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@nininice
2026年7月23日

旅の半空
森本哲郎
読み終わった
京まではまだ半空や雲の雪 芭蕉
松尾芭蕉の一句から題を借用したというこの一冊、著者の日本国内の旅の随筆集。これまで彼のサハラ砂漠をはじめ海外旅行記は既に何冊か読んでいたので、日本をどのようにして旅をするのか、読むのが楽しみだたった。
冒頭には、夏目漱石「京に着ける夕」からの引用文。
汽車は流星の疾きに、二百里の春を貫いて、行くわれを七条のプラットフォームの上に振り落す。
わたしもこの文章が大好きだ。春になるたびに思い出している。彼の引用する文章や詩歌を見るだけでも、趣味が合うなあと、一方的に親しみを覚えてしまう。芭蕉、蕪村、兼好法師、漱石、夢二、西行、長明、田能村竹田、瀧廉太郎、などの面影を求めて、日本各地へ旅へ出る。
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「ぼくは、花木のなかで、梅がいちばん好きだ」
なんということだ。わたしも花木のなかで、梅、特に白梅がいちばん好きだ。梅の和歌を集めながら、一年の殆どを梅の花咲く二月を夢見て過ごしている。こころの庭に一本の白梅の木を植えて、それを支えに日々暮らしている。「日野の山里」は彼が盆梅展を見物しに長浜へと赴く旅の記だ。そこで樹齢四百年や二百五十年などの梅の盆栽を眺めながら、著者は小学生の教科書に載っていたという謡曲『鉢木』を思い出す。
雪の夕暮れ、旅の僧に暖をとらせるために、あばら屋の主人は秘蔵していた梅、松、桜の「鉢の木」を薪にしもてなす。この僧が実は最明寺入道時頼で、のちにこのもてなしに報いるため、彼に梅田、桜井、松井田の領地を授けたという物語。勿論最後には定家の「雪の夕暮」の歌を引く。
更に、盆栽や盆梅とは、人境にありながら、身近に隠れる天地を持ちたいという夢が生みだしたものだ。日本の世捨人は、世を捨てたのではなく、ほどほどの距離を置いて現世と何らかの形でかかわりあいつつ、自分の小世界に生きたのだ。その「間」こそが、日本人の精神的安住地なのである、と言う。わたしもまさしく、この「小世界」に身を置きたいと願う。
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静なる黄昏の底に立ちて、耳傾くれば、蛙声独り閣々、また䗹々。是れ実に「夕」の声なり。「蒼々茫々の夕」
今日の語感からすれば、いかにも古めかしい、美文調に思えるかもしれない。しかし、こうした文体に代わって味読に値するどのような文章が、新たにつくり出されたのだろうか。言葉は美しさを無用なものとし、ただコミュニケーションの手段になり終ったような気がしてならない。(p.69)