仲嶺真 "それは私がしたことなのか" 2026年5月10日

仲嶺真
@nihsenimakan
2026年5月10日
それは私がしたことなのか
本書は、「そもそも行為とは何か」という問題を哲学的に探究する試みである。より具体的に言えば、「何かが自然に起こることと、人が意図的に行うこととの違いは、一体どこにあるのか」という問題や、あるいは、「人はどのような場合に、「それは私がしたことだ』と認めるのか」といった問いの答えを導き出すことを試みる。そして同時に、以上の探究が、「倫理学」と呼ばれる哲学の一分野ー「自由」や「責任」、「道徳」、「生き方」などにまつわる哲学的探究ーの根源に触れるものであることを確認する。  本書の第2章までは、いま「オーソドックスな「行為」の概念」と呼んだもの、すなわち、「自分の自由な意志で何らかの目的を達成しようと試みる」というのが具体的にどういうことであるのかを掘り下げていく。まず、その「自由な意志」とはそもそも何かということが大きな謎であることを確認した上で、避けては通れない問題として、「人間にそもそも自由な意志は存在するのか、それとも、人間が何をするかは自然法則によってあらかじめ決定されているのか」という、自由意志と決定論をめぐる論争を扱う(第1章)。そして、「自由な意志の働きとは脳の働きに他ならない」という現代の「科学的主張」を批判的に検討しながら、第1章の問いに対する解答を提示する(第2章)。  以上の探究によってオーソドックスな行為の概念の中身を整理できたところで、本書の議論は先の「車と子どもの衝突」の例へと徐々に接近していくことになる。その中で、なぜこの例がオーソドックスな行為の理解と折り合わないように見えるのか!なぜこの例が、いま我々に「謎」として立ち現れているのかーを明らかにすることができるだろう。また、この例をまさに行為の例として適切に位置づけ、そこからオーソドックスな行為の概念をもう一度照らし返すことで、行為の全体像を見渡す展望を開くことができるはずである(第3章)。  そして、行為という概念をめぐって本書が辿るこうした哲学的探究は、次第に、「倫理学」の領域へと深く接続していくことになる。その過程で、行為者の個別性ないしは置き換えのきかなぎというものを切り捨ててきた既存の倫理学の枠組みの問題点と、倫理学という営みの本来の「故郷」とも呼ぶべきものが浮かびあがってくるだろう。これを踏まえて、本書は最終的に、一般的な理論体系の構築というものとは異なる倫理学の方向性を提言することへと向かう(エピローグ)。 pp.ⅱ-ⅲ
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