
いるかれもん
@reads-dolphin
2026年8月20日

正義の暴走
原田隆之
読み終わった
学び!
心理学
クマの駆除、いじめ動画、外国人排斥など主にインターネット上で起こっている誹謗中傷問題等について、心理学の観点からまとめられた一冊。「正義の暴走」とタイトルにはあるが、上記のような誹謗中傷や非科学的な主張が悪意ではなく、その人なりの「正義」によって行われているとした上で、「正義」が暴走するプロセスを分析している。1章1トピックという形で、章ごとに完結しているため自分の興味ある話題だけ拾い読みしても全然読めると思われる。私自身も、少しずつどこかで見聞きした話がありつつ、その本を読むことで断片的に得ていた情報を整理することができた。文章もわかりやすく、さくさく読み進められて面白かった。
扱われているトピックの多くはスタンダードな、広く議論されているものの印象ではあるが、5章の自称カウンセラー問題は、私自身以前から違和感を持っていつつも深掘りしたことのないトピックだったのでとても勉強になった。本来、カウンセラーという仕事は非常にハードルの高い専門的訓練を受けなければならないが、そうした訓練を受けずにカウンセラーを名乗る「自称カウンセラー」について警鐘を鳴らしている。彼らの動機には「人を助けたい」「癒したい」という正義があるものの、それは専門性の裏付けにはならない。そして「自称カウンセラー」は自らの危険性を認知しないまま、ときには相談者と危うい関係性を持ち、安易な診断やラベリングは相談者に害をもたらすこともある。また、そうした行為はカウンセラー側に「人の役に立った」という満足感を与えてしまう。著者はカウンセラーの専門性について次のように述べる。
p.106 -107(引用はじめ)
専門職が行うカウンセリングや心理療法は、相談者の語りを受け止めながら、同時にその問題を評価し、介入方針を組み立て、心理介入を行い、必要なら他職種につなぐ行為である。つまり、カウンセリングは単なる会話ではなく、臨床的判断と意思決定を含む支援プロセスである。
このような一連のプロセスをケース・フォーミュレーション(case formulation)または見立てと呼ぶ。ケース・フォーミュレーションとは、目の前の相談者について、「どのような問題が、何を背景として、どのような経路で、なぜこの時点で生じているのか」を仮説的に整理し、それに基づいて介入方針を立てる作業を指す。専門的訓練を受けていない支援の最大の問題は、このようなケース・フォーミュレーション能力の欠如である。(引用終わり)
改めて、これが自分にできるかと言われるととても難しい。それを認識した。私自身、誰かの相談に乗ったり、悩みを聞くことで自己充足感を覚えることもある。もちろん話を聞いたり、相談に乗ることが悪いことではないけれど、そうした危険性があることを改めて認識した。
もう一つ、最後の第9章も印象的だった。この章で扱われいるのは、2022年に発生した安倍晋三元総理の暗殺である。この事件に関する話題といえば、事件を起こした山上被告と統一教会、また、そこから派生した宗教二世についてのものが多い。しかし、この章では、最初に当時発生直後のの事件報道やSNSで流通した事件の動画、画像などについて扱われている。そういえば、事件を目撃して、テレビのインタビューに応じた女子高生に対してSNSなどで攻撃するような言説を見た記憶がある。そうした忘れかけた問題についても本書では扱っている。
そして、多くのメディアなどで話題となった、山上被告が事件を引き起こすに至った背景について、犯罪心理学者として分析をしている。著者は、被告が事件を引き起こすに至った重要な要素として「孤立」を挙げている。被告の不遇な家庭環境の中「孤立」することにより、統一教会に一矢報いることが「人生の意味」にすらなっている点に着目する。山上被告が事件に至った背景について、宗教学者やジャーナリストがさまざまな偶然の重なりの中で起きたと指摘する中で、著者は次のように述べている。
p.222(引用はじめ)
しかし、私はこの事件を単に偶然の産物とは考えない。そのようにして考えてしまえば、山上被告は単なる偶然に翻弄された木の葉のようなものになり、そこに「人生の意味」などという言葉は出てこないはずだからである。
人生とは誰にとっても「偶然」の連鎖である。そして、その連鎖が、心理学的には本人なりの「意味」をもち、「必然」となっていくのだ。同じ出来事であっても、その「意味」は人によって異なる。
これは「人間には自由意志はあるか」という哲学的な問題とも重なる問いであるが、認知心理学では、人間は単に周囲の状況や刺激に左右される受身的で自由意志を持たない存在とはみない。むしろ、周囲の環境を「認識」し、「意味」を見出し、それに従って行動を「選択」する存在とみなす。
出来事の連鎖を外側から眺めれば、それは「偶然の産物」に見えるもしれない。しかし、心理面も含めて個人の内面から読み解くと、そこにはそれぞれに「意味」をなしてつながる「必然」の姿が現れる。
たとえば、誰かほかの人物に同じような複数の偶然が重なったとき、山上被告同様の「私的正義」がその人の心のなかにも形成されうるのか。私はそうは思わない。
父親の自殺、兄の病院と自殺、母親の入信と高額献金、進学や生活基盤の喪失といった出来事は、たしかに不幸な偶然の蓄積のように見える。
しかし、それらが連鎖し、かつ是正されないまま蓄積しつつ時間を経たとき、彼の内面では、世の中から見向きもされない「石ころ」同様の意味のない人生を強いられているという個人的な「認識」が形成されていった。
このように、出来事を「認識」し、そこから行動へと移し替えていくのは、本人の主体性であり、責任でもある。これらを無視して、「偶然の産物」と言い切ってしまえば、それは被告の人格を否定する行為に等しいとも言えるだろう。人は偶然に翻弄される木の葉のような人生を生きるのではなく、偶然の連鎖に自分なりの意味を見出し、自分なりの選択をして生きていくのだ。
事件の背景にあった被告の心理的プロセスと彼にとっての「意味」を理解したとき、それはあまりにも悲しい「必然」となって立ち現れる。(引用終わり)
本書は研究者の著作らしい、学術的裏付けのもと、客観性を持った、ある意味ドライでクールな記述が多い。しかし、そうした強固な論理の中でこうした人生の意味などが語られると、その言葉は非常に強いものに感じられる。依存症の本など、心理系の本を読むと度々「孤立」とか「孤独」が重要な要素として登場するが、改めて、深刻な問題であると確認した。
最後に少し余談になるが、この本では「正義」という言葉とともに、度々「知的手抜き」という言葉が登場するが、これも自身の問題意識と重なり印象的だった。これはこの本全体を通して私が感じたことであるが、誹謗中傷にしろ陰謀論にしろ、本当は熟考して判断しなければならない事柄について、目の前にある手頃な事物に原因を押し付けたり、自分が快楽を感じる方向を正当化することを「知的手抜き」と表現しているように思う。ここから先は、この本とは関係のない私個人の考えであるが、SNSや、本屋に並んでいる一部のタイトルをもていると、「本当はわからないものを、わかったつもりになれる」サービスや言葉が多いように思える。「○○が9割」とか。そうした中で一つとても注意しなければならないと思うのは「本質」とか「本当の」といった言葉である。「本質」というのは、何か問題や課題についてよく考え、その解決のために特に重要となる要素を判断し理解できるものだと思う。「本質」を掴むということは、その問題を単純化し、情報量を圧縮しすることである。その時、「本質」であると判断されて以外の要素は無視されてしまう。すなわち、「本質」とか「本物」といった言葉は、時として自身に都合の悪い要素を切り落とす美名になる可能性もあると最近考えている。そういった理由から、「本質」「本物」また、同じような理由から「純粋」などの言葉について最近警戒している。
最後脱線したが、話題の論点も多く、また、読みやすい一冊でもある。最近発売された新刊ということで、多く書店に置かれていると思うのでご興味ある方はぜひお手に取って欲しいと感じた。


