@s_ota92
2026年5月2日
捩れ屋敷の利鈍
森博嗣
p10
「瀬在丸紅子が、そういって微笑んでくれた唯一の女性である。」
p11
「良い思い出は、できるだけ早く、新鮮なうちに素早くフリーズしておくにかぎる。」
p12
「車高の低い車だなあとは思っていたけれど、私の車を追い越していったのは、赤いフェラーリだった。」
p14
「道具に限らず、目に見えない数々の手法、それも、自然に習得し、知らぬ間に構築された独自のやり方によって、人の営みの多くは支えられている。それらは掛け替えのないもの、消えてしまって初めて気づく価値である。」
p14
「このことは、あらゆる手法、たとえば、言葉やマナー、さらには、健康や友人、そして愛情や恋人にも当てはまる法則であろう。」
p20
「エンジェル・マヌーヴァ(Angel maneuver)は絵画ではない。」
p21
「こうしてみると、人間はすべて緊張の奴隷、といっても良いかもしれない。」
p21
「保呂草は、その笑顔が誰かに似ている、と感じた。」
p22
「そう、思い出した。あれは瀬在丸紅子の笑顔に似ている。自信と博愛の笑顔といえばオーバだろうか。人形のように滑らかな、完璧な微笑である。」
p24
「「もしかして、ビートルでいらっしゃいました?」」
p25
「「あの、私は、熊野御堂氏にご招待いただいた西之園といいます。」」
p26
「「でしたら、こちらにある、エンジェル・マヌーヴァは専門外でしょうか?」」
p32
「彼女の隣、保呂草から向かって左側に、メガネをかけたボーイフレンド氏が座ったが、これが大間違いだということはあとで判明する。つまり、男性だと勘違いしていたが、彼女の先生というのは女性だったのだ。名前は国枝というらしい。」
p37
「「メビウスの帯をご存じかな?」」
p41
「「馬鹿みたい。」」
p45
「「あのログハウスは、また、別の趣向でね。」熊野御堂譲が答える。」
p46
「ほんの僅かの自然の変化にびくびくして、それを自然破壊と呼ばねばならない。それが弱い人間の立場なのだ。」
p47
「「素敵……、本当にメビウスの帯なんだ。」西之園が呟く。」
p49
「西之園はまだ両手を合わせている。この仕草は、瀬在丸紅子と似ている、と保呂草は思い出した。」
p50
「「先生、私にも謝ってくださいよう。」西之園が嬉しそうに言う。「そうだね。」国枝が頷く。「それだけですか?」「うん……、悪かった。」」
p55
「ぐるりと回りながら、一周で百八十度捩れる。」
p56
「だが、振り返ると、後ろの国枝がそのポーズで腕組みをして立っていた。」
p59
「呼吸が止まるほど、それは美しかった。「エンジェル・マヌーヴァですね?」」
p60
「「ひょんなことから、この短剣を手に入れて、それからというもの、仕事上でも、私生活でも、沢山の幸運に恵まれた。私はとてもついていた、本当にラッキィの連続だったんだよ。まあ、そのお返しというわけでもないけれど、ちゃんとした場所にこれを飾ってやりたいと思ったわけだ。」」
p61
「「しかし、芸術とな、そもそもが役に立たないもの、無駄で、とんでもないものなのだから、それに相応しい場所だとは思わないかね?歴史ある宮殿の中にあるのと同様に、この場所もまた、実に無駄な造形の極致という点では、負けていない。」」
p63
「「どうぞ。特に呪いなどの噂のある代物でもない。」」
p63
「「なるほど、抜けないから、エンジェル・マヌーヴァなんだ。」」
p65
「「恋人を奪うために、首を切っていくようなものだ。」熊野御堂が笑いながら言った。」
p66
「密室に秘宝、うーん、あとは、首なし死体とかがあると最高なんですけれど、でも、本当にあったら困るし。」
p68
「西之園が大きな瞳を天井に向ける。この表情は、保呂草に瀬在丸紅子を連想させた。」
p71
「「西之園萌絵といいます。」」
p73
「「秋野秀和といえば、有名な殺人犯の名前じゃありませんか。」」
p77
「「この中に首なし死体でもあったら、どうでしょう?」」
p78
「「いいえ、密室・インポッシブル。」萌絵が繰り返した。「ローマ字でMISSHITSU、それから、英語で IMPOSSIBLE。」」
p81
「一つの部屋が四メートルくらいだった。それが三十六部屋。つまり、百五十メートルに近い円周になる。直径は約五十メートルにも及ぶ巨大な捩れたリング。」
p83
「答があったとしても、きっとそれさえも、人間と同様に、限りなく無に近いちっぽけな理由だろう。」
p84
「「人を心配させるのが好き?」」
p90
「少しずつ捩れていく連続した部屋、永遠に柱に通されたままの秘宝の鎖、地面に埋もれた巨大なリング、そして、秋野と名乗っている男……。」
p91
「「あそこ、グラウンドみたいで、走りやすそうだったから。」」
p92
「「私じゃなくて、犀川先生と来たら良かったのに。」国枝が言った。」
p92
「運動のあとのようだが、汗もかいていなければ、息も上がっていない。「どうして、一周で百八十度捩ったのかな。九十度捩れば、床も壁も天井も、全部連続になるのにね。ずっと、それを考えていた。」」
p94
「「私も、ちょっと、捩れ屋敷を見てこよっと。」萌絵は、国枝の腕を取り、引っ張った。」
p100
「そのとき、萌絵は一瞬、僅かな閃光を感じた。それは目が見た現実の映像ではない。彼女の脳裏に、何かのシグナルが光ったのである。」
p104
「つまり……、まだ、あの中に?そう、あの捩れ屋敷の中にいることになる。」
p107
「国枝は死体に近づき、じっと見つめていた。まるで資料を調べるときのように冷静に観察しているようだ。彼女はまだバールを持っていた。」
p107
「「私たちの知らない条件がある、と考える方が自然だね。」「いつだって、自分の知っている条件の下で考えるしかありません。」」
p109
「しかし、萌絵の頭の中にあったのは、リングのほぼ中央、一番奥に位置する部屋。そこにある、あの美しい短剣だった。」
p112
「「ねえ、どこへ行くの?」」
p114
「秋野は小屋のドアを開けようとした。しかし、それはびくとも動かない。」
p114
「「ねえ、どうしたの?」」
p116
「そこに、短剣がなかったのだ。「ない」その一言しか言葉を思いつかない。国枝も近づいてきて、そこを確かめる。鎖はもちろん、短剣の本体も、すべて消えていた。」
p116
「「盗まれたのかしら。」「持っていった人間が、持ち主でなければ。」「犀川先生みたい。」」
p121
「この密室が解けるかな。この謎を看破した者に、エンジェル・マヌーヴァを譲ろう。ただし、あれを柱から抜ける者に限る。」
p122
「昨夜の熊野御堂譲の発言を思い出した。「あのログハウスは、また、別の趣向でね。」」
p123
「「国枝先生と、こんな議論ができるなんて、夢のようです。」「私も夢のようだよ。」国枝が片目を僅かに細める。「悪夢ってやつ?」」
p126
「「まさか、でも、これが熊野御堂さんが言っていた、趣向じゃないでしょうね。」」
p127
「「先生、可愛い。」萌絵は笑った。」
p131
「「最初はそっちは鍵がかかっていた。左のそっちのドアは閉まっていたけれど、壊れているみたいだったから、こじ開けた。」」
p132
「「密室が、君には解ける?」秋野が言った。」
p134
「この男には、殺人よりも秘宝の盗難の方がビッグ・ニュースらしい。」
p140
「「ずっと以前に、このセメントを使った密室の事件がありました。そのときは、さらに硬化が早いセメントでしたけれど……。この早強は、どこにでも売っている一般的なものです。」」
p141
「彼とのメールのやり取り、電話での会話、そして昨日の幾つかのシーンが、彼女の頭の中で無理矢理、倉庫に仕舞われようとしていた。一切を詰め込んで、真空パックにして、その弾力も、匂いも、なくしてしまおうとしている自分に気づく。こういう機能が、いつの間にか働くようになってしまったのだ。彼女の両親が死んだ夜からである。」
p141
「「解けそう?」「え?」萌絵は秋野を見上げている。「密室が解けそう?」」
p144
「「捩れ屋敷の死体は、倉知さんという人だったそうです。演出家の方だとか……。」」
p148
「「少しは現実を見たら?」」
p149
「「人は見かけほど、また、こうありたいと望んでいるほど、感情的な生物ではない、と保呂草は考えている。」」
p149
「「僕、入ったことあるよ。」」
p150
「「違う、開いていた。」」
p152
「「そうだよ。」コーヒーカップを口から離し、沈黙が続く。」
p153
「「ようやく、現実が少し見えた?」隣の国枝がきいた。」
p155
「「僕の知り合いにも、そういう無理な選択問題も を出す人がいる。」」
p156
「「私の知っている方にも、それと同じリアクションをされる方がいます。」」
p157
「「だから、エンジェル・マヌーヴァを……。」」
p159
「「貴方が盗んだエンジェル・マヌーヴァをいただきたいのです。」」
p159
「否、あるいは、この多重人格性は天性のものだろうか。もしそうだとしたら、瀬在丸紅子に酷似している。そう、彼女にそっくりではないか。」
p160
「彼女は真剣な表情だった。しかしそれは、僅かに悲しみに曇っているようにも見えた。また同時に、どことなく微笑んでいるようにも見えるのだ。おそらく、この女性は、そんな多面性を生来持っているのだろう。ただこのとき、保呂草は、この若い娘がすべてを見通していることを知った。」
p162
「「君たちが見たままの状態、つまり、右のドアがロックされている状態の方が自然だと、咄嗟に考えて、答えてしまった。あとで考えて、まずかったとは思ったよ。」」
p163
「「負け惜しみですか?」「そのとおり、負け惜しみだ。」」
p163
「「お認めになるのですね?」「君の前では認める。」保呂草は頷いた。「え?」萌絵は初めて驚いた表情を見せた。「どういう意味ですか?」「君以外の前では絶対に認めない。」」
p164
「「貴方は普通の方です。」」
p165
「「すると君は、誰が犯人なのかを僕が知っている、と言いたいんだ。」」
p166
「「僕は、殺人犯を見ていない。それに、エンジェル・マヌーヴァも盗んではいない。」」
p166
「彼女の怒った顔はとても可愛らしい、と保呂草は思った。」
p167
「「僕は盗んでいない。エンジェル・マヌーヴァは、もうなかった。あの部屋になかったんだ。僕は、何もない柱を見にいっただけ。」」
p169
「「とにかく、そういうわけで、僕は君にエンジェル・マヌーヴァを渡せない。天地神明に誓って、僕はエンジェル・マヌーヴァを持ち出していない。」」
p179
「国枝桃子は、つい最近までN大学工学部の研究室の助手だったが、今は、那古野市内の私立大学の助教授だという。」
p179
「もしかしたら、人類全体に絶望しているのではないか、と思えるほどだ。」
p181
「「あ、そうか、あれは、熊野御堂さんが私たちを驚かせようとした趣向の一つだったんだ。」」
p184
「「ここだけの話ですよ。私たちも、愛知県警からの電話がなければ、貴女にこんな話はしていません。ぶっちゃけた話、僕の上司が、貴女のことをよく知っていましてね、是非とも情報を提供して、アドバイスを受けろ、なんて言うんですよ。普段そんなことを言う人じゃないものですから、ちょっと驚きました。」」
p184
「「ただ、エンジェル・マヌーヴァを彼が隠し持っている可能性を、私はまだ捨てきれないんです。部屋になければ、庭のどこかにでも埋めたのか……。」」
p187
「「エンジェル・マヌーヴァをどこへやった?」保呂草はきいた。「え?」「この部屋にあるはずだ。」」
p189
「「この状態だって話せるだろう?君は左利きだ。何かの武道を習っている。そういう相手を僕はあまり信用しないことにしているんだ。何度も酷い目に遭っているからね。それに、一度攻撃を受けると、僕は何をするかわからない。制御が苦手でね。」」
p190
「「彼は、君にログハウスの密室を見せようとした。それと同じように、僕には、エンジェル・マヌーヴァを見せた。さも、あの場所から、あれは永久に外せないかのように思わせたんだ。それが、つまり、セキュリティだったってわけ。」
「わからないけれど、たぶん、あの柱が床か天井へ抜けるんじゃないかな。柱自体が上がるか下がるかして、鎖が外せるようになっているんだ。あの捩れ屋敷は、そういう、巨大なキー・ホルダなんだ。外側ではなくて、内側に鎖を取り付けるキー・ホルダ。捩れたリングに相応しい反転だ。」」
p191
「今夜は月が出ていない。そんなものは夜にも、そして彼にも、必要なかった。」
p202
「「私が父にプレゼントしたキー・ホルダーなんです。最近、お友達のおつきあいで、革細工を少しだけやったんですよ。そのときに、一日でできる簡単なもの、ということで、小さな革をベルト状に切って、それをリングにして、そこに金具を付ける、というだけのものなんですけれど、私、それを作って父にプレゼントしたんです。でもね、そのとき、ちょっと捻ってやろうと悪戯を思いつきまして、わざとベルトを捻って縫い合わせたんです。」」
p204
「「保君か。」萌絵は微笑んだ。」
p206
「「そうか……、車か……。」」
p208
「「おねえちゃん、ログハウスの謎、解けた?」」
p209
「「こんにちは。」保が国枝に挨拶する。「こんばんはだろ。」国枝がにっこりともせず答える。」
p210
「「あ、わかった!」」
p211
「「そうか……、そうだったんだ。犀川先生に電話しなくちゃ!」」
p211
「「あのね、そのまえに私に教えてくれても良くない?」国枝が腕組みをして言った。「こんなにつき合ってるんだからさ。」」
p213
「「結婚しているわけじゃないし。」「あ、そうなんですか?」萌絵は国枝の言葉を聞き逃さなかった。「あの、結婚していたら、やっぱり、良くないですか?」「結婚した相手による。」国枝は本を見たまま答えた。「国枝先生の場合は?」「不明。」」
p215
「「相対運動っていうやつだろう?」」
p215
「「もし絶対に鎖を切らない、と仮定すると、君が観察した現象を説明する解答は、一つしかない。」」
p217
「「ええ、正解でした。もちろんですよ。あ、それに、もう、凄いんですよう。犀川先生、エンジェル・マヌーヴァの方も解けたって、おっしゃるんです。柱からあれを抜く方法を思いつかれたみたい。」」
p218
「「それが、私に与えられたラスト・チャンス。私も、エンジェル・マヌーヴァの謎を絶対に解いてみせますから。」」
p218
「期待外れかもしれない、と保呂草は思った。彼女の聡明な指導教官の頭脳に期待するしかないだろうか。保呂草は、誰にも見られていないのに微笑んだ。」
p220
「本当に、瀬在丸紅子に似ている。何度そう思っただろう。」
p220
「「五回だ。」保呂草は小声で呟いた。「誤解かどうか、もつすぐわかります。」「いや、違う。」保呂草は両手を広げる。「今のが誤解だ。」」
p222
「「殺人犯が、誰か教えよう……、君だけに。」」
p227
「「この小屋は、ドアは基礎に固定され、小屋の方が回転するように造られていたのだ。」」
p228
「それに、これならば、保少年が見たという、ドアが開いている状態、も頷ける。子供の言うことだと信用しなかったのを、大いに反省した保呂草だった。」
p232
「「エンジェル・マヌーヴァは、いかにして巨大なキー・ホルダから外されたのか、です。」」
p232
「柱から短剣の鎖を外すことは絶対に不可能だ。」
p233
「捩れ屋敷に潜んでいたのも、エンジェル・マヌーヴァを盗み出したのも、間違いなく、あの男なのだ。」
p234
「「あ、そうか!」」
p234
「犀川助教授の顔が思い浮かんだ。彼は、いつだって、何かのヒントをくれる。あとになって、それがわかるのだ。」
p236
「「わかった。」」
p238
「「ところで、車は調べた?」」
p239
「さて、理論と現実との比較が待っている。」
p241
「「ただ、エンジェル・マヌーヴァは、盗まれてはいないのです。」」
p242
「「変ですか?でも、思いつこうと思わなければ、思いつかないでしょう?考えなければ、アイデアは浮かびません。突然、何もしていないのに思いつくなんてことはないはずです。」」
p246
「いつだって……、綺麗なものが、汚される。大切なものが、壊されてしまう。」
p249
「「私の車?」」
p251
「自分の座右の銘は何だろう、と保呂草は考える。おそらく、欲しいものは手に入れる、どんなことをしても。くらいだろうか。色紙に書くには多少文字数が多いが。」
p252
「セダンは校門の前に停まった。」
p253
「目的のものを左手が掴む。そのまま地面の新聞に挟み込む。」
p253
「エンジェル・マヌーヴァの鎖の、最初のリングと接続している部分、そこが一部壊れていた。」
p254
「おそらく、西之園萌絵に出会っていなければ、そのままで逃げ出していただろう。彼女の顔を思い浮かべ、そして、瀬在丸紅子のことを連想しつつ、彼は、練ったモルタルをすべて使うことにした。捨てるくらいならば、ここで使ってやった方が良いだろう、と考えた。まさに、塞翁が馬。色紙に書くとしたら、これだな、と彼は思った。」
p257
「「エンジェル・マヌーヴァを手に入れましたよ。」」
p258
「彼女の反応が見たかったから、私はあれを手に入れたのだ、とさえ思える。それは言い訳か、あるいは洒落か……。まあ、どちらでもかまわない。だいたい同じだ。」
p258
「エンジェル・マヌーヴァと聞いたときよりも、ずっと大きな驚きだったようだ。これには、私もびっくりしたほどだ。」
p259
「「うーん、いろいろ理由があるわ。彼女の叔父様は、愛知県警本部長ですよ。叔母様は、県知事夫人。亡くなったお父上は、N大の元総長でした。」」
p259
「「あの……、紅子さん、なんか誤魔化しているでしょう?」」
p260
「「それに……、誰かにそっくりだ。」「誰に?」紅子は真剣な表情で目を丸くした。「わかりません?」彼女は首を傾げ、大きな瞳を天井へ向ける。そっくりだ。」
p261
「瀬在丸紅子と西之園萌絵の二人の類似を、私よりもさきに知った人物がいたことだけは確かだ。」