刀乱麻ですよ。」」 p333 「「サンダーズ氏はビショップの駒にメッセージを隠すのは傑作だとお考えになったのでございます。」」 p369 「「どなたもお気づきでなかったとしても不思議はございません。わたくしのように、給仕のことを考えたりする人間はめったにいるものではごさまいません。」」 - 2026年9月2日
プレゼント伊坂幸太郎,宮部みゆき,恩田陸,梨木香歩,江國香織,町田そのこ,米澤穂信p23 「白河ヨフネはきょんとした。「まるで、すばしっこい金魚だな。」としばらくして言った。「金魚?」「すくいようがない。」」 p29 「「いくら気持ちがあっても、言動に出さないと伝わらないし、気持ちがなくても言動に出していれば、相手には気持ちがあるように思ってもらえるってことだよ。」」 p36 「「その穴から出る時の方が、その姿を見られる時のほうが、はるかに恥ずかしいじゃないか。攀じ登るように出てこなくちゃいけない。大きな穴があるんだから、周りには野次馬がいる可能性も高い。迂闊に頭を出したら注目の的だよ。」」 p63 「「放っておいてあげなよ。目玉焼きの黄身を壊すタイミングは、完全にプライヴェートな問題なんだから。」」 p75 「ばあちゃんの赤いテントのなかは、話の内容によってアフリカになったりイタリアになったり中国になったりした。森になったり城になったり地下牢になったり、洞窟になったり船室になったりもした。」 p147 「「人間もまた、自身の真実を運ぶ、真実のトランクだということでしょう。」」 p179 「ああ、しつけえな心臓。」 p195 「「ふたりともずーっと、初恋を言い出せなかったんだって。」」 p195 「『諦めて、でも諦めきれなくて。忘れようとして、でも思い出してどうしようもなくて。もう抱えて生きていくしかないなと腹をくくって、それでとうとう四十三歳になっちゃったよ。』」 p199 「「あの日の恋が叶ったんだなぁ。」」 p227 「渡部は、そうなれば警察にとって望外の、輝かしい成果だと思った。何十人、何百人の、手をつかねていれば死に至りかねない乳幼児に涼しい部屋と栄養価の高い食事を与えられるなら、自分も地域課も何十回でも、何百回でも出動すると思った。」 p229 「頬を伝わっていたしずくが、我が子にぽたりと落ちる。どうか生きて。」 - 2026年9月1日
星を編む凪良ゆうp48 「自分のためだけでは息切れするし、周りの人たちのためだけでも満足できない。両輪を回すことで人は強く、高く、翔べる。」 p86 「「でも、それでいいんです。きみには未来を選ぶ権利がある。それが親の望みや世間一般の幸せとちがっていても、きみの幸せはきみがきめるものです。でないと。」」 p96 「これもまた愛の形だというのなら、どう愛そうと完璧にはなれないのなら、もうみな開き直って好きに生きればいいのだ。」 p98 「これもまたぼくの不完全で独善的な愛情であり、自己満足であり、けれど、ぼくはもう思い煩わない。」 p170 「荷物の重さを知っているのは、それをずっと抱え続けてきたからだ。」 p182 「わたしたちは、わたしたち自身の理想に頬をひっぱたかれ続けている。」 p193 「『美しく理想通りに整った愛などない。歪こそが愛の本質なのである。』」 p196 「「追いかけるのをやめたら、それが本当の夢の終わりだよ。」えっと隣を見ると、植木さんは夜空を見上げていた。「だから、俺は、これからも追い続ける。」」 p227 「なかなか暮れない夏の夕方、黄昏の薔薇色とやがて訪れる夜の藍色が混ざり合っていく中、西の空に一粒だけ小さく輝く星がある。夕星、一番星、宵の明星、金星。」 p231 「今日も、明日も、それぞれの胸に星のように輝く物語を編むために、ぼくたちは地上を歩む。喜び、怒り、哀しみ、愉しみながら日々を紡ぐぼくたちを、黄昏の空に浮かぶ夕星が静かに見下ろしている。」 p237 「物語は『今の自分』を映す鏡のようであり、言葉という細い細い糸を手繰って、今も櫂と手をつないでいるように感じさせてくれる。」 p241 「愛はどこまでもパーソナルなもので、逆に『瑕疵』や『不完全』こそが、最後まで心に刺さって抜けない甘い棘になるのかもしれない。」 p245 「「いかに自分らしく生きたか、最後に残るのはそれだけよ。」」 p271 「「え、結婚は勢いでするものでしょう?」」 p285 「「主語が大きくなると、途端に信用度が低くなるって知ってる?」」 p287 「ずっと覚えていることと、忘れられないことは、どうちがうのだろう。」 p288 「的外れ、プラス勝手な決めつけ。それもしかたない。自分の価値観の中で整合性の取れる物語を作る、それが一番簡単で気持ちのいい他者への理解の方法だからだ。」 p344 「精神的にも経済的にもひとりで立てるからこそ、大事な人が転びそうなときに支えることができるのだ。」 p348 「自分は自分、他人は他人、とそれぞれが別の個であることを理解できさえすれば、自身と関係ない他者への攻撃が無用かつ無駄であるとわかるだろう。」 p361 「わたしにとって櫂は煌めく火花だった。」 - 2026年8月31日
自由をつくる自在に生きる森博嗣p22 「したがって、健康がすなわち自由ではない。健康であることが人生の喜びだというのは、僕は錯覚だと思う。」 p55 「そして、「人の目を気にしない」というのは、自分一人だけの判断をしているのではなく、逆に、もう「もっと確かな目(あるときは、もっと大勢の目)による評価を想定している、という意味だ。それは、「今の目」だけではなく、「未来の目」にも範囲が及ぶ。それが「客観」であり、「信念」になる。」 p63 「目指すものは、自分で決めなければ意味がない。本当の自由がそこから始まる。」 p89 「自由の価値というのは、過去の自分よりも、今の自分が、そしてさらに将来の自分が「より自由」になっていく変化を感じることにある。常に自由に向かって進む、その姿勢こそが、自由の本質だといっても良い。目指すものが自由であるなら、目指す姿勢もまた自由である。そういう不思議な連鎖が自由の特性だといえる。」 p91 「大切なことは、まず気づくこと。支配されていることを自覚すること。そこから、自由な発想が生まれる。自由に発送すれば、自然に自在な行動ができるだろう。」 p106 「ものごとを抽象的に捉える目、つまり「抽象力」を持っている人は、他者の成功例、そのノウハウといった情報から、たちまち抽象して本質を見出す。そうすれば、まったく違う分野のものであっても、自分の現在の問題に役立てることができる。応用力といっても良いだろう。」 p115 「でも、たまたまデパートに一つだけ青いランドセルがあったのだ。青というよりも水色だった。僕は迷わずそれにすると親に言った。母は「本当にこれで良いの?」と確かめたけれど、それを買ってくれた。今思うと、そのときの母は立派だったと思う。些細なことだが、こういったことは積み重なるだろう。ちなみに、僕の息子も青いランドセルが欲しいと言ったので、それを買ってやった。僕がすすめたわけではない。歴史は繰り返すのである。」 p116 「道具を手にして、それが思いどおりに扱えるようになれば、自分が望むものを作ることができる。それこそが本当の自由なのだ。」 p120 「自分が選べる範囲は、すべて満遍なく注目しよう。自由の可能性を自分から制限することはない。チャンスは、それに気づいた者にだけ微笑むのである。」 p123 「それは、「個性的に生きること」が、「自由に生きること」に限りなく似ているからである。」 p125 「素直とは、自分の声を聞くことだ。」 p126 「非合理な常識よりも、非常識な合理を採る。それが自由への道である。」 p132 「自分自身の思い込みは、知らないうちに自分を縛りつける強力な支配力を持つ。」 p136 「しかし、考えること、行動することは、すなわち生きていることにほかならないわけで、考えることが面倒だ、行動することが面倒だ、などといっていたら、生きていくことが面倒だ、というところへ行き着いてしまう。現にそのとおり、そういう人はどんどん老け込んでいくだろう。死んでいる状態に早く近づこうとしているのだから。」 p140 「必ず、良い結果というものを夢見るのが人間なのだ。そして、その人が見た夢よりも素晴らしい現実は絶対に訪れないのである。すべては本人の想定内、といってまちがいない。これはつまり、実現したかったら、少なくとも、そうなることを夢見る、成功する状態を予測することが必要である。自由になりたかったら、自由を夢見ることから始めなくてはけない。」 p151 「自分は、自分の好きなものを手に入れるだけだ。」 p154 「僕は、座右の銘をきかれたときには、「なにものにも拘らない」と答えることにしている。」 p155 「素直に目の前の作品に接し、自分の感性で評価する。」 p156 「真っ白な心で感じる素直な感性は、努力をしなければ維持できない。このように、自由とは、放っておいても成り立つものではなく、常に磨かなければならないものだ。禅僧が坐禅をして求めるものも、これと同じ「無心」という自由である。」 p160 「文字は一列に並んでいる。でも、思考は一つではない。」 p171 「基本的に、自由を感じる人とは、自由を感じたい人であり、自由を感じない人は、自由を恐れている人だ。」 p174 「僕は、よく「本当に願っていれば、どんな夢でも叶う」と口にする。そんな綺麗事を、と眉を顰める人は多いと思うけれど、この言葉の真意は、少なくとも「願わない夢は叶わない」ということだ。たいていの場合、夢の実現が困難になって、いわゆる「挫折」を味わうのは、「もう駄目だ」と本人が諦めた瞬間である。本人が諦めなければ、限りなく不可能に近い夢であっても、挫折は訪れない。細いながらも道はまだつながっている状態といえる。」 p179 「「下限を上限にする」」 p182 「すべての道は、貴方の足許から始まる。すべての風は、貴方に向かって吹いている。どちらを向いて、いつ踏み出すのかは、貴方が決めることだ。」 - 2026年8月31日
p58 「その言葉の嫌らしさは、僕が抱いている気持ちには微塵も存在しないものなのに、そのままは伝わらないだろう。それでも、その言葉しかないというのが、つまり、言葉が生まれながらにして汚れていることの証拠だ。」 p87 「常々思うことだけれど、幸せというのは、つまりは、転んだあと立ち上がって、ああ、怪我がなくて良かった、とほっとするときに感じるものなのだ。」 p96 「こういうのは若いときからのことで、僕は、彼女が求める承諾を断ったことは一度もないはずだ。もっとも、だから別れることになった、ともいえる。あの最後の承諾だけは、断るべきだったかもしれないし、もしかしたら、彼女も断ってほしいと思って言ったのかもしれない。これは、僕の勝手な憶測にすぎないか。」 p122 「「サリィは、素晴らしいパートナだ。私は、彼女を愛している。三十年も一緒に暮らしているんだ。こんなに長続きするオペレーション・システムはない。」「細かいバージョンアップがあったのですね?」「それは、そのとおり、お互いにそうだね。いつも、修正して、パッチを当てる。そういうものだろう?でも、最も大事なことは、最初の基本設計だ。なんだって、そうだ。人間もそう。修正ができるということが、重要な性能なんだ。わかるかい?」「うーん、頑固者では駄目だ、ということですか?」「そう、それもある。すべての情報を素直に受け入れる。自分の間違いにできるだけ早く気づくセンサを持っていること。人から指摘されるまえに気づいた方が良いからね。「どうしてですか?」「自分で気づけば、バージョンアップできる。人が指摘すれば、それはエラーになる。」」 p189 「浄化しているようで、実は沈澱して、濃度を増している。すべて、時間のせいだ。」 p204 「語りたいことは、語りたい口から出る。銃から出る弾丸みたいに、つまり、押し出されてくるものであって、引き出すことはできない。」 p226 「「君は彼女を愛したいのか、それとも、君は彼女から愛されたいのか、どっち?」」 p249 「取り返せない愛というのは、とてつもない重さがある。それは、人生の間、ずっと背負い続けることになるかもしれない。」 p256 「僕も、悲しいとは思う。だが、悲しいという気持ちさえ、彼らには無視できるほど小事なのだ。」 p264 「「誰でも、そういう苦しみに長く浸かると、余裕がなくなるわ。良心とか友情といったものは、余裕のある心が交わす約束なんです。自分が苦しくなれば、それどころじゃない。そうやって、人は地獄へ落ちていくの。」」 p292 「でも、一度でも、そうではない経験をすれば、現実というものの残酷さに気づくことになる。ほとんどのものは、たしかに自分には関係がない。ただし、ほんのときどき、無関係だと思えたものが、隕石みたいに自分の頭の上に落ちてくる。現実という魔物が襲いかかるのだ。そのときには、もう逃げることはできない。運良く死ななくても、周囲で多くのものが失われる。簡単に消えていくのだ。」 p306 「「うん、まあ、それもあるけれど、僕は、あまり人を慰めない人間なんだ。僕は、結局、僕自身を慰めているだけだよ。」」 p314 「僕は、人殺しというのは、すべて切実なものだと考えている。戦争だってそうだ。テロだって例外ではない。どうしても避けられないものだから、この最後の道を選ぶしかない。これ以外に生きて通れる道がない、という意味だ。」 p371 「そうだ、いつも開けてあるんだ。いつだって、僕は待っている。今も。これからもずっと。君を待っているんだ。たとえ、砂の唇でも。もう一度。温かさは、僕の躰全体に広がっていった。暗闇の中でも、唇を探すしかない。砂の唇を。きっと、重ねるうちに、生きた唇になると願って。」 - 2026年8月30日
ゾラ・一撃・さようなら森博嗣p21 「「探していただきたいものは、古い美術品です。天使の演習と呼ばれているものです。」」 p29 「そう、なんでも同じ。最後は引き金をひいて、ばん、で終わり。あっけないものだ。余韻に浸るしかない。だから、せいぜい、そのまえの楽しみを引き延ばさないとね。」 p58 「弱くなっているんじゃないよ。弱い部分を見せるようになるだけだ。僕はそう思ったけれど、口にしなかった。まだ、もう少しは強がっていたい、という子供じみた若さを自分の中に探していたから。」 p64 「髪が長くて、女性かと思ったが、近づいてみると男性だとわかった。色のついたメガネをかけている。」 p71 「「男には、見えないところに女がいる。女には、見えないところに男がいる。」法輪は言った。「隠れているのが男、という方が恐いだろう?」」 p95 「誰かと会っているとき、別の誰かのことを思い浮かべるのは、たぶん、頭の中にいる天使が悪戯をしているせいだと思う。悪魔なら一途だし、こんな知恵はないはずだ。」 p106 「「次は、いつ、どこで?」僕は言葉を思いついた。そう、それをまだ決めていなかった。「いつでも、どこでも。」彼女は囁くように言った。「それじゃあ、明日にでも?」「ええ。」綺麗な口の形で、彼女は頷いた。」 p114 「どうも、人間という生きものは、満足を求めすぎるのではないか。癒される時間、リラックスできる時間を求めすぎる。優しさや静けさを求めすぎる。しかし、本当にそれらがそんなに大事なのだろうか。もっと不安定な、もっとどきどきするような時間の方が実は大切なのではないか。そんなことを、考えたりする。そして、そんなことを考えている自分が、非常に微笑ましいのだ。くすっと吹き出してしまうほど。」 p115 「真実なんて、大した価値はないのだ。自分の手が何に触れているか、自分の足がどこを歩いているか、そして、自分の頭がそれをどう感じているか、それが現実のすべてだ。」 p121 「「一途というわけですね。」「一本道ではなかったが、目的地は忘れていない。」」 p125 「「知らないかな?蓑沢素生だよ。」」 p149 「そう、このとき、今が楽しければ、なんの不都合がある?」 p152 「「そう。僕は、車を運転するのが好きだけれど、どうし好きなのかなって、理由を考えてしまう。それで、エンジン音が好きなんだ、この空冷の音じゃなければ駄目なんだって、どんどん拘っていくんだよ。本当は、ただ、ぼんやりと楽しいだけなのにね。そうやって、理由を探してしまうから、自分を限定して、突きつめていく。追いつめていく。」」 p165 「ところが、甲冑の胸に、十字架が飾られているのに気づいた。アクセサリィにしては、やや大きい。近づいて、よく観察してみると、十字架ではなく、短剣のようでもある。ナイフが鞘に収められているのではないか。しかし、大小の宝石が幾つも塡め込まれ、細かい細工が施されている。銀色に見えたが、材質が何かはわからない。」 p176 「「いえ、していません。詩を書くことができたのは、僕が口で話して、それを書き取ってくれる人がいたからです。今は誰もいませんので、つまり思いついても、覚えているだけ。覚えているだけだと、次の日には風化してしまいます。残るものはありません。」」 p189 「「十を書こうとすれば、どうしたって、百を知ることになります。百を知らなければ、十が書けません。」「度胸も良い。どうだね、俺のところで働かないか?」「今、この状況がまさに、法輪清治郎と仕事をしているのでは?」」 p191 「思い出は、どれも無色だ。あとから色を塗って、綺麗にするか、それとも汚くするか、そのいずれかだろう。」 p199 「彼の声を聞いて、自分が本当に恋をしてしまったことがわかった。何だろう、ずっとずっと、それは蓋をしていたもの。綺麗に紙に包んで、リボンをかけて、飾ってあったもの。それとも、引出の中に大切に仕舞ったもの。ときどき、目にとめるけれど、中を見てはいけないもの。そう思っていたのだ。」 p200 「けれど……、忘れてはいけないことが……。いくら彼を好きになってしまっても、そのさきの時間が、私にはない。すべての時間は、私が引き金を引いたときに、終わるはず。」 p201 「愛する人を、私は殺せるだろうか。できる。それは……、愛するからこそ、できる。これが、愛するという形だから。私の形だから。」 p208 「「とんでもない。」法輪は首をふった。「そんなことをしたら、こちらのプライドが許されないよ。あれは、俺が彼女からもらったもの。つまり、ものではない、精神的なものだよ、良い思いをさせてもらった、幸せだった、それに対する、代償だ。彼女には受け取る権利がある。」」 p210 「夢のような生活をするには、まず夢を見なければならないことを知った。」 p222 「「殺したいくらいの憎しみでも、いつかは消える。自分よりも大切だと思った愛だって、いつかは忘れてしまえる。ようするに、鈍感なんだよ。」「鈍感だな、みんな。」」 p227 「「違う。頸城君だよ。貴方がいるから来たんじゃない。」」 p236 「「よく来てくれたね。」彼は低い声で言った。「お招き、光栄に存じます。」貴子が応える。美しい声が響いた。二人の息遣いが聞こえる。「本当に、久しぶりだ。君は変わっていない。」「貴方様もお変わりなくて。」」 p241 「「可愛いな。」洋輝が溜息をついた。「泣き顔なんか見ちゃったら、もうお終いだ。」「ああ。」僕は頷いた。「なんだ?素直だな。」「ああ。」僕はまた頷く。」 p256 「from Zola with a blow and goodbye」 - 2026年8月30日
- 2026年8月22日
p12 「つまり、考えて考えて考え抜いたことに対して、神様が褒めてくれる、そのプレゼントが「閃き」というものなのだと信じた。」 p12 「それから、僕がその体験から学んだ最も大事なことは、自分がしたいことをする、したくないこともしなければならないけれど、それは、したいことをするために必要な準備、あるいは練習だと考えた。」 p77 「僕にとっては、本だけが本当の「大人」だった。」 p77 「世の中は捨てたものではない、とやっと信じることができた。二十代の前半でこのことを知ったのは、本当に「救い」だった。知らないまま社会に出ていたら、僕はずっと人間の価値がわからないまま生きていくことになっただろう。心のどこかでは必ず人を疑っている人間になってしまっただろう。大袈裟ではなく、この歳になってやっと信じられるものを見つけた気がしたのだ。」 p80 「「元を辿るとね、そもそもね、他人に認めてもらうことが、信じられないくらい面倒な行為だよね。これよりも面倒なことって、そうそうないというくらい面倒だ。くわばらくわばら。」」 p81 「つまり、遠くが見えるようになって初めて、遠くがあることを知る。そして、もっと遠くがあることが予想できるのだ。」 p83 「「自己満足できたら、それはもの凄く良い状態だね。自分が満足できるなんて、そんな素敵なことはない。それは価値が大ありだ。」」 p103 「固有名詞は、それ以上意味がないものであり、そのまま鵜呑みにすれば良い言葉だ。」 p108 「道は自分で見つけ、自分で作らなければならないからだ。」 p111 「また登ることができる。まだ登ることができるのだ。」 p117 「人が人をどう捉えようと、それは自由だし、何が正しくて、何が間違っている、という問題ではないから、議論をしても嚙み合わない。こういうときに自分の意見を誇示しないのも、僕が冷めた人間だと思われる要因だろうか。自分という人間を他者に正しく理解してもらいたい、という欲求が僕にはやや乏しい、というふうにも分析できる。」 p134 「難しい、言葉というのは。言わなければ気持ちは伝わらないが、言えば言おうとした姿勢を誤解される。だから、たとえば、誰にもわからなくていい、という謙虚さなどは、けっして精確に伝わらない。伝えることで矛盾が生じるからだ。」 p140 「「私ね、ずっと貴方のことを見てきたの、ずっと、この四年間だよ。」」 p145 「「それができたら、今の今まで、こんなふうにはならなかったわけだよ。もう、悩み続けた四年間でしたよ、本当に……。恨みがましいことは言いたくないけれど、君がもしいなかったら、私の大学人生、もっとハッピィだったかも。」」 p148 「「君のことが好きだった。あ、違う、ごめんなさい、過去形になっちゃった。もう一度……、君のことがずっと好きで、今でも好きだよ。ほら、言えた。言えたでしょう?言わなくても、もしかして、わかってた?」」 p168 「良い経験になった、という言葉で、人はなんでも肯定してしまうけれど、人間って、経験するために生きているのだろうか。今、僕がやっていることは、ただ経験すれば良いだけのものなんだろうか。」 p171 「「だから、普段から、いつも自分の心のまま、考えたまま、正直に言葉にするようにした方がいい。そういう習慣を身につけた方がいい。それが誠実な研究者というものだ。親しい人に対しても、駄目なときは駄目という。いけ好かない奴でも、そいつの言っていることが正しければ、拍手を惜しまない。信用できる研究者っていうのは、そういうものだ。感情なんてちっぽけなものに流されてはいけない。」」 p234 「この王道が意味するところは、歩くのが易しい近道ではなく、勇者が歩くべき清く正しい本道のことだ。学問には王道しかない。それは、考えれば考えるほど、人間の美しい生き方を言い表していると思う。美しいというのは、そういう姿勢を示す言葉だ。考えるだけで涙が出るほど、身震いするほど、ただただ美しい。悲しいのでもなく、楽しいのでもなく、純粋に美しいのだと感じる。そんな道が王道なのだ。」 p280 「まさにスペシャル・タイム、これと同等に劇的な出会いというのは、軌道上の人工衛星のランデヴーくらいではないか。確率的には、それよりも小さい気がする。」 p288 「だから、飾った言葉、噓の混じった言葉を口にするくらいなら、黙っていた方がましだ。」 p308 「なんという平和だろう、と気がついた。いつまでも、こんなに静かな生活が続けば良いな、これが幸せというやつでは、と思った。」 p311 「「どうしてかなぁ。なんとなくだけれどね。うん。つまり、理由を言葉で聞いても、結局はその意味するところは、抽象化できない。抽象化できないものは、つまり理解できないものなんだ。言葉を聞いても、理解したことにはならないんだ。」」 p312 「「良かったぁ。」「何が?」「ありがとう。おやすみなさい。」」 p313 「つまり、君は、僕の人生と自分の人生が関係あると考えているんだ。そうだね、僕もそう考えているみたいだ。そんな気がしてきた。」 p314 「夜通し、考えても良いし、星を眺めても良いし、何だって自由にできるんだよ。彼女を、少しでも自由にさせてあげたい、と僕は思った。頭の普段使わない部分を使ったみたいだ。ちょっと、疲れたかも。そうか、こういう感じなのかな……。普通の生活って。おやすみ……。」 p318 「とても不思議なことに、高く登るほど、他の峰が見えるようになるのだ。これは、高い位置に立った人にしかわからないことだろう。ああ、あの人は、あの山を登っているのか、その向こうにも山があるのだな、というように、広く見通しが効くようになる。この見通しこそが、人間にとって重要なことではないだろうか。他人を認め、お互いに尊重し合う、そういった気持ちがきっと芽生える。」 p320 「というよりも、そもそもその山は、自分が作っているんじゃないかな、とも思うのだ。」 p336 「「何?プロポーズ?ああ、そうだな、まあ、提案したわけだから……。うん、間違いではないか。」」 p337 「「誠意も信念も、ときどきは外部に示さないといかん。」」 p340 「こんな男が世の中にいるのか、ということに感動した、といっても良い。」 p341 「そうにちがいない。それでこそ、喜嶋先生だ。僕は、とてもすっきりした。喜嶋先生に対して、唯一引っかかっていたものが、綺麗に取り除かれた気分だった。この人は本当に尊敬に値する人物だ、ほかにいない、ナンバ・ワンだ、と僕は確信した。」 p346 「喜嶋先生ほど、クリーンでサイレントに生きている人を、僕は知らない。探せば沢山いるはずだけれど、きっと、透明で無音ゆえに、見つからないのだろう。先生だけは、たまたま僕がすぐ近くにいたから、存在を知ることができたのだ。」 p348 「こうして、清水スピカが僕の奥さんになった。」 p348 「結婚式のときには、もちろん喜嶋先生を招待した。」 p353 「「あ、では、その代わりに、歌をうたいましょう。」喜嶋先生はおっしゃった。「マイウェイをお願いします。」」 p369 「あのとき……、先生は嘘を言わなかった。先生の自信は本物だったのだ。」 p374 「もしそうなら、僕は、その人が羨ましい。その人は幸せだ。気づいているだろうか。教えてあげたい。そんな幸せなことはないのだよ、と。もう……、もう二度と……、もう二度とあんな楽しい時間は訪れないだろう。もう二度と、あんな素晴らしい発想は生まれないだろう。僕からは、生まれないだろう。僕からは……。僕は……。今の僕は、王道から外れている。エキセントリックだ。」 p376 「でも……、僕は信じているのだ。喜嶋先生だけは、今でも相変わらず、学問の王道を歩かれているに違いない。きっと、先生だけは……。」 - 2026年8月20日
p47 「黒い猫だった。」 p63 「言葉なんて、なんの価値もないのに、縋りたいときはある。」 p64 「言葉は馬鹿馬鹿しい。どれも、嘘だ。」 p150 「死のうと思えば、いつでも死ねるだろう。それだけの決断力と運動能力がある人間ならば。」 p158 「あの目は、人を見ていない目だった。地上のものに関心がない目だ。ここでは、なにも探していない。同情も愛情も、欲望も渇望も、地上ではなにも期待していない。」 p202 「ずっと空を見上げていたカンナミは、視線を彼女の方へ向けた。綺麗な瞳だった。簡単には手に入らないような綺麗さだった。その視線が欲しかったから、彼女は質問をしたのだ。」 p212 「「貴女に撃たれるなんて、幸せだ。」」 p243 「初めから、自分なんてものが幻想なのだ。すべては常に変化している。それが自然だ。昨日の自分と、今日の自分は、違う生き物であることが自然だ。以前と違うことの方が当たり前であって、変化し続けること、蓄積しないこと、築かないことが、摂理なのだ。植物は冬に枯れて、春になれば新しい芽を出す。同じことを繰り返すけれど、まったく同じではない。いつもいつも新しくなっている。」 p245 「補完と終結。集合と離散。なにもかもが、泡だった。」 p250 「撃とうと思うまえに、撃て!」 p266 「「そう……、夢のようだね、なにもかも。」」 - 2026年8月15日
「どこまでもはてしなく、 リズムとともに続くブルー。 見ろ、これが僕たちの場所。 どこまでも細く、 蛇のようにうねるスモーク。 そう、あれが僕たちの墓。 太陽に彩られたエッジ、 切り込んでいくウィング。 落ち着かない空気がシルバを踊る。 光り、震え、揺れ、鳴り、叫ぶ。 すべてが纏いつき、 すべてが剥がれていき。 美しさもに醜さも、 眩しさに色を失い、 区別できない、なにものも。 それでも、 目を閉じるな。 真っ白な光の中に、 お前が撃ち込むものがいる。 必ずいる。 いつでもいる。 どこかにいる。 目を閉じるな。 眠ってはいけない。 今までに見たことがない美しい 翼がきっと一瞬だけ現れる。 これまでに思ったこともない美しい ループを描くだろう。 その一番美しいものこそ、 お前の敵だ。」 p14 「言葉だって砂だ。染み込んで、たちまち消えてしまう。無数に積もり積もって、平坦になって。そう、どんな言葉だって、煙より早く消えてなくなってしまう。なにもなかったみたいに知らん顔の砂丘になる。ただ、それでも、言葉はまだ少しだけ優しい。躰に触れられたときの冷たさに比べれば、ずっと優しい。言葉を聞いているうちは、それが耳に残っているうちは、機銃だって黙っていられるだろう。」 p17 「僕が誰なのかなんて、そんなことどうだって良いじゃないか。そう、どのみち、僕は僕なのだ。僕が誰かなんて、それは、僕以外に誰が存在するのか、ということと同じくらい馬鹿馬鹿しい。周囲に誰もいなければ、僕は誰であるかなんて、無意味だ。」 p20 「これが愛することの理由だと、そのとき僕は思った。綺麗だから、愛するのか。それとも……、愛するから、綺麗なのかな。」 p20 「それはわからない。でもとにかく、そこへ向かって突き進みたくなるんだ。いつかそれが消えてしまうこともわかっていて、それだからこそ、そのまえに、なくなってしまうまえに、それに少しでも触れたい、と思う。そっと手を伸ばし、僕の手に、それを掴んでみたい、と思う。それが愛するという意味じゃないかな。ぼんやりと、そんなふうに想像しただけ。」 p61 「理由か。どうして、そんなものに拘るのだろう。」 p64 「言葉だけで、ずっと一緒にいるつもりだ、と言うことは容易いし、そんな嘘の言葉でもいいから、彼女は欲しがっているのかもしれない、ということは想像できた。だけど、残念だけれど、僕は無駄なこと、意味のないこと、確信が持てないことには、手を出さないことにしているんだ。それは、空で学んだこと。命を懸けて相手と戦うときに、これだけはしてはいけない、という自分との約束だった。無駄なことをしないのが、尊敬する相手に対する礼儀だ。その約束を破ったら、墜ちていくときに、自分を祝福できないだろう。」 p71 「たしかに、話をしているうちに、とても幸せな光景に思えてきた。幸せすぎて、悲しくなるくらいだ。」 p94 「「これで、願いが叶うわ。」」 p99 「「あんたって、正直だよね。」彼女は微笑んだ。「好きだなぁ、そういうところ。」「フーコ。」僕はもう一度彼女の名を呼んだ。「何?」「ありがとう。」」 p101 「「それを考えて、ちゃんと考えて、生きていけば、そのうちきっと、できるようになるよ。」」 p104 「「涙が出そう……、駄目だよね、泣くのは明日の朝なんだから。そう、それまでは、楽しいことをしなくちゃ。」」 p113 「「もう充分に生きたな。」草薙水素が言った。」 p114 「「ありがとう。」僕は言った。「さようなら。」草薙が言う。」 p115 「何が幸せって、彼女に撃たれたことだ。願ってもないこと。夢にまでみたこと。そして……、そこで、もう一度だけ、僕は目を開けた。もしかして、これは夢か?」 p118 「人生だって、距離ではなく、時間だ。」 p119 「そうだ、彼女がまた現れそうな予感がした。僕を撃ちにくる。いつか来るだろう。彼女に撃たれるまでは、生きていなくては……。」 p125 「でも、いずれにしても、写真をそうして飾り続ける仲だった、ということが重要なのであって、関係の名称に意味があるわけじゃない。」 p129 「「変化することが、つまり、生きることなんですね。」」 p136 「たった今こうして、彼女と抱き合っていることと、まったく同じなのだ。温かさを確かめるために、操縦桿で優しく相手を抱き、接吻けるよつに機銃を向ける。」 p149 「「明日があれば。」「明日はあるわ。」」 p152 「「私たちが、科学という空で戦うのはね。」彼女は振り返って微笑んだ。「人間が乗った飛行機じゃないの。」「誰が乗っているんですか?」「いえ、飛行機でもないわ。私たちが撃ち落とす相手は、天使よ。」「天使?」「そう、悪魔かもしれないけれど。でも、どちらも同じものね。」」 p155 「「私の名前は?」「サガラ。」「ありがとう。」彼女は微笑んだ。「下の名前は、覚えている?」「アオイ。」「嬉しいわ。私は、あなたにとって、少しは特別だったのかしら?」「そうかもしれません。」」 p174 「「人間の一部がキルドレです。また、人間の一部が綺麗な心を持っているでしょう。あるいは、人間の大半が綺麗な心を持っているかもしれません。でも、それが外からは見えないようになっているだけなのでは?」」 p194 「彼女の顔が近づく。彼女の指が僕の額の髪を払い、彼女の唇が僕の額に触れる。それから、僕の目の近くにも、彼女は接吻した。「可愛い人。」」 p197 「「スポーツと戦争は、どこが違いますか?」」 p205 「「カンナミ。」」 p216 「草薙水素だった。」 p217 「「カンナミね?」」 p217 「「銃?」「持っているなら、今、私を撃って逃げろ。」「どうして?」「それで、君は本当に自由になれる。」」 p219 「しかし、そもそも現実なんて、こんなものかもしれないな。きっと。そんな、感じだ。今までの人生がすべて幻だったとしても、僕は全然驚かない。それくらい希薄なのだ。」 p229 「「もっと待ってほしい。もっと普通の時間を長く過ごして、記憶をしっかりと築く。自分を築くのよ。時間をかけてね。それまでは我慢してほしい。人間というのは、こういうものだって、きっとわかるわ。あなたが、あなたたちが思い描いているほど、綺麗ではないかもしれないけれど、それが人間なの。あなたも人間なのよ。それを忘れないで。大丈夫、きっと人間として生きていけます。」」 p240 「「OK。イグニッション・オン。」」 p250 「素晴らしい。人の人生なんて、そんなものだ。すべてが一瞬の幻想。」 p252 「「凄かったね、さすが!」彼女は僕に顔を近づけて、頬にキスをする。」 p259 「彼女は、無駄な戦いをやめさせるために戦っている。それは、無駄な戦いではないのか。無駄な戦いと、無駄でない戦いがあるのか。無駄だと思う側と、無駄でないと思う側は、敵と味方?しかし、戦っているのは、無駄ではないと思っているどうし。わからない。ただ、僕には、戦いが無駄かどうかなど、関係がない。無駄でも、無駄でなくても、戦いの価値は変わらない。」 p261 「「散香。」」 p262 「「ササクラ。」」 p263 「「クサナギ。」」 p267 「何故、自分でない者にまで、自分の愛を押しつける?それが愛だと信じさせるためにか?本当の愛ならば、信じさせる必要などない。違うか?ああ、人間たちはみんな馬鹿だ。この飛行機の、この美しさを見ろ。この翼を見ろ。これに比べたら、すべてが醜い。愛なんて、錆のようなものだ。それが、綺麗な営みだと、錆が思い込んでいるだけ。美しさを知らない。なにも見ていない。美しさとは、この冷たさのことだ。」 p268 「けれど、涙は止まらなかった。ああ……、僕は泣いているのだ。悲しくないのに、泣いている。たぶん、この美しさのせいだ。美しさに涙が出る。こんなに美しい存在が、世界にあるだろうか。」 p282 「「飛びたい。」僕は答えた。「あの散香で、飛びたい。」」 p289 「「生きていれば、また会える可能性もあります。」「覚えているか、どうかですね。」僕は微笑んだ。「覚えていて。」彼女は僕に触れた。「お願い。」」 p306 「僕は、生きている。そうだ、ここが僕が生きる場所だ。」 p312 「「見事だった。」彼女は言った。「さすがだね。」「ありがとう。」僕はとりあえず返事をした。「散香に乗れることを約束する。私と一緒に、戻りなさい。」「本当ですか?」僕はきいた。「約束する。今の飛行で、君の能力が戻っていることは証明された。」「ありがとうございます。」僕は、片手を上げた。その自分の片手に驚いた。そうだ、敬礼をしようとしたのである。」 p315 「「サガラ!」僕は叫んだ。」 p318 「「あなたは、あなたでなくなるかもしれない。それでも、あなたが選択した道だわ。」「僕は、いつでも僕だよ。」」 p319 「「私を撃って。」」 p326 「「ブーメラン、飛んでいるか?」」 p329 「撃て 撃とうと思うまえに」 p335 「「クサナギ・スイトです。」」 p338 「「カンナミさん。」」 p338 「僕はそれを手に取る。それは小さなブーメランだった。」 p340 「待ってろ。また、会おう。また、踊ろう。自由に。美しい空で。」 p340 「ブーメラン、飛んでいるか?」 - 2026年8月13日
「美しさが見たいのなら。 生きていることを感じたいのなら。 その死以外に、美しい死はない。 革命の夜に涙を流し、 血の味を知る者だけが叫ぶ。 待っていろ、今にこの手に 貴様の首を摑んで見せると。 偽りで作られたものを 破壊し、耕し、 そして、幻の種を撒け。 なにも生まれない。 そう、なにもかも、 すべては幻想。 戦う者だけが、 少なくとも人間の幻想に 触れることができる。 それ以外のすべては、 大人という名の生きものが 腐った泥で作り上げた偶像だ。 お前は泥か? 確かめたいなら、戦え。 自分が何者か知りたいのなら、死ぬまで戦え。 ひび割れて、朽ちるまえに。」 p25 「ただ、言葉というのは、いつもこんなふうに、綺麗に飾って現れるものなんだ。」 p27 「いつまでもこれが続くことなんてありえない。それはわかっている。お互いにわかっているはずだ。だからこそ、繰り返すことができる今を、もっと喜べってことだろうか。」 p38 「「ボンネットに猫のマークがあった。」」 p40 「「どういうわけか、みんな、俺に話したがる。俺が聞きたがらないせいだろうな。」」 p85 「「人間はね、戻れないの。誰一人、戻ることはできないわ。大人が子供になれる?」」 p87 「「もう、あなたが懸けたクサナギ・スイトは、消耗しました。見切りをつけるときが来たのだと思います。」」 p93 「「クサナギさんの、幼馴染みだったって、知っていましたか?」」 p96 「心配だなんて、引出の奥に仕舞ってあったみたいな上品な言葉を持ち出してきたけれど、心配している姿を、草薙に見てほしいのだ、きっと。結局、大人って奴は、自分が好かれたい、という動機しか持っていない。だから、自分を好きになってくれる可能性のあるものにしかアプローチしない。そういうふうにできているのか、あるいは、そういう気持ちしか、働かなくなってしまったのか、ようするに、ほかのいろいろな感覚が錆びついてしまった、ということだろう。」 p96 「虫を触ったら面白いとか、草の根っこを引っこ抜くとすっとするとか、高いところから飛び降りたら気持ちが良いとか、そういった感覚を、すべて自分には無駄なものだと処理してしまった。その結果できたものが、つまり大人だ。そういうものを、大人しい、というのだろう、たぶん。では、自分にとって無駄でないものとは何か。それは、自分に利益をもたらす対象だけ。自分を好いてくれて、自分に快楽を与えてくれるもののみ。それだけが生きる目的になる。それが、女だったり、金だったり、それとも名誉だったり。ああ、なんてつまらない。さらに輪をかけてつまらないのは、女といっても、つまりは外側の形だけのことなんだ。金も名誉も、つまりは自分が思いどおりに他人を動かせるというだけの上辺だけの効果なのだ。」 p113 「「あなた方にとって、命とは何ですか?」」 p132 「「嘘だよね。だって、本当に生まれ変わるんだったら、どうして、こんなに死ぬのが怖いと感じるの?」「そんなに怖い?」「怖いよう。」「忘れるからじゃないかな。」」 p137 「「だけど、嬉しいことで、悲しいことって、消せないんだよね。」」 p145 「「サガラさん。」僕は彼女の名前を思い出した。」「嬉しい。名前を覚えていてくれたのね。」彼女の口が微笑んだ。」 p152 「「嘘だ。」草薙がふっと吹き出す。「慌てている。何年のつき合いだと思う?」」 p157 「じっと僕を見つめている彼女の瞳。西の窓の磨りガラスを、赤い日差しが照らしていて、それが小さくなって、彼女の瞳の中にもあった。この人は綺麗だな、と僕は思った。」 p158 「「私はね……、キルドレを普通の人間に戻す方法を発見したの。」彼女は言った。「長い間、これは不可逆的なものだといわれていた。でも、方法があった。動物実験では既にパーフェクトに成功している。安全な方法です。」」 p160 「「いいえ、違うわ。」彼女は優しい微笑みを見せた。今日初めての、本当に愛情に満ちた、そんな余裕さえ窺える顔だった。「名声なんて、私には興味がありません。」」 p161 「「でも、覚悟はしているの。大丈夫。あなただって、飛行機に乗るときは、覚悟をしているでしょう?科学者だって同じです。新しいものに挑むときは、空を飛んでいるのと同じなの。地上の生活からは、遠く離れている。そして、そのままもう戻れないことだってあるってこと……。」」 p162 「「もう、あの頃には、研究はほぼ完成していた。偶然だけれど、私はクサナギ・スイトと同郷だった。これが、私の研究の最大のキーだったの。」」 p177 「草薙は僕を見据えている。じっと視線を逸らさない。獲物を狙う猫科の獣のようだった。僕は、最初は自分のついた嘘を責められている、と感じた。しかし、そうではない。僕はようやく気づいた。草薙の目は、僕に嘘を押し通せ、と命じているのだ。」 p183 「しかし、一人の人間が二つの人生を比較することは無理なのだ。短くても、長くても、一瞬でも、永遠でも、人生は一度きり。これだけは誰にも共通している。「いいえ。」」 p189 「本を読んだりして、普通の人間の思考を知ることはできるけれど、どこまで現実に存在するものなのか、やっぱりわからない。愛情と呼ばれるものの多くは、単に、自分が良い思いをしたい、自分が望んでいる状況になりたい、という欲求に過ぎない。相手を愛していると口では言いながら、つまりは自分のことが大事なのだ。」 p190 「愛情を信じて恋人を愛撫する者も、勝利を信じて戦う者も、同じだ。」 p199 「僕な彼女を追い。僕は彼女を守り。僕は彼女を見て。僕は彼女を待った。触れたことはない。一度も。」 p200 「美しいものを知っている。愛するものを知っている。触らなくてもわかる。抱き締めなくてもわかる。愛されなくてもわかる。子供は、母親を知っている。それと同じことなのだ。」 p206 「人間の人生なんて、このトンネルみたいなものかもしれない。トンネルに入ったときが生まれたとき、トンネルから出るのが死ぬときだ。どこへもいけない。ただ、出口へ向かって進むしかない。長くても、短くても。」 p206 「人は他人に対してなにもできない。どんなに優しい言葉をかけても、愛撫して抱き締めても、なにも救われない。他人の命に関わることはできないのだ。唯一の例外は、その人間を殺すことだろう。」 p208 「「ティーチャは、どうしているんでしょうか?」」 p212 「「私は、クサナギ・ミズキ。」」 p241 「「どうか、お元気で。」」 p247 「二度と草薙水素と会うことはないだろう、というあのときの予感は当たっていた。」 p249 「たぶん、今の僕は、そうやって自分を説得しているのだろう。これが人間だ、これが人間だ。「しかたがないよね、人間なんだから。」」 p274 「花束で、どんな自由が得られるだろう。」 p275 「僕が僕であり続けたい。生きているかぎり。」 p296 「猫の目?猫の顔だ。」 p332 「そうだ、花束を買っていこう。」 - 2026年8月11日
「醜い大人たちよ。 人の命が美しいか醜いか 戦うことが正しいか間違っているか、 誰も教えてくれなかった。 教えられるはずがない、 誰も知らないのだ。 それを知ることを諦めた奴が 大人になる。 美しいという言葉でしか、 美しさを知らない。 戦うという言葉でしか、 戦う意味を知らない。 生きていることに怯えて、 なにも知りたくない及び腰。 美しくても正しくても、 醜くても間違っていても、 どちらでも良いのか? 戦う者だけが、 美しさを知ろうとしている。 ただそれだけのことだ。 それだけのことで大人になれなかった 子供たちが今も お前たちを睨んでる。」 p59 「「カンナミといいます。」彼は答える。」 p66 「なんという礼儀正しい草薙水素。いつから、こんなに大人しくなったのだろう。これではまるで入院患者だ。けれど、笹倉の電話が嬉しかったことは、どうも確からしかった。」 p67 「空を知っている瞳。宇宙を知っている瞳。「カンナミ。」僕は少年の名を口にした。」 p71 「格納庫の中には、二機の散香。美しい濃紺と淡いブルー・グレィの迷彩だった。どこか、違う、とすぐに感じた。いつもの散香と違う。」 p71 「「もちろん。」少年は白い葉を見せて微笑んだ。「一緒に飛びましょう。」」 p72 「この戦闘機という名の飛行機には、二人は乗れない。二人いる必要がない。もう一人がいても、なんの役にも立たない。それと同じように、僕が生きていくためには、僕以外の人間は誰も役に立たない。誰かと手をつないで生きるなんてことは、絶対にない。それは、もう生きているとは別の状態といっても良いだろう。誰かとともにいるということは、生きているよりも、死んでいるのに近いのではないか。そうだ、死んだら、みんなのところへ行ける。地面に埋められて、周囲と同化して、天国だって、みんなと一緒だろう。手をつなぎ合って。わからないけれど、天国でも一人ということは、ないと思う。そんな気がする。」 p87 「「仕事をしないでぶらぶらしていられるなら、誰だって、シンプルで善良な人生が送れるってこと。」」 p89 「自由って、役にたたないものなのだ。」 p97 「「自分がどうなっているのか、把握できていないことは、良い状況とは思えません。」」 p97 「きっと本心が頭脳をパスして、声を発したのだろう。なかなかやり手の本心だ。」 p101 「たとえば、黒猫をマーキングしたあいつがいるだろう。話を聞きながら、僕は彼のことを考えていた。まだ一度しか遭遇していない。」 p111 「スカイブルー。なんという美しい色。ハーモニィ。なんという気持ちの良い音。」 p111 「能力をすべて人に教えるなんて、そんなぎりぎりのことはしたくない。それを学んだのも学校だった。そう、周囲のみんなは、自分の能力をより大きく見せようとやっきになっていた。いつも背伸びをして、こんなに自分は凄いのだ、とアピールしようとする。先生に認められて、良い内申を取りたかったのだろう。それはつまり、周囲のみんなが味方だと信じている証拠だ。僕は、幸いにもそんなお人好しではなかった。周囲の連中には、わざと手抜きをして、無能な自分を見せることにしていた。そうでなければ、いざというときに困るだろう。違うか?」 p114 「あのときはティーチャが一緒だった。ティーチャ?誰だ?僕はまたくすっと笑う。誰だっていい。そうそう、もうそんなの昔のことだ。」 p118 「「ヒガサワ・ムイの弟です。」」 p119 「けれど、やはり一瞬のことで、水と一緒に僕の表面を流れていった。地上にあるものの中で、一番綺麗なものは水だ。水は空から落ちてくる。汚れたものを、全部洗い流してくれる。」 p123 「そこになにかが沈んでいたけれど、できるだけ上澄だけを掬って飲んだ。複雑な味だと思った。複雑だからそこ、こんなに濁っているのだ。」 p124 「「あなたが来たから、彼は出ていったのではない?」」 p126 「僕は、人を羨ましいと思ったことはない。それから、人に羨ましがられたいと思ったこともない。そもそも、羨ましいという感覚が正確に理解できない、といった方が近いだろう。他人がとても幸せだったり、とても立派だったり、とても優れていたり、そういうことを観察しても、自分と比較する方向へ思考が進まない。比較をしたって意味がない。なにしろ、それは乗っている機体が違うのと同じなのだ。空へ上がってしまったら、乗り換えることはできない。一度生まれてしまったら、人間だって乗り換えることはできないのだから。」 p132 「それは、病院にいた少年、函南だった。」 p135 「「つまり、相手も、必死になって見ているんだ。必死になって、考えているんだって、そう考える。同じだ。同じコクピットが、空にもう一つあって、向こうも必死になって、飛行機を操っている。どちらか一方だけしか残れない。どちらかは飛んではいられなくなる。だから必死だ。でも……、この際だから、どうせなら楽しもうって思う。力を抜いて、まず相手を好きになろうって思う。一緒に遊ぼうって思う。一緒に手をつないで踊ろうって……。ポールが立っている周りを回っていて、音楽が聞こえてきて、本当に躰の中から動きが浮かび出てくるような、踊りたくなるような、そういう感じになる。手をつなげば、相手の気持ちがわかって、相手の動きも自然に見えてくる。そう、そんな感じです。ごめんなさい。きっと、役には立たないでしょうね。」」 p136 「「どうか、立派に戦って下さい。綺麗に戦って下さい。誰のためでもありません。自分自身のために。」」 p138 「纏いつくことで、きっと得られるものがあると信じているのだ。あるいは、そう信じたい。信じられることで安心したいのだ。ああ、なんて、ねっとりとした気持ち。べとべとしている。地上は、ねっとりと濁っていて。なにもかもが、ねばっこくて。切り離されることを恐れているかのようで。一人だけになることを避けようとして。結果的には、もっともっと寂しいものを集めてしまう。」 p140 「僕を褒められるのは、僕以外にない。褒められることのできない人間なのだ。」 p141 「「いい面構えだよ。」」 p143 「「僕は、ある女性を連れて逃げているんです。」少年は空を見上げて、話を始めた。」 p144 「少年は僕をじっと見つめる。彼の瞳に光が見えた。どこの光を反射しているのか不思議だった。もしかしたら、涙だろうか。もしかしたら、もっと美しいものだろうか。」 p145 「「そして、最後には、僕は彼女を殺してしまう。」少年の声は僅かに震えていた。「彼女は微笑みながら、倒れ、僕は彼女をこの手に抱くのです。それから、自分の頭も銃で撃ち抜きます。そうしないと、彼女がどこか遠くへ行ってしまう。見失わないうちに、僕も行かなくては、と思うんです。」」 p145 「もしかしたら、もっと美しい指。もしかしたら、もっと美しい手。」 p146 「触れるだけで、壊れるものがある。もしかしたら、もっと壊れるかもしれない。もしかしたら、もっと消えてしまうかもしれない。もしかしたら……。」 p146 「「その彼女のことを、君はどう思っている?」僕は冷静な声できいた。僕の胸からではなく、僕の頭から出た声だった。「大切な人だと。」「それだけ?」「どういうことですか?」「自分のものにしたい、と思った?」「自分のものにする、という意味がわかりません。」」 p146 「僕は彼を引き寄せて、背伸びをして、口づける。」 p169 「「わかりました。」なにもわからなかったが、なにもわからない方が良いことがわかった。」 p175 「「クサナギ、久しぶりだな。」」 p179 「「そう……。ここで、この街の中で、ダンスを踊ってやる。本もののダンスを知らない連中が考えたんだな。見せてやろうじゃないか。」」 p182 「「待ったところでろくなことはない。自分を信じて、自分の感覚を信じて、いつでも撃て。」」 p191 「「自信ではありません。」「では……、何?」「予感です。」そう答えたけれど、それは二番めに思いついた言葉だった。本当のところは、「諦め」だと思える。」 p192 「彼女を見ていると、どうしてこの人は、こんなに優しい顔を自由に作れるのだろう、と僕はいつも思う。」 p199 「想うだけで、生きている、と感じる。死んでもいい。死ぬことなど、なんでもない。死ぬために、生きているのだ。恐いものなどない。さあ、みんな、僕に向かってこい。」 p201 「目を瞑ってさえすれば、なんだって眩しくなる。結局は、そういうふうにして、大して美しくもないものを美しく見ようと努力する。そうやって生きているのが人間ってことか。」 p214 「同じ道を同じ人間が歩いて、同じ気持ちを持っていて、きっと伝えたいことも、言いたいことも同じなのに、言葉がこんなに違うなんて、本当に不思議だと僕は考えた。」 p216 「明日、ティーチャと戦えるという幸せか、それとも、笹倉が来てくれた安心からか、いずれにしても、今夜の僕は調子が良い。人間として調子が良い、ということだろう。いつまでも続くものとは思えないけれど、でも、こういう状態を、優しい、と表現するのではないだろうか。基地の食堂の老婆が、僕が知っているうちでは一番優しい。歳を重ねると優しくなれるのかもしれない。そうじゃないかもしれない。それはわからない。どちらでもいい。今はただ、全部が綺麗に見える。すべてが綺麗に僕の周辺にある。そういうこと。明日死ねたら、とても幸せだと思った。」 p219 「「私にできることなら、なんでもするわ。私はね……。」甲斐は目を細め、顎を少し上げる。自信に満ち溢れた顔だった。「クサナギ・スイトに懸けているのよ。」」 p242 「相手を憎んでなどいない。それどころか、尊敬している。味方も敵も、どちらも立派なパイロットなのだ。だから、敵という文字、敵という言葉が、その概念が、根本的なところで、決定的に異なっているだろう。戦う者と戦わない者の違いは、結局はそこにある。」 p246 「世界に自分一人だけだったら、という空想を、子供のときから僕はよくした。街も自然もそのままで、自分以外の人間が全部消えてしまったら、と考える。それはとても楽しい妄想だった。僕はそういう世界を望んでいる。それは明らかだ。」 p247 「一人だけの方が、僕には適している。この方が、自由。摩擦がない。周りに、人間が沢山いることが、一番の不自由だった、とわかる。そのとおり。のびのびと、ゆっくりと、生きていこう。そして、死ぬときは、どこか高いところから飛び降りれば良い。堕ちていく間、しばらく本当に空が飛べるだろう。自分の意志で、誰のためでもなく死ねるなんて、こんな幸せはない。最後はそれだ。楽しみは最後にとっておかなくては。」 p250 「「カンナミ?」彼は微笑んだ。そして頷く。「どうきて、ここにいる?」「あなたを待っていた、クサナギ・スイト。」」 p252 「「僕は、あなた以外じゃない。」」 p260 「人間は、社会という名前の水槽の中で、安全と平和に縋って生きている。水槽の中で生まれ、水槽の中で育った人間に、どうして、外のことがわかるだろう。否、わかる。それがわかるのが、人間ではないか。子供のときから、すべての人間は、外を知っている。本当の自由を予感している。だからこそ、大空へ飛び出していく者がいるのだ。子供はみんな、空を飛ぶ夢を見るのだ。飛べるようになるまで、あるいは、飛べないと諦めるまで。」 p264 「「自分が可哀想になる。」甲斐は言う。笑おうとしたが、今度はいつもの優しい笑顔ではなかった。「今の方が良い。いつも、そう思っている。昔よりも、絶対に今の方が良い。もっと良くしたいって。」」 p273 「言葉をどんなに尽くしても、絶対に本当のところは伝わらないだろう。なにしろ、理解よりもまえに、嫌悪や懐疑、あるいは同情が入り交じる。そういった余計な感情が理解を妨げるのだ。あるところまで話すと、もう言葉の意味を受け入れてもらえなくなる。そうにきまっている。いつもそうなのだ。」 p277 「いつだって、人は命を切り離せる。それなのに、こんな僕に、何故、命はついてきてくれるのか?」 p284 「「ティーチャだからって、やけになるなってこと。」「なんで、やけになる?」僕はきき返す。「帰ってこいよ。」笹倉が言った。」 p288 「さあ、いくぞ。踊ろう。ダンスを!」 p329 「お前たちが期待している草薙水素を殺してやる。」 p339 「もう、二度と、彼には会えないような、そんな気が、少しだけ。」 p339 「でも、僕たちは、つながっている。空気だけで。空だけで。僕たちは……。」 p347 「「いい?悔しかったら、人よりも高いところへ上がるしかないのよ。見下してやるしかないのよ。雲の上まで行ったことがあるのなら、わかるでしょう?」」 - 2026年8月10日
新装版 ナ・バ・テア森博嗣「目を覚ませ、大人たちよ。 自分たちが人間の完成した形であり、 それに比べまで子供は不完全な存在だ、 という理屈は、 死んだ人間が完成した姿であり、 生きているものはすべて不完全だ、 といっているのと等しい。 気づいているか? 大人になる、という意味は、 死を意識して、臆病になる、 たった、それだけの価値。 ほとんど死んでいるに等しい 大人の譫言。 古来、人は「死」を守り、 「死」、に縋って、戦った。 生きていることの尊厳ではない。 生きているものに、できることが、 それしかなかったからだ。 大人が醜い理由は、戦おうとしない その怯えた命にあるということに、 気づいているか?」 p11 「優しいものって、どうしてどれも止まろうとするのか。手を広げて、さあここへおいで、と微笑む手は、何故みんな止まっているのだろう。」 p12 「いつかはきっと借りを返してくれる、という兎の耳のような暖かい友情、淡い希望的観測、そんなドロドロのオイルには、できることなら触りたくないな。無駄なものはきっぱりと、捨ててしまいたい。いつもドライで、そして身軽でいたいし、いつも、そのときに可能な最高のコンディションでいたい。」 p15 「否、そもそも、自分以外の人間に興味を持ったことが、一度もなかったはず。そう、思いつかない。」 p23 「気持ちとは反対のことができるなんて、人間って複雑なメカニズムだと思う。」 p36 「理屈では、当然わかっている。それなのに、どうして気がおさまらないのか、自分でもよく理解できない。けれど、自分でもよく理解できないことなんて、僕の周辺には、いくらでもある。無数にある。そっちの方が多い。それが普通なんだ。たとえば、僕自身だって、僕にはよくわからないものでできている。」 p38 「僕が、撃墜王の僚機を務めたのだ。」 p41 「「ティーチャだ。」その言葉に、僕の心臓は一度だけ大きく鼓動した。ティーチャというのは、彼のコードネームだ。みんな、コードネームできが彼を呼ばない。それだけでも、彼は特別だった。」 p44 「「命を粗末にするな。」」 p49 「でも、いつだって、僕は夢を見ているように、生きている。」 p50 「僕が、自分でつけた傷だ。そのままもう、僕で亡くなることを願った痕だ。」 p50 「星空が霞む。けれど、それは僕の目の問題。星が霞むことなんて、絶対にない。僕の目か、僕の目の前の雲か、せいぜいが、そんな地面に近いところだけの問題にすぎない。星は、そんなちっぽけなこと、知っちゃいない。」 p50 「カウリングに開いた穴のことが、頭から離れなかった。僕の頭に開いた穴と同じだった。ずっと以前から、まだ小さな子供のときから、ずっと開いている穴のように思えた。」 p71 「五メートルの距離のところに他人が立っていて、まったく脈役の読めない会話をしている。ラジオ放送みたいに、僕はそれを聴いているのだ。そう、他人の存在なんて、音と同じ。嫌でも聞こえてくるけれど、しかし、僕は押されるわけでも、引かれるわけでもない。触りさえしなければ、なにも影響はない。単なる空気の振動。」 p72 「だいたいが、みんなドライで、友人のことをケーキと同じ程度にしか考えていない。そのとき一口食べてみて、ちょっと美味いと思えば、それで良い。それだけの存在なのだ。いつ、いなくなるかもしれない。べつに、なければないでかまわない。」 p72 「世の中の人間に対して、すべてそういった目で、僕たちはみているかもしれない。敵意などまったくない。しかし、その逆の、親密な感情も抱けない。人間は人間。動物の一種。スポーツで、同じ国のチームを応援するみたいに、サルよりは人間の方が好ましいとは感じる、それくらいの親近感しかないのだ。」 p83 「自己評価は、文字どおり自分一人の判断であって、それで自分を把握していれば充分なのだ。それだけならば、いかなる問題も生じない。」 p87 「自然のほとんどは、人間が都合良く作ったものだ。砂漠だって自然なのに、何故か緑豊かな土地だけが愛される。地上は、そういう嫌らしさに溢れているのだ。きっと海の中にも、沢山沈んであるだろう。川から流れ込んだ嫌らしさが、消えずに溜まっているにちがいない。その点、空はまだ無傷に思える。」 p91 「「ここでは、もうお前がナンバー・ツーだってことだな。」」 p111 「「いつだって、明日はあるさ。」」 p119 「それから、女の白い足が思い浮かんだ。馬鹿な奴。僕は舌を打った。わざとらしい奴。アルコールが自分の血だと信じている。あれでも大人だ。大人の女だ。嫌らしい。汚らわしい大人だ。あんな奴と一緒にいると、吐き気がする。本当に、撃ち殺してやりたい。地獄へ墜としてやりたい。」 p136 「人間っていうのは、なかなか第一印象のとおりとはいかないものだ。そこが人形と違うところ、ともいえる。それくらいしか、違いはないのだけれど。」 p140 「ゆりかごみたいに、きっと、素敵に神様が揺らしてくれるだろう。」 p170 「「悔しかったら、大人になってみなさい。」歪んだ顔で、彼女はそう言った。不思議なものを見た、感じがした。僕は、悔しくなかったし。可笑しくもなかったし。でも、少しだけ笑えてきた。そして、だんだん寂しいと思った。自分のことがではなくて。その女のことが、少し可笑しくて、少し寂しいと思えた。それだけだ。不思議だな。今でも、不思議だと思う。」 p176 「どうして、それが敵なのか、ということを考えることを、僕はしない。そういうことを考えるならば、まず、どうして僕は僕の味方なのか、を考えなくてはいけなくなるからだ。」 p178 「静かな方がずっと退屈じゃない。」 p180 「そうではなくて、単に自分を磨きたい、と考えているだけではないだろうか。ただ、自分が磨けたかどうか、自分が高まったかどうかは、他人と比較しないと判明しない、という測定方法に問題があるだけの話だと思う。」 p186 「「ティーチャがやはり注目されているのは、彼が普通の人間だからですよね?」」 p188 「優しさが不自由を作っているのだといえる。」 p188 「普通の人間、という言葉。あれも気持ちが悪い表現だ。どうして、普通のものを決めるのだろう。普通を決めるから、普通じゃないものができてしまう。理不尽な話ではないか。何をもって普通なのか。意味はないのに。そういう確固とした理由もないところで境界を無理に作ろうとする姿勢が、普通という馬鹿なやつの正体だ。」 p190 「でも、その反発って、結局、まだ僕が、人間に未練を残している証拠かもしれない。救いがないものだとは、まだ信じられない証拠かもしれない。」 p231 「比嘉澤の顔は汚れていなかった。可哀想なんかじゃない。綺麗だった。僕の靴よりも、誰の靴よりも、ずっと綺麗だ。」 p239 「「お前は、俺が知っているうちでもナンバ・ワンだ。今に俺よりも、きっと上になる。」ティーチャは言った。「命を粗末にするな。もし迷いが少しでもあったら、飛ぶな。すぐにこんな仕事から足を洗うんだ。」」 p240 「「これが後ろ向きに思えるか?俺は、お前が考えているような男じゃない。そうやって、なにかをでっち上げて、夢を膨らませて、見ているんだろうな。」」 p256 「僕が一番話をする相手は、栗田という男になった。といっても、この男はとても無口で、簡単な受け答えしかしない。そこが面白かった。それに、僕が相手をしなくなった笹倉が、この頃は栗田を摑まえては説明を始める、という場面に多く出会った。」 p261 「一度でも、ベッドに自分以外の者がいる夜を体験すれば、もうベッドは今までとは違う場所になってしまう。朝、目覚めたとき、ふと横を見てしまう。そんなふうにして、いろいろな場所が、どんどん濁っていくのだな、と思った。」 p263 「僕に見えないものは、どこにあるのだろう?でも、もしかしたら、それは、僕が見たくないものかもしれない。」 p271 「「あなたの、その向上心は、とても貴重なものだわ。」「自分には、向上心はありません。」」 p272 「「そうですね。地上に降りたとき、一番強く思うのは、もう一度飛びたい、ということです。死んだら、もう一度飛べません。」」 p274 「植物が種を飛ばして、方々に植えつけるように、人間の意志も、見えないところで広がるのかもしれない。」 p275 「染赤というのが、その飛行機の名前だった。」 p284 「馬鹿野郎!可哀想じゃない!誰も、可哀想なものか!みんな、立派だ。みんな、立派に生きている。誰も、死にたくはないし、誰も、可哀想になんか、なりたくない、そうならないように、一所懸命に生きているのに。」 p287 「もう一度。もう一度、挑もう。もう一度、ティーチャに。」 p290 「「チータって、山猫ですか?」」 p296 「「醜いものを、格好の良いものにすり替える。全部そうだ。汚いものを、綺麗なものでカバーする。反対はありえない。外見だけは美しく見えるように作る。しかし、そうすることで、中はもっと汚れてしまう。この反対はない。俺たちの仕事を考えてみろ。格好よくするイメージが作られる。今日の写真みたいにな。しかし、実態はどうだ?写真には血の一滴も映らない。オイルで汚れてさえいない。」」 p297 「「仕事なんて、みんな汚いものだ。人間が生きていくこと自体が汚れている。」「そう。」ティーチャは頷く。「問題は、それを美しいものだと思い込ませるマジックだ。そこが一番の問題なんだ。」」 p298 「「そんなの、単なる言い訳です。詭弁です。」「そうだ。そういう単なる言い訳、そういう詭弁の汚さが、好きなんだよ。」」 p299 「ずっとさきに、決まったものがあって、それを待っているよりも、それがなかなかやってこない状況よりも、今の方が僕は好きだ。見える範囲のものだけが、僕に向かってくる、今の方が。」 p300 「それを操っているパイロットも、同じ矛盾を最初から抱えている。安定していては勝てない。常に不安定に、いち早く自分を見失い、空気の流れに同化し、加速度の波に瞬時に紛れ込む、そんな空気みたいな軽さがなければならない。」 p308 「「君の中にいる生命も、それと同じだということだ。」」 p309 「「父親だ。」」 p318 「そうだ、生命というものは、そもそもその生命のものなのだ。誰のものでもない。独立している。」 p321 「「なにも気にすることはない。昨日や一昨日は、もう来ない。来るのは明日ばかりだ。」」 p326 「嘘ばっかりついている草薙水素。そういう奴だ。でも、なんだか楽しくて、横の空をじっと眺めていた。」 p327 「愛するために生まれてきたのではない。愛されるために生まれてきたのでもない。ただ、軽く……、飛ぶために、生まれてきたのだ。」 p346 「「馬鹿野郎。」可笑しくて、涙が出た。ゴーグルを外して、目を擦る。猫の絵なんか描いて。「チータってことか?まったく、何考えてんだか。」僕はそれから、大笑いした。思いっきり笑った。空だから。なにもないから。」
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