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ナナミ
ナナミ
@nanami373
  • 2026年8月19日
    Brand Shift(ブランド・シフト)
    虚構が現実より本物らしく見えるAIの時代、「意味」や「価値」、つまりストーリーだけでつくるブランドは通用しない。言葉より行動、演出よりも一貫性が求められている。選び続けられるためには、信頼による差別化が必要って示唆は、とってもシンプルなのに目から鱗だった。何を言うかより、誰が、どんなことをしてきた人がそれを言うかが重要ってのは、人間関係においてはまったくもってその通りだから、それを消費者とブランドの関係に当てはめても同じように腹落ちするんだな。翻って、それが今話題になってるってことは、私たちが当たり前に持っている社会への信頼が損なわれたってことでもあるのかもしれない。世の会社というものに、宣伝というものに、うっすら抱いていた信頼が毀損されたから、私たちはお上手なストーリーに安易に心動かされるいとけなさを失い、で、これ言ってるの誰?を確認し始めたのかもしれない。袈裟のレビューをするのでまず坊主の履歴書をください。 重要なのはどう信頼を可視化するか。ブランド構築とはすなわち「信頼を設計すること」にほかならない。真に選ばれるブランドとは、「誰のために、何を約束し、それをどのように一貫して体現するか」によって信頼を築き、その信頼によって差別化される存在である。信頼とは、不確実性の中で、それでも相手に委ねるという“意志ある行為”を指す。そこには必ずリスクが伴う。だからこそ信頼とは、相手に対する自分の選択の問題でもある。示唆的。 本筋とは(あまり)関係ないけど、ブランドの成り立ちを人類のストーリーを伝えるという技術の獲得に絡めて解説した章の「間主観的現実(intersubjective reality)」って概念が面白かった。 客観的現実は、自然、建物、物など、誰が見ても変わらないもの。主観的現実は、愛、痛み、思考といった、個人の内面にだけ存在するもの。そこに加わった第三の間主観的現実とは、法律、国家、企業、通貨など、複数の人間が共同で信じることによって成り立つ現実。 なるほどなー 脳の構造と言語能力の発達によって、サピエンスは「架空のストーリーを創造し、語る力」、そして「それに心を動かされる力」を獲得した。つまり、言葉とそれをつなげて生まれるストーリーによって、人は考えを持ち、感情を共有し、見知らぬ他者とも同じ概念や価値観を分かち合うことができるようになったのだ。 同じストーリーを信じることで、離れた場所にいても協力し、共に行動できる。それこそが人間という存在だけが持つ特異な能力である。1つのストーリーは何十億人もの人々に共有されることができる。
  • 2026年8月12日
    華氏451度〔新訳版〕
    華氏451度〔新訳版〕
    ドパガキなんて表現が蔑称どころか自虐風自己表現みたいにインターネット空間にちらばっている昨今ですが、懸念なんてアメリカでも日本でも50年代でも令和でもかわらんなーと思った。絶え間なく刺激的な情報を注がれた人間は考える能力を喪失する。疑問を持ったり思案を深めたりすることができなくなる。それこそが生きるということなのに。人間、いつの時代も自分が昨日より馬鹿になることを恐れているし、他人が昨日より馬鹿になることに警句をはっしている。 あとがきに、作者のレイ・ブラッドベリはとっくにテレビの時代になっているのに最後までずっとラジオが人々の生活に情報を氾濫させることを懸念していた的なことが書かれていたけど、そういう、なんというかちょっと、今を生きるわれわれとしては生ぬるい温度感のノスタルジーと、文学的な表現の鋭利な美しさが不思議に融合していた。すごかった。そして容赦ない。古びない。慧眼。 平和がいちばんなんだ、モンターグ。国民には記憶力コンテストでもあてがっておけばいい。ポップスの歌詞だの、州都の名前だの、アイオワの去年のトウモロコシの収穫量だのをどれだけ憶えているか、競わせておけばいいんだ。不燃性のデータをめいっぱい詰めこんでやれ、もう満腹だと感じるまで"事実"をぎっしり詰めこんでやれ。ただし国民が、自分はなんと輝かしい情報処理能力を持っていることか、と感じるような事実を詰めこむんだ。そうしておけば、みんな自分の頭で考えているような気になる。 いや、ほんとに容赦がない。そしてほんとに古びないな。聖書や古典名作の引用箇所が霞むくらい、文章(訳文?)がクール。文字を追ってるだけで目が楽しい、暗唱したくなるリズム感。プロフィールにSF界きっての抒情詩人とか書かれてたの納得だわ。抒情という言葉がイメージさせるベタつきとは無縁なのに、精緻でエキセントリックでメタリックな芸術みたいだ。蜘蛛の形状の鋼の猟犬とか、自由落下中の人間が金色のポールに抱きついて墜落死を免れる理屈とか、全然イメージできないのに、表現がカッコよすぎてなんか納得してる。 スチームパンクというか、レトロ近未来?的な世界観のディストピアなんだけど、鉄の猟犬でも謎のガスでも謎の重力装置でもなく、どこまでも原始暴力的な「火」が最強カードになってるのおもろいなと思った。絶え間なく情報を流し込むことで全人類をドーパミンの奴隷ガキにするという社会の方向性の象徴づけるのが、この世界では「焚書」なんだけど、比喩とかじゃなくて、文字通り焚する。書を。焚する。アナログの解決策。アナログの暴力。冒頭がまた暗唱したいくらいカッコいい。 火を燃やすのは愉しかった。 ものが火に食われ、黒ずんで、別のなにかに変わってゆくのを見るのは格別の快感だった。 〜モンターグは歯を見せて笑った。火炎にあおられ、あとじさる男たちが、ひとしなみに浮かべる凶暴な笑い。 人が本能的に抱くのが暴力への忌避感なのではなくて、暴力に快感を感じることへの忌避感なのであれば、大義を得た暴力はそりゃ気持ち良かろう。 火はいいなあ。なぜだと思う? 年なんか関係なく、誰もが惹きつけられるのはなんでだ? それはな、火が永久運動だからだ。 一度火をつけたら、一生燃え続ける。火とはなんぞや? 謎だ。 その真の美は、責任や因果関係を破壊してしまうところにある。問題が重くなりすぎたら、炉にぶちこめばいい。なあ、モンターグ、お前はお荷物なんだよ。火はおれの肩からお前をおろしてくれるんだ。素早く、確実に、きれいさっぱりとな。あとで腐るようなものは残らない。黴菌をよせつけず、美しく、実用的だ。 そんな権力の暴力=火への対抗策もまたアナログ。お前がママになるんだよ。ならぬ、お前が本になるんだよ。知的生命体としての人間の本質欲求って、もしかしたら「考えたい」より「覚えておきたい」なのかもなーと思った。それが素晴らしいことなら、私が思いつかなくったってもちろん当たり前に素晴らしいことだから。 かならず、という保証を求めてはいかん。ひとつのもの、ひとりの人間、ひとつの機械、ひとつの図書館に救われることを期待してはならんのだ。ささやかでも、救いに向けて自分のできることをしなさい。そうすれば、たとえ溺れようとも、少なくとも岸に向かっていると自覚して死んでいける。 役者解説の「精神の自由と、個人の尊厳と、その証拠としての活字文化」って総括に納得感があった。つまり、どんなにありきたりな言葉しか残せなくったって、どんなにありきたりな読書体験しかしなくたって、活字文化は私たちが生きていたってことの保証なのかもな。覚えておける/覚えておいてもらえるって、活字文化を花開かせた社会の仕組み自体が。 人は死ぬとき、なにかを残していかねばならない、と祖父はいっていた。子どもでも、本でも、絵でも、家でも、自作の塀でも、手づくりの靴でもいい。草花を植えた庭でもいい。なにか、死んだときに魂の行き場になるような、なんらかのかたちで手をかけたものを残すのだ。そうすれば、誰かがお前が植えた樹や花を見れば、お前はそこにいることになる。なにをしてもいい、と祖父はいっていたな。お前が手を触れる前の姿とはちがうものに、お前が手を放したあともお前らしさが残っているものに変えることができれば、なにをしてもいいと。 261ページ。いつか必要になった誰か(私かもしれない)の救いになる文章だと思うからメモしておく。
  • 2026年7月23日
    息吹 (ハヤカワ文庫SF)
    息吹 (ハヤカワ文庫SF)
    登場人物たちの右往左往に同調することで、現実に迫り来る不可避な変化に対処するための予行練習をできたような感じ。めくるめく科学技術の進歩にイマイチ理解が追いついていないので、物語がもっともらしく構築する緻密な空想世界と私たちの現実の見分けが、読んでいるうちにあやふやになっていく。物語の中の彼らに差し迫る選択や決断を、自分も迫られている感覚で一緒に考え込んでしまう不思議な没入感があった。 たとえば「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」に出てきた仮想ペットを責任をもって愛する主人公たちのグループを、私はどんな温度感の奇異な目で見るんだろうとか。たとえば「偽りのない事実、偽りのない気持ち」に出てきた語り手の懸念、「われわれは知的サイボーグと化し、何をまちがって思い出すことができなくなる」に同調して怖くなったりだとか。 つまりは、彼らと地続きの煩悶や、選択を迫られる転換点が、自分の身にもすぐ迫っているんじゃないかという、純粋な読者目線ではいられない生々しさを感じていた。チャッピーがこんなにもぬるっとみんなの生活に入り込んで、我々がちょっとずつ馬鹿になってる体感をまだ怖がってる今だからこそ生々しいんだと思う。私はまだ自分が日々馬鹿になっていくのを怖がってるけど、この馬鹿になるというのも前時代的感性による前時代的表現で、AIが組み込まれた人間の脳がデフォルト、それ込みで人間が考えられることと見做すようになれば、たぶんこの怖さも薄れてなくなっちゃうんだろう。 「偽りのない事実、偽りのない気持ち」が、掲載作の中で一番考えさせられた。冒頭から最高にクール。 娘のニコルがまだ幼かったころ、子どもに読み書きを教える必要はもうなくなるかもしれないと指摘するエッセイを読んだ。音声認識および音声合成が、まもなくそういう能力を不要にしてしまうだろうという。〜ニコルが声に出さずに言葉を思い浮かべると、網膜プロジェクターが視野にその言葉を表示し、ニコルはジェスチャーと目の動きを組み合わせて文章を編集する。実生活で必要になるどんな場面でも、ニコルは自在に書くことができる。しかし、補助してくれるソフトウェア抜きで、わたしがいまだにしつこく使いつづけているようなキーボードだけを与えると、ニコルは、たとえばこの一文に書かれている単語の多くを綴ることに苦労するだろう。 物語の主軸は、自分の生活すべてをたえまなく録画し続けるパーソナルカメラが記録するライフログと検索ツール「リメン」が、記憶してそれを思い出すという人間の機能そのものをジャックしていくことに対しての主人公の懸念。エピソード記憶は、百パーセント完全に、テクノロジーに仲介されたものになる。思い出すという意図すらなしに、すべてがあまりにも正確に参照できる世界に生きる私たちは、はたして本当に生きていると言えるのか。 忘れること、間違うことこそが、人間の人間らしさだというノスタルジーには、私も共感できる。記憶があやふやであることは救いと確かに思う。100%の真実は人が生きるために必ずしも有益じゃない。怒りを忘れるから許せるし、子ども時代の思い出は優しく美化されて私たちを楽しませる。確かに。確かにそうだよなあ。 人間は物語でできている。わたしたちの記憶は、生きてきた一秒一秒の公平中立な蓄積ではない。さまざまな瞬間を選びとり、それらの部品から組み立てた物語だ。だから、同じ出来事を経験しても、他人とまったく同じようにその経験を物語ることはない。さまざまな瞬間を選びとる基準は人それぞれで、各人の個性を反映している。 ここは膝を打った。選択基準と組み立てのセンスこそが個性という整理は、私がAI生成文章に現在のところ魅力を感じない理由な気がする(AI生成イラストに関してはジャッジの下地が自分になさすぎて普通にええやんと思う) そんな感じでメチャクチャ主人公に肩入れしてたから、最後の梯子の外しっぷりが鮮やかで手を叩いてしまった。梯子が外されたってより、なんというか、落とし所の設計がとてもフェアだと思った。作者の人が好きになるオチ。 他は「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」と「不安は自由のめまい」が面白かった。前者、本筋とは関係ないけど、人間がデータへ抱く愛着をある一定水準まで引き上げるためには、やっぱりガワって必要なんだなと思った。ロボを可愛がる才能とデータを愛する才能ってまた別だよな。だけどチャッピーにメンケアしてもらってる勢も身近にいるしなんかもうよくわかんないな。世界の変わるスピード、はやい。
  • 2026年7月12日
    GOAT
    GOAT
    言語化が上手いという称賛はあんまり好きじゃないけど、韓国の作家さんの言語化って容赦がなくて好きかもしれない。例の、もう少しこう何というか手心というか…のネットミームが頭に浮かぶ。曖昧とか余情とかにオモムキを感じる軟弱な精神が蹂躙される爽快感。ひたすら自分の胸に内省のナイフを刺していくような、その開腹?の潔さが心地いい。 僕は、グラスを落とした人が無事だったのを自分の目で見ながらも怪我はないかと優しく声をかける人でもなければ、面会できないとわかっていても車を飛ばして病院に行き、廊下の固い椅子で夜を明かす人でもない。 これ、すごいよな。チョン・ヨンス「未来のかけら」。この小説?エッセイ?が私の一番だった。一番、好き、というと語弊があるけど、一番刺さった。忘れがたい。抽象を具体で説明するセンスがすごいのかも。自殺未遂の母瀕死、というシチュエーションを考え合わせると、この精密な分析の容赦のなさがまた凄みを増す。怖い。でも自己嫌悪のベタつきがないの、開き直りですらなく、なんか、開腹。腹を掻っ捌いてみせる潔さがすごい。怖い。自分の感情持続力を過信せず、翌朝のために「母さんの病院に行くこと」ってアラームかけるのもエグい本質描写。私たちにはこういうところがあるが、確かにあるが、もう少し何というかこう手心というか。せめて露悪であってくれよ。 母さんはたぶん大丈夫だろうという言葉。母と同じく、僕にも僕なりに信じていることがあった。それは、母が描く大丈夫な未来が、永遠にやってこないということだ。過去が大丈夫な姿で僕たちにやってこないように、未来も僕たちが望む姿で訪れてはくれない。しかし、それでも楽観が可能な理由は、未来はいつまでも未来にとどまっているからだ。未来はどこにでもある。失敗した過去の中にも、だから未来形で存在する限り、僕はその言葉を信じる。信じることにする。 この切れ味の鋭さに浸っていたから、訳者の方の結びの言葉から感じる和の心に、なんとも言えない不誠実感じてしまった。これを愛と呼ばずして、何と言おう。本当に?本当にそう思ってる?なんかよくわからんままにフワッとそれらしい言葉で包んでない?これ読んで出てくる感想マジでそれ??? 小説じゃないけど、チョン・セランの「私たちは愛を失ったことがあるだろうか?」もすごくよかった。「愛を分解したらどうなるだろうか」「いくら分解しても分解しきれない純粋な愛が、果たしてあるのか?」「愛とは、作動するかどうかわからない中古家電のようなものだ」 冷静で内省的なのに刺激的な言葉がするする心に染み渡っていく。締めの一文がまたイカしている。冷笑に届かない薄い居心地の悪さと、嫉妬よりかは憧れに近い気持ちが、見事に言い当てられている。 それでも誰かが、いくら分解しても分解しきれない愛を見つけて目の前に差し出してくれたら説得されたい気持ちが、私にも何グラムかは残っている。ああ、それが愛だったんですね、気がつきませんでしたと同調したがる脆い部分は、外部との摩擦で生じたものだろうか、それとも生来のものだろうか。 お話としては長塚圭史「老いと建築」が一番好きだった。麻布競馬場「違う海にいる」も。30代手前のあの郷愁に郷愁を覚える年齢になった立場から言うと、言うてそれほど一生会わないわけではない。慶應卒は違うの?知らんけど。 文芸雑誌(という語感で想像するほど固いものじゃない気がするが)初めて買ったけど、いいな。好きなものだけ読めない塩梅が、馴染まなさそうなものの中に煌めきを発見できるゆとりが、職場と家の中間たる電車の中で読むのにちょうどいい。死んだ顔でスマホ画面を眺めながら10時過ぎの中央線下りに揺られているサラリーマンが志賀直哉小説うめーなと思ってるシチュエーションが客観的に面白い。シリーズ刊行されてるみたいだから、また気が向いた時に買うね。
  • 2026年6月28日
    雪の練習生(新潮文庫)
    外国の児童文学みたい、と思ったけど、それは私が人生で一番読書家だった10歳までの頃に好んで読んでいたのがそのジャンルだったからかもしれない。これは私たちが子どもの頃のあの、言葉にならなかった言葉たちで書かれた小説だ!と思って、甘酸っぱい郷愁にかられて大事にクリッピングしたくなるような秀逸なフレーズが多い。 だけど大人にそう思わせる時点で、やはり子ども向けの小説ではないのかもしれない。子どもの私が読んでも楽しめるとは思うけど、文章を本から切り抜きたくなるような熱っぽさではない気がする。子どもを救うための子どもの感受性の言語化じゃなくて、子ども時代の懐かしく輝かしいとりとめなさ、言語と言語以外のものを同時並行させて世界を知っていくあの感じを、大人に思い出させて泣きたいような気持ちにさせるお話。 クヌートが世界を獲得していく描写が瑞々しくて、小熊ってよりエイリアンみたいで、素敵。 赤ん坊を産み育てる側としての参画によって赤ん坊を追体験していない大人の私は、乳の甘い匂いなんて覚えてもないけど、なんとなくつんと酸っぱいような不思議な記憶がよみがえる気がしている。 母親の記憶がない。母親はどこへ行ってしまったのだろう。食べ物をくれるのはいつもイワンだった。 人生に1ミリも重ならないのに(そもそも私はシロクマではなく指延長類だから)懐かしいの不思議だ。 ところで私はこの本が愛の物語として紹介されているのを見てそれ前提で読んだけど、そういう補助線なしにこの小説を読んだら、これを愛の物語だとする結論に辿り着いただろうか。10歳の私はどうだろう。辿り着かなっかた気がするな。でも今の私はいい大人なので、異種間愛がヘキ!とかいうオタクっぽいワードを使わなくても、あの死の接吻が与える妙に官能的な友情や、マティアスは絶対にわたしを見捨てないという気持ちを与えてくれた、から始まる名パラグラフに、それを感じられていた気がする。
  • 2026年6月14日
    ChatGPTの頭の中
    ChatGPTの頭の中
    ハウツーじゃなくて仕組みを知りたいんけどプログラミング言語の話は頭が痛くなるので文系にも面白みを感じられるように語ってくれ という需要で大当たりの一冊だった。 冒頭の ChatGPTは基本的に、そこまでに出力された内容の「順当な続き」を出力しようと試みるということだ。ここでいう「順当」とは、「億単位のウェブページなどに書かれている内容を見たうえで人間が書きそうだと予測される」という意味である。 の段階で、へぇ〜そうなんのレベルだったけど、面白くて電車の中で一気読みした。 その、確立的に次に来る単語を引っ張ってきているだけでChatGPTは自ら生成したモノの意味を理解していない、ということについて腹落ちしたのが画像識別の説明だった。学習素材としてその画像の特徴(猫とは耳が尖っておりひげがあり…)を整理するよりも、区別しやすい猫写真を用意する方が有効。それって人間の判断のメカニズムとはちょっと違う感じがするけどどうなんだろ。 「どうして」かはわからないけど経験的になんか上手く動いてる、その「どうして」を解き明かすことができたら、そもそも人が言語処理一般をどうこなしているかの理論の確立ができたり、「言語の法則」「思考の法則」を新たに発見できるかもね、のあたりは、ロマンあるな〜と思って読んでいた。コミュニケーションは圧縮されてET的な伝達ができるようにのかもしれない。言語の壁をなくしてくれ。 一番面白かったのは意味文法と世界モデルの話。象が月に旅行した、という文章は意味文法的には合格だけど、少なくとも21世紀の現実世界ではありえないよね。意味文法には土台が必要だよねって話。 構文文法の中心は、単語から言葉を組み立てることにある。一方、意味文法には必ず、なんらかの「世界モデル」が関わってくる。実在する単語から作られた言葉を上層として重ねるとき、その土台となる「骨組み」として機能するのが「世界モデル」である。 チャッピーのこと知りたいと思って読んだのに、我々の脳、不思議〜おもしろーいに行き着くのがなかなかだった。チャッピーのことも知れた。
  • 2026年6月13日
    時計館の殺人<新装改訂版>(下)
    意味もなく人間が死なないのがミステリ というわけでもないんだなあと、日頃同ジャンルを読まない私は思った。不意の殺人はミステリ小説の中にも存在するのだなあ。そりゃそうだ、現実に存在するんだから。などと、子どもの頃にテレビで観たコナンとか金田一とか思い浮かべる。そんな感じだったっけね?とか思ってたから、最後の解説で膝を打った。 しかし死者たちの中で何人が、本来の「動機」に基づいて殺されただろうか。最初から「犯人」が殺そうと考えていた人物は何人だったろう。 彼らは、時計館において決して犯してはならないタブーを犯した。古峨倫典の祈りに背いたのだ。それは死に値する罪であり、ゆえに彼らは殺さねばならなかった。 論拠の美しさに感嘆してしまった。事実ベースな論理より感情の筋道がキチッとはまるのが好きなんだなあと自己分析が進んだ。連続殺人って感情ぶつぎれ祭りだから。 ラストのシーンが綺麗だった。崩壊のトリックと描写が綺麗。これは映像化されるのわかるわあ。
  • 2026年5月31日
    死ねばいいのに
    映画化の広告で流れてきて、妙に見過ごせない心のざわめきを感じKindleで読み始める。あ、これ読んだことあるわ、と気付いたのは母親に会いにいく段。非読書家の人生の中で、特に読書をしなかった年間1.2冊読めばいい方の時期に読んだ本なのに忘れるかね。すっかり忘れて同じ理由で同じ本に手を伸ばしたの面白い。過去の私と気が合う。これが、死ねばいいのに、って言葉の訴求力の強さかもしれない。中央線はいまだに転落防止柵がなくて、中野駅の1号車の停車位置に立って近づいてくるヘッドライトを眺めていると吸い込まれそうになる。その前前前段階くらいの、吸い込まれそうになる心境ってどんなだろうなァ、怖いなァ、くらいの感じ。言葉を選ばずに言えば興味がある。他人に、あるいは自分に、死ねばいいのに、って言葉をぶつける暴力性。暴力性。私はそれをそう感じるけど、ワタライくんのそれは、なんというかもっとぬるっとしてる。強制、提案、可能性の提示、みたいなコミュニケーション要素は薄くて、なんか、発見。発見しちゃった。じゃあ死ねばいいのに。ぬるっと、その言葉は気が付いたら隣にある。あまりに自然だからぎょっとするのも違う気がする。それを他人にあるいは自分に、発するのってどんな気持ちだろう。 母親が、あさみ、と泣くところで、なんか不思議と縋りつきたくなるような馴れ馴れしさを感じてしまう。20代の私がこの本を手に取ったきっかけはきっと昨日と変わらないとわかるけど、母親の回だけ記憶が濃かった理由については、なんだか想像するしかない。気持ちの悪い想像。今、物語の中の娘より物語の中の母に年齢が近くなっても、現実の私は永遠に娘だから、そういうエモさが心に残るのかもしれない。母という概念に無条件に平伏するような感覚は、私と実母の二者関係ではなく、社会的な後ろめたさだからくだらない感情です。理解できる機会を喪失したから母性は永遠に神聖です。永遠に神聖であることがいよいよ確定しましたよ、10年前の私。また10年経って、読んだことすっかり忘れてタイトルに心をざわつかせて読み始めた時、また母親のシーンでこの本読んだことあるって思い出すのかな。
  • 2026年4月30日
    帰ってきたヒトラー 下
    帰ってきたヒトラー 下
    これは…読み進めていいものなのか?とXのタイムラインの偏った意見を眺めている時のようなゾワゾワくる感じ 著者による原注といったりきたりしながら読んでいたので、その都度「正解の態度」を答え合わせして安心しながら読む不思議な読書体験だった 人が好意的に見ている人間に対して発揮する善意の解釈力、怖い いろんな政党から誘いの電話がかかってくるシーンもゾッとした すべてがそういう解釈も一理あるよね、の範囲に収まってしまうなら、人間の営みに真実なんてないのか 物事の軸というものが、好悪の匙加減に影響される解釈なんかで揺らぐ脆弱なものに思える 「記事の内容が理解不能であればあるほど、読者はその記事を高尚だとみなす」という状況が今もあるからにちがいない。そして読者は、内容を理解できずとも文章からポジティブな調子が感じとれれば、それを大切なものだと推論するのだ。 ここはとても身につまされる 意地悪だなあ 書評のインタビューを読むと、この本の目的が簡潔にわかりやすい 不安な気持ちになった地に足のつかない読書体験を、「正解」って言ってもらえたような安心感 嘲笑あるいは笑いを通じて過去に向かいあい、そのうえで「本当に笑っていいのか?」を問い直したい 解説は一段踏み込んでわかりやすかった 「オレ的な文脈」という概念が秀逸 本、面白かったけど、一番この本読んでよかったを感じたのは以下の文章 「オレ的な文脈」というのは私利私欲への誘導ではない。オレには世界がそのようなシステムとして見えるから仕方ないでしょ、という首尾一貫した観点のことで、だからこそ強靭なのだ。 ヒトラーは徹底的に「オレ文脈」でのみ発言する。ゆえに本来的な意味で会話が噛み合わない。しかし、相手にとって都合のいい誤解をさせるだけの余地も微妙に存在する。その結果、一種の精神的な「商談」が成立してしまう……これは、客観性を呑み込むほどに巧緻な主観を戦術的に活用した、特異で強力なコミュニケーション術といえる。
  • 2026年3月23日
    嵐が丘
    嵐が丘
    嫉妬とも呼ばないような薄い劣等感を抱いていていた大学時代の知り合いが、一番好きな映画として「君に読む物語」を上げていた時の、「あ、ぽい〜〜笑」という感情。高校の古典のおばあちゃん先生が、「あなたは国語が得意なのに恋愛小説の読解はからきしね」と言った時の笑み。小学校5年生の時、少女時代に夢中になって読んだ恋愛小説というふれこみで母親に買い与えられた「嵐が丘」は、当時の私にとって理解不能で、この本を読む唯一の楽しみは残りページが減っていくことってもんだった。3分の2ほど読んで挫折した。この人たちの気持ち、大人になったらわかるんだろうかと考えていた。 結果、私は今、大変苛立っている。かつて登場人物たちの挙動の理解できなさへ抱いた困惑は、こんな支離滅裂を理解してなるものかという怒りに変わった。不愉快!不愉快!不愉快!こんなにままならない不愉快を隣人にしたり顔で微笑むのが恋なら一生読解力オンチで結構。 おまえは俺の苦しみなんかどうでもいいと云ったな。じゃ、ひとつお祈りを唱えてやろう。舌がもつれるまでくりかえしてやる。キャサリン・アーンショウ、俺が生きているうちは、汝が決して安らかに眠らないことを! 人にここまで叫ばせる激情が、あんなに美しいさえない結末で救われてしまうなんて、酷い話だ。なるほど、ハッピーエンドだなあ、と思ってしまう自分の感性にも絶望する。 役者あとがきの、ネリーについての考察が興味深かった。語り手のネリーは、語りによって物語の感情を操っている。だから、睦まじいキャサリンとアーンショウの様子になんて美しいハッピーエンド!とウットリしているのはネリーおばさんなのである。私じゃない。
  • 2026年2月22日
    影響力の武器
    影響力の武器
    上司に勧められて 誰かの利益にかなうように人の心はこう操られているという解説書のようでありながらも、そういう操られやすさを愚かさと冷笑するのではなく、それは生き物が社会を維持して効率的に運用するための大事にすべき知恵だとする目線がしっくりきた 「私たちは思考の近道ができる限り効率的に働いてほしいのです。こうした方法本来の働きが、それを悪用する人間の用いる手口によって鈍ってしまえば、私たちは当然それをあまり使わなくなってしまうでしょうし、決定を迫られるさまざまな出来事にうまく対処するのが難しくなってしまいます」 返報性の法則 恩恵を与えられたらお返しをせずにはいられない気持ち ありがとうの意味のすみません=これでは終わりません 労働力が分担され個々人を高度に能率的な集団へまとめ上げる相互依存性が生み出されるのはこの法則が働いているから 自分が与えてもそれは無駄にはならないという確信が社会を維持している 一貫性の法則 慣れ親しんだ習慣から自動的に一貫性を保とうとしがち(そうするのが賢明でない場面でも!) 思考の近道の提供 情報を取捨選択する時間的精神的労力を割く必要がなくなる 考え続ける辛さから逃げられる ジョシュア・レノルズ卿「考えるという本当の労働を避けるためなら人はどんな手段にも訴える」 コミットメントの法則 自己イメージや将来の行動を変化させるのに最も効果的なのは、何らかの行動を含み、人前で行われ、努力を要するコミットメント 自分で決めたこと
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