勝村巌 "現代広告の読み方" 2026年8月26日

勝村巌
勝村巌
@katsumura
2026年8月26日
現代広告の読み方
最近、いろいろ面白いトピックを共有してくれる後輩がいて、勧めてくれるものがすべからく面白いので、これまではあまり通ってなかったところのものを読んだり見たり聴いたりする機会が増えた。 新しい知見を、これまでの自分の中のものと接続させると、いろいろと腑に落ちることが多くて面白い。 本書は2000年に書かれた当時の広告についての評論である。メディア論が紙の広告(新聞とかポスター)やテレビCMを中心にまわっていた頃の話で、これには隔世の感があった。 3部構成となっていて、第一部は、当時の消費行動として重要視されていた「満足仮説」をはじめ、「AIDMA(認知・関心・欲求・記憶・行動)」に代表される今となってはやや伝統的なマーケティング法則や消費者心理の機序を整理。企業がいかにして消費者の潜在的欲望を喚起し、購買行動へ誘導するかという構造的仕掛けをロジカルに解説している。 この辺りも今のようなインターネットのSNSの氾濫からくるアテンションエコノミーやエコーチェンバーなどの蛸壺的状況からすると大変に牧歌的に感じる。メディアや情報の麻薬的な感覚が個人から少し遠い時代の物語、という印象。 第二部は当時の先進的な広告表現の事例を挙げている。僕としては懐かしいものが並んでいた。 ベネトンが同性愛や人種問題を企業広告でセンセーショナルに描いたり、ルイヴィトンのハイファッションの広告戦略、ナイキの広告、マックやインテルの広告、佐藤雅彦のCM、カルロスゴーンの日産の広告などである。 この辺りはいわゆる広告宣伝の転換期、もしくは飽和期と言える段階な気がする。消費社会が極まって、ネットやSNSが出現する直前なので、プロダクトとしての商品は行き着くところまで到達して煮詰まっているため、単に消費を促す商品説明ではなく、エコロジーや企業コンセプトで商品を選んでもらおう、というようなエモーショナルな内容の広告が生まれた頃の話である。 いわゆるイメージ戦略みたいなものの黎明期というか、揺籃期みたいな感じと言えば良いのか。広告としては単に売らんかなではなく、人間の本質に迫る、より本質的な話をしているのだが、逆にそれだと具体性を欠いてしまうため、本末転倒になっていったような感じを受ける。 昨年、横浜美術館で大きな展覧会をやっていた佐藤雅彦がポリンキーとかモルツとかの宣伝で天下を取った頃の話。この辺りは横浜美術館でがっつり展示してあったが、あまりにも右脳的、洗脳的すぎて辟易した記憶がある。こういうものをありがたがっていた頃があったんですね。 またのちに業務上の横領の疑いをかけられるカルロスゴーンが日産復活の立役者として、割と手放しでヒーロー視されているのも隔世の感あり。でもあの頃の世間はそういう感じだった。 明治時代のお抱え外国人ではないが、ゴーンみたいな黒船的なリーダー像がもてはやされるきらいはつねにある。フィリップトルシエがサッカーの日本代表監督をやってたのも1998〜2002までだし、千葉ロッテの監督をバレンタインが務めたのもこの頃だ。 これらの事例を改めて見てみると、広告宣伝というものがあらゆるアイデアを取り込んで、しかし、強く消費的に物事のサイクルを回しているような感じを受けた。流行ったものが真似されてくると、それがすでに終わってるみたいな、血を吐きながら続けるマラソンみたいな。 ゆく川の水は絶えずしてしかし元の水にあらず、ではあるが、ことほど左様に歴史は繰り返す。ルネサンスの後にマニエリスムの時代が来るみたいなゆりかごもしくはシーソーのような振れ幅を感じた。 第3部ではメディアメッセージの読み方として、インターネットが本格普及する前夜、テレビや雑誌を中心とするマスメディアの情報が氾濫していた当時のメディア空間を切り取り、受け手がどのようにメッセージを解読すべきかを論じている。 第一部のところでも書いたが、2000年のというのはホントに広告宣伝の分水嶺だったのかもな、と思った。日本ではWindows95発売と阪神淡路の震災とオウムによる地下鉄サリン事件、そしてエヴァンゲリオンの放送開始が1995に起こってはいるが、911はまだだし311もまだまだ先の話となる。 その後、ゼロ年代、テン年代以降、スマホが当たり前となり、情報の受領と発信が等価となり、SNSの普及による、サブスク、ネットいじめや承認欲求の増大(僕もこんなの書いてるだけあって自覚症状ある)、エコーチェンバー、デマ、誤情報、ネトウヨ、人間関係の希薄化、マチアプなどメディアのイシューはだいぶ個人に近づいてきている。 大きな違いはネットにより発信がカスタマーの手元に届いたことだろう。 サブスクとSNSの普及によりマスコミというようなものの立ち位置は本当に真の意味で不可逆に転換したのだな、と強く感じた。 ポストモダンとして大きな物語が喪失したのは1990以降と言われている。価値観の多様化が、マスを結びつけていた大きな共通の価値観というものを解体した、というのがその理屈だと思うが、スマホとSNSの普及がそれを急激かつ強烈に後押ししたのであろう。 そういう意味ではこの本はマスコミが最後の大きな物語を提示できるかどうかの瀬戸際にあった頃の実例を挙げているのかもしれない。 結局その後、日本は失われた20年→30年へと突入していく長い低迷期を迎える。新自由主義的な自己責任論と格差の拡大と定着、極端な個人主義などが蔓延り、止まらない少子化、政治不信など、なかなか出口の見えないところまで来ている。 というようなことをつらつらと考えた。現状の認識が深まった。 この本を読んでいる我々は今、この本の書かれた当時から見て未来人であるわけだが、この本が書かれた頃に生きていた過去の自分に今のような未来が見えていたわけではない。 同様に我々も数十年後の人々から見ると過去人になってしまうのだ。ノーランのTENET的な世界観。 そういうパースペクティブで後ろを振り返るのには大変良い本でありました。興味のある人は読んでみてください。面白いですよ。
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