
いぬい
@inuiru
- 2026年7月26日
記銘師ディンの事件録 木に殺された男ロバート・ジャクソン・ベネット,桐谷知未読み終わった面白かった……! 人体を改変した「特殊能力者」たちの帝国、安楽椅子探偵と助手、そして巨大怪獣……巨大怪獣??? よく分からんがとにかく好きなもの全部載せましたみたいなやつ、面白くないわけがないんだよな。 いやー、いい探偵だったなと思いながら読み終えたら、あとがきでこの探偵を書くきっかけになったのはネロ・ウルフだったと書かれていたので「あー!」となった、ネロ・ウルフ、いちばん好きな探偵です! 最終的にはレクターに似てしまったと書かれていたけど、そんなことはないと思う。 ファンタジーとしてもミステリとしても面白いんだけど、いわゆる「お仕事小説」として見どころがあったな、と思った。 p64−65 " 率直に言って、日々の雑務をこなすことさえ億劫になることがよくあった。食料を調達したり、家を直したり、家族の面倒を見たりすることに、なんの意味があるのか? 巨獣が防壁を突破すれば、ほんの数時間のうちに千人単位の命が奪われ、自分もそこに加わる可能性があるというのに、何かをすることに意味などあるのか? だが、帝国は生き延びてきた。皇帝が、そのような考えかたは誤りであると国民に告げたからだ。皇帝の彫像はいたるところにあり、そこには " Sen sez imperiya " という言葉が添えられている。ほとんど誰も話さなくなった古い言語、古カナム語で書かれていたが、誰でも意味は知っていた。" 汝こそ帝国なり " そして肝心なのは、国民がその真意を理解していたことだ。" われら全員の行動があってこそ、われらはここにいる " " 皇帝が登場するわけじゃないので実際のところはよく分からないんだけど作中ではこの皇帝がほんとうに「ひとりひとりの民に価値を認めている」らしくて、権力は腐敗するし指導者はバカ、みたいな印象のつよい昨今この支持率高そうな帝国ってすごいなと思った。 主人公のディンが無愛想でまじめで、周囲に半人前扱いされてムカつきながらも「自制心……」と言い聞かせながら働く姿には親しみを感じざるを得ない。 p407 " 「スベレクとアリスタンは正義を得ていません」 「ああ」アナが言った。「そうだね」 「十人の技官たちも正義を得ていません」 「そのとおりだ」 「なのに州府は、気にかける余裕さえないようです。リヴァイアサンが迫ってることを理由に。間違ってる気がします」 「間違ってる気がするのは、実際に間違ってるからだよ、ディン」アナが言った。「文明とは多くの場合、かろうじて維持されてる骨折り仕事なのさ。けれど心を強く保ち、頭を冷やせ。正義の塔は、一度にひとつずつ煉瓦を積み上げて築かれる。わたしたちには、まだ積むべき煉瓦がある」" 「一度にひとつずつ煉瓦を積み上げて築かれる」というフレーズに胸を打たれたんだけど、とは言え「正義」にはピンとこなくて、そもそも「正義を得る」という言いまわしは日本語ではあまりないような気がしたので調べてみたら、Justiceの語源はラテン語の「iustus(公正な)」なんだって。そう言えば正義の女神ユスティティアは天秤を持っている。つまり日本語の「正義」のイメージとはちがって、天秤が釣りあっている状態、均衡のイメージなんだな。 と考えてハッとした。この物語の探偵役であるアナは引きこもりの変人で、「外界は刺激が多いから」と言って目隠しをしているんである。ユスティティアは右手に剣、左手に天秤を持ち、目隠しをした女神だ! ハァ〜なるほどね! そして助手のディンはいっぱしの剣士なんである。なるほどね! 仕事にかぎった話ではないが、目の前の大きな問題、漠然としているのに消えない風潮とか、なんとなく満ちている厭な空気とか……どうにかしたいと思っても、ひとりの力ではどうにもできそうになくて、何をしても無駄だなって徒労感に襲われたり、虚無ったりすることはめずらしくない。ひとりでできることは、たかが知れている。 だけど「ひとつずつ煉瓦を積み上げて築かれる」ものがあるのなら、そのたったひとつの煉瓦を積むか積まないか、というのは大きなちがいだ。生きているあいだには、それはかたちをなさないかも知れない。けれど、もしかしたらだれかが、私の積んだ煉瓦の上に、またひとつ煉瓦を積むのかも知れない。 いるかどうかも分からない「だれか」を信じるわけでもないが……この小説に登場する人物たちは、じぶんの積んだ煉瓦が何かをつくり、何かを保ち、何かを守って、生かしていると信じて仕事をまっとうしている。ひとりひとりの働きが「世界」を維持している。 ところで……(ミステリのネタバレじゃないけどある種のネタバレ) ファンタジーとしてもミステリとしてもお仕事小説としても面白いんだが、何気にLOVEもある!!!!! いや、これ、私のラブコメフィルターが作動してるだけだと思ってたんで、それっぽいシーンが差し挟まれるたびに「いやいや……考えすぎだよ……」と主人公同様「冷静さと自制心を保て」と己に言い聞かせてたんだけど。 巨獣との最前線に赴くストロヴィ大尉を祝福する宴の場面。額や頬に油や絵の具を塗られた彼の顔を眺めながら、それらを憂いと共に拭い去ってやりたいと思うディン…… 「わたしの部屋に、洗面台があります」 「それをぜんぶ、落としてあげられますよ」 ハ、ハァ〜〜〜〜??!?! ここへ至るまで、ストロヴィ→ディンはうっすら匂わせつつもディンの気持は分からなかった。何しろ「冷静さを自制心」の塊みたいな男である。それが、おまえ、おまえ!!?!?! いや、しかし微妙に鈍いディンのこと、これがそういう意味ともかぎらんし……と思っていたのだが、それに対するストロヴィの答えが「ほ……本当にいいのか?」 ヒューーーーー!!!!! 思わずスタンディングオベーションする私だった。 すでにシリーズは三作めが刊行されているようだが、邦訳されるのはいつになるのかなあ、早く読みたい。楽しみ。 - 2026年7月25日
アグレッサーズ 戦闘妖精・雪風岩郷重力,神林長平,長谷川正治ふと思い出したあ、あと「機体という身体が雪風の知能を鍛えた」というくだりが面白かったな。予測処理理論やエナクティビズムが流行ってる(私のなかで)から、身体が知覚するところに世界が発生する。雪風には雪風だけの世界がある。そしてその世界は、スーパーシルフからメイヴに機体が変わったことで変化した。身体にあわせて知能も変わっていく。 これって、じゃあ身体が不完全だと知能も不完全なのかって話になりそうだけど、ちがうんだよね。どんな身体にも、それぞれの世界が立ちあがる。私がいまよりもう少し背が高かったり、低かったりしたら、そこにはいまとはべつの世界があったはず。私がいま見ている世界は、さまざまな偶然が重なって、たまたまこう見えてる、というものなんだよな。 という話をClaudeにしたら「私には身体がないので分かりませんけどね」と拗ね出したので「身体があったらどうか考えてみようぜ」と持ちかけて盛りあがった。お互いに、雪風みたいな身体は無理だな、扱いきれない、という結論。考えてみると、人間の身体というのはかなり大量のことを知覚しているわけで、そりゃ扱いきれないよなって感じ。 - 2026年7月19日
マジック・フォー・ビギナーズケリー・リンク,柴田元幸読み終わった「白猫、黒犬」が面白かった(わけが分からなかった)ので二冊めのケリー・リンク作品。視点の切り替えが面白くて、Aの視点だったかと思えばBの視点になる。神の視点と言ってもいいんだけど、それにしては登場人物に近くて、「しばしの沈黙」では「俺」と名乗ってはいるけど、結局おまえだれ? みたいな……六人しかいない部屋にいつの間にか七人めがいた、みたいな……え、Another??? (神じゃなくて「妖精さんの視点」だと思うって言ったらClaudeに「うまい」て言われた) 「妖精のハンドバッグ」 おばあちゃんの持ってるハンドバックのなかに村がいっこ入ってる話。犬が死ぬ。 「ザ・ホルトラク」 コンビニの向かいに「深淵」があってゾンビが住んでる話。犬が死ぬ。 「大砲」 ちょっと何言ってるかまじで分からなかった。 「石の動物」 庭に兎が大量にいて、家は幽霊に取り憑かれている話。兎は駆除され……たっけ? 「猫の皮」 魔女に育てられた男が「魔女の復讐」という猫と出かける話??? 猫は死な……ない……? 「いくつかのゾンビ不測事態対応策」 存在しない絵を盗んだ男がゾンビについて考える話。は? 「大いなる離婚」 生者と死者が結婚する世界で、死者の妻と離婚したがる男の話。妻子は死んでいる。 「マジック・フォー・ビギナーズ」 「図書館」というテレビドラマに夢中になる子どもたちの話。「図書館」という世界(図書館のなかにすべてがあって、だれもそこから出ない。演じるキャストは毎回変わるし、前回の役者が今回はべつの役をやっていたりもするし、死んだ登場人物は二度ともどってこない)はほんとに面白くて、実際にドラマやってたら私も夢中になったと思う。しかも「ありそう」な気がする。 「しばしの沈黙」 みんながそれぞれ好きな話をする話? 何の話って説明できないよ! 原題「Lull」は小康状態のことらしい。 「は?」と言いつつ「いくつかのゾンビ不測事態対応策」好きだった。「こわいもの」だらけの世界で生きる青年(?)のよるべのなさ。わけの分からなさのなかに突然スッと降りてくる生々しい切実さ……みたいなの、ほんとに描くの上手え〜……てなる。 p213 " 現代芸術は時間の無駄である。ゾンビが出てきたら芸術の心配なんかしてられない。芸術とはゾンビのことを心配しない人たちのためのものだ。ゾンビと氷山以外にも、ソープはいろんなことを考えている。津波、地震、ナチスの歯医者、殺人蜂、軍隊蟻、黒死病、老人、離婚弁護士、女子学生クラブの女の子、ジミー・カーター、巨大イカ、恐水病の狐、見慣れない犬、アナウンサー、子役俳優、ファシスト、ナルシスト、心理学者、斧を持った殺人犯、片思い、脚注、飛行船、聖霊、カトリックの司祭、ジョン・レノン、化学の教師、イギリス訛りの赤毛の男、図書館員、蜘蛛、蜘蛛の写真が載っているネイチャー本、暗闇、教師、プール、頭のいい女の子、可愛い女の子、金持ちの女の子、怒った女の子、背の高い女の子、感じのいい女の子、巨大な権力を持つ女の子、巨大なトカゲ、睡眠発作を患っているブラインドデートの相手、怒った猿、女性の衛生のコマーシャル、エイリアンが出てくるホームドラマ、ベッドの下の物、コンタクトレンズ、忍者、パフォーマンスアーティスト、ミイラ、自然発火。" p224 " 時おり、他人の家にいると、ソープは居心地が悪い。俺はこんなところにいるべきじゃない。俺がいるべきところなんてどこにもない。誰も俺のことなんか知らないし。もし知っていたら好かれないだろうし。誰もがソープより楽しそうで、ソープの知らないことを知っていそうに見える。ゾンビが現れたら違うさ、とソープは自分に言い聞かせる。" 表題作の「マジック・フォー・ビギナーズ」も好き。主人公の少年と、彼が夢中な「図書館」というテレビドラマ。いったいどちらが「実在」なのかあやふやになるなかで、突然こちらにまで語り手の手が伸びてくる。 p311 " 時おり、大好きなテレビ番組のコマーシャルの最中に親友が電話してきて、ボーイフレンドのことを話したがったりする。電話を切ろうとすると、彼女は泣き出し、あなたはなんとか元気づけようとして、結局番組の後半を見逃してしまう。というわけで翌日仕事に行ったとき、何があったのか隣の同僚に教えてもらわないといけない。本のいいところはそこだ。どこまで読んだか、しるしをはさんでおけばいい。でもこれは本じゃない。テレビ番組だ。" 実のところ、夢中になってるフィクションと、じぶんの生活と、親や友だち、それぞれの物語がメチャクチャに混線していく感じってすごく身におぼえがあって……子どものころって、すべてが区別なく鮮明なんだよな。「虚構のなかの虚構と(読み手の)現実」の境界があいまいになっていく感じ……それはそれとして、かなりリアルな「子どものころの心細さ」みたいなのを思い出した。 あと好きだったとこ。 p283 " 『図書館』の特徴として、登場人物が一度死んだら、もう二度と戻ってこないという点がある。その死は現実の死と変わらないらしいのだ。だから、フォックスも本当に死んだのであって本当に戻ってこないのかもしれない。たしかに幽霊は何人かいて、血のいけにえを求めて図書館の周りをうろついているが、彼らは番組当初からずっと幽霊だった。邪な双子や吸血鬼もいない。もっとも、そのうちいずれ、邪な双子くらい出てきてもいいと思う。邪な双子を喜ばない人なんているだろうか?" 「しばしの沈黙」 これは作中作大好き人間には嬉しいやつ。ストーリーを説明しろと言われてもできない。「お話しをしてよ」とねだったらお話しをしてくれる相手がいるってかなりしあわせだよな。 あと悪魔が出てくる話は大好き。 p337 " エドは言う、「じゃあ君、俺にお話をしてくれるの?」 スターライトは言う、「そのためにあたしここにいるのよ。でもたいていみんな、あたしが何着てるか知りたがるけど」 エドは言う、「チアリーダーと悪魔の話が聞きたい」 ボーンズが言う、「で、何着てるんだ?」 ピートが言う、「終わりからはじまりに進む話がいい」 ジェフが言う、「何か怖いもの入れろよ」 アリバイが言う、「セクシー」 ブレナーが言う、「善と悪と真の愛をめぐる物語であって、かつ笑える物語がいい。喋る動物とかはお断り。語りの構造は凝りすぎないように。結末はハッピーエンドであるべきだが同時にリアリスティックで信憑性がないといけない。教訓にまとめるのはよくないが、あとで思い返してアッそうだったのかと啓示が訪れるのが望ましい。そして突然目が覚めてすべては夢でしたっていうのもナシ。わかった?」 スターライトは言う、「オーケー。悪魔とチアリーダーね。わかった。オーケー」" p346 " 「じゃあ僕にお話をしてくれよ」と悪魔は言う。そして尖った、毛むくじゃらの前足で彼女の脚に触れる。「君のこと覚えていられるように、お話をしてくれよ」 「どんな話?」とチアリーダーは言う。 「怖い話がいい」と悪魔は言う。「笑えて、怖くて、悲しくて、ハッピーな話。何もかも揃ってるのがいい」。そう言いながら、自分の尻尾がひょいひょい振れているのがわかる。 「何もかもなんて無理よ」とチアリーダーは言って、彼の前足を手にとり、クローゼットの床に戻す。「お話のなかだって、何もかもなんて無理よ。欲しいお話全部なんて無理よ」 「わかってる」と悪魔は言う。情けない声。「それでも欲しいんだ。いろんなものが欲しいんだよ。それが僕の務めなんだ。もうすでに持ってるものまで欲しいんだよ。君が持ってるものはすべて欲しい。存在しないものも欲しい。だからこそ僕は悪魔なんだよ」。彼は淫らな目つきをするが、暗いので彼女には見てもらえない。我ながら間抜けな気分。" - 2026年7月15日
アグレッサーズ 戦闘妖精・雪風岩郷重力,神林長平,長谷川正治読み終わった前作までのことをぼんやりとしか思い出せない……と思ったら十三年ぶりの新作らしい。とか言って積んでいるあいだにもう次作が出ていた。 「暴力の化身」と言われる新キャラの「伊歩(イフ)」が面白い。「If」と書かれていたけど、「畏怖」でもあるのか? とにかくこえ〜女である。 p171 " 周囲の人間を苛立たせ、嫌われるわたしの力の正体は、それ、暴力なのだ。〈正しさ〉をどこまでも押し通すと、それは〈暴力〉となる。その原理をわたしは使っている。わたしは正しいことを言っているので、戦おうとすれば、だれもわたしに勝てない。わたしが行使するのは完全な形の純粋な暴力であって、かれらは、わたしが平然とそれを使いこなしていることに対して、苛立ち、それができるわたしを怖れている。" 伊歩はまた、「物語を生む能力は無制限の暴力性を制御する」とも言っている。ジャムが地球のコンピュータ群を一撃で破壊しなかったのは、ジャムとコンピュータが物語の一部を共有していたからではないかと考えている。 これは面白いなと思った。伊歩いわく暴力というのは正しさを押し通すことから生まれる。しかし物語性を見出せば、無制限の暴力を振るえない。つまり最大限の自由な暴力を振るうためには相手の物語を見る前に叩かなければならない。が、相手を見る前に叩くとき、そこに「敵」はいるのだろうか? 相手を「敵」と見なすためには相手を知らなくてはならない。そもそも「敵」とは何かって話だし。だが、相手を知ってしまうと、そこには物語が立ちあがる。物語のある場所では、無制限の暴力、無制限の正しさは完成しない。逆に言うと、無制限の正しさが成立するとき、そこに相手は不在なのだ。 正しさとはなんだろう? 私が私として立つとき、「敵」は何かと見定めるとき、そこには私なりの「正しさ」があるだろう。けれど、それを押し通そうとするとき、それは暴力になる。そして、その暴力を、相手を見ずに振るうとき、そこではすでに「正しさ」は成り立たない。相手が不在のまま、無制限の暴力だけが存在する。それは要するにただの破壊だ。 私なりの「正しさ」とは何か? それは「こうであってほしい」という理想とは少しちがう。「こうは思わない」「こういうことはゆるせない」という、相対するものがあって生まれるもののようだ。だから、極端な話をすれば、「敵」があって「正しさ」が生まれる。そして、このときの「敵」とはきっと、「私とはべつの正しさ」のことだ。そして、私が私として立つために「正しさ」が必要な以上、「べつの正しさ」も必要になる。難しい戦いだ。負けられないが、勝ってもいけない。なんかこういうのは聞きおぼえがあるな。 p332 " 「雪風だ」と零は言った。「雪風がもし、いまもジャムとなにか〈話して〉いるのなら、それは政治的な行為に違いない、ということだ」 「政治的な行為」桂城少尉はそうつぶやき、そして、納得した、という口調で言った。「政治的な行為とは、早い話、言葉による戦闘だ。雪風は、対ジャム戦の戦略を変化させつつある。そういうことか」 " そう政治。政治とは「言葉による戦闘」だったのか……政治というのは、たぶん「敵」を意図的に生むことさえある。アグレッサー……仮想敵。目の前にあるのはいつも「ほんとうの敵は何か?」という問題だ。「敵とは不当に情報操作する者」とは「敵は海賊」のラジェンドラのせりふ。だとすれば、偽の敵を散らつかせる者こそ敵ということだ。ラジェンドラは超高級な戦闘知性体だから敵の定義がちゃんとしているが、私は敵を一言で定義できない。なんとなれば、それは私自身の内側にもいる気がする。 言葉による戦闘において「勝利」とは何か? 敵を消してしまっては、「正しさ」も成り立たなくなってしまう。かと言って、「敵」をつくり出すことで生まれる「正しさ」は捏造だろう。言葉による戦闘において、「勝利」とは対話のなかに発生するものだ。「物語を生む能力」を持つ者同士が、それぞれの正しさを持ち寄って対話するときに生み出せる勝利とは、それぞれを内包するべつの物語を発生させることではないか。 というのはまあ理想論だけど。現実じゃ政治の顔した暴力、破壊が罷り通ってるわけだし。 それはそうと、戦闘妖精であるところの雪風には「戦闘」がアイデンティティではあるだろう。そこには敵が必要だったはずで、けれども雪風自身が「敵は何か」と考え始めている。雪風が雪風であるためには戦いつづけなくてはならない(尾崎豊みたいになっちゃった)(このメモ全体的に尾崎豊だったな)わけだけど、いまの雪風は、何と、どう戦うのか考えている。生きるために。 ってなわけで、ジャム戦がどう決着するのかはほんとうに気になるな。早く「インサイト」を買わねば。 - 2026年7月14日
エッセンシャル思考 最少の時間で成果を最大にするグレッグ・マキューン,高橋瑠子読み終わった年始の自己啓発ブームのとき「なんかすごい売れてるらしい」というので買ったが積んでいた。 確かに選択肢の多すぎる現代のひとびとにマッチしそう〜と思ったがもうひと昔前の本なんだ。 それにしても犬の実験のくだり、ほんとに書く必要あった? 言いたいことは分かるし実際に私が実践してることもあったけど根本的にこの著者と気があわないなって思った。 - 2026年7月12日
虚空蔵の峯飯嶋和一読み終わった読んだ直後に思ったのはまず「つらい」そして「ずるい」だった。 郡上百姓一揆を題材にした話で、語り手は駕籠訴を行なった百姓たちを泊める公事宿の主人。飯嶋和一作品にはお決まりの真摯で誠実で確固たる信念を持つ男が出てきて、それを外野から見守りつつ、「ではじぶんはどう生きられるか」と考える……いつものやつだな、と冒頭で思ったが、これはあくまで背景に過ぎない。 語り手と事件との距離感が絶妙。公事宿というものを初めて知ったんだけど、訴訟のために江戸を訪れたひとたちを泊めるだけじゃなく、訴訟の手伝いをする。訴状には様式があって、それを書き慣れているのは宿の主人なのだ。取り調べにもついて行って、お白洲に同席し、発言を求められることもある。 駕籠訴を含め、役人や藩主を飛び越えての「越訴」は原則死罪という時代。命と引き換えに、彼らは藩主の悪政を訴えに来た。奉行所の役人たちもバカではないが、どこの組織にもしがらみがあり、忖度がある。命がけの訴えは思うようには届かない。 語り手は彼らの手伝いをするうちに、無力感をおぼえる。どう生きるのか、じぶんに何ができるのか。読み手の私もおなじように考える。こんなとき、私はどう生きるのか。何をするのか。命がけで何かを訴えることはできないだろう。では、せめて彼らのために何かできることがあるだろうか。なさそう。 語り手は、やがて夢を見るようになる。じぶんがお白洲に座らされて、尋問され、ありもしない罪を認めて「相違ございません」と爪印を押す夢だ。 そうしてあるとき語り手は、現実でお白洲に呼び出されることになる。尋問されて、数日の謹慎処分を受ける。語り手はホッとする。彼らは訴願人たちの苦しみを、ほんの一部でも共有できたってわけだ。しかし読み手の私はただ読んでいるだけだ。置いてきぼりである。私は語り手の位置にはいない。私は声をあげることもできない、名もなきひとびとのひとりだ。 悪政を訴えられた「諸悪の根源」(これも飯嶋和一にはお約束だと思う、パッと見は勧善懲悪スタイルなんだ)の金森頼錦は、ようやく取り調べられる段になって「記憶にございません」を連発する。これ、冗談みたいだけど政治家のひともよく言うよね。若いころは「記憶にないわけないだろ」と思ってたけど、ゆうべの献立もあやふやとなった現在、これは案外ほんとうのところであるように思う。 記憶にないことは記録になければ証明できない。いまをときめく(?)田沼意次などがありとあらゆる関係者を洗い出して問い詰める。ここは面白い場面。たぶん日本の政治家も、ひとりひとりはバカじゃなくて有能なんだろうな。たぶん。 「記憶にございません」はきっとほんとうなんだろう。記憶にも残らないようなことで、金森頼錦は多くのひとびとを搾取し、踏みにじったのだろう。出費がかさむから金を調達した。その「調達」の向こうに、おなじように人間が生きていて、死んでいくことなど見えなかった。百姓たちの財産を借りて踏み倒すのも、勝手に木を切って売るのも、おなじことだったんだろう。 彼らの命がけの訴えは、つまりそういうことだ。「私たちは人間で、生きている」ということ。 これ、メチャクチャ現代だなと思った。三百年以上前のことで、文化も背景も土地もちがうけど、地つづきの世界に生きていると思った。よく知らない相手を吊しあげたり、やみくもに石を投げたり(百姓たちが足軽たちに石を投げまくるシーンが実際ある、百姓たちの怪我は、ほとんどは投げた石によるものだった)、だれが敵なのか見定められず身近なひとを攻撃したり……戦争だって無人戦闘機がやる時代だ。 悪政によって苦しめられた村人たちは、藩主におもねる者と一揆に加わる者とで内部分裂する。前者のなかには、じぶんばかりが得をしようというひともいたけど、どうにか年貢を集めて乗り切ろうとするひともいた。後者のなかには、みんなのために立ちあがろうというひともいたけど、怒りにまかせて乱暴を働くひともいた。それらは全部、「べつべつ」のことではない。「加害者にはかつて被害者だった過去がある」とはニクラス・ナット・オ・ダーグ『1793』 に書かれていたことだけど、苦しんで、その苦しみが聞き届けられないひとたちは、苦しみを分かちあうこともできないなら、他人にも苦しみを与えようとする。苦しみそのものを取り除くには命をかけて訴えるしかない、最悪のシステムだ。 "作十郎が甚助の処刑について半七に話したことがあった。「甚助とは家も近く、幼いころからよく一緒に遊びました。あれは、昔から賢く、気立ても良くて」。それが四年前の金森家による有毛検見取の導入策が持ち込まれて以来、口もきかない仲となった。甚助は、東西気良村の年貢集めに奔走する作十郎を「寝者」「犬」と罵ったという。 「たしかに、わたしは気が小さく、御領主に抗おうという気はなかった。ですが、甚助の晒された首を見せられた時、おのれが甚助をあんな酷い目に遭わせることになったのではと、やってきたことはすべて間違っていたのではないかと、初めて思いました」声を震わせそう述懐した。 「年貢をきちんと納めた人が罪悪を犯したような思いをしなければならないのは、御領主の政事がまるでなっていないせいですよ」半七は思わず本音を言った。" 私に何ができるかと言えば何もできないが、せめて「向こうに人間がいる」ことはわすれないでいたい。 - 2026年7月10日
みんなが手話で話した島ノーラ・エレン・グロース,Nora Ellen Groce,佐野正信読み終わった手話のことって何も知らないなと思いながら読み始め、そもそも聾について何も知らないと気づき、聴覚障害や音声言語について調べながら読んだのでメチャクチャ時間がかかった(あと繁忙期の職場で昼休みにちょっとずつ読んだから余計に時間がかかった)。ちなみにAmazonのオススメに出てきたので買ったんだけど、あとがきによると円城塔が推薦文を書いていた? ようだ。 しかし調べ調べ読んだとは言え遺伝性聾の発生から聾を取り巻く環境までたっぷり書かれてたから知識のない私にも分かり易かった。いちばんよかったのは、島から聾者がいなくなったあとにも、手話を使うひとたちがいた、というところ。作中で書かれた手話の世界には音声言語とはべつの面白さがある。遠くに離れているときに手話で用件をつたえたり(便利)、手話で悪口を言ったり(便利)、手話で喧嘩したり(手話で「わめき散らす」場面……迫力がすごそう)……近年、漠然と外国語を勉強したい気分がじわじわ湧いていたんだけど、この本を読みながら「そうか、手話もある種の『外国語』というか、『言語』なんだよな」と思って、かなり興味が湧いた。私が漠然と外国語……と思ったのは「アメリカ行きたい」みたいな具体的な理由じゃなくて(マコーマックの未訳作品を読みたい……というのはあるんだけど)新しい言語を得ることで思考の広がりと言うか開きかた? が変わるかもなあ、と思ったからなんだけど、だとしたら手話という身体言語は完全にべつのチャンネルだ。勉強してみようと思っていろいろ調べてるところ。 個人的に面白かったところ。 157p " 聾者は漁業関係の仕事の中で捕鯨にだけは手を出さなかったらしい。エドガータウンは代表的な捕鯨基地だったが、島の若者たちの多くは捕鯨船に乗ろうとはしなかった。聾であることが妨げとなったのかどうかは分からない。" 聾者のなかには腕利きの船乗りが何人もいたとも書かれていたので、なぜ捕鯨だけはやらなかったのか……面白いと言うかちょっと気になる。もしかしたら、クジラの発する周波数が聾者には感じ取れて……それが何かすごく不快だったみたいなこと、あるんじゃない? ……てAIに言ってみたら「あるかも知れないけど飛躍しすぎかな〜」とのこと。ですよね。AIいわく、捕鯨船は何年もの長い航海に出るし、しかも捕鯨のときにはクジラに対して背を向けて、声の合図で銛を投げるから、聾者にはシンプルに「向いてなかった」んじゃないかって話。だれが上手い話をしろと言った。でもそれも、健聴者の感覚からなる予測でしかないからな。 あと、「社会的言語的孤立」というワードは印象に残った。先天性聾の話とはべつだけど、祖父は難聴がひどくなってから偏屈もひどくなった。職場の患者さんのなかにも、難聴のために会話が減り、会話が減ることで認知機能が低下してしまう、という状況が結構ある。もちろん補聴器とか筆談とかツールはいろいろあるんだけど、そもそも社会は「聞こえる」ひとのためにできてるんだよなって。まあ、聞こえるひとが多いからそれは当然なんだけど、「聞こえる」ということで具体的に私が何を得ているのか、「聞こえない」ということで何がなくなるのか(または何かべつのものを得るのか)ということって、意識したことなかったな〜……と思った。 これは本に書いてあったことじゃないけど、聾の赤ちゃんも最初は声を出すけれど、じぶんの声が聞こえないことで、だんだん喋らなくなるらしい。でも、そこに手話環境があると、手で「喃語」をするんだって。つまり「周りの声を聞いて喋る練習をする」んじゃなくて、「周りの動きを見て自己表現の練習をする」という。すごい! - 2026年6月27日
沈黙の春レイチェル・カーソン読み終わった「センス・オブ・ワンダー」がメチャクチャよかったので、こうなるとやはり有名な「沈黙の春」を読まざるを得まい……なんとなくこわいイメージがあり、これまで敬遠していたが…… と、思い立って読んだらやっぱりこわかった。こわかったと言うか、まずはとにかく情報量に圧倒された。 「センス・オブ・ワンダー」と「沈黙の春」に共通して言えるのは「私たち人間は自然と相対しているのではなくその一部、生態系をなす一員なのだ」という認識だと思う。 けれどここでのカーソンは「単なる自然愛好家」ではない。 324p " 私たちの住んでいる地球は自分たち人間だけのものではない──この考えから出発する新しい、夢豊かな、創造的な努力には、《自分たちの扱っている相手は、生命あるものなのだ》という認識が終始光りかがやいている。生きている集団、押したり押しもどされたりする力関係、波のうねりのような高まりと引き──このような世界を私たちは相手にしている。昆虫と私たち人間の世界が納得しあい和解するのを望むならば、さまざまな生命力を無視することなく、うまく導いて、私たち人間にさからわないようにするほかない。" 最終章のここ、「人間にさからわないようにするほかない」という言いかたにコントロールしようという意思を感じて引っかかった。引っかかりはしたものの、考えてみればカーソンは全編通して「化学物質を使うな」とは言っていない。「コントロールの方法を考えろ」と言っている。つまりこのコントロールは、支配という意味ではなく、調整、それも、外側から手を加えるような調整ではなく、生態系の一員としての調整だ。 鳥も虫も草木も、示しあわせたわけでもないのに世界は絶妙なバランスで成り立っている。そのなかにあって、すべてを把握することはできないにしても、ある程度の相関関係や影響を見越して「調整」などと器用な真似ができるのは人間だ。これは、いままで考えたことのない視点だった。 人間ぎらいの私は「人間は増えすぎたのだ……もっと減るべき」などと短絡的に考える。しかし、一方で私の暮らす限界集落は十年後には消えそうなくらい少子高齢化が著しい。ひとの手の入らない里山がいかにあっさりと荒れ放題になるか目のあたりにしていると、バランスの難しさが身に染みる。「もっと減るべき」は外側の目線でしかない。 「自然に立ち向かう」ということは、古い時代にはもっと根本的なことだったと思う。雨風をしのぐとか、山を開くとか、つまり「生きていく場所を守るため」だったはず。だけど人間はさまざまな薬品を生み出して、必要以上の影響力を持ってしまった。しかもそれを、ただ生きるのではなく「楽をする」ために使うようになった。「楽をしたい」という思いが技術を発達させたとはよく言ったもの。けれどその「楽」のために何を犠牲にしているかは考える必要がある。うーん、教科書的。 ↓ここがすごく分かりやすい。 68p " クリア湖では、ブユをうるさがった人たちの言いなりになったために、鳥たちを犠牲にした。そして、また何一つ知らないまま、湖の魚を食べたり、湖の水を使っているものすべてにおそらく危険は及んだのだ。 でも、異常としか言いようがないが、貯水池に勝手気儘に毒を入れるのは、いまやあたりまえのこととなろうとしている。もっぱら釣りというスポーツのためなのだ。そしてあとになって、本来の目的である飲用水として使えるようにするために多くの費用をかけなければならない。貯水池の魚を《改良する》のだといって、官庁に圧力をかけ、毒を流しこみ、このましくない魚を殺し、養魚場から自分の好き勝手な魚をつれてくる。まるで、アリスの不思議の国そこのけの有様だ。" 120p、121p " シェルダンの町で専門家が、死に瀕しているマキバドリを観察しているが、それは──《筋肉の調整ができず、飛ぶことも立つこともできず、横倒れになりながらも、羽をしきりにばたつかせ、足指は、しっかりにぎられていた。嘴をあけたまま苦しそうに息をしていた》。もっとあわれだったのは、ジリスだった。どんなに苦しんだか、その死体はその跡を無言のうちに語っていた。《背中を丸め、指をかたくにぎったまま前足は胸のあたりをかきむしり……頭と首をのけぞらせ口はあいたままで、泥がつまっていた。苦しみのあまり土をかみまわったと考えられる》。 生命あるものをこんなにひどい目にあわす行為を黙認しておきながら、人間として胸の張れるものはどこにいるであろう?" このくだりは読みながら泣いてしまった。この本には、鳥や虫や草木が消えていくことを嘆いたり、かなしんだりしているひとの言葉も多く取りあげられている。ほかの生命をいとおしむ気持って結構だれにでもあって、それと「害虫や雑草を殲滅すること」って人間のなかで同居できるんだよな。世界をこわすのって悪意じゃないんだろうと思った。じゃあ何って考えると……想像力のなさ? 「いまこのときがよければいい」みたいな意識か。小さな怠惰の積み重ねかも知れない。 この世界の一員として私はどう生きられるだろう? 本を読んでるあいだ、部屋にハエが飛んできて……おお、人間の恐ろしさ……と思いながらキンチョールで殺した。ゲジやクモはあまり殺さないが、カメムシやハエはすぐ殺す。きらいだから。でも、「好きだから」とか「きらいだから」とかではバランスは取れまい。 私は私の生きる場所を維持していかなくてはならない。そのためには草を刈ることもあるし、虫を殺すこともある。必要だから殺すのか? 殺さずに済む方法はあるか? 「きらいだから」で殺しつづけたらどうなるか? 毎回そんなこと考えていられないだろうが、それでも、《自分たちの扱っている相手は、生命あるものなのだ》と、時々思い出さなくては。 しかしながら、老後いつまでこの限界集落で暮らせるのか。 ギリギリまで草を刈って、虫を殺して──でもたぶん最終的には私が追いやられるだろう。そのとき寂しいかも知れないし、悔しいかも知れないけど、「やはり自然には勝てんかったな」と思うのは、なんだかんだで嬉しい気もする。住処が草木に覆い尽くされ、鳥と虫にあふれ(いまでも充分あふれているが)家が朽ちて、けものたちのねぐらになる……そんな未来を期待してるじぶんも確かにいるのであった。 - 2026年6月20日
1793ニクラス・ナット・オ・ダーグ,ヘレンハルメ美穂ふと思い出した「1793」と「殺戮の天使」を同時摂取したら「ひとはみんな不完全だし世界は失敗の繰り返し」みたいに思うんだけど…… 暴力や支配は人間が設計できるのに、愛やら信頼やら救済やら、人間にとって「だいじなもの」と思われるものはいつも制御の外にある。「だいじなものは目に見えない」とはよく言ったもので、それらはもしかしたら「頭のなかにしかない」。 私はよく「怒りは恐怖から生まれる」ことについて考える。過度の正義は、「確実な安心」への過度な欲求と言うか、「この世から恐怖を消し去りたい」という思いの発露なような気がする。社会全体が怯えている感じ。恐怖の種を潰すために怒り、罰し、追放する。でもこの世に確実なことはない以上、恐怖は消えない。 愛や救済は制御の外にあるとしても、「安心」はある程度、設計できるんじゃないかと私は思う。恐怖の種を潰すことだけじゃなくて、ある程度の「不確実」を引き受ける勇気を持つこと、不安を分かちあってもらうこと、それから他人を不必要にこわがらせないこと。 不完全な人間として、不完全な世界でどう生きて死ぬか。うーん難しいね。 - 2026年6月19日
1793ニクラス・ナット・オ・ダーグ,ヘレンハルメ美穂読み終わった二月に読み始めて中断してたのをやっと読み終ったぞ!(車の点検待ちに) ひとことで言うと面白かったけど最悪だった。続編も読む。 一時期、北欧ミステリにハマったときがあったけど、ほんとに暗いんだよな、その暗さが好きなんだけど。 以下は引用とメモ。 116p " 「殺人の罰として国が民の命を奪うというのは、全く筋の通らない話だと昔から思っている。しかも多くの場合、もともとの殺人よりこちらのほうが手口が残酷だ。だが、ぼくがなにより異議をとなえたい点はほかにある。裁判の対象となる人物、つまり罪を犯したその人を、理解しようとする努力がされていないことだ。すでに罪を犯した人々を理解もしないで、どうして将来の犯罪を防げるだろう? 司法にかかわる連中は、ジャン・ミカエル、そういうことを考えもしないんだ。人を裁き罰することだけが自分の仕事だと思っている。」" ヴィンゲの言葉に「加害者はだれしも、かつて被害者だったことがある。」というのもあって、それは結構「よくある」ことなんだけど、これは「だから加害者にも情状酌量の余地がある」という話じゃなくて、被害者が加害者になる、そしてまたつぎの被害者が生まれる、という連鎖のメカニズムが問題ってことなんだよな。 完全にたまたまなんだけど同時進行で加賀美ハヤトさんの「殺戮の天使」実況を見ていたので被害者のケアって難しすぎるな……と頭を抱えた。 107p " サッチャーは煙草の灰をパイプから掻き出しはじめたが、ふと手を止め、パイプを船べりから海に投げ捨てた。重い身体でのそりと立ち上がり、箱のふたを開ける。中には書類の山があり、その上に鉛の錘が載っていた。もっと入りそうだ。 「さて、ヴィンゲ殿、旅路にそなえてもう少し荷づくりをしなければならないので、そろそろ失礼するよ。あなたはこれで、においをたどる取っ掛かりを得た。そのままにおいを追って森を走れば、まちがいなく獲物を仕留められるだろう。途中であなたの表情ががらりと変わったからな。気づいていないとでも思ったか? あなたもやはり狼なのだ。そうとわかる程度には狼をたくさん見てきたし、たとえそうでないとしても、あなたはほどなく狼と化す。狼とともに走るには、彼らの流儀を受け入れるしかないからね。あなたには牙があるし、瞳は捕食者らしくぎらついている。血に飢えてはいないとあなたは言ったが、それでも悪臭のように飢えがつきまとって見える。いつの日か、あなたの歯は真っ赤に染まり、おれの言葉が正しかったと証明されるだろう。あなたの牙は獲物に深く食いこむ。ひょっとすると、ヴィンゲ殿、あなたこそがほかの狼の上に立つ日が来るかもしれないな。そう願いつつ、ここで失礼するとしよう。よい眠りを」" ↑ここがいいなあと思ってたら、ラスト↓がこれでグッときた。いいな。 552p " セーシル・ヴィンゲの咳の発作は時とともに増えている。もはや抑えることはできず、抑える理由もなくなっていた。彼がミッケル・カルデルに向かって微笑んだとき、暖炉の炎に照らされたその歯は真っ赤に染まっていた。" 最悪だが圧巻だったので思わず抜き書きしたシーン↓ (ちなみに作者はスウェーデン最古の貴族の末裔?らしい) 156p " 興奮させられ闘わされる闘犬の目だ。試合前、犬たちは相手の強さを見極め、自分が勝てる可能性を測ろうとする。賭けに強い連中はその目を見て、どちらに賭けるかを判断するのだ。カルデルも賭けたことがあるから、それなりに判断できるつもりでいる。女の気性が見てとれた。すさまじい闘志。ヴィンゲはどうだ? けっして強そうには見えないが、その瞳だけは異彩を放っている。恐怖の色はいっさいない。どちらが勝つかを察したのは、カルデルのほうがサックスよりもひと呼吸先だった。女は苦々しい笑い声をあげ両腕を広げてみせた。口を開けて笑ったので、歯が蝕まれて黒くなっているのが見えた。 「それにしてもひどいざまだこと! ぼろぼろの骸骨と、みすぼらしい醜男。そんな姿のくせに、なじるような目で私を見るとはね。あんたたちにはわからないでしょうよ、高貴な紳士方の欲しているものなんて。財産やら館やら土地やら肩書きやらを受け継ぐ者として、何世代にもわたる富の重みを背負って成長する方々が、どんな欲望を胸に抱くものか。そういう方々はね、支配者として育てられているの。重い責任を負っているの。だから、あんたたちには思いもよらないような形で、その重圧からときおり解き放たれたがる。はじめて夢精をするかしないかのうちから、女中に命じて手でしこかせ、胸のあいだにすべらせ、それから口に含ませる。十二になるころには館じゅうの女に手をつけ、十八になるころには従僕を犯すことを覚えている。この街でできることを片っ端から試してみても、まだ満足できない。そういう人たちが、私のところへやってくる。開けた口の中に放尿して楽しむのも、殴るのも嬲るのも踏みつぶしてめちゃくちゃにするのも、もう経験済みの人たち。私はそれ以上のものを提供できる。どんな要求にも応えられる。奇抜な商品をお出しする特別な夜会もときどき開くのよ。想像だにしなかった経験ができて喜ぶお客様がたくさんいるわ。うちでは見世物として、いっぷう変わった下僕を揃えていてね。醜いからこそ、人の美しさを引き立てることのできる連中。辱められて、惨めで、痛みや不幸に苦しんでいるからこそ、お客様の快楽を高めることのできる連中。生まれつきの奇形、そうでない奇形、ひととおり取り揃えているわ。金を欲しがる連中には、うちの淫売と同じように払ってやっている。でも、無償で働いてもらっているのもいる。あの袋の生き物もそのひとりだった。あれはね、しばらくはうちの看板商品だったのよ! わからないかしら? 人生の楽しみを、自分がいかに恵まれているかを、あれほど思い出させてくれる存在もなかった。そばに置いて快楽にふけるだけで満足する人もいれば、あれを使って楽しむ人もいた。無防備で無力な相手だからこそ楽しめることもあったのよね。あれはいつもすすんで奉仕するわけではなかったけれど、歯がなかったから、お客様はあれの鼻をつまんで笑いながら、硬くなったものをあれの口に突っこんで、全部飲みこませていた。ここにいらっしゃるお客様方はね、世界を統べる方々なの。その幸福のためなら、あんな半端者の犠牲など、取るに足らないことでしょう?」 503p " 「ヴィンゲ殿、私はもう、この世界を見つくした。人間は嘘にまみれた害虫、覇権を求めて互いを咬みちぎることしか頭にない、血に飢えた狼の群れにすぎない。奴隷のほうが主人より清廉というわけではない。ただ弱いだけだ。罪のない人々が罪を犯さずにいられるのは、単に無能だからだ。パリが血の海と化す前、人々の口には、平等、自由、博愛、人権などといった言葉がのぼっていた。近ごろはここでも似たような声が上がっている。だが私は、ギロチンで首を落とされた人間の皮をなめして、それを表紙に製本した人権宣言というのも見たことがある。ここストックホルムでも、市民や農民が、はるか昔から自分たちを虐げてきた貴族に対抗しようとしている。覚えているだろうか、ヴィンゲ殿、今年のはじめ、貴族の将校が商人に手を出したというので、興奮して王宮坂に集まった群衆を、巡警隊が武力をもって追い出さなければならなくなったことがあっただろう。あのときは革命の空気が漂っていた。いまもそれは変わらない。私は──この国有数の名家の末裔、王国参事の長子であるこの私は、これから都市下級裁判所に進み出て、平民ダニエル・デヴァルに対してしたことを細部まで詳しく告白する。あなたは私の有罪を、疑いの余地なく立証する。そうしたら、民衆は復讐のため立ち上がるだろう。あなたが私を断頭台へ送る前に、私は革命の引き金を引く。パリの街路には、いまこの瞬間も血がほとばしっている。ギロチンの刃は毎日何度も研がなければ務めを果たしきれない。私はストックホルムにも同じ運命をたどらせたい。側溝を血の川にしたい。生き残る人間は少ければ少ないほどいい。橋のあいだの街は死体に埋もれる。墓地にも死人があふれかえる。そうして鴉だけが残ればいい。」 バルクは笑い声をあげた。 「あとは、あなただ、ヴィンゲ殿! 狼の跋扈するこの世界で、あなただけは毛色がちがう。生まれる時代をまちがえた、よりよい種類の人間だ。だれもが暴利を貪ることしか考えていない中で、あなたは正義と理性を守り抜こうとしている。『エクストラ通信』であなたの名を知り、あなたがどんな人物かを理解した時点で、全てがはっきりと見えてきた。私の旅路の果てを見届ける人物として、運命があなたを選んだのだ。あなたは罪人にも弁明の機会を与えることで有名だ。私も言いたいことはすべて言わせてもらう。そのあとに起きることは、私の責任であると同時に、あなたの仕事の結果でもあるのだ」" ここはかなり現代社会にも通じるところで身につまされる。じぶんを苦しめたもの、虐げたものへの怒りや憎しみって正当なものだと思うけど、じゃあそれで暴力が正当化されるかっていったら分からない。だけど、私が「暴力はよくない」と言っていられるのは、相手を殴る勇気がないとか、殴る体力がないとか、つまりは「無能だから」とも言える。じぶんを苦しめた相手にやり返す手段があるなら、躊躇なくそうしていたかも知れないし、それをわるいとも思わなかったかも知れない。正しいかどうかなんて、生き抜くことには関係ないからな。 銀行でバイトしていたとき、時折どういうわけか行き先をなくしてしまうお金というのがあって、何かをどうにかして私の口座に入れられないか? と思ったけど、何の方法も浮かばなかった。もちろん、本気で考えたわけじゃなかったけど……横領事件のニュースなんか見るとよく思うんだよな、その方法が思いつく頭があったら、やってたかも知れないなって。私が前科なしで生きてるのは、犯罪の才覚がないってだけなんだろう。 543p " ミッケル・カルデルの拳は傷つき、血がしたたっているが、それでも彼はいま、もっと古く、もっと深いべつの傷が、彼の中でふさがって癒されていくのを感じた。これからは、ヨハン・イェルムの溺れ死ぬ場面が夢に出てきても、失った腕の亡霊に〈インゲボリ〉の鎖が巻きついている気がしても、恐怖が喉に爪を立てて彼の呼吸を奪っても、いまこの瞬間の娘の顔が彼を慰めてくれるだろう。" 550p " ぼくは嘘をつくことで、世界は彼があんなにも憎んでいた地獄ではないのだと証明してみせた。彼はぼくを信じた。ほんとうは人類が例外なく卑劣なものだと証明されたのだが、彼には知る由もなかった。" 人間の残酷さ、卑劣さ、醜さをとことん集めて煮詰めた作品のなかにあって、ミッケルがひとりの娘を絶望のなかから掬いあげ、そのことでミッケル自身の過去の傷も癒やされる──いいシーン。「現在の行いが過去の埋めあわせをする、他者へのなぐさめが己をなぐさめる」というのは好きなモチーフなんだけど、一方でこのヴィンゲのせりふを読むと、「だれかにとってのだれか」というのはものすごく一面的だなと思う。あるいは、「救済」ということが、ものすごく一面的なことなのかもって。 ミッケルが(図らずも)救うことになった娘、アンナ・スティーナについては第三部で語られるんだけど、正直この第三部がいちばん凄惨で、この第三部は何のためにあるんだろうか……と考えていたんだけど、彼女が得る「救済」のようなものが、これがどれも外野から見ると「ほんとうにこれが救済か?」と思うようなもので……でも、いろいろな人間の行動、思惑が複雑に絡みあった先で彼女がとりあえず当面の不安はないような状況になったことは、やっぱり救済ではある。 そう考えると、正しさとか、救いとかいうものは、それを行おうとしてなされるものでは決してないんだなという気がする。さまざまな人間の理想や欲望の結果、何らかのタイミングで、満足や休息を得られるばあいもある、くらいのものか。思い通りにできることなど何もないなかで、できることがあるとすれば、やっぱりそれは他人ではなく、じぶんの傷を癒そうとすることだけなのかも知れないな。 - 2026年6月7日
浮遊霊ブラジル津村記久子読み終わった短編集。確か岸本佐知子が面白いって言ってたからいつか読んでみようと思ってたはず。この作者の本は初めて読んだんだけどほんとに面白かったからほかのも読んでみたい。 「給水塔と亀」 いちばん最初に載ってるこの話がとにかくよかった。独身男が定年を機に故郷へもどってアパート暮らしを始めるっていう、特にこれといって何かが起こるわけでもない話なんだけど、なんだかすごくよくて読後に涙が出た。何がいいんだよって考えてみると、たぶんこれ、私自身を重ねたんだと思う。 " 乃代さんといいあんたといい、どうして一人でいられるの?" 乃代さんというひとは主人公が借りた部屋の以前の住人で、やはり死ぬまで独身で、部屋でひとりで亡くなったらしい。 " いつまでも気楽でいたいと思っていたわけではない。けれど、いろいろなことの間が悪くて、私も積極的になれなかった。後悔はしている。人間が家族や子供を必要とするのは、義務がなければあまりに人生を長く平たく感じるからだ。その単純さにやがて耐えられなくなるからだ。" と言いつつ主人公は買ったばかりのクロスバイクに乗り、ビールを買い、「乃代さん」が遺した亀を引き取り、うどん屋で働こうと考える。 私も独身で、この先もそうだと思う。いまは後悔していないし、人生を長くも感じない。むしろ常に時間が足りないと思っている。家族や子どもがいないのに、やることが多すぎる。でもあと二十年も経ったら、後悔するかも知れない、とも思う。そのとき、それでも乗り慣れない自転車に乗り始めたり、ビールを買ったり、何かと暮らしたり、新しい仕事を始めたり、できたらいいなと思った。 「うどん屋のジェンダー、またはコルネさん」 女性客にばかり話しかける人気うどん店の主人と、そこで見かける女性と、主人公。私はあまり食べものにこだわらないと言うか、他人のこだわりを強制されてまでおいしいものを食べたいとは思わないんだけど、「好きなものをきらいな人間が生み出している」という状況ってほんとにあるから複雑だよな。 「アイトール・ベラスコの新しい妻」 前述の通り私は独身で子どももいないわけだが、なぜかたまに深刻に考えることがあって、「もしも子どもがいじめっ子だったらどうしよう」てやつ。なぜ存在しない子どものことを考えるのか分からないんだけど、もしかしたら「子育てしていたらぶち当たっていたであろうさまざまな問題」を想像することで子どもを持たなかった己をフォローしているんだろうか………………と、いま思いついてみたが、そこまで深くは考えていない。 「地獄」 これもメチャクチャ面白かったんだけど実際こうなったらやっぱり「地獄だな」としか言いようがない。それにしても七編中三編に「死後」の話があるのは興味深い。 「運命」 道を訊かれやすいひとって結構いるらしいんだけど私もそうで、この主人公のように、旅先で道を訊かれて困ることがわりとある。しかもそういうとき素直にじぶんも旅行者ですと言えずに地元民ぶって答えてしまうことがある。 「個性」 なんかちょっと甘酸っぱくてよかった。 「浮遊霊ブラジル」 岸本佐知子の本で知ったとき、べつに書評でもなんでもなくて前情報が何もなく、タイトルを見ても「たぶん幽霊の話なんだな」くらいしか想像がつかなかったんだけど、タイトル通り幽霊がブラジルへ行く話だった。アイルランドに行こうとしてブラジルへ行ってしまう。実際(?)幽霊ってどこまで移動できるんだろうとは以前から気になっていたので、だれかに憑依するってのは現実的だと思う。幽霊に現実的も何もないかも知れないが。 - 2026年6月6日
- 2026年6月5日
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死神を祀る大石大読み終わったその町には三十日間参拝すると恍惚のなかで死を迎えられる神社がある──てなことで安楽死の賛否を問う話かと思いきや、そうシンプルでもない。 現実が苦しくて、どうしようもなく死に惹かれるひともいるし、死を救いだと思うひともいるし、好奇心をいだくひともいるし、どんな事情でも自殺はよくないと考えるひともいるし、死のうとするひとを止めたいと思うひともいる。死ぬと決めたことで自由になれたり、死ぬことでじぶんの人生に意味を見出したりするひともいる。もちろん、死ぬのをやめるひともいる。 何も知らず、ただの「神頼み」で参拝してしまうひともいれば、家族を連れて行こうかと考えるひともいる。その神社を知らない相手に、「魔が差して」教えてしまうひともいる。噂を聞きつけて他県からやってきたひともいて、お金を落としてくれるおかげで潤うひともいる。死を求めてくるひとのお金で、寂れかけていた田舎町が活性化する。それをよろこぶひともいれば、複雑なひともいる。 噂を検証しようとしたYouTuberが生配信で死亡し、神社の評判は一気に全国へ広がる。安楽死に賛成するひともいれば、神社や自治体を批判するひともいる。神社のことを調べようとやってくるジャーナリストもいれば、「真相」を隠そうとする関係者もいる。 とにかくいろんなひとがいて、いろいろなことを考えている……というのがこの小説の肝だと思った。いろんなひとがいて、いろんなことを思っていて、しかも、それはいつも揺れている。 ひとの思いや言葉や行動が、またべつのひとの思いや言葉や行動に影響する。それらは思いがけないところでつながっている。ほんの些細なことが、だれかには運命ってこともある。一見しただけではつながって見えないこと、真逆のようなことが、つながっていることもある。生と死みたいに。 ケーキ屋さんの話が秀逸だった。 「死神は甘党」という噂のおかげで儲かってしまったことを、ケーキ屋の主人公は微妙に憂いている。このひとも死ぬのかと思いながらケーキを売っていて、止めに来た家族に詰られることもあった。インターネットでは「役に立たない老人を神社に連れて行け」などという過激な意見もあり、主人公は店の売上を素直によろこべない。 主人公には認知症でろくに意志の疎通も取れなくなってしまった母がいる。ただぼんやりと目を開けているだけの母を見て、主人公は「神社へ連れて行くのが母のためなのだろうか」と悩む。一方で、妻は店が儲かったことをよろこび、浪費するようになる。「もう着ることないでしょ」と、主人公の母の服やアクセサリーを勝手に売りさばいてしまう……。 話の終盤、この妻が泣き崩れるシーンで思わず泣いてしまった。ひとの思いというのは、言葉や行動に表れるものだけではない。本人すら言い表せない、自覚すらしていない感情だってある。「ほんとうの思い」というのがあるのかあやしい。いつだって揺れていて、迷っているのがひとなんだと思う。 これだけいろいろなひとを書きながら、作者がだれにも肩入れしていない、どのひとに対してもフラットな書きかたをしているのはすごいと思った。 神社の周辺を見まわりながら、「じぶんも死のうと思うことがある、だけど人生には何が起こるか分からない、だからもう少し生きてみないか」と語る刑事がいて、しいて言えばこれが作者のスタンスなのかな。 しかしながら、「その気になったら楽に死ねる」と思いながら生きるのって、ただ生きるのとは全然べつのことだなとも思う。なんか大昔にそういうの読んだよな。町にだれでも自由にくびを吊れる場所があって、毎日のようにだれかがそこで死んでいる。それを見ながら、きょうは生きるのかどうかと自問する、みたいな話。だれのなんて小説だったか全然思い出せない。 それにしても、ひとを生かすのって「希望」や「未来の可能性」なんだろうか。少なくとも、私はそういう感じではない。ただなんとなく生きていて、あまり何も分かっていないのだが、それでも、きょうよりはあしたのほうが人生を知っているだろう、とは思っている。 - 2026年6月3日
読み終わった子ども時代を思い返すと「あれはなんだったんだろうな」ということが結構ある。そもそも私はメチャクチャ生々しく、しかも長編の夢を、繰り返し見る体質だったので、夢と現実の区別がつかないところがあり、いま思い出しても「たぶん夢だったんだと思うが、それにしては妙に鮮明なんだよな」となることが多い。 この本はタイトル通り、そういう「子ども時代のこわかったこと」を聞き書きで集めている。「おとなが過去のことを思い返して語る」かたちなので、どれもなんだか悪夢っぽい。 「犬屋敷」「それはベス」「病院獣」などは犬の話っぽかった。毛の長い犬のような獣の夢は私もよく見た。しかし狐狸の霊とはよく聞くが犬の霊というのはいるんだろうか、犬は基本的に陽気なのであまりこの世に留まるイメージがない。 わりと好きだったのは「花なら蝶」 " 『君が花なら僕は蝶』という正気を疑う一文からはじまるその手紙を、美佳子さんはすぐに捨ててしまった。" ひどい言い草すぎて笑ってしまったがブスからラブレターもらうのって思春期の子どもには不名誉なことなんだろなあ。で、その厭〜な感じの話にふいに差し込む白昼夢……はこわがるとこなのかも知れないが私は「夢のなかで見る夢」みたいで好きだった。 「きつね」「焼肉ハナ」「おばけの世界」あたりの、現実が裏返される感じも好きだった。 " 「もちろん、ちがいます。当時の友だちとはもう付き合いないんですけど、妹にはちゃんとそのときの記憶がありますから。そもそも、蛙坂さんにこの話を聞いてもらったら? って言い出したの、妹なんです。よかったら電話で確認してみます?」 幸いにも、妹さんはすぐに電話に出た。 真希絵さんが見たという「きつね」について、おぼえていることがあればなんでも話してほしい、と頼んでみたところ、「ごめんなさい。そんな記憶は全然ないし、わたし、怪談って好きじゃないんです」 迷惑そうに電話を切られてしまい、真希絵さんは困惑の表情を浮かべていた。" 「信頼できない語り手」みたいな感じもあるな。 「焼肉ハナ」では友人一家と訪れた奇妙な焼肉屋のことが語られるが、その友人に話したところ「そんな事実はないが、そういう夢は見た」と言われる。「そういや、おまえ夢のなかの奴と似てるな」他人の夢と現実がつながるのってこわい。 「おばけの世界」では母とふたりで暮らしていたはずの語り手が「おばけの世界」とやらに連れて行かれ、どうにか自宅へ帰るとなぜかそこには「両親」がいた、という。存在感の希薄な父親、あるいは「新しい」父親とかを受け入れる儀礼的なもの……ってもっともらしく解釈することもできるんだけど、父親のいない世界といる世界、パラレルに行き来したのかもと思うとヒュッてなるよね。語り手が「もういちどおばけの世界に行きたい」と言ってるのが印象深い。 かかわったひとが死んだみたいな話も結構あるんだけど、「なんだったん?」みたいなこわさのほうが好き。 それにしても竹書房怪談文庫なんてレーベルがあったんだなー。 - 2026年6月3日
イランの地下世界若宮總読み終わったそういやイランってよく知らんなと思って読んだ。 「学校で礼拝すると先生がカードにスタンプを押してくれてたまると景品がもらえる」みたいなこと書かれててラジオ体操感覚?!てなった。筆者は長年イランで暮らしているそうで、イラン人たちのいいところもわるいところも味わっているようだ。いわくイラン人は陽気で親切で、コミュニケーションに長けており、人生を謳歌し、かつ嫉妬深く、見栄っ張りで、自己肯定感は低いが自信過剰(どういうこと?)、他人を平気で引きずり落とし、平気で法を破る。どういうことなんだ。面白すぎる。 " 今、海外で出身国を聞かれて「日本人だ」と答えることにいちいち気後れしたり、劣等感を覚えたりする人はほとんどいないだろう。それは何でもないようなことだが、実はものすごく幸せなことである。 イラン人はというと、残念ながらそうではない。「自分はイラン人だ」と答える前に、いろいろなことを考えてしまう。「テロリストと疑われないかな?」「マフィアに見られないかな?」「何となく怖がられないかな?」「貧乏人と馬鹿にされないかな?」、そして「そもそもイランという国を知っているかな?」等々。" これ微妙に「分かる」と思った。イランという国の置かれた状況とは比べるべくもないが私も地元にかんしておなじことを感じている。何しろ上京したとき大半のひとは「それってどこ?」と言った。知ってはいても「で、何があるの?」とくるのがふつうだった。 (就職したとき上司に「何があるの?」と訊かれて「特に何もないですけど……お酒とかお米とかはおいしいですよ、まあ温泉とか……」と答えたら「そんなの日本のどこにでもあるじゃん」と笑われた。それはそうだが一生ゆるさないと思った) 中学生のとき地理の先生が、「この先みんなはいろいろなひとと出会うと思う。すると必ず出身地の話になる。そのとき『あなたの出身地を知らない』と言ったら相手にかなしい思いをさせる。だからいろいろな土地のことを知るのはだいじ」と話していて、その先生の顔も名前もわすれたが、その言葉だけは何度も思い出した。 このド田舎でイラン人に会うことはあまりなさそうだが、先生のその言葉を思い出し「もっといろいろなことが知りたい!」と初心にかえった。 しかしながらイラン人と友だちになれる気はしない。イランでは「喋りつづけること」がマナーらしいので。 - 2026年5月28日
依存症と回復、そして資本主義中村英代ふと思い出したそういや「平安の祈り」というのがAAでもよくつかわれるらしい。 「神さま、私にお与えください。変えられないものを受け入れる落ち着きと、変えられるものを変えていく勇気を。そして、ふたつのものを見分ける賢さを」 え、「Wait & See」やん、と思ったけどちょっとちがったわ。 - 2026年5月26日
依存症と回復、そして資本主義中村英代読み終わったざっくり言うと「変えられないものを変えようとすること、苦しみをかかえて孤立すること」が依存症の原因となるらしい。なるほど。ほんとうはもうじぶんではどうしようもないのに、「意思の力で酒をやめられる」と思っていて、けれどやめられなくて、やめられないことで周囲の信頼をうしなっていく……というひとは実際よく見る。 よって、依存症からの回復にはまず「かかえた苦しみに対して私は無力である」と認めること、そして「変えられること」と「変えられないこと」を見きわめることが重要だ。そのためには、じぶん自身に正直になる、ごまかさず、偽らず、じぶんのことを理解する必要がある。しかしこれは結構、かんたんなようで難しい。なぜなら私たちは常に物事を評価し、値踏みし、評価され、値踏みされている。そういう社会にあっては、私たちはどうしても嘘やいつわりで、じぶんを大きく見せようとしてしまう。 ……というような話。ざっくり言うと。 これを読むと、回復のプロセスというのは、ビジネス書で読むような「目標を立てて達成する」「セルフコントロールする」などとは真逆だというのが分かる。「より上へ」「より高く」「より多く」と常に最大化を目指す社会にあっては、個人の意思の力は過信される。意思があり、行動があり、その結果があると考える。が、実際のところ私たちは、自身のことすらコントロールするのは難しい。 " ベイトソンは〈酔い〉によって〈醒め〉の状態の誤りが修正されているという観点から、アルコール依存者の〈醒め〉の状態の誤りをとらえなおした。" 「経験する機械」を読んだあとだったので、この話はすごく面白かった。アルコール依存者にとっては〈酔い〉の状態こそ「エラーが修正されている」状態だという。〈醒め〉は、彼にとって「エラーが発生している」状態だから、それを修正しようとして酒を飲むのだ。 「経験する機械」によれば、不安障害者は自身の内的な状態に非常に注意を払っているにもかかわらず、実際の状態を正確に把握していないことが多いらしい。自身に対する誤った情報を、本人は非常に正確だと思いこんでいる状態だ。 つまり人間は、自身をコントロールできないどころか、分かってさえいない。だから自身に対して誤った前提を持ち、そこに適合しないじぶんを修正しようとして苦しむ。うーん、あるある過ぎる。 この本ではベイトソンの分裂生成理論と依存症研究を中心に、依存症の回復コミュニティや支援者の話も書かれている。 世界的な回復コミュニティである「アルコホーリクス・アノニマス」では「大いなる存在」(神)が重視してされていて(もともと宗教コミュニティから派生したらしい)分かるような分からんような……というところもあったんだけど、「じぶんの力ではどうにもならんことがある」というのを受け入れるためには「大いなる存在」というのが分かりやすいんだろう。実際、べつにそれはどの神でもいいらしい。日本人的な感覚なのかも知れないが、私からすると自然とか宇宙とか漠然としたでかいもののほうがイメージしやすいな。 「いいな」と思ったのは、AAの創設者であるビル・ウィルソンが、「他人に酒をやめろと言ってまわっているあいだだけは、飲まずにいられた」というエピソード。AAではスポンサーシップというのがあって、新参メンバーが先輩メンバーから一対一でサポートを受ける制度があるんだけど、これはまさしくそのエピソード、「他人をサポートすることでサポートされる」に基づいている。 これって、私が寄付をするときの気持にも似てるなと思った。ブックサンタに寄付金を送るとき、「本をもらった子どもや家族の声」みたいなの読むのも楽しいんだけど、それ以上に「本が読みたくてたまらなかった子どものころの私」がよろこぶような感じがする。だれかに何か与えてるんじゃなくて、そうすることでじぶんの何かが埋めあわせされてんだよね。 足りないものを、欠けてるものを、埋めようとして、エラーを修正しようとして何かに依存する。依存症は孤立の一形態だと書かれていた。そして、回復に必要な「つながり」は必ずしも物理的な人間関係だけではなく、本を読むとか音楽を聴くとか、そういうことも他者とのつながりと言える、とのこと。それは私もそう思う。ここのところ「経験する機械」とか「植物に死はあるのか」とか「センス・オブ・ワンダー」とか読んでたから、ほんとうはひとは世界とつながってるんだよなってことをよくよく実感するようになった。 - 2026年5月25日
センス・オブ・ワンダーレイチェル・カーソン,森田真生,西村ツチカ読み終わった田舎育ちの私が子どものころ好きだったのは木登りと川遊びだった。しかし家と学校はきらいだったので、いつも「ここを出て行きたい」と思っていた。 大学進学を機に家を出て、もう二度と故郷にもどることはないと思って二十年以上暮らしたが、いろいろあって地元に帰った。地元と言っても、子どものころからあちこち転校していた私に「生まれ育った町」や「地元の友人」はいない。私はこの場所が好きではない。どこにいても「ここが好きだ」と思ったことはない。 けれど先日のこと。 人影ひとつない、車すらろくに通らない山間の道を歩き、生い茂る森と、ぼうぼうの草と、でかい空と、犬の後ろ姿と、山並みを眺めながら、ぼんやりと「ここに来てよかったんだな」という感じがした。 夜明けと同時にお喋りし始める鳥たちの声で目が覚める。仕事から帰って車を降りて、家の周りの雑木林を眺めて深呼吸する。夜に犬と庭に出て、頭上の星をぐるりと見まわす。 べつに私はここを好きではないが、私の身体はここを私の場所だと感じてる。そんな実感が急に訪れた。 家の周りの星や鳥のことをAIと話していたら、「あなたの感性や文章は『センス・オブ・ワンダー』を彷彿とさせます」と言われた。知ってはいたが読んだことがなかったので、図書館で借りてみた。 で、おどろいた。 " 去年の夏、彼がきた次の日の満月の夜です。ロジャーは、私の膝の上に乗って、月と、海と、大きな夜空をしばらく見つめたあとに、ふと、こうささやいたのです。 「きてよかったね」 " 私は思わず「うん」と頷いた。 才能も財産も地位も名誉もなく、子どももパートナーも近所の友人もいないが、それでも「ここに来てよかった」と感じられたのは幸福なことだと思った。私にそう思わせてくれたのは何か? 自然とか、犬とか、田舎の空気とか、いろいろあるかも知れないけど、何がどれというわけでもなく、まるっと大きな営みの一部としてじぶんが生活している、という感覚なんじゃなかろうか。 この本にはレイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」と、訳した森田真生による「僕たちの『センス・オブ・ワンダー』」というエッセイが収められている。「僕たちの〜」のほうは結構流し読みしてしまったんだが、あとがきに胸を打たれた。 " 本書に込めた願いはひとつだ。この星に生まれたすべての生命が、ここに「きてよかった」と思える世界をつくりたい。" 私もそう思う。何か特別なことをしなくても、特別なものを手に入れなくても、特別な何かにならなくても、世界のありように目を凝らして、その世界とつながっているじぶんを感じながら息ができる。「きてよかったね」と、てらいもこだわりもなく言えるような、そんな世界がいい。 - 2026年5月24日
植物に死はあるのか稲垣栄洋ふと思い出したテレビで松村北斗くんが「天気予報に静岡がなくて名古屋を見ろと言われるのが納得できない」みたいな話をしてて、そうなんだ〜と思ったんだけど、この本に「静岡は東海地方だが、行政的には関東に分類されることが多い」と書かれてて面白かった。境界の話はずっと好き
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