
綾鷹
@ayataka
2026年6月11日

とにかくうちに帰ります
津村記久子
うちに帰りたい。切ないぐらいに、恋をするように、うちに帰りたい――。職場のおじさんに文房具を返してもらえない時。微妙な成績のフィギュアスケート選手を応援する時。そして、豪雨で交通手段を失った日、長い長い橋をわたって家に向かう時。それぞれの瞬間がはらむ悲哀と矜持、小さなぶつかり合いと結びつきを丹念に綴って、働き・悩み・歩き続ける人の共感を呼びさます六編。
淡々としたユーモアと日常の幸せを感じる話が魅力的。
「とにかく家に帰ります」でハラの「うちに帰りたい。切ないぐらいに、恋をするように、うちに帰りたい」に対して、オニキリが「おれも帰りたいです。自分と周囲の人たちの健康を願うように、うちに帰りたい」と言うやり取りは、読んでいて思わず笑顔になった。
◾️ブラックボックス
・間に合うのは間に合うと思うんですけれどもお、難しいですねぇー、という田上さんの声が聞こえて、これはかなり怒っているな、と私は判断した。河谷君は、もう約束しちゃったんで、などと墓穴を掘っている。そんな自分の事情を話したところで物事が動くと考えるのは間違っている。もしあなたの望む首尾通りに物事が運んだとしても、それはあなたが望んだからではなく、周囲が仕方なくそれに合わせたからだ。勘違いしてはいけない。自力で処理しない限りは、あなたに望む力など存在しない。
・私は、田上さんに対する悪魔じみているという評価を改めなければいけなくなり、少し居心地が悪かった。しかし、河谷君のリカバリーは素早かったし、田上さんが仕事を遅延する理由はその時点で消え失せていた。どちらもにダーティな役割を期待するのは、私のわがままである。つくづく誰もが普通の人で、悪くもなりきれないし冷徹にもなりきれない。面白くないけど、良くないことでもないのかもしれない。
その後、フロアに私以外誰もいない時に、田上さんのデスクの上に、例のノートが無造作に置いてあるのを見かけ、誘惑に耐えかねて、表紙をめくってみたことがある。そこには、何のことはない、田上さん自身が決めた、仕事への心構えが、デスクペンのしゃんとした筆跡で、何項目かにわたって書かれていた。すべては思い出せないけれども、真ん中のあたりにCはとう書かれていた。
・どんな扱いを受けても自尊心は失わないこと。またそれを保ってると自分が納得できるように振舞うこと。
・不誠実さには適度な不誠実さで応えてもいいけれど、誠実さに対しては全力を尽くすこと。
私は、首を捻って最初の1ページを見ただけでノートを閉じた。
◾️とにかく家に帰ります
・「何を買ったの?」
あえて予想は立てずに訊く。オニキリが通販をするということ自体が何か妙だ。
「フェアトレードの、セイロンのウバと、タンザニアの紅茶です」意外な答えで、ハラは思わずオニキリを見上げる。オニキリは、それには気付かない様子で、常に銀色の筋が入っているような視界の中を、動く石像のように重々しく歩き続ける。「そこのウバは、値段のわりに本当に素晴らしいんです。会社に持ち込んで初めて飲んだとき、おれは周りの人全員に言いたくなった。ファーストフラッシュだのセカンドフラッシュだの言うけれど、結局自分たちがはじめから知っている紅茶はセイロンなんだと。いや紅茶に詳しいわけじゃないです。でもうまかった。おれは仕事から救われた」
雨音の交じるオニキリの大きな声は、何か映画で見かけるアルコホリークス・アノニマスでの切実な主張のようにも聞こえる。
「タンザニアのはどうなの?」
「そうです、きいてください。タンザニアのもいいんです。あっさりしていて渋味がそんなになくて、どんな気分の時にも飲めます。何にでも合います。和食の飯の時にだってどんどんいけます。それで安いんです。それが、今日、うちに来るんです!」
オニキリの力強い口調は、世界平和だとか、スポーツマンシップに則りだとかを口にする人のそれに近かった。世界平和、そうだ。世界が平和であることを祈るように、今はうちに帰りたい。
「配送業者は動いてるのかな」
「わかりませんが、おれはコンビニ受け取りにしてるんでたぶん大丈夫です!」無闇に大きな声でオニキリが言う。
「その話で思い出したんだけど、無印良品のさ、おやつの袋に『部屋でくつろぐ』って書いてあってさ、わたしはそのことばっかり考えてるよ」ハラは、自分が部屋の椅子に座って、テレビを見ながらお茶を飲んでお菓子を食べているところを想像する。今はそれが、想像よりも妄想に近いもののように思える。本当に、自分は、そんなことをいつもしているのか。あれは何かの奇跡なのではないのか。「すごい反則なコピーだよ、『部屋でくつろぐ』って。何なのその充足感。もう、なんていうか、おやつそのものじゃなくて、その『部屋でくつろぐ』を買う感
じ」
わかります!とオニキリが叫んだ。橋の下で波がそれをかき消すように、ひときわしく互いを打ち合うのが聞こえた。
「給料も今のままでいいし、彼女もできなくていいから、部屋でくつろぎたいんです!」オニキリの、ある種の暴露に対して、ハラの反応は鈍かった。そうか、とすら思わなかった。「部屋でくつろぐためなら、大抵のことはやります。たとえば大雨の中をうちに帰るとか!」「そうだな」ハラは深くうなずく。「べつに愛は欲しくないから、家に帰りたい」
・半分を知ることにこんなに意味がない日はないと先ほど思った。しかし今はどのぐらいまで来たのかやはり気になって、後ろを振り返り、そして前方の対岸と見比べた。街はずいぶん近くなってきているようだった。しかし雨が弱まる気配もなく、ハラは震えながら、歯をくいしばって声を絞り出し、願いを表明する。
「うちに帰りたい。切ないぐらいに、恋をするように、うちに帰りたい」しばらくしてオニキリが続ける。
「おれも帰りたいです。自分と周囲の人たちの健康を願うように、うちに帰りたい」
ハラは、なぜだかこみ上げてきた笑いをそのまま吐き出し、再び吹き付けてきた風に備えて
傘のろくろに手をかけ、姿勢を低くした。


