

Ryu
@dododokado
会社員
- 2025年11月25日
読んでる1958/1-1959/7まで読んだ。現代の小説に言えることばかりでおもろい。 226「かならずしも「私」でなくてもいいが、小説のはじめに一人称的人物がでてきて、その性格や背景の説明などが一応すむと「私」自身の直接経験がプロット展開の中心となるか、あるいは「私」が傍観的な語り手の位置に退いて、異常な事件なり風俗なりを物語るか、どちらかが一番たやすい、あるいは手がたい現代小説の型のようだ。この型を押しつめてゆけば、一方では私小説となり、他方では風俗小説となる。ところが私小説も風俗小説も現代を描く方法としてはダメだということが、いよいよ作家自身にも明らかになってきた。そこで一人称的性格をより客観的な事件なり状況なりにかかずらわせて、そこに小説の劇を展開しようとする作者の努力が、最近目だってきたようである。 たとえば今月の石上玄一郎の「森の怒」(中央公論)や 山川方夫の「演技の果て」(文学界)や井上光晴の「ガダルカナル戦詩集」(新日本文学)などは、おおざっぱにいって、すべてそういう努力のあらわれである。しかし、そういう作者の努力はほとんど報われていない。一人称的主格と客観的な事件や状況がうまくからみあわないで、みんな割れている。泰山鳴動してとか、中途半端とかいう印象が一様にのこる。」 255「珍奇な題材に対する作者のプロフェッショナルな目、そういう一種の物見高さからいかにのがれるかに、日本の近代作家たちの血のにじむ心境練磨がかかっていたともいえるわけだが、そういう点では、現代小説はすっかりフリダシにもどった、とも思える。 しかし、硯友社文学ののちに自然主義文学が勃興したような地点に、現代小説がもう一度たちかえることは不可能だろう。物語性の回復も、「組織と人間」というテーマの流行も、現代小説のゆきづまりを打開するひとつの方式としてとりあげられたものであり、その方式そのものがすでにマナリズム化したとすれば、現代小説の八方ふさがりを救うものは、やはりプロフェッショナルなものに毒されない作者の目の回復という以外になかろう。その方向が物語性、記録性、その他にむかおうと、それはいま問うところではない。」 270「しかし、ちと乱暴な話になるのを承知の上であえていえば、人の世の哀しさなどというものをいまさら小説から訓えられて、一体なんのタソクになるというのだろう。どうにもならぬうき世の哀しさというようなツボに落しこむ小説を、私どもはいやというほど読んでもきたし、実地に経験してもいるのである。また、状況や機構の構造に力点を打った現代寓話ふうの物語をいくら読まされても、はじめから人間の衰弱や疎外を結論とする物語は、すでに私どもを感動させる新鮮な力を失ってしまっている。ふたつながら個人の責任という一点を回避している点では、新旧の手法をこえて、ほとんど同罪といってもいいのではないか。さきに私が文学的可能性を感じさせないと書いたのも、この一点にもとづいている。 古くさいことをもちだすようだが、作者による人間の責任の回復という一点を、やはり私は固執したいのである。「異邦人」論争で、中村光夫の精密な分析に感心しながら、ひそかに広津和郎に共感せずにいられなかったのも、その一点においてである。また「組織と人間」という問題提起に私が心動かされたのも、方法上の問題よりも、危殆に瀕した人間の責任という問題に、新しい照明があてられたと思ったからである。そういう私としては、最近の新人のいらだたしい模索にも、旧人の完成された心境にも、一応は心動かされながら、二応は心ゆさぶられぬとしても、またやむを得ない。」 - 2025年11月25日
敗戦日記高見順読んでる - 2025年11月25日
1958-1959を読んだ。1958年は花田清輝と平野謙との間に「笛吹川」論争が起こった年。 「この長篇は武田家の勃興から滅亡までを背景とした、戦国の物語である。しかし、このむかしがたりは普通の歴史小説という概念からはとおい。すでに『楢山節考』でも時代がよくわからなかったが、一応時代背景が明らかなはずのこの物語でも、そこには歴史の推移とよばわるようなものはほとんどない。ただ毎年毎年笛吹川は氾濫し、洪水になれば農民たちは家をすて、畑をすてて、逃げまどうくりかえしがあるばかりである。その間、人は生れ、人は死ぬ。そこにあるのも、一種のくりかえしにすぎない。だれかが死んでだれかが生れれば、どこそこのボコ(赤ん坊)はだれそれの生れかわりだ、と素朴に借じこんでいるような農民の生活のくりかえしがあるばかりである。人々はおおかた寝こむまではたらきとおし、いったん寝こめばそのまま死んでしまう。そういう虫けらのような農民の生活のくりかえしが、ここには描かれてある。だから、近代小説の心理主義的な手法なぞ全然無視した、一種民話ふうな視点がここに一貫しているわけである。 しかし、そういう虫けらのような単調な農民の生活にも、オヤカタさま(武田家)の興亡はやはり影響する。直接の影響としてはいにわかものたちがでかけていって、つぎつぎと死んでゆく。親たちはそれをはばむ手だてをしらぬ。笛吹川の氾濫とおなじょうな一種の天災とあきらめるしかない。だが、武田家の滅亡は、そういう農民の諦念をもまきこんで、ついに一家全滅の悲運をもたらす。 大体そういう主題を、笛吹川の土堤の虫カゴのような家にすむ農夫一家に視点をすえて描いてある。その間親子五代以上にまたがっているから、すくなくとも百年ちかい歳月が流れているはずだが、そういう具体的な歴史の推移なぞ作者はみむきもしない。おそらくこれはこれで完成した一種ゲテモノ的な芸術品にちがいない。では面白かったか、と聞かれれば、大して面白くなかったとこたえるしかない。近代小説の虚をついた『楢山節考』の鬼気は、すでにここには乏しいようである。(深沢七郎「笛吹川」)」113-4 - 2025年11月22日
ひとごと福尾匠読んでる「ポシブル、パサブル」だけ読み返した 「空間とはpossible なものの空間であり、それは放っておけるということと(あてもなく)通過できるということにおいてpassable だ。そもそも可能と不可能は対称な関係にない。不可能なものは絶対にできないが、可能なものはありうるがそれはたんにありうるだけだ。そこにはミニマムな複数性がすでに埋め込まれている。そしてそのつどの可能なものに私がくっつき、それとともに私は「いてもいいし、いなくてもいい」ものになる。パンデミックによってどこにいてもそこが「いるべき場所」か「いてはならない場所」のいずれかでしかないような状況において、あるいはもっと広く、つねにSNSやGPSや閲覧・購買データのトラッキングによって「そこにいるのかいないのか」、「どこから来たのか」と探られるような状況において求められるのは、どこへ行ってもおなじだという居直りでも、ユートピアとセットになったグローバリズムでも、あるいは独りで閉じこもるプライバシーの権利主張でもなく、いてもいなくてもよくなることではないだろうか。」(71-2) - 2025年11月22日
- 2025年11月22日
プラットフォーム資本主義ニック・スルネック,大橋完太郎,居村匠読んでる - 2025年11月22日
- 2025年11月22日
置き配的福尾匠読み終わった - 2025年11月22日
- 2025年11月21日
- 2025年11月20日
トマス・ピンチョン全小説 ヴァインランドトマス・ピンチョン,Thomas Pynchon,佐藤良明もらった - 2025年11月20日
傷の声齋藤塔子もらった - 2025年11月20日
置き配的福尾匠買った - 2025年11月20日
二月のつぎに七月が堀江敏幸買った - 2025年11月18日
考察する若者たち三宅香帆読み終わったプラットフォームの中で「正解」や「報われ」を求める若者たちの痛みを「批評から考察へ」「ループものから転生ものへ」「自己啓発から陰謀論へ」「ヒエラルキーから界隈へ」など9つの構図を軸に掘り下げている。その大胆な整理はおもしろいし、またこの時代の空気を新書というフォーマットをハックしてゆるやかに捉ええていると思うぶん、各章の紙幅のためか選ばれる作品とその論じ方が恣意的だったり、都度の終わり方が尻すぼみでエモい感じになってしまっていたりするのが気になる。それはおそらく分析より共感に軸足をおいてこれらの小論が組み立てられていることに由来するのかもしれず、だとしたら「批評から考察へ」の時流に対して「批評から共感へ」と筆者が文体をチューニングしていることが多くの読者を獲得している理由なのだろうと思った。言い換えるなら、プラットフォームの時代の中で、「正解」や「解決」を提示せず、ただ若者やビジネスパーソンの生を傾聴してみせる共感的態度が、三宅香帆という「キャラ」を形作っているのかもしれない。 - 2025年11月17日
- 2025年11月17日
- 2025年11月16日
ベンヤミン読解ヴェルナー・ハーマッハー読み終わったド・マンがベンヤミンを読んだらこうなるだろうなという感じで、これまで読んできたどんなベンヤミン研究とも違う、徹底して内在的に彼の思想を読み解いていく試みとして面白かった。歴史の天使でエモくなったりもしない。ただきわめて難解であることも事実で、それは読み解けないもの、解消されえないもののなかに彼の思想の可能性を認める本書のスタンスとも関わっている。冒頭の「雲という言葉──それが一つの言葉であるのなら」は「ベルリンの幼年時代」の自伝的記述のなかに後年の彼の言語哲学や歴史哲学を準備するものがあったことを、(半ば精神分析的な筆致で)表現の細部の一致や照応に着目しながらデリダのごとくアクロバティックに読み解いていく小論だが、近年のベンヤミン論は初期の言語論と後年の歴史哲学の間に断絶を見るものが多いなかで、彼の思想に一貫する言語(媒質としての言語)の捉え方を析出しえているのではないか、とも思う。言語が伝達可能性の伝達、だとか純粋な手段、あるいは「アフォーマティヴ」といわれるときに、そこにある固有の時間性を歴史・政治の問題としてどこまでも深く掘り下げていく筆致は丹念に追うとこちらが息切れしてしまうほどで読み応えがある。しかし、「アフォーマティヴ・ストライキ」の註でストライキは例外状態とは違う、と述べられていた箇所には、ならそれは具体的にいかにして可能なのかという疑問も残った。消化しきれていない箇所は無数にある。あとはやっぱり、ベンヤミンがかなりカントをラディカライズしていたということがわかりそこがめちゃくちゃおもしろい! - 2025年11月16日
考察する若者たち三宅香帆買った - 2025年11月16日
「世界」文学論序説坂口周かつて読んだまた読んだ
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