
そらまぎるもも
@le_mono
2026年6月13日
古井由吉自撰作品 一
古井由吉
読んでる
「あたし、だめ、できない。こんなむつかしいこと」
心ならずも彼は苛立った。彼の目の前にいながら、杳子が自分の病の中へ一人で耽りこんでいくことが、以前ならいざ知らず、今ではもう許せない気がした。
「〔……〕そんな臭いでもすこし鼻に馴染んできて、あの人の軀がとても満足そうに見えてくるの。自分の病気にうずくまりこんで、自分の臭いの中に浸りこんで……。ああいうのが、淫らっていうのよ。醜悪よ、けだものよ……」
……《爛》か《淫》か、あるいはエロスか、そこには耽りこむ者が丸くうずくまりながら発する色と香気がある。
「あの人、あの時はまだ、からだの事を知らなかったのよ」
「病気の中へ坐りこんでしまいたくないのよ。あたしはいつも境目にいて、薄い膜みたいなの。薄い膜みたいに顫えて、それで生きていることを感じてるの。お姉さんみたいになりたくない」
「病気の中にうずくまるのも、健康になって病気のことを忘れるのも、どちらも同じことよ。あたしは厭よ」
軀の交わりは病気を成熟させ、病気のうちに耽りこむことも、小市民的な健康の日々を点描することもままならず、ままならぬまま、身持ちならない崩れをうけとめるものもなく……

