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@DN_HP
2026年6月19日

天国の南
ジム・トンプスン
本と日記のある過去
ジム・トンプスンでいちばん好きな長編を再読した。はじめて読んだのはだいぶ前、この文遊社の未訳シリーズが出始めた頃(これはその一作目)だから、ちょうどわたしにも読書の物心がついた頃だったりして、覚えたての読書する喜びに応えてくれるようなスリリングさと読み心地に夢中になって読んで大好きになったのだった。
今回も、当時はあまり意識出来ていなかった読み易さというか文章、翻訳の巧さに少し驚いたりしながらも夢中で読んで、数回に分けながらも大体一日で読み終わった。やっぱり最高だったけれど、また少し、そこから読み取れるものが増えたり変わっていたりもしていて。
これは多くの(扶桑社系)トンプスンの小説にみられるような、少しズレた世界を生きる語り手が破滅の袋小路に向かっていくような物語とは逆に、未来、可能性、希望に向かって開いていく、あるいはその過程を振り返るように読める小説だ。
ある種のカミング・オブ・エイジ、というには主人公は年齢も経験も既に重ねているけれど、今は作家になった彼が本当の意味で「成長」した過去の出来事を振り返り物語った話だ、というのは以前も今も変わらない印象だけれど、今回はその「成長」を「諦め」に入れ替えて読んでいたような気もしている。
その「諦め」というのは、自分がこの世界についてあまりにも何も知らなかった、というとを認めることで、「この世はままならない」と思い知ることで、この世界の有り様を語源の通り「明らかに見極める」ことでもあって。つまり明らかになった世界にどう対峙するか、立ち向かうか、あるいはどう妥協するかしないかを改めて学び考え選びとるということだ。
まあそれが出来るようになることが「成長」ということ、といえばそうなのだけれど、「成長」というのもそんな「諦め」の上でしか出来ないものなのだと思っていたりもするのだった。そんな思いを抱けるのは、わたしもこの小説を再読するまでの間に何かを「諦め」少しだけ「成長」出来ていたということか。そうだといいなと思う。
「なんにしろ、かつて知っていた多くのことについて、じつはあまりよく知らないこともわかった。少しまえまで、おれはすべてのことをすべて知らなければならないと感じていた。そして、知らないことを認めるのがこわかった。だがいまは、それはたいした問題ではなかった。無知であることは、愚かであることと同じではない。時期がくれば学べることを、おれは知った。」(p262)
とはいえ、この物語の主人公はとても「諦め」が悪い。後半のラストシーン直前まで純粋に頑固に自分の今までの考え生き方に固執し続ける。それを読み続けるのは少しイラついたりもしてしまった(と読めるのもわたしの成長か)けれど、その自分の考えに固執し貫き通そうとするという生き方は若者の特権で、それはそれで美しい、と思ったりもしているし、これは「諦め」「成長」する物語であると同時に、それ以前にしかない美しさを描いた小説でもあるのかもしれない。
そしてもうひとつ、ここには復讐を願う男の物語も描かれていて。復讐を願い続ける生き方、という、「諦める」ことをせず「成長」を拒み固執し続ける生き方をわたしは否定出来ないのだけれど、その復讐がもし叶ってしまったとき、男はその先で何かを「諦め」、「成長」することが出来るのだろうか、それともそこで男の人生はある意味で終わってしまうのだろうか。などと今は考えてみているところ。
なんにしろ、今は久しぶりに読んだ小説がより素晴らしく思えているから、とても良い気分。昼間は暑くてげんなりしたけれど、今は窓から涼しい風も入ってきているし、やっぱり今日も全部OKだったみたい。





