
中根龍一郎
@ryo_nakane
2025年3月21日

不死 プラトーノフ初期作品集
アンドレイ・プラトーノフ,
工藤順
ちょっと開いた
かつて読んだ
人類を次のステージに進めようとしたり、歴史を一度なんらかの形で終わらせようとしたりする黙示録的な欲望はわりと身近なもので、さまざまな形で現れ、去っていき、回帰する。ロシア宇宙主義もそういった類例のひとつと言っていいだろう。そしてそうした試みについて回る〈革命〉への期待、ある熱情が決定的な変換をもたらし、なにかが強烈に転回するという未完の達成を先取りした高揚感は、とても魅力的であるとともに、もちろん一方できわめて疑わしい。
『不死』に選ばれたプラトーノフの初期作品にはそうした活動家、思想家、労働者としての熱情や高揚があって、その昂った筆致にうまく共感することはむずかしい。のみならず、プラトーノフが採用している、母なるもの、女を目指す男、家族という共同体、子供を生産する希望、といった古典的な比喩は、もうそうした性差のカテゴライズ自体が持つ息苦しさがまず伴ってしまい、身構えずに受け止めることができない。
ただ、革命が起こる、革命を起こす、世界が終わる、世界が始まる、人類を不死へ向けて運んでいく、永遠の生命に向けた共同事業を目指す、といった高揚感の足元には、そうした跳躍を希求し、必要とする、荒れた寒々しいさびしさがある。変容を求めるのは持続が不幸だからにほかならない。そしてその不幸な持続の中で人間は生きていて、だからこそ、終わりを求められながら終わることができずに、今このときも、ことによるとこの先も永遠に、耐えがたいほど持続してしまっているもののほうに味わいがある。
そういうさびしさは好きで、プラトーノフの描写が、宇宙ではなく、そうした地上や大地のさびしさに向けて広がっているところばかり拾って読んでいる気がする。
ここではやさしく生きることはできない
だから〈すまない〉より良いことばはない
生き過ぎた歳月は偽りだった
来たるべき歳月は道から外れてゆく
(「世界の終わり」)
失敗することは逃れがたく、懺悔は不可避で、悔悛は次の機会にもういちど挫折する。そのようにして私たちの生存は倫理的な路上に乗ることを求めながら常に逸れつづけていく。そういうさびしさを文学のなかに見出すことは、ニヒリズムとはまた別の仕方で、生き延びていくことを担い、肯定していくことにつながっている気がしている。


