noko "ハレルヤ" 2026年5月21日

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@nokonoko
2026年5月21日
ハレルヤ
ハレルヤ
保坂和志
「ハレルヤ」と「生きる歓び」と「あとがき」がすごく好きだった。 「生きている歓び」とか「生きている苦しみ」という言い方があるけれど、「生きていることが喜び」なのだ。世界にあるものを「善悪」という尺度で計ることは「人間的」な発想だという考え方があって、軽々しく何でも「善悪」で分けてしまうことは相当うさん臭くて、この世界にあるものやこの世界で起きることを、「世界」の側を主体に置くかぎり簡単にいいとも悪いともうれしいとも苦しいとも言えないと思うけれど、そうではなくて、「生命」を主体に置いて考えるなら計ることは可能で、「生命」にとっては「生きる」ことはそのまま「歓び」であり「善」なのだ。 彼女(草間彌生)の話を聞いていると生きるということは少しも楽ではないし歓びも全然ないように感じられるけれど、それでも彼女は「生きること」を無条件の前提として話している。無条件の前提としていることをそのまま単純に「善」だとか「歓び」と言ってしまうことはできないと思う人はいっぱいいるだろうけれど、草間彌生の番組を見ながら、私は、「生きることは善」「生きることは歓び」と草間彌生のような人も感じているんだと思った。 (「生きる歓び」) 世界があれば生きていた命は死んでも生きつづける。 世界があるからこそ命は無になることはない。 「どういうこと?」と訊かれてもこれ以上答えられない、言葉や文は精確であろうとすると元々の直観や感触を弱めてしまうことが多いのだ。 「この感じ!」 と思ったとき、それをすぐに自分以外の人と共有できる言葉にしたいという欲求が誰にでもあるが、言葉へのその無邪気な信頼や依存によって言葉が実感を裏切る。 これをどういう風に感想文にすればいいか? を考えず、ただ読めばいい。読んで人に言える感想がないのはバカっぽく見えるが、そのバカッぽさは知の先にある境地だ。 (あとがき)
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