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本屋lighthouse
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千葉市幕張の新刊書店 平日14時-21時/土日祝12-19時(定休:毎週月火/第3水曜) 「こども読書ちょきん」やってます NO HATE🏳️‍🌈🏳️‍⚧️ JR/京成幕張駅徒歩6分(近隣にコインパーキング複数あり) ここは関口個人の読書記録ですが、読んでいる本はだいたい店頭またはウェブストアにあります。在庫がない場合は取り寄せますので、気軽にご連絡ください٩( ᐛ )و
  • 2026年3月31日
    素面のダブリン市民ーーゆるふわアイルランド紀行
    ドラキュラ関連の章で丹治先生の本が、ジョイスの『ダブリン市民』は結城先生の訳書が参照されていて、どちらも学生時代にお世話になった人なので懐かしいのとうれしいのとどっちも、であった。 私はこの時、生まれて初めて黒人のブラザーから「シスター」と呼ばれました。イギリス人は初対面の人に親しげな話し方をすることは少ないと思いますし、通常、黒人同士以外で「シスター」「ブラザー」みたいに呼びあうことは少ないので、たぶんこのブラザーは直観的に「これは人種差別だ」と思って、私を励ますつもりで「シスター」と言ってくれたのだと思います。(p.160) アイルランドを出てイギリスに足を伸ばした際に遭ったヘイトクライム被害の話が最後にある。「ゆるふわ」アイルランド紀行でも社会との接続がある、それをこうした形で示しておくこと。これもまた連帯の話。
  • 2026年3月29日
    素面のダブリン市民ーーゆるふわアイルランド紀行
    北村さん司会シリーズのイベントがあり、『男と女とチェーンソー』訳者の小島朋美さんとともに2時間たっぷりホラー映画について語ってもらう。言及される映画をひとつも観ていないのに面白かったのは、ふたりの紹介のしかたがうまいのと、映画そのものの持つ力のせいか。ホラー映画、なめたらあかん。そこには社会を眼差す視線が確かにある(あるいはそのように読み解く私たちがいる)。 という流れで昨日ようやく入荷した北村さんの新刊を読み始める。ダブリンには学生時代に3週間、もはや留学と言うには恥ずかしすぎるへんてこ滞在をかましたことがあり、そのときの朧げすぎる記憶を呼び戻し、あるいは捏造しながら読んでいる。 ダブリンに来てからイベントや博物館などで、ガイドさんが「『ユリシーズ』を読んだことがある人はいますか?」などとお客さんたちにたずねているのをけっこう見かけましたが、文学系のイベントや展示に来る人でもみんなそこまでちゃんと読んでいません。(p.28) かくいう私もこれをたずねられた。まさにジョイス博物館で。そして私は読んでいなかった。そもそもジョイスって誰?だった。英文学科3年目の夏。それが修士号までとって本屋をやるようになるのだから、人生はわからない。ダブリンもう一回行きたい。『ユリシーズ』もちゃんと読みたい。くそったれが。戦争反対。
  • 2026年3月25日
    みんなこうして連帯してきた
    みんなこうして連帯してきた
    昨日から読み始めて、今日の国会前デモにも持参。ほんとうはデモ中に読んでいたかったけど、雨なので断念。たくさんの人たちがこれまで抵抗してきて、その積み重ねによって世界が変わってきたり、どうにか維持されたりして、そうしていまがある。私たちは無名だが無力ではない。そのことを教えてくれる1冊なのだろう。このあとも期待して読んでいく。 (本の底の部分に「歴史の積み重ね」を意図するようなデザインがあり、デザイナーと編集者のメッセージを感じる。このなかに私たちひとりひとりがいるのですね......)
  • 2026年3月21日
    批評理論を学ぶ人のために
    文学、とりわけ小説ジャンルが社会の表現であるという認識は、目新しいものではない。しかし人文科学や社会科学の諸分野と並んで、そしてそれらとは異なる方法と想像力によって、文学もまた社会の多様な側面を問いかけ、抉り出し、時には社会を変容させてきたことは、あらためて想起するにあたいするだろう。このような文学と社会の関係性のあり方を問う批評理論のひとつが「ソシオクリティック(Sociocritique)」である。(p.176)
  • 2026年3月17日
    批評理論を学ぶ人のために
    わからないのは楽しいが、そのわからないのレベルを上げたり角度を拡げたりしてえぜ、つまりもっとわからなくなりてえぜ、という欲求に従い、とりあえず批判理論を網羅的に浅く広く知っておくことにした。いきなり構造主義という難敵があらわれ、わからなくなった。
  • 2026年3月15日
    皮膚、人間のすべてを語る
    皮膚、人間のすべてを語る
    知人から次の文フリに出す往復書簡本のDTPまわりを依頼され、そういえば最近往復書簡流行ってるな〜、おれもだれかと往復書簡(おうふくしょか)って一山当ててえ〜一万部とか売れてえ〜などと思ったが、丹渡さんとやってる「だれか代わりに読んでください」のやりとりがそれだったな、と思いだし、それでこれ。迂遠な往復書簡。代わりに読む依頼を受けてから数ヶ月、なんなら一年経ってから読まれるスタイル。代わりに読まれたとて、依頼者の意図通りに読まれるわけではないスタイル。ジョゼフ・コーネルが数年後に手紙の返事を出して「たった数年だよ♡」みたいなことを書いていたエピソードを思い出す。
  • 2026年3月15日
    不穏な熱帯
    不穏な熱帯
    部分的な引用によってなにかを記すことが難しい本で、それは最終盤にあらわれる「識別不能性」というキーワードによって端的に言い表されているような気もするが、不思議とたのしく読んでいたし、まだまだ読み続けていたい本だった。あとがきに「ニューギニアのワントアト盆地に住む人々は、祭礼の前、夜間に樹木を切り出して巨大な足場を築き、朝になってそれを見て、「精霊が造ったのか!?」と驚いてみせる」(p.405)というエピソードが記され、それがこの本の執筆と完成に似ている気がすると著者は言うのだが、私の脳内にはこのときなぜか友田とんが出てきて、「精霊が造ったのか!?」という台詞を再び発していた。
  • 2026年3月11日
    不穏な熱帯
    不穏な熱帯
    最低限の仕事を終え仕事の分の集中力は使い果たし、お客さんが来る気配もなく、半年ほど寝かせていた本書を天啓のように突発的にひらくと、冒頭から3.11の話がされていた。 マライタ島という「不穏な熱帯」についての一見「遠い」物語が、思いもかけず「近い」ものとして読者に届く可能性を探求したい。本書で採用する、フィールドワーク中の日誌を引用する形式は、そのためのささやかな工夫の一つである。(p.26)
  • 2026年3月10日
    失われた時を求めて(4)
    失われた時を求めて(4)
    アルベルチーヌとアンドレが知的なやりとりをしている(後者はそれを見せつけるように、前者はその見せつけに憧れを抱きつつ聞いている)あいだ、「私」はというと「アルベルチーヌが渡してくれたメモ帳の小さな紙片に書きつけられていた「あなたのこと、好きよ」の文言に想いを馳せていた」。(p.580)
  • 2026年3月9日
    被害者性の政治学
    被害者性の政治学
    第三章のまとめ。コロナパンデミック時のアメリカ(トランプ)とイギリス(ジョンソン)の対応の特徴は「常態化」「軍事化」「撹乱化」という3つと言える。まず、「コロナなどインフルみたいなものだから、それに過剰に反応するほうが「危険」だ」という主張があり、そのあと「コロナとの戦いは戦争のようなものだ」という比喩での鼓舞があり、さらにはフェイクニュースを流したり(そもそもなにも情報を流さないなど)することによって、ウイルスではなく政府が引き起こした加害を隠蔽すると同時に、この世界における真実と虚偽の区別を曖昧にしてしまう。 常態化、軍事化、撹乱化、の3つはいま高市政権がやっていることでもある。こんなものは大した危機ではないのだから騒ぐなよ、と言いつつも各種事象に対して戦争をイメージするような語彙で言及し、各種メディアを通してフェイクやらなんやらを拡散させる。そしてこれらを通して「高市さんは頑張っている(のだから批判するなんて)」という「被害者性」を確保する。高市が直接的に関与しているものもあれば、我々大衆が自発的にやっていることもある。いずれにせよ、結果として3つのキーワードは達成されている。安倍政権からずっとこんな調子だ。
  • 2026年3月9日
    被害者性の政治学
    被害者性の政治学
    第二章の大雑把なまとめ。第一次大戦からベトナム戦争、そしてイラク戦争などへとわたる20世紀〜21世紀はじめの各種戦争において、傷を負う者が戦争被害者だけではなく戦争加害者にも増えていったこと、少なくともそのことが認知されるようになったことが、被害者性という概念に大きな影響を与えた。そしてこれらの(というよりおそらくすべての)戦争における強者こそが「加害者でありながらも傷を負った」者として認識されるため、かれらの傷=声のほうが聞き入れられることになり、ほんとうの被害者は置き去りにされる傾向が強まった(あるいはそのスタイルが確立した)。 というまとめでよいかはわからないが、とにかく戦争の話がたくさん出てきて、現在進行形でもこの傷がたくさん生み出されていることが脳裏によぎり、花粉に遮られる集中状態ともあいまって、いろいろと苦しい。
  • 2026年3月7日
    被害者性の政治学
    被害者性の政治学
    第一章を読み終える。相変わらず私の持っている前提知識では理解が難しいところばかりだが、おそらくこうまとめてよい気がする。被害を受けたというなんらかの表明がなされることではじめて「その被害者は救済されるべきだ」ということになる、そしてその表明ができること自体もまた特権性と結びついていて、沈黙せざるを得ない者の被害は誰にも認識されないままである一方、もともとなんらかの特権性を強く持っている者ほどこの表明は広く聞かれ、かつより説得力のあるものとして受けとめられていく。そしてこの構造は、感情的な共感が喚起されるほど拡散力を増していくSNSの設計と相性がよく、かつては#metoo運動のように正しく被害者の声を届けることになったが、いまやその仕組みは特権性をより強く持っている者らによって乗っ取られてしまっている。つまり#metooを訴える者ではなく、それによって訴えられた者の「被害者性」のほうが広く届き、強く印象づけられることになっている。 私自身の結論:やはりSNSでの社会運動はメリットよりもデメリットが大きくなってしまった。
  • 2026年3月5日
    悪魔祓い (岩波文庫)
    悪魔祓い (岩波文庫)
    インディオはいっきょに世界の内部に、生命の中心に入る。むろん書物も必要ないし、絵も必要ない。あらゆる人が、みずから書物であり、絵なのだ。(p.151) なにか読み違えている気もするが、自分そのものが芸術なのだという宣言をすることで、おそらく我々は元気になることができる。その芸術は他者からの評価を必要とせずともそこに存在することができる。そういう宣言。
  • 2026年3月3日
    悪魔祓い (岩波文庫)
    悪魔祓い (岩波文庫)
    土曜日の志津でのブックフェス時に購入し、ちまちまと読み始めた。返品不可の、カバーも本文も色褪せはじめた岩波文庫。 コップや鏡や壜、その他のものを手にとる。そしてそれらが声低くつぶやいているものに聞き入る。道路や橋や、空中に立ってじっと動かないクレーンなどを見つめる。すると沈黙は破られて、目を見開かせるような小さな模様や、痕や十字のしるしや文字が不意に現れる。文字は男たちや女たちに告げるのだ、道路も橋もクレーンも生きていると。(p.46) バイト先の本屋にある、実質的に売れ残りと化してすらいる岩波文庫は、私に対してのみ声を発している気がする。
  • 2026年3月3日
    失われた時を求めて(4)
    失われた時を求めて(4)
    志津勤務の行き帰りでプルースト。ついに知り合いになったアルベルチーヌのほくろの位置を正確に覚えようとしたりしている「私」は、アルベルチーヌが気に入らない娘のことをこき下ろしているあいだも「その頬をみつめて、どんな匂いがするのだろう、どんな味がするのだろうと考えていた」(p.525)。
  • 2026年2月27日
    時間の比較社会学
    ある音楽家の文章によると、下手でも早く弾いた曲と、上手にゆっくり弾いた曲とを聞かせると、母親の「早く、早く」のシャワーの中で育てあげられた現代の日本の子供は、一様に早く弾いた演奏の方を「上手」と言うという。(p.294) 時間の圧力が至るところで、生のスタイル(作風)を変質するのだ。(p.295) これが書かれた20世紀よりも明らかに現代は「早く」を求められ、それが浸透しているので、暗澹としてしまう。AIもこの範疇に入ると思う。我々の生のスタイルは変質してしまっている。 と、賢しらなことを書いてはいるものの、9割がたなんのこっちゃ!?な話を読んでいた。プルーストが当たり前のように出てきて安堵したりしつつ、どうにか読了。わかんねえわかんねえ言いながら読むの、もっとやりたい。
  • 2026年2月26日
    時間の比較社会学
    なんだか結局気になってしまってすでに読み始めている。我々の持つ時間感覚においては、どうやら過去と未来は無限に伸びていくものであり、それゆえに最終的にはどちらも「虚無」に感じられてしまう、らしい。過去にはもう戻れない、その過去が無限に存在しているという恐怖。なにも成すことができずに死んだあとにも永遠に続いていく未来がある、だから虚しい。そのような前提があり、その恐怖や虚無をある程度克服したり仲良くなったりするためにはどうすればいいのか、というテーマでとりあえず読んでみている(著者もその意識を持っていたかは知らん)。 ムビティはアフリカの「暦」についてつぎのようにいう。 一年の正確な日数を問う事は見当はずれである。一年は日数によってではなく、出来事によって数えられるものだからである。だからある年は三五〇日かもしれないし、他の年は三九〇日かもしれない。(p.83-84) 「牛時間」は出来事によって時が定められる。たとえば牛がごはんをたべたから朝、牛が散歩に行って戻ってきたから昼、みたいなこと。朝だからごはんをたべるのでもないし、昼だからそれまでに散歩に行って戻って来ないといけないのでもない。 時間という概念が先にあり、その中で「やるべきこと」を設定すると、その目標が達成できないことは失敗とみなされる。しかし「やるべきこと」がまずあり、それがなんらかの形で「終わった」とみなされたことによって時間が後追い的に認識されるのであれば、我々が「失敗」と感じることは少なくともひとつ、つまり「時間内に終わらせることができなかった」という落胆は存在しなくなる。どうやったって「時間」の枠組みから逃れられない現代社会を生きるからこそ、このような感覚を取り戻す必要があるように思える。
  • 2026年2月24日
    失われた時を求めて(4)
    失われた時を求めて(4)
    「どんなに賢明な人でも」とエルスチールは私に言った、「青春のある時期に、想い出しても不愉快で抹消したくなるようなことばを口にしたり、そんな人生を送ったりしなかった者など、ひとりもありません。しかしそれはひたすら後悔すべきものでもないんです。まずはありとあらゆる滑稽な人、忌まわしい人になったあとでなくては、なんとか曲がりなりにも最終的に賢人になどなれるわけがありません。(p.477) 「私」がいろいろと失礼だったり愚かなことを言ったりやったり考えたりして後悔したりしなかったり、つまりいつもどおりうだうだとしているさなか、エルスチールの賢人ぶりが際立っている。その後も1ページほど続くエルスチールのありがたいお言葉のあと、すぐに「私」の心情が語られる。「私は、例の娘たちと知り合えず、がっかりしていた」(p.478)。アルベルチーヌのことしか考えていない「私」も、いつしか賢人になるということか。
  • 2026年2月23日
    男と女とチェーンソー
    男と女とチェーンソー
    幕張に戻って、サイゼに向かうも混雑、別のお店も混雑、で最終的にガスト。『男と女とチェーンソー』を電車でもガストでも読み続け、もう少しで読み終わりそうなところで目が死んだ。ちょうどホラー映画における目の役割、見る側=加害者であり見られる側=被害者でもあるという話を読んでいた。私の目はテキストを見ながら、つまり読むことでそれを殺そうとし(=紙に書かれた文字を脳に消し込み)ながら、同時に膨大なそれらによって殺され(=視神経を破壊され)ていたのだった。消耗した目を回復するために帰宅。しばしの休息ののち、再度一気に読む。読了。圧巻&圧倒。 このジャンルのルールとして、男が自分を、コントロールする側に立つ観淫者だと思い込むたび――ラカン流に言うなら、女を見ることで「視線」の力が生じると過信するたび――必ず何らかの屈辱が直後に生じると断じてよいのではないか。典型的なかたちとしては、自分が支配しようとした女性の、まさにそのセクシュアリティによって男は打ち負かされる。(p.384)
  • 2026年2月23日
    時間の比較社会学
    じっくり見る、そしてじっくり考える、つまりじっくり判断=評価する、ということができなくなっている(ことにも気がつけなくなっている)のが現代人なのかもしれず、そのことがこの社会の醜悪さを増す主要因なのではないか。そのようなことをずっと考えているこの頃。幕張から志村坂上へは90分ほどかかる。それほど大きくはないutouto店内には30分もいれば本棚を何周もできる。何周かしてから見つけたのがこの本。明確に読むべき本だった。 でもいま読んでいるのは別の本で、実際に本書が読まれるのにはしばらく時間がかかるだろう。そのタイムラグが許されない世界になっている、だからこそ意図的にラグを作っていく、そういう意気込みで今日も積読=希望を増やしていく。 ホームにあるトイレに入って電車を数本逃したあとホームに出てこれを書き始め、途中目の前をダッシュで通り過ぎトイレに駆け込む老人があらわれる。急がなくちゃならないのはトイレに駆け込むときくらい、そのような世界のほうがいい。
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