
いぬい
@inuiru
2026年7月15日
アグレッサーズ 戦闘妖精・雪風
岩郷重力,
神林長平,
長谷川正治
読み終わった
前作までのことをぼんやりとしか思い出せない……と思ったら十三年ぶりの新作らしい。とか言って積んでいるあいだにもう次作が出ていた。
「暴力の化身」と言われる新キャラの「伊歩(イフ)」が面白い。「If」と書かれていたけど、「畏怖」でもあるのか? とにかくこえ〜女である。
p171
" 周囲の人間を苛立たせ、嫌われるわたしの力の正体は、それ、暴力なのだ。〈正しさ〉をどこまでも押し通すと、それは〈暴力〉となる。その原理をわたしは使っている。わたしは正しいことを言っているので、戦おうとすれば、だれもわたしに勝てない。わたしが行使するのは完全な形の純粋な暴力であって、かれらは、わたしが平然とそれを使いこなしていることに対して、苛立ち、それができるわたしを怖れている。"
伊歩はまた、「物語を生む能力は無制限の暴力性を制御する」とも言っている。ジャムが地球のコンピュータ群を一撃で破壊しなかったのは、ジャムとコンピュータが物語の一部を共有していたからではないかと考えている。
これは面白いなと思った。伊歩いわく暴力というのは正しさを押し通すことから生まれる。しかし物語性を見出せば、無制限の暴力を振るえない。つまり最大限の自由な暴力を振るうためには相手の物語を見る前に叩かなければならない。が、相手を見る前に叩くとき、そこに「敵」はいるのだろうか?
相手を「敵」と見なすためには相手を知らなくてはならない。そもそも「敵」とは何かって話だし。だが、相手を知ってしまうと、そこには物語が立ちあがる。物語のある場所では、無制限の暴力、無制限の正しさは完成しない。逆に言うと、無制限の正しさが成立するとき、そこに相手は不在なのだ。
正しさとはなんだろう?
私が私として立つとき、「敵」は何かと見定めるとき、そこには私なりの「正しさ」があるだろう。けれど、それを押し通そうとするとき、それは暴力になる。そして、その暴力を、相手を見ずに振るうとき、そこではすでに「正しさ」は成り立たない。相手が不在のまま、無制限の暴力だけが存在する。それは要するにただの破壊だ。
私なりの「正しさ」とは何か?
それは「こうであってほしい」という理想とは少しちがう。「こうは思わない」「こういうことはゆるせない」という、相対するものがあって生まれるもののようだ。だから、極端な話をすれば、「敵」があって「正しさ」が生まれる。そして、このときの「敵」とはきっと、「私とはべつの正しさ」のことだ。そして、私が私として立つために「正しさ」が必要な以上、「べつの正しさ」も必要になる。難しい戦いだ。負けられないが、勝ってもいけない。なんかこういうのは聞きおぼえがあるな。
p332
" 「雪風だ」と零は言った。「雪風がもし、いまもジャムとなにか〈話して〉いるのなら、それは政治的な行為に違いない、ということだ」
「政治的な行為」桂城少尉はそうつぶやき、そして、納得した、という口調で言った。「政治的な行為とは、早い話、言葉による戦闘だ。雪風は、対ジャム戦の戦略を変化させつつある。そういうことか」 "
そう政治。政治とは「言葉による戦闘」だったのか……政治というのは、たぶん「敵」を意図的に生むことさえある。アグレッサー……仮想敵。目の前にあるのはいつも「ほんとうの敵は何か?」という問題だ。「敵とは不当に情報操作する者」とは「敵は海賊」のラジェンドラのせりふ。だとすれば、偽の敵を散らつかせる者こそ敵ということだ。ラジェンドラは超高級な戦闘知性体だから敵の定義がちゃんとしているが、私は敵を一言で定義できない。なんとなれば、それは私自身の内側にもいる気がする。
言葉による戦闘において「勝利」とは何か?
敵を消してしまっては、「正しさ」も成り立たなくなってしまう。かと言って、「敵」をつくり出すことで生まれる「正しさ」は捏造だろう。言葉による戦闘において、「勝利」とは対話のなかに発生するものだ。「物語を生む能力」を持つ者同士が、それぞれの正しさを持ち寄って対話するときに生み出せる勝利とは、それぞれを内包するべつの物語を発生させることではないか。
というのはまあ理想論だけど。現実じゃ政治の顔した暴力、破壊が罷り通ってるわけだし。
それはそうと、戦闘妖精であるところの雪風には「戦闘」がアイデンティティではあるだろう。そこには敵が必要だったはずで、けれども雪風自身が「敵は何か」と考え始めている。雪風が雪風であるためには戦いつづけなくてはならない(尾崎豊みたいになっちゃった)(このメモ全体的に尾崎豊だったな)わけだけど、いまの雪風は、何と、どう戦うのか考えている。生きるために。
ってなわけで、ジャム戦がどう決着するのかはほんとうに気になるな。早く「インサイト」を買わねば。