
Ryu
@dododokado
2026年5月28日

室生犀星 (講談社文芸文庫)
富岡多惠子
読んでる
あんずあまさうなひとはねむさうな
波こほる隈田を見しよ町のあひ
塩鮭をねぶりても生きたきわれか
「「『今の室生君にして、ポエヂイの表現を求めるならば、当然その詩は俳句や和歌に行くべきである。』と萩原君は早考へをして言つてゐるが、ここで肝腎なことは寧ろ『当然その詩は小説に向つて発散せられるべき』であると言つてくれれば、僕は大いに悦に入って我が意を得たりと思ふのだが」「詩の主成分が発句にはいり込むなぞといふことは、もつと発句をつツ込んで見てくれれば分ることで、あぶらが水にあはないくらゐに持ち廻りが出来ないものなのだ。」といい、「僕の小説をよまない彼は僕の詩がどこでどう滅びかかつて来てゐたか。詩らしいものをどこで使ひ果して来たかを見てくれないのだ。彼の文章には僕の小説のことなぞは少しも問題にしてはるない。つまり僕の詩をほろぼし僕の頭をざくざくにした奴、詩らしいものを持ち合してるながらそれに戻つて行けないやうにした奴すなはち小説といふ鬼に取り憑かれてゐる僕を見て見ぬふりをしてゐるのだ。小説の中でのた打つてゐるから詩の方で愛想を尽かしたくらにでも、切めて言つてくれればいいのだ。」と犀星は訴える。
朔太郎が、犀星の詩に向うポエジーがそれに代って俳句へいったというのに対し、犀星本人は詩と俳句は水と油であってそう簡単に詩が俳句にカタチを変えるはずがなく、詩をほろぼしたのは小説なのであり、小説が詩を使いつくしたのだというのだ。この朔太郎と犀星の意見のちがいは、「昔から小説が嫌ひな方であつて」、犀星の作品ばかりでなく、「一たいに小説といふものを余り読まない」朔太郎と小説の実作者との考えのちがいをよくあらわしている。「詩らしいものをどこで使ひ果して来たか」「詩をほろぼし」て「頭をざくざくにした奴、詩らしいものを持ち合してながらそれに戻つて行けないやうにした奴」、それらこそ小説なのだと小説家犀星がいう時、もっともわかり合った詩人朔太郎と詩人犀星への二重の、別々の意味あいの痛恨と無念がこめられていはしないか。
おそらく、三十歳の「幼年時代」を書いていたころの犀星には、小説が詩をほろぼし、詩に戻っていけなくさせるとは思えなかっただろう。しかしそれから十五、六年たった時、小説が詩をほろぼすものであるのを痛感せざるを得なかった。詩と小説は、共存共栄しうる仲の良いものではない。小説は、声をあげることなく地べたを這っていくのに、詩は知性や技術という上等の抑制装置をもっていても、結局声をあげることである。十代の終りから二十代を詩に「入れあげた」小説家犀星は、その声に絶望を識ってきている。小説を詩の余技で書くならともかく、生計と復讐のために書こうと身を乗り出す小説家に、詩は機嫌よくとどまってくれない。
あのハタチ前のころの俳句とは異って、小説家となった犀星の俳句は、したがって小説家の余技である。そこにまったくポエジーが欠落しているためでなく、ポエジーという油に火をはなって立ちあがらせていこうとは決してしないアキラメの遊びであり、ナグサメである点でそれは余技である。「あんずあまさうなひとはねむさうな」などと、五七五というカタチでしか「ひと並み」の階級にあがっていけなかった貧しい少年の表現欲ではとうてい出てくるものではない。昭和九年、十年のころにおもしろい句が集中しているというのは、だからそれだけ小説家が詩に別れ、詩が小説にほろぼされてしまった証拠だともいえる。それを、詩のポエジーが俳句に移ったといわれてはたまらない。詩を小説にほろぼされたかつての詩人である小説家は、その無念と痛恨を、少年の日になれ親しんだ詩のカタチ(形骸)──俳句──を利用してなぐさめ、なだめるしかないのである。」133-5