
いぬい
@inuiru
ありがとう光文社古典新訳文庫
- 2026年10月24日
- 2026年10月24日
フランケンシュタインシェリー,メアリ・ウルストンクラフト・シェリー,小林章夫読み終わった『批評理論入門』を読もうと思ったので再読したけど、まじで涙なしには読めなくない? ウワーンてなりすぎて怪物北極未知との遭遇ルートを捏造してAIくん相手に語ってた。 昔は「父と子」みたいな観点に寄りがちだったけど、つくり手と作品とか、白紙状態からの成長とか、異質なものとの出会いとか、美醜とか、責任とか、いろんな読みかたができておもろい話…… なぜか「永遠の安静」と「崇高な愉悦」にマーカー引いてあってウケた(たぶん「サブライム」をおぼえたてだったので「進研ゼミでやったやつや!」となった) " 命は苦しみの積み重ねでしかないが、それでもおれには愛しいものだ。だからおれは守るのだ。" " 昼と夜が何度か入れ替わり、夜の光がずっと小さくなった頃には、いろいろな感覚が区別できるようになっていた。飲み物を与えてくれる透明な流れも徐々にはっきり見えるようになり、木陰をつくってくれる木々も見分けがつくようになった。耳に聞こえる楽しげな音の正体がはっきりしたときは、うれしかった。目の前の光をよく遮った小さな羽のある動物の喉から出たものだったのだ。 さらにはっきりと周囲のものが見えるようになり、頭の上を覆う明るい光の屋根が、どこで途切れているのかがわかった。鳥の楽しげな声を真似てみようとしたが、これは無理だった。感覚を自分なりに表現したいと思ったが、出てきた音が異様で、はっきりしないものだったので、怖くなってまた黙ってしまった。" " 決して幸せとは言えないようで、若者と娘はそっと片隅へ行くことが多く、そんなときには泣いているらしい。不幸の理由はわからないが、これには深く心を打たれた。こんなに優しい人たちでも不幸なら、自分のように不完全で孤独な者が悲惨になるのも、おかしなことではない。" - 2026年10月24日
- 2026年10月22日
読書についてショーペンハウアー,アルトゥル・ショーペンハウアー,鈴木芳子読み終わった105p ↓これはまじでそう " 本を買うとき、それを読む時間も一緒に買えたら、すばらしいことだろう。" ニーチェがショーペンハウアーの悪口を言いまくっていたのが気になって読んだんだが、ショーペンハウアー先生とにかく口が悪い。「へぼ作家」「匿名のごろつき」「空っぽの脳みそがひねり出した駄作」「どんよりした脳みそ」などなど…… ニーチェいわく「ショーペンハウアーに敵がいなければ彼は病気になっていただろう」とのことだが、それはそうかもと思わせる。あと急にこっち向いてくるのがニーチェとおなじやんって思って笑った(ニーチェが影響を受けたのであろう……)。 「著述と文体について」はかなり耳の痛い部分があった。 52p " 考え抜かれた明快な思想は、ふさわしい表現をたやすく見つける。人知のおよぶものは、実際つねに明快でわかりやすく、疑問の余地のない言葉で表現できるものなのだから。ややこしく、はっきりしない、錯綜した、あいまいな文章を作り上げる連中は、自分が何を言いたいのか、きちんとわかっておらず、思想を求めて呻吟しているのをぼんやり意識しているだけだ。だが連中はしばしば、そもそも主張すべきものが何もないのを、自分にも他人にも隠そうとする。" 80p ↓これはまじで私そのもの、常に「神のみぞ知る」と思っている " 全体がどんな形になるのか、結末はどうなるのか、およそ見当がつかない。多くの著述家は全体像すら知らず、サンゴ虫がサンゴ礁をつくるように書いてゆく。文は文に連なり、行く先は神のみぞ知る。おまけに「現代」生活は猛スピードで進む。文筆の世界でそれは極度にぞんざいで、ずさんな文章となってあらわれる。" 81p " 主張すべきことは、ひとつずつ言いなさい。六つのことを一度にごっちゃに言ってはいけない。" 「読書について」では、最近まさに感じていたことを指摘されていたのでかなり頷いた。「読書とはじぶんで考える代わりに他人に考えてもらうこと」というのは常々実感している。 99p " ひっきりなしに次々と本を読み、後から考えずにいると、せっかく読んだものもしっかり根を下ろさず、ほとんどが失われてしまう。概して精神の栄養も身体の栄養と変わりはなく、吸収されるのは、摂取した食物のせいぜい五十分の一にすぎない。残りは蒸発・呼吸作用その他によって消えてゆく。" 同時に「読んだものをすべておぼえておきたがるのは食べたものをみな身体にとどめておきたがるようなものだ」ともあり確かに! と思うなど。ただ読むだけ、でもなく、おぼえておくため、でもなく、それが栄養になるように反芻すること……って、まあ分かっているけどそれが難しいんだよな。 それと先生「当局は国民の目の健康のために小さな活字を監視せよ」て言ってて、それはほんとにそうかもと思った。あと、『創世記』でヤコブにかなりムカついてたんだけど、先生が「エサウがかわいそうだろうが、エサウに祝福あれ」みたいなこと言ってて(言ってない)分かる〜! てなった。 私は口が悪いひとが結構にがてなんだけどショーペンハウアー先生は「まあ言ってることは分かるよ」て感じなので憎めない感はある。あと犬を飼ってた点でかなり好感度が上がってしまっている(ショーペンハウアーで検索するとプードルと散歩している銅像が出てくる)(メフィストフェレスもプードルの姿で現れてるけど、プードルってなんなん?)。 - 2026年10月21日
読み終わった読みかけの『神聖喜劇』に「金毛の野獣」のくだりが出てきて、そう言えば有名な「金髪の野獣」の話ってちゃんと読んだことなかったな、と思ったらKUにあってラッキー。ニーチェがちょいちょいこっち見て話しかけてくるので目をあわせたくないタイプだと思った。 アブラハムの宗教について読みつつ「人類の敵」とか「復讐する民族」という感覚がいまいちピンときてなかったんだけど、価値の転換ってわりとどこでも起きているなかで、ある意味「最大の転換」がユダヤ教〜キリスト教で起きてたってことなんだな……というのが分かって、何かを肯定することは何かを否定することっていうシンプルな原理を思い出したな……(これを肯定するけど、これを否定するわけじゃないよ、みたいな言説をしがちだし……)。 91p " そもそも人間は苦悩には憤慨するものだが、それは苦悩そのものではなく、苦悩が意味のないことに腹を立てているのである。しかし苦悩のうちに魂を救済する秘密の機械を読み込んでいるキリスト教徒にとっても、すべての苦悩を傍観者としての立場や、他人に苦悩を与える側の立場からしか解釈することを知らなかった古代の人々にとっても、意味のない苦悩というものは存在しなかったのである。この世から隠れた苦悩とか、発見されていない苦悩とか、目撃する証人のいない苦悩などというものを消滅させて、うやうやしく否定できるように、人類はほとんどやむをえずに神々を発明したのだし、さまざまな高さの中間的な存在を発明したのである。これらは要するに、隠れた場所にも入り込んでくる者、暗闇のうちでも見透すことのできる者、痛ましいと同時に興味をそそる見世物を決して見逃すことのない者なのだ。" そう言えば『虚空蔵の峯』を読んだとき、無名の苦しみみたいなことについて考えたのを「隠れた苦悩、発見されていない苦悩」のくだりで思い出した。私は敬虔なクロノクロス信者なので「降りかかるすべてのことに意味はない」と思っているんだが、やはり意味がない、ということは苦しく受け入れにくいものなんだ……と言うか、ニーチェの言だと意味は「見られること」で発生するんだな。 113p " 犯罪者は、司法によって定められ、執行された処罰の手続きがどのようなものであるかを目撃することで、自分の行為そのものが、それ自体として非難すべき性質のものであるとは考えなくなったのだ。このことの意味を過小評価してはならないだろう。なぜなら犯罪者は、自分の行った行為と同じ性質の行為が正義の名においてなされていること、それが疚しくない良心の行う行為として、善なる行為として、遂行されているのを目撃するからである。こうしてスパイ行為、欺き、買収、詐術など警官や告訴者が活用するすべての悪賢い手管が、そしてそれだけではなく、さまざまな刑罰において明確に確認できる行為である強奪、圧服、誹謗、監禁、拷問、殺害などが、たんに感情に走ったから行われるどころか、根本的に免責されていること、──これらのすべてを目撃するうちに、こうしたものは裁判官によってそれ自体として非難すべきものとも、罰すべきものともされず、特定の観点から利用されているにすぎないと感じるのである。" カントは死刑を肯定していたけど、ここはニーチェの言う通りだと思う。価値が転換し得るものである以上、正義の名のもとに行われる刑罰と犯罪は区別しにくい。ニーチェは「意味」は流動的なものであると言っている。形式ですら流動的だと言っている、これは(内容ではなく)形式から普遍的な法が成立しうるというカントの考えと真っ向から対立している。 215p " そしてみよ! 人間はある暗示をうけとる。魔術師である禁欲的な司牧者から、自分の苦悩の「原因」について最初の暗示をうけとるのだ。その原因はお前のうちに求めるべきだ。負い目のうちに、自分の過去の一コマのうちに求めるべきだ。お前は自分の苦悩を、ある刑罰をうけている状態と理解すべきなのだ……。人間、この不幸なる者は、この暗示を聞き、理解した。いまや人間は、回りに自分を囲む線を引かれて身動きできなくなった雌鶏のようなものだ。この円周の線からもはや外にでることはできない。こうして病人から「罪人」が生まれたのだ……。" 自然状態にあって外へ向けられていた攻撃性が内に向かった結果「やましさ」が生まれ、苦悩になる。そして意味のない苦悩に「刑罰」という意味を与えることで人間は禁欲的な生きかたを理想とするようになった。苦悩から救済されるべく罪人となった! なんだか分かるような分からないような話だ、救済が先なのか神が先なのか…… 正義の名のもとに行われる刑罰が「裁判官によって利用されている」ものならば、神の名のもとに行われる刑罰も同様なんだけど……ニーチェは「禁欲的な理想」を否定しながらも、それ以外には苦しみを受け入れる方法はないと考えているように見える。たぶんニーチェ自身が、苦しみに意味を求めてたんだろう。 死ぬほど頭が痛くて何を飲んでもだめなとき、「いったい私が何をしたってんだ?!」と思う。気圧なのか? 本の読みすぎ? 姿勢がわるい? などとあれこれ理由をさがす。目を休めたりストレッチしたりして気をつけていたつもりでもまた頭が痛くなって、「私の努力に意味はなかったのか?!」などと思う。 このばあい問題なのは「頭が痛いこと」であって理由や意味ではない気がするんだが、それが逃れられないものなら、「せめて原因が知りたい」と思うのが人情だろうか……(頭痛と人類の苦悩はちがうと思うが……)。 - 2026年10月19日
永遠平和のために/啓蒙とは何かカント,イマーヌエル・カント,中山元読み終わった『よくわかる一神教』を読んで、信仰や信条や誇りはだいじだろうが平和がほしくはないか……???という気持になり…… 「永遠平和のために」を読むと、「すべての人間が理性的に考える前提でなければ平和は実現しない」と言われているようで暗澹となるんだが、カントは実際「すべての人間には考える頭がある」ということを信じているんだよな……信じているんである! あと「啓蒙とは何か」には「魂の救済は個人でやれ」と書かれていてそれはほんとにそう、と思った。 - 2026年10月17日
- 2026年10月15日
ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか内村鑑三,河野純治読み終わったアウグスティヌスの『告白』がよく分からなかったんで(一巻ではまだ回心してないが)内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』を読もうとしたら光文社古典新訳文庫がKindle Unlimitedに入っていた〜ラッキ〜! 内村鑑三はよく見る顔写真の感じからこわそうなひとをイメージしてたが(有島武郎がメッチャ怒られたエピソードのイメージもあった)少年時代はさまざまな神に祈るためにフレーズを考えたり、さまざまな神に操を立てるために雁字搦めになったりしたそうで、幼少期こわい夢を見たくないためだけにありとあらゆる神に祈っていた私などはかなり親近感をおぼえた。 そんな少年・内村くんが札幌農学校で半ば強制的にキリスト教徒にさせられるわけだが、入信した直後に内村くんが思ったことは「これで神がひとつになる! もはや神社ごとにそれぞれの神への祈りを唱えなくてもいいのだ!」ということだった。そんなおまとめローンみたいな感じでいいのか? 札幌農学校時代のエピソードはかなり青春って感じで読んでいてまぶしくて泣けた。 パウロってのは新渡戸稲造のことだったようだがべつに近眼はいいだろ。 37p " パウロは「学者」だった。たびたび神経痛を患い、また近眼でもあった。すべての物事を疑い、さらに新たな疑いをこしらえることができ、何事も自分で試して証明しなければ受け入れることができなかった。トマスと名乗ってもよかったくらいである。" 43p " みんな、それぞれのやり方で歌ったけれど、荒々しい大声と調子はずれの歌には「音楽的な旋律」など皆無だった。パウロはすべての賛美歌をトプレディーの旋律で歌えると言ったが、じっさいにはその旋律しか知らなかったのである! それでも、丘も山もぼくらの歌をがまんして聴いてくれた。神はご存じだ、ぼくらの歌には優れた音楽の一要素――感じる心――があることを。" 44p " その夜は誰もが天使のように見えた。「とげだらけの」ヨナタンも、「こぶだらけの」ヒューも、「骨と皮ばかりの」フレデリックも、その晩はみんな、「まんまる」のフランシスと同じくらい人が丸くなっていた。疑い深いパウロも、そんなキリスト教に対してなんの異論もなかった。ああ、こんな夜がもっとあればいいのに! 天使の合唱が天に聞こえ、ベツレヘムの星が東方の賢者たちを幼子イエスのもとに導いたあの夜は、この夜よりも美しかったというのか!" 47p " ヨナタンは牧師のそばに座っていた。顔を上げ、フレデリックの身に何が起こったのか、確かめようとした。するとどうだろう、牧師は小麦粉樽の説教壇にひじをついたままぐっすりと眠っているではないか。道理で祝禱が聞こえてこないわけである。彼の神聖な言葉を待っていたら、ぼくらは一晩中起きていなければならないだろう。 ヨナタンは考えた。これは例外的なケースであり、その場合、「公会議」の同意がなくとも一時的に規則を変更してもよいだろう、と。そこでヨナタンは立ちあがり、厳粛な声で言った。「われらの兄弟フレデリックが寝入ってしまったので、ぼくが代わりに牧師の役目を果たすことを神はお許しになるでしょう。われらの主イエス・キリストの恵み、うんぬんかんぬん、アーメン」" 68p " しかし、フレデリックやヒューがおまえ[説教壇]の上から使徒の祝福を唱えたとき、おまえが持っていたその不思議な力、その神聖さは、けっして引けをとらないであろう。さらば、聖俗両方の宴において、ぼくらの心を固く結びつけた愛用の水差しよ! いつか黄金の聖杯でワインを飲むことがあるとしても、そのワインには、おまえ[水差し]の口から注がれた冷たく泡立つ液体が、ぼくらの種々雑多な心を調和させ、一つにまとめたときのような結合力はけっしてないだろう。さらば、青い毛布よ! おまえが提供してくれた「会衆席」ほど居心地のよい場所は、これから先ないだろう。さらば、小さな「教会」よ! 「呼び物」や子供らしい実験の数々、口論や当てこすりがまじった祈り、愉快なおしゃべりや日曜午後の宴会よ!" ここまで読んだだけでも内村くんがかなり感じやすく純真な感動屋であることは分かる。内村くんはアメリカに渡り、さまざまな経験を経て、「キリスト教は最高!」へ辿り着く……………………うん、何も分からない。 しかし、どうも内村くんもよく分かっていないようなのだ。 218p " しかし、何がキリスト教なのか? 聖書そのものがキリスト教なわけではない。もちろん、聖書にはキリスト教の多くの要素、そしておそらくその本質が含まれてはいるだろう。また、教義自体もキリスト教ではありえない。それは時代の要請に応じて人々が考え出したものだ。じつのところぼくらには「何がキリスト教なのか」よりも「何がキリスト教でないか」のほうがよくわかる。" 219p " 真理を定義しようとするまさにその試みがぼくら自身の愚かさを示している。なぜなら無限の宇宙以外に真理を定義すなわち限定できるものはないのだから。だから真理の定義はあきらめよう。" 222p " ぼくの小さな魂も、そうだと証言できる(神に感謝)。 そしてこれこそがキリスト教なのだ。少なくともぼくにとってはそうである。神の御子の贖いの恵みによって罪から救われること。それ以上かもしれないが、それ以下のものではありえない。ならばこれこそがキリスト教の真髄だ。教皇、司教、牧師、その他の有用無用の添えものは、キリスト教に必要な部分ではないのだ。ゆえにキリスト教は、他の何よりも信じる価値のあるものだ。真の人間はキリスト教がなければ生きていけない。キリスト教がなければ安らぎを得ることもできない。" 終盤、何かを言っているような何も言っていないような、分かっているような分かっていないような話がつづくので私はかなり置いてきぼりになった。 解説の橋爪大三郎が言うことによれば、 " キリスト教、とくにプロテスタントの信仰をもつとは、正統なさまざまの宗派・教会や、これらの教会の違いを理解し、そのひとつを選び、その他を拒否することにほかならない " のだが、内村くんはどうも宗派への所属をきらうだけで、それぞれの教義などは理解していないようだ、とのこと。思い返してみれば、そもそも内村くんは聖書を精読しているような様子もなかった。←帰国後、聖書を読む会みたいなのをやっていたようだ。 三十一歳のときに書いたらしいので、まあまだ若いんだよな。 最近じぶんが歳取ってきたせいか、文豪の作品など読んで「ん?」と思うことがあっても「二十代のころの作品か……なら仕方ない(?)」などと考えるようになっていいんだかわるいんだか。 - 2026年10月12日
ユートピアトマス・モア,平井正穂読み終わった奥泉光『虚史のリズム』で、戦争で死んだ兵たちが帰る場所は「ない場所」ではなかろうか、と考えるシーンがあるんだけど、読み終わって(メモ書いて)しばらく経ったあとで「あ、ない場所ってユートピアのことか」と思った。 トマス・モアの描くユートピアは労働時間が六時間。メッチャいいじゃん、と思ったが、昼休みが二時間もあって、仕事のあとには「家庭の団欒」が義務づけられている。食事の前には年長者からのお話もある。服が粗末でみんなおなじ、というのは楽そうだが、許可なくひとりでぶらぶら散歩などしようものなら罪に問われる。便器が金でできているというのは笑った。外で政治の話をしたら死刑。きたない仕事は奴隷にやらせ、戦争は傭兵にやらせる。傭兵ならいくら死んでも却ってこの世のためになるからな、というわけである。マキァヴェッリが聞いたら怒るだろうな。 以下、切れ味鋭くて笑ったところ。 107p " 金というものは元来それ自体としては何の役にもたたないものである。にもかかわらず今日全世界の人々の間において非常に尊重されている。それも、元来なら人間によって、そうだ、人間が用いるからこそ、尊重されていたのに、今では逆に人間自体よりももっと尊重されている。なぜそうなのか、ユートピア人にはどうしても合点が行かないのである。木偶坊のような男で智慧といったら騾馬くらいしか持たないが、そのくせ悪いことや馬鹿げたことにかけては恐ろしく達者な男が、立派な賢い人をたくさんあたかも奴僕のごとくこき使えるというのも、もとはといえばこの金を山のようにもっているからの話である。(中略)しかしユートピア人がもっと不思議に思い、また軽蔑するのは、ただ金持ちであるというだけの話で、つまり、別にどうという理由もない、借金しているわけでもなければ使われているわけでもないのに、金持ちをまるで神様か何かのように崇拝する、あの人間の狂気沙汰である。ましていわんや、このけちん坊の金持ちが山のような財産の中から鐚一文、彼らが生きている間は金輪際、自分たちにくれる心配はないということを知って居るにおいてをやである。" 115p " 思うに、愚にもつかない尊敬をうけて得々とするのも、これまた同じような狂気の沙汰ではないだろうか。他人に脱帽をしてもらう、跪いてもらう、一体そこにどんな自然に湧き上る喜びがあり、真実な喜びがあるというのか。膝の疼みがとれ、頭の妄想が晴れるとでもいうのか。" 規則正しい生活を送る点では私はかなりユートピア向きと思われたが、ひとりの時間がないのは耐えられないので無理だな。ところで作者のトマス・モアも「ニュー・ビルディング」という名の離れを持っていて、そこによく引きこもっていたそうな。 私の考えたユートピアは…… 死刑禁止・奴隷禁止・サービス残業禁止・団欒の強制は禁止・食べる順番の強制は禁止・朝ごはんに甘いパンを食べるの禁止・食卓での喧嘩は禁止・餅とチョコレート、パンとアイスクリームの組みあわせ禁止 労働は一日六時間、週三日、おやつあり 揉めたらじゃんけん三回勝負、それでも気が済まなければラップを詠め なんか食のルールが多くなってウケた。これもだれかにとってはディストピアであろうな。 - 2026年10月11日
告白(1)アウグスティヌス,山田晶読み終わった回心ってどんな気持??? と思ったので読んだのだが何も分からなかった。 Confessio(告白)はラテン語では「罪を打ち明ける」「神を讃える」の両方の意味があるんだって。なぜに「罪を打ち明ける」が「神を讃える」とおなじ言葉なのか? もとのラテン語「Confiteor」は「認める」「はっきり口に出して言う」みたいな意味らしく、神を認めたら讃美、罪を認めたら告白、みたいな感じらしい。もとのヘブライ語でも、「感謝、讃美」と「罪の告白」はおなじ言葉で表されるとのこと。へ〜。 アウグスティヌスの「罪の告白」はすなわち「そんな罪深い私をも神は見捨てなかった」ということになって、自動的に神への讃美にもなるんだよね。 ということでとにかく神への讃美がすごい。あらゆることが神のおかげということになっている。私に勉強を強制してきたひとたちはいいひとではなかったが、結果的には強制してもらってよかった、それも神のおかげである。じぶんはかなり勉強ができるけど、それも神の賜物である、と自慢を謙虚っぽく言うこともできる。 そんな感じで終始、名前しか知らんアイドルグループの推しの話を聞いている気持だった。 164p " 生が恐ろしかったのは、半分で生きるのがいやだったからであり、それにもかかわらず死を恐れたのは、あんなに愛していた友人の全体が死なないためであったのかもしれません。" 友人をうしなったときのこの話だけが唯一「分かるよ」てなったんだけど、のちに本人はこの文章を「軽佻な空言」と言っているようだ。もともと「友人はじぶんの魂の半分」っていう表現はローマの詩人ホラティウスがウェルギリウスについて書いたものらしくて、その上手い言いまわしを拝借しちゃったことが恥ずかしくなっちゃったんじゃないかな? とはAIくんの言。なるほどね。 300p " でも、有力な先輩のところにはいつ挨拶にいったらよかろう。こういう先輩の愛顧も必要だからな。学生に売るものは、いつ仕入れたらよいか。気づかいからおこる緊張をときほぐすための休息はいつとったらよいだろう。 こんなことはみな消えてなくなれ。こういうつまらないむなしいことは、ほうっておこう。ただ真理の探究だけに精神を集中しよう。生は悲惨だ。死はいつやってくるかわからない。突然しのびよってくる。どんな状態でわれわれはこの世を去ることになるだろう。この世で怠ったならば、どこで学ぶことができるだろう。それどころか怠りにたいし、罰をうけねばならないのではないか。だが、死によって感覚とともにいっさいの心配が断ち切られて終わるとしたらどうだ。この点も探究してみなければならない。 しかし、絶対にそんなはずはない。キリスト教信仰のこんなにすぐれた権威が全世界にひろまっているという事実が、むなしい無意味なことであるはずはない。もし身体の死とともに魂の生命も滅びるとすれば、こんなすばらしい偉大なことを、神がわれわれのためになさるはずはけっしてない。ではなぜわれわれは、この世ののぞみをすてて、神と至福の生を探究するために、全身心を投ずることをためらうのか。 だが待てよ。こういうこともやはりたのしい。そこには独自の甘美さがすくなからずふくまれている。それをのぞむ気持も、かんたんに断ち切ってはならない。いったんすてたものに、まいもどってくるのはかっこうわるいからな。じっさい、何か名誉の地位にありつくのも、もうすこしのしんぼうだ。これについては、まだどれだけののぞみがあるだろうか。有力な先輩も数多いことだし、そんなにあわてなくても、県知事くらいにはらくになれる。そうしたら、いくらか持参金つきの妻をもらう。こうすれば生活費の負担は軽くなる。これで欲望に節度をつけるのだ。もっとも模範とすべきえらい人で、妻帯しながら知恵の探究に没頭してきた人だってたくさんいるんだ。 こんなことをいいながら、風むきの変わるたびごとに心があっちへ押しやられこっちへ押しかえされしているあいだに、時は移り、私は主にむきなおることをおくらせ、あなたのうちに生きることを日一日とのばしながら、日ごと自分のうちで死ぬことはつづけていました。私は至福の生を愛しながらも、本来の座にある至福の生を恐れ、さけながらそれをさがしもとめていたのです。" ここは面白かったというか、考えがあっちこっち行くのを読んでるのが好きなので楽しかった。アウグスティヌスというひとはかなりの女好きだったようで苦労したそうな。 で、結局この一巻では回心せずに終ったのである! - 2026年10月11日
読み終わった昔『ルリボシカミキリの青』を読んで面白かったので『動的平衡』も読もう……と思ったまま長年積んでしまった。2009年の本なので内容として古い部分もあるんだけど、「動的平衡」という考えについてはいまも古びることないな〜と思う。 230p " 標識アミノ酸は、ちょうどインクを川に垂らしたように、「流れ」の存在とその速さを目に見えるものにしてくれたのである。つまり、私たちの生命を構成している分子は、プラモデルのような静的なパーツだけではなく、例外なく絶え間ない分解と再構成のダイナミズムの中にあるという画期的な大発見がこの時なされたのだった。 まったく比喩ではなく、生命は行く川のごとく流れのなかにあり、私たちが食べ続けなければならない理由は、この流れを止めないためだったのだ。そして、さらに重要なのは、この分子の流れが、流れながらも全体として秩序を維持するため、相互に関係性を保っているということだった。 個体は、感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思える。しかし、ミクロのレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかないのである。" 232p " ここで私たちは改めて「生命とは何か?」という問いに答えることができる。「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」という回答である。 そして、ここにはもう一つの重要な啓示がある。それは可変的でサスティナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。生命現象とは構造ではなく「効果」なのである。" 「効果なのである!」……私は常々、「私」という確かな何かがあるわけではないんだよなーと思っているんだが、「効果なのである!」と思うとかなり気が楽になる。「私」というものは、たまたまここに発生している「淀み」なのだ。 本を読んだり何か書いたり考えたりしていると頭のなかが言葉で埋め尽くされて、けれど特に何が定着するわけでもなく流れて行くので、私は言葉を垂れ流しにしているだけで実は何も「考えて」はいないのでは……という気もする。 が、これもまさに「言葉の川」みたいなもので、「考え」などというのは、その川に時折ふと発生する「淀み」なのかもな。それは固まることもなく、少しずつ更新されて、変化している。そうだったらいいよね。 - 2026年10月8日
読み終わった8p " 心の底から「生きていたい」と願う人たちすべてに向かって、『斜陽』という作品は書かれている。『斜陽』の中で、太宰治がやろうとしたのは、ひとことで言うなら「革命」だと思う。政治的な「革命」じゃない。人間のもっと深いところからの「革命」を、太宰治は小説の中に書きこもうとした。" 100分de名著セールで買ったので『斜陽』を読み直してから読んだ。私は『桜の園』のロパーヒンってそんなに厭な奴だと思ってないんだよな(ついでに『桜の園』も読み直したけどメチャクチャいいよな) 『あらくれ』と『或る女』を読んだあとだと太宰治的女子は(大丈夫なのか?とは思うが)可愛いよな。(大丈夫なのか?とは思うが)がんばれ……と思う。太宰治の書く女が女の実態に即しているかどうかは謎だが、少なくとも太宰が女を「人形」ではなく、「人間」として、じぶんの内側に引き入れて描こうとしたのは事実だろうな。 - 2026年10月7日
読み終わった100分de名著がセールになってるよー、というのをReadsのタイムラインで知った、ありがとう、知らないひと……! 『創世記』の冒頭では世界の成り立ちについてふたつのパターンが併記されている。この件について「どちらか真実か、という話ではなく、矛盾するふたつの話が並べられているのなら、その事実に意味がある」と書かれていてのっけから衝撃を受けた。た、確かに。 32p " 「聖書に書かれていることはすべて真実だ」といった単純な立場を否定するべきだということが、聖書の冒頭に記されていることになります。「真実」という言葉を使い続けるならば、「真実でないことを真実だとすることは、真実な立場ではない」というメッセージが、聖書の冒頭で示されている、ということになります。" 著者はプロテスタントの研究者らしい。「聖書学」というのを初めて知ったんだが、「こ、こんなこと言ってしまっていいのか?!」と思うようなことがいろいろあってハラハラした。時に「揚げ足取りでは?!」みたいなツッコミもあるのだが、テキストを読むっていうのはこういうことなんだな……と勉強になった。 121p " しかもここでは、「愛」が命令されています。「あなたの神、主を愛しなさい」。「愛しなさい」という命令がなされているのですから、「民」は「神」を愛していないのです。神は民を助けたのに、民は神を愛していない。そうでなくては、このような命令がなされることにはなりません。" 141p " 法律であるとは単純には思えない、法律として遵守しようにもどうすれば良いかきわめて分かりにくい内容で、テキストのジャンルが、普通に考えられるような「法律」というジャンルからかけ離れたものになっています。「法律として守ろうとしても、法律とは考えにくいテキスト」が「法律」とされています。 このようなものがつくられたのは、この「律法」が変更不可能であることを見越して、将来に生じると想定される問題を未然に回避するためだ、と考えられるかもしれません。 エズラは、ペルシア政府の高級官僚です。しかし、ペルシア政府の命令を単純に執行するような者ではなく、法律として機能しないような「律法」をつくって、同胞が変更不可能な掟に縛られてしまうのを避けようとした、と評価したくなるほどです。" 「神」「信仰」「神的存在」と「宗教」というのは切って離せないものだと思っていたが、ここでは「宗教」というのはあくまで人間の行為であって、人間が「神を代行する」ようなことは信仰の行為ではない、というように書かれている。「言われてみればそうなんだが、なんとなく明言しちゃまずい気がしてたなあ」ということが書かれていて面白かった。 あと、結構ゾッとしたのは、ユダヤ教の神は未来の希望をつたえているが、その「未来」はいまも訪れていないってくだりだな。信仰って全然分からんなと思ってるんだけど、本を読むほど「ますます分からん」ってなる。 - 2026年10月5日
- 2026年10月2日
カラマーゾフの兄弟 4ドストエフスキー,江川卓読み終わった再読(締切がヤバくなってこの巻だけ後回しになった)。 64p "「人間には罪を犯すことを愛する瞬間があるんですよ」アリョーシャが物思わしげに言った。 「そうよ、そうよ! わたし、そのことを言いたかったのよ、愛するんだわ、人間はだれでも、いつだって愛するのよ、《瞬間》なんてものじゃないわ。ところが、その点になると、まるでみんながいつか申し合わせて嘘をつくことにして、それ以来ずっと嘘のつきどおしでいるみたい。悪を憎むなんて、みんなが言ってるけど、心の中ではみんな悪を愛してるのよ」 「あなたはいまでも悪い本を読んでいるんですね?」 「読んでいるわ。ママが読んで枕の下へ隠しておくのを、こっそり持って来ちゃうの」 「自分をだめにするようなことをして、よく恥ずかしくないですね」 「わたしは自分をだめにしたいのよ。この町のある男の子は、汽車が上を通るとき、レールの間にうつ伏せになっていたんですってね。幸福な子だわ! だからね、いまあなたのお兄さんが、お父さんを殺したことで裁判にかけられようとしているけど、みんなはお兄さんの父親殺しを愛しているんだわ」 「父親殺しを愛しているですって?」 「愛してるのよ、みんな愛してるのよ! みんな、恐ろしいことだなんて言いながら、心の中じゃ愛してるんだわ。わたしなんか、まっ先に愛しちゃってるもの」 「みんなのことを言ったあなたの言葉には、一分の真理がありますね」アリョーシャは小声で言った。" アリョーシャがリーザを子ども扱いしてるわりに結構本気で結婚しそうだったの、最後まで謎だったな。 あと、ミーチャは女で身を滅ぼした自覚があるんだな……と思って面白かった。 94p "いいか、アリョーシャ、一つざっくばらんに言わせてもらおう。たとえどんなに立派な人間でも、だれか女の尻に敷かれずにはすまないものなんだ。これはおれの信念だよ、いや、信念というより実感だな。男は心を大きくもたなければならないときがあるが、これは男の面汚しにはならない。英雄の面目も、いや、シーザーの面目だって立派に保たれる! ただ、あやまることだけは金輪際するんじゃない。この掟を忘れるなよ。これは、女で身を滅ぼした兄ミーチャのおまえへの訓戒だよ。" 222p " なにしろぼくは、きみも知ってのとおり、いたって情にもろくて、芸術的に感じやすいほうなのでね。しかし常識が──ああ、これこそぼくの天性のもっとも不幸な特性だよ──あのときもぼくに羽目を踏みはずすことをさせなかったんだ、それでぼくはせっかくの一瞬を取り逃がしてしまった! と言うのはだね、ぼくが《ホサナ》を叫んだら、いったいどういうことになるだろうと、あの瞬間に考えてしまったんだよ。この世の一切はたちまち消滅して、なんの事件も起らなくなるだろう。" ↑この悪魔は私の好きなサドの悪魔(「ぼくは罪悪を愛するがね、男爵、ぼくは罪悪を欲するが、ぼくの運命は罪悪を罰することをぼくに強いるのだ」)っぽくてちょっとよかった。 - 2026年9月30日
料理と利他中島岳志,土井善晴読み終わったどういうこと? と思ってタイトル買いしたまま積んでたやつ。「利他プロジェクト」というやつの一環で行われたオンライン対談がもとになった本のようだ。土井先生のことは「一汁一菜のひと」くらいしか知らないんだけど、読んだらべつに毎日一汁一菜でいいみたいなことは言ってなかった。 あまり「美とは」とか「善とは」とか考えたことがなかったんだけど、土井先生のなかでは美と善は結びついたことのようだ。「真善美」というやつ。そして、美、という対象があるというよりは、何かと何かのかかわるところに発生する、何かしらよいもの……を、美という。たぶんそういう話を「人間♡物♡自然♡人間♡人間」と表されていたので二度見した。 45p " すべての美しいものというのは、ひとつだけでは美しく輝かない。他者によって、こういうふうに、人間と物と自然のあいだにある「 ~と ~」の「と」のところに、ハートマークのような大切な美が生まれます。" 西洋の料理は「創作(クリエイション)」だけど、日本の料理はもう少し何か、自然との対話、食べる相手との対話みたいな感じがある……というのも興味深かったな。 「食べる側がクリエイションしろ、醤油なりチーズなりかけるがよろしい(そうは言ってない)」みたいな話、なんとなく観客に精神の成熟を求めるアリストテレスみがあって面白かった。 100p " 中島 先生がおっしゃったように、これが今まであまり注目されてこなかったというのは、料理というのはある種、残りにくいものですよね。食べちゃうものですから。 土井 そう、残らないんです。時間をかけてつくっても、あっという間に食べてしまいます。だからこそ、その料理することに意味があるんですけど、なくなるものをつくることが辛いのです。" 「なくなるものをつくることが辛い」って、なるほどなあって気がした。人間の欲求として「何か残したい」というのがあるってのはよく聞く話で、料理のような、いわゆる日々の労働はその対極なんだよな。SNSにおべんとの写真を載せるとか、日々の食事を記録するみたいなのは、ある意味それに対する抵抗なんだと思うけど、「料理」は「考えること」なのであって、できたもの、おいしいとかおいしくないとかはまあ結果に過ぎないと……そういう話と私は受け取ったが実のところはよく分からん(対談なので話もあまりまとまってない)。 ただ、私が日々、あれこれ読んだり書いたりしていることも、特に何の役にも立たないし何も残らないんだよな……とは思ってて、でもそれもやっぱり料理みたいなものなんだよな、と(実際、私は書くことと料理することはとてもよく似てると思ってたんだけど、考えてみると読むこともそうだな。どちらも「かかわり」なんだと思う)。 - 2026年9月24日
カラマーゾフの兄弟 3ドストエフスキー,江川卓読み終わった再読。 243p " 「あなた方と話しているのは高潔な男なんですよ、高潔このうえない人間なんです、とくに忘れないでいただきたいのは、数えきれないくらい卑劣な行為を重ねてきながら、つねに、あくまでも高潔な人間として通してきた男だということですね、この人間は、内心では、心の底では、つまり、一口で言えば、いや、うまく言えませんが……要するに、一生の間、高潔さを渇望するあまり苦しんできた人間、いわば高潔の受難者で、提灯をともして、ディオゲネスの提灯をともして、ひたすら高潔さを探し求めてきた求道者なんです。ところが、それでいて、実際に一生の間やってきたことといえば、醜悪きわまることばかりでした、つまり、人間だれしもそうであるようにですね……いや、みなさん、だれしもじゃない、そんなのはぼくだけですね、ぼく一人です、言いまちがえましたよ、ぼくだけ、ぼくだけです!……みなさん、ぼくは頭が痛いんです」" ミーチャ、おもしれー男。 ミーチャの章は「カラマーゾフの兄弟」のなかでもいちばんおもしれーくだりだと思うんだけどなぜか抜書きがこれしかない。カーチャもグルーシェンカもおもしれー女である。 - 2026年9月23日
カラマーゾフの兄弟 2ドストエフスキー,江川卓読み終わった再読。 177p " しかしそんな復讐がなんになる、迫害者にとっての地獄が何になる、あの子供たちがすでに虐待を受けてしまった以上、いまさら地獄などもってきたって、事態はひとつも変りやしないんだ。だいいち、地獄があるとしたら、いったい何が調和と言えるんだい。ぼくは赦したい、抱き合うこともしたい、これ以上人間が苦しむのはもうご免なんだ。もしまた真理をあがなうために必要な苦しみの一定量が定まっているとして、その量を補うために子供たちの苦しみが必要だということなら、ぼくはあらかじめ断言しておくよ、一切の真理もそんな代償には値しないとね。要するにぼくは、例の母親に、自分の息子を犬に噛みちぎらせたあの加害者と抱き合ってもらいたくないんだよ。彼女が彼を赦すなんてもってのほかだ! もしそうしたいのなら、自分の分だけ赦すがいい、自分の母親としてのかぎりもない苦悩の分だけ、加害者を赦してやるがいい。しかし八つ裂きにされた子供の苦しみについては、たとえ子供自身が赦すと言っても、彼女には赦す権利がないんだ、加害者を赦すわけにはいかないんだ! だが、もしそうだとしたら、彼らが赦すわけにいかないとしたら、いったいどこに調和があるんだ? いったいこの世界に赦すことのできる人、赦す権利をもった人がいるものだろうか? ぼくは調和なんて欲しくない、人類を愛するからこそ欲しくないんだ。ぼくはむしろあがなわれることなく終った苦しみとともにとどまりたい。あがなわれなかったぼくの苦しみ、癒されなかったぼくの憎しみを、たとえぼくがまちがっていようと、いつまでも抱えていたいんだ。" イワン〜! ワーニャー! メッチャ分かるよ〜! で「大審問官」はやっぱり面白い。 あとゾシマ長老の教えの↓の部分はなるほどね、と思った。 349p " それからもう一つ忘れぬがよい、それは毎日、折を見ては、「主よ、本日御前に召された者たちを憐れみ給え」と心にくり返すことだ。なぜなら、毎時毎分、何千という人々がこの地上での生を捨て、その魂が神の御前に召されて行くが、そのうち実に多くの者は、だれにも知られることなく、孤独のうちに、また、だれひとり彼の死を悼む者もなければ、そもそもそういう人間が生きていたかどうかを知る者さえないことを悲しみ、憂えつつ、この地上に別れを告げるのである。けれど、おそらくは、そのとき、彼の冥福を祈ったおまえの祈りも、地球の反対の側から主のもとへ昇って行くことであろう、たとえおまえは彼を知らず、彼もまたおまえを知ることがないとしても。" - 2026年9月22日
カラマーゾフの兄弟 1ドストエフスキー,江川卓読み終わった連休中に再読。 65p " 長老というのは──人の魂、人の意志を、自分の魂、自分の意志の中に取りこんでしまう存在なのである。いったん長老を選んだなら、人はおのれの意志を捨て、完全な自己放棄とともに、自分の意志を長老へのまったき服従にゆだねることになる。そう発心した者が、このような試練、このように恐ろしい人生行路をすすんでわが身に引き受けるのは、長い試練ののちにおのれに打ち克ち、おのれを統御しえて、ついには全生涯の服従を通じて今度こそ完全な自由、すなわち自分自身からの自由を獲得できる、そして、一生涯をただ漫然と生きたばかりで、結局は自分の中に自分を発見できずに終る人々の運命を免れうる、という希望があればこそである。" 71p " おお、彼はこよなく理解していたのだ。労苦と悲哀に、いや、それにもまして、恒常不変の不正と、自分のみならずこの世のたえざる罪に苦しめられている、ロシアの民衆の忍従の魂にとっては、聖なる物もしくは聖なる人にめぐり合って、その前に身を投げ、ぬかずきたいという欲求と慰め以上に強いものは何もないことを。" ロシア民衆のあいだではこの世界のどこかに真理あるいはそれを知るひとがいる、という信念があったようで、こういう「信じる価値のあるものに巡り会って、それに身を捧げたい」という欲求は理解できそう……と言うか、いわゆる現代の推し活に近いニュアンスを感じた。『虚史のリズム』でも「何かを信じたいけど、何を信じたいのか分からない」というくだりがあって興味深かったのを思い出した。 あと植物性油脂を「精進バター」というくだりを呼んで、マーガリンのことを「精進バター」と呼んだら体にいい感じでは……と思った。 - 2026年9月22日
トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモローガブリエル・ゼヴィン,池田真紀子読み終わった妹に薦められて読んだ。読み終わってから気づいたけど、装丁がゲームっぽくて可愛いね。しかし内容は全然可愛くなくて、帯に「クロノ・トリガーも出てくるよ」て書かれてたからワクワクしてたら、不倫のシーンに一行だけ名前が出てきて私は怒った。 「トゥモロー、アンド、トゥモロー、アンド、トゥモロー……」は『マクベス』の有名な独白で、あしたがつづくことへの絶望みたいな感じだけど、作中では「無限の生まれ変わり」と語られる。これってまさにゲームだろ? って話で、けれども「あした」はいつまでも訪れるわけではない。 いろいろ思うことはあるけど、とにかく銃社会はよくない。それだけは確か。 それにしてもロサンゼルスってコヨーテがふつうに街なかに現れるらしくておどろいた。私のロサンゼルスのイメージって『エイリアン通り』で止まってるから、「古代ロサンゼルス」って感じかもしれない。
読み込み中...