いぬすけ "中動態の世界" 2026年5月22日

中動態の世界
中動態の世界
國分功一郎
能動態と受動態という、現在を生きる私たちにとってごく当たり前の「する/される」という区分。私たちの使用する言語はその対立を含み込み、私たちはそれを当然のように受け入れている。それは「する/される」という意志の有無を問うこと、責任を問うことの社会的必要性からである。 中動態はかつてインド・ヨーロッパ文化圏の言語において存在した、受動態でも能動態でもない、「その間」に存在すると定義されてきたもの。するでもされるでもないその動詞の在り方を問う。 がしかし、その理解は正しくない。それは現在の私たちのパースペクティブで中動態を理解しようとするからこその錯覚である。 能動↔︎中動態→受動態 現在の受動態は、中動態から派生したもの 古代ギリシャから何らかの時点で、何らかの必要性から能動↔︎受動という対立が生じるようになる。ラテン語にはその過程の名残として「形としては受動態だが、意味は能動ーー形式所相動態」というものがある。 そして能動↔︎中動態というかつての対立においては、この「能動」の意味合いも現在とは大きく異なるものである。中動態はそれ単独では定義できない、必ず能動態との対立の中で理解し得るものである。だからこそ現在の能動↔︎受動という対立の中において理解するとズレが生じる。 エミール・バンヴェニストによる解釈では 古代ギリシャ世界における能動において動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示す。行く、吹く、流れる、這う… 対して中動態では、動詞が主語の内部に還る できる、欲する、惚れ込む、希望する、生まれる、眠る、寝ている、想像する、成長する…主語は過程の行為者であり、同時にその中心であるという。しかし、これを内態/外態という、主語の位置の内外のみを問うクリアな定義をしてしまうと、意志と責任をめぐる中動態の歴史を辿ることは難しくなる。 言語は思考を直接的に規定するわけではないが、言語は思考の可能性を規定し得る。様々な思考が起こりうる場として社会や歴史があり、その可能性を言語が規定する。その意味において能動↔︎受動の対立や、中動態について考えることは、社会的・歴史的に私たちを問い直すきっかけを与えるものである。 古代ギリシャには意志の概念が存在しない その代わり「選択(プロアイレシス)」がある アリステレスの可能態 樫の木はドングリの可能態であり、動物は精子の可能態である その解釈では、未来は過去からの帰結でしかない。そこに何らの意志も介入する余地がないが、責任が問われた時に、その選択の開始地点として意志の存在が差し挟まれる。意志は後からやってきてその選択にとりつく。 ギリシャ語における「自由意志(リベルム・アルビトリウム)」もまた、意志を介在せず、「判断・選択」という意味合いでしかない。現在の意志という言葉のうちに含まれた、人間の自由意志とは異なる用法だ。 ハンナ・アレントの意志の定義 アレントは意志と選択(プロアイレシス)の区別を明確にして再定義した。この明確な定義から出発した時にアレントは自らが定義している対象の存在の可能性を自らで切り崩してしまう形ーーつまり矛盾を孕んでしまう。この定義においてアレントはキリスト教神学のうちにあるカント以降の哲学的思想を後ろ盾にできず、「絶対的な始まり」「無からの創造」を新たに求める必要がある。 アリストテレスが「選択(プロアイレシス)」という概念を持ち出したのは、行為を理性と(気概と)欲望だけでは説明しきれないから。自発的/非自発的という区別をするために、選択という概念を生み出した。アレントはカツアゲの例を元に、アリストテレスの定義でいうならば銃で脅されて金を出した人の行為は自発的であると、半ば強引に解釈している。アリストテレス自身は船の積荷の例を元に、「どちらかといえば自発的」とか「混合的」とかの余地を残しているのに対し、アレントはまるで印象操作のように、それをあえて単純化させているかのようだ。 人が何事をなす、なされるとはどういうことかを、権力の側面から原理的に問うたフーコー。 フーコーは権力/暴力を明確に区別し、権力は行為に対する行為であり、未来もしくは現在の行為に働きかける。対して暴力は身体や物に無理矢理働きかけ、あらゆる可能性を閉ざす とした。それ故に暴力関係のもとには受動性の極しか残されない。行為は相手の行為する力を利用するが、暴力は行為する力そのものを抑え込む。 注意すべきなのは権力関係において行使される側は、ある意味で能動的であるということ。なぜなら行使される側もまた、行為するからである。そこには少なくとも多少なりとも能動性が残されているのである。 便所掃除 嫌がる相手に箒を持たせてその手を掴んで無理矢理掃除させれば、それは暴力の関係となる。でも「掃除をしないとおやつをあげない」と言って掃除させようとするのは、相手に行為を生み出しているので権力の関係である。カツアゲの例なら銃で脅された相手は暴力に晒されているとはいえ、大人しく服従するか、暴力に対峙するか、逃げ出すかという可能性が開かれており、能動性が残されている。殺して金を持ち逃げしない限り、これは権力の関係である。(つまり、フーコーは権力による暴力行使を可能としている。しかしそれら限定的であるべきで、極限まで暴力を行使すれば相手は行為する能力を失うーー権力が機能しなくなるからである) しかし、銃で脅されてお金を差し出す人は、イヤイヤさせられているにすぎない。これをする(能動)↔︎される(受動)の対立に関係おいてキッパリ説明することはできない。権力行使における行為者の有り様を能動↔︎受動の対立で説明はできないのだ。これを説明するには能動↔︎中動態の対立において、行為者が行為の座になっているか否かで定義すべきである。 権力を行使する側は相手に行為させるのだから、行為のプロセスの外側にいるーーつまり能動である。権力によって行為させられる側は、行為のプロセスの内側にいるのだから中動と言える。 アレントもまた権力/暴力の区別をしている。 権力は集団的なもの、複数の人間が一致して行為するところに存在する。暴力によってはそうした一致はもたらしえない。「銃身からは決して生じ得ないもの、それは権力である」 フーコーは権力は限定的に暴力を行使するとし、権力によって暴力は利用可能とした。 対してアレントは暴力は権力を破壊するのみとした。カツアゲの例を元に考えると、銃で脅されてお金を取り出す人物は、犯人の要求と「一致して行為している」。それは自発的でないが、ここには「銃身から生じた一致」があることになる。アレントの理論構成がこの事例をうまく位置付けることができないように見えるーー矛盾を孕んでいるのは、アレントが「一致を自発的なもの」と考えているからである。自発的でない同意は同意でなく、そこから生じる一致は一致ではないと定義しているからである。 非自発的同意ーー仕方なく〜する アリストテレスの定義(自発的か非自発的か)によってカツアゲを解釈した場合、自発性の概念のみに言及せざるを得なく、そのため銃で脅されてイヤイヤ行った行為も自発的とされてしまう。それは自発か強制かーー能動か受動かというパースペクティブで物事を眺めているからである。そこに同意の概念を持ち出すと、「強制ではないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している」という事態を想定できる。 この非自発的同意という概念を含めないと、状況にかかわらず同意は単なる同意として理解されてしまう。ハラスメントなど 一致して行為しているとは? 単なる過去からの帰結でない、真の始まりである未来を司る器官としての意志ーーこれこそ純粋に自発的な能力と言えるかもしれない。しかし純粋な始まりなどないし、純粋に自発的な同意も存在しない。選択も同意も常に不純である。カツアゲの事例に対してアレントの理論が矛盾を孕んでいるのは、アレントが行為を自発と/強制(能動/受動)という図式で考えていたことに由来する。能動態/中動態の対立のもとであれば、非自発的同意のもとにある行為がうまく記述し得る。(フーコーの理論は中動態をめぐる図式をうちに含んでいた。) なぜこのように便利な区分が歴史の過程で失われていったのか。 文の中枢と思える動詞は実は随分と遅れて生じたものである。ラテン語には動詞と名詞の区分がないものがあり、それは名詞的構文ーー元々は動作を表す名詞だった痕跡を残す動詞である。いわゆる非人称構文(It rains 雨が降る)なども、動詞が名詞と分たれる前の古い形態の名残であろう。つまり動詞は名詞が発達したものであり、動詞はもともと行為者を指示せず、それ単独で動作や出来事だけを指すものであった。 こうして一万年の時間の中で生成変化し続ける言語を俯瞰した時に、出来事を描写する言語から 行為者を確定する言語への 方向性が見て取れる。能動↔︎受動という言語は本来あらゆる要素がかかわる出来事を私有化する。行為を行為者(意志)に帰属させるように記述するのである。 昭和三年 日本の文法学者細江逸記の論文 バンヴェニストの提唱する30年前に能動↔︎中動態の対立について、別の方法で定式化していた。(能動🟰主語の外側で行為が完遂する🟰過向性能相 ↔︎中動🟰主語の内側に行為が還る🟰不過向性能相、反照性能相) 細江によると 中動態から受動態が派生したように、同時に自動詞表現が派生した。ファイノマイ という中動態が I appear(自動詞表現 現れる・出現する)I am shown(受動態表現 現される)の両方を意味するが、これを私たちの言語の中に置くととたんに能動↔︎受動という区分に分けられてしまう。それらは同じ仕草だが、行為の帰結をめぐる尋問を受けると、それが自発的に姿を現したのか、何かによって姿を現すことを強制されたのか 選ばれなくてはならない。この問いにより意志の存在が前景化する。 日本語 見える 見える は 見るという他動詞と対になる自動詞表現。受動態から派生したものだ。文語で言うと「見ゆ」であり、この「ゆ」は中動態的表現である。 中動態においては過程を実現するための力のイメージを宿している。「かがむ」はかがむための力が自身の内側にあり、それによってかがむことが実現される。「昔が偲ばれる」なら力がどこかから来て主体をゆっくりと着実に動かす感覚がある。この度合いの差によって表現が変わる。細江は能動態から中動態が生まれ、中動態から他の態が派生した考えた。國分氏はこれに対して「動詞の憶測的起源」として断った上で、中動態から能動態、他の態が派生した可能性を主張する。 ハイデガーの意志をめぐる議論 「転回」以降のハイデガーは意志に対して警戒するような論調となる。 意志は絶対的な始まりでなくてはならないが、絶対的な始まりはありえないといパラドクスの帰結が、「過去の忘却」である。意志することとは、忘れようとすることである。意志することは、考えまいとすることである。 ハイデガーの放下という概念 放下は能動性と受動性の区別の外部に横たわっている。それは意志の領域の外部にある。 ドゥルーズ ゼノンに端を発するストア派哲学は物体(もの)と非物体的(こと)の関係について考察した。ストア派の哲学者ブレイエは「存在の仕方」を能動的でも受動的でもない様態と強調し、ドゥルーズも自著にそれを引用する。非物体的な出来事が、行為するものと行為されるものという物体的な本性を前提として再構成された時に、能動性や受動性がどこからともなく現れるのだと批判した。 スピノザのヘブライ語文法綱要 でも「自分自身で自分のところに訪れる」を用例として掲げ、能動でも受動でもない(でもある)行為について考察している。 スピノザは「行為するものに再び関連付けられる行為、すなわち内在原因を表現するような別の不定法のカテゴリーを作り出す必要があった」と、ヘブライ語ないしラテン語においてある能動でも受動でも説明できない観念があることに気付いており、それをあらわすのに必要な言葉がないということを認識している節がある。 スピノザの「エチカ」において、神と万物の関係は「内在原因」によって定義される。「神はあらゆるものの内在原因であって、超越原因でない」(超越的=能動的、内在的=中動態的と解釈して良し?)スピノザにとっての神はこの宇宙あるいは自然そのもの、神即自然である。その意味で神は万物の原因である。神を端緒として実態の変状として個物があらわれることを様態(modes)と呼びこれはモード、様式や仕方を表す。神は様々な仕方で存在している、木々、川、光、風、石ころ、私という身体を持つ人間…みたいな。水は液体から気体、固体へと変化するし、化学的に分解することもできる。しかし水へと変状していた実態がどこかに消え去ることはない。水もまた神の実体が存在するにあたっての一つのモード(様式)であるからだ。このスピノザの「様態的存在論」において因果関係は階層秩序を失う。「働きかける」ーー「働きを受ける」という関係は失われ、原因が結果において自らの力を表現するという関係になる。スピノザ哲学を能動↔︎受動で説明しようとすると難解だが、中動態においては理解しやすい。 ただしその中においても「作用するもの」「作用を受けるもの」という区別は依然として残り続けるはず… 「変状」という概念は、万物の原因である神が個物に変状している(一次的変状)という用法のほかに、あらゆる個物が互いに作用し合い、刺激や影響を受けながら様態を変化させて存在している(二次的変状)という意味合いも含む。実体はひとつの神なのだからどちらも同じことを言っているに過ぎないが、これは明確に区別できる。一次的変状は能動態でしかありえなく、二次的変状つまり様態同士が及ぼしあう変化は常に受動態でしかありえないのではないか。 外部の原因から刺激を受けて、その影響から様態が変状する時、その我々の内部で自閉し、内向するような変状の過程を開始する。そうして呼び起こされた感情ないし欲望が我々を決定する。この内的な変状の過程こそ中動態的なのであり、これまで散々語ってきた能動と受動では説明できない領域なのである。 変状する能力 われわれは外部から刺激を受け、その刺激と自分の変状する能力との相関関係によって一定の仕方で変状する。その変状が欲望としてわれわれを決定する。同じ他人の不幸を見たとしても人によって受ける反応や変化は異なる。スピノザはこの個物の変状する能力を人間の本質と捉えた。コナトゥス 農耕牛と競争馬 農耕馬は同じ馬として競走馬に近い存在に思えるが、スピノザの「変状する能力が本質」という観点に立てば、農耕牛に近いと考えられる。 われわれの変状がわれわれの本質を 十分に表現出来ている時、われわれは能動である。逆にその個体の本質が外部からの刺激によって 圧倒されてしまっている場合、個体は受動である。その質の差、度合いの差による理解があれば、先のアレントの議論におけるカツアゲの矛盾を説明し得る! 純粋な能動もなければ、純粋な受動もない。 (選択も同意も常に不純である) 受動から脱することは不可能だが、われわれに起こる変状がわれわれ自身の変状する能力にも依存しているのなら希望はある。外部からの影響に対して思惟能力をもって「なぜこのような変状をもたらされるのか?」と画一的な変状の出現を避けることが可能となる。 スピノザ的 自由/強制 一次的変状/二次的変状に対応する メルヴィルの「ビリーバッド」のクラッガードの堕落(ビリーへのねたみ)はその一言で説明出来るものではない。「あたかも、宿命によって禁じられていなければ、クラッガードはビリーを愛する事が出来たかもしれぬ、とさえ思われた」 ビリーとクラッガード、形而上学と精神分析、決定と偶然、意志されたものと偶然的なもの、無意識的なものと倫理的なものといった対立はテクスト上において同等に支持される。しかしそれらは両立不可能。ヴィア艦長はその間に立って、歴史を参照しながら判断を下す。「ビリーバッド」を読む読者の立つ歴史によって決まるということの比喩的存在。しかしヴィアもまた思うように判断を下せない立場であった。人は判断のためのに参照する枠組みを選ぶことなど出来ない。そこには歴史の強制力(カール・マルクス)がある。歴史は人間が思うように作ったものではない。だが、それは人間が作った歴史とみなされる。ここにこそ、歴史と人間の残酷な関係がある。 善と悪には人間の社会で通用し得る、そして通用している範囲には閉じ込められない過剰さがある。徳を超越する善、悪徳を超越する悪… アレントはビリーを善、クラッガードを悪、ヴィアを両者に挟まる相対的な徳 に対応させて読解した。法律は徳の間で揺れ動くのであって、それを超えるものを認めることは出来ない。そこに悲劇がある。(京都伏見介護殺人事件を思い出した) ビリーもクラッガードもヴィアも、そして我々も思うように行為できない。自由ではないわれわれ。自由であるにはどうするべきか?
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