
ni
@nininice
2026年6月7日

読み終わった
同著者の『サハラ幻想行』の余韻が長い尾を引き、何とかしてもっと彼の砂漠の旅について読むことができないかと図書館を探した。そして幸運なことに、見つけたのがこの『私のニジェール探検行』だ。
最初のサハラの旅から十二年後。当時四十三歳だった著者は五十五歳になっていた。
アメリカの探検家ジョン・スコールが残した『青い種族』という本が常に森本哲郎のサハラの旅の原動力になっている。わたしの読んだどちらの本にも、この『青い種族』からの引用がたくさん載っていて、そのどれもがとても印象的だ。例えば、
午前二時、とうとう私たちは暗闇の中を、さらに暗い影に向かって深い砂の斜面を下って行った。そこには鐘の形をしたアバラデュウの小屋があった。アザライ(隊商のこと)の終着駅ティンブクトゥである。そこには、私たちを待ち受ける接待役もいない、ファンファーレも鳴らなかった。まったく、あたりには人影ひとつなかった。私たちは空虚な場所から空虚な場所へ移動したにすぎなかった。ティンブクトゥの町は、かすかな灯火もない死の町だった。
これに対し著者は、「なんとすばらしい到達点であろう!私は自分の人生の終点が、このようでありたいと願う」と言う。
あれほど長い、危険な旅のあとでアザライは、ここであっさり解散し、駱駝も、人も、そのままティンブクトゥの暗闇のなかへ消えてしまうのである。ジョン・スコールはそのあまりのあっけなさに茫然とする。隊商の仲間の一人が眠そうな声でただ一言、こういうのだ。「着いたんですよ」
今回の旅でも、森本哲郎はこのティンブクトゥを訪れる。そこから塩坑のあるタウデニという地まで、隊商(カラヴァン!)の行く道を辿りたいと言う。十二年前に出会ったトゥアレグ族の貴族の青年と再会を果たし、彼にもう一度ガイドを頼む。相談の上タウデニまでは遠すぎるので通過地のアラウアンまで連れて行ってもらうことになる。この本で書かれる旅である。
このトゥアレグ族の貴族についての描写がどれも大変鮮やかで美しい。著者憧れの「青い種族」の末裔なのだ。いくつか抜き出しておく。
まずは十二年前の姿。
ガイドといいながら、彼はほとんど口をきかなかった。何一つ説明するではなく、ただ黙って私のなすがままに任せ、群衆が私を取り巻いたりすると、そのなかに割って入り、私のそばに傲然と立ち、あたりを睥睨する。彼はガイドというよりは、ガードだった。私はその男らしさに惚れ惚れした。
アリはまるですべるように砂地を進んで行き、夜目にも鮮やかな青いガンドゥーラはやがて砂のかげに消えた。あとに星だけが残った。
そして十二年後の姿。
青年のアリはこの十二年のあいだにベテランのガイドとなり、人柄もすっかり熟し、いまや思慮深げな、柔和な、しかし毅然としたトゥアレグの紳士になったのである。
モハメッド・アリは悠然とホテルのテラスに現れた。真っ白なヴェールを頭からあごに巻きつけ、おろしたてのようなトゥアレグの衣装をつけ、まるでアメノカル(トゥアレグの王)のように堂々と威風を放っている。(略)だが、その衣装は、かつての鮮やかな青ではなく、銀ネズミ色なのである。私はさっそく抗議した。すると彼はニッと笑い「われわれにも好みの変化はあるのだ」と言った。
アリは車の陰に悠然と立ってこたえた。私は思わずその容姿に見とれた。長いドライブにもかかわらず、彼の装束は、まるで神殿の前に進み出た神官のように一分のスキもなく、わずかな乱れさえなかった。砂の大地に傲然と立ったそのアリの姿は、まさにサハラの王者の風格があった。私はあらためて周囲を見まわした。はるか彼方に淡い橙色の砂丘が連なっている。この世にあるものはそれだけだった。
このような美しいガイドと、運転手と、目的地にいる父親を訪ねる九歳の少年と共に、森本哲郎はキャラヴァンの道を車で走る。その所々でかつてこの地を歩いた歴史的探検家たちの記録を思い出し、姿を重ね想いに耽る。景色と呼べるものは大地と空と太陽だけの世界で、この上なく豊かな文章を残してゆく。
ジョン・スコールの引用と同じくらい、旅の終わり、本の終わりはあっけない。しかしわたしも、著者同様に、このような旅と旅の終わりを読むのがたまらなく好きなのだ。
