中動態の世界
343件の記録
いぬすけ@inusuke442308152026年5月22日読み終わった能動態と受動態という、現在を生きる私たちにとってごく当たり前の「する/される」という区分。私たちの使用する言語はその対立を含み込み、私たちはそれを当然のように受け入れている。それは「する/される」という意志の有無を問うこと、責任を問うことの社会的必要性からである。 中動態はかつてインド・ヨーロッパ文化圏の言語において存在した、受動態でも能動態でもない、「その間」に存在すると定義されてきたもの。するでもされるでもないその動詞の在り方を問う。 がしかし、その理解は正しくない。それは現在の私たちのパースペクティブで中動態を理解しようとするからこその錯覚である。 能動↔︎中動態→受動態 現在の受動態は、中動態から派生したもの 古代ギリシャから何らかの時点で、何らかの必要性から能動↔︎受動という対立が生じるようになる。ラテン語にはその過程の名残として「形としては受動態だが、意味は能動ーー形式所相動態」というものがある。 そして能動↔︎中動態というかつての対立においては、この「能動」の意味合いも現在とは大きく異なるものである。中動態はそれ単独では定義できない、必ず能動態との対立の中で理解し得るものである。だからこそ現在の能動↔︎受動という対立の中において理解するとズレが生じる。 エミール・バンヴェニストによる解釈では 古代ギリシャ世界における能動において動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示す。行く、吹く、流れる、這う… 対して中動態では、動詞が主語の内部に還る できる、欲する、惚れ込む、希望する、生まれる、眠る、寝ている、想像する、成長する…主語は過程の行為者であり、同時にその中心であるという。しかし、これを内態/外態という、主語の位置の内外のみを問うクリアな定義をしてしまうと、意志と責任をめぐる中動態の歴史を辿ることは難しくなる。 言語は思考を直接的に規定するわけではないが、言語は思考の可能性を規定し得る。様々な思考が起こりうる場として社会や歴史があり、その可能性を言語が規定する。その意味において能動↔︎受動の対立や、中動態について考えることは、社会的・歴史的に私たちを問い直すきっかけを与えるものである。 古代ギリシャには意志の概念が存在しない その代わり「選択(プロアイレシス)」がある アリステレスの可能態 樫の木はドングリの可能態であり、動物は精子の可能態である その解釈では、未来は過去からの帰結でしかない。そこに何らの意志も介入する余地がないが、責任が問われた時に、その選択の開始地点として意志の存在が差し挟まれる。意志は後からやってきてその選択にとりつく。 ギリシャ語における「自由意志(リベルム・アルビトリウム)」もまた、意志を介在せず、「判断・選択」という意味合いでしかない。現在の意志という言葉のうちに含まれた、人間の自由意志とは異なる用法だ。 ハンナ・アレントの意志の定義 アレントは意志と選択(プロアイレシス)の区別を明確にして再定義した。この明確な定義から出発した時にアレントは自らが定義している対象の存在の可能性を自らで切り崩してしまう形ーーつまり矛盾を孕んでしまう。この定義においてアレントはキリスト教神学のうちにあるカント以降の哲学的思想を後ろ盾にできず、「絶対的な始まり」「無からの創造」を新たに求める必要がある。 アリストテレスが「選択(プロアイレシス)」という概念を持ち出したのは、行為を理性と(気概と)欲望だけでは説明しきれないから。自発的/非自発的という区別をするために、選択という概念を生み出した。アレントはカツアゲの例を元に、アリストテレスの定義でいうならば銃で脅されて金を出した人の行為は自発的であると、半ば強引に解釈している。アリストテレス自身は船の積荷の例を元に、「どちらかといえば自発的」とか「混合的」とかの余地を残しているのに対し、アレントはまるで印象操作のように、それをあえて単純化させているかのようだ。 人が何事をなす、なされるとはどういうことかを、権力の側面から原理的に問うたフーコー。 フーコーは権力/暴力を明確に区別し、権力は行為に対する行為であり、未来もしくは現在の行為に働きかける。対して暴力は身体や物に無理矢理働きかけ、あらゆる可能性を閉ざす とした。それ故に暴力関係のもとには受動性の極しか残されない。行為は相手の行為する力を利用するが、暴力は行為する力そのものを抑え込む。 注意すべきなのは権力関係において行使される側は、ある意味で能動的であるということ。なぜなら行使される側もまた、行為するからである。そこには少なくとも多少なりとも能動性が残されているのである。 便所掃除 嫌がる相手に箒を持たせてその手を掴んで無理矢理掃除させれば、それは暴力の関係となる。でも「掃除をしないとおやつをあげない」と言って掃除させようとするのは、相手に行為を生み出しているので権力の関係である。カツアゲの例なら銃で脅された相手は暴力に晒されているとはいえ、大人しく服従するか、暴力に対峙するか、逃げ出すかという可能性が開かれており、能動性が残されている。殺して金を持ち逃げしない限り、これは権力の関係である。(つまり、フーコーは権力による暴力行使を可能としている。しかしそれら限定的であるべきで、極限まで暴力を行使すれば相手は行為する能力を失うーー権力が機能しなくなるからである) しかし、銃で脅されてお金を差し出す人は、イヤイヤさせられているにすぎない。これをする(能動)↔︎される(受動)の対立に関係おいてキッパリ説明することはできない。権力行使における行為者の有り様を能動↔︎受動の対立で説明はできないのだ。これを説明するには能動↔︎中動態の対立において、行為者が行為の座になっているか否かで定義すべきである。 権力を行使する側は相手に行為させるのだから、行為のプロセスの外側にいるーーつまり能動である。権力によって行為させられる側は、行為のプロセスの内側にいるのだから中動と言える。 アレントもまた権力/暴力の区別をしている。 権力は集団的なもの、複数の人間が一致して行為するところに存在する。暴力によってはそうした一致はもたらしえない。「銃身からは決して生じ得ないもの、それは権力である」 フーコーは権力は限定的に暴力を行使するとし、権力によって暴力は利用可能とした。 対してアレントは暴力は権力を破壊するのみとした。カツアゲの例を元に考えると、銃で脅されてお金を取り出す人物は、犯人の要求と「一致して行為している」。それは自発的でないが、ここには「銃身から生じた一致」があることになる。アレントの理論構成がこの事例をうまく位置付けることができないように見えるーー矛盾を孕んでいるのは、アレントが「一致を自発的なもの」と考えているからである。自発的でない同意は同意でなく、そこから生じる一致は一致ではないと定義しているからである。 非自発的同意ーー仕方なく〜する アリストテレスの定義(自発的か非自発的か)によってカツアゲを解釈した場合、自発性の概念のみに言及せざるを得なく、そのため銃で脅されてイヤイヤ行った行為も自発的とされてしまう。それは自発か強制かーー能動か受動かというパースペクティブで物事を眺めているからである。そこに同意の概念を持ち出すと、「強制ではないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している」という事態を想定できる。 この非自発的同意という概念を含めないと、状況にかかわらず同意は単なる同意として理解されてしまう。ハラスメントなど 一致して行為しているとは? 単なる過去からの帰結でない、真の始まりである未来を司る器官としての意志ーーこれこそ純粋に自発的な能力と言えるかもしれない。しかし純粋な始まりなどないし、純粋に自発的な同意も存在しない。選択も同意も常に不純である。カツアゲの事例に対してアレントの理論が矛盾を孕んでいるのは、アレントが行為を自発と/強制(能動/受動)という図式で考えていたことに由来する。能動態/中動態の対立のもとであれば、非自発的同意のもとにある行為がうまく記述し得る。(フーコーの理論は中動態をめぐる図式をうちに含んでいた。) なぜこのように便利な区分が歴史の過程で失われていったのか。 文の中枢と思える動詞は実は随分と遅れて生じたものである。ラテン語には動詞と名詞の区分がないものがあり、それは名詞的構文ーー元々は動作を表す名詞だった痕跡を残す動詞である。いわゆる非人称構文(It rains 雨が降る)なども、動詞が名詞と分たれる前の古い形態の名残であろう。つまり動詞は名詞が発達したものであり、動詞はもともと行為者を指示せず、それ単独で動作や出来事だけを指すものであった。 こうして一万年の時間の中で生成変化し続ける言語を俯瞰した時に、出来事を描写する言語から 行為者を確定する言語への 方向性が見て取れる。能動↔︎受動という言語は本来あらゆる要素がかかわる出来事を私有化する。行為を行為者(意志)に帰属させるように記述するのである。 昭和三年 日本の文法学者細江逸記の論文 バンヴェニストの提唱する30年前に能動↔︎中動態の対立について、別の方法で定式化していた。(能動🟰主語の外側で行為が完遂する🟰過向性能相 ↔︎中動🟰主語の内側に行為が還る🟰不過向性能相、反照性能相) 細江によると 中動態から受動態が派生したように、同時に自動詞表現が派生した。ファイノマイ という中動態が I appear(自動詞表現 現れる・出現する)I am shown(受動態表現 現される)の両方を意味するが、これを私たちの言語の中に置くととたんに能動↔︎受動という区分に分けられてしまう。それらは同じ仕草だが、行為の帰結をめぐる尋問を受けると、それが自発的に姿を現したのか、何かによって姿を現すことを強制されたのか 選ばれなくてはならない。この問いにより意志の存在が前景化する。 日本語 見える 見える は 見るという他動詞と対になる自動詞表現。受動態から派生したものだ。文語で言うと「見ゆ」であり、この「ゆ」は中動態的表現である。 中動態においては過程を実現するための力のイメージを宿している。「かがむ」はかがむための力が自身の内側にあり、それによってかがむことが実現される。「昔が偲ばれる」なら力がどこかから来て主体をゆっくりと着実に動かす感覚がある。この度合いの差によって表現が変わる。細江は能動態から中動態が生まれ、中動態から他の態が派生した考えた。國分氏はこれに対して「動詞の憶測的起源」として断った上で、中動態から能動態、他の態が派生した可能性を主張する。 ハイデガーの意志をめぐる議論 「転回」以降のハイデガーは意志に対して警戒するような論調となる。 意志は絶対的な始まりでなくてはならないが、絶対的な始まりはありえないといパラドクスの帰結が、「過去の忘却」である。意志することとは、忘れようとすることである。意志することは、考えまいとすることである。 ハイデガーの放下という概念 放下は能動性と受動性の区別の外部に横たわっている。それは意志の領域の外部にある。 ドゥルーズ ゼノンに端を発するストア派哲学は物体(もの)と非物体的(こと)の関係について考察した。ストア派の哲学者ブレイエは「存在の仕方」を能動的でも受動的でもない様態と強調し、ドゥルーズも自著にそれを引用する。非物体的な出来事が、行為するものと行為されるものという物体的な本性を前提として再構成された時に、能動性や受動性がどこからともなく現れるのだと批判した。 スピノザのヘブライ語文法綱要 でも「自分自身で自分のところに訪れる」を用例として掲げ、能動でも受動でもない(でもある)行為について考察している。 スピノザは「行為するものに再び関連付けられる行為、すなわち内在原因を表現するような別の不定法のカテゴリーを作り出す必要があった」と、ヘブライ語ないしラテン語においてある能動でも受動でも説明できない観念があることに気付いており、それをあらわすのに必要な言葉がないということを認識している節がある。 スピノザの「エチカ」において、神と万物の関係は「内在原因」によって定義される。「神はあらゆるものの内在原因であって、超越原因でない」(超越的=能動的、内在的=中動態的と解釈して良し?)スピノザにとっての神はこの宇宙あるいは自然そのもの、神即自然である。その意味で神は万物の原因である。神を端緒として実態の変状として個物があらわれることを様態(modes)と呼びこれはモード、様式や仕方を表す。神は様々な仕方で存在している、木々、川、光、風、石ころ、私という身体を持つ人間…みたいな。水は液体から気体、固体へと変化するし、化学的に分解することもできる。しかし水へと変状していた実態がどこかに消え去ることはない。水もまた神の実体が存在するにあたっての一つのモード(様式)であるからだ。このスピノザの「様態的存在論」において因果関係は階層秩序を失う。「働きかける」ーー「働きを受ける」という関係は失われ、原因が結果において自らの力を表現するという関係になる。スピノザ哲学を能動↔︎受動で説明しようとすると難解だが、中動態においては理解しやすい。 ただしその中においても「作用するもの」「作用を受けるもの」という区別は依然として残り続けるはず… 「変状」という概念は、万物の原因である神が個物に変状している(一次的変状)という用法のほかに、あらゆる個物が互いに作用し合い、刺激や影響を受けながら様態を変化させて存在している(二次的変状)という意味合いも含む。実体はひとつの神なのだからどちらも同じことを言っているに過ぎないが、これは明確に区別できる。一次的変状は能動態でしかありえなく、二次的変状つまり様態同士が及ぼしあう変化は常に受動態でしかありえないのではないか。 外部の原因から刺激を受けて、その影響から様態が変状する時、その我々の内部で自閉し、内向するような変状の過程を開始する。そうして呼び起こされた感情ないし欲望が我々を決定する。この内的な変状の過程こそ中動態的なのであり、これまで散々語ってきた能動と受動では説明できない領域なのである。 変状する能力 われわれは外部から刺激を受け、その刺激と自分の変状する能力との相関関係によって一定の仕方で変状する。その変状が欲望としてわれわれを決定する。同じ他人の不幸を見たとしても人によって受ける反応や変化は異なる。スピノザはこの個物の変状する能力を人間の本質と捉えた。コナトゥス 農耕牛と競争馬 農耕馬は同じ馬として競走馬に近い存在に思えるが、スピノザの「変状する能力が本質」という観点に立てば、農耕牛に近いと考えられる。 われわれの変状がわれわれの本質を 十分に表現出来ている時、われわれは能動である。逆にその個体の本質が外部からの刺激によって 圧倒されてしまっている場合、個体は受動である。その質の差、度合いの差による理解があれば、先のアレントの議論におけるカツアゲの矛盾を説明し得る! 純粋な能動もなければ、純粋な受動もない。 (選択も同意も常に不純である) 受動から脱することは不可能だが、われわれに起こる変状がわれわれ自身の変状する能力にも依存しているのなら希望はある。外部からの影響に対して思惟能力をもって「なぜこのような変状をもたらされるのか?」と画一的な変状の出現を避けることが可能となる。 スピノザ的 自由/強制 一次的変状/二次的変状に対応する メルヴィルの「ビリーバッド」のクラッガードの堕落(ビリーへのねたみ)はその一言で説明出来るものではない。「あたかも、宿命によって禁じられていなければ、クラッガードはビリーを愛する事が出来たかもしれぬ、とさえ思われた」 ビリーとクラッガード、形而上学と精神分析、決定と偶然、意志されたものと偶然的なもの、無意識的なものと倫理的なものといった対立はテクスト上において同等に支持される。しかしそれらは両立不可能。ヴィア艦長はその間に立って、歴史を参照しながら判断を下す。「ビリーバッド」を読む読者の立つ歴史によって決まるということの比喩的存在。しかしヴィアもまた思うように判断を下せない立場であった。人は判断のためのに参照する枠組みを選ぶことなど出来ない。そこには歴史の強制力(カール・マルクス)がある。歴史は人間が思うように作ったものではない。だが、それは人間が作った歴史とみなされる。ここにこそ、歴史と人間の残酷な関係がある。 善と悪には人間の社会で通用し得る、そして通用している範囲には閉じ込められない過剰さがある。徳を超越する善、悪徳を超越する悪… アレントはビリーを善、クラッガードを悪、ヴィアを両者に挟まる相対的な徳 に対応させて読解した。法律は徳の間で揺れ動くのであって、それを超えるものを認めることは出来ない。そこに悲劇がある。(京都伏見介護殺人事件を思い出した) ビリーもクラッガードもヴィアも、そして我々も思うように行為できない。自由ではないわれわれ。自由であるにはどうするべきか?
shuhei_shuhei@shuhei_shuhei2026年5月11日読み終わったとにかく難しかった。 仕事に応用できそうな考え方。 ⇨やりたいことだけやってたらあかんし、かといってやらされてるだけでもあかん。外界からの刺激(降ってくる仕事)に対して自分で意味付けするイメージを持った 100%その人が悪いとか、言えないのかも ◯責任のある世界は人が人に応答する世界だ。 ◯人間が参照の枠組みを選んだことは一度もない。 人はすぐ目の前にある、与えられた、持ち越されてきた参照の枠組みのもとで判断を下すほかないのである。 ◯強制はないが自発的でもなく、自発的でないが同意している、そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常にあふれている。

- 328@millefeuille_3282026年5月3日読み終わった母国語で高等教育を行える国は少ない。 いろんな事情があるけれど、大きな要因のひとつとしては誤訳の問題。 たとえばドイツ語の医学書があるとする。これを母国語で学ぶために翻訳する。翻訳の際に十分には訳しきれず原典と意味のずれが生じる。そうすると当然、理解にもずれが生じてくる。 ずれは言語間の構造的な差異に因るかもしれないし、訳者の主観に因るかもしれない。いずれにせよコンバートされた文字が全く同じ意味を持つことは有り得ない。 仕方ないと言うと身も蓋もないけれど、ある程度起こってしまうのは避けられないと思う。 ただここで本当に問題なのは、〝原典を知らない者に自分がずれた理解をしているとは知り得ない〟ことだ。 文庫版補遺に「responsibility」の訳としての「責任」の不適切が語られている(なんて重大な言及なのか。補足じゃないわけだよ)。 レスポンスが応答の意なのは知ってのとおり。アビリティは能力なので、直訳は「応答する能力」となる。 さて。 応答する能力とは責めを任うことを指すのか? あまりにも飛躍していないか? 順序立てて考えれば誰しもがたどり着く疑問だが、それが今日の社会的価値観の基盤である西洋哲学、ひいてはラテン語(インド=ヨーロッパ語族)を起源としているなんて多くの人は知らない。 いや、知っていても感じられない。本書で述べられたスピノザの太陽の例えと同じ構造だろうと思う。 言語というフレームワークのお陰で思考が適っている一方、フレームワークによる直観への抑圧が発生する。 その抑圧を折りに触れ意識しながら、私たちは判断をフレームワークに任せた自動生産的に行ってはいないかと問うていく。そして必ずしも言語化できない直観に寄り添ってみることが自由へと導いていくのかもしれない。 名詞優位のパースペクティブの発見から動詞優位の指摘がすとーんと腑に落ちて気持ちよかった。 フーコーの、権力は生産的であるのに対して暴力は破壊的、なのでこれは対立する。 ライプニッツの、世界は出来事の起こるフィールドではなく、出来事の束こそが世界である。 この辺りがとくに。 『免責が引責を可能にする』の論と実例は思い出していたい。 これは「能動─受動」のパースペクティブを免除することによって一度解体し、新たなパースペクティブで責任を捉え直すことによって起こるのだと推測した(私たちの直観は「能動─受動」を退けるので)。 本書の総括的なアハ体験なのでぜひ文庫版で。 私は「responsibility」を「気づき得る」と訳し直した。 言葉のやり取りで生まれざるを得ない誤解の影響が、思うよりずっと広く深く浸透してゆく怖さを認識しちゃうな。 (一方、渡邉康太郎さんのポジティブな「誤読」の捉え直しが大好きなので、人がなにかを自分の側へ引き寄せる、内に落とし込もうとする、その関係と表現性はいつまでも賛歌していたい)


小石川@mkgaogao2026年4月19日読み終わった@ 自宅19/26 能動態と受動態という二項対立が「何かを意図していつからか始まったのではないか」という仮説から、言語が確実に人間とともにまるで生き物のように変化していることに驚いた 意志への批判、責任の問い直し、中動態という旧来の概念から今の時代に必要なエッセンスと視座の獲得、という多岐にわたるテーマを観念的なパートと現実的なパートにわけてぐるりと回る、軽やかな気持ちで進むハードな登山のような読書体験だった 重い荷物を背負って登り切った山からしか新たな展望は得られないと思った
ポチ@takupochi_19932026年4月19日読み終わった帯に「明日を生きやすくする哲学」ってコピーが書いてあったけどそんなに優しい本でなかった。 むしろ新しい問題を私たちに考えさせる本。 今まで当たり前のように使ってきた「意志」や「責任」の概念が能動・受動の枠組みに囚われたものであると喝破し、それ以前の中動態の枠組みで考えるとどうなるのか推理小説のように紐解いていく。 8章のスピノザの自由の話で終わればポジティブな印象で締められただろうに最後にメルヴィルの『ビリー・バッド』の章を持ってきてきちんと人間の不完全な部分、簡単には中動態の世界を実現するのは難しいということ(でも希望はある)を書いたのは著者の國分さんの律儀さを感じた。 その誠実さに何か応えたいと思って感想を書いた。 これが読者の責任か。

もにこ@moni_2452026年4月18日読んでる読書メモ感想やはり内容は難しいけど、自分も最近自然とこういうものの捉え方をするようになってたなと気付いた。特にネガティブな出来事があったとき、気持ちが楽になるために俯瞰的にというか構造化するためというか。 うまく言えないけど人あるいは思い通りにいかぬ自分自身に対して、感情的になって終わりじゃなく、観察する事で対処法を考えるほうへフォーカスを当てやすくなるという感じ。

- たなか@ootanaka56322026年4月18日読んでる自分たちが今まで意志だと思ってたことは実は過去から培われてきた断続的な選択の帰結でしかない →この選択は社会的要因や周りの環境をもとに選ばれており、何かを始めようとする力(意志)とは異なる



- たなか@ootanaka56322026年4月17日読んでるテクネーに対する見解が差延っぽい、、、! 二項対立で物事を見るように教えられている人が中動態を排除するように昔の文法書を読んできたのは納得です。


まんぼう@sunfish_3202026年4月9日読み終わった再読中読書日記まるで壮大な時間旅行であり、冒険をしてるよう。 ポテトを食べる時の食べ始めこそ能動的だけど、いつのまにか、ポテトにたいして受動的になっている。 自分の「意志」で始めたにも関わらず、なぜそのような事が起こってしまうのか… その答えに出会えた気がする。 (あんまり理解出来てないかもしれないけど)
ユーフラテス@osirizm_78782026年3月17日読み終わった人は意志する時、ただ未来だけを眺め、過去を忘れようとし、回想を放棄する。 意思は絶対的始まりであろうとするからである。 回想を放棄することは、思考を放棄すること。 なぜならば、人はそれまでに自分が受け取ってきた様々な情報にアクセスすることなしにものを考えることができないからである。 意思することは考えまいとすることである。
euy@euy2026年3月14日読み終わった自由とか責任とか意思とか、ふだん何となくぼんやりと疑問を感じてるものについて、きれいに問題点を整理して、しかも中動態という文法から考えるヒントをくれる、刺激的な一冊だった。 能動ー受動とは全然違う、中動態という概念。なんかすごい感じがするけど、うまく消化しきれない。だって今の世の中はあまりにも能動ー受動の枠組みで動いていて、それはフィクションだしいろいろ齟齬をきたしてはいるけれど、中動態の概念を使って実際にどうやって社会を見ていくことができるのだろうか。さらには社会制度を作っていくことができるのだろうか。もうちょっと考えてみたいと思う。






おさとうトマト@fptoma2026年3月12日古代の世界で使用されていた文法「中動態」を起点に、能動態・受動態の定義を捉えなおしながら、「私がなにごとかをなす」ということを分析していく哲学書。 先人たちの言語学と哲学の研究を紐解きながら、丁寧に中動態を解釈していくさまに感嘆しかない。前提となる情報で土台を作って、論理をひとつひとつ積み上げて、中動態とはいったいなんなのかを紐解いていく。その過程はまるで、強固な城を建設しているような印象。言葉の意味を的確に拾っていかないと、著者の言わんとしていることについていけなくなるので、辞書をお供に読み進める。哲学は言葉のひとつひとつの意味を大切にする学問であることを実感する。 能動態と受動態の区別は、主語が動詞によって示される過程の外/内のどちらにあるかで定義され、主語の内に位置づけられるのが中動態である。ざっくり解釈すると、自分の行動の行き先の矢印が自分に向かっているのが中動態、というイメージをもった。その前提でスピノザの唱える能動・受動の概念を考えていくプロセスが、難しいけれど面白い。刺激を受けたうえで生じる行動が、自分の本質的な行為か、それとも外部からの刺激に圧倒された本質的でない行為か。行為の質の差で能動・受動であるかを考える。すると、冒頭で登場した「プロローグ――ある対話」の見え方が変わってくる。「暇と退屈の倫理学」でも思ったけれど、著者の國分先生の本は、言葉や文章を追いかけていたら、いつの間にか見える世界が少しだけ変わっている感じがする。時間がかかったけれど読み終えることができて良かったし、読み終えた自分にすこし自信がついた気がする一冊だった。


はるのななくさ@nanakusa_872026年3月1日読み終わった●『自由意志』という思い込み 何か出来事が起こったとき、なるべく正しく、冷静に認識をしたい。 「自由」に次の選択がとれるように。 少なくとも、なにものか自分の外部の事象によって、自己の統制を失うことのないように。 哲学はそんなときにも私たちの助けになってくれる。 中動態という現在では失われた文法を手がかりに、普段私たちが思考するときに使用する言語では捉えられない概念を追っていく。 わたしも、あなたもあの人も。完全なる自由意志などなどなくて、人間は常に他の物事から影響を受ける存在である。 わたしも、あの人もそうなのだ。 このことを覚えておけば、もう必要以上に自分を責めたり他人を非難したり、そういった極端な態度をとる頻度はぐんと減るだろう。 わたし達は完全に自由でもないが、完全に強制された状態でもない。 それは希望と呼ぶにはやや頼りないけれど、今この現実を生きるわたし達にとって、息つくことのできる拠り所となってくれる。 【追記、メモ】 帰責性:能動態−受動態の対立の中で作動する概念。行為を誰かに帰属させる側(能動)と帰属させられる側(受動) 責任:中動態によって記述されるべき応答。「応答する」という自動詞で記述される。 行為とは無数の原因によってもたらされた結果であり、一人の個人に所有されるものではない ≒行為のコミュニズム 個人の概念と結びついた意志の概念 古代ギリシアに意志の概念はなかった


栗かのこ@peace-05302026年2月28日読み終わった受動と能動の二項対立に集約されない領域があること、「自己責任」という言葉への違和感など、ぼんやり感じてきたことが、言語学を通して解明されるのが新鮮だった。難しかったけれど、新しい視座を与えてくれる本だ。

euy@euy2026年2月23日読んでる國分先生の日本語表現、好きすぎる。 「中動態の担っていた観念は、その抑圧の過程のなかでまるで遺産分割のように複数に分かたれて、数々の表現へ継承されていった。驚くべきことに、その継承の過程がインド=ヨーロッパ諸語と日本語で共通していることもわれわれは確認した。もはや遺産は遺産としても認識されていない。もちろん、継承とはそもそもそのようなものであろう。中動態自身も自らの意味をおそらくは非人称表現から継承したに過ぎないのだから。」
おさとうトマト@fptoma2026年2月18日読んでる言語と文法の章にあやうく挫折しかけたけれど、NHKラジオ「ウチらと世界とエンタメと」の最新回、國分功一郎×朝井リョウによるクロストークを聴いたら読むモチベーションがむくむくと湧き上がってきた。 「私がなにごとかをなす」とは一体どういうことか。中動態について分析した先に何があるのか、絶対に見届けるんだ。 そして次は『イン・ザ・メガチャーチ』を読むんだ。

おさとうトマト@fptoma2026年2月8日読み始めたかつて存在されたとされる「中動態」(能動態でも受動態でもない態)から人間の意志と責任について見つめなおす一冊。『暇と退屈の倫理学』に衝撃を受けてから、いつか読みたいと思っていた本作。ようやくチャレンジする。

けい@kei-note2026年2月8日読み始めた今の自分にすごく合っているみたいで読んでいて楽しい。あと多分とても読みやすい。 すごく理解できるかと言うと違うけれど(この手のジャンル普段読まないし)読みたかった言葉がここにある という気分。


- み@all_is_love2026年1月5日読んでる帯に釣られて買ったら予想外の哲学書。哲学もいずれ触れたいと思ってたのでちょうどよい!が、初心者にはかなりむずかしく、何度も同じ文を読み返しながら進めている。
icue@icue2025年11月5日読み終わったかつて読んだ単行本時以来の再読。本を読んで人生変わるとかそういう経験はほとんどないのだが、自分にとって数少ない目から鱗が落ちた本。当時大きな影響を受けた。 単行本時には、「能動-受動」における責任は意志の概念と結び付けられており、意志概念は本書において徹底的に批判されているので、では責任はどうなるのかという問いは残っていた。文庫版補遺として追記された「なぜ免責が引責を可能にするのか──責任と帰責性」にてその問いに答えている。 意志によって根拠づけられた責任はいわば「堕落した責任」であり、意志概念ともども批判すべきだが、代わって「能動態-中動態」における「応答可能性/responsibility」としての責任が提示される。意志によって根拠づけられた責任は「帰責性/imputability」として応答可能性としての責任とは区別して考えられるべきものだという。 「帰責性」や「能動-受動」といった概念は社会を運営していくにあたって必要なものである(例えば近代の法体系などはそれが前提となっている)一方、それらが意志によって根拠づけられてしまうとむしろその役割を損なうことになると、ここでも本編同様、意志概念が批判されている。それゆえ、意志概念無しでの「能動-受動」の対立や「帰責性」を考えるべきだという主張は、ちょっと想像になかったので面白かった。そこから熊谷晋一郎氏の指摘を受けて、過去を切断する意志と、過去を振り返るからこそ感じる責任とを対義語として定義する。 さて、「帰責性」によって責任を感じるべき人を指し示したとして、応答すべきなのに応答しない人が、責任を感じて応答するようになるにはどうすればいいかという肝心の問題はどう答えているのか。熊谷氏や当事者研究を参照しながら、いくら「帰責性」を問うても責任の生成につながらないが、いったん免責するというプロセスを踏むことで逆説的に責任を感じるようになることがあるという。これは、不思議に思えるが、刑務所での更生支援に携わっていた岡本茂樹氏の『反省させると犯罪者になります』などの著書でも似たような話がなされていたと思う。どうも人間にはそういう心の動きがあるようだ。本書においても一応の理由の説明がなされているのだが、國分氏も自ら書いている通り、まだまだ理由の解明は充分ではないし、この補遺も現時点での仮説の提示にすぎない。 こうした責任をめぐる議論は、例えば戦争責任や差別やハラスメントといった、袋小路に陥りがちな問題を解きほぐすポテンシャルを秘めているように思う。逆に言えば、しばしばそうした問題が硬直化してしまうのは、意志概念をそこに見出して「堕落した責任」を追求してしまうからなのかもしれない。なんら自分の意志によるものでもない、場合によっては自分が生まれる以前からある問題に対して責任を感じることができるのはなぜなのか。今後の議論の展開に期待したい。


こけし@murasakikokeshi2025年10月28日買った読んでる2025年の読書記録 ずっと気になってて、今年の春に文庫化したから買って、10月頃に少しだけ読んだけどまだまだ読み終わってない- ゆ@yu000072025年9月22日読み終わった4月に購入し、「分からん....分からん!」と思いながら何とか読み切った。 何も理解できていない感じはするが、とにかく読み切ったので解放はされた。 著者の「暇と退屈の倫理学」を以前読んでおり、読みやすく面白かったため、「あの人の新作か!」と本屋で手に取り、冒頭を立ち読みして「これは面白そうだ!」と思ったもののあまりにも難しく半月かかってしまった。 理解できているとは言い難いが、過保護の父親が敷いたレールを歩いてきた私は強制に近く自由が少ない状態ではあるが、「運動部に入りなさい」と言われて活動日数の少ない弓道部を選ぶ程度の自由はあった。一人暮らしを始め、親と距離を置くことに成功したため、「自由>強制」となるようにしていきたい。しかし呪縛が抜け切るのに時間がかかりそうではある。

みどりこ@midorikko_032025年9月21日読み終わった風呂読書だったもの。本編は躓きながらめ読み切れたけど、補遺がとにかく一層ワンランク上の難しさだった……。一応読んだけど、ぜんっぜんわかんない。前作の『暇と退屈の倫理学』も大層面白かったけどやはり「なにこれぜんっぜんわかんない」があったのを思い出した。また読もう。アーレントに初めて興味が沸いた。


いっちー@icchii3172025年9月15日いよいよ読む満を持す本日『聖なるズー』の読書会をしてたら、言葉と性的同意の議論からまさかの意志と切断の話にたどり着いた。いよいよ読む時がやってきた… 積んでると思ってたけどなかった(あったのは責任の生成だった)
拓洋舎@hallelujah10252025年8月17日読んでる@ 自宅第5章 意思と選択 7 「する」と「される」の境界 8 権力関係における「能動性」 9 アレントと一致の問題 10 非自発的同意の概念 11 アレントにおける政治、意志、自発性

高尾清貴@kiyotakao2025年8月6日読み終わった読んだー いやー、これはなかなか難解だった。「中動態の世界」というタイトルの示すとおり、「中動態」という概念を認めたときの「世界」がどうみえるか、という辞書的な意味での「世界観」の話をしていたことが、おそらく、難しさの原因。 「中動態」が言語概念であるので、認識の転換が必要だし、数々の哲学者の議論を引用しつつ、批判を加えた上で取り込んでいく必要があるから、集中力の必要な本だった。 暇と退屈の倫理学もそうだったが、通読することで世界観がインストールされるので、情報としては、最終章だけ読めば十分なのかもしれないが、通読する前と後では、自分の中に発生する感覚に変化が生じている気がする。 こういう感想を抱くのも、中動態の世界を生きられるようになったからかもしれない。
Ayako@aya_rb2025年7月23日読み終わった第9章 ビリーたちの物語 の5 彼らはいったい誰なのか? 2025年7月の今こそ必読。 徳と善、善と悪の関係。アレントの指摘。 ===== pp404-405 善は過剰である。過剰であるがゆえに悪を暴力的に排除する。 善は徳のように同意や通念に依拠しない。だから、「温和に行動するのではなく、力強く、実際暴力的に自己を主張する」。アレントが述べている通り、善を温和や弱さと同一視している人々にはこれはまったく驚くべきことであろう。だがそれが驚くべきものであるのは、われわれが善を正面から見据えようとせず、それを常に徳に置き換えようとしているからである。 ===== われわれはビリーでありクラッガートでありヴィアであると。

拓洋舎@hallelujah10252025年7月9日読んでる@ 自宅第4章 言語と思考 1 ギリシア世界に意志の概念はなかった 「奇妙な欠落」とは 能動態が中動態に対立している世界には「意志」はない
Ayako@aya_rb2025年6月29日読み始めた(メモ) 第3章 バンウェニストの議論の参照 能動態と中動態の対立に見出されるのは、主語が、動詞によって示される過程の外にあるか内にあるかの区別である。 第4章 デリダによるバンウェニストの批判を検証する バンウェニストは、言語は思考ではなくて思考の可能性を規定するとした。 p202 フーコーの権力論 権力は人々が行為するのを妨げるのではない。権力は行為に働きかけ、人がある行為をするように、もしくはその行為のあり方を規定するように作用する。言い換えれば、権力は人がもつ行為する力を利用する。 それに対し暴力は、身体に直接に働きかけるという意味で権力から区別される。 権力は相手の行為する力を利用するが、暴力は行為する力そのものを抑え込む。 暴力関係は能動と受動の対立のなかにある。 暴力は行為を引き出すことはできない。暴力はあらゆる可能性を閉ざす。 ここで注意しなければならないのは、権力関係において権力を行使される側にいるものは、ある意味で能動的だということである。 権力行使における行為者の有り様は、「する」と「される」の対立では説明できない。 ただし、権力は暴力を利用する。だからしばしばこのふたつは混同される。 権力の関係は、能動性と中動性での関係でこそ、説明できる。 アレントの権力の定義 権力は集団的なものであり、複数の人間が一致して行為するところに存在する。暴力はそのような一致は持たない。 フーコーは暴力は権力によって利用可能とする。 しかし、アレントの理論では、暴力は権力を破壊し、権力が暴力を利用することはありえない、と。 非自発的同意、というカテゴリー(能動と受動の対立の図式では、上手く位置付けられない)
とむ@tom_books2025年6月23日まだ読んでる予想外に言語学?なお話が深くて難しくて 行き帰りの電車でゆっくりゆっくり読んでる🚃 全然こっちのバックグラウンドないのに惹かれてしまうのはなぜなのか

拓洋舎@hallelujah10252025年6月11日読んでる@ 自宅第1章 能動と受動をめぐる諸問題 5 文法の世界へ 能動/受動の外部 能動態と受動態の対立は普遍的ではない もともと能動態は中動態と対立していた! 「私が自分の手をあげる」から「私の手があがる」を引くと? nothingをなぜ思い描くのか
拓洋舎@hallelujah10252025年6月10日読んでる@ 自宅第1章 能動と受動をめぐる諸問題 4 太陽がどうしても近くにあるように感じられる -スピノザ 『行為は意思を原因としない』 『効果としての意思は残る』 スピノザ登場! 少し難解になる。
torajiro@torajiro2025年5月31日読み終わった@ カフェやはり最高に面白い。単行本を読んでから数年、國分功一郎さんの著作も『暇と退屈の倫理学』『責任の生成』『言語が消滅する前に』『目的への抵抗』などなど読んできていたので本書の議論についても新たな気づきや理解が深まるところが多かった。補遺も國分さん自身が思考を深め、進めてきているからより論旨が明快で素晴らしい。 個人的には最近國分さんとは別の角度からアーレントのことを考えていたので、アーレントが「区別」の人であることに色々と思いを馳せた。 國分さんがアーレントに質問したかったこと、私も私なりの関心から同じことを聞いてみたい。 “一度でよいので実際に会ってお話をしてみたかった。「ビリーもクラッガードもヴィアも我々そのものではないでしょうか?アレント先生には彼らのようなところはありませんか?」ーーーその際におうかがいしたかったことはただ一つこれである”


torajiro@torajiro2025年5月24日読んでる「動詞は遅れて生じた」 単行本での初読のときには気にならなかったが、今井むつみさんの著作でこどもの言語習得における「動詞の難易度の高さ」について触れられていたのを想起した。動作という抽象度の高いものを捉え概念化するというのはそもそも難しいのだろう。




semi@hirakegoma2025年5月20日読み終わったタイトルに前々から惹かれていた。文庫版が出たことを知って購入。 出だしの対話を読み、依存症について語られるんだ!と期待しながら読んでいくと、ひたすら古代ギリシア語やラテン語の文法について述べられる…読んでいても文字が横すべりして中身がスッと入っては来なかった。ギリシア語もラテン語もほぼ読めないし… ただ構成としては、細かく区切られていて、章ごとにおさらいしてくれる親切設計なので、何とか耐えながら読み進められた。 個人的には本編よりもラストに収録された文庫版補遺に魅力を感じる。本編で述べられた抽象的な議論が、具体的に像を結ぶ感じ。 当事者研究を免責が引責を可能にするプロセスとしてとらえ、「行為のコミュニズム」として明らかにした点は、印象深い。 依存症や精神病のとき、もしくは日常生活でも、つらい状況の中で自身の行為がうまくいかなかったとき、猛烈に落ち込んで負のループから抜けられなくなる。そんな時に、行為のコミュニズムの視点に立てば、一旦自分の状況(存在)を認めることができて、同時に責任を感じることができる可能性がある(免責から引責)。負のループに陥らず、自分を認めつつ本当の意味で責任を認識することができる気がした。
ワタナベサトシ@mizio_s2025年5月1日買った読み終わった『暇と退屈の倫理学』を読み終えた(とても気に入った!)ので、次はコレを読んでみた。 難解な内容でなにが書いてあるかまったく分からない……、という印象が先にある。同書が小林秀雄賞を受賞したときの選評が、のきなみ「わからない」とあったことが悪い意味で拍車をかけたか https://kangaeruhito.jp/article/1032 。 しかし、新潮文庫として一般の誰もが気軽に手にすることができる本であり、学術論文を読み解かなければならないほどの苦労はない。 哲学の問題を扱っているので少々分かりにくいところがあるのは確かだが、文章は平易で丁寧であり、章ごと冒頭には必ず前章のまとめ(サマリ)があり、ここまでの議論で共通の理解どこまで進んだか逐一確認してくれるし、読者が迷子にならないようとても注意深く配慮されている内容だと思う。 タイトルにある「中動態」とはなんぞや、の説明が入り口になってしまうから致し方ないのだが、この本は別に中動態を解説するためのものではない(言語学的に中動態を定義するものとして書かれているわけではない)。読み進めていけば分かってくることなのだけれど、副題にも含まれている「意思」と「責任」について各々が考え直さなければならないと感じさせる、パワーを持った啓蒙の書だと思う。 そのことに気付かされるのは本書のかなり後半のほう(だと思う)。中動態とはなんぞやをひと言で定義しようなどと足踏みしていては、第8章以降ずいぶん話題が逸れてしまっているように感じられ、置いてきぼりにされたように感じてしまうだろう。また、結論にゆくために端折ったり強引な展開があるように感じられてしまうかもしれない。その意味でも、文庫にある捕逸はとてもありがたい。 厳密さを欠いてしまうのでざっくりとした理解の言葉でしか書けないが、自分なりにまとめてみる。 意思のこと、あるいは責任について考えるときに、これまで自明のものとして保ち続けてきた枠組みでは(矛盾とまでいうのは大げさかもしれないけど)しっくりこないところが出てきてしまう。その感覚をうまく説明するために/違った角度から再考察するために、例えば既に失われてしまった中動態という枠組みを使ってみれば、理解、ないしは考えかたの助けになるのではないか。 そんなことを呼びかけている本だと思う。 個人的には、法律を学ぶ者・法の解釈に興味がある者は、いちど読んで、こういう見方があるということを自らの中に入れておく必要があると思う。けっして言葉遊びのように概念をこねくり回して難解さで読者を煙にまく本ではない。この世界で生きるにあたり、大切な視座を与えてくれる実用書だと思う。 昨今は文庫本もずいぶん値段が高くなったけれど、この内容で500ページ超の文庫本が900円(税別)というのは、とてもありがたいことだ。その意味でも、本書は広く一般の人々に読まれて、拡張した視座のもとで新たな議論が巻き起こったり、より解像度の高い責任“感”を抱くようになる契機となって欲しい。 この本を読んだ人ばかりで話をしてみたい。

Matilde@i_griega_20252025年4月29日読み終わった読み返そうと思っていたところ最近文庫化され、しかも補遺が追加されたとのことだったので文庫で読む直すことにした。哲学寄りの内容ではあるんだけど、私の興味は主に文法的な側面の方。 かつて言葉は「する」の能動態と「される」の受領態の対立ではなく、能動態と中動態の対立だったとのこと。 たとえば「惚れる」という動詞。これはむりやり「惚れさせられた」(受動態)わけでもなく、「惚れるぞ」(能動態)という意志で惚れたわけでもない。では「惚れる」の態って何? スペイン語ではこの場合「再帰動詞」を使う。再帰的用法は中動態の働きの一種と言われると、いまは消えてしまった概念ではあるけれど、こんな風に残っているのかと興味深い。
北村有(きたむらゆう)@yuu_uu_2025年4月20日読んでる半分ほど読み進め。私にとってはすこぶる難しい、読み通せるか不安だ……。中動態とスピノザ哲学には通じるところがあるらしいけど、まっっっったくわからない!!!





いるかれもん@reads-dolphin2025年4月18日読み終わったまた読みたい学び!補遺が加筆され文庫化されたということで、早速購入に読み返した。最初に読んだ時は、自分自身が感じている苦しみとか、世界に対する違和感を見事に解き明かされているような気がして、とにかく自分を救ってくれているという衝撃を伴う感動に飲み込まれた。その一方、今回は、前回同様の感動や面白さは感じつつも、前回よりも丁寧に読み進めることができたと思う。一つ一つのトピックを丁寧に自分の中に取り込みながら読み進めることができた。そうやって落ち着いて読んでみると、改めてこの本は素晴らしい一冊だと思った。文庫本になると、参考文献等含め500ページ以上になる結構長い本であるが、一つ一つの話題を丁寧に、しかし飽きさせない書き振りとなっている。おかげで哲学にも言語にも疎い私でも、何が大切なのかちゃんと受け止めながら読み進めることができた。スピノザ、アレント、ハイデッガー、バンウェニストなど名前だけは聞いたこと(もしくは名前も聞いたことがない)ある哲学者の著作を引用して論を展開しているが、実はそこで問題にされていることが、私たちにとても身近で、私たちの中で起きている問題についてであることを、わかりやすく伝えてくれている。 結局私がどうして中動態の世界に魅了されたのかというと、自分が感じている自分の作られ方が中動態では自然に語られているということだと思う。それは、自分自身が周囲の環境や関係性の中で決まっていて、さらには、周囲の環境と自分自身は相互作用しているという感覚である。その時、私自身は、自分が意志しなくても自然と変化しているように感じることがある。その証拠かもしれないが、私は自分自身の考えや気持ちについても、どこか第三者のことのように表現してしまう。自分の考えや、気持ちが、本当に自分が納得していることなのか自信を持てない。一貫してそれを主張し続けられるか自信がない。こうした私の態度は、側から見たら「考えがコロコロ変わる」とか「意志が弱い」みたいに評価されてしまう態度にも見える。自分自身も、自分自身がそうした人物のように思えて蔑んでいた。 おそらく本書を読まれた方であれば、どうして私がこの本に救われたのか、これ以上説明する必要はないと思う。本書で書かれている能動態-中動態の世界、意志という存在が生まれる前の世界は自分の私自身の捉え方を表現する上で非常に都合が良かった。自分を語る世界観が見つかるというのは非常に感動する。それは、自分自身の感じている寂しさは、私一人だけが感じているわけではないこと、そしてそれを救おうとしている人がいることを実感するからだろうか。はたまた、自分が心地よく過ごせる内面世界を手に入れるからだろうか。いずれにしても、やっぱりこの本に私は救われた。 一方、この本を読んでいて、まだまだ理解しきれない部分も多い。特に第8章、9章、補遺。ぜひまた、私が別の環境や関係性に身を置いて、別の私になった時に読み返したい。本を読むという行為もまた、私と相互作用し、私を変容させる環境の一つである。




ミキ@miki___632025年4月13日読み終わった図書館で借りたときは読み切れなかったけれど文庫版で読了。自分の知識不足ゆえに言葉が難しくて迷路のように感じたパートもありつつ、後半は付箋だらけに。増補された責任についての文章が読めてよかった。


ブックスエコーロケーション@books-echolocation2025年4月7日新刊入荷@ ブックスエコーロケーションブックスエコーロケーション、4月7日(月)オープンしております。19時まで。ご来店お待ちしております。 國分功一郎『中動態の世界 意思と責任の考古学』新潮文庫 誰かを好きになる。これは能動か受動か。好きになろうとしたのでもなければ、好きになるよう強いられたのでもない。自分で「する」と人に「される」しか認めない言葉は、こんなありふれた日常事を説明することすらできない。その外部を探求すべく、著者は歴史からひっそりと姿を消した“中動態”に注目する。人間の不自由さを見つめ、本当の自由を求める哲学書。 #信州 #長野県松本市 #松本市 #本屋 #書店 #ブックスエコーロケーション

noripiii@quadspin_norimusubi2025年4月5日買った@ ジュンク堂書店 吉祥寺店誰かを好きになる。これは能動か受動か。好きになろうとしたのでもなければ、好きになるよう強いられたのでもない。自分で「する」と人に「される」しか認めない言葉は、こんなありふれた日常事を説明することすらできない。 と裏に書いてあるその文章がもうすでに面白い。



さばお@shimishimi02282025年4月1日買った読み終わったなかなか読むのに難航したが、なんとか読み切り今の自分にわかるところはわかった気がする。 そんな自分を少し褒めてあげたい。とても興味深い世界だった。





































































































































































































































