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ばるーん
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@ballo____on
  • 2025年11月25日
    アカシアの朝
    アカシアの朝
    近すぎず遠すぎない語りの距離感を最後まで維持して、収集した膨大な情報を丁寧に配置しており終始引き込まれた。(終盤、砲兵工廠が出てきてびっくりした)何かしらの賞を取ってもっとひろく読まれてほしい。(織田作之助賞の辺り…)
  • 2025年11月22日
    ほんのこども
    ほんのこども
    元気が出て最後まで読めてしまった!初めて読んでしまってからずっと、(この本に限らず)私は何も読めていない気さえする。しばらくは休憩。また読む。
  • 2025年11月21日
    さよなら快傑黒頭巾
    小林はまだ出てこない
  • 2025年11月21日
    ほんのこども
    ほんのこども
    あべくんの文体を奪っていたことも忘れて物語してしまう小説家の私と同級生で親が殺し殺され自分も恋人も殺すあべくん。 スランプ中の私はあべくんの書いた散文を頼りにかれの人生を書き、それに反射する「私」を探そうとする。 養護施設から暴力団へと場を移していくあべくんの熱中したナチス関連の本を私も読んでいき、物語(のための「私」)ができないあべくんの異質な風景描写(のための)宛先がそれらの本に書かれた風景にあるのではないかと当てをつけて、5章では、ゾンダーコマンドとして同胞を殺しやがて自分も殺される運命にある名前のない「かれ」の認識(のなさや錯綜)を書いていく。私とあべくんの二者の「かれ」「私」の交換に、もう一人が入り込んでき交換は渦巻いてく。その外部には常に「われわれ」がいるような感じ。 この辺りの(私の殺し/殺され)死の書き方は証言本や映画などフィクションの否応ない影響を、労働の詳細と記憶や認識の切断(続かなさ)が押し返して拮抗し、やっと成り立っているような綱渡り。それゆえスケッチを見られた時の、いわゆるエンターテイメントの(映画などでBGMが一瞬消えるような)切迫感がまったく引かれている。が、「記憶が身体を肯定してようやく昨日がある。」このような箇所に異常なほど(小説としての)リアリティを感じる。 小説全体で、とりわけこの章で、フィクションマイナスという町屋良平が明かしてくれた(われわれが明かさせた)方法論を少なからずわかると、デビュー作『青が破れる』それ以降の読み方もしぜん変わるし、(私自身『青が破れる』の何がすごいのか全然わからなかった。ずっとズラされ続けてる、みたいな小さい感想しかなく…)それこそ批評の営為なんだろうけど、もう自分でやるしかない…という問題意識をそのまま小説に落とし込んだのが『ほんのこども』なんだろうか。 「フィクション化された経験を発見するその手つきだけが私だよなあ」という認識が、(実際の町屋良平への適用が許されるならば)デビューからずっとあったのか、今現在から振り返って再言語化したものなのかな。 「恥」と「ズラし」については思うのは、恥でズラすのか、ズラしてしまうのが恥なのか、前者から後者への移行(あるいは行き来の連続?)が気になってきた。
  • 2025年11月18日
    近代小説の表現機構
  • 2025年11月18日
    ほんのこども
    ほんのこども
    否応なく世界に繋がってしまう言葉を紡いで、なんとか個に引き戻そうとするみたいな、名詞や動詞の組み合わせ、文法規則の生っぽさ。本来の意味で使うよりも、言葉の輪郭が滲んでふわふわしている。
  • 2025年11月16日
    さよなら快傑黒頭巾
    赤頭巾よりずっと気軽に読めていい。気軽に読めない作品ばかりが好きで、それはかえって生活には反するからまずいし、好きだから読めるわけじゃない。
  • 2025年11月16日
    アカシアの朝
    アカシアの朝
    傑作の予感。奇しくもアイドル小説を併読しているかたちになってる。
  • 2025年11月16日
    ほんのこども
    ほんのこども
    再読してたら、「発光」のくだりがあって今の今まで忘れていた。父親が車で動物を轢きそうになって、後ろのタイヤ跡が月光を帯びるのを見るのとかも、こんなこと書いてたんだ!って今回かえって印象に残った。
  • 2025年11月13日
    クイック・ジャパン vol.173
    クイック・ジャパン vol.173
    町屋良平「発光する、ら」第二回「個性恐怖症」は、冒頭にタイトルの「発光」につながる言葉がでてくる。公式のファンダムネームに取って代わるファンの名称の由来が、家庭の欠損とかなのは、町屋さん特有のずらされてる感じ。協調性のなさとかも、反健やかさ。 現実にあるはずなのに表には出さない、出せないから、ファンであってもなくても、まるで「ない」みたいに見られる。これはアイドルに限らず。じゃあこういう(誰もに共通して移り変わりする、ある種の欠損が取り沙汰される、反健やかな)小説(フィクション)が何をしているかって、やっぱり現実を虚構が担保してるってことなんだろうか。実際がどうあれ、人間の多面性が示されれば演者はやりやすかったりするんだろうか? 一部嫌がるファンはいんのかな。小説=著者みたいなかったるい伝統みたいなのって、アイドルの楽曲にはあんのかな。 全然関係ないけど、 アリキルは薄幸というよりなんか…… ひてくれてるっていうよりなんか…… 我が強いっていうよりなんか…… 空気が読めないっていうよりなんか…… の箇所は、webnokusoyaroさんの「どうせ盗まれるからチャリ買わない」の歌詞を思い出した。 本を得て チャリはない 人類が払う 知識の代償 人類?というか俺が 知識?というか漫画 工業哀歌バレーボーイズ 4冊買っただけなのに!?   小説の筋的には、主にシンイチが特権的に語られる回。美容、食事制限、我の強いシンイチがキルトと揉めたり、アリスには自分の「個性」が避けられているという認識が語られたり、レンの声が出なくなってみんなで揉める。 揉めてる最中に、アリスが「延命」という言葉を使う。めっちゃ町屋的だ。しかも地の文の。 前回もそうだけど、歌のタイトルが意味深。 今回だと、小川哲さんとの対談での、自分から他者、他者から自分、他者から他者へ暴力の質の変換を連想したり、アイドル繋がりで行くと、観る身体、演じる身体、裏方、みたいな三つのレイヤーのようにも思えた。 シンイチの認識が語られるところ 人間性や内面のよさこそが天から与えられた才能だ。アイドルはそれを体現するみたいにキラキラして不特定多数にモテる。たくさんの愛を受け取って、輝いて元気になれる体。その体で愛をお返しする。だが愛されることに慣れていない、安心できない人間にはそれが難しい。  それでも唯一音楽が鳴っている時間だけは安心できる、平等な自己表現の場だって、音楽に救われたからこそシンイチは盲信していた。  本当はわかっていた。キルトは人一倍個人練習しているから太らない。シンイチは個性にかまけて肝心の技術がついていかない。それでもキルトよりは歌もダンスも実力は大分上なのだが。  だがボーカリストとしてだけではなく、明確に自分は避けられていた。正しくは、自分の「個性」が。  アリスの没個性的な声質と音域の広さは楽曲の骨格を支えている。とりわけ、シンイチのパートに透明感の強いファルセットを合わせるときに安定感と華が両立した。 町屋作品の登場人物の自己分析的な造形が好きだ。 資本主義や国家の解体された七十年後では「家族」は現在ほど大きな役割を果たさず、AI技術や福祉の助成によって十代までの両親の有無が子どもの愛着形成に与える影響はかなり小さくなっている。ほんらいアイドル性に大きくかかわるはずの愛着形成が、しかし双子に限ってはそれほど大きく関係している印象はなく、 冒頭近くのこの部分に、この小説の根幹がある気がした。アイドル性と愛着形成…いろんなものに置き換え可能に読めて、これまでの作品にも通づるし、SFである意義も見えてくる。切断された時間の感じが。めっちゃ面白い回だしもっと書けるとも思うけど、(もう連載が終わった)連載小説一回一回に感想する意味が書いててわからなくなる。全部読んでからの方がよっぽど誠実だろな〜という感じ。
  • 2025年11月10日
    クイック・ジャパン vol.172
    単行本になるらしいけど、せっかく最新回まで本があるので、町屋良平さんの『発光する、ら』の連載をゆっくり追うことにした。生活の方が忙しく参ってしまって、(長い)小説を読めない時期なので(『ほんのこども』の再々再々読も4章で止まってしまってる。ほんとうにすごい小説)ゆるくやっていこうと思う。 https://qjweb.jp/series/hakkou/ こちらから読めるみたいです。 第一回「タイムスリップ」は、弱小ボーイズグループ「8koBrights(エコーブライツ)」のサブリーダーサトシに、タイムスリップ(免許制)の現場を目撃された双子のキルトとアリスが、サトシへの説得を試みる。会話の中で、70年後の未来と現在のタイムラグを埋めるように社会制度やその背景(の仄めかし)、他にもテクノロジーが登場する。 面白いのは、アイドル×SFと銘打ってる(著者本人の意向かはわからないけど、『坂下あたる〜』は本になる時にちゃんと「エンタメ」として発表していた。)ことで、町屋さんのSFとの向き合い方が気になる。ご本人はあまりSFを(文学よりも、という意味で)読んできていないらしく、そのなかではヴォネガットが好きだと思っていたが、SF好きからすればそれは文学らしく、みたいなお話があった気がする。 私はアイドルに関してはほとんど無知で、KPOPで言えばSEVENTEENの代表曲いくつかとメンバーの顔と名前がぎり一致というぐらいだけど、第1回を読んだ限りでは、SF(過去-現在-未来の接続/断絶)を絡めた言葉と身体の物語になりそうな予感。赤子との交流を通して視点人物が、世界(言葉)と出会い直しそれを共同で作り出していく傑作「愛が嫌い」など、町屋さんがずっと取り組んできたテーマの一つがアイドル(町屋さんもどこかのグループが好きだと言っていた)と組み合わさってどうなるか楽しみ。 掲載媒体のこともあって会話のトーンも地の文も読みやすく整理されている。でもその軽さの中には、タイムスリップの時差を絶賛身体が学習中という感もあった。 あと、未来のテクノロジーがなんか制度的にゆるいのが不思議で面白い。でも未来では、概念はあるがかなりニュアンスが変わってしまった「信頼」(そのノスタルジーを試したかった、の箇所はめちゃくちゃ町屋良平っぽくて好き)や、スキンシップがタブーであったり、はては「個性」が人に認められることはありえない世界なので、結構重たい。(けど、これはめっちゃわれわれの生きる現在と地続きだ。個人情報を全開示しながらも世界に接続できわれわれは信頼を得て、物を売り買いしているし…) 「個性」が人に認められない時間・空間からやってきたキルトとアリスは結構個性的だ。認められないだけで確かにあるのが未来での「個性」なんだろうか? それともタイムスリップ間の学習で賄えた人格・性格? これからいろんな言葉(死んだものも、生きているが意味合いが変わってしまったものも)を見つけていく物語を予感しているし、あわよくば裏切って欲しい。 この辺は性格のない主人公を描いた村田沙耶香の大長編『世界99』のトレースにも似たような感を覚える。「性格」のない人間の一人称の認識を(度重なるトレースの結果生まれた性格とはいえども)あまりうまくは読めずにいたから、また読みたい。(傑作なことには変わりないと思うし、これはネガティブな意見ではなくて、何か言えるのではないか? ということです。性格ってなに? それがないってなに? 性格がない=無? そうじゃないとしたらなに? みたいなことを) 1回目でこんなに書くと、それ以降が続かない気もして怖い。 以下引用 うまく人に頼れない、甘えることができないメンバーが集まって結成されたグループ「8koBrights」通称「エコブラ」においてもキルトが比較的おおらかで、愛嬌のあるキャラとして認知されていることへの嫉妬もあったかもしれない。未来において「個性」が人に認められることはありえず、じっさいに過去に来るまでアリキルのふたりは自分たちの「性格」がどのようなものかすらよく分かっていなかった。結果アリスが「クールなボスキャラ」でキルトが「奔放な努力家」としてファンに認知されると、お互いがお互いのキャラを羨ましがって、ときどき身体情報を入れ換えて数日それを楽しむなど、ギリギリ遵法だが悪趣味ではある未来人行為を楽しんだりもしていた。 町屋良平の小説で度々出てくる、この辺りの交換を待ち望んでる気がする。ラケットを打ったり、テキストを読んだり、踊ったり演技したり、暴力でそれらを交換(小説⇄何か)してきたけど、アイドル×SFではそうなるのか。 タイムスリップ可能社会においては、かえってオールヒューマンメイドの『昭和時代』のテキストの方が、重きを置かれている。これに連なる、テクノロジーにアシストされた身体と本人のポテンシャルのみの身体が不可分という箇所も、現代のAIの使用/不使用の生成物に接続してしまう。しぜん競技もわけられ、プロとアマも明確に区別されていく、アイドル本人たちも「マナー」でアシストなしでパフォーマンスするというのも、なんだか未来が底知れない。続きが楽しみです。 読んでて思ったけど、文学でタイムスリップって読むのも書くのも難しいんじゃないか。タイムスリップを使わずにタイムスリップするのが文学っぽくはある。使うなら使うで何か策を講じないとなのかな。勉強不足の戯言ですが… 他のいろんなSNSに感想を投稿するのも怖くて、ブログとかを始めようにもあまり気力がないので、(気力がないのにこの長文は何?)せっかくだからここに書いているが、このプラットフォームは現段階で、感想が長文には向いていないのが好きだ。(向いていないが故に書きやすいみたいなところがある)
  • 2025年11月7日
    愛について僕たちが知らないすべてのこと
    楽しみすぎる!
  • 2025年11月7日
  • 2025年11月6日
    紅い花(1)
    紅い花(1)
    映画あまりにも楽しみ
  • 2025年11月5日
    アカシアの朝
    アカシアの朝
  • 2025年11月2日
    赤頭巾ちゃん気をつけて
    小林は今後も出てくんのかな。
  • 2025年10月25日
    クララとお日さま
    クララとお日さま
    いろんな読み筋があっておもしろかった。 ジョジーを近未来(あるいは現代)の文学(小説)、つまり小説全体を文学(人間性?)の回復として読めた。(ジョジーを世話するクララの構図が、これからの文学の主題としてテクノロジーを取り入れて更新せざるを得ないのか?という意味での回復?) あと、ひどく不気味な話。怖かった。 初のイシグロということもあって、こんなに物語してるんだ、となった。
  • 2025年10月22日
    赤頭巾ちゃん気をつけて
    初めて読んだときの衝撃からかなり時間が経ったけど、恥ずかしいぐらい多大に影響されてる。これを機に4部作最後まで読もうと思う。
  • 2025年10月21日
    シー
    シー
    「サンダー」に衝撃。 詩の言葉にちょっと近づけた、その回路が前作よりもひらかれていたような気がする。
  • 2025年10月16日
    クリスマス・イヴの聖徳太子
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