
いぬい
@inuiru
2026年6月27日
沈黙の春
レイチェル・カーソン
読み終わった
「センス・オブ・ワンダー」がメチャクチャよかったので、こうなるとやはり有名な「沈黙の春」を読まざるを得まい……なんとなくこわいイメージがあり、これまで敬遠していたが……
と、思い立って読んだらやっぱりこわかった。こわかったと言うか、まずはとにかく情報量に圧倒された。
「センス・オブ・ワンダー」と「沈黙の春」に共通して言えるのは「私たち人間は自然と相対しているのではなくその一部、生態系をなす一員なのだ」という認識だと思う。
けれどここでのカーソンは「単なる自然愛好家」ではない。
324p
" 私たちの住んでいる地球は自分たち人間だけのものではない──この考えから出発する新しい、夢豊かな、創造的な努力には、《自分たちの扱っている相手は、生命あるものなのだ》という認識が終始光りかがやいている。生きている集団、押したり押しもどされたりする力関係、波のうねりのような高まりと引き──このような世界を私たちは相手にしている。昆虫と私たち人間の世界が納得しあい和解するのを望むならば、さまざまな生命力を無視することなく、うまく導いて、私たち人間にさからわないようにするほかない。"
最終章のここ、「人間にさからわないようにするほかない」という言いかたにコントロールしようという意思を感じて引っかかった。引っかかりはしたものの、考えてみればカーソンは全編通して「化学物質を使うな」とは言っていない。「コントロールの方法を考えろ」と言っている。つまりこのコントロールは、支配という意味ではなく、調整、それも、外側から手を加えるような調整ではなく、生態系の一員としての調整だ。
鳥も虫も草木も、示しあわせたわけでもないのに世界は絶妙なバランスで成り立っている。そのなかにあって、すべてを把握することはできないにしても、ある程度の相関関係や影響を見越して「調整」などと器用な真似ができるのは人間だ。これは、いままで考えたことのない視点だった。
人間ぎらいの私は「人間は増えすぎたのだ……もっと減るべき」などと短絡的に考える。しかし、一方で私の暮らす限界集落は十年後には消えそうなくらい少子高齢化が著しい。ひとの手の入らない里山がいかにあっさりと荒れ放題になるか目のあたりにしていると、バランスの難しさが身に染みる。「もっと減るべき」は外側の目線でしかない。
「自然に立ち向かう」ということは、古い時代にはもっと根本的なことだったと思う。雨風をしのぐとか、山を開くとか、つまり「生きていく場所を守るため」だったはず。だけど人間はさまざまな薬品を生み出して、必要以上の影響力を持ってしまった。しかもそれを、ただ生きるのではなく「楽をする」ために使うようになった。「楽をしたい」という思いが技術を発達させたとはよく言ったもの。けれどその「楽」のために何を犠牲にしているかは考える必要がある。うーん、教科書的。
↓ここがすごく分かりやすい。
68p
" クリア湖では、ブユをうるさがった人たちの言いなりになったために、鳥たちを犠牲にした。そして、また何一つ知らないまま、湖の魚を食べたり、湖の水を使っているものすべてにおそらく危険は及んだのだ。
でも、異常としか言いようがないが、貯水池に勝手気儘に毒を入れるのは、いまやあたりまえのこととなろうとしている。もっぱら釣りというスポーツのためなのだ。そしてあとになって、本来の目的である飲用水として使えるようにするために多くの費用をかけなければならない。貯水池の魚を《改良する》のだといって、官庁に圧力をかけ、毒を流しこみ、このましくない魚を殺し、養魚場から自分の好き勝手な魚をつれてくる。まるで、アリスの不思議の国そこのけの有様だ。"
120p、121p
" シェルダンの町で専門家が、死に瀕しているマキバドリを観察しているが、それは──《筋肉の調整ができず、飛ぶことも立つこともできず、横倒れになりながらも、羽をしきりにばたつかせ、足指は、しっかりにぎられていた。嘴をあけたまま苦しそうに息をしていた》。もっとあわれだったのは、ジリスだった。どんなに苦しんだか、その死体はその跡を無言のうちに語っていた。《背中を丸め、指をかたくにぎったまま前足は胸のあたりをかきむしり……頭と首をのけぞらせ口はあいたままで、泥がつまっていた。苦しみのあまり土をかみまわったと考えられる》。
生命あるものをこんなにひどい目にあわす行為を黙認しておきながら、人間として胸の張れるものはどこにいるであろう?"
このくだりは読みながら泣いてしまった。この本には、鳥や虫や草木が消えていくことを嘆いたり、かなしんだりしているひとの言葉も多く取りあげられている。ほかの生命をいとおしむ気持って結構だれにでもあって、それと「害虫や雑草を殲滅すること」って人間のなかで同居できるんだよな。世界をこわすのって悪意じゃないんだろうと思った。じゃあ何って考えると……想像力のなさ? 「いまこのときがよければいい」みたいな意識か。小さな怠惰の積み重ねかも知れない。
この世界の一員として私はどう生きられるだろう?
本を読んでるあいだ、部屋にハエが飛んできて……おお、人間の恐ろしさ……と思いながらキンチョールで殺した。ゲジやクモはあまり殺さないが、カメムシやハエはすぐ殺す。きらいだから。でも、「好きだから」とか「きらいだから」とかではバランスは取れまい。
私は私の生きる場所を維持していかなくてはならない。そのためには草を刈ることもあるし、虫を殺すこともある。必要だから殺すのか? 殺さずに済む方法はあるか? 「きらいだから」で殺しつづけたらどうなるか? 毎回そんなこと考えていられないだろうが、それでも、《自分たちの扱っている相手は、生命あるものなのだ》と、時々思い出さなくては。
しかしながら、老後いつまでこの限界集落で暮らせるのか。
ギリギリまで草を刈って、虫を殺して──でもたぶん最終的には私が追いやられるだろう。そのとき寂しいかも知れないし、悔しいかも知れないけど、「やはり自然には勝てんかったな」と思うのは、なんだかんだで嬉しい気もする。住処が草木に覆い尽くされ、鳥と虫にあふれ(いまでも充分あふれているが)家が朽ちて、けものたちのねぐらになる……そんな未来を期待してるじぶんも確かにいるのであった。
