

いるかれもん
@reads-dolphin
使い方悩み中。小説よりもノンフィクションやエッセイの方が読む割合としては多い。図書館で働いてます。
興味 : 自然科学、図書館情報学、ケア
- 2026年1月8日
ある行旅死亡人の物語伊藤亜衣,武田惇志ノンフィクション読み終わった現金3,400万円を残して亡くなった女性、自称、田中千津子。なぜか身元の特定に繋がるようなものは何も残されていない。彼女は一体何者なのか。二人の記者による取材の記録。仕事帰りに図書館で借りて、電車の中で読み始めたけどあまりに面白くて本屋で買ってきてしまった。2日で1冊読み通したのは久しぶり。それくらい夢中になってしまった。 記者の地道な取材の様子、そこから一つ一つ新しい事実が明らかになる過程にとても興奮した。すでに弁護士も、警察も、探偵も調査してもわからなかった謎を、二人の記者が解決していく。何度も謎の解明に繋がる糸が切れてしまいそうになるが、その度に奇跡のような出会いによって、糸が繋がる展開にハラハラドキドキさせられた。あまりによくできていて、ミステリー小説を読んでいるように、本の世界に没頭してしまう。しかし、時折掲載されている写真の圧倒的リアリティに「これは現実の話だ」と突きつけられて、その度に目を覚ますような気分になった。 - 2025年12月29日
地球の果ての温室でカシワイ,カン・バンファ,キム・チョヨプ読み終わった以前読んだ『私たちが光の速さで進めないなら』のキム•チョヨプの長編小説。相変わらず翻訳とは思えないくらい、とても読みやすく好みの文体だった。今回は多くの世界の動植物が死に絶えた世界を生き抜いた人々の話ということで、人が殺されたり、殺されそうになったり、争いが起きたり、なかなか緊張感のある世界感だったけれど、久しぶりにそういうハラハラドキドキも楽しめたと思う。あと、「ダスト」という植物の蔓延で外に出られない世界ってコロナ禍にも重なった。著者のあとがきまで読むと、「植物」にとてもこだわった作品だとわかる。著者の父親の「植物はなんにでもなれる」という言葉が印象的だった。 - 2025年12月22日
成瀬は天下を取りにいく宮島未奈ブックサンタ - 2025年12月22日
陽だまりの彼女越谷オサムブックサンタ - 2025年12月22日
カラフル森絵都ブックサンタ - 2025年12月17日
読み終わった学び!この本もしばらく積んでいた気がする。(奥付けを見たら2023年の第一刷だった。)著者の飯田さんのXは最近見ていたので、第1章にも書かれているような統計上若者読書離れが起きてるとはいえないことは把握していた。しかし、実際この本読んでみると、むしろサブタイトルに書かれている「中高生はどのくらい、どんな本を読んでいるのか」という分析の方が主題であるように感じた。学校読書調査の結果を元に著者が中高生に人気の本を実際に読んでその特徴を整理している。紙幅の大部分がその分析に割かれている。分析の結果、中高生の読書には大きく3つのニーズがあり、それを効率的に満たすための4つの型があると整理している。その上で、実際の若者のニーズを捉えて読書推進をすべきであると結論づけている。これはシンプルで、容易に想像できる結論に思えるかもしれない。しかし、図書館の児童書の選書では刊行から時間が経過し、評価の確定した良書を購入することが常識となっており、大人が子どもに読ませたい本を提供することが定着している。本書では、大人が若者で読んでほしい本、そして、大人が想像する若者の好きそうな本が実際の若者のニーズとは乖離していることを示し、良書主義の児童サービスの限界を示していると感じた。そして、繰り返しとなるが、今若者が実際に読んでいる本について徹底的に分析し解説している。つまり、この本そのものが中高生に対する読書推進を行う上で具体的で有効な情報を豊富に提供している。中高生の読書活動に携わる人は絶対に読むべき本であると感じた。 また、ここに書かれている今の中高生が読んでいる本の分析を読んでいると、自分自身の悩みや葛藤、不安が読んでいる本に現れていることがわかる。中高生に必要とされている本があるのだと感じた。中高生が必要としている本を提供することは、十分意味のあることであると改めて感じた。 - 2025年12月14日
「誰でもよいあなた」へ 投壜通信伊藤潤一郎読み終わった学び!@ ジュンク堂書店 柏モディ店かつてインターネット上で親交のあった文学の大学院生が勧めてくれた本。もう1年以上前に閉店した、行きつけの本屋さんで買ったことを思い出した。なぜか、この本を手に取ったときの光景を今でも思い出せる。 「投壜通信」という言葉は初めて聞いた言葉だけれども、そうやら哲学などの分野でたびたび使われてきたモチーフらしい。 「難破しかけた船から海へと投げ込まれた壜は、砂浜でそれを拾い上げたひとを宛先としている。おそらく、投げたほうは拾った者のことを知らないだろうし、たまたま拾ったほうもなぜそれが私を名宛人としているのか明確に答えることはできないだろう。にもかかわらず、壜をを拾った者はその手紙がほかならぬ私へと呼びかけていることを感じ取ってしまう。まさに私が読まなければならない手紙として壜は拾われるのである。」(p.8) このように、誰でもないが、他ならぬ自分に当てられた言葉という意味で「誰でもよいあなたへ」ということ。この本は私たちにとって身近にある「誰でもよいあなた」へ宛てられた言葉について書かれている。(小説とか読んで、それがまるで自分に向けて書かれたものであるかのように感じたり、もっといえばそれが著者の意図とは関係なく自分にとって特別な意味を持ったりする経験とかがそれに当たるのかなと思った。) 哲学の本ということで、難しい部分もあるけれど、著者の実体験から出発して、エッセイとして書かれていて読んでいて心地よかった。色盲や発酵など、一見テーマと関係なさそうな切り口から、そこに秘められた投壜通信を見つけ出し、その価値を紐解いていく、そういう感じ。 私にとっては第3章「岸部のアーカイヴ」が何よりも愛おしい文章だった。端的に言えば、積読含め書物を保管するアーカイヴを投壜通信として肯定するものであった。積読やアーカイヴに対する著者の考え方が、自分がぼんやり思っていたことと重なりつつ、より明快にその在り方を肯定するものでなんか嬉しかった。「本を読みきることはできない」、そしてそれが投壜通信になるということは、本のもつ限りない可能性や魅力をよく表現しているように思う。 p.43 「アガンベンは『書斎の自画像』で「書斎=アトリエは潜勢力ー作家にとっては書く潜精力、画家や彫刻家にとっては描き彫る潜勢力ーのイメージである」とも述べているが、本や書類を集めて捨てないということは、現実に役に立つという狭隘な視野から解き放たれた可能性を存在させることを意味している。端的にいえば、蔵書やアーカイヴとは潜精力なのである。 投壜通信は、こうした潜勢力としての蔵書やアーカイヴがなければ起こりえない。言葉が記された本や紙片が残っていればこそ、あらんかぎりの時間と空間を隔てたところからであっても言葉は私の元に漂着することができる。(中略)アーカイヴがない世界では、こうした遠く隔たったコミュニケーションが著しく困難になってしまう。それゆえ、アーカイヴとは投壜通信の条件ともいえるものなのである。 アーカイブのない世界があるとしたら、それは岸辺を欠いた世界に等しい。船上から海へと投げ入れられた壜は、いつかどこかの岸辺に流れつくわけだが、もし岸辺そのものがなかったとしたらどうなるだろうか。壜は波間をあてどなく漂つづけ、多くは海の藻屑と化し、拾い上げられる確率は極めて低くなるにちがいない。岸辺は、いつか誰かがそれを手に取るまで壜を保存するアーカイヴなのであり、打ち上げられた壜はそこで誰でもよいあなたが現れるのを待っている。個人の蔵書であれ図書館であれ、誰にも把握しきれない潜勢力としてそこに存在する書物は、ある日ふとした瞬間に「あなた」へと届き、壜を拾い上げて読んだ当人を変化させる。書架から溢れて床に積み上がった本のなかには、いまは届かなくとも、いつの日かまさにこの私へと届く壜があるかもしれない。その可能性を信じることは、私自身の変容を肯定することなのである。だから今日も私は、岸辺のアーカイブを広げるべく書店へと向かうのだ。」 投壜通信は海に投げ出された壜に閉じ込められた言葉である。だから、投げた人と受け取る人の間には海があり、距離を持つ。この本を読んでいると、庭とかアーカイヴとかが登場するが、それらが二人の間の海のように思えてくる。その海というものは何か明確な方向性を持っておらず、自由な余白のように思える。そうした、余白が、受け取る言葉を自分のものとするための可能性というか、自分を重ねる、自分を書き込むことができるのかなとか、そんなイメージが湧いた。 - 2025年12月10日
読み終わったネガティブな感想(かなりネガティブなことを書いています) 昨年非常に話題になった本であり、何となく「売れてるから読もう」と思っていつか買ってしばらく放置していた。その間、SNS上で統計に基づき本書の試聴を否定的に批判する投稿も目にしており、あまりいい印象を持っていなかった。そのような中本書を読み進めた。あらかじめそうした目線で読んだ感想であることを承知願いたい。 SNS上での批判で統計調査によるとそもそも「働いていると本が読めなくなる」という事実はないというものを見た。「働いていると本が読めなくなる」ことが本書の前提となっているが確かに、その根拠として挙げられているものは著者の実感と、映画作品(『花束みたいな恋をした』。本作はこの本の中でたびたび引用される。)、著者のSNSに寄せられる声くらいで客観性のある裏付けがないまま本論に入っている印象がある。 そして本書は、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という問いから、明治、大正、昭和戦前・戦中、1950~60年代、70年代、80年代、90年代、2000年代、2010年代それぞれの労働史と出版史(読者の歴史)について述べながら進んでいく。それぞれの時代の労働者の姿や、図書館員としては出版事情に関する内容は面白いと思った。出典も丁寧に書かれているので、個人的には気になる本も結構あったし、読書の歴史について改めて本を読んでみたいとも思った。また、それぞれの時代の様子を表す文学作品も紹介されている。ちょうど自分がぼちぼち読み進めていた谷崎潤一郎『痴人の愛』も紹介されていて「なるほど」と思うこともあった。そうした文芸作品の紹介はさすが文芸評論家だと思う。しかし、一方で、(別に私は歴史に詳しいわけではないけれど、)各次代の労働者の姿と、出版事情ってそんな簡単に結びつけていいの?という気もした。文献的な裏付けがあるのかないのかわからないような箇所もあり、おそらく著者の想像も入っているのではないかと思う。また、映画や文芸作品の紹介を持って、各次代の労働者像や読者像の裏付けとしている(「この作品にはこういう労働者がいるから、この次代の労働者はこういう姿だった」というような説明の仕方)部分があり、読者を煙に撒くような乱暴な展開の仕方に思えた。 そして、終盤にかけて読んでいて疑問を持つ点が続々増えていった。特に「知識」と「情報」の差異という部分については大きく疑問を持った。本書では「情報」とは知りたいことであり、「知識」とはそこにノイズ(他者の歴史や社会の文脈)が乗っているものとしている。それぞれがインターネットなどで得られるもの、読書によって得られるものとしている。その上で、現代では労働により、そうしたノイズを自身に受け入れることが難しくなったため「働いていると本が読めなくなる」と主張している。しかし、先日読んでいた根本彰『情報リテラシーのための図書館』などでは、知識や情報は階層構造をなしていて、情報に推論や確信などが付加されることにより知識になるとしており、「情報+ノイズ=知識」などと単純化できるものではないと感じた。また、何が情報で何をノイズと感じるのかは非常に主観的なものだと思う。この本の定義に乗れば「自分の歴史や文脈(必要性)」に沿うものが「情報」でそれ以外は「ノイズ」ということになるが、それは自分が今抱えている問題を解決するためにどれくらいの詳細さが必要なのか、自分がどれくらい詳細な「情報」で納得するのかによっても変わる。図書館情報学などで「情報とは何か」「知識とは何か」といった議論が交わされている中で、「知識=情報+ノイズ」とする考え方はあまりにも短絡的で、都合よく解釈しているようにしか思えなかった。 著者はこの「情報」と「知識」の区別を前提にして、「自分から遠く離れた文脈に触れることーそれが読書である」(働いていると本が読めなくなる理由は)「仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるからだ。」と結論づける。しかし、私の実感としては、自分自身の文脈を拡張することで本を読んでいるように感じている。何となく気になった事柄の本を読む、とかまさにそうした行為に思う。もちろん、本の中には著者の主張するような「他者の文脈」もあるかもしれないが、それを読書とするのも、やっぱり都合よく解釈しているように思える。そして、最後、著者は現在の社会を新自由主義などを背景として、労働者が仕事にフルコミットすることを強いられている「全身労働社会」とし、仕事など一つのことにコミットするわけではない「半身労働社会」を目指そう、「全身」ではなくて「半身」を目指そうと主張する。その際に、何かにフルコミットする「全身」の方が「半身」より楽だ、と主張するがもはや何の根拠もなく、ただただテンションで押し切っていてさすがに読んでいて苦しかった。その半身社会が「働いていても本を読める社会」であり、理想像として語っているが、全員が半身になった時、仕事に半身を捧げたとして読書などの文化にもう半身を捧げられるわけではない気もする。実際私は、働き始めてからの方が本を読めるようになった。 読み終わった後に、飯田一史の今月の新刊『この時代に本を売るにはどうすればいいのか』第1章を試し読みした。これは、本書「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」(以下、「なぜはた」という)の検証であり、基本的に「なぜはた」の主張が誤りであるとしており、出版や読書動向について広く流布している誤った言説を前提としていることがわかった。そもそも「働いていると本が読めなくなる」という認識自体が統計的にが裏付けられないという指摘をしているほか、「なぜはた」に中で参照されている統計データの扱いの誤りも指摘している。正直データの読み解きの誤りであれば仕方ない面もあるかもしれないが、調査結果に付されている解釈上の注意を無視しているという点は流石に酷いと思った。著者の問題でもあるけれど、個人的には校閲の問題もあると思う。 総じてネガティブなことばかり書いてしまったが、印象としては、部分部分面白いし、読んでよかったと思うけれど、ご都合主義で書かれた客観性に欠けた本という印象だった。エッセイとして書いてくれたら良かったのではないかと思う。でも、新書で出したってことは、バズり目的だったのかなとも正直思ってしまった(著者がはっきりと「新書大賞取りたい」とか言っていたし。。。)それこそ、ノイズを排除して自分の文脈に合う「情報」のみで組み立てられた本なのかもしれない。実は普段、新書は基本的に研究者やアカデミックな背景を持つ専門家の書いたものや、中公新書、岩波新書などの固めのレーベルしか読まないようにしているのだけれども、その方針で間違っていなかったように思う。多分、普通に読んでいたら、ここまで考察しなかったし、普通に納得していた気がする。 - 2025年12月7日
読み終わったネガティブな感想「あ、この言葉いいな」と思う文章がありつつも、全体として今自分が読むべき本ではなかった、もしくは自分には合わなかったというのが正直な感想。解説で、本を普段読まない人にも勧められると書かれていたが、正直全く違う感想をもっている。 この本はエッセイで、著者の考える「読書」というものについて主観的に書かれている。それ自体はエッセイとして当然のあり方であると思うし、私もブログで似たような文章を書いている。しかし、この本は強く断定的に書かれている印象で、著者の考えを一方的に押し付けられているように感じてしまい読んでいて窮屈に思った。正直イライラした。例え著者の主観に立った主張であることが前提であっても、あたかもそれがこの世の真実で疑う余地なしみたいな書かれ方されてしまうと心理的には距離を置きたくなる。もう少し優しく読者と著者が歩み寄れる余白のある書き方をしてくれたらよかった。 私がこの本に書かれている内容に腹落ちしていないからだとも思うけれど。 読んでいて、結構レトリックに頼って話が展開されているような印象で、もしかしたら、きちんと理解しようとしなくてもいいのかもしれない。そういうスタンスで読まないとついていけない気がする。「本」「読書」「言葉」「情報」などの言葉が多用されるが、それぞれ著者の価値観に基づいた形で使われている一方、その定義がきちんと明示されていないので混乱する。また、例え話も多く登場するが、その例えがどのように読書という営みや考えに対応しているのかも不明瞭であると感じた。 全体として、本が好きな人が「とにかく読書は素晴らしい」と言い続けているような印象になってしまった。YouTubeとかで読書の啓蒙活動をしているチャンネルをみていてもたまに思うが、本がもともと好きな人が、ただ、テンション高く好きな本を紹介したり、本はいいぞとアピールしても、それは本好き同士の内向きな発信になって、普段本を読まない人には届きにくいような気がする。もちろん全てがそうだと言いたいわけではないけれど。 様々な形態のコンテンツがある中で、そのうちの一つとして本というメディアを捉えて相対化して、その中で本がどのような良さを持っているのか発信していかないと普段本を読まない人には届かない気がする。 - 2025年12月2日
読み終わった学び!図書館情報学職場で関連する内容の研修を受けたので、ちょうどいい機会だと思って再読した。実は元々根本先生の本あまり得意ではなくて、前回読んだ時も消化不良だったけれど今回はその時よりは理解できた気がする。 「情報リテラシーのための図書館」というタイトルではあるが、図書館史や教育制度の説明も多い。情報リテラシーについてガッツリ言及しているのは最初1~3章と最後第9章くらいかもしれない。 中で、「天使のいる図書館」という映画が紹介されていたが、この映画に絡めて、「そう、この映画では、インターネットの世界に入ると過剰に押し付けられるメッセージ、度を越して結びつきを強いるネットワーク、そしていつの間にかとりこまれてしまう情報コミュニティと対極にあるものがテーマになっている。図書館は、地域やコミュニティのなかに自然に存立し、適度に人々が集まって、また去って行く場所になっている」と書かれているが「あ、なんかいいなぁ」となった。司書課程の児童サービス論で自由読書について散々考察したけれど、ここに書かれているような人々が自由に集まり、離れていける、本を本でも読まなくてもいい、ということが図書館の重要な要素にも思えた。 P.61の情報リテラシーの過程は頭に入れておいてもいいかも「事実 →(+文脈付与)→情報 →(+推論付与)→理解→(+確信付与)→知識 → (+統合付与)→知恵」 図書館と情報リテラシーの話では必ずと言っていいほど引用されているのを見るので興味のある方がご一読してもいいのでは。 - 2025年11月26日
生成AIで世界はこう変わる今井翔太読み終わった学び!なんとなく生成AIについて一冊わかりやすい本を読もうと思って手に取ったが、知っていること知らないこと含めてわかりやすく整理されており、まさに「最初の一冊」という感じだった。2023年の本なのでもう古くなった情報もあると思うけれど、第2章の基本的な理論の部分など大まかな流れを知ることができてよかった。少し批判するのであれば、いろいろな文献からグラフとか引用していて、それは良いことだし面白いけれど、そこに対する考察が元の文献に書かれているのか著者の意見なのか曖昧な部分もあった気もする。まぁ、もっと勉強しましょうってことなのかな。本題と関係ないけど、AIが生成したイラストに、人間が描いた、AIが描いたなどのタグをつけて評価させるテストで、人間が描いたってタグのついているほうが評価がいいって話題は面白かった。私たちが何か作品に触れるときに、作品に対する印象がその背景にある情報に左右されるっていう端的な実証だなと思う。 ところで、著者が私と2歳しか違わないことにビビってしまった。 - 2025年11月25日
生きがいについて柳田邦男,神谷美恵子読み終わった学び!また読みたい「足場をうしない、ひとり宙にもがいているつもりでも、その自分を大地はしっかりと下からうけとめて支えてくれていたのだ。そして自然は、他人にようにいろいろいわないで、黙ってうけいれ、手をさしのべ、包んでくれる。みじめなまま、支離滅裂なまま、ありのままでそこに身を投げ出していることができる。 血を流している心にとってこれは何という安らぎであろうか。何という解放であろうか。そうして、自然の中でじっと傷の癒えるのを待っているうちには、木立の蔭から、空の星から、山の峯から声がささやいてくることもある。自然の声は、社会の声、他人の声よりも、人間の本当の姿について深い啓示を与えうる。なぜならば社会は人間が小さい知恵で人工的につくったものであるから、人間が自然から与えられているもろもろのよいものを歪め、損なっていることが多い。社会をはなれて自然にかえるとき、そのときにのみ人間は本来の人間性にかえることができるというルソーのあの主張は、根本的に正しいにちがいない。少なくとも深い悩みのなかにあるひとは、どんな書物によるよりも、どんなひとのことばによるよりも、自然のなかにすなおに身を投げ出すことによって、自然の持つ癒しの力ーそれは彼のうちにも外にもはたらいているーによって癒され、新しい力を恢復するのである。」(p.176) これまでの人生の中で、一番と言っていいほど絶望していた時、ふと見上げた秋の空と、そよ風に癒された瞬間があって、それを今でも時々思い出す。 瀬戸内海に浮かぶ長島のハンセン病患者の療養所、愛生園に勤務していた精神科医神谷美恵子の代表作。本書が初めて出版されたのは、1966年、今から59年前(来年で60周年!)。これは2004年に復刻されたものである。 病や、それに付随した社会的な差別に苦しむ人々を診てきた経験から記された本書は、人間の根源的な生きがいや存在価値を見つめている。その普遍性のためか、読んでいてもまったく古めかしい感じがしない。様々な哲学者、作家、一方、ハンセン病の患者や死刑囚、特攻に向かう青年など様々な人たちの言葉が引用されているが、そのどれもが今の言葉のように感じられる。 一読しただけではなかなか全体像をうまく語ることはできないけれど、時折読み返し、自己を見つめながらわかっていく本だと思う。 - 2025年11月13日
図書館情報学 第二版上田修一,倉田敬子読み終わった学び!図書館情報学5月から読み始めたものの、あまり読む気になれずしばらく放置していた。11月に入り久々に読み進めてみたらスルスルと内容が頭の中に入ってきて読み終えることができた。逆に同時並行で読んでいた小説は頭に入って来なかった。そういう時期だったのかなと思う。 司書を取得してから、より広く、学術的な観点からも図書館情報学について学びたいと思ってこの本も手に取った。翻訳ではない、日本で書かれた、図書館情報学を概説している教科書は私が探した限りあまり多くない。(「図書館情報学概論」というタイトルに騙されて翻訳された分厚い教科書を買って読もうとしたがあまりにも難しくてすぐに挫折した。)「図書館情報学」といいつつ、図書館を念頭に置いているわけではなく、情報とは何か、それを伝える情報メディアとは何か、情報の組織化と探索などの章立てとなっており、図書館について書かれているのは最後の第4章だけ。図書館学ではなくて、情報学としての図書館情報学に触れている感覚が味わえて嬉しかった。読みながら、情報の組織化と探索の話が一番面白いなと感じ、その方面を深めていきたいなとか思った。各章の章末の参考文献も、これから読むべき文献を示してくれているような気がして嬉しい。 日本語で書かれた図書館情報学のスタンダードな入門書といえると思う。この分野に興味がある方は、少しお高いですが手元に一冊置いてといて損はないのでは? - 2025年11月12日
本と歩く人カルステン・ヘン,川東雅樹図書館本読み終わらなかった翻訳のためなのか、元々の文章がそうなっているのかわからないけれど、場面の転換がしれっと行われていたりして話の筋を追うのが大変だった。登場人物も多く、当然皆さんカタカナなので整理が追いつかず途中で読むのをやめてしまった。ただ、訳者もあとがきで書いていたが、主人公の老人と、小さな女の子のヒロインとのリズミカルなやり取りは読んでいて心地よかった。多分時間をおいてもう一回読んだら楽しいかもしれない。 - 2025年11月8日
- 2025年11月1日
建築家・吉村順三の鞄持ち藤井章読み終わったまた読みたい図書館本図書館にて、第4章の皇居新宮殿の話のみ 『天使も踏むを畏れるところ』が、かなり細かいところまでノンフィクションであることが伝わってきた。 小説読んだ時は単に建築家Vs.宮内庁みたいな感覚だったけれど、多分、時代性も大きいのかなと感じた。 時間があれは全部読みたかった… - 2025年11月1日
知の図書館情報学根本彰読み終わった学び!また読みたい図書館本多分、図書館で借りるの3回目(笑) 毎回難しすぎて最初の数ページで読む気を無くして返してしたけど、サブタイトルの「ドキュメント、アーカイブ、レファレンスでの本質」が気になりすぎて、今回ついに最後まで読めましたよ。(かといって、「ドキュメント、アーカイブ、レファレンスの本質」を理解できたとはとてもいえませんが…。)また、昨年度司書資格を取って、司書として働くための図書館情報学は少し学べたけど、学問としての図書館情報学について理解を深めたいと思って読み進めた。少しだけ、その世界を垣間見れた気がしたので収穫はあったと思う。司書の勉強ではレファレンスはレファレンスサービスとして学ぶため、情報資源組織とは違う領域という認識をしていたけれど、この本を読むとレファレンという概念は人と情報資源(知識)や、情報資源同士を結びつけるということに本質があるのかなと感じた。そうするとレファレンスの概念はとても広くて、図書館の機能はレファレンスに包含されると認識されているのかなと思う。書誌の概念について定めたIFLA LRMがなぜLibrary Reference Modelなのかずっと疑問だったけどこの本読んで納得できた気がする。修練を積んでもう一度読みたい。 - 2025年10月29日
読み終わった学び!また読みたい図書館本面白かった。原文と翻訳を比較するだけではわからない、翻訳の過程や、そこに影響を及ぼす影響について、史料をもとに検証している一冊。 日本語は、自制や語り手の縛りが弱く、それらが一文の中で自由に変化できる。しかし、英語の場合視点は固定され、時制の一致が要求される。そうした文法や言語の特徴に起因する翻訳の難しさがある。それだけではなく、商業的観点から物語の結末までが改変されている場合もある。そうした問題について出版社の史料から丁寧に検証している。 終章で紹介されている谷崎潤一郎『細雪』(英訳版 : The Makioka Sisters)のエピソードも印象的。とある著名な作家が『細雪』の最後の2行を優れた文章としてたびたび引用している。原文と翻訳を比較すると、主語の取り違いや、文章の印象を大きく変える改行が追加されていたり、英訳は原文とは大きく印象の違うものであった。偶然が大きな影響を及ぼしている。でも、それを何か間違ったものとしておらず、作品、翻訳者、読者の相互作用によって価値や意味が生まれるということだと思う。 引用されている、海外における日本文学の評価について面白かった。私の好きな小説は極めて日本的な小説なのかもしれない。 英語の勉強もしたくなったし、小説も読みたくなった。次は、海外の小説の日本における翻訳についての本も読んでみたい。 - 2025年10月18日
天使も踏むを畏れるところ 下松家仁之読み終わったまた読みたい建築の奥深さを教えてもらった。おそらく象徴天皇にらふさわしい宮殿というお題は、雲をつかむような難しい問題であったと思うが、建築という側面からたしかに応えようとする主人公たちの姿が、清らかで淡々とした文章で描かれる。最後、村井が設計者を辞退してしまったのが、本当に残念に思うほど、リアリティを感じる物語だった。宮内庁ホームページに掲載されている、新宮殿の煌びやかなシャデリアの写真をみて、なんとも複雑な気持ちになる。 ため息が出てしまうほど、読んでいて納得感というか、居心地の良さみたいなものを感じる小説だった。 もう少し感想を別のところで書きたいと思う - 2025年10月16日
天使も踏むを畏れるところ 下松家仁之読んでる建築というと、柱とか壁とか床とかを作るものだと思っていた。この本を読んでわかったのは、大切なのはその壁とか床とかによって生まれる空間をデザインするのが建築家なのだと学んだ。それは、すなわち、その中で営まれる生活を創造し、そこに流れる時間のあり方を決める土台を作ることになるのだと思う。生活(というか、そこにいる人の体験や経験の土台)をデザインするという見方で見ると建築の面白みがわかりそう。
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