
中根龍一郎
@ryo_nakane
2025年3月24日

リトル・トリー
フォレスト・カーター,
和田穹男
かつて読んだ
児童文学は本との距離の取り方がむずかしい。子供のころの読書体験は、しばしばあまりにも無防備に物語に飛び込み、物語と同一化し、物語からたくさんのものを持ち帰り、自分のものにしてしまう。そしてごくまれに、そこには持ち帰るべきでないものが紛れ込んでいたのだと、あとから気づき、あるいは知ることがある。
『リトル・トリー』は小学生のころに読んだ好きな本のひとつだった。読書感想文を書いたことさえあった。作者のフォレスト・カーターがKKKに関与していた人物であり、記されているチェロキー・インディアンの習俗にかなり誇張や誤りが含まれている、というのは、ずいぶんあとになってから知った。
それでも文学的に評価されるべき作品だという話も見るし、実際に、『リトル・トリー』には、人の心を動かすものがある。しかし『リトル・トリー』を通じて、子供のころの私が楽しんだのは、チェロキー・インディアンの文化とわれわれの文化がこんなにも「違う」という、エグゾティスムめいた、見世物を楽しむタイプの異文化愛好だった。そしてその異文化愛好の視線の先には、読み手の感情を楽しませるように再構築された、レイシスムに与する作家によって書かれ、一定以上の誤りが含まれていた〈異民族〉の描写があった。つまり私の愛好は弁護のしようがなかった。
そうである以上、もうその読書体験から持ち帰ったものを、肯定的に考えることはむずかしい。しかし否定することもむずかしい。否定するには『リトル・トリー』はあまりにも私の一部になってしまっているからだ。児童文学の体験には、そういう一体化がついてまわる。それはけっこう苦しいことだ。
それでもいま『リトル・トリー』を読み直したら、きっと多くの問題を「発見」できるだろう。一方で、それでもまだ文学的に評価できるのではないか、という箇所を見つけ出すこともできるだろう。そのようにして『リトル・トリー』を、あるていどのレベルで整理することはできるだろう。
それは多少さびしい作業になるだろう。そしてさほど得るものもないだろう。そのような整理を通したところで、『リトル・トリー』が今や肯定的に語ることができないテクストであることに変わりはない。
だからあまり手をつけたいとは思えなくて、自分の心の中にある読んできた本のうちで、なんとも言えない場所に置いている。



