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本屋lighthouse
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千葉市幕張の新刊書店 平日14時-21時/土日祝12-19時(定休:毎週月火/第3水曜) 「こども読書ちょきん」やってます NO HATE🏳️‍🌈🏳️‍⚧️ JR/京成幕張駅徒歩6分(近隣にコインパーキング複数あり) ここは関口個人の読書記録ですが、読んでいる本はだいたい店頭またはウェブストアにあります。在庫がない場合は取り寄せますので、気軽にご連絡ください٩( ᐛ )و
  • 2026年1月13日
    翻訳のスキャンダル
    翻訳のスキャンダル
    年始から宣言どおりにメルヴィルの『タイピー』を素人翻訳しはじめていて、なんだかたのしい。ということでずっと気になっていたこちらを読む。 世界の覇権言語である英語の特権性を揺るがすこと、あるいは外国のテキストを自国語に翻訳することによって失われる異質性、といったことが根底にあるテーマのひとつらしい。 「読みやすい翻訳」を我々は高評価するけども、その読みやすさの理由が「異質なものの排除=訳出せずにスルーしたり、日本文化内部のものに変換してしまったこと」にある場合、そこにある種の侵害が生じているとも言える。特に、異質なものの排除がより強い立場からなされた場合、たとえばカリブ海のテキストを英語に翻訳するとか、東南アジアのテキストを日本語に翻訳するとか、その場合はまさに「植民地主義」的な翻訳となりうるということだ。逆に言うと、読みにくい訳文があらわれたとき、そこには我々が真摯に向き合い理解しようと努めるべきなにかがある、と考えればよいということになる。小説に限らず翻訳本が「わからない」ことはよくあるが、それは「自分にインストールされていないことと向き合っている」証であり、落ち込んだり苛立ったりしなくてよいということでもある。なるほど、これは元気になれる本だ。
  • 2026年1月9日
    失われたスクラップブック (ルリユール叢書)
    語り手がひとりではない、という形式がもつ力、あるいは希望、のようなものを感じた。一風変わった形式であることが話題として先行してしまうけども、おそらく私たちの「生」にとってとても大切なことをやろうとしている物語なのではないか。
  • 2026年1月9日
    灯台守の話
    灯台守の話
    結局昨日の夜には読み終えてしまった。久しぶりに1日で読み終わる。実はただいま本書は版元品切中で、重版するのかしないのかよくわからず、しないとなるとこりゃ大変、灯台がまたひとつなくなってしまう、ということで重版頼むぜアプローチをかけるべくもろもろ準備中なのでした......。
  • 2026年1月8日
    灯台守の話
    灯台守の話
    おとぎ話では、名づけることは知ることだ。わたしがあなたの名前を知れば、わたしはあなたの名前を呼ぶことができる。わたしがあなたの名前を呼べば、あなたはやって来てくれる。(p.171) 好きなひとには名前をいくつもつけてしまう。長いこといっしょに暮らしていた犬にもたくさん名前をつけた。本名をもじったもの、もはやまったく関係のないもの、それらはすべてそのひと/犬と結びつけられ、その名前を目に/耳にしたときに想起される。『ひらやすみ』のドラマを観ていたらミーちゃんという猫が出てきた。隣で観ているひろこさんはミーちゃんで、ミーちゃんはひろこさんなので、その猫はひろこさんだった。そしていつしか、私でもあった。食卓となっている机の両端にはそれぞれひとりずつのミーちゃんがいて、テレビのなかにもミーちゃんがいた。テレビのなかのミーちゃんは星になり、そのあとハリボテの家の窓辺に生まれなおした。ミーちゃんはおかえりと言っている。ミーちゃんはおやすみと言っている。
  • 2026年1月8日
    灯台守の話
    灯台守の話
    わけあって再読。孤児となったシルバーを引き取るミス・ピンチの振る舞いが、ちょうどアニメが始まった『違国日記』の槙生と脳内にて比較される。きっとミス・ピンチは盥の漢字を知らないだろう。 話せば長い物語だ。そして世の物語がみなそうであるように、この物語には終わりがない。むろん結末はある――物語とはそういうものだ――けれど、結末を迎えたあとも、この物語はずっと続いた。物語とはそういうものだから。(p.20)
  • 2026年1月5日
    失われたスクラップブック (ルリユール叢書)
    それでも何かが意味を持つ可能性が残されているかのようにひたすら仕事を続ける――それを望む者のために大事な思考を生み出し続ける――いつかそれを見つける能力を持った者のために――というのも、チョムスキーはそれが正しいことだ、誰かがしなければならないことだと知っているから――ひたすら辛抱し、続けること――正しいこと、正義がいつかは認められるというかすかな、そして恐ろしく時代遅れの希望にかけて――(p.326)
  • 2026年1月2日
    失われたスクラップブック (ルリユール叢書)
    自分の言葉や感情はすべて他人の借り物だ、という話を語り手はしていて、「私がとりわけ望むのは、自分独自の苦しみ方を見つけること、悲しみの中で自分の表現を見つけること だから私はそれを自分のプロジェクトと定める」(p.214)とするのだけど、しかしこの「私」「私自身」などの言葉こそ断定がすぎるからよろしくない、「彼」を使うほうがいいと言って文章を紡ぎはじめる、すると彼は目を覚ます。そして彼は
  • 2026年1月1日
    失われたスクラップブック (ルリユール叢書)
    結局昨夜は11時前に眠くなった。いま、語り手はジョン・ケージの顔に似た白いキノコを森のなかで探し、見つけた。
  • 2025年12月30日
    失われたスクラップブック (ルリユール叢書)
    12月30日といえば東京マラソン旧コースをぜんぶ歩く日で、だから朝6時に家を出て電車に乗って、新宿都庁前を目指している。この都庁前へ行く電車のなかでその年の最後の本を、しかし厚い本を選ぶからそのまま年を越して1冊目の読書となる本になるのだけど、今回はエヴァン・ダーラの『失われたスクラップブック』(木原善彦 訳/幻戯書房)だった。 すでにこの本は丹渡さんによって代わりに読まれているのだけど、だからこそ2025年を象徴する1冊のように思えるし、一昨日の最終営業日にお客さんと別の本の話をしているときに幻戯書房のサイトをひらき、本書の3刷が年初に出来するというバナーを目にして、もうそこからは完全にこの本だった。 電車に乗ると、文庫本片手に奇跡のようなバランスで固まりながら寝ているおじいちゃん、朝帰りですという空気を出し惜しみなく振り撒きながらやはり同様に奇跡のようなバランスで互いに寄りかかりつつ爆睡しているカップルなどがいる。どうも「断片」と「統合」をテーマにしているような気がするエピグラフと冒頭に、ウルフの各作品、『ダロウェイ夫人』であったり『幕間』であったりを想起している。あるいは、「警官に呼び止められたことは一度もない サイレンを鳴らされたり、尋問のために署に連行されたり、身分証をチェックされたり、保安装備を身に着けたいかつい男からさりげなく鋭い目を向けられたりしたことは一度もない 彼らのせいで僕が自らの軌道を変更したこともない」(p.012)と自分の不可視性を語る主人公は、無徴性を付与されたマジョリティとして読むことができるのかもしれない。
  • 2025年12月29日
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    差別はよくないし多様性が前提にある社会がいいよね、でも「キャンセルカルチャー」はやりすぎだよ、というようなスタンスの人にこそ読んでもらいたい1冊だと個人的には思った。「キャンセルカルチャー」という言葉はいわば「どんなものでもそこに投げ込める、定義がガバガバな器」であり、実際にはキャンセルなどされていない事例であっても容易に投げ込まれてしまうがゆえに、厳密な場合分けや慎重な検討を必要とする事例があるということも当然に無視される。ゆえに実際には「どうもキャンセルカルチャーという行きすぎた正義があるらしい」という雑な認識でしかないものも、「自分は冷静な立ち位置からキャンセルカルチャーの具体例を検討・認識した」と誤認することになるし、その積み重ねは結果として差別する自由を主張し多様性を否定する価値観を利することになる。とりあえず、「キャンセルカルチャー」という言葉を安易に使わないことから始めてみたい。
  • 2025年12月29日
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    「キャンセルカルチャー」の事例として紹介・報道されるものの多くはキャンセルされた側の証言のみで構成されており、批判した者を筆頭に各種の周辺人物(中立的な存在も含めて)の証言は出てこないことが多い。つまり可能な限り事実に即した歴史を残そうというよりも、キャンセルされた側にとっての「物語」を作るという意識が強い。つまりそれらは文学作品であり、実際に「大学教授がキャンセルされた」というエピソードを含むアメリカ文学がいくつもあるとのこと。これを「完全な捏造」と言い切ることはできない。しかしそれでも、誇張や多少の嘘を含んだこれら「物語」を「事実」として主張することもできないはずだが、その「物語性=各種の複雑さを取り除くことで理解しやすくなった単純なストーリー」ゆえに受け取り手は「本当にあったこと」として認識していくことになる。 かつて清風堂書店の面屋さんが百田尚樹の『日本国記』に「歴史改ざんファンタジー」というPOPをつけて販売するという抵抗を試みたことを思い出す。あれは正しい抵抗だったが、『日本国記』として物語化された時点で勝ち目のないものだったのかもしれないうえに、実際にはキャンセル=店頭から排除されていないのに、おそらく後世には「キャンセル」の事例として引き合いにだされる「物語」の素材になるのだろう。
  • 2025年12月28日
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    p.203〜 「物語化」していくことで「真実」が流通していく。その物語が「どのように使われたか」という観点。『ナラティヴの被害学』を思い出す。
  • 2025年12月27日
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    『ニューヨーク・タイムズ』に現れた最初の定義は、はるかに的確だった。ブロムウィッチによれば、それは「対象からの全面的投資撤退」。つまり、このキャンセル・カルチャーに関して書かれた最初期の文章を通して、『ニューヨーク・タイムズ』は、このネット上の言説の背後には市場の論理、ファンダムの論理、そして注目(ルビ:アテンション)の論理が働いていると明確に認識していたのであった。それは「撤退」行為であって「規制」行為ではなかった。あるいは「自分の機嫌を自分で取る」行為であって「威圧」行為ではなかったのである。キャンセルする者は、たとえそれがキャンセルする対象に何の影響もなかったとしても、「私はもう注目しないからな」と言うのであった。二〇二二年の同紙の社説では、「キャンセル」という言葉で想像される個人や集団は、一八〇度転回していた。二〇一八年には、キャンセルする者はまだ、集団から身を引いた個人として想像されていた。しかし二〇二二年の『ニューヨーク・タイムズ』の定義では集団が実行する。そして個人が対象になる。(p.120-121) いち本屋が特定の本を置かないと主張するのも「個人的な」「撤退」であるが、残念ながら「集団的な(社会全体からの)」「威圧(存在否定)」であると認識されてしまうことが多い。
  • 2025年12月27日
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    店頭イベント開催(そして登壇)の準備として早速読み始める。とかくSNSでは文脈を無視した認識をもとにした意思表明がなされ、それがアテンションエコノミーに乗っかって拡散されていくのだが、その構造こそが「キャンセル・カルチャー」なる虚像的現象が実在していると錯覚させる要因である、という前提で読み進めている。
  • 2025年12月26日
    新版 ヌアー族(942)
    新版 ヌアー族(942)
  • 2025年12月26日
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    もうひとつ気になったのは以下の記述。飢饉が長引くとこの理想的な贈与関係にもヒビが入る。そのとき、 スピリアスの伝聞によると、世帯の者たちが、しばしば大いに恐れていたのは、盗みにくるよそ者ではなく、ふつうなら大歓迎され、すきなだけとってもよい、親族の襲来だった、とのことである。(p.384) という状況が生じるのだが、現代社会における排外主義の高まりとはこのようなことなのかもしれない。親族には分け与えなくてはならない。しかしそんな余裕はない。だからこれ以上「親族」とみなすべきと(他者=社会から)要請される存在を増やしたくない。つまり「よそ者」とみなし「盗みにくる」者として非難してよい存在を増やしていくことが、おのれの身を守る術となる。「日本人ファースト」の心理がここにあるのなら、たたかうべき相手はやはり「人」ではなく「状況」だ。状況をひっくり返さなくてはならない。
  • 2025年12月26日
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    読了。多くの研究者による具体的なエピソードの引用からなる補遺の章がもっとも理解しやすく、楽しく読めた。しかしそれはこれまでの理論的で難解な本編を読み通してきたからこそであり、まさに迂遠の有用性とでも言ってよいものを体感する読書となった。 肝心の「パーティー」に関する記述は、たとえば「C 1・5 ルソン・ネグリート族――大量の食物が分与されている。よい獲物があると、いつでも隣人は、御馳走に招待されて、全部たべつくしてしまうのである(Vanoverbergh, 1925, p.409)」(p.375)といった簡潔な記述のみ発見できたが、本編と補遺で何度も繰り返されている未開社会のシステム、つまり「富める者は気前よく分け与える」「それが名誉=権力の証となる」「ゆえに名誉=権力を欲する者ほど多く分与するため結果として所有財産は少なくなる」「しかし立派な者として認識されるため集団内から贈与を受ける」「そうして得た贈与もまた分配される」といった循環機構のようなものを前提にして読むと、リアリティのあるパーティーとして現前にあらわれてくる。 B 5・3 カチン族――「理論上からいうと、だから、上の階級の者は、下の階級の者から、贈与をうけとっている。しかし、このことから、経済的な利益が恒久的に発生しているわけではない。贈与をうけとったものは、誰でも、与え手にたいし債務者(フカ)の位置にたたされるからである……。それゆえ、逆説的なことだが、高位階級の地位にある個人とは、贈与をうけとる人と定義はされるけども……、彼は、うけとったより以上のものを無償譲渡しなければならないという、社会的強制に始終さらされているわけとなる。さもないと、彼は、しみったれだと思われ、しみったれた人は社会的地位を失いかねなくなるのである」(Leach, 1954, p.163)p.368-369 この権力関係が瑕疵のないものであるとは思わないが、社会において権力関係が避けようもなく生じてしまうのであれば、その権力をいかにズラすか、誤魔化すか、活用するか、ということが必要になり、上記のような在り方はその例として好ましいとは言える。次に読むべきは平凡社ライブラリーの『ヌアー族』かもしれない。
  • 2025年12月25日
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    結局「パーティー」のくだりとおぼしきわかりやすい記述は見当たらないまま本文は読み終える......補遺にあるのだろうか......あるいは別の本なのか、私が読み飛ばした(寝てた)のか......よい読書だ。
  • 2025年12月24日
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    相変わらずわかんない話をされ続けているが、「友人が贈与をすれば、贈与が友人をつくるのだ。未開交換のおおかたは、われわれの商取引にくらべると、はるかに決定的にこの後者の機能、つまり、用具的機能をもっている。物財の流れが、社会関係を保全したり、開始したり、するからである」(p.224)は大事な話のような気がする。真ん中の一文は、やはりよくわからないが。用具的機能ってなに!?
  • 2025年12月23日
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    第3章で経済理論の話になってきてわからなくなっちゃった。とりあえず読み進める。この章を越えたらたのしくなる気がする。
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