
ジクロロ
@jirowcrew
2026年8月8日
ブルーメンベルク・コレクション
ハンス・ブルーメンベルク,
三重野清顕,
下田和宣,
二宮望,
田村豪,
近藤史隆
読んでる
力を獲得し行使することの可能性は技術と結びつくことで格段に強まった、というのは確実である。力の絶対的尺度について考えるなら、「神の全能(Omnipotentia Dei)」というかつての神学的概念が念頭に浮かぶ。しかしながらそれには神の知恵と善性という概念が不可分かつ内的必然性に従って割り当てられている。人間が力の絶対的尺度になろうとするのであれば、全能といってもそこには知恵と善性がただ偶然で緩い仕方でのみ結びつくにすぎない。
(『核道徳』 p.23)
大きな力(エネルギー)。
神はその力を「創造」に注ぐ。その力は神の知恵と善性に応じた大きさであるからこそ、制御可能であるということ。
人間は技術により、大きな力を得る。「所有物」であるが故、それは容易に開発者以外の手に渡る。力はその親和性に基づき、最終的には政治と合流する。
人間に授けられた能力と、それにより知的欲望のままに育まれてしまった制御不能な力と。
技術の終末は、それが生み出した力そのものによる暴走により訪れる。
ついこの間、たまたまNHKで放送していた映画『AKIRA』を通しで見ていた。
金田は自身の手による技術により作り上げたバイクを自在に乗りこなす。鉄雄の終末における暴走は、金田のバイクへの憧れ(自分にないものへの欲望)と、そのバイクの盗難に端を欲していることに気づく。大きな力は、そんな鉄雄に植え付けられる。
「大きな力 俺等に必要ない」
(『Wisdome』 SEEDA)
しかし技術者、権力者のうち、それを欲望する者はあらわれる。これもまた神の創造するところの「自由」の証。
「魔法使いの弟子」になるならば、その魔法の威力と魔法の行使の後に訪れるであろう世界を、しっかりと想像できねばならない。
『核道徳』の「核」とは、文字通りの意味ではなくて隠喩である。
私の「核」にないものは、基本的に制御不能であるということ。
しかし、同じ人間が生み出してしまった制御不能な力とは、付き合っていくしかない。
道徳のはじまりは、この「付き合っていくしかない」なのかもしれない。
「自由」の証であるランダムな創造物、その向き合い方、「付き合っていくしかない」の温度感は自分にもわからない。
迷うことがまた倫理のはじまりであるのかもしれない。
であるとするならば、「核」の分裂が生み出すものは、あながち悪ばかりではないのかもしれない。


