ばるーん
@ballo____on
2025年3月29日

読み終わった
こういう小説を読んでしまうと、今この瞬間に流れる記憶もとてつもなく貴重なもののように思われて(それは多かれ少なかれ失われてしまうから)惜しい。
柴崎さんの小説は、(よく言われているけど)読んでいて物語とはなんの関係もない個人的なことを思い出してしまう。(良いものも悪いものもなんでもないもの)何故かそうなっている。
テーマとかそういうものの影響はもちろんあるけど、それとは別の何か(例えば生活や心情、ふとした風景の詳細)がおそらく働いていて、稀有な読書を体験できる。後から小説を振り返ると、自分(読者)の記憶の方をつい思い出してしまっていたりする。つまりいい小説。
そういう、誰かと話していてふと思い出す生活の断片や言語で規定されないまま抱え続けた違和感の集積それこそがこの小説かもしれなく、だとすると、読者がこの小説を読んで思い出した取るに足らない記憶は小説になり得るのではないか。(読者の側で小説が生まれているのではないか)
あと伝聞についても色々考えたし、とりわけ小坂圭太郎という人物の物事への認識も思い出す記憶も心当たりがありすぎてちょっと困った。別人物視点から見たときの他者への態度(適当さ冷たさ、誤魔化し方)など。
コロナ禍を経験して、世界中の当事者のうちの一人になってより一層、これまで起きた数多の深刻な出来事、それらのどれもに運良く当事者でなかっただけの自分を振り返った。
いつからか、気がつけば、それらの出来事があらゆる人にとって、どんな重たさがあり得るのか(それは時に想像するしかない)そして自分のそれとの落差に悩んでいて、加えて非当事者であるが故に簡単に忘れてしまう(しまえる)ことへの負い目がある。
テレビの向こうで何も起こってないみたいに、自分の生活を続けられる(続けられてしまう)容易さがどうしようもない。自分の狡さが怖い。狡い自分を誤魔化せない。終わるまでせめて目を逸らさない。次が始まってしまうまでの一時の平和を出来る限り、何も惜しまずに長引かせること。
