
本屋lighthouse
@books-lighthouse
2026年5月12日
ロード・ジム
ジョゼフ・コンラッド,
柴田元幸
読んでいない
おなかの調子はだいぶよく、しかしなんとなく変な感じも残っていたため朝食は近所のセブンで軽く済ませる。近所のセブンという響きはタイにそぐわないと思われるかもしれないが、タイにはセブンがいたるところにある。いまはクレヨンしんちゃんとコラボしているらしく、どの店舗にもいる。
昨日確認済みのバス乗り場まで歩いて移動。やはり鳥の鳴き声がよく聞こえる。タイには鳥がたくさんいる。少なくともよく鳴く鳥がいる。しかしその音にすると「ポーオウ⤴︎」というような声の主は二年前も今日も見つけることはできないでいる。あと、タイの鶏は「コケコッコー」ではなく「コケコッk」のように最後の音がすぐに終わる。おそらく鶏にもさまざまな種類があり、最後を伸ばさないのがso coolであるという共通認識が形成された遺伝子を持つ種類なのだろう。確かに音楽は少し物足りないくらいのほうがリピート再生してしまう傾向がある。あの気持ちいいところをもう一回聴かせてくれ、という思いがヘビロテの根本要素、つまり我々を駆動しているなにかだ。
バスは無事やってきて出発。2時間半かけてチェンライまで移動。相変わらず運転はノリノリで、直線ではなくむしろカーブで抜いていくようなドライビングが続く。マストドーンでつたゐさんにその旨報告し、無事よろこばれる。バスも無事に到着。40年前ほどに父が泊まったことのあるWANCOME HOTELに無事空室を見つける。チェックインまで少し時間があるので散歩し、アカ族という山岳民族の栽培しているコーヒー豆が売りというカフェにて休憩。この情報を父は日本のテレビで得たらしい。チェックインして荷物を置いて、父はやはり40年前に行ったことがある地域に足を伸ばし、私は近場に見つけた山岳民族博物館に行ってみる。
まず30分ほどのビデオを見る。日本語字幕・音声のものがデフォルトで選べるようになっていて、たくさんあるうちの有名ないくつかの民族を中心にその歴史や現在の暮らしぶりが紹介される。動画を見終えたら展示コーナーに移動ができる。基本的にタイ政府によって「タイの暮らし」に適応させられるのがお決まりのパターンで、もとは高地での芥子の栽培で生計を立てていたのが平地での別の作物の栽培や家畜の生育へと移行させられていく歴史が、現在進行形で続いている。コーヒー豆の栽培もその一環ということだ。さらに芥子の歴史を見ていくと、結局は西洋の植民地支配が根本にある。芥子=アヘン(Opium)が経済発展のメシの種として優れていることを発見した西洋は、その栽培を加速させる。もとは「薬用」として適量が使われていたオピウムが、その過程で麻薬=アヘンになってしまう。そのあとの歴史はアヘン戦争だとかで有名なくだりから想像してもらえばイメージはできると思う。これら山岳民族がタイに移動してきたのは実際にはここ100年前後くらいのことで、アヘン戦争よりもあとの移動がほとんどだ。しかしすでに芥子はアヘンになっている。そういった点からも山岳民族は文化を奪われているとも言える。館内には私ひとりだけで、集中して英語と向き合えた。必死に読む。二年前に泰緬鉄道博物館で同様のことをしたときよりも読めている気がする。ありがとうTypee。
観光と搾取は本質的に同じものなのではないか、と昨日からなんとなく考えていたのだけど、今日のあれこれでその感覚は強まった感じがある。搾取された土地で観光は生まれる。観光とはそもそも「他者=異物のありようをおもしろがる」行為であり、その視線にはどうやっても「エキゾチック(を楽しむ)」という要素が存在する。それを完全に脱色することはできない。そして、観光地に住む人は自身の生活を切り売りしてお金を得る。山岳民族集落へのツアーの紹介コーナーが博物館にはあり、その際の各種注意点、つまりリスペクトを持って行動することというものが徹底して記載されていたが、そのリスペクトをもってしても搾取であることからは逃れられない。しかもその生活、文化を失わせている側が企画するツアーだ。よく考えたら意味がわからない。大事にしたいなら放っておくべきだ。奪っておきながら保護しよう、大事にしようとアピールする、その矛盾した態度は植民地主義のそれと同じだろう。搾取はより周縁の異物へと向かっていく。西洋がアジアを、アジアの中の覇権国家が従属国家を、従属国家が少数民族を、少数民族がその内部の弱者(女性と子ども)を。
観光地での値切り行為に感じていた居心地の悪さもここに答えがあった。値切りは搾取だ。おおむね、物価が安いとみなした地域に対して値切りは行なわれる。観光客相手にぼったくってるんだから値切りしていいというのが正当化の理屈だが、より大きな視点で捉えれば、東南アジアの国々の経済を低レベルにしてきた原因は西洋と日本の植民地支配にある。かれらが我々観光客をぼったくるのはその報復であるとも言える。ならばその報いは受けて然るべきだ。ぼったくられても痛くも痒くもないのだから言い値で了解すべきなのだ。それがせめてもの贖罪なのではないか。そして残念なことに、経済的な格差は日本と東南アジア諸国のあいだにはほとんどないように思える。言い値が高いと感じたならそれはぼったくりではなく、自国の経済の衰退が原因だ。
外に出て、来る途中に目星をつけていた公園におやつでも買っていこうかしらん、と思っていたら大量の中学生。おそらく今日から学校が始まり(夏休みが終わった)、始業式を終えた制服の群れが道に、そしてセブンに溢れていた。さながらフェス会場のコンビニのようなセブン店内でバナナのおやつを手に、中学生しかいない列に並ぶ。知らないアイドルのライブに紛れ込んでしまったような申し訳なさを覚えつつ、ベテランであろうレジのおばちゃんの素早い打鍵(機械のほうがそのスピードに追いついていない!)を見ながら待つ。無事に購入し公園へ行くと、当然ながらそこにも中学生たちはたくさんおり、ここも学校の敷地内なのではと錯覚を覚えるほどだった。そのなかに紛れぼうっとバナナのおやつを食べる30代中盤の外国人旅行客。明らかにへんてこだが、へんてこであれるほうが人生は楽しめるからね、へんてこであることを恐れるでないぞ若人よ、などと思いながら無言でバナナのおやつを齧っていた。おいしい。
ホテルに戻って父と合流。近場の夜市のようなところにある屋外フードコート的な場所で夕食。おなかの調子はほとんど通常運行となり、なんだかよくわからない野菜炒め丼を食す。うまし。ひとり湯河原にリトリートの旅に出たひろこさんから景色のよい露天風呂、裸の足先だけが隅に写っているちょっとえっちな写真が送られてきたので、こちらも負けじとえっちな写真、目の前の野菜炒め丼の写真を送り、ベビーコーンがえっちだという評論を繰り広げるなどした。ひろこさんはそのあと部屋でビールをぶちまけたらしく、通常運行のもよう。本は一切読んでいない。



