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本屋lighthouse
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千葉市幕張の新刊書店 平日14時-21時/土日祝12-19時(定休:毎週月火/第3水曜) 「こども読書ちょきん」やってます NO HATE🏳️‍🌈🏳️‍⚧️ JR/京成幕張駅徒歩6分(近隣にコインパーキング複数あり) ここは関口個人の読書記録ですが、読んでいる本はだいたい店頭またはウェブストアにあります。在庫がない場合は取り寄せますので、気軽にご連絡ください٩( ᐛ )و
  • 2026年1月1日
    失われたスクラップブック (ルリユール叢書)
    結局昨夜は11時前に眠くなった。いま、語り手はジョン・ケージの顔に似た白いキノコを森のなかで探し、見つけた。
  • 2025年12月30日
    失われたスクラップブック (ルリユール叢書)
    12月30日といえば東京マラソン旧コースをぜんぶ歩く日で、だから朝6時に家を出て電車に乗って、新宿都庁前を目指している。この都庁前へ行く電車のなかでその年の最後の本を、しかし厚い本を選ぶからそのまま年を越して1冊目の読書となる本になるのだけど、今回はエヴァン・ダーラの『失われたスクラップブック』(木原善彦 訳/幻戯書房)だった。 すでにこの本は丹渡さんによって代わりに読まれているのだけど、だからこそ2025年を象徴する1冊のように思えるし、一昨日の最終営業日にお客さんと別の本の話をしているときに幻戯書房のサイトをひらき、本書の3刷が年初に出来するというバナーを目にして、もうそこからは完全にこの本だった。 電車に乗ると、文庫本片手に奇跡のようなバランスで固まりながら寝ているおじいちゃん、朝帰りですという空気を出し惜しみなく振り撒きながらやはり同様に奇跡のようなバランスで互いに寄りかかりつつ爆睡しているカップルなどがいる。どうも「断片」と「統合」をテーマにしているような気がするエピグラフと冒頭に、ウルフの各作品、『ダロウェイ夫人』であったり『幕間』であったりを想起している。あるいは、「警官に呼び止められたことは一度もない サイレンを鳴らされたり、尋問のために署に連行されたり、身分証をチェックされたり、保安装備を身に着けたいかつい男からさりげなく鋭い目を向けられたりしたことは一度もない 彼らのせいで僕が自らの軌道を変更したこともない」(p.012)と自分の不可視性を語る主人公は、無徴性を付与されたマジョリティとして読むことができるのかもしれない。
  • 2025年12月29日
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    差別はよくないし多様性が前提にある社会がいいよね、でも「キャンセルカルチャー」はやりすぎだよ、というようなスタンスの人にこそ読んでもらいたい1冊だと個人的には思った。「キャンセルカルチャー」という言葉はいわば「どんなものでもそこに投げ込める、定義がガバガバな器」であり、実際にはキャンセルなどされていない事例であっても容易に投げ込まれてしまうがゆえに、厳密な場合分けや慎重な検討を必要とする事例があるということも当然に無視される。ゆえに実際には「どうもキャンセルカルチャーという行きすぎた正義があるらしい」という雑な認識でしかないものも、「自分は冷静な立ち位置からキャンセルカルチャーの具体例を検討・認識した」と誤認することになるし、その積み重ねは結果として差別する自由を主張し多様性を否定する価値観を利することになる。とりあえず、「キャンセルカルチャー」という言葉を安易に使わないことから始めてみたい。
  • 2025年12月29日
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    「キャンセルカルチャー」の事例として紹介・報道されるものの多くはキャンセルされた側の証言のみで構成されており、批判した者を筆頭に各種の周辺人物(中立的な存在も含めて)の証言は出てこないことが多い。つまり可能な限り事実に即した歴史を残そうというよりも、キャンセルされた側にとっての「物語」を作るという意識が強い。つまりそれらは文学作品であり、実際に「大学教授がキャンセルされた」というエピソードを含むアメリカ文学がいくつもあるとのこと。これを「完全な捏造」と言い切ることはできない。しかしそれでも、誇張や多少の嘘を含んだこれら「物語」を「事実」として主張することもできないはずだが、その「物語性=各種の複雑さを取り除くことで理解しやすくなった単純なストーリー」ゆえに受け取り手は「本当にあったこと」として認識していくことになる。 かつて清風堂書店の面屋さんが百田尚樹の『日本国記』に「歴史改ざんファンタジー」というPOPをつけて販売するという抵抗を試みたことを思い出す。あれは正しい抵抗だったが、『日本国記』として物語化された時点で勝ち目のないものだったのかもしれないうえに、実際にはキャンセル=店頭から排除されていないのに、おそらく後世には「キャンセル」の事例として引き合いにだされる「物語」の素材になるのだろう。
  • 2025年12月28日
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    p.203〜 「物語化」していくことで「真実」が流通していく。その物語が「どのように使われたか」という観点。『ナラティヴの被害学』を思い出す。
  • 2025年12月27日
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    『ニューヨーク・タイムズ』に現れた最初の定義は、はるかに的確だった。ブロムウィッチによれば、それは「対象からの全面的投資撤退」。つまり、このキャンセル・カルチャーに関して書かれた最初期の文章を通して、『ニューヨーク・タイムズ』は、このネット上の言説の背後には市場の論理、ファンダムの論理、そして注目(ルビ:アテンション)の論理が働いていると明確に認識していたのであった。それは「撤退」行為であって「規制」行為ではなかった。あるいは「自分の機嫌を自分で取る」行為であって「威圧」行為ではなかったのである。キャンセルする者は、たとえそれがキャンセルする対象に何の影響もなかったとしても、「私はもう注目しないからな」と言うのであった。二〇二二年の同紙の社説では、「キャンセル」という言葉で想像される個人や集団は、一八〇度転回していた。二〇一八年には、キャンセルする者はまだ、集団から身を引いた個人として想像されていた。しかし二〇二二年の『ニューヨーク・タイムズ』の定義では集団が実行する。そして個人が対象になる。(p.120-121) いち本屋が特定の本を置かないと主張するのも「個人的な」「撤退」であるが、残念ながら「集団的な(社会全体からの)」「威圧(存在否定)」であると認識されてしまうことが多い。
  • 2025年12月27日
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    「キャンセル・カルチャー」パニック
    店頭イベント開催(そして登壇)の準備として早速読み始める。とかくSNSでは文脈を無視した認識をもとにした意思表明がなされ、それがアテンションエコノミーに乗っかって拡散されていくのだが、その構造こそが「キャンセル・カルチャー」なる虚像的現象が実在していると錯覚させる要因である、という前提で読み進めている。
  • 2025年12月26日
    新版 ヌアー族(942)
    新版 ヌアー族(942)
  • 2025年12月26日
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    もうひとつ気になったのは以下の記述。飢饉が長引くとこの理想的な贈与関係にもヒビが入る。そのとき、 スピリアスの伝聞によると、世帯の者たちが、しばしば大いに恐れていたのは、盗みにくるよそ者ではなく、ふつうなら大歓迎され、すきなだけとってもよい、親族の襲来だった、とのことである。(p.384) という状況が生じるのだが、現代社会における排外主義の高まりとはこのようなことなのかもしれない。親族には分け与えなくてはならない。しかしそんな余裕はない。だからこれ以上「親族」とみなすべきと(他者=社会から)要請される存在を増やしたくない。つまり「よそ者」とみなし「盗みにくる」者として非難してよい存在を増やしていくことが、おのれの身を守る術となる。「日本人ファースト」の心理がここにあるのなら、たたかうべき相手はやはり「人」ではなく「状況」だ。状況をひっくり返さなくてはならない。
  • 2025年12月26日
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    読了。多くの研究者による具体的なエピソードの引用からなる補遺の章がもっとも理解しやすく、楽しく読めた。しかしそれはこれまでの理論的で難解な本編を読み通してきたからこそであり、まさに迂遠の有用性とでも言ってよいものを体感する読書となった。 肝心の「パーティー」に関する記述は、たとえば「C 1・5 ルソン・ネグリート族――大量の食物が分与されている。よい獲物があると、いつでも隣人は、御馳走に招待されて、全部たべつくしてしまうのである(Vanoverbergh, 1925, p.409)」(p.375)といった簡潔な記述のみ発見できたが、本編と補遺で何度も繰り返されている未開社会のシステム、つまり「富める者は気前よく分け与える」「それが名誉=権力の証となる」「ゆえに名誉=権力を欲する者ほど多く分与するため結果として所有財産は少なくなる」「しかし立派な者として認識されるため集団内から贈与を受ける」「そうして得た贈与もまた分配される」といった循環機構のようなものを前提にして読むと、リアリティのあるパーティーとして現前にあらわれてくる。 B 5・3 カチン族――「理論上からいうと、だから、上の階級の者は、下の階級の者から、贈与をうけとっている。しかし、このことから、経済的な利益が恒久的に発生しているわけではない。贈与をうけとったものは、誰でも、与え手にたいし債務者(フカ)の位置にたたされるからである……。それゆえ、逆説的なことだが、高位階級の地位にある個人とは、贈与をうけとる人と定義はされるけども……、彼は、うけとったより以上のものを無償譲渡しなければならないという、社会的強制に始終さらされているわけとなる。さもないと、彼は、しみったれだと思われ、しみったれた人は社会的地位を失いかねなくなるのである」(Leach, 1954, p.163)p.368-369 この権力関係が瑕疵のないものであるとは思わないが、社会において権力関係が避けようもなく生じてしまうのであれば、その権力をいかにズラすか、誤魔化すか、活用するか、ということが必要になり、上記のような在り方はその例として好ましいとは言える。次に読むべきは平凡社ライブラリーの『ヌアー族』かもしれない。
  • 2025年12月25日
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    結局「パーティー」のくだりとおぼしきわかりやすい記述は見当たらないまま本文は読み終える......補遺にあるのだろうか......あるいは別の本なのか、私が読み飛ばした(寝てた)のか......よい読書だ。
  • 2025年12月24日
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    相変わらずわかんない話をされ続けているが、「友人が贈与をすれば、贈与が友人をつくるのだ。未開交換のおおかたは、われわれの商取引にくらべると、はるかに決定的にこの後者の機能、つまり、用具的機能をもっている。物財の流れが、社会関係を保全したり、開始したり、するからである」(p.224)は大事な話のような気がする。真ん中の一文は、やはりよくわからないが。用具的機能ってなに!?
  • 2025年12月23日
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    第3章で経済理論の話になってきてわからなくなっちゃった。とりあえず読み進める。この章を越えたらたのしくなる気がする。
  • 2025年12月22日
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    狩猟採集時代の労働は断続的で、いわゆる「ルーティン」のようなものにはなっていなかったらしい。franz ferdinandが歌っていた「It's always better on holiday. That's why we only work when we need the money.」という歌詞そのもののような働き方だ。ルーティンがあることは現代社会では「よきもの」として扱われがちだが、ルーティンは常に規則=支配を生じさせる危険性を伴っている。特に労働は他者から強いられるルーティンとも言え、そこに苦しさが生まれるのは当然なのだろう。
  • 2025年12月22日
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    石器時代の経済学 〈新装版〉
    来年の目標のひとつに「パーティー本屋」の実践があるため、年末にかけての課題図書として本書が選ばれた。
  • 2025年12月21日
    文学カウンセリング入門
    文学カウンセリング入門
    読書を通じて、「したの本のなかに/とどまっていた」何かを読み取るとき、そこには読んでいる人自身の経験や記憶が投影されると詩人は語ります。そして驚くべきことに、何かを読み取った瞬間、読む人の表情は永久に変わってしまいます。作家や作品の本意は永遠にわからなくとも、読書によって何かをつかむと、読んでいる自分の影がどんどん本のページに広がってゆき、その汚れや染みがその人の内面を変形させるのです。(p.45-46) という、詩人リルケの引用から始まった記述を読み丹渡さんの『迂闊〜』を思い出すなどしていたら、その数ページ後にやはりプルーストが登場した。ジョットのフレスコ画『慈愛』には我々が想定するような慈愛がない、と「私」が思うなどする場面が言及されている。医者やカウンセラーはときにぶっきらぼうに、つまり慈愛の精神など見せずに接することが必要なのだというような、そういうくだりの文章を読みながら、必要以上にやさしくされること、あるいは「やさしくすること」を義務として捉えているようなコミュニケーションをとられたときの居心地の悪さを考えたりしていて、そのとき奥の部屋では柿内さんにお任せしている「スロー・ルッキング」のワークショップが開かれていたのだった。 そしてさらに読み進め、 とはいえ、文学カウンセリングにおいて無関心で冷徹な外科医の役割を果たすのはカウンセラーではなく、カウンセラーとクライエントが一緒に読む文学テキストです。(p.53) にぶちあたって、やはり『迂闊〜』は文学カウンセリングを結果的にやり通した1冊なのではないか、というところまで思考はつながった/立ち戻った。 テキスト-クライエントには二つの利点があります。(中略)。第二に、テキスト-クライエントとの相互作用は安心感を提供します。彼は無遠慮で率直な意見にもまったく傷つかないので、現実のクライエントは、テキスト-クライエントが伝える事態について思ったことを自由に表現できます。(p.54) たしかに『迂闊〜』で丹渡さんは読んでいる本や映画、あるいはそれらに対する批評に対して(時に柿内さんに対して)、わたしはそんなことまったく思わんぞ!と書き連ねていた。
  • 2025年12月20日
    沈黙の中世史
    沈黙の中世史
    ブックフェス出店のため物理的に軽めの本を持参し、電車で読み始める。沈黙は信仰にとって大切なこと、つまり饒舌は禁物であるらしいが、私はこれから饒舌に、あることないこと詐欺師のような舌を振り回し、本を売りにいくのであった。
  • 2025年12月19日
    文学カウンセリング入門
    文学カウンセリング入門
    文学カウンセリングの前段階として、文学にかぎらず芸術に触れる際は「鑑賞者」ではなく「芸術家」そのものになる必要がある、という話をしている。そこで引用されるのがとある本からの一場面で、それは「その作品が美しいことを教えてくれなかったことを咎める弟子」と「弟子がその作品の美しさに自発的に気がつくのを待っていた師匠」のやりとりなのだけど、この会話が友田とんの著作に出てきてもいいような可笑しさのあるもので、うれしくなった。
  • 2025年12月19日
    イメージ、それでもなお(989)
    イメージ、それでもなお(989)
    TOUTEN BOOKSTOREでのイベントのタイトルには「みんな」という文字列があり、イベントの最中に古賀さんから発せられた「みんな」とは誰のことなのか、どこまでを範疇とするのか、という問いにそのときはうまく答えられなかった気がするのだけど、本書を読み終えてようやくこれが答えかもしれないと思えるものが生まれてきた。 自分が経験したことではない事象について想像するということは「自分もそこにいる」と認識(誤認)することではない。あくまでも到達=実現不可能な試みであり、だからこそ永遠に漸近することを要請される。つまりこれはユートピア論なのではないか。「(完全に)わかる」ということはない。だからといって「わからない(から理解するためのあらゆる努力をやめていい)」わけではない。それはホロコーストの片棒を担いだ者たちを完全なる他者として認識し、「私=自分とは異なる存在」として遠ざけることとなる。古賀さんの質問への回答はここにあったのかもしれない。私は〈他者〉を可能な限り作りたくないのかもしれない。その〈他者〉というものはどうにも言語化=定義できはしないのだけど、だからこそ。
  • 2025年12月18日
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    2026年1月末、刊行予定。本書はどうにも説明が難しく、著者も言うように「誰に向けて」書かれた本であるかを明言することができない作品となっている。詩歌、小説、随筆、それらが渾然一体となり、それらを独立したものとしてバラバラに読むこともできるしひとつながりの「作品」として読むこともできる本書は、読者(と括られはするものの実際には各々別様の存在である者ら)に届いた瞬間にはじめて/ようやく「こういうものである」という言語化が(その各々によって)可能になるのかもしれない。 著者はあなたに届くことを強く願いながら本書を書いたし、出版元である私もその願いを同じくしている。宛先不明の本書が「あなた」のもとに無事届き、宛先であったあなたが差出人としての「私」になることを、本書は希求している。ようこそホームページへ。
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