ともろう "日本語ラップ 繰り返し首を縦..." 2026年5月9日

ともろう
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@tomororz
2026年5月9日
日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること
本書第二部で、丹生谷貴志も好んで引くブランショの「墓石との熱狂的なダンス」という言葉が引用されていて、それが感動的な読書論(!)の一節だということを知る。かなり長くなるが、少し前の中村拓哉の本文から続けて引用する。  ブランショは文学論において、「諾」を、読書の経験に本質的なものだとも書いていた。読書とは、世界において何か行動することでも、労働=作業することでもない。それは「受容、承認し、「諾」と言うところの自由、「諾」と言うことしかできぬ自由」だとされる。読書とは「作品」への「滞在」であり、また「歓待」であり、根底的にそれに「諾」と答えることであり、そうすることでしかない。ここには、「entretien」と同じ作用を見出すことができる。読者は作品を否定することも、そこに何を付け加えることもせず、反復することしかしないのだが、その反復において作品は無限の差異へと開かれる。  反復的である「諾」にある自由や軽快さ。ブランショはそれを、作家が必然的に抱え込む暗く重い「孤独」と対照させる。それゆえ、「こうした意味では、読書は創造よりも積極的な、何ものをも生産しないにもかかわらず創造的なものである。それは決断の一翼を担っており、その軽快さと、責任の不在と、純潔さをもっている。それは何事をも行わず、しかもすべてが達成される。」  読書に根源的な肯定性、その軽さ、無垢=無罪、喜び。かくしてブランショは、読書に本質的な「諾」、反復=肯定をダンスの歓喜とさえ結びつけるだろう。  すなわちこの軽快さは読書の幸福と純潔とを予告するものであり、読書とは事実おそらくは隔離された空間での眼に見えぬ者をパートナーとするひとつの舞踏、「墓石」との楽しい、熱狂的な舞踏なのである。この軽快さにもっと重々しい運動を望んではならない。なぜなら軽快さがわれわれに与えられるところには、荘重さもまた欠如してはいないのだから。 (176頁〜177頁)
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