
emusa
@emusa
2026年9月26日

きみは赤ちゃん
川上未映子
読み終わった
「朝。抱っこしたままでわたしの背中のほうにあるカーテンをあけて、空をみせてやる。
オニの顔がぱあっと明るくなって、笑顔になって、目がどこまでも大きくなって、つやつやと濡れて、光っている。じっとみつめると、小さな目に空が映っている。わたしはそれを1秒だって見逃すまいと、まばたきもせずにみつめつづける。放っておくと、わたしの目からは涙がたれてくる。まだ言葉をもたないオニ、しゃべることができないオニは、まるでみたものと感じていることがそのままかたちになったみたいにして、わたしの目のまえに存在している。
オニはそのまま、空であり、心地よさであり、空腹であり、ぐずぐずする気持ちであり、そして、よろこびだった。オニは、自分がこんなふうにして空をみていたこと、なにかを感じていたこと、泣いたこと、笑ったこと、おっぱいを飲んでいたこと、わたしに抱かれていたこと、あべちゃんに抱かれていたこと、こんな毎日があったこと、瞬間があったことを、なにひとつ覚えてはいないだろう。なんにも、思いだせないだろう。でも、それでぜんぜんかまわないと思った。なぜならば、この毎日を、時間を、瞬間を、オニが空をみつめてこのような顔をしていたことを、わたしがぜんぶ覚えているからだった。そしておなじように、かつて赤んぼうだったわたしも、おそらくはこのようにして空をみていたときがあったのだ。空をみていた赤んぼうのわたしの目を、いまのわたしとおなじように、みつめていた目があったのだ。そして誰にもみつめられなくとも、すべての赤んぼうの目は、このように空を映していたときがあったのだ。オニの目に、空が映っている。オニもいつか、遠いいつか、このようにして赤んぼうを胸に抱いて、そして、空をみる目をみつめるときが、くるのだろうか。」
p. 278-279