

本屋lighthouse
@books-lighthouse
千葉市幕張の新刊書店
平日14時-21時/土日祝12-19時(定休:毎週月火/第3水曜)
「こども読書ちょきん」やってます
NO HATE🏳️🌈🏳️⚧️
JR/京成幕張駅徒歩6分(近隣にコインパーキング複数あり)
ここは関口個人の読書記録ですが、読んでいる本はだいたい店頭またはウェブストアにあります。在庫がない場合は取り寄せますので、気軽にご連絡ください٩( ᐛ )و
- 2025年6月21日突囲表演残雪,近藤直子読み始めたお店をおやすみにして友人と野球を観る。横浜スタジアムまでの道中、大磯まで行くらしいひろこさんを途中で見送ってから読み始める。タイミングが合わずトワウォを観れなかった気持ちの置きどころになぜかこの本が選ばれたのが1ヶ月前、カリブ海思想で重要とされるのがマジックリアリズム文学ということを読んだのが数日前、という流れでどう考えてもこれだった。主人公の年齢についてあーだこーだまわりが言っていて、そのまわりの人の説明が始まってしまう感じがどうにも『トリストラム・シャンディ』だったが、そっちはそっちで上巻の途中で放置しており、プルースト、トリストラム、の仲間入りしそうな気配もある。贅沢。最近プルースト読めてないね。
- 2025年6月21日
- 2025年6月19日まだ読んでる直線的で、攻撃や支配や競争の標的となる他者を必要とするミサイル的価値観。円環的で、相互歓待の姿勢を基本とするカプセル的価値観。前者を西洋的、後者をカリブ海的とする論が展開される第9章。 ミサイル的価値観は「敵」を必要とするナショナリズム/ファシズム理論とも軌を一にするように思える。ここ数日で地獄度合いを増しているイスラエルの動きも同様で、パレスチナのみならずイランまでをも攻撃対象として認識し、文字どおりにミサイルを撃ち込んでしまっている。 しかしここで思うのは、おそらくイスラエルは自らをミサイル=攻撃や簒奪の主体としてではなく、むしろその被害を受けている側として自らを認識しているのだろう、ということだ。つまり、奪われているから奪い返しているだけだ、と考えている。これは「日本人ファースト」的な言説に期待をしてしまう者らにも共通する認識なのだと思う。かれらはミサイルを撃つ側ではなく撃ち込まれている側だと感じている(「我々の日本に外国人が侵入している」という認識なのだから、その理路が行き着く先としては必然とも言える)。 そうなると、イスラエルや排外感情を募らせている者らに「ミサイルを撃ち込むなんてどう考えてもダメだとわかるでしょう」と言っても伝わらない、ということになる。これは強硬的なシオニストや排外主義者たちだけの認識ではない。後者に的を絞れば、大多数の日本人が、ミサイルが撃ち込まれている存在を「自分たち」だと誤認している。どうすれば伝わるか、誤認をあらためてもらえるか、いままでと同じやりかたでは状況は変えられない。
- 2025年6月18日
- 2025年6月17日まだ読んでるカリブ海諸国は西洋各国の統治によって、異なる言語経験を持っている。しかしそのことによってカリブ海文化が完全に消滅したわけではなく、それらはブラスウェイトの言う「海面下」に「沈み込む」ことによって生き延びている。そしてグリッサンが言うには、カリブ海は「分散する海」であり、「集中する海」としての地中海≒西洋的思想と区別する。統一ではなく分散。しかし同時にブラスウェイトの言う「統一は海面下にある」という理論にもグリッサンは共鳴し、「カリブ海における海面下的統一は、集中による一ではなく、分散による多なのである」(p.119)と宣言する。 これまでに見てきた景色といま見ている景色は各々異なっていて当然である。ゆえにそれらの積み重ねにも違いはあらわれ、各々が判断する正しさにも違いが生じる。だからこそ正しさを追求する者どうしでも軋轢が生じるわけで、その軋轢を乗り越えるには各々の見てきた/見ている景色を、そしてその違いから生じるさまざまな解答や方法論の違いを、批判しつつも認めあうことが必要になるのだろう。しかし、各々の「景色」は海面下に沈み込んでいるため共有されにくい。集中による一ではなく分散による多を実現するためには、各々の持つ「景色」を海面下から引き上げる必要がある。しかしそれは簡単ではない。沈み込ませたままにしたい景色もある。だからこそ、海面下に沈んだままのなにかがそこにあることを、我々は想像しなくてはならない。意見(=海面上に表出したもの)の相違は、積み重ねてきた経験(=海面下に沈み込んでいるもの)の相違であり、後者にこそ意識を集中させなくてはならない。そして前者の否定は後者の否定にも繋がる。だからこそ、我々は深く傷つくのかもしれない。否定されたのは「いまあらわれた意見」ではなく、「これまで積み重ねてきた経験」だからだ。
- 2025年6月16日大都会の愛し方オ・ヨンア,パク・サンヨン映画を観た原作未読で映画から。異性愛者のジェヒはとりあえずハッピーエンドと言ってよいだろうけど、ゲイのフンスの現実は変わっていない。変わったのは当人たちの意識や生き方であり、社会構造は変わっていない。そういうことを画面の中に残す形で描いていたように思える。交番でジェヒの説明とフンスのカミングアウトに賛同した警官らは酔っていた(その前にサッカーの試合を観るのに熱中している様子が挟まれる)。ゲイが主人公の映画を観たフンスの母の、その後は描かれない。あるいは、ほんとうに目を向けなければならないのは「描かれなかったこと」かもしれない。誰が、なにが、描かれなかったのか。
- 2025年6月16日まだ読んでるラヴレイスの言う「歓待」という概念をどのように敷衍できるかを考えている。カリブ海諸国に西洋諸国によって連れてこられたアフリカ系奴隷と、同じく西洋によって連れてこられたインド系の労働者(実質的には奴隷だ)は、西洋の政治機構=植民地支配によって憎みあわされてしまった。本来の敵は植民地支配をした西洋の政治機構だ。しかし西洋は「アフリカとインドは本質的に敵どうしだ」と規定することで、政治によって意図的に作られた対立を隠蔽する。 そこで「歓待」が必要になる。そしてこの意図的に作られた対立構造は、たとえば「在日外国人と各種貧困に苦しむ日本人」という構図とも類似するものがあるかもしれない。この二者は本来、敵どうしではない。政治によって作られた対立構造である。ならば、どのように「歓待」を生じさせることができるのか。
- 2025年6月13日
- 2025年6月12日両膝を怪我したわたしの聖女アンドレア・アブレウ,五十嵐絢音,村岡直子読み終わった原文で読みたくなった、つまりグッときたということ。かつてスペイン語を第二外国語で選択していたことを思い出したが、巻舌発音がうまくできることくらいしか誇れることがなかった。
- 2025年6月12日両膝を怪我したわたしの聖女アンドレア・アブレウ,五十嵐絢音,村岡直子まだ読んでるそしてわたしは海を見た、いつも同じものに見える海と空、毎日同じ灰色の濃いかたまり。地区の人々の悲しみは雲なんだ、うなじの先、脊柱の一番上の部分に突き刺さった雲なんだという考えがそのとき浮かんだ。(p.148) 気圧が低いときに頭が痛くなったり、気分が落ち込んだりするのは、首のあたりに雲が突き刺さってるから。そう考えると納得した。
- 2025年6月10日両膝を怪我したわたしの聖女アンドレア・アブレウ,五十嵐絢音,村岡直子読んでる昨日から読み始めた。最初は少々飲みこみにくかったが、途中からギアが上がってきた感じ。作品のギアなのか私のギアなのかはわからない。ルシア・ベルリンの世界をさらにぶっ飛んだものにして、登場人物の年齢を10歳前後にした、そんなような読み心地と形容するのは正しいだろうか。
- 2025年6月9日発声と身体のレッスン鴻上尚史読み終わった代わりに読んでる発声のレッスンの頃からずっと向井秀徳だったのだけど、身体のレッスンになったら向井秀徳でしかなかった。新宿都庁がそびえ立つ、朝焼け、いらだち、まばたき、してるあいまにあいまいに、真昼間、うしろ向きでぶらぶら歩き、だんびら、振り回す、DANBIRA、振り回す、健康のためにぶりぶり回す。
- 2025年6月7日氷の城壁 13阿賀沢紅茶鬼の発送作業とそれに伴い積み上がっていた段ボールたちを片付け終わり、早く帰ればいいものの帰りたくない、なんか無駄に時間を過ごしたい、という定期的になる謎の心持ちになり、やはりこれまた定期的になる再読欲がやってきている『氷の城壁』を読んでしまった。とりあえず13巻まで。さすがにもう帰る。恋愛の話が主軸ではあるものの、一般的なラブそしてロマンティック的なものとは異なるテイストの愛がちゃんと描かれていて、おそらくそこにこの作品の肝がある。ラブアンドロマンティックな恋の話として読まない、その読み方にひらかれていると言えるかもしれない。
- 2025年6月7日版元番外地下平尾直インタビューしますゲラをもらってますシモヒラオ氏が子どもの頃に作者不詳のまま覚えていた詩のフレーズに夕暮れというワードがあり、夕暮れといえば向井秀徳になっている私はもうそこからin the MATSURI STUDIOだった。今日も夕暮れは歪んでいる。
- 2025年6月5日両膝を怪我したわたしの聖女アンドレア・アブレウ,五十嵐絢音,村岡直子読みたい終わらない発送作業藤岡みなみさんの新刊『ぼちぼち』の流通を委託しているので注文をもらった本屋に発送をしているのだけど、まったく終わらない。明日にはくどうれいんの新刊も30冊きて、ぜんぶ発送しなくてはならない。もうどうすればいいのかわからない。そんななか駄菓子を数個ずつ20回くらいにわけて買いにきたキッズの塊たち、そしてお店のこども読書ちょきんを使って本を買っていくいつものキッズの塊たち、が2時間くらい途切れず、夕方になりやっと帰った頃合いで私は気がつくと「地獄だ......」と漏らしており、キッズの塊たちに紛れて入店していた常連W氏にはきっと聞こえていたであろう。なにもかもを終えたときにはきっと崩壊しているに違いなく、崩壊したまま読むこいつは極上でまちがいない。
- 2025年6月5日生物界は騒がしいD.G.ハスケル,屋代通子まだ読んでる生息する環境によって使う音の種類、主に高いか低いかという周波数の違いに使い分けが生じるという話を読んでいるあいだ、脳内で再生される音のデモはすべて向井秀徳が発していた。向井の声を捉えるためにキワキワに研ぎ澄まされた聴覚神経は、外で降りはじめた雨の音をも、いちはやく察知する。
- 2025年6月4日生物界は騒がしいD.G.ハスケル,屋代通子まだ読んでるだいぶ間があいてしまったが再開。哺乳の機能が発声の機能を複雑で高度なものにしたらしい。乳を吸う、この「吸う」という機能がすごいらしく、そのおかげで発声やら調音やらもできるようになった、みたいなことが書いてある。この本も「発声と身体のレッスン」だった。 文字を目にして三〇〇ミリ秒後、脳の視覚野を電気信号が走る。四〇〇ミリ秒後、聴覚野に火が点き、音と言語を解釈する部位がすみやかに続く。書かれた文字に注意を向けてから一秒もしないうちに、黙って読み上げられた単語が脳の「聞くこと」に関わる領域をあわただしく活動させる。黙読することでわたしたちは、書いた人間の声の亡霊に、触れることができるのだ。(p.90) 『発声と身体のレッスン』を読むとき、すでに私は著者ではなくなぜか向井秀徳の声と動きによって「声の亡霊」が語りかけてくるように感じている。
- 2025年6月1日発声と身体のレッスン鴻上尚史まだ読んでる代わりに読んでるストレッチとは、あなたの「からだ」とあなたの“対話”です。あなたの「からだ」は毎日、コンディションが違います。ストレッチは、あなたがあなたの「からだ」に、「今日の具合はどうですか?」と問いかけるものなのです。それを、中学や高校の時にやったように「いっち、に〜、さん、し〜」と円陣を組みながら、全員でやっては、まったく意味がないどころか、害悪になります。(p.264) まじでそれな〜、である。著者とハグをした。どうして一律の準備運動をせねばならんのか、それが最もよいことと考えられているのか、まったくわからなかったのを思い出した。実際、一流選手は自分のスタイルでストレッチなりなんなりをやっている。それが世間ではルーティンと呼ばれるもので、すごいすごいともてはやされもする。しかし子どもに対する指導では、それは忌避される。みんなとちがうことをやっていると怒られるし、そもそもちがうことをできないようにコントロールされる。この矛盾が理解できなかったしいまもできないが、やはりこれも嫉妬のなせるわざなのかもしれない。自分ができないこと(=みんなとちがうことをやる)をやっている、やろうとしている他者がうらやましくて邪魔をする。しかしあまりにも遠くにいってしまうと、大谷翔平のようになんでも「すごいすごい」になる。腹がたってきた。この本、記憶の蓋をこじあけてくる。
- 2025年6月1日ジョゼフ・コーネル 箱の中のユートピアデボラ・ソロモン,太田泰人,林寿美,近藤学読み終わった晩年になってようやく名声やら評価やらを手に入れ始めたコーネルだが、それゆえかどんどん人との関わりを減らしていく。しかし学生を筆頭にした若者や子どもに対しては、むしろ積極的に関わっていく。もちろん、女性に対する偏執的で歪みのある愛情、あるいは性的欲求も変わらない。 ほとんど毎日、台所のテーブルで本を読んだり書きものをしたり、時折かかってくる電話に答えたりして、落ち着いた暮らしを送っていた。青いタオル地のバスローブを着たまま、ことさら何かに駆り立てられるかのように自分の見た夢を日記にしるした。弟や母の夢を見た。ジョイス・ハンターと一緒にストランド・フードショップでジュークボックスに耳を傾けている夢を見た。彼が日記をつけているのか、日記が彼を支えているのか、わからなくなっていた。(p.438)
- 2025年5月31日版元番外地下平尾直インタビューしますゲラをもらってます仕入れます東京は東久留米の独立国家「共和国」の総統であり奴隷筆頭であるシモヒラオナオシによる1冊......ただの酒飲みじゃないということがわかる、いや酒飲みであることは変わらないのだが、しかしぜったいにたのしいやろこれ、とゲラ冒頭を読みつつ思う強風強雨のin the lighthouse待ちぼうけな1日であった。「本チャンネル」にてインタビュー予定。
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