DN/HP "走れトマホーク" 2025年3月21日

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2025年3月21日
走れトマホーク
走れトマホーク
安岡章太郎
安岡章太郎は移動し続けること、“ただしい道“から外れてしまうことで、“外”からの視線を持ち続けた小説家だ。そんなことを考えはじめる。職業軍人だった父親に付いて短期間での引っ越し、移動を繰り返した幼少期。受験に失敗し続け、徴兵後には病気による強制ドロップアウトした青年期。常にそこを去ることが決められた他所者であり、“ただしい道”から外れてしまったという自覚を持ったアウトサイダーの視点があるのだと思う。 そして家を買い定住し作家として社会的なある意味“ただしい”立場に置かれた戦後以降には、積極的に海外に出ることで“外”から日本をみる、あるいは現地でのアウトサイダーになり、その視点を得ようとする。 それらの旅は帰ることを前提とした「日常の生活の責任から完全に逃げ出せるとは考えていない」けれど「無責任に自分の居場所を抜け出るという」ある種のモラトリアム期間でもあって。この2篇でも彼のモラトリアムは続くけれど、ナイアガラ、リザベーションを共に訪れた人物は、そこでの経験から大きな決断をし、トマホークは厩舎へ向かう「ホームストレッチ」を疾走する。“私”はまた取り残される。それらはわたしが彼の短編小説からいつも読み取る、読み取ってしまうテーマなのだった。 幾つかの短編を挟んで最後に収録されているのは先日読んだ短編集『質屋の女房』の最後に収録されていた父親との関係を描いた2篇の更にその後、継母と老犬を間に置いた最晩年の父親との関係。ここにはひとつのモラトリアムーそれは子であることかもしれないーの終わりがあった。ここでの“私”は死によって取り残される。『生前の父と本当の意味で素直に語り合うことの出来なかった自分自身に対するイラ立たしさや、慙愧の念といったものが作品の背後に流れている』とわたしも思った。そのイラ立ち、後悔はわたしにもある、と改めて思い知る。ここにはもうモラトリアムはなく、取り返しがつかないことだけれど、それを小説に書くこと、読むことには意味がある、と思いたい。わたしはイラ立ち、後悔する他に何が出来るだろうか。なにも出来ないのだろうか。何かは残しておきたい、とは思う。 「自己露出とは、一味も二味も違う抑制と客観化」された安岡章太郎の小説は本当に凄いと思う、と同時にわたしに主体化を促してもくる煩わしさも感じる。しかし、それが“素晴らしい”読書なのだとも思う。前半とうまく噛み合ってない文章を書いている、とも思いながら、一旦ひとつ納得と感動のため息をつき、また彼のことを考えはじめることになるのだった。
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