ずんぴー "夜と霧" 2026年7月30日

夜と霧
夜と霧
ヴィクトル・エミール・フランクル,
ヴィクトール・E・フランクル,
池田香代子
この本は広い意味での私の進路選択に常に大きな影響を与える本で、これまでに少なくとも3回は読んだと思う。座右の書はなにか聞かれた際はこの本と答えることにしている。そうすると、「思ったより定番なものを選ぶんですね」と失礼なことを言われたことがあるが、それでもこれからもこの本と答えるだろう。第二次世界大戦中のユダヤ人迫害を記録する本として、アンネの日記とこの本が代表される。 私はアンネの日記を、ほとんど青春文学のようなものとして捉えていて、3割くらいが彼女の叔母に対する愚痴で、7割くらいが彼女自身の恋愛の話だと思った。迫害の記録というよりは当時のユダヤ人の子供にも普通の思春期があったことを示すものだと思っている。今回は夜と霧を読んだ感想が回数を重ねる毎にどのように変化したかを書いた。 一読目  アウシュビッツ収容所内での出来事を劣悪で極限の環境下で、周囲の人間と自身の状況を冷静に分析していて、すごいと思った。  私にしてはかなり素直に読んでいて、一読目らしい感想だと自分でも感じる。 二読目  フランクルは謙虚に見えて無自覚にかなり傲慢な人なのかもしれないと思った。自身が収容所内での特権階級であるカポーに取り入るために、精神医学の話題で彼を惹きつけ、カポーの隣を陣取れた時、自分のせいで後ろに追いやられることになった人については一切言及がない。また、彼の妻は「もう一度彼に会うために生き延びたい」と願ったはずだが、ヴァイオリニストである彼女に、カポーに取り入る手段があったとは思えない。彼が「自身が生きる意味を理解し、その義務を果たすために生きようとした。だから生き延びたのだ。」という結論を書く時、果たして彼は彼女の顔を思い浮かべることはあったのだろうか、と思った。 つまり、 ・生存を自身の内面的態度に結びつけ過ぎ ・自身が生き残れた「偶然」や「特権」を十分考慮できていないのではないか と感じた。  自分がその場所を得たということは誰かが得られなかった可能性がある(収容所内では特に資源が限られていたため)。生きる意味を持った人は生き延びやすかったという趣旨のことを書いているが、妻の、「生きて彼にもう一度会いたい」と願う気持ちは十分に強かったはずで、そういう意味では「生きる意味を持った人」側だったはずだ。だが、それだけでは栄養状態、衛生環境、労働配置を覆すことは出来ない。フランクル自身は医師であったため、衛生の知識、身体の状態を管理する知識、精神状態を客観視するための知識を持っていたはずで、前述の三つのものを覆すとまではいかなくても改善させるくらいのことはできたはずだ。一方でその全てを持っていなかった彼女が、ヴァイオリンも奪われた状況でどのようにカポーに取り入ったり、自身の状況を分析することができただろうか。  ただ、これらは彼の結論を否定したいわけではなく、「生きる意味を持ちながらも亡くなった人々」について彼がどのように考えていたのか知りたいという気持ちが強い。  私がよくやってしまう癖である、良く言えば批判的な解釈、悪く言えば斜に構えて読む、ということをしている。最近、私のユーモアが否定されることが多いが、私のユーモアが嫌いな人々が特に嫌がりそうな文である。 三読目  二読目では彼の性格を「無自覚に傲慢」と受け取ったが、自身の体験を内面的に分析し、一般化しようとするあまり、自身の状況が特殊だったのかもしれないという可能性をあまり考慮していないのではないかと感じた。自分を他の収容者達と同じ「普通の収容者」として捉えているが、実際はそうではなかったのではないか。だから、この本から彼が傲慢かそうでないかを捉えるのは難しい。フランクルは自身の経験をどこまで一般化してよいものと捉えていたかが推測されるのみだろう。  二読目で否定していた部分を多少肯定的に捉えようと試みている。四読目をした時はまた感想が変わるかもしれない。
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