
ペンアブ
@ddd_kool966
2026年5月6日
ONE PIECE 9
尾田栄一郎
読み終わった
再読
ONE PIECE
尾田栄一郎
本日もワンピースの再読。
この9巻で印象に残ったのは、アーロンパーク編でナミの“笑顔”が描かれていた点だ。以降の物語とも絡めつつ、作品テーマの骨子について語ろうと思う。
この時点でのナミは、麦わらの一味を裏切りウソップを刺殺する(のちに自作自演だと判明)という凶行に出た。だがその裏では、魚人アーロンによって暴虐的に支配されている自身の故郷・ココヤシ村を救うべく、アーロンから一億ベリーで村を買おうとしていることが語られる。ナミが海賊専門の泥棒を名乗っていた理由がここで明かされたわけだ。
麦わらの一味を裏切り凶行に走る一方で、彼らには無事に島を出てほしいと願っている内面も描かれる。
その後ナミは、アーロンの傀儡である海軍から強引に金を奪われ、「一億ベリーで村を買う」というアーロンとの約束を反故にされる。
ナミは自身の目標を潰され、そのことを知ったココヤシ村の住人はアーロンに挑もうと決起する。たとえ力では魚人に叶わなくとも、自分達が戦うことで──あるいは死ぬことでナミをアーロンの下から解放しようという、文字通り決死の戦いである。
だが。
ナミは笑顔で言うのだ。
「金ならまた貯める。別にあなた達がわざわざ死ぬ必要はないじゃないか」と。
何が言いたいのかというと、ナミの献身が『虚勢の笑顔』で描かれていることに驚いたのだ。
虚勢の笑顔。
要は「作り笑い」である。
厳密にはウソップの過去でもそれは描かれているのだが、ナミの場合は芯の部分が異なる。
ノジコの口から説明される過去編にて、ナミはそこでも作り笑いを見せる。
幼少の頃、母であるベルメールを殺され、アーロン一行に連れ去られた後、ココヤシ村に一人で帰ってきたナミが泣き笑いで言う。「アーロン一味に入る。そこで海図を書けば金が貰えるし、好きなものも買ってくれるらしい」と。それを聞いた村長のノジコは激昂してナミを責めるが、その後にベルメールの墓の前でナミの本心を知った。
現在と過去編と共に、ナミの作り笑いには共通項がある。彼女の作り笑いには消極的な姿勢が含まれているのだ。
アーロンから村を取り返すために、嘘の笑顔を作らなければならない──という消極的、受動的な行動。そうした弱さを転じようとする側面が見て取れる。
一方、ウソップの場合、深刻な病気で寝込む母に対して「父さんが帰ってきた」と泣きながら語る幼少期の姿には受動的な側面はありつつも、しかしこの時、ウソップは父が不在であることに納得もしていたのではないかと個人的には思う。
現にウソップは、海賊である父を「勇敢なる海の戦士」と称し、自身も海賊になろうという志を持っている。
このことから、幼少期ウソップの『作り笑い』には積極的虚勢が含まれていたのだと、ここでは考える(あくまでも個人の意見、暫定的な考え方であることは了承していただきたい)。
父は海賊であるため病に伏せる母の下には現れない。そのことを仕方ないとも思っているが、それでも母を喜ばせたいと思ったがゆえの嘘言。
虚勢がどこまで自発的な意思のもとにあるのか。線引きは非常に難しい。
ナミの選択を消極的だと断定してしまうのは、彼女の孤独な勇姿に対する侮辱にもなりかねない。
積極的虚勢と消極的虚勢。
1話のシャンクスが山賊に酒をぶっかけられても笑っていたのは、恐らく前者であろう。
──だが、
「それは本当にそうなのか?」という疑問を投げかけたのが、ワノ国編だ。
ワノ国編では舞台役者という過去を持つカン十郎や、獅子舞モチーフの黒炭オロチ、おでんになりたいと願うヤマト、中身と外見の年齢が食い違うモモの助など、様々な描写で「役者」という要素をひとつのキーワードに置いている。
その最も象徴的なアイテムは「SMILE」だろう。
ワノ国編は「役者の内面を知ることは難しい」というテーマが描かれている。SMILEはそのテーマを極端に具象化したファクターだ。
役者という言葉がわかりにくいなら、物語の登場人物と言い換えてもいい。
お玉の出生、日和の最後のセリフ、黒炭オロチの背景など。前後で国の歴史が塗り替わる講談、善悪が移り変わる過程とその生々しさを描いたワノ国。
マネマネの実が再登場することからも『物事の表面性』に意識を向けているのではないかと勝手に推測している。
SMILEの被害者である消極的笑顔を持つ人々と、それに寄り添う形で自らも笑顔を選択した人々。霜月康イエ、キッド海賊団の面々、そしてギア5のルフィなどが積極的虚勢を選択した者だ。彼らは「笑い続ける」ことで虚勢を真実に昇華しようとしている。
不幸を跳ね除けて幸福を謳う姿勢。絶望など嘘っぱちで希望こそが本物なのだという叫び。不幸という名の役者、そのからっぽな姿を生身の人間に見せかけるための意地。それは役者になるのではなく、他者に心の底から笑ってもらうために“役を捨てる”という行為だ。
表向きには康イエの最期が、裏向きにはおでんの裸踊りが、その生き様を体現していたと言えよう。
ウソップとナミの「作り笑い」も、積極性と消極性からそれぞれ表と裏に対応する。
そんな“役を捨てる”という行為の逆は、役を作ることだ。アーロンが言うところの「分相応に不幸に生きろ」というやつである。その恐ろしさを戯画的に描いたのが、キビキビの実による能力だ。
百獣海賊団のギフターズは劇中で、お玉の能力によって何人も寝返った。彼らが豹変するさまが、勧善懲悪によって征伐される鬼のように──暴力的に制圧されているように見えたのは私の偏見だろうか。
まるでばいきんまんが機械的にぶちのめされるような居心地の悪さ。
それが自分の顔を一部もぎ取って食べさせるという、アンパンマンじみた仕草で行われるのだから恐ろしい。
ワノ国の戦場だった鬼ヶ島も、バイキン城のように幻視してしまう。
ペルソナ5をプレイしている時、もし自分が怪盗団のターゲットになって「改心」させられたらどうしよう。自分は果たしてあのボス敵達のように醜く反論するのかな……?とか思ったことはないだろうか(私は思ったことがある。ばいきんまんファンだから)。今なんとなくそのことを思い出した。
あるいは時計じかけのオレンジを見た時のような恐ろしさを思い出す。
「他人に積極的虚勢を無理矢理に強いる」というのがキビキビの能力だ。本来、自発的に笑うはずの積極的虚勢を他人に強制しているという矛盾。それはおこぼれ町の住人に消極的虚勢を強いたオロチと真逆のようでもあり、同じ性質でもある。
ホールケーキアイランド編以降のワンピースにおいて、新聞会社の社長であるモルガンズが断続的に描かれていることも、『物事の表面性』という言葉を踏まえて見ると、示唆的に思える。
人間の本質と呼ばれるものが、いかにナラティブであるのか。
人間がいかに主観的にものを見ているのかを、ワノ国では痛切に表現したのだ。
差別や種族間の摩擦から「受け継がない」という意志を選択したフィッシャー・タイガー。存在そのものを道化に置かれ、強制的に虚勢を演じさせられるドレスローザのオモチャ達。
これらも大枠として、ワノ国編のテーマに近いかもしれない。
以上のことから、ワンピースは常々「嘘」という普遍的な要素に「笑顔」を意識的に絡めている。それはアーロンパークの時点ではっきりと描かれていた
というのが今回の論旨だ。
不幸でも笑うことができてしまう。どれだけ不合理な選択でも、誰かの為なら虚勢を張れてしまう。それが人間の強さであり、弱さなのだろう。
長い上にわかりにくい文章だなあとか、本編のメッセージ性と食い違っているなあと思われることもあるかもしれないが、これが現時点での見解である。少しでもこの感想を汲み取ってもらえたのなら、どうかワンピースを読み返してみてほしい。面白いよ。
読んだことがないという人や、途中で読むのやめちゃったなという人も、是非。