Ryu "美学のプラクティス" 2026年5月29日

Ryu
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@dododokado
2026年5月29日
美学のプラクティス
「あらためて確認しておくと、そもそも美学には「美」「芸術」「感性」というまったく異なるレベルの問題が並立していたのだった。ランシエールに言わせると、こうした異なる対象領域をもつことそれ自体が、美と芸術、あるいは思想と実践との「ロマン主義的な混同」にほかならない[7]。とはいえ、そもそも美学が「理念的な美」と「現実的な作品」にまたがった「不純なもの」であるのなら、美学に対するこうした批判は構造的に不可避である。  こうした洞察をもとにランシエールが打ち出すのは、美学とは一八世紀に成立した学問領域ではないという大胆なテーゼである。つまり美学とは、こんにち「芸術」とよばれているものを見いだした体制の名称なのであり、一八世紀のドイツにおいて起こったのは「美学の誕生」ではなく、「芸術にまつわる体制の変革」、すなわち「詩学(poetigue)」から「美学(esthetique)」への体制変革であったという。そして、すでに指摘したような美学の「混乱状態」は、むしろこの「体制変革」を可能にするために不可なものであった、というのがランシエールの──いささかアクロバティックな──議論の行きつくところである。  この議論のポイントはどこにあるのか。それは、美学が「不純な」領域であることをいったん引き受けたうえで、それがもつ政治的な批判力を最大限に高く見積もることにある。つまるところ、ここでランシエールが言っているのは、「美」「芸術」「感性」をめぐって異なるレベルの議論が錯綜するところにこそ、美学の最大のポテンシャルがある、ということにほとんど等しい。  この先の詳細は本論(第六章)に譲るが、もともとランシエールによる美学への接近は、政治一般における「感性的なもの」への関心と不可分であった。げんにランシエールは、この「感性的なもの」という概念をキーワードとして用いながら、古代ギリシアのポリスにおける政治の核心が「感性的なもの」の「再分配」にあったということを繰り返し論じてきたのだった。そこで「政治の土台」として見いだされることになるのは、大染社会において到来した「政治の美学化」よりもはるかに古い美学の姿である[8]。  かくして、美学は政治──あるいは「超政治」──の問題となる。それは、ハンナ・アーレントによる『カント政治哲学講義録』以来の伝統をもつ「政治と美学」、あるいは「政治としての美学」のラディカルなかたちである[9]。  こうした議論は、伝統的に知性的認識よりも下位におかれてきた、われわれの感性的認識にあらためて光を当てることにもつながるだろう。より身近な話題で言えば、美学の対象のなかでもとくに「感性」のありように着目するこうしたアプローチは、われわれの理性ではなく情動に訴えかける昨今のメディア・テクノロジーの批判的考察とも、きわめて大きな親和性を有するはずである。」15-6 「しかし、二〇〇一年の「収容所の記憶」展をめぐって生じたもうひとつの論争のなかで、ランズマンが収容所内で撮影された四枚の──むろん本物の──写真に対してすら拒絶反応を示すとき、その思想はおのれの狂信的な側面をあらわにしていくだろう[13]。端的に言えば、ランズマンはホロコーストの表象 「不可能性」をめぐる信念を、ホロコーストをめぐる表象の「禁止」へとすり替えているにすぎない。「[ランズマンの]表象不可能なもの、という理念においては、実のところ不可能性と禁止という二つの観念が混同されている」[14]──ランシエールはランズマンをそのように批判したわけだが、ある意味でこれほどまっとうな指摘もない。繰り返すが、むろんそれは『ショア」という映画がなしえた達成をどのように評価するか、という問題とはべつの事柄である。  ここでランシエールが語っているのは、きわめて常識的なことである。すなわち、芸術作品において「表象不可能なもの」など存在しない。すべてはなんらかのしかたで「表象可能」である。ゆえに、ランズマンの主張を支えているのは、何を「表象不可能なもの」とみなし、何の表象を禁じるのか、という倫理的な姿勢にほかならない。表題の「倫理的転回」とは「事実」と「権利」のこうした混同をさすものにはかならず、ランシエールの批判の矛先は、こうした倫理的な「禁止」を安易に「不可能性」と同一視する「純粋性の幻想」[5]へとむけられる。そしてこのテクストは、政治や美学における「曖味で不安定な性格を確保しておくことこそが、この「表象不可能性の神学」への抵抗たりうるだろう、という示唆とともに締めくくられる。  ここまでの議論からは、「純粋性」へとむかう倫理的な傾きを批判し、美学や政治における「曖味さ」や「不純さ」をあくまでも確保しようとするランシエールの立場を見て取ることができる。とはいえ、こうした図式においては、「美学」「政治」「倫理」というそれぞれの領域が、いささか素朴なしかたで画定されているという印象もまたぬぐえない。ここでランシエールは、美学や政治を倫理に収敏させる昨今の風潮を批判しているが、そうしたランシエールの立場もまた、美学および政治を倫理から隔てておこうとする、ひとつの規範的な立場を示しているのではないか。そのような意味で、美学を「擁護する」ことがおのれの目的ではないという意思表示に反して、ランシエールはすくなくともここで、「美学=政治」の不純さにおいてそれを擁護する、というひとつの「倫理的立場」を表明していると言えるだろう。」21-2
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