328
@millefeuille_328
2026年5月23日

日々の政治 ソーシャルイノベーションをもたらすデザイン文化
エツィオ・マンズィーニ,
八重樫文,
安西洋之
読み終わった
スローとファスト
“ボスコ・ヴェルティカーレ”
直訳で“垂直の森”
ジブリの世界に出てきそうな嘘みたいなデザインのタワーマンションは、雄大なアルプスと華やかなラグジュアリーブランドに彩られた大都市ミラノに聳え立つ。
スローフードという言葉はローマにマクドナルドがオープンした危機感に端を発しているらしく(これも日本人の感覚的には嘘のように聞こえる)、以来イタリアはエシカル・サスティナブルな運動の先端を走っていて、エツィオ・マンズィーニ(そして訳者の安西さんも)もこの街からデザインを発信している。
この街で、日々(ソーシャル)とデザインは分けられていない。
ソットサスは言う。
デザインとは、生き方である。
SNSがぐんぐん発達したと思ったら、AI技術はさらに速く世界を駆け抜け、発信もものづくりもアマ・プロの境が曖昧になった。
便利便利と言われたSaaSすら必要がなくなって、VUCAの時代は従来型のトップダウンじゃ全然実際に即したものにならないとコ・デザインが唱えられる。
マンズィーニの前著『Design, When Everyone Designs』はこの本のタイトルのみならず彼の訴えそのものを表現するセンテンスになっている。
デザイン。誰もがデザインするとき。
デザインはもはや専門家のものではない。私たちひとりひとり、ことごとくがデザインする。デザイン能力は限られた人に宿る特殊能力ではなく、誰しもに備わっているポテンシャルなのだ。
スローという語感はいまの液状世界よりむしろ従来の粘性世界に結びついてしまう。アンチファストフードを由来とするねじれだから仕方ないかともやもや。いやでも待てよ、と考え直してみた。
旧世界の粘っこく重いコミュニティは慣性で動く。重たいがゆえに動き出しに時間はかかる。けれど動き出したらその重さだけ強く永く動きつづける。もちろんとても速い。石ころぐらいなら投げつけたってびくともしない。どころかびゅんびゅん通り過ぎてゆく車窓からの景色では、石ころなんて見えもしない。
対して新世界のコミュニティは軽い。簡単に動く。簡単に軌道が変わる。抵抗を加えれば止まる。弱いし脆い。だから動こうと努めることで動く。どの方向に、どれだけの速さで、どれだけの時間動こうか。そこにはいつでも意志がある。そして意志に疑問の石を投げつければ止まる。止まったならまた考える。そこには思考する余地と機会が与えられている。
──人間関係を築くとは、まさに打ち解けることを意味し、当事者の状況としては脆弱になるということである。
──「最大の自律性」とは、他者と力を合わせてコラボレーションするときにもたらされるようだ。
資本主義は自由の、社会主義は平等の基礎を築いている、と説く下りがあって、このところますます私たちが自覚するようにこの二つは対立する。私なんかは愚かなので、こんなの悲劇だとため息をつくばかりだったのだけど、マンズィーニの描く新しいコミュニティはこれをネガティヴとしない。
自由と平等が常に対立し、綱引きの状態であることによってメンテナンスが作用するからだ。
自由が勝ち過ぎれば平等を引くし、逆もまた然り。
緊張を平常にし、変化を常態とする。終点を定めない日々の政治は過程を愉しむデザインであると思う。
──大昔のこと。ぼくは一枚の写真に衝撃を受けた。無数の星と銀河が写し出されている。そこに矢印があり、「君はここにいる」と白い点を指している。その時、この写真はぼくに何か大切なことを語りかけてくれた。(中略)ぼくたちはとてつもなく複雑な状況におかれている、と。しかし一方で、ぼくたちはここにいるのだ。
ブリコラージュ的に進む本書は決して読みやすくはないのだけど、このひらめきと抽象度の高いエモーショナルな言葉がキュートだ。
彼の一人称を「ぼく」と訳した安西さんに喝采。
お風呂上がりに唄うご機嫌な鼻唄にだってのせて、世界の扉をノックする。
その手応えを伝えてくれる。日本語版あとがきも良いです。繰り返し読みたい。