ゆき "黒牢城" 2026年5月24日

ゆき
@yu-ki
2026年5月24日
黒牢城
黒牢城
米澤穂信
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p9 小寺官兵衛は、もとの名を黒田官兵衛という。〜要するに、小寺官兵衛は良将であると評されている。
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p11 荒木村重は織田家に謀叛した。
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p13 「〜ただ一言を申し上げようとて、馳せ参じてござる」 〜 「この戦、勝てませぬぞ」
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p14 「弾正には後詰がなかった。ゆえに敗れた」 〜「~毛利勢が山陽道を駆け上がって有岡城を救いに来ると、摂津守様は信じておられる」 「来ませぬぞ。〜毛利はそれにも増してなお、謀の多い家にござりまする。摂津守様は何とて、右馬頭づれをお信じなされたか。官兵衛それが悔しゅうござる」
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p23 中川瀬兵衛の裏切りを口々になじる。家中の憤懣はもっともだーー中川瀬兵衛は村重に対し、こたびの謀反をことに熱心に勧めた将であった。
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p24 高山右近が守る高槻城が開城している。高山右近の高槻城と中川瀬兵衛の茨木城は、今日からなだれ込む織田勢を食い止めるための、二枚の楯であった。それが、立て続けに降ったのだ。
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p25 寝返りのおそれがある者を後ろに置けば、いざ寝返られた折に挟み撃ちとなる。前におけば、たとえ寝返られてもそのまま戦を続けられる。
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その人を軽んじ、ののしる気持ちを表す。…ども。…風情(ふぜい)。「足軽づれが何を言うか」
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p26 中川瀬兵衛は腰抜けどころではなく、丹後が言うような猪武者でもない。かれは昔も今も手がつけられぬほどの猛将
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p26 勝利の日を瀬兵衛と迎えたいとも思っていた。蘭世の習いとはいえ、ともとたもとを分かったことを何とも思わぬほど、村重は非情の人ではなかった。 だが村重は、そうした胸の内を語りはしない。村重にとって軍議は、おのれの胸の内を語る場ではなかったからだ。
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p27 白の南は大和田を経て大坂へ、北は池田を経て丹波の天険へと通じ、西は播磨への道が延びている。大坂が戦の巷にあるいま、伊丹は、京と西国とを繋ぐ無二の要衝である。
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p28 「大和田城が降ってござる」 〜 怒りも蔑みも忘れ、なによりもまず、信じられぬといった顔をした。 「安部兄弟が降ったと仰られるか」 〜降伏を決めたのは安部兄弟ではなく、その息子の仁右衛門であったという。
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p30 「安部仁右衛門の一子自念、人質として城中にあり」 〜 「では、早速に。はたものでよろしゅうござるか」 そう久左衛門が訊いたのは、人質の成敗にも幾通りか手があるからだ らはたものは磔であり、衆目に晒しながら殺すことになる。斬首は苦しみが少ない。〜武士としての名をまっとうさせるため、自害を命じてもよい。いずれにしてま、寝返り者の人質を殺すのはら乱世の習いであった。 〜 「自念は牢に繋ぐ」
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p31 人質は、それを差し出した者が裏切らない限りは、大切な客である。村重は人質たちを信の置ける家臣に預け、その屋敷に住まわせることが多かった。
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p34 村重はもともと、国衆池田氏の一家臣、荒木弥助に過ぎなかった。そのかれが今日の荒木摂津守村重になるまでの道は、むろんのこと、平坦なものではなかった。
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p36 千代保のことを今楊貴妃と呼んだ都人がいた
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p40 「思い違いをいたすな。おぬしは安部の人質、安部が寝返ったいま、生かすも殺すも儂が決める。儂が生かすと決めたゆえ、おぬしが心のままに死ぬことは許さんのだ。刀を出せ」
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p40 磔、磔、磔である。 はりつけ
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p41 「申し訳ござりませぬ。安部自念殿、生害にござりまする」
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p43 猶子 兄弟・親類または他人の子を自分の子としたもの。義子。養子。
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