
ナナミ
@nanami373
2026年8月12日

華氏451度〔新訳版〕
レイ・ブラッドベリ
読み終わった
ドパガキなんて表現が蔑称どころか自虐風自己表現みたいにインターネット空間にちらばっている昨今ですが、懸念なんてアメリカでも日本でも50年代でも令和でもかわらんなーと思った。絶え間なく刺激的な情報を注がれた人間は考える能力を喪失する。疑問を持ったり思案を深めたりすることができなくなる。それこそが生きるということなのに。人間、いつの時代も自分が昨日より馬鹿になることを恐れているし、他人が昨日より馬鹿になることに警句をはっしている。
あとがきに、作者のレイ・ブラッドベリはとっくにテレビの時代になっているのに最後までずっとラジオが人々の生活に情報を氾濫させることを懸念していた的なことが書かれていたけど、そういう、なんというかちょっと、今を生きるわれわれとしては生ぬるい温度感のノスタルジーと、文学的な表現の鋭利な美しさが不思議に融合していた。すごかった。そして容赦ない。古びない。慧眼。
平和がいちばんなんだ、モンターグ。国民には記憶力コンテストでもあてがっておけばいい。ポップスの歌詞だの、州都の名前だの、アイオワの去年のトウモロコシの収穫量だのをどれだけ憶えているか、競わせておけばいいんだ。不燃性のデータをめいっぱい詰めこんでやれ、もう満腹だと感じるまで"事実"をぎっしり詰めこんでやれ。ただし国民が、自分はなんと輝かしい情報処理能力を持っていることか、と感じるような事実を詰めこむんだ。そうしておけば、みんな自分の頭で考えているような気になる。
いや、ほんとに容赦がない。そしてほんとに古びないな。聖書や古典名作の引用箇所が霞むくらい、文章(訳文?)がクール。文字を追ってるだけで目が楽しい、暗唱したくなるリズム感。プロフィールにSF界きっての抒情詩人とか書かれてたの納得だわ。抒情という言葉がイメージさせるベタつきとは無縁なのに、精緻でエキセントリックでメタリックな芸術みたいだ。蜘蛛の形状の鋼の猟犬とか、自由落下中の人間が金色のポールに抱きついて墜落死を免れる理屈とか、全然イメージできないのに、表現がカッコよすぎてなんか納得してる。
スチームパンクというか、レトロ近未来?的な世界観のディストピアなんだけど、鉄の猟犬でも謎のガスでも謎の重力装置でもなく、どこまでも原始暴力的な「火」が最強カードになってるのおもろいなと思った。絶え間なく情報を流し込むことで全人類をドーパミンの奴隷ガキにするという社会の方向性の象徴づけるのが、この世界では「焚書」なんだけど、比喩とかじゃなくて、文字通り焚する。書を。焚する。アナログの解決策。アナログの暴力。冒頭がまた暗唱したいくらいカッコいい。
火を燃やすのは愉しかった。
ものが火に食われ、黒ずんで、別のなにかに変わってゆくのを見るのは格別の快感だった。
〜モンターグは歯を見せて笑った。火炎にあおられ、あとじさる男たちが、ひとしなみに浮かべる凶暴な笑い。
人が本能的に抱くのが暴力への忌避感なのではなくて、暴力に快感を感じることへの忌避感なのであれば、大義を得た暴力はそりゃ気持ち良かろう。
火はいいなあ。なぜだと思う? 年なんか関係なく、誰もが惹きつけられるのはなんでだ? それはな、火が永久運動だからだ。
一度火をつけたら、一生燃え続ける。火とはなんぞや? 謎だ。
その真の美は、責任や因果関係を破壊してしまうところにある。問題が重くなりすぎたら、炉にぶちこめばいい。なあ、モンターグ、お前はお荷物なんだよ。火はおれの肩からお前をおろしてくれるんだ。素早く、確実に、きれいさっぱりとな。あとで腐るようなものは残らない。黴菌をよせつけず、美しく、実用的だ。
そんな権力の暴力=火への対抗策もまたアナログ。お前がママになるんだよ。ならぬ、お前が本になるんだよ。知的生命体としての人間の本質欲求って、もしかしたら「考えたい」より「覚えておきたい」なのかもなーと思った。それが素晴らしいことなら、私が思いつかなくったってもちろん当たり前に素晴らしいことだから。
かならず、という保証を求めてはいかん。ひとつのもの、ひとりの人間、ひとつの機械、ひとつの図書館に救われることを期待してはならんのだ。ささやかでも、救いに向けて自分のできることをしなさい。そうすれば、たとえ溺れようとも、少なくとも岸に向かっていると自覚して死んでいける。
役者解説の「精神の自由と、個人の尊厳と、その証拠としての活字文化」って総括に納得感があった。つまり、どんなにありきたりな言葉しか残せなくったって、どんなにありきたりな読書体験しかしなくたって、活字文化は私たちが生きていたってことの保証なのかもな。覚えておける/覚えておいてもらえるって、活字文化を花開かせた社会の仕組み自体が。
人は死ぬとき、なにかを残していかねばならない、と祖父はいっていた。子どもでも、本でも、絵でも、家でも、自作の塀でも、手づくりの靴でもいい。草花を植えた庭でもいい。なにか、死んだときに魂の行き場になるような、なんらかのかたちで手をかけたものを残すのだ。そうすれば、誰かがお前が植えた樹や花を見れば、お前はそこにいることになる。なにをしてもいい、と祖父はいっていたな。お前が手を触れる前の姿とはちがうものに、お前が手を放したあともお前らしさが残っているものに変えることができれば、なにをしてもいいと。
261ページ。いつか必要になった誰か(私かもしれない)の救いになる文章だと思うからメモしておく。


