
句読点
@books_qutoten
2026年8月12日

ナウシカ考
赤坂憲雄
読み終わった
今月末の『風の谷のナウシカ』読書会に向けて読了。とても面白かった!よくある考察系の本とは一線を画している。『ナウシカ』を軸に、権力の問題、文字と権力の問題、二元論的世界観の克服、などさまざまなテーマが引き出されてくる。物語論としてもとても面白い。なにか創作する人にとってこの本はさまざまなヒントを与えてくれる本だと思う。この本を読むともう一度『ナウシカ』を最初から読み直したくなる。
民俗学者の視点から、さまざまな文献なども引用しながら、マンガ版の『ナウシカ』を読解していく。宮崎駿本人ですら明確に意識していなかったであろうことまで、ひとつひとつ丁寧に拾い上げてゆく。宮崎駿はこの本を読んではじめて自分で原作を読み直したらしい。どこかのインタビューで「自分はこんなこと一切考えることなく描いていた」と漏らしていたのを読んだ。作者以上に読み込むことは可能なのだ。
『ナウシカ』前史として、幻のデビュー作『砂漠の民』や、『ナウシカ』執筆とほぼ同時期に描いた『シュナの旅』などとの関連性を引きながら論考が始まる。『シュナの旅』は単体として非常に濃密に完成されたモノローグ的作品。この作品に宮崎駿の世界観がかなり凝縮されている。
王や権力についての問題について長年考えてきた赤坂さん。「風の谷」の姿にもその視点から迫る。「風の谷」は王をいただく部族集団ではあるが、国家的な権力を拒否している。ピエール・クラストルを引きながら、「貧しいけれど、平和な部族社会」「王国とはいえ、強大な権力を帯びた王は不在であり、あくまで国家という忌まわしきものが出現することに抗う社会」だという。
宮崎駿の物語は必ず「マレビト」の不意の訪れから始まるという指摘には確かに、と思った。主人公自身が「マレビト」となって別の世界に紛れ込むパターンもある。(もののけ姫など)
「ナウシカはいかなる他者にたいしてであれ、命令する者ではない」p.66
言われてみれば確かにそうなのだ。
ナウシカの名前の由来はギリシャの叙事詩「オデュッセイア」に登場する同名の姫から。血まみれの航海者であったオデュッセウスを恐れることなく助けて、後には吟遊詩人として諸国を放浪したという。
そしてもう一つの源泉は日本の古典『堤中納言物語』の「虫めづる姫君」。
この二つの源泉が見事に融合して生まれたのが「ナウシカ」。
「ナウシカはひとつの混沌である」p.98
清浄/汚濁を明確に切り分けて、「清浄」の世界だけで生きていくことを拒む。自身のうちにも「汚濁」や「闇」があり、それらなしでは人間は人間たりえないことを見抜く。オーマは破壊の象徴、虚無でもありながら、その名前は「無垢」を意味する古エフタル語であった。作中におけるオーマの立ち振る舞いはまさしくそのもの。
「清浄や汚濁をともの一身において引き受けるとき、人ははじめて穢れの呪縛を超えてゆくための、たしかな一歩を踏みだしているのではないか。みずからの内に堆積する穢れに気づくことによって、二元論の罠からの脱出を果たす」p.157
この清浄/汚濁を一身に引き受けるというテーマは後の宮崎作品においても重要なテーマ。「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」など。
「火の七日間」「千年前」など、この作品では神話的な数字が頻出する。キリスト教的な世界観と通ずるところがあるが、明確に異なるのは、キリスト教的世界観は善悪の二元論的世界観で、最終戦争ののちに善が勝つという物語だが、『ナウシカ』はそれにたいして真っ向から挑む。
「目的のある生態系・・・その存在そのものが生命の本来にそぐいません」というナウシカの言葉。
「墓所の主は、世界をあきらかな境界線で分かち隔てて、みずからを光や希望の側に置き、自身の提示する未来へのプログラムに自発的に隷従することをもとめる。そうした世界を分断する境界のラインを、ナウシカは認めない」p.272
映画版の「ナウシカ」では、むしろ、「清浄」の側にナウシカが立ち、「腐海」も実は「清浄」の側だった、世界もそこに向けて良くなっていく、という感じの世界観だったように思うが、漫画版はそれと真逆。漫画版は驚くほどに血みどろで、ぐちゃぐちゃで、混沌としている。もちろん映画版は映画版で素晴らしいし、傑作であるのは間違いないけど、あくまでも漫画版とは別の作品であると思ったほうが良さそうだ。この物語をたった2時間の映画にまとめろというのは無理だろう。漫画という形態だからこそ表現できた世界観。
「みずからの内なる闇や穢れや虚無を、生存の避けがたい条件として認めるからこそ、ささやかな生への希望を耕し、受け入れることを学んでゆく。二元論の廃棄こそがくりかえし試みられている。どこかに絶対的な中心や神の座を設定したうえで組み立てられる透明な二元論のなかに、ほかならぬ虚無や闇は潜んでいる。」p.272
この二元論に抗するナウシカ、という視点を得た時に、緒方正人さんの『チッソは私であった』が想起された。水俣病の患者でありながら、水俣病を産んだ「文明の罪」の側に自分もいると気づき、背負い直した緒方さん。
『ナウシカ考』の中では、水俣病や東日本大震災、コロナ禍などの現代社会における問題との接続については多く語られることはなかったが、深いところでかなり密接に繋がっていることだと思う。次は『チッソは私であった』を課題本に読書会をやりたい。
終章において、赤坂さんはこの『風の谷のナウシカ』を多声的=ポリフォニー的な物語であるとし、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』などと同種の物語であると論ずる。それくらいの人類に対しての大きな贈り物であると。
物語全体が《大きな対話》である。モノローグ的に全体を概観するような視点はなく、全ての登場人物たちが独自に動き、作者のコントロール下にすらない。物語がそれ自体として動いてゆく。
最後に引かれていたロレンス『黙示録論』のなかの言葉
「書物のもたらす真の愉悦は、それを何度でも読みかえし、そのたびにそれが以前とは異なったものであることを知り、他の意味に、すなわち意味の別次元に出あうことのうちにあるのだ。」
は、まさしくこの『風の谷のナウシカ』にも『ナウシカ考』にも当てはまる言葉だと思う。何度も読みかえしたい。




