
いぬい
@inuiru
2026年8月12日
虚史のリズム
奥泉光
読み終わった
1095ページの鈍器だったんでしばらくきっかけがなくて積んでいたが思いきって読み始めたらあっという間だった。奥泉光、語りが上手すぎるよ。
まず冒頭14ページ、探偵役の石目が自作のエロ小説を書いて小学校で刷って売っていたというエピソードで笑う。
" 休憩中に見ると、机に運動会のお知らせが積んである。鉢巻の兎と亀がリレーをする『たのしいうんどうかい』、その横に積まれた『若妻のすごい欲情』はなかなかの奇観と言えた。"じゃないんだよ。
石目の軽妙な語りくちでスイスイ読ませつつも、もうひとりの主人公・神島は重くてネチネチしている。この緩急がまたいい。ふたりはおなじ収容所にいたというつながりがあって、石目のエロ小説を翻訳するのに神島が協力していたというのもいい。エロ小説が嬉しいのは世界共通なのか。
面白かったところ。
32p
" 伝えられた情報には濃淡があり、細部には異同もあった。なかでも第一発見者である女中の婆さん──デンゾのババチャの仰天ぶりだけは、鶏さながら走った話に加えて、勢いあまって義歯が飛び、怖がった猫が火見櫓に駆けあがり毛を天に向かって逆立てたとか、デンゾのババチャの走る格好が地元に伝わる鹿踊りの「山神」にそっくりだったとか、デンゾのババチャの腰が抜けて、用水の堰に尻から嵌って動けなくなり、消防団が出動して救出しただとか、尾ひれがついたのは面白い現象であった。"
明らかにデンゾのババチャの話どうでもいいだろと思いつつ、「完全に事件と関係なさそうなどうでもいい情報がやたらと細部を携えて伝播する」というのは実際に面白い。ここで「よもや鹿踊りが重要な伏線ってことはあるまいな」と思っていたら。
182p
" 地金ミノルを知る者は誰も、そんなだいそれたことのできる人間ではないと口を揃えた。その一方で、戦争が人間を変えてしまったのかもしれないという者もあった。いわれてみれば、人を見る目つきが尋常ではなかった、鉈で木枝を伐る姿が「鹿踊り」の山鬼に似て恐ろしかった、雪解けの川に腰まで浸かり、川獺さながら淵を覗いているのが怪しかった、などと証言する者すら現れた。"
わすれたころに「鹿踊り」と再会してメチャクチャ笑った。「鹿踊りの山神にそっくり」の噂流してるの絶対同一人物だろ。そして特に鹿踊りは回収されなかった。
神島はかつて級友だった地金ミノルを、「かたるべき方法を持たない」者と考える。
86p
" それはしかし地金ミノルだけのことではないだろう。体験を言葉にすることのない、できない、ぶあつく層をなす人々が想われた。かたられることのないかれらの体験は痕跡を残すことなく、記憶されることもなく、歴史の闇に消えていくしかない。しかし、だとしたら、自分が歴史と呼んでいるものは、いったいなんなのだろう? 神島は考える。かたられたこと、記されたこと、言葉にされたことだけが歴史を作るのだとしたら、それははじめから決定的な欠落を孕むのではないか?"
一方で、後輩の鹿内に対しては「言葉を持つ者」と考える。
224p
" 心が、すっかり、空っぽに、なりました──。その文句には、故郷の言葉と軍隊用語と、それから標準語、三者の混淆ともいうべきいままでの口調とは異なる響きがあって注意を惹いた。それはなにか詩の一節のように神島の耳に届いた。
神島にはよくわかるのだが、故郷の言葉には元来敬語がなく、だから目上の人間と話すときの言葉遣いにやや困る。相手が他郷の人間なら標準語で話せばいい(訛は残るにしても)のだけれど、同郷だとかえってむずかしい場合がある。「Yes」は、標準語なら、「うん」や「ああ」から「はい」「そうです」「さようでございます」まで、敬意の度合いに応じた変種がさまざまある。対して、故郷の言葉には「んだ」しかなく、せいぜい「んだの」とていねいになるくらいだから困る。昔はそれで困らなかったのだろうが、外との交流が進み、社会関係が複雑になるにしたがい、また人々が学校で国語を学ぶようになって、困惑する場面が生じた。鹿内謙三は頷くとき、「んですの」という言い方をしているが、これは標準語と方言の混淆で、かれのどこかぎくしゃくした話し振りを象徴していた。一方の神島は「んだ」のほかに、「そうだね」等の東京弁ないし標準語を交ぜて使い、その使い分けは話される事柄にしたがって、あるいは相手との微細な距離の変化に応じてなされていた。
心が、すっかり、空っぽに、なりました──。これはもちろん故郷の言葉ではない。おそらくはかたり手が書物から、たとえば読本の教科書から学んだ文句にちがいなかった。それは雪原に顔を覗かせた青草のようだった。だからといってよそよそしいというのではない。かたり手の心情をむしろ強く伝えてくる印象があった。身になじんだ言葉だけではかたりえぬものが世界にはあるのだ。かといって標準語が万能であるはずもない。戦争の体験をかたるには、おそらくたくさんの言葉が必要なのだろう。"
作中で「かたる」という言葉が「語る」ではないのは、「騙る」が含まれているからなのかもしれない。「騙る」という言葉には「だます」というニュアンスがある。ただの嘘ではなくて、そこには「べつの物語を信じさせよう」という向きがある。
神島に言わせれば、「かたられなかったこと」は歴史にならない。そして、鹿内がしていることは、日常の言葉では表せなかった「空っぽ」に、どこからか言葉をさがして、「かたる」ことだ。それは彼の体験した瞬間の思いそのものではないだろう。が、それをかたるために拾い集められた言葉の数々は「そこにある」。
作中でうるさいほどに(実際うるさい)響いてくる、行間まで埋め尽くしてくる(実際に埋め尽くす)dadada……の羅列。「da」は「そこにある」という意味らしい。何もかたることなく、かたられることなく、戦場で潰えていった命。「歴史」になることのない無数の声が「そこにある」と訴える、それがこの物語の通奏低音だ。
「語られたこと/騙られたこと」「かたられなかったこと」の、虚実が入り混じる底に、通奏低音が鳴っている。そこに「虚史」が立ちあがる。
(やがて通奏低音がページを埋め尽くすときがきて……彼らは伴奏ではない、ということを体感する……!)
物語の最後、「かくり世」をさまよった末に神島は、「中古品の言葉」、「空虚で無内容」な言葉でも、「在る」のは確かだと気づく。そして、" かつて人間だった自分が読みかつ書いた古い言葉、虚無の汚泥のなかで腐り朽ちた言葉をひとつひとつ拾い出すようにして、独り考えはじめた。"
この一文に泣いた。長い行軍の果てに神島が辿り着いたのがここだ。
「身になじんだ言葉だけではかたりえぬものが世界にはあるのだ。」
本を読んでもろくにおぼえていないし、難しい本を読んでも半分理解したかどうかすらあやしいので、時折ふと「本なんか読んで意味あるんだろうか」と思うことがある。そこに、この言葉はかなり刺さったな。借り物の言葉、抽斗に入れたままわすれてしまったような言葉でも、いつかどこかで必要になるときが来るかもしれない。
それからもうひとつ、この物語に山形・庄内の方言が書かれているのも嬉しかった。私の地元の言葉とはやはりちがうが、かなり似た部分もある。東北の方言は、文章にするのが難しいと常々思っていた。東北以外のひとにはどう響いたか気になるところでもある。
神島が最後に故郷の夢を見る場面は、この物語のなかでもひときわ印象深い。
1079p
" ——わがらねことばかりだどもの。
もう一度呟いた神島は、穴から這い出て沢辺に餌を探し、またもどって眠った。神島は夢を見た。それはネグロス島ではなく、出羽庄内の風景だ。田植え前の水を湛えた田に映る月山の蒼い影、綿雲の浮かぶ空から吹く風に揺れる稲穂の絨毯、道路も水路も集落もなにもかもを白一色に埋めつくす地吹雪、用水路に疾い影をなす小鮒、畦の草陰から飛び出し服にうちあたる蝗、注連縄の張られた神社地の土俵でなめらかな肌を檜の緑に染める裸の若者らと、小学校の庭、櫓の太鼓の響くなか、吊られた提灯の下で輪をなし踊る浴衣の女たち、銀河輝く平野の闇に光の箭となって夢幻の筋をひく急行列車——。"
この場面が想像ではなく実感として思い描けること、東北の田舎に生まれてよかったと思った。私はじぶんの田舎が好きではなく、取り立てて美しいと思うこともないんだけど、奥泉光が書いてくれたことで(奥泉光は奥泉光の田舎を描いたんであって私の田舎ではないが)、この光景が「あたりまえのものではない」ということが身にしみたな。