DN/HP "走れトマホーク" 2025年3月21日

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2025年3月21日
走れトマホーク
走れトマホーク
安岡章太郎
安岡章太郎の73年の短編集を読む。一編目の「瀑布」、カナダ、トロント滞在中にナイアガラの滝、そしてある不用意な一言をきっかけにアメリカ、バッファローのインディアン・リザベーションに日系二世の牧師を訪ねることになる話。 ただそこにいて好きなことをしていれば良いと言われた二ヶ月半に感じる何かを喪失したような「空白感」を持ちながらも、そこにいる事で感じ気づき、固定観念や偏見も解きほぐされる体験をしていく。 「大体、フォールを滝と訳すことが間違っているのではないか?滝というからには、竜という超自然的な神格化された生きもののイメージがある。」「しかも翻訳されれば、“滝”の生命はフォールの中に香みこまれる他はないであろう。」 泉鏡花の描いた滝の白糸から、言葉の表す、表せるもの、あるいは翻訳する事で失われてしまうものを思う。そして「この大陸ではほとんど抹殺されかかっている先住民族の言葉の運命を無意識に思い浮かべ」る。 しかしナイアガラの滝に対峙すればそれに魅せられ、それまでは関心の遠くにあったインディアンの現実や、”白人“としか見えない彼らに出会うことでイメージも裏切られる。 これは「ゼアゼア」から「コヨーテ読書」を読んだあとに出会うにはちょっと完璧かもしれない、と思ってしまうような短編小説だった。 続く表題作の『走れトマホーク』は「アメリカ西部の山岳と贖原地帯を団体旅行」したときを描いた一編。『瀑布』の姉妹編というかその続きとして読んでいたこの話も“外に”出る事でする、せざる得ない体験と思索の話だ。 トマホークという元はインディアンの言葉を名前に持つ馬にしがみつきアメリカ西部の山岳と贖原地帯を目的地も知らされず歩き回りながら考える、人生における移動について。 「まるで自分の意志とは無縁なところへ連れられて行くおもいで、それは兵隊が移動させられるときによく似ていた」「自己の意志とは無関係に動かされることが、それほど不本意ではない、というより、むしろそのことに一種の放心状態に似た奇妙な安らぎを覚えるのだ。」 移動、移住を繰り返し見知らぬ土地を転々とすることで「私はその場をその場をゴマかしてすごすことを覚えた」幼少期の記憶。それは繰り返されるモラトリアムなのかもしれない。そして今馬に跨っている自分に同年代に戦地を転々とした父親を重ね合わせ、彼のことを思い、ここでもイメージはまた覆される。“外”へ出る事で至ことが出来るものは、たしかにあるのだと思う。
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