仲西森奈 "随風(03)" 2026年5月21日

随風(03)
随風(03)
くどうれいん,
佐川恭一,
宮崎智之,
早乙女ぐりこ,
生湯葉シホ
柿内正午「随筆時評」を1〜3号と続けて読んでから「私的応答」文をサイトに書いて、いまは1〜3号のそれ以外の各作品を続けて読んでいるのだけど、ひとつ気になるのが、随筆の各寄稿作に自己言及/メタ的な記述を含むものがわりあい多い気がすること。 1〜3号では、随筆/エッセイという言葉それ自体を文中に出したり「と、ここまで私はホニャララと書こうとしていた」というような記述があったり、3号目で言うと佐川恭一「暗記について」では「そうくるか、という変化球は他の名手のみなさんに任せようと思う(と言って安心してしまえるのが、質の高い文芸誌のいいところである)」という記述があったり(それはそれとして佐川さんのエッセイはとてもよかった) なんというか、古き良き小説の技法(作者/書き手/あるいは語り手が地の文にしゃしゃり出てきてこの後の展開や小説というものそれ自体について自説を述べるあの懐かしいやりくち)をみんなエッセイ/随筆でやっているように見える。もしくは積極的にコミュニティを作りこの枠/柵内で我々の良さを練り上げていきましょうよみたいな身内同士の目配せを感じる。それを続けざまに読むのは、すこし胃もたれするかもしれない。 いま、エッセイ/随筆を書くことって、そんなに自己言及やメタ的な視点や他の書き手への目配せのような記述がないと成り立たないものなんだろうか。これはいわゆる"日記ブーム"の弊害めいた何かなんだろうか。「これは日記ではないんです」「エッセイ/随筆なんですよ」とはっきり文中で示さなければ、書く側は居心地が悪くなるということなんだろうか。
仲西森奈
仲西森奈
@mit_valentin
個々に良いなと思う作品もありつつ連続して読んだときに「わたしが、いま、これを、書いているんですけれどもね」という筆致がやたら多くて目立つ、気になる。ということなんだと思う。でもそれは今後5号10号と続いていけばいずれ薄れゆくものなのかもしれない。
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