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@millefeuille_328
- 2026年5月25日
青と緑 ヴァージニア・ウルフ短篇集ヴァージニア・ウルフ,西崎憲気になる - 2026年5月23日
日々の政治 ソーシャルイノベーションをもたらすデザイン文化エツィオ・マンズィーニ,八重樫文,安西洋之読み終わったスローとファスト “ボスコ・ヴェルティカーレ” 直訳で“垂直の森” ジブリの世界に出てきそうな嘘みたいなデザインのタワーマンションは、雄大なアルプスと華やかなラグジュアリーブランドに彩られた大都市ミラノに聳え立つ。 スローフードという言葉はローマにマクドナルドがオープンした危機感に端を発しているらしく(これも日本人の感覚的には嘘のように聞こえる)、以来イタリアはエシカル・サスティナブルな運動の先端を走っていて、エツィオ・マンズィーニ(そして訳者の安西さんも)もこの街からデザインを発信している。 この街で、日々(ソーシャル)とデザインは分けられていない。 ソットサスは言う。 デザインとは、生き方である。 SNSがぐんぐん発達したと思ったら、AI技術はさらに速く世界を駆け抜け、発信もものづくりもアマ・プロの境が曖昧になった。 便利便利と言われたSaaSすら必要がなくなって、VUCAの時代は従来型のトップダウンじゃ全然実際に即したものにならないとコ・デザインが唱えられる。 マンズィーニの前著『Design, When Everyone Designs』はこの本のタイトルのみならず彼の訴えそのものを表現するセンテンスになっている。 デザイン。誰もがデザインするとき。 デザインはもはや専門家のものではない。私たちひとりひとり、ことごとくがデザインする。デザイン能力は限られた人に宿る特殊能力ではなく、誰しもに備わっているポテンシャルなのだ。 スローという語感はいまの液状世界よりむしろ従来の粘性世界に結びついてしまう。アンチファストフードを由来とするねじれだから仕方ないかともやもや。いやでも待てよ、と考え直してみた。 旧世界の粘っこく重いコミュニティは慣性で動く。重たいがゆえに動き出しに時間はかかる。けれど動き出したらその重さだけ強く永く動きつづける。もちろんとても速い。石ころぐらいなら投げつけたってびくともしない。どころかびゅんびゅん通り過ぎてゆく車窓からの景色では、石ころなんて見えもしない。 対して新世界のコミュニティは軽い。簡単に動く。簡単に軌道が変わる。抵抗を加えれば止まる。弱いし脆い。だから動こうと努めることで動く。どの方向に、どれだけの速さで、どれだけの時間動こうか。そこにはいつでも意志がある。そして意志に疑問の石を投げつければ止まる。止まったならまた考える。そこには思考する余地と機会が与えられている。 ──人間関係を築くとは、まさに打ち解けることを意味し、当事者の状況としては脆弱になるということである。 ──「最大の自律性」とは、他者と力を合わせてコラボレーションするときにもたらされるようだ。 資本主義は自由の、社会主義は平等の基礎を築いている、と説く下りがあって、このところますます私たちが自覚するようにこの二つは対立する。私なんかは愚かなので、こんなの悲劇だとため息をつくばかりだったのだけど、マンズィーニの描く新しいコミュニティはこれをネガティヴとしない。 自由と平等が常に対立し、綱引きの状態であることによってメンテナンスが作用するからだ。 自由が勝ち過ぎれば平等を引くし、逆もまた然り。 緊張を平常にし、変化を常態とする。終点を定めない日々の政治は過程を愉しむデザインであると思う。 ──大昔のこと。ぼくは一枚の写真に衝撃を受けた。無数の星と銀河が写し出されている。そこに矢印があり、「君はここにいる」と白い点を指している。その時、この写真はぼくに何か大切なことを語りかけてくれた。(中略)ぼくたちはとてつもなく複雑な状況におかれている、と。しかし一方で、ぼくたちはここにいるのだ。 ブリコラージュ的に進む本書は決して読みやすくはないのだけど、このひらめきと抽象度の高いエモーショナルな言葉がキュートだ。 彼の一人称を「ぼく」と訳した安西さんに喝采。 お風呂上がりに唄うご機嫌な鼻唄にだってのせて、世界の扉をノックする。 その手応えを伝えてくれる。日本語版あとがきも良いです。繰り返し読みたい。 - 2026年5月3日
中動態の世界國分功一郎読み終わった母国語で高等教育を行える国は少ない。 いろんな事情があるけれど、大きな要因のひとつとしては誤訳の問題。 たとえばドイツ語の医学書があるとする。これを母国語で学ぶために翻訳する。翻訳の際に十分には訳しきれず原典と意味のずれが生じる。そうすると当然、理解にもずれが生じてくる。 ずれは言語間の構造的な差異に因るかもしれないし、訳者の主観に因るかもしれない。いずれにせよコンバートされた文字が全く同じ意味を持つことは有り得ない。 仕方ないと言うと身も蓋もないけれど、ある程度起こってしまうのは避けられないと思う。 ただここで本当に問題なのは、〝原典を知らない者に自分がずれた理解をしているとは知り得ない〟ことだ。 文庫版補遺に「responsibility」の訳としての「責任」の不適切が語られている(なんて重大な言及なのか。補足じゃないわけだよ)。 レスポンスが応答の意なのは知ってのとおり。アビリティは能力なので、直訳は「応答する能力」となる。 さて。 応答する能力とは責めを任うことを指すのか? あまりにも飛躍していないか? 順序立てて考えれば誰しもがたどり着く疑問だが、それが今日の社会的価値観の基盤である西洋哲学、ひいてはラテン語(インド=ヨーロッパ語族)を起源としているなんて多くの人は知らない。 いや、知っていても感じられない。本書で述べられたスピノザの太陽の例えと同じ構造だろうと思う。 言語というフレームワークのお陰で思考が適っている一方、フレームワークによる直観への抑圧が発生する。 その抑圧を折りに触れ意識しながら、私たちは判断をフレームワークに任せた自動生産的に行ってはいないかと問うていく。そして必ずしも言語化できない直観に寄り添ってみることが自由へと導いていくのかもしれない。 名詞優位のパースペクティブの発見から動詞優位の指摘がすとーんと腑に落ちて気持ちよかった。 フーコーの、権力は生産的であるのに対して暴力は破壊的、なのでこれは対立する。 ライプニッツの、世界は出来事の起こるフィールドではなく、出来事の束こそが世界である。 この辺りがとくに。 『免責が引責を可能にする』の論と実例は思い出していたい。 これは「能動─受動」のパースペクティブを免除することによって一度解体し、新たなパースペクティブで責任を捉え直すことによって起こるのだと推測した(私たちの直観は「能動─受動」を退けるので)。 本書の総括的なアハ体験なのでぜひ文庫版で。 私は「responsibility」を「気づき得る」と訳し直した。 言葉のやり取りで生まれざるを得ない誤解の影響が、思うよりずっと広く深く浸透してゆく怖さを認識しちゃうな。 (一方、渡邉康太郎さんのポジティブな「誤読」の捉え直しが大好きなので、人がなにかを自分の側へ引き寄せる、内に落とし込もうとする、その関係と表現性はいつまでも賛歌していたい)
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